日本工作人 第1部 |
『日本工作人』
第一部 一の章
「兵隊さん――」 まぎれもない日本語。立ち停まった杉に、ダブダブの軍服を着た若い女が言った。 「私たち、どこへ行くんでしょう?」 改めて顔をたしかめるまでもなく、みな日本人であった。 ――貴女がたは一体どこから? 半ば呆(あっ)気(け)にとられた杉が、そう訊ね返そうとしたとき、後ろに靴音がして、通訳兼日本工作人係の龍明英が大股に近づいた。 「杉班長、この人たちを病院まで案内して下さい」傍に来た通訳は、いくらか命令口調で言った。「輸送隊の兵舎に収容して下さい。病室のほうは知っての通り空室が一つもありませんから」 中国人には珍しいほどくりっとした瞳を、龍明英は悪戯っぽく微笑って見せた。男ばかりの隊内へこの女たちを入れる? 杉は咄嗟に返辞が出来なかった。 「兎に角、引率を頼みます。いずれ病院で相談しますから。――たしか十二人でしたね」 あとの言葉は女たちに向って言い、十二の軍帽が揃って頷くと、龍はすぐ踵を返した。少女のように細い襟足である。 「あの方、将校さん?」 目だけ、上背のある龍の後ろ姿を追い、杉に呼びかけた女が顔を寄せて訊ねた。浅黒い肌から、クリームの匂いがかすかに漂った。 「いや、通訳です」 へえーっといった表情で二重の目を殊更に大きくしてみせた女は、まだやっと二十歳前後、指が三、四本も入りそうな軍服の衿許から、和服用の肌襦袢の合せ目がこぼれていた。 一団を目顔で促して、杉は先頭に立って歩き始めた。どの車輌にも患者らしい影はなく、横づけになった長い貨物列車の先端から吐き出された白い蒸気が、夕風に低くホームの上を這った。 駅の建物を抜けて表通りへ出る。荷物持ちのせいか、女たちの足はひどくのろい。陽が落ちると、急に風が冷たくなる。すでに五月末だが、大陸の季候は真夏でも夜はぐんと冷え込むのだ。杉は近道をとって細い露地へ一団を導いた。かれこれ一カ月、駅と病院との往復に通い馴れた道なのだが、両側の民家は相変らずどの家も表戸を締切り、露地には人影は全く無い。真昼でも、滅多に人が通っているのを見かけたことがなかった。 杉のすぐ後ろを歩いていた先刻(さっき)の女が、肩を並べて来た。 「遠いんですか?」 「いや、たいしたことはありません」 「この辺、随分冷えるんですね」 肩を大仰にすくめてから、 「私たち、白城子の臨時看護婦なの。一昨日、急に命令が出て列車に乗ったんですけど、漫々的たらありゃしない。丸二日もかかるなんて。白城子から此処まで普通なら六時間もあれば来てしまうのに。御存知でしょう? 白城子――」 杉が頭を振ると、 「小さな街だけど、綺麗な街よ。もっとも病院は穢かったわ。……この軍服、おかしいでしょう。出発する日に支給してくれて、どうしても着て行けって言うのよ。命令だって」 人懐っこい口調である。後ろの十一人は殆ど私語さえしない。 「あら、忘れていた。班長さん、私、とみ子って言うの。内田とみ子、どうぞよろしく」 媚を含んだ目で、ニッと微笑う。人を喰ったその自己紹介に杉は思わず苦笑したが、女は平気で後ろを振り返り、 「この女は、南光江さん、私のいちばんの仲好し」 杉の会釈に、叮嚀に頭を下げたのは五尺そこそこの小柄な女で、その右手が、幼女の手をしっかり握っていた。左手には重そうなトランク。手ぶらの自分にはじめて気づいた杉が、無言でそのトランクヘ手をのばすと、 「あら、よろしいんです」 慌てて背中へ隠そうとする仕種が、三十近い、少し〓れてもみえる顔に似合わず、妙に子供っぽい。トランクは角が擦れ、かなり古びたものであった。なおも杉が手を出すと、 「あの、本当に、本当に結構なんです」 延した手のやり場に困って、 「じゃ、お嬢ちゃんをおんぶしよう」 傍でじっと自分を見上げている幼児に、杉は笑いかけた。 「いいわね。よし子ちゃん、おじちゃんがおんぶしてくれるんだって」 とみ子がすかさずそう言って、幼女の背を軽く押した。 あまり軽すぎたので杉はかえって腰が定まらなかった。後ろへ廻した両手に、幼児の腰肉は、どきっとするほど薄かった。両手でしっかり杉の肩を掴み、よし子は、躰全身を固くしていた。 「いいことね、よし子ちゃん」 くどいほど礼を述べたあとで光江は、初めて明るい顔で子供をふり仰いだ。その嬉しそうな表情に、杉は、おやっと心の裡で頸をかしげた。どこかで見たような顔だったからだ。たしかに知っている顔つき。誰だろう? いや、この顔によく似た女を、俺は最近見たことがある……。 露地を抜けて病院の表門へ通じる広い一本道にかかると、前方に、一組の担架隊が見えた。最後に送り出した患者である。 「おーい」声を掛けて杉は小走りに追った。背中のよし子がよけい躰を固くする。立ち停まった担架隊へ、杉はいくらかはしゃいだ声を浴びせた。 「女が来たぜ、八路軍の――いや地方人の女が!」 四人が一斉に首だけ廻し、杉と背中のよし子に怪訝そうな目を向けた。 「この児の母親たちだよ、今夜から俺たちの内務班に泊るんだぞ」 その言葉に、四人の肩が均衡を失ったのか、ぐらっと担架が揺れ、上の患者が獣めいた大袈裟な叫び声を立てた。 「日本人ですか」一人が頓狂な声で訊いた。 「そうさ。十二人もだぞ」 やがてとみ子を先頭に近づいて来た女たちを品定めでもするように確かめると、担架隊は、にわかに調子づいて、ワッショイワッショイと掛け声を立てて走り出した。患者がまた、咆えるような叫びを挙げた。 「まるでお神輿ね」 とみ子が呆れ顔で見送り、光江も遠ざかってゆく担架隊を目で追いながら微笑った。間もなく、行手の夕闇のなかに、病院の白い石門が泛(うか)び上った。 「もうすぐだよ」 背中のよし子を揺り上げ、杉の声も弾んでいた。
取敢えずとみ子たちを自室に入れて杉は、各組長にすぐ集まるように命じた。 すでに情報が伝わっているとみえて、四人の組長がそれぞれ好奇な目を輝かせてすぐ部屋にはいって来た。女たちは、当番兵の戸本が淹れた番茶を、みな黙って啜っていた。 裸電球の下に肩を寄せ合った女たちは、やはりいちばん若いのがとみ子で、あとはいずれも三十代らしく、それも不恰好な軍服のせいか、期待したほどの女という感じは乏しかった。長い間貨車に揺られて来たのと、荷物を持って一粁ほど歩いた疲れとが、若いとみ子を除く女たちの顔から、よけい生気を奪っているようであった。よし子も部屋の隅で、両手で茶碗を捧げるように持ってひと口啜っては上目遣いに、組長たちへ怯えた視線を走らせている。組長のなかでいちばん年嵩の小池が手招きしたが、よし子は光江の蔭に身を隠し、とみ子がわざと押し出そうとすると、躰ごと振ってますます母親に身を擦りよせた。 相談するまでもなく、兵舎のいちばん奥の空いている内務班に起居して貰うことに話が決まると、組長たちは少しおどけた声で呶鳴った。 「使役集合!」 扉の外に待ち構えていたらしい二、三十人の隊員が、どやどやっと室内に雪崩れこみ、荷物を奪い合うように運び出した。忽ち人気者になったよし子は、隊員の手から手へ抱き送られ、母親の顔を求めて、殆ど泣きべそさえ掻いていた。 賑々しく隊員に囲まれて女たちが室を出て行ったあと、杉は、寝台に寝転ろんで煙草に火をつけ、天井へ大きく煙を吐いた。いつもこちらが照れるほど細かい世話まで焼いてくれる当番の戸本も、騒ぎに紛れて部屋には居ない。長い冬の間、焚き通しに焚いたストーヴの油煙で真黒に煤けた天井へ、ゆっくり煙がのぼってゆく。それを見詰めながら杉は、左手をなんとなく握りしめてみた。すると、そこには、先刻までのよし子の薄い腰の感触が、まだそっくり残っているように思えた。……遠慮深い母親と、ひ弱そうな幼児。どんな事情で八路軍に入ったのかは知らぬが、子供連れということで、あの母親はこれまで不当な待遇を受けてきたのではないだろうか。それとも、他人の親切を素直に受けられぬ環境にでも居たのであろうか。あの遠慮深さは、どうしても少し異常だ、と杉は胸で呟いた。赤茶けた髪の毛や汚れたスカートを別にしても、どことなく影の薄い、そして何故かいじけた印象を与える幼児のことが、あれこれ記憶をほりかえしてもなお誰に似ているのか憶い出せない光江の面差しとともに、杉の胸に、暗く、重く澱んでいった。 その夜、龍明英が杉の部屋に姿を現したのは、もう消燈時間に間もない頃であった。 「どう、女のひとたち、落着いた?」 杉の差し出した椅子に腰をおろしながら、若い通訳は軽い調子で訊ねた。杉が頷くと、 「少し仕事が忙しくてね、顔を出せなかったの。まだ起きているかしら、話がしたいんだけど……」 龍の言葉遣いが女のようになるときは、きまってそのあとに烈しい能弁が用意されているのを杉は知っていた。 龍の先きに立って内務班にはいると、とみ子たちを収容した奥の班と、隊員の班を繋ぐ通路の間に、拡げた毛布が一枚、幕代りに垂れていた。すでに隊員の殆どは毛布にくるまっていたが、まだ寝つかれないらしく私話があちこちで交されている。恐らく年配の隊員が気をきかしたのであろう、その幕を何気なくくぐって、杉は思わずその場に立ち竦んだ。寝衣に着替えた女たちが、それぞれの藁蒲団の上に、大胆な姿態で寝転ろんでいたからだ。 よく見れば、いずれも着古した浴衣や色褪せたタオル地である。けっして色っぽいものではない。が、長い間そうした女の姿に接したことのない杉には、これは眩しすぎる光景だった。龍も狼狽(あわ)てて目をそらした。 不意の闖入者に女たちも驚いて居住いを正したが、裾前を直そうとするそうした手つきが、かえって杉に目の遣り場を失わせた。 改めて龍を紹介しながら杉は、自分の言葉がもつれるような気がして、独りでに頬へ血がのぼった。何の前触れもなしに躰内を駆けめぐる女への羞恥しさ。杉がその狼狽からまだ立ち直れないでいるうちに、龍は、持前の大きな目を見開いて、歯切れのよい口調で喋り始めていた。 「あすから早速、皆さんに働いて貰いますが、仕事は前の軍区と同様に患者の世話をお願いします。現在この病院には約千人の患者が入院していますが、御承知のようにまだ戦闘中なので、これからもかなり後送されてくると思います。従って仕事も相当忙しく、部屋も余裕がありませんので、この輸送隊の兵舎に当分同居して貰います。或は近く看護婦全員もここへ移って貰うようになるかも知れません――」 杉は再び驚いて龍の横顔へ目を走らせた。この上、看護婦も! 隊員が知ったら、それだけで大騒動になるだろう――。併し龍は、濡れた上唇を歯でちょっとしごいてからすぐ言葉を継いだ。 「ついでに病院内のことを簡単に話して置きます。院長は、今まで皆さんが居た開通軍区衛生部次長だった林玉鳳同志、医務科長は郭秀文同志です。他に日本人は軍医一人、看護婦百人、それにこの輸送隊の約百人で、隊長はこの杉さんです。今後もし待遇その他で問題がありましたら杉さんまで申し出て下さい」 龍明英はそこで杉を振りむき、目だけで笑ってみせてから、今度は急に引きしまった表情になった。いよいよ始まるな、と杉は思った。 「御存知のように、われわれの軍隊には充分な医療施設がありません。しかも現在なお頑迷な国民党軍と南満地区で交戦中で、負傷者が続出しております。併し、皆さんの協力があれば、この東北にも、きっと近い将来に和平が訪れることと確信しています。すでに開通軍区で充分教育を受けているとは思いますが、この新しい軍区の工作員と共に、わが東北民主聯軍が東北全土を解放するまで、皆さんが積極的に援助して下さることを望んでやみません」 「エヘン」 いかにもわざとらしい咳払いが、隅でした。どっと女たちの間から笑い声が起った。が反対に杉はひやっとして、いくらか怯えた目つきで龍の横顔を窺った。話を折られた若い通訳は、明らかに不快な色を泛べて、内務班に素早く鋭い一瞥を投げた。その、一瞬、シーンとした空気を破って、消燈を告げるベルが鳴り響いた。龍はむっつりした表情で毛布をはねのけて出て行った。そのあとに続いて出しなに振り返った杉の目に、大柄な花模様の羽織を寝衣の上にはおったとみ子が、内務班の隅から、悪戯っぽく片目をつぶって合図を送ってきた。杉の頬に再び血がのぼった。 部屋でお茶でも飲んでゆきませんか、と杉は龍の背へ声を掛けたが、通訳は、まだ片づけなければならない仕事があります、とすげなく断って、大股に兵舎を出て行った。舎外の闇を本院の玄関の方へ遠ざかってゆくその後ろ姿を見送って杉は、暫く兵舎の入口に立っていた。 蝶番のネジが弛んで、少し斜めになった扉に凭(もた)れ、杉は、先刻思いがけずも女たちの姿に覚えた羞恥を、もう一度思い返してみた。自分にもまだ女に対する羞らいが残っていたのか。それが、不思議であり、いくらかは嬉しかった。杉はそっと左手で、右の二の腕を服の上から握ってみた。手首とさして変らぬほどの細い腕である。もともと肥えぬ体質とはいえ、終戦直後の極度の栄養不足からますます痩せこけた躰には、もはや二度と肉がつきそうにもない。洗濯板のような胸。削げ落ちた頬。皺の寄った太腿。先刻、よし子を背負ったとき、驚いたのはむしろよし子のほうであったかもしれない。そのように痩せた躰にも、なお女への羞恥が残っている! 媚を含んだとみ子の目が鮮やかに泛んできて、杉はふいに、下腹部の辺りに疼きに似たものを覚えた。 この病院に来て半年、いや、終戦からもう一年近い月日が経つが、そうした感覚は全くはじめてのものであった。これは、痩せてはいるが、どうやら肉体が健康を取り戻した証拠なのであろうか。 星ひとつない夜空にむかって杉はもう一度、とみ子の姿を宙に描こうと思った。そして下腹部の疼きを再びたしかめようと試みた。併し、意志をこめると、呼び醒まそうとする情念はかえって遠のき、とみ子の顔にかわって、何故かおどおどしたよし子の表情が泛び上ってくるのだった――。
部屋に戻ると、当番兵の戸本が、杉の寝台の上に胡坐をかいてコップを呷(あお)っていた。白酎独特の強烈な匂いが、部屋一杯に漂っている。杉は無言で窓により、硝子戸を細目にあけた。 戸本は、どこから仕入れてくるのか毎晩欠かさず白酎を呷り、酔うとかならず内地の妻の写真をポケットからとり出して杉に見せた。台紙のない手札型のその写真は、四隅が折れて、丸髷に結った細君の鼻の辺りも手垢で少しくろずんでいた。結婚して初めての正月に撮ったものだというから、もう十年以上も前の写真である。それを、四十を越した当番兵は、毎晩十分近くも飽きもせず眺めて、果ては、「班長、ちょっといい女でしょう」と、杉の同意を強いるのが常であった。杉は面倒臭そうに首肯くのだが、戸本はそれですっかり満ち足りた表情になり、わざと音を立てて写真に口づけしてからおもむろにポケットに仕舞いこみ、「内地へ帰ったら是非一度、うちの奴に逢って下さいよ。班長はこの写真で、もう顔馴染みなんですから」と、これもきまりきった台詞であった。 「班長、もうちょっとだから寝るのは待って下さいや。どうも内務班じゃ落着いて飲めねえんですよ」 戸本は、窓枠にもたれた杉に、コップの底に僅かに残っている液体をゆすって見せながら、赤い顔に薄ら笑いを泛べた。 「寝るのはまだいいけど、毛布に匂いがつくから椅子にしろよ」 「おっと、こりゃ、いけねえ」 コップを捧げて大急ぎで寝台をおりた当番兵は、真赫に染まっているはだけた胸許に、シャツを照れ臭そうに寄せた。 杉は、酒を飲まない。いや飲めないのだ。一期の検閲を終えてすぐ幹部候補生隊に入り、つづいて予備士官学校に転じた軍隊生活では、酒を飲む機会も殆どなかった。匂いの烈しい白酎なぞ、傍に置かれただけでもムカッとする。それを知っていてなお戸本が杉の部屋で飲むのは、内務班では、せっかく仕入れて来た酒が、半分も自分の咽喉に通らないからであった。いずれは私物をひそかに院外の満人に売った金で購った酒であろうが、杉は、隊員たちが毎晩のように車座になって酒宴を開いているのを、見て見ないふりをしていた。八路軍側からは禁じられていたが、他に慰めのない生活である。命令どおり杉が監視したら、隊員たちはその日から工作を拒むに違いなかった。 杉の部屋で酒を飲ませてくれと頼んだとき、戸本は珍しくしんみりした口調で、 「自分も班長の年頃のときは、一滴だって口にしませんでしたよ。この酒の味は、兵隊にとられて初めて知ったんでさあ」 と、つけ加えた。彼は応召前、北関東の小さな田舎町を根城に、担ぎ呉服屋をしていた。十年間、わき目もふらずに働き通して貯めた金で、長い間の念願だった古着屋の店を開く寸前、戸本は赤紙を受け取った。 「店を持つまではと働きづめに働いて、子供をつくる暇さえありませんでしたよ」 いつか杉に身の上話をしたとき、戸本はそう言ってちょっと寂しい笑い顔をみせたが、「そのかわり班長、女房は十年経っても軀も顔も、ちっとも変りませんぜ。この写真じゃわからないが、女房の奴は、まるで娘っ子のように張り切った軀をしていますよ。班長はまだ若いから知らないだろうが、女はなんと言ったって軀ですよ。いいかね班長、内地に還って嫁さんを貰うときは、相手の軀をすみずみまでよく検ベてからにするんですぜ。けうして顔に気をとられちゃいけませんよ」 その口吻にひどく実感がこもっていたので、杉は苦笑しながらも相槌を打った。彼が妻を愛していることは、杉にも充分に読みとることが出来た。 寝巻がわりにしている白衣に着替えた杉が厠に立とうとしたとき、戸本がコップの手を休めて話しかけた。 「班長、あの女たちは、もとは四平街に居たんですってね」 「四平街って、南満だろう」扉の把手に手をかけたまま杉がふりむくと、 「ええ、なんでも強制的に狩り出されたって言うじゃありませんか。なにも八路の奴、子持ちまで引っぱることはねえじゃねえか」 戸本の声は明らかに怒りを含んでいた。それは、杉も、光江母子を見たときから感じていたことである。が、戸本の怒りには、単なる義憤だけではないようなものがあった。 「そりゃ戦さに敗けた国民でさあ、どうしようと奴等の随意だ。だけどね班長、女子供には関係ねえことだ。ふん、何が皆さんの協力で、だ」 頤(あご)をつき出して残りをぐっと呷ると、戸本は空になったコップを睨むように見詰めた。その目は、何かに懸命に堪えているようでもあった。 「お前、龍さんの話を聞いていたのか」 「看護婦もこの兵舎に入れるってね。へん、どうつかまつりまして、あの高慢ちきな看護婦どもが、われわれと一緒に住むもんですかい」 「なぜ?」 「おや、班長は病室で人間並みに扱われたんですかい、あの看護婦たちに。同じ日本人のくせにしやがって、負けたのがみんな俺たちのせいみたいに非道い仕打ちをしやがった。白衣の天使だなんて、とんでもねえ嘘っぱちだ。あいつら、女じゃねえ、カンナだ」 いつもは機嫌のよい酒なので、杉は、戸本の怒りに戸惑って言葉を喪った。何がこの男をこれほど怒らせているのか、見当がつかなかった。 「そこへゆくとやはり地方人だ、あの女たちは不平ひとつ言わず、静かに内務班におさまっちまった。諦めているんですよ、あの女たちは――」 長い戦争がおわって吻(ふん)とする暇もなく、今度は他国の内戦に引きずりこまれて内地とは逆に北へ移動させられて来た女たち。その不運を諦めてしまった女たちに代って戸本は怒っているのだろうか。杉は、なだめるように言った。 「仕方がないじゃないか。還れるときがくれば日本人はみな一緒に還れるよ」 「班長は本当にそう思っているんですかい。とんでもねえことだ。あの母子が八路になぜ入ったか知らねえから、そんな暢(のん)気(き)なことを言うんだ。あの光江さんはね」 戸本は手甲で濡れた唇を強く拭った。 「なんでも四平街の隣組に割当があったんだそうですよ。一組に何人という徴用割当が。それに光江さんは当ったんだが、同じ隣組に居た、ほら、女たちのなかでいちばん若い女がいたでしょう」 「内田とみ子」 「そうそう、あの若い女が、子持ちじゃ可哀想だ、私は身よりも誰もいないから身替りになってあげると申し出たんでさあ。そうしたら八路軍の奴、ちょうどいい、二人とも一緒に来いって、引張られちまったというんですからね」 異常なほどの光江の遠慮深さが、杉には初めて解ったような気がした。と同時に、屈託のなさそうなとみ子の態度も、それが根っからのものではないかもしれぬと思われ、杉は再び重い石が胸の中を沈んでゆくような暗い気持になった。目的のためには手段を選ばぬこの軍隊の仕打ちを、杉も一カ月前、自分の目ではっきりと見て知っているのだ。 ――この斉(チ)々(チ)哈(ハ)爾(ル)の旧陸軍病院が、八路軍に接収されたのは、一カ月前の四月二十三日であった。南満から北上中の八路軍が、刻々市に迫っているという噂は、その一週間ぐらい前から病院にも伝わっていたが、院内の元日本兵たちがその姿を現実に見たのは、二十三日の午後おそく、「東北民主聯軍」と書いた布切れを濃緑色の軍服の袖に縫いつけた一箇中隊ほどが、病院の正門から隊伍を整えてはいってきたときであった。前日まで病院を管理していた国民党系の光復軍警備隊は、暁け方、市の郊外で小銃音が響き出すと同時に、二台のトラックに分乗していち早く逃げ出し、病院は管理者を喪った半日間の死んだような静寂さのあとで、この新しい為政者を迎えたわけであった。翌二十四日、市全部を指揮下におさめた民主聯軍は、元日本兵の患者全員に対して、即時退院を指令した。すでに病院の四角い石門には、「東北民主聯軍嫩(ノン)江(コウ)軍区衛生部附属病院」と書かれた大きな板が掲げられてあった。 日本人会の斡旋で、退院患者七百人を収容するために、市のほぼ中央にある、当時空家になっていた「湖月」という大きな料亭の跡が使用出来ることにはなったが、退院後の治療と生活保障については、民主聯軍はひと言も触れなかった。患者は殆どが、シベリヤヘ送られる列車内で発病した者と、終戦直前の対ソ戦で負傷した兵士で、重傷者も百人を超えていた。 奉天北陵の俘虜収容所からシベリヤ行の輸送列車に載せられた杉が、高熱で半ば意識不明の裡に列車からこの病院に移されたのは前年の十一月、まだ満洲からソ聯軍が撤退しない前であった。 杉の病名は発疹チフス。一週間目にやっと正常な意織を取り戻し、二週間目から食慾が出た。あとは順調に恢復して、民主聯軍に接収される一カ月ほど前から杉は、院内の雑務と警備を担当している錬成隊に籍を置いていた。 治癒患者で組織している錬成隊は、山口という元中尉の隊長のもとに、下士官二十人、兵三百人が、院内の独立兵舎で旧態依然の軍隊形式をそのときまで続けていた。民主聯軍は、患者の退院命令のあとに、錬成隊の中から百人、軍医と看護婦は全員、病院に残留するようつけ加えた。自軍の傷兵を収容するための措置であった。 錬成隊残留者の人選は、山口隊長の独断で翌日の昼前までに完了したが、二十人の下士官については、何を思ったのか山口は、「個人の意思にまかす」と手をつけなかった。このため、「残留か退院か、午後二時までに回答せよ」という隊長の命令が伝えられたときから、班長室は忽ち重苦しい空気に閉ざされてしまった。 長い間、命令と服従だけに慣れてきた下士官たちは、生じっか意思の自由を与えられてすっかり戸惑い、誰もが、不機嫌そうに唇をむすんで寝台に寝ころぶと、煤けた天井をみつめて、それぞれの沈黙にとじこもってしまった。杉も、その一人であった。 入院以来、一度も街に出たことのない杉は、病院の外がどのような状態なのか正確には知らなかったが、北満最大の都会といわれるこの斉々哈爾市には、終戦と同時に国境附近からの開拓団員たちが集結して日本人は一躍五万人を超え、その多くが乞食同様の生活をしているという噂を、しばしば耳にしていた。二月下何から始まった日本人会後援の南満地区への集団移動がすでに三回実施され、第四次の南下出発予定日が旬日に迫っていることも杉は聞いていた。併し、新しい為政者を迎えた今、この南下が実現しそうにないことは、情報にうとい院内の杉にも、容易に察しられることであった。それに、よしんば実現したとしても、南下はあくまでも南下であって、直ちに帰国に繋がるものではなかった。 他の下士官と同じように寝台に仰向けになって天井と睨めっこをした末に、 ――よし、俺は残ろう。 杉がそう心を決めたのは、隊長室の当番兵が集合を伝えに来た直前であった。寄らば大樹の蔭、この病院に残っていれば、喰うだけはなんとかなろう。病み上りで、同胞相食むような街へ出て働く自信の全くない杉は、心がきまると、救われたように躰を起こした。俺と同じように残留を希望する班長も五、六人は居るだろう――そんな心頼みもあった。 山口中尉は、自室の中央に据えた椅子に深く腰掛けて、深刻な顔つきではいってくる部下を一人ひとり、ゆっくりと見守っていた。応召前、九州の田舎の中学で体操教師をしていたというこの若い将校は、短気と傲慢さで日頃から隊員に毛虫のように嫌われていた。いまなお階級章を胸につけ、軍刀のかわりに絶えず木刀を携えて院内を我物顔に歩き廻っているこの上官が、杉も嫌いだった。目撃したことはなかったが、彼に木刀で殴られて負傷した隊員が十人を下らないという噂も聞いていた。 杉を最後に、全部の下士官が肩をくっつけて室内に並びきると、中尉は、腰掛けたまま口を開いた。 「儂と一緒に街へ出た患者たちのために働くか、八路軍に使われて病院に残るか、儂は諸君の希望通りにしたい。どちらが賢明な道かは儂にも判らない。ただ帝国軍人として傷ついた戦友に尽すことが、有終の美を飾るものだと儂個人は思っている」 自由意思と言いながら、これでは、俺について来い、と言わんばかりである。厭だ、と杉は本能的にそう思った。もうこの男の下で働くのは沢山だ――が、杉は、半円を描いて並んでいる班長たちの表情を窺って、おやっと思った。下士官たちの緊張していた顔が、今の中尉の言葉で、一様に吻と息づいているように見えたからだ。 「まあ、一人ひとり、答えて貰おうか」 中尉は左端に立った杉を頤でしゃくった。咄嗟に答えられず、杉は口籠った。 「どうした、杉候補生。儂と一緒に病院を出るか」 木刀の柄を握り直して中尉が促した。 「自分は、残留します」 杉の返答と同時に中尉は立ち上った。 「何ッ、残る? 杉候補生は残るんだな」 「はい」 「よし、次ッ」中尉は、杉の顔をふりすてて言った。 十分後、山口中尉は満足そうな表情で部下を見渡しながら言った。 「退院はあす午後、各自はそれまでに私物を整理しておけ。儂は患者に代って諸君の戦友愛に深く感謝する。患者たちは、どんなにか喜ぶことだろう。――杉候補生、百人の隊員を頼む。儂は君にも感謝する。若し全員が退院を希望したら、儂は誰かを指名しなければならなかった。異国の軍隊に使われるのは不愉快だろうが、君はまだ若い。何事も経験だ。われわれ日本人は、帰国出来るときは、みな帰れるだろう。よし、解散」 はいって来たときとは打って変った表情で談笑しながら出て行く班長たちのいちばん後ろから、蒼褪めた顔で杉が室を出ようとしたとき、山口が呼びとめた。 「君は、共産主義に興味を持っとるのか?」 声は低かったが、中尉の視線は、杉の目の奥を覗きこむような鋭いものであった。 「いいえ」と杉は言った。「自分には、街で働ける自信がないのです」 「自信?」と言ってから中尉は、なお暫く杉の顔を睨んでいたが、やがてニヤッと笑った。軽蔑しきった笑いだった。 「よし、行け」 翌日、八つに分れている全病棟は空になった。担架の上から痩せ細った手をかすかにふって別れを告げる重症患者の姿に、看護婦たちが思わず泣き崩れる光景を、杉は、残った百人の隊員と錬成隊の兵舎の窓から息をひそめて見詰めていた。 「畜生ッ、ひどいことをしやがって。湖月へ行ったら、半月も経たないうちに奴等は死んじまうぜ」 「仕方がないよ。負けたんだから」 「いくら負けたからって、死にそうな重症患者までおっぽり出すことはねえだろう。この病院だってソ聯軍が医療品を全部さらっていっちまったあとだもの、碌な治療は出来ねえだろうが、病人には、病院に居ることだけで気休めになるのに」 怒りと哀しみにみちた隊員たちの会話からはなれて、杉はそっと兵舎を出ると、人気のない伝染病棟のほうへ歩いて行った。病棟の周囲に植わった楡はすでに若葉をつけ、裏山の端れに建った屍体安置室の辺りにも雑草が丈をのばしはじめていたが、杉の気持は暗く沈んでいた。自ら選んだ残留ではあったが、遂に街に出る機会を失い、またぞろ軍隊生活の延長をつづけねばならないのかという思いが、予想もしなかった百人の隊員を預る責任感と重なって、杉はすでにはっきりと後悔している自分を知っていた。 前日、自分を除く十九人の班長が、まるで口裏を合わせたように、 「隊長殿のお伴をさせていただきます」 と、次々に答えたとき、杉は自分の軀から、そのたびに血が喪われてゆくような失墜感に襲われた。俺はとんでもない間違いを冒してしまった! だが、もはや杉は、前言を翻すことが出来なかった。 班長室に戻ると、他の班長たちは、いそいそと身辺の整理を始め、誰一人、杉に言葉をかけて来なかった。看護婦や百人の隊員も一緒に残留するとはいえ、その残留を自ら選んだのは杉一人で、他は総て命令に従うだけなのである。夜、杉は毛布にくるまると、同室者たちの談笑にわざと耳を塞いだ。そして自分だけが除け者にされたような錯覚のなかで、殊更に山口中尉の傲慢な横顔を宙に描いて憎んでみた。そして、ついに明け方までまんじりともしなかった。 患者たちが強制退院させられた翌日の夜、杉たちは、病院から約一粁離れた斉々哈爾駅へ、命じられるままに担架を持って出向いた。ホームに横づけになった貨物列車は、どの車輌も繃帯に血膿をにじませた民主聯軍の傷兵を満載していた。すでに切りはなされた機関車は、駅の附属建物の蔭にかくれて見えなかったが、その辺りから夜気をふるわせて、汽笛が大きく響いてきた。杉にとっては、久しぶりに耳にする音であった。貨車に近づくと、異様な臭気が鋭く鼻を〓った。懐中電燈の光りに照らし出された車内には、乱雑に敷いた藁の上に、ぼろぼろの毛布にくるまった血まみれの傷兵が、低い呻声を立てて転がっていた。用意して来た蝋燭をともすと、その揺ぐ微光を浴びて、顔、手、腿と、さまざまな負傷箇所に汚れ切った繃帯を捲いた患者が、手負いの獣めいて蠢いていた。すっかり化膿した傷口から発散する臭気と、垂れ流しの糞尿の悪臭が入りまじって狭い車内に立ち罩め、狼(あ)狽(わ)ててポケットからマスクを取り出す隊員も居た。が、薄いガーゼのマスクぐらいで防げる汚臭ではなかった。患者を転がすように毛布で押しつつみ、四人がかりで担架に移すと、隊員たちは顔を醜く歪めながらホームヘ降り、「よいしょ」と掛け声とともに肩に担ぐ。病み上りの薄い肩の肉に、担架の棒が深く喰い込んだ。――こうして往復三回、疲れ切った躰を、やっと兵舎の藁薄団の上に投げ出したところへ、通訳だという若い男が現れて、 「この担架輸送が、当分錬成隊の仕事になります。あすから、私の指示通り働いて下さい」 と、告げた。驚くほど明瞭な日本語で、しかも旧い詰襟の日本軍服をきちんと着ていた。あとで錬成隊員が、「同じ日本人の癖にしやがって!」と、疲れた怒りもまぜてなじったほど、通訳の態度は横柄であった。それが、龍明英であった。 翌晩も、その次の晩も、傷兵が到着した。五日目に「錬成隊は今後、輸送隊と呼称ぶ」と龍から伝達された。同時に、軍医をはじめ病院に残った日本人には、総て「日本工作人」という呼称が与えられているのを杉は知った。日本工作人係り龍明英と、輸送隊長杉は、仕事以外でも言葉を交す機会が多く、二人は急速に親しくなった。 十日経つと、病室の八割は傷兵で埋まった。あとを絶たぬ傷兵の数と傷口から、南満で行われている国民党との戦闘が、かなり烈しいものであることが杉たちにも想像出来た。一カ月のち、収容傷兵は二千人を突破した。市内から徴発してきた畳が、どの病室にも敷きつめられ、その上に隙間もないほど傷兵たちが並んだ。すでに駅構内の旧満鉄病院も、市の中央にある市立病院も接収されて、傷兵がつめこまれた。絶え間ない繃帯交換と言葉の通じぬ患者の世話で過労に陥った百人の看護婦は、殆どが顔を浮腫(むく)ませ、些細なことから仲間喧嘩をして、果ては取っ組み合って髪の毛をむしり合う騒ぎもあり、杉も三、四回、仲裁に入ったりした。 欝屈した気持のまま厠から戻ると、戸本はまだ椅子に腰掛けていた。肩を落したその後ろ姿を、杉は扉に凭れてややしばらくながめていたが、ふと思い当るものがあって、 「おい、いつもの奥さんの写真を見せてくれないか」 振りむいた戸本は、生酔いの顔にちょっと不審そうに眉を寄せたが、 「へえ、班長も気づいたんですか」 いくらか照れた顔つきで胸のポケットから写真を取り出した。杉がそれを裸電球にかざすと、 「ネ、似ているでしょう?」 打って変った弾んだ声で戸本は言った。 「こうすると、そっくりでさあ」 人差指で、写真の前髪のところを押えながら、戸本は目を異様に輝かせた。そっくりというのは大袈裟だが、薄い鼻翼から、いくらか受け唇の辺りにかけて、心持ち微笑んでいる細君の顔は、たしかに光江の容貌に似かよっていた。………そうか、それでこの男は憤っていたのか。無理もない、それでなくても、人一倍内地の妻を想っているこの男は、光江を見たときから、きっと甲斐のない憤りでたぎり立っていたのだろう――。なおも写真を見詰めている当番兵に、杉は肩を敲いてやりたいような親近感を覚えた。 「あすでも炊事係りに言って、あの女の児に何か旨いものを作って貰うように頼んでみるか」 「お願いしますよ、班長。なんだが、ひどく痩せていますからね」 戸本は、まるで父親のように、ペコリと頭を下げた。
二の章
潮騒のような楡の葉擦れの音で杉は目を醒ました。窓際の梢の青葉が、強い風に大きく揺れ、延びたその一枝が窓硝子に身をぶつけるように撓っている。部屋一杯に射し込んだ朝の陽脚が、点呼に間もない時間を告げていた。杉は勢いよく起上り、洗面器をぶらさげで部屋を出た。舎前の庭では、水道栓の並んだ洗面所で、四、五人の看護婦が、袖を二の腕まで捲くり上げて洗濯していた。白い露わな腕に、うぶ毛が光ってみえた。襞の多いスカートが、吹き抜けてゆく風に、うしろだけ、ふわっと大きくふくらむ。が、飛沫をとばして乱暴に白衣をゆすいでいる看護婦たちは、気にもとめぬふうであった。 洗面所といっても、屋根も柱もない。四つの蛇口を繋ぐ鉛管がむき出しになっているだけである。屋根と柱は、燃料の尽きた三月末、余寒に堪えかねた輸送隊員を三日間ストーブにしがみつかせた。 顔を洗い終えた杉は、思いきり両手を拡げて大きく伸びをした。ここ四、五日、病室に余裕のないせいもあって患者輸送もなく、他の使役も軽い作業ばかりで、久振りにのんびり出来た。立ち消えになっていた隊内の演芸会の計画も新しく練り直され、とみ子に、寸劇の相手役を交渉する気の早い隊員もいた。暑さに向う季節なので、ひそかに毛布や衣服を売払って酒を飲む者もふえ、ときには、内務班の車座から、とみ子の酔声が聞こえることもあった。着いてまだ二週間ほどだが、よし子とともに院内の人気者になったとみ子は、どの隊員とも親し気に言葉を交した。戸本が聞き込んで来た噂によれば、とみ子は終戦まで四平街の花柳界に居たらしい。軍服の下から覗いていた不釣合な肌襦袢の衿や、媚を含んだ自己紹介も、そう聞いてみれば、なるほど、と杉にも頷けた。龍の「演説」を咳払いで茶化したのも、“お座敷”の機智を示したものなのかもしれないと杉は苦笑したが、その噂のあとで戸本は一段と声を落して、 「光江さんはね、班長、可哀想じゃありませんか、終戦の一週間前に亭主を兵隊に引っぱられちまったんだそうですよ。満鉄の社員だったそうですが、今頃シベリヤで死んでいるでしょう、あの人はあまり丈夫ではなかったから……って、きのうもしんみりした口調で言ってましたよ」 そう言う戸本も、いくらか哀し気に眉をよせていた。戸本が、とみ子と親しく口をきくのは、妻に似ている光江の身の上を知りたいために違いなかった。炊事係りにとり入って患者用の真白い饅頭を貰ってきては、よし子にそっと与えている彼の姿を、杉も二、三度、目にしていた。光江に叮嚀な礼を言われて、顔の前で打ち消すように手をふり、かえって恐縮している戸本の恰好が、杉には、なにかいじらしくも見えた。 点呼をつげるベルが、けたたましく鳴り響いた。洗面器を置きにいったん部屋に戻り、上衣のボタンを掛けながら杉が再び舎前にひき返すと、内科病棟の入口から、スカートの裾を蹴って、看護婦たちが駈け集まって来た。締め忘れた洗面所の蛇口から、風に吹かれた水が斜めにしぶき、陽の光りに、白く躍った。 右から輸送隊、看護婦、そして左端にとみ子たちの臨時看護婦が、それぞれ二列縦隊に整列した。杉の号令に、私語がぴたりと熄んで、緊張した空気が、広場に漲った。 真白い看護婦の制帽と輸送隊のよれよれになった戦闘帽の下から、無数の目が、列に対い合った杉の顔に集中した。毎朝のことながら、やはり面映ゆい。 「休めッ」 いくらか頬を染めて杉は号令を掛けた。さっと広場の砂を捲き上げた強い風が、列の間で渦を巻き、吹きちぎれた二、三枚の楡の葉が、くるくるっと小さく踊って、落ちた。 本院の表玄関に、龍明英の長身が現れ、つづいて汪政治指導員が、つばの広い軍帽を阿弥陀に冠った姿を見せた。その後ろからは、口髭を蓄えた軍医の橋本が、二、三歩間隔を置いてゆっくりとついてくる。いつも一番先きに出てくる林病院長の姿は見えなかった。 若い通訳と指導員は、何か声高に話しながら大股に近づいた。議論でもしているのか二人とも軽い昂奮の色を頬にうかべている。杉が駈け足で列の右端につくと、替って龍がそれまで杉の居た位置に立った。持ち前の大きな目で、ひとわたり全員を見渡してから彼は言った。 「林病院長は、急な命令で一週間ほど出張されました。きょうから汪指導員が点呼をとります」 各列の責任者の人員報告に、汪は眩しそうに目を細め、掌がそっくり見える挙手の礼を繰り返した。一見してすぐ中国人と判る薄菊石のある指導員の隣りで、龍英明は、目だけを絶えず動かして、満遍なく各列を点検していた。 二人の後ろでは、橋本軍医が、視線を足許に落して、手持ち無沙汰につくねんと佇(た)っている。もう五十に近いこの軍医は、八路軍に接収されるまで病院長代理を勤めて、看護婦にも錬成隊員にも人望があった。それまで病院を管理していたソ聯軍や光復軍の無茶な要求を幾度となくつっぱね、君らが無事に内地の土を踏むまでは儂の責任だからね」 と、穏やかな口調のなかにもきっぱりした意志を仄めかせて杉たちに語った。事実、彼の身を挺した抵抗で幾回か、危機を切り抜けることが出来た。主食の増配を餌にソ聯将校が看護婦の肉体を要求したときも、光復軍が、患者用毛布の供出を求めたときも、橋本は柔和な顔に似ぬ断乎たる態度で拒絶し、部下たちを感激させた。この人が居る限り、きっと無事に帰国できるだろう――患者をはじめ、看護婦も錬成隊員も、いつかそう信じていた。 それが、八路軍になってからは、なぜか橋本は表立った発言をぴたりとやめてしまった。患者の強制退院命令が出たとき、その残酷な命令に憤激しながらも、橋本が巧く撤回させてくれるものと、患者たちは希望を抱いて、さほどの混乱もみせなかった。ところが軍医は、命令が出てからそれが終了するまでの丸四日間、将校病棟の端れにある居室にとじこもって、ついに杉たちの前に姿を現わさなかった。 堪りかねた看護婦長の木原フミが涙まじりに哀願したが、それも終始沈黙の裡に退けた。そしてその後の八路軍側の要求や命令にも、一切タッチしなかった。ひとつには、続続と運びこまれる傷兵の治療に忙殺されていたからでもあろうが、この豹変は、それまで深く信頼していただけに、杉たちには全く意外過ぎた。何かある――杉はひそかにそう感じてはいたが、それをじかに軍医に問い訊す機会を持たなかった。 人員報告が終ると汪指導員はもう一度全員に向って掌を見せ、まるで逃げるように広場を横切って本院へ戻って行った。龍も目顔で杉に合図を送ると、すぐそのあとを追った。つづいて橋本が、来たときと同じゆっくりした足どりで立ち去った。強い風が、また砂を捲き上げ、舎前の楡の葉を揺った。風がおさまるの待って駈け足で再び元の位置についた杉が素早く上衣を脱ぐと、それを合図に、各列が二歩ずつの間隔をとって散開した。 朝の体操がはじまった。 看護婦の白い制服の腕が半円を描き、次いで上体が大きく前後に屈伸する。自分の号令につれて、華やかに、正確に動くそれらのリズミカルな手と肢の交錯に、杉は、次第に昂奮を覚えてゆく。病室から出て来た三、四十人の軽傷患者が、物珍しげに口をぽかんとあけて眺めていた。その見物人を意識すると、軽い昂奮の中に、いくらかの晴れがましささえ織りまざって、肩から延ばす両手の先きや、大地を蹴る爪先きにも、おのずと力がこもり、忘れていた筈の兵隊当時の的確な動作が、知らぬ間に四肢に舞い戻っていた。 長い間忘れ捨てにしていた朝の点呼が復活してちょうど十日経つ。いまわしい記憶を早く忘れる意味から、これまで軍隊時代の形式は一切廃止して来たのだが、何を思ったのか八路軍側から要求されて、渋々復活させた点呼であった。使役でもない限り、殆ど内務班でごろごろしている隊員たちである。今更点呼をとったところで、半分は理由をもうけて出ては来まい――杉も勿論、不服だった。 輸送隊と呼ばれるようになった直後、杉は、病棟内にある龍の居室を訪ねて、輸送隊長を辞任したいと申し出たことがあった。残った錬成隊員のなかでは、杉はたしかに唯一人の下士官であった。が、それはあくまでも軍隊時代の階級で、こうした新しい環境になってからもなおその階級によって若い自分が百人の人間を指揮することは間違いだ、と杉は通訳に訴えた。杉班長が残留したのは、山口中尉に代って隊長になりたかったのだ、という隊員の噂を、杉は耳にしていた。いや彼奴は八路軍と結託して何か甘い汁を吸おうとしているんじゃないのか、という蔭口も聞いていた。いずれも戸本が、ひそかに教えてくれたものであったが、杉にしてみれば身に覚えのないそうした噂を、この際、一隊員になることによって否定したかったのである。 龍明英は、杉の申し出をすぐ承諾した。「いいところに気づいてくれました」と彼は言った。「たしかに旧い階級をそのまま踏襲するのはよくないことです。実は私も以前から気づいていたのです。杉さんもきっとやりづらいに違いないと。でも何分にもこの忙しさで、つい手が廻らなかったのです。あす早速、新しい隊長を選出しましょう。投票――そう、選挙がいちばんいいでしょうね」 併し、結果は杉にとって全く意外なことになった。内務班に全員を集めて龍の立ち合いの許に投票したまではよかったが、いざ開票してみると、どの紙も「杉班長」と書いてあったのだ。他の名前を書いた用紙は一枚もなかった。思わぬ結果に茫然としている杉の肩を、龍明英は我が意を得たというように力強く敲(たた)いた。 「さあこれで、杉班長は以前の階級によってではなく、名実ともに輸送隊長になりました。そうですね。皆さん」 龍がそう言うと、隊員は拍手をもってこれに応えた。杉は赧くなり、次いで今度は、なぜか不意に、深い哀しみにとらわれた。後日、杉は、誰が指揮者になったところで同じなのだ、隊員たちは、要するに、新隊長を選ぶのが面倒臭かったのだ、と考えてもみたが、せめて二票でも三票でも、他の隊員の名前があればともかく、百票が百票ともに、自分の名を書いてあったことに改めて気づくと、多勢の人々に、巧みに瞞されているような気がしてならなかった。 点呼の復活についても、杉は最初、だらだらと腰の重い連中を、声を嗄らして追い立てる役目を想像して、ひそかにうんざりしていたのだが、いざ点呼をとり出してみると、隊員たちは、すっかり予想を裏切って、みな駈け足で集合するのであった。別にはっきりと位置を示したわけでもないのに、ベルが鳴ると、輸送隊員ばかりか看護婦たちまでが、さっさと整列して元気に番号を掛ける。整列が完了するまでに、ものの三分とかからなかった。集団生活というものは、自ら秩序を求めるものなのであろうか。それにしても、これはちょっと信じかねる成行きであった。しかも点呼を再開した翌々日、連れ立って部屋にやってきた四人の組長から、 「点呼だけでなく、ひとつ、体操も復活しませんか」 と提案されて、杉は完全に面喰った。四人の顔を思わず見較べて、咄嗟に返事が出来ずにいる杉に、年嵩の小池が、穏やかな口調で、こうつけ加えた。 「隊員たちの希望なんですよ。このところ担架輸送も減ったんで、みな退屈しているんです。あの当時は毎晩で、かなりアゴを出した連中もいましたが、馴れるに従って、労働すれば飯が旨いことが判って来たんですよ。以前と違って、飯の量だけは喰い放題ですからね。若し看護婦たちが厭だというなら、輸送隊だけでもいいじゃないですか」 そう言われてみれば、反対する理由はなかった。たしかに小池の言う通り、食事の量だけはふんだんであった。 一日、高梁二斤と副食費五円――これが輸送隊員一人に対する給与量である。この割当量について、かつて龍明英は、こんな説明をした。 「僕らも同じ量を与えられていますが、一日高梁二斤はとても食べ切れません。それで、給与委員と炊事係が適当に賄い、剰った高梁は街へ売って、その代金でみんなの望むものを購入するようにしています。輪送隊に与えられたものは、輸送隊がどのように処分しても構いませんよ」そしておわりに、「日本人はやはり白米が食べたいでしょうからね」龍はそう言ってかすかに笑った。日本の軍隊からでは想像もつかない給与方法である。かりに一日一人一斤半とすれば、一カ月で約千五百斤剰る。街の相場に換算すると、約二千円である。それに副食費を切詰めれば、合せてザッと三、四千円の金が毎月、隊の自由になる。早速選出された五人の給与委員は、この皮算用にすっかり有頂天になって、厳重に炊事当番を監督し出した。 それまで病院全部の給与を賄っていた炊事場が、患者食専用になったので、輸送隊は、隊だけの炊事場を造ることになり、空いている隊長室がこれにあてられた。壁の隅がくり抜かれて、不恰好な煙突が取りつけられた。隣室の被服庫もすでに在庫品が殆ど無くなっていたので、ここに食糧を貯えることにし、間もなく高梁の入った麻袋が積み上げられた。 同時に、食糧購入用の馬車が一台、貸与された。この馬車に乗って二日に一回、給与委員が交替で街へ出かけ、野菜や肉や食用油などを積んで帰る。そのたびに暇な隊員たちが兵舎からとび出して馬車の周りに集まり、やがて自分たちの口に入るこれらの食糧品に満足気に眺め入った。葱の束や肉の塊を宝物のように抱えて炊事場へ運び込む給与委員や炊事当番の顔は、かつてないほど明るく輝き、賑やかな笑いが幾度も起った。栄養失調で重症者がばたばた死んでいったソ聯軍管理下の頃と較べれば、たとえ高梁飯にせよ、それを少しでも旨く食べるために体操をしようなどと考えつく現在は、まさに天地のへだたりであった。特に使役のないここ四、五日は、わざと昼飯を抜く隊員まで出ているほどである。それに自分よりひと廻りも歳が上で、応召前は高等学校の教師をしていたという小池の説明には、この隊員の希望が、一時の気紛れとは言いきれぬものを杉に感じさせた。 早速、旧内科棟内にある看護婦室を訪ねて婦長の意向を打診すると、 「結構なことですわ。私たちも是非一緒に……」 三十前だというのに、痩せて小皺の目立つ木原フミは、まるで待ちかまえていたような応じかたであった。またも杉は、みんなに騙されているような思いで、やっぱり俺はまだ人の上に立つ柄じゃないんだと、隊員たちの心を掴めぬ自分の若さを自嘲した。 もっとも初日の朝は、「基本体操」の順序を忘れている者が多く、左右を見廻してあわてて手肢の動きを合わせてゆくような出来の悪さであった。不揃いの集団運動ほど醜いものはない。みろ、殊勝ぶったってこの態(ざま)じゃないか、軍隊時代の形式なぞ、たとえ食慾のためにも復活させるのは間違いなんだ、と杉は自分でもおぼつかない号令を掛けながら心の裡で舌打ちした。それが、五日目の今朝は、打って変った鮮やかな揃い方をみせ、しかも活気さえ溢れている。まるで手品を見せられているような感じだった。 併し、振りかえってみれば、初年兵の頃から何百回となくやって来たこの「基本体操」も、その総てが、命じられるままに、ただ機械的に手肢を動かして来ただけに過ぎないのである。最後の深呼吸に移ってから杉は、快い適度の疲労感のなかで、はじめて「体操」を愉しんでいる自分を発見し、軽く閉じた瞼の裏で明るい陽射しを感じながら「悪くないな」そっと己に囁いた。隊員たちも、自発的にはじめたこの体操をきっと愉しんでいるに違いない……。 最後の一呼吸がおわってゆっくり目をひらき、杉が「解散」を命じようとしたとき、それまで周囲をとりまいて見物していた患者たちが、まだ崩れていない列の間に、いきなり、割り込んで来た。弾かれたように看護婦たちが跳びのくと、それを待っていたのか、四、五人の患者が、先きを争って水道栓に殺到して、それぞれ蛇口に指をあてがった。同時に、霧のような飛沫が散った。看護婦たちは、悲鳴をあげてさらにとび離れた。その恰好に、患者が一斉に歓声を挙げた。口笛さえ混っていた。 指の加滅ひとつで、数条に、或は一条に遠く細く飛び散る水先きが、陽にキラキラと光った。遠くへ飛べば飛ぶほど患者たちの歓声は昂まり、いかにも愉し気なその水遊びに堪りかねたのか、広場の隅から発条仕掛けの人形のように、せかせかと松葉杖を漕いで水道栓に近づく患者もあった。 今度は、日本人たちが、患者たちを遠巻きに見物する側になった。輸送隊員も看護婦も、時ならぬ水煙りを目で追いながら、どの顔も苦笑めいたものを泛べている。杉も上衣を抱えたまま少時眺めていたが、そのうちに彼はふと、接収されて間もない頃、龍が何かのついでに言った言葉を思い出した。 「――われわれの軍隊は日本と違ってみな志願兵ですから、革命のために心から参加した者もいれば、なかには、ただ喰うために加わった兵士も居ます。特にこの東北へ進撃してきた同志は、殆どが僻地に育った者で、だからこれまで水道も電燈も知らなかった兵隊が多いんですよ。併し、彼等を見て、八路軍が総てこの程度だと思って貰われては困ります。華北地区には、充分に訓練をつんだ、いわゆる正規兵が居るんですから……」 無論、このとき龍が言いたかったのは、終りの部分だったのであろう。が、いま、杉が思い出したのは、「水道も電燈も知らない……」という個所であった。この患者たちは、水道が珍しいのだ。いや水道や電燈ばかりか、怪我をして病院に入ったことさえ初めてであろう、ひょっとすると、この世に病院というものがあることさえ知らなかったのではあるまいか。龍の言葉ばかりでなく、たしかにそうとしか思えないような患者たちの振舞いを杉もこれまでにいくつか目にしていた。 ――どんな手荒な手術にも呻き声ひとつ立てぬ日本兵に馴れて来た看護婦たちが、接収直後、繃帯交換のたびに、まるで獣のような大きな叫び声を挙げる八路軍の傷兵にいささか愛想をつかして、その世話を拒む気配を見せたことがあった。 このときも龍は、「患者が大袈裟な叫び声を挙げるのは、それだけ看護婦さんに甘えているんですよ。なあに、もう暫く経ってごらんなさい。看護婦さんだって、ああして子供のように慕われれば、今に親身になって世話するようになりますよ」と、こともなげに言った。併し、少し傷が癒えれば勝手に病棟内を飛び廻り、食事の量が少ないと言っては集団で炊事場へ押しかけ、てんでに好きなだけの副食物を運び出してしまうような患者たちの振舞いは、言葉が通じないせいもあって、ますます看護婦たちの態度を硬化させた。木原婦長も幾度か抗議し、杉も炊事係に頼まれて、それとなく龍を通じて注意を促してみた。が、病院長の林玉鳳女史をはじめ、八路軍の幹部は、なぜか患者の気儘な行動を取締ろうとはしなかった。 頭や腕に繃帯をつけたまま軽傷患者は公然と脱柵して藁蒲団や毛布を売払い、なかには四、五人がかりで鉄製ベッドをかつぎ出し、柵のところに呼び寄せた街の満人と取引する者もあった。規律と員数に縛られてきた杉たちには、ただただ呆れることばかりだった。 しかも病室内は、入浴の習慣を持たぬ患者たちの汗臭い体臭と、患部から漂う血膿の汚臭が入り混って、つねに吐気を催すほどの臭気が充満していた。 終戦までは血も凍りつきそうな厳冬のなかでも毎日、雑布がけを怠らなかったという床に、患者たちはところかまわず啖を吐き散らし、喰い残した饅頭の破片を投げ棄てる。掃除するそばから汚すので、しまいには看護婦たちも箒を手にしなくなった。光沢を失った床はいつか泥まみれになったが、不潔になったのは、なにも病室内に限らなかった。各病棟の周囲には、最初の患者が入院した翌日から、足の踏み場もないほど糞が散乱した。病棟内にそれぞれちゃんと厠があるのに、患者たちは、わざわざ戸外へ出て用を足す。戦場でついた習慣ではなく、そうするのが当然のように、誰も彼も、悠々と建物の蔭に跼み込んだ。まるで患者全員が気を揃えて、清潔であるべき病院を躍気になって汚しているようにさえ見えた。 ――まだソ聯軍のほうがましだった。革命軍がきいて呆れる。とんだ田舎軍隊じゃないか。 肚の中で嗤いかけて、併し杉は、急ににがい顔になった。水道に子供のように戯れている、その無智で不潔な兵士たちに頣使されている今の自分の立場につき当ったからである。と言って、今更自嘲すれば、かえってそのにがい思いが募ってくるのも杉は知っていた。 ――やはりあのとき、他の下士官と共に街へ出るべきだったのか。内地へ還れない点では、街に居ても、病院に居ても同じだ。とすれば、たとえ学窓からいきなり兵隊にとられて、これまで働いた経験が全くないにしても、あの際ひと思いに退院して街でどんなつらい労働にでも従事していれば、じかにこの無智な兵士たちに接することもなく、従って、こうした厭な想いを味わわずに済んだはずだ。 再び胸を噛んでくる後悔をふり捨てるように、杉は腕の上衣を抱え直すと、自室へ向って歩き出した。そのとき、ひと際、高い歓声が起った。振りむくと、まるで生きもののように一段と高く舞い上った一条の水柱が、たまたま吹き抜けた強い風によろめいたかと見る間に、思わぬ方向にぱっと散り砕けて、勢いよく落下して来た。その小さな滝の真下で、三、四人の看護婦が顔を寄せ合って立ち話をしていた。あッと、思わず杉が喉の奥で叫んだのは、頭からまともに水を浴びた女たちのなかに、院内一の美貌といわれる中原節子の顔があったからであった。 一瞬、歓声が熄んだ。杉もわれ知らず息をのんだ。あわてて取り出した手帛で、顔や腕を拭う看護婦たちのなかで、独り中原節子だけが、濡れた頬を拭こうともせず、きびしい眼差しを水道栓に向けていた。彫りの深い横顔である。その、濡れた、女には高すぎるほど秀でた鼻梁が、陽の加減で、杉には、冷たい、研ぎすました刃物のように見えた。鋭い節子の視線が、急いで蛇口から指をひっこめた「犯人」をとらえた瞬間、二人は同時に走り出した。周囲の患者が、ワッと囃子たてた。 広場をあたふたと逃げ廻る患者を追って、節子は乱暴にスカートを揺らせた。ひと足ごとに、双つの胸の隆起が弾んだ。駈け廻る二人を追っている視線が、ともすれば、その胸乳だけに注がれてしまうのを、杉は自分でも意識した。水道栓を中にして、節子は、右から追うとみせて左へ廻り、患者は、それを素早く看破って敏捷に反対側へ逃げのびる。この思いがけぬ鬼ごっこに、立ち去りかけていた輸送隊員もその場に立ち停り、それらの目のことごとくが、杉は、自分と同じように節子の胸に吸い寄せられているのを感じた。顔ばかりでなく、節子は、看護婦の中で際立って豊かな肢体を持っている。日頃、見るからに清潔な白い制服に包まれたその軀からは覚えなかった情感が、いま、スカートの乱れとともに、もり上るように杉の胸に迫った。それは、あの幕代りの毛布をくぐって思わず立ち竦んだときの羞恥よりも強いものであった。杉は、自らそれをたしかめるように、節子の揺れ動く胸を凝視した。 水道栓の周りを三、四回駈け巡り、とても捕えられぬとさとったのか節子は、今度は自分から蛇口に指をあてて復讐に出た。併し、水先きは、あらぬ方向に飛んで患者に嘲われるだけであった。意志を罩めた指先きは、かえって節子自身へも飛沫を浴びせ、そのたびに見物の患者たちは、手を打って笑い興じた。 濡れて、しずくの滴り落ちる頬を拭いもせず節子は、水道栓を距ててニヤニヤ笑いを続けている患者を屹っと睨み据えた。この看護婦は、なぜ、これほどまでむきになって追い廻すのであろう。まばたき一つせず、じっと患者を睨みつづけている節子の横顔を杉は訝った。 杉から五、六間はなれた楡の木蔭で、やはり、よし子が、光江の腰につかまりながら、赤茶けたお河童頭を風に吹かせて、大人たちの遊戯を、目を皿のようにして見詰めていた。その傍にしゃがんだとみ子が、何かしきりによし子に話しかけていた。風がまたちぎれた二、三枚の葉を地面から掬い上げて吹き抜けて行った。奇妙な恰好で中央に対峙した二人の成行きを見守って、用囲の見物人たちもちょっと鳴りを鎮め、広場をほんの暫くの間、風の音が領した。 ふいに肩を敲かれて杉が節子から視線をはずして振りむくと、いつの間に出てきたのか龍明英が、薄笑いをうかべながらすぐ後ろに立っていた。 「面白い余興がはじまりましたね」 龍の言葉が叮嚀なので杉は相槌を打ちかけて、急に心の裡で身構えた。またこの男は何か喋り出すに違いない。が、通訳は、それだけであとを続けようとはせず、杉と並んでまだ笑いを消さないでいた。舞い上った葉が一枚、燕のような速さで病棟の屋根のほうへとんで行った。 ――日華親善の図ですね。 黙っている龍の横顔へ、杉は、充分な皮肉を罩めてそんな言葉を言いかけようとして、よした。自分では皮肉を罩めたつもりでも、一旦口に出してしまえば、それは全くの阿諛にならないとも限らない、と思われたからだ。それに、そんな言葉を切っかけに、得たりと龍が、日頭口癖の「日華協力」を、またぞろ弁じ立てる懼れもあった。一時、看護婦たちに手当を拒む態度を執らせた患者と、その看護婦のなかでも美貌を謳われている中原節子が、いま、目の前で演じている遊戯は、いつかの、この男の予言を裏書しているのではないか。「まあみていてごらんなさい」と言った通り、患者と看護婦は嬉々として戯れている。“どうです、僕の言葉に間違いはないでしょう”龍の微笑は、明らかにそう語っているのだ。だが、何かに憑かれているようにもみえるほど執拗な節子のあの追い廻し方は――。 まだ笑いを消さぬ龍の横顔に、杉が胸のなかの言葉を持てあましているとき、ぴゅっと鋭い口笛が、反対側の見物人の間から起った。再び水道栓に戻した杉の目に映ったのは、四、五人の看護婦が、節子と対い合った患者の後ろへ、そっと忍び足で近寄る姿だった。 口笛に、ひょいと後ろを振りむいた患者は、慌てて駈け出しかけたが、すでにその退路は、さらに応援にかけつけた三、四人の看護婦によって遮断され、さっと手を繋いだ彼女たちは、その輪を、じわじわと縮め出した。患者は、乱暴に手を振ったり足をあげて包囲陣を威嚇してみせた。その顔には、困惑と同時に、くすぐったそうな表情がちらついていた。 この思わぬ援軍に、節子の顔が正直にかがやいた。同僚の虜となった患者に、飛びかかるような勢いで近づいた彼女は、いきなり患者の頭から、むしるように帽子を奪いとった。患者は、あとを追って包曲網を脱け出そうとしたが、これは手もなく押しかえされた。 奪った帽子を握って水道栓にひきかえした節子は、其処で帽子を蛇口にあてがうと、ためらいもなくその中へ水を注ぎ込んだ。 円陣を組んだ看護婦も、虜になった患者も、一体、何をするのかと、帽子にいっぱいになる水をみつめた。杉も、見ていて咄嗟には節子の意図を測りかねた。注ぎ込まれた水で、帽子は忽ち、袋のようにふくらんだ。 こぼれるばかりに水を湛えたその帽子を、両手に捧げるように持って節子は、再び円陣に近づいた。次の瞬間、帽子は節子の手から円陣の中に突っ立っている患者の顔をめがけで、毯のようにとんだ。あっと軽い叫びが、周囲の見物の口から一斉に洩れた。びしゃっ、という音と共に、真っ向うから水を浴びた患者の上躰が大きく揺れたかと思うと、崩れるように膝をついた。その不様な恰好に、見物人がどっと哄笑した。すると、当の患者も、頭から胸にかけてずぶ濡れになったまま、さも愉快そうに笑うのだった。 「こりゃ、いい」 龍も、手を打たんばかりに声をあげて笑い出した。つり込まれて杉も笑いかけたが、急にその笑いをひっこめてしまった。とうとう復讐を遂げて、会心の笑いを禁じ得ぬ筈の節子が、そのとき、ふいに走り出して、逃げるように広場を横切って行ったからだ。やや俯き加減のその節子の顔つきが、なぜか、いまにも泣き出さんばかりの哀しみを湛えているように、杉には見えたのだった。 「もうそろそろ、朝食時間ですね」 やっと笑いを納めた龍が、腕時計を覗いてから言った。ええ、と杉は上の空で応え、目は節子の後ろ姿を追っていた。 ――何故、あの女は不意に逃げ出したのか。自分の道化役が急に羞かしくなったのだろうか。もしそうなら、なぜ、あれほど執拗に追い廻し、また、まるで目には目を、と言った仕返しをしたのだろう。それにしても、今にも泪があふれて来そうだったあの表情は……。 本院の玄関前にある植込みの蔭に、節子の白い制服がすっかりかくれるまで、杉はじっと見送った。 「杉さん」 呼ばれてやっと我にかえると、龍の顔が、近々と、擦りつけるように寄って来た。 「話したいことがあるんです。朝食がおわりましたら、僕の部屋に来てくれませんか」 そう言うと龍は、杉の返辞を待たず、いつもの大股な足どりで、節子の去って行ったほうへ歩き出した。歩調に似合わぬ、相変らず、女のように細い襟足である。 以前、薬品倉庫だった食堂の入口から、食事を告げる鐘の音が、風に乗って伝わってきた。
三の章
馬車が停まったのは、三階建ての、古風な煉瓦造りの建物の前であった。繞らした塀も煉瓦造りで、上部が少し欠けた石門の間には、錆びついた鉄の扉が半開きになっている。右柱の右に、「日本人幹部学校」と書かれた木札が下っていた。 「此処です。皆さん、降りて下さい」 龍明英が馭者台から身軽に跳び降りて言った。杉がつづいて降り、彼の手を藉りて、光江、とみ子、中原節子の順に、そして最後に輪送隊員の片桐が、ゆっくり静かに降りた。片桐は対ソ戦で負傷して、右脚が跛であった。 鉄扉を排すと、前庭には石炭殻が敷き詰められ、そのところどころに、鋸で挽いたばかりらしい板片が散らばっていた。 「此処、元はなんの建物だったの?」 傍に寄ってきたとみ子が小声で訊いた。 「さあ――」 杉も知らない。目で片桐に訊いて見たが、彼も黙って頸を振った。 アーチ型になった玄関の扉は、上のほうの磨硝子が半分割れていた。 「皆さんを紹介したら、僕は一旦、病院に帰りますが、講義はたしか二時間ほどですから、その頃また迎えに来ます」 玄関前にかたまった杉たちを見廻して龍はそう言うと、扉を肩で押して建物の中にはいって行った。鉄扉の外では、馭者の李が、中腰になって馬車を向う側の鋪道へ廻している。李の顔が、着ている軍服と同じくらいに青く見えたのは、街路樹の葉のせいだろうか。病院からこの建物までは、いつもゆく駅とは反対に、やはり十町ほどの道のりであったが、こんな静かな落着いた鋪道があったのかと杉は、両側に植わった青々とした街路樹を眺めて驚きつづけた。 初めて馬車というものに乗ったせいでもあったが、石畳の鋪道にカツカツと蹄の音をたてて進む馬車のかすかな動揺に身をゆだねて、山高帽をかぶった紳士がステッキをふりながら歩く道だな、と杉は思ったものだ。街路樹の葉の間から覗く両側は、石塀や煉瓦塀に囲まれた大きな洋館ばかりで、少くとも俘虜が馬車で運ばれる道ではなかった。 龍から二、三歩おくれて玄関にはいると、内部は意外な暗さで、明るい午後の陽になれた目には一瞬、暗闇に等しく、杉は、その場に立ち停まった。その背へ、「あら」と言ってとみ子が触れ、「怕い」おどけた声で、今度はわざと躰をすりよせてきた。目がなれると、すぐ左手に、階段のあるのが判った。硝子が無いらしく、窓には、すべて内側から板切がうちつけてあった。暗い階段を三階まで登りつめると、踊り場に龍が手すりに凭れて眉を寄せた顔で待っていた。 「ごめんなさいね、杉班長」と若い通訳は、猫撫で声で言った。 「きょうの授業は急に中止になったそうです。こっちじゃ連絡を済ませたと言っているんで――どうも僕らのほうの手落ちらしいんです。ご免なさい。入学はあすからにして下さい」 「あら、駄目なの? 折角来たのに――」 とみ子がさも不満そうな声で応えた。 「済みません。逆戻りです」 また龍が先きになって階段を降りはじめた。 「よかったわ、一日得しちゃった」 とみ子が肘で小突き、小さく舌を出した。杉は思わず苦笑した。彼も内心、吻としていた。一段一段、とまるように降りる片桐と肩をならべ、 「こんな建物でわれわれに何を教えようというのかね?」 「あれ、班長もご存知ないんですか」 片桐は少し驚いたように訊き返した。 「僕だって、龍さんから、ただ講義を聞きに行けって言われただけなんだよ」 「へーえ、そうなんですか。自分はまた――」 と片桐は言葉を一旦途切らせてから、 「どうぞ、自分にかまわず、お先へ」 再び戻った玄関には、きょうは黒のズボンにブラウス姿の中原節子が、独りで佇っていた。光江ととみ子は、すでに龍と一緒に表の馬車に乗りこんでいる。 「わたくし」と節子が、掬うように杉を見詰めて言った。「わたくしだけ――なぜ、わたくしだけを、看護婦のなかから選んだんです?」 杉は、美しい目から急いで視線をそらした。返辞が出来なかった。 「はっきり言っておきますけど、わたくし、共産主義になんか、ひとつも興味ありません。わたくしなんかに勉強させたって、無駄ですわ」 「僕だって同じです。でも、命令ですから」 「命令?」節子は、もう一度、杉を強い視線で見上げた。 「わたくしを選んだのも、命令でしたの?」 杉が仕方なく首肯くと、節子は信じられないといった表情でなおも暫く目を凝らしていたが、 「わたくし、龍さんにきっぱりお断りします」 言い捨てると鉄扉を出て行った。ズボンのせいか、豊かな腰が、怒っているようにぷりぷりと揺れる。 「どうしたんです?」 片桐が、玄関から出て来た。杉は曖昧に笑ってみせた。 節子が患者と鬼ごっこをした日、龍明英の部屋で杉が命じられたのが、この「日本人幹部学校」への入学であった。 「政治指導部からの命令です」と通訳は前置きしてから、この病院の工作人の中から五人出すことになった、と杉に告げた。 「むろん杉さんにも、入学してもらいます。輸送隊からはあと一人、看護婦は、多忙なので出したくないのですが、これも命令ですから仕方ありません。僕は中原節子に行って貰うことにきめました。あと、臨時看護婦から二人ですが、これは杉さんが人選して下さい」 そんな学校が出来ていることなぞ、勿論、杉は知らなかった。どうして僕が入学しなければならないのかと、杉は反問した。すると、龍は、意外そうな表情で杉を眺め、 「貴方が行かなくて、誰が行くんです?」と、逆にますます杉を驚かせた。 「実を言うとわれわれも、こんな大きな病院を接収したのは初めてで、最初はいささか不安だったのですよ」 龍は回転椅子から立ち上り、部屋のなかをゆっくりと歩きはじめた。 「それで、思いきって残酷な命令を出したんです。日頃、和平と平等を唱えているわれわれの軍隊に似合わぬ行為とは承知していました。が、仕方がなかったのです。最初に、ガンとやっておけば、日本人は案外従順だ、ということも知っていましたからね」 龍はちらっと窺うような目をむけてきた。杉は黙って次の言葉を待っていた。 「錬成隊の下士官が自由意思によって残留か退院かを決めることを知らされたとき、僕は汪指導員とひそかに賭けたものですよ。僕は、最低三人は残ると思った。汪指導員は、全部退院するだろうと言っていました。結果は杉さん、貴方だけが残った。われわれの賭けは引きわけになりました。が、僕は、たとえ一人でも残留してくれたことに希望を持ちました。いや、一人だけだったので、殊更、強い望みを貴方にかけたんです。これまで他の軍区でも積極的に協力してくれるひとは少なかったので、貴方が、自発的に残留してくれたことに、僕はむしろ感謝しています。――杉さんは、岡野進を、ご存知ですね?」 「岡野?――知りません」 「知らないことはないでしょう。本当の名前は野坂参三、昭和のはじめ、日本から亡命して来たあの偉大な人です」 その、野坂という名さえ知らなかった杉は、龍の思いすごしを、すぐ訂正する気持にもなれず、半ば呆気にとられていた。 ――俺が残ったのは、喰うや喰わずの街の生活がこわかっただけなのだ。 今更そう言ったところで、この男はすぐ信じまい、と杉は思った。 「今度の入学も、僕は他の四人にはさほど期待していません。杉さんだけが、しっかりとわれわれの思想を理解して下されば、それで充分です。貴方なら大丈夫、と僕は思っています」 その日、輪送隊の兵舎に戻ってからも杉は、暫くの間、呆けたように窓際の楡の木肌に目を預けていた。思わぬ位置におかれた自分の存在が、ひどく滑稽に思えた。あのとき、やはり退院すべきだったと改めて後悔したところで、もはや追っつきはしない。と言って、軍側の“評価”を知ってしまった以上、今更、工作をなまけたり、入学を拒否したりしても弁解にもならないし、かと言って、より協力者ぶってみれば、ますます藪蛇になりかねない。一体、この俺にどうしろと言うのだ。杉には自嘲するよりか他に手のないことが、はっきりしてきた。 杉が、臨時看護婦のなかから光江ととみ子を選んだのは、他の十人とは、あまり親しくしていなかったせいもあったが、ひとつには、およそ幹部学校の講義とは縁のなさそうな子持ちと芸者上りを選ぶことによって、軍側の意図を嘲ってやろうとする気持からでもあった。どうせ龍明英は期待していないのだし、誰を入学させても同じには違いなかったが、せめて、勝手な評価をしている民主聯軍の鼻を明かしてやりたいと言う子供じみた思いも手伝っていた。 輸送隊員の人選を、杉は、組長の小池を呼んでまかせた。龍の命令をかいつまんで説明したのち、 「本当を言えば、小池さんに行ってもらいたいんですがね」 杉が遠慮勝ちにつけ加えると、 「わたしが? とんでもない」 小池は、延びた頣鬚をこすりながら笑い出した。 「そりゃ、わたしも、学生時代には左傾していたこともありますがね。今更、講義なぞ聞くのは――いや、講義は、聞くのも、聞かせるのも、もう沢山ですよ。わたしは、生きて還れたら、教師をやめて、ひっそり故(く)郷(に)で暮そうと思っているほどですからね」 そして小池が推薦したのが片桐であった。 「給与委員の、ほら、足の悪い男ですよ」 まだ百人の隊員の、名前と顔が一致しない杉に、小池はそう説明した。 「杉班長も東京出身でしたね。片桐君も東京生れです。実は高等学校が、わたしの後輩でしてね。いい男ですよ、気特のさっぱりした――たしか、まだ三十前の筈です」 その片桐もはじめは厭がっているようだったが、翌日、不服そうな顔で杉の部屋にはいってくると、 「使役には出なくてもいいんですね」 そう念を押してからやっと承諾した。 通学には、食糧購入用の馬車を利用することになり、馭者は、龍に次いで日本語のうまい病院警備隊の副隊長である李が、自分から買って出た。朝鮮出身の李は、それまでにも三、四回、龍につれられて杉の部屋に遊びに来たことがあった。こうして杉たち五人は、きょうから通学することになったのだが、五人が五人とも仕方なく入学することになったとはいえ、いま、中原節子から、改めて抗議されてみれば、杉は、いやでも自分が、誰からも誤解されていることを思い知らねばならなかった。 再び馬車に揺られて病院へ戻る道の両側には、どこから集まってきたのか、三、四十人の兵士が屯ろしていた。馭者台から龍が中国語でそのなかの一人に何か言うと、二、三人がやはり中国語で口早に答えた。口笛をふいて、馬車の女たちに合図する兵士もあった。とみ子が笑顔で手をふると、隣りの節子が露骨に眉をしかめてみせた。光江は隅に小柄な軀を埋めて、ひっそりと、視線を足許におとしていた。 ――君は共産主義に興味を持っとるのか? ――わたくし、共産主義になんか、ひとつも興味がありませんの。 山口中尉の質問と中原節子の抗議を、杉は頭のなかでそっとくり返してみた。杉の学生時代は、すでに大東亜戦争に突入していた。共産主義の本を読むどころか、学校の講義も碌になく、一週のうち五日が、造船所通いの勤労作業であった。野坂参三という亡命者がどれほど偉い人物か、杉には想像もつかなかった。今の杉は、帰国までなんとか生き延びて行こう、と思うだけで精一杯である。寄らば大樹の蔭ではあったが、その樹が何科に属していようが問題ではないのだ。誤解するなら、誤解させておけばよい。とみ子が言ったように一日得をしたとは思わぬまでも、きょうの講義が中止になったことに、吻としたのは事実であった。あすから何を聴いたとて、おそらく自分は、ただ時間をつぶすだけで、身を入れて、彼等の思想を理解しようとはしないだろう。それで、いいじゃないか……。 「龍さん」杉の隣りに腰かけていた片桐が、馭者台に呼びかけた。 「この近くなんでしょう、軍区司令部は――」 「ええ、そこの左の横を入ったところです」 龍が指さしたのは、三階建の洋館にはさまれた細い横道で、道の両側には、銃を持った兵士が立っていた。 「君はよく知っているね」杉が訊くと、片桐はかすかに口辺に笑いを見せた。李のふり上げた細長い鞭が鳴り、馬車はいくらか速度をました。 「あら、あっちからも馬車が来たわ」 とみ子が身をよじってのび上りながら言った。李が馬車を左に寄せた。 「あッ」片桐が腰を浮かして軽く叫んだ。 「班長」横腹をつつかれて杉も腰を上げたが、彼はそのまま棒立ちになった。近づいて来た向うの馬車の中央に、元錬成隊長の山口が腰かけていたのだ。彼を挾んで坐っているのは、民主聯軍の軍服を着た兵士であった。女たちも一斉に立ち上った。 濃緑色の軍服にはさまれているせいか、山口は、相変らずきちんと日本の将校服を着ていたが、それがひどく色褪せて見えた。近づくにつれて山口の頬が、げっそりと削げ落ちているのが判った。杉たちは誰も、ひと言も口をきかなかった。山口の両手が縛られているのに気づいたのは、二台の馬車が道の両端をすれ違う寸前であった。丸刈りの頭を屹っと立てて、山口は皆も裂けんばかりに杉たちを睨みつけた。 「誰なの?」 とみ子が囁くように訊いた。杉は黙っていた。俄かに口がきけなかった。中原節子も血の気のひいた顔をそむけ、大きく息をついて、腰を落した。 「何をしたんでしょう? どうして逮捕されたんでしょう?」 振りむいて片桐が口早に訊いた。むろん杉に判るわけがなかった。 「ねえ、誰なのよ?」とみ子が再び訊いた。 「貴女の知らない人よ。関係のない人よ」 節子が吐き出すように言った。 「あら、それじゃ貴女には関係があった人?」 節子は明らかに狼狼し、あわてて説明した。 「違うわよ。もと病院に居た将校よ」 「龍さん」杉は女たちの話を断ち切るように馭者台へ声をかけた。 「龍さんならご存知でしょう」 通訳はゆっくりとむき直り、馬車の五人を見廻してから言った。 「僕もよく知らないんですが、きのう、スパイが一人捕まったという話を司令部で聞きました」 杉と片桐は思わず同時に振り向いた。山口を乗せた馬車は、ちょうど、司令部への道を曲るところであった。
翌日、昼飯がおわって、そろそろ馬車の用意をしてもらおうと思っていたところへ、龍が息を弾ませて杉の部屋にはいって来た。 「残念ながらきょうも学校は中止です」通訳は軍帽をとって白い額を手甲で拭いながら言った。「二時間後に、また百人ほど入院患者が後送されてきます。輸送隊の内務班を半分ほど空けて下さい」 「此処へ入れるんですか!?」 手巻き煙草を捨てて杉は立ち上った。 「いや、看護婦たちを移すんです。木原婦長には聯絡しました。間もなく看護婦たちが引越して来る筈です」 「そりゃ大変だ」掃除していた戸本が素頓狂な声を挙げると、マットを投げ捨てて部屋をとび出して行った。 「もう満員だからって、開通軍区へ言ってあったんですが――」 龍はそこで急に低い声になると、「戦況が思わしくないのです。若しかするとこの病院も移動するかも知れません」そして、じゃ、お願いします、と龍は部屋を出て行きかけたが、扉のところでふりむくと、 「今の話、聞かなかったことにして下さい」 念を押し、駈け足で去って行った。 内務班から歓声が沸き起った。杉が服のボタンを掛けて部屋を出ようとしたとき、戸本が戻って来た。 「いまの声、聞きましたか」 当番兵は、いくらか昂奮した声で訊いた。 「お前、いつか、言ったじゃないか。カンナどもは俺たちと一緒に住むもんかって」 戸本は忽ち卑しい笑い顔になった。 「ヘヘっ、いやもおうもありませんや、こうなっちまえば――。班長、どうせ、後ろの内務班でしょうね、彼女たちを入れるのは」 「そうするより仕方ないだろう」 「十分もあれば、片づきますよ。連中、がぜん、張り切り出しましたよ」 二段装置、五つにわかれた内務班は、たっぷり四百人は収容出来る。いちばん奥の班を臨時看護婦たちに明け渡したが、まだまだゆとりがあり、隊員たちは、一人が一坪近くを占頷して、それぞれの境界に手箱を据えて“城塞”を築いている。昔どおり、一人の住居を藁蒲団の幅だけに限れば、百人の看護婦に二つの内務班を譲ることは容易であった。 俄かに騒々しくなった兵舎を出て、杉は、左手の鉄条網に沿うて裏山のほうへ歩き出した。柵の向うには、粘土で塗り固めた満人家屋が点在している。隣接の広い空地は、終戦まで歩兵部隊が駐屯していたが、今は兵舎ひとつ見当らない。部隊の撤退と同時に、街から押寄せた満人たちの手によって、兵舎はおろか厩舎まで瞬く間に取り壊され、持ち去られた、という話だった。市街は、その空地からさらに二つの低い丘を距てた向うに展がっていた。 散乱する糞を踏まぬように気を配って、杉は雑草を手で押しわけながらゆっくりと裏山へ登って行った。其処には、ソ聯軍の管理下にあった頃、栄養失調で死んでいった約三百人の日本兵が仮埋葬され、有りあわせの木片に、氏名と死亡月日を認めた仮墓標が並んでいた。 かつて杉と同じ病室に居た者もかなり多く、それらの屍体が、真裸の上に菰をかぶせただけで錬成隊員に担がれ、まだ雪で真白だったこの裏山へ運ばれてゆくのを、杉も幾度か病室の窓から見送ったものであった。 「今に暖くなったら、腐臭で大変だぞ」 屍体が運ばれてゆくたびに病室の患者たちは囁き合った。それは前日まで言葉を交していた戦友への弔詞とはかけはなれた、残酷な言葉だったが、その腐臭の漂う春までせめて自分だけは生きながらえたいという願望が底にひそんでいたのかもしれない。併し、どうしたわけかもう夏がすぐそこまで来ている季節なのに、裏山は不思議と腐臭を発することもなく、今では輸送隊員たちの恰好の散歩道になっている。不潔な異国の兵士たちが発散する悪臭によって、鼻がバカになってしまったのだろうか。或いは、粗雑に葬られた死者たちが、土中で語り合って、わざと臭いを立てぬことで、生き残った戦友たちに復讐しているのかもしれない。 仮墓標から記憶にある名前を拾って歩きながら杉はふと、ただ生きている自分が羞しかった。栄養失調で、消えるように死んでいった戦友たちのなかには、錬成隊員の手を経てひそかに満人部落から手に入れた饅頭類を、杉がいくらすすめても喰べようとしない者がかなり多かった。病院の給与は、一日に、水のような高梁粥が二杯きりである。これでは、何よりも栄養を必要とする患者が、バタバタと仆れてゆくのも無理はなかった。杉は恢復期、私物で売れるものは総て食べ物に換えた。 ――半年前、昂々渓で、シベリヤ行の輸送列車から降ろされたとき、杉は一度、死を覚悟した。杉と同じように車中で発熱した二十人ほどの兵士は、線路わきの地べたに、二列にねかされた。列車は、患者を降ろすとすぐ発車した。熱に喘ぎながらやっと片肘をついて上半身を起こし、杉はどんよりした目で、曠野の涯てに遠ざかってゆく列車の赤い尾燈を見送り、俺もこれまでか、と思った。列車が視界から消えた途端、杉の傍から嗚咽が洩れた。もう白髪のまじった四十すぎの老兵で、延びたごま塩の髯が、頬でふるえていた。老兵は、肩も小刻みにふるわせて、ううっと、咽喉の奥で哭いていた。内地で見なれた太陽の三倍もある夕陽が、日没前のひと際あかるい光りで、そのふるえる肩を赫々と染めていた。 自動小銃を肩からつるしたソ聯兵が三人、杉たちの間を、だるそうに歩いていた。ソ聯兵は、半長靴のへりに、言い合わせたように木製の大きな匙を差していた。目の前をゆくり通過する、手垢でよごれたその匙の柄を眺めながら、俺たちをあの自動小銃で射殺してから、この匙で夕食をたべるんだな、杉は熱にうかされた頭でそう思った。シベリヤヘ連れて行けぬ俘虜なぞ、彼等にとっては全くの無用の長物だからな。杉はもう、あきらめていた。学生時代から病弱で、むしろ兵隊にとられ、これまで持ちこたえてきたことが不思議なくらいであった。冷えた地肌が、熱のある軀に快かった。これが、俺の最後のたのしみかもしれない。掌で両方の腿をしずかに撫でながら、杉は目を瞑った。 幌をかけた大型ジープが、地響きを立てて杉たちの傍に到着したのは、それから一時間も経った頃であった。四囲はもう夕闇に包まれていた。杉はソ聯兵に靴で蹴られ、蹣跚きながらやっと立ち上った。そしてジープに投げ込まれた。他の病兵も次々に乗せられた。 どこかへ運んで、そこで皆殺しか。動き出したジープの上で、折角の地肌の快ささえ奪われた杉は、もうどうともなれと心はすでに死んでいた。だから杉は、この病院に着き、腕を支えてジープから降ろしてくれた白い制服の看護婦に、「しっかり」と、まぎれもない日本語で励まされてもなお、そこが、日本の病院であることが信じられなかった。 「杉班長――」 呼び声に回想から醒めると、汽罐庫の煙突の蔭で、戸本が両手でメガフォンをつくって見上げていた。杉は一気に裏山を駆け降り、余勢をかって、一段低くなった石炭殻の小山の上に跳び降りた。両脚が半分近く埋まった。 「なんでえ、班長も張り切ってるじゃありませんか」 「違うよ」脚を抜いて説明しかける杉へ、戸本が言った。 「龍さんがね、すぐ担架を持って駅へ行ってくれって、いせ催促に来ましたぜ」 「内務班はどうした?」 「女ども、もう引越して来ましたよ。ちょいと、戸本さん、これ運んでよ――なんてぬかしゃがって、病室に居た頃、ビンタをとったことなどケロッと忘れた面で――そうそう、中原節子が、班長を捜していましたよ」 ここ暫く使役らしい使役がなかったせいか、空の担架を提げて駅に向う隊員たちは妙に弾んでいた。先頭に立った杉は、ときどき振りかえってはみるものの、声高に談笑しているそれらの隊員たちに加われない自分の気持を持て余していた。出がけに杉は木原婦長から呼びとめられ、 「わたしもせいぜい気をつけますが、杉さんも注意して下さい」 と、今後の隊員と看護婦間の風紀について釘をさされた。自分を捜していたという中原節子の姿を求めていた矢先きだったので、杉は思わず赧くなって幾度も首肯いてしまった。 節子の用事は、恐らく、幹部学校への入学を龍に断った、というのであろう。そう判っていながら節子と言葉を交す機会を待っている自分に気づいて杉は、婦長が釘をさすのも無理はないな、とも苦笑するのだった。龍が独り合点できめこんでいたとは言え、俺があっさり入学する気になったのも、中原節子が一緒に入学することを知ったためだったかもしれない。相変らずどの家も表戸を閉じた駅への道を進みながら杉は自分を嘲った。一つ兵舎に暮しはじめてもう二十日近くになるが、とみ子を除けばいずれも三十代の臨時看護婦たちとは間違いを起さずに来た輸送隊員も、今度は二十代の若い看護婦たちである。しかも一度は、病室で世話になった間柄だ。木原婦長が、どんなに監視の目を光らせようが、健康を取り戻した若い隊員の感情を抑えることは出来ないだろう。かつては口汚なく罵った戸本でさえ、あんなに浮き浮きしていたではないか。 「山口中尉のことですがね」 不意に後ろから声をかけられて振りむくと、片桐が戦闘帽の下で生真面目な表情をしていた。 「あれから、他の隊員たちにそれとなく訊いて廻ったんですが――」跛のせいか、わざとうえにつき上げているような左肩を並べてきて、 「湖月の連中が、ひそかに病院にまぎれ込んでいるのを班長はご存知ですか?」 「本当かい?」 「中尉につれられて街へ出て行ったまではよかったんですが、なにしろ二百人で、七百人の患者を喰わせるなんて、最初から無理だったんです。街じゃ、自分一人が喰うのさえ精一杯なんですからね。それで湖月の連中、一人逃げ二人逃げて、今じゃ五十人足らずしか居ないそうですよ。患者も六、七十人死んだって言う話です」 「病院に残ったわれわれのほうが、幸福だったっていうわけだね」 「今のところはね」 片桐はちょっと自嘲めいた口調で言ってから、 「その湖月の連中が、一週間ほど前から五、六人ずつ、喰い稼ぎに潜りこんで来ているんです。がつがつして、われわれの残飯まで喜んで喰ってます。此の間まで一緒に暮らしてきた仲だし、彼等だって、好きで街へ出て行ったわけじゃないんですから、われわれも同情して風呂にも入れてやってました。こっちも彼等から街の情報をいろいろ聞くことが出来ますからね」 露地から広い通りへ出ると、クリーム色の駅の建物が、強い陽射しを浴びて、いくらか白っぽく見えた。 「その情報から判断してですね」片桐はちらっと杉を横目で見て、声を落した。 「山口中尉は、部下を喰い稼ぎに出すと同時に、実はわれわれの口から八路軍の情報を得ようとしていたのです。患者の数や負傷程度を執拗く訊く奴が居たので判ったんですが、中尉はどうやら光復軍と内通していたらしいです」 杉には総て意外なことばかりだった。 「本来なら、湖月の連中が入りこんで来たことをすぐ班長に知らせるべきだったんですが、小池さんたち組長が相談の末、杉さんの耳には入れないようにしよう、と言うことになっていたんです」 「僕がすぐ龍さんを通じて八路軍へ報らせると思ったからだろう」 「実は、そうなんです」 片桐は少し困ったような顔になったが、 「自分も、きのうまではそう思っていました。併し、ゆうべ、戸本の口から杉さんが何故、自発的に残留したのか、その理由を――いや理由なんか何もなかったのを知りました」 杉が急に笑い出したので、片桐はちょっと呆気にとられたようだったが、やがて彼も低い笑い声になり、 「もう隠すこともありませんから言っちまいますが、杉さんが隊長を辞任して選挙をしたとき、見え透いたことをしやがるって、われわれはわざと杉さんの名を書いたんですよ」 「やっぱり」 「戸本が当番兵でいるのも、杉さんが断ったのに、奴が自分から買って出たんだそうですね。戸本は言ってましたよ、担架輸送でこき使われるより、当番兵のほうが楽できるからって――」 「僕だって、楽さ」 「杉さんも東京生れですってね。輸送隊のなかじゃ、小池さんと杉さんと自分と、三人きりですよ、東京生れは。もう一度、銀座を歩きたいものですね、――尤も、こんな跛になってしまっちゃあ、昔のように銀座をのすことも出来ないかな」 片桐はまた自嘲をまじえた。 「それより、山口中尉が居なくなったあと、湖月の連中はどうなるんだろう」 「日本人会がなんとかしてくれますよ。われわれには今、単に残飯をあさりに来る奴を大目にみてやる以外、何も出来ませんからね。――あ、呼んでますよ」 広場の向う、駅の正面入口で、龍明英が手招きしていた。 「駈け足」 杉は隊に号令して走り出した。後ろで、担架の金具が、カチャカチャと鳴った。
看護婦が移って来て十日以上経ったが、杉をはじめ輸送隊員は誰も、彼女たちと親しむ機会に恵まれなかった。また毎日のように担架輸送が始まったからである。が、今度の輸送は、駅との往復ではなく、逆に病院の患者を、市の郊外を流れている嫩(ノン)江(コウ)の舟着場まで搬び出す仕事であった。軽傷者はトラックか馬車で、重傷者は一日、十人から二十人ぐらいずつ後送された。市から五十里ほどはなれた嫩(ノン)江(コウ)市と、その手前にある訥(ノン)河(ホウ)という街に病院が開設され、林玉鳳病院長は出張したまま、まだ帰院していなかった。龍の話では、新しく出来た北安軍区衛生部長に近く栄転するらしかった。龍がそっと教えてくれた情報によれば、南満の戦況は、民主聯軍にとって楽観を許さぬものがあるらしく、戦線は松花江を挾んで現在、膠着状態にあるとはいえ、米軍貸与の新装備を誇る国民党軍が、いつ松花江を渡河進撃してくるかわからない、と言うのである。謂わば斉々哈爾にも危険が迫って来たので、民主聯軍は、急遽、北安地区へ患者を移動させることになったのだ。いつか龍が洩らし、慌てて口止めしたことが、現実となったのである。 病院から嫩江の河畔までは、城内を西に突き抜け、さらに龍沙公園の横から延びた一本道を一里半ほど行かねばならない。往復たっぷり五時間はかかる道程だった。 杉たちにとって殆ど初めて見る街の表通りは、至る処にアンペラ掛けの小屋や露店が立ち並び、寿司、汁粉、そば屋など日本人対手の食物屋が、満人の街頭物売りと共にひしめいていた。そして、店と店とのほんの僅かな隙間には、肩から紐でつるした箱に、ひと並べの手製煙草や菓子類を入れた日本人の子供たちが佇んでいる。なかには、よし子とさしてかわらぬほどの幼児も居た。 いつもひっそりした駅への道しか知らない隊員たちは、最初、異様な賑わいをみせているこの街の風景に、担架の蔭から驚異の目を見張った。が、そのうちに、往き交う日本人が総て、明らかに侮蔑のこもった眼差しで自分たちを見詰めているのに気づくと、二回目からは戦闘帽を殊更に深くかぶり、街はずれまで視線を落し続けた。今更、異国の軍隊に使われている身を愧じても始まらなかったが、担架隊は、龍沙公園まで出来るだけ裏路を通るようにさえなった。今までの五倍近い道程である。同人数の交替要員が居ても、肩の痛みは比較にならなかった。心身ともに苦痛な担架隊にとって、龍沙公園はひとつの救いであった。 敷地の広大さでは満洲でも一、二といわれるこの公園の奥深い楡の森で、担架隊はひと息入れる。自然を巧みにとり入れた美しい景色に、心の汗まで拭われるようであった。あとは左右に緑野の展けた一本道を行けばいいのだし、その道では、日本人と逢うことも殆どなかった。対岸が霞んで見えるほど幅広い嫩江河畔も、杉たちには眩しいほどの美しい眺めであった。右手にこんもりした森があり、 「あの森のなかに、河の神様の廟があるんですよ」 と、最初のとき、道案内かたがた警備に当った李が説明した。その廟には、清朝時代、此の土地に派遣された黒竜江将軍が献納した額があり、三十年ほど前までは、廟を中心に河畔一帯に盛大な祭りが毎夏、繰り展げられたという。 「三年ほど前に、此処に来たとき、ちょうどその祭りが復活しました。大へん、にぎやかでした。今年も、近く、はじまるそうです」 龍にくらべると、いくらかぎこちない発音で語りながら李は、肩から吊した銃を、さも邪魔そうに背へ廻した。銃は、かつて杉たちが、陛下から賜ったものとして大切にあつかった三八式歩兵銃である。菊の紋章は潰され、遊底覆いも床尾板も疵だらけで、病院の警備隊員が、そんな銃を邪慳にあつかっている様子を目撃するたびに、杉の唇は自然と歪むのだった。いつか杉が、舎前の庭で、戯れに李から借りた銃で寝撃ちの姿勢を示したとき、 「班長、今でも闘いたいですか」 李は真面目な顔でそう訊いた。杉があわてて起き上ると、 「日本の下士官が強かったの、わたし、よく知っています」 そして、もう一度、今の恰好をやってみせてくれ、と言って杉を困惑させた。 舟着場には、五十トンほどの戒克が横づけにされて、杉たちの到着を待っていた。はしけを渡って船艙に患者を移し終えると、隊員たちは土堤に長々と寝ころぶ。青い空を見上げ、雲を眺め、少し頭を起こし対岸の緑へ目をやる。広大な河に沿うて、土堤は涯てしなく続いている。この土地に危険が迫っていることなぞ、全く嘘のようにのんびりした眺めであった。或は龍が脅かしたのではないか。杉はそう思いたい。この担送のお蔭で幹部学校への入学はうやむやになってしまったし、積極的に近づいてくる片桐とも親しくなれた。少くとも自分にとって、理解者が一人殖えたのだ。龍の話だと、東京は殆ど焼野原だというが、やはりこの目で確かめてみたい。恐らく母は、家もろ共焼死しただろうが、いつか片桐が言ったように、もう一度、銀座を歩くことが出来るだろうか。 杉は、銀座の鋪道を中原節子と肩を並べて歩いている自分を想像して、草むらのなかで独り赧くなることもあった。
四の章
石版刷りの細長い五十円札が四枚――それが、院内の日本工作人が民主聯軍からはじめて貰った給料であった。龍明英から一人ひとり手渡されたとき、 「これ、本当につかえるんですか?」 隊員の一人が露骨に訊いた。 「大丈夫、街では、もう立派に通用しています」 龍は別に慍った色も見せなかったが、杉も裏をかえして見たり電燈にかざしたりして、ちょっと信じかねた。赤い大きなソ聯軍の軍票や、満洲国紙幣を見慣れていたので、見るからにちゃちな、玩具のようなその紙幣が実際に役に立つとはすぐ考えられなかった。配り終えると、龍は微笑してつけ加えた。 「心配ありません。来週から、日曜日の外出を許可しますから、まあ使ってみて下さい」 はじめて隊員たちは歓声を挙げた。 「皆さんのお蔭で、患者の後送も殆ど終りました。暫く休養して下さい。近く患者と工作人合同の演芸大会を開く準備も進めております。そのときは、皆さんの珍芸をとっくり拝見させてもらいます」 「龍大人、謝々」 戸本がおどけたので、隊員たちはまたどっと笑った。 半月ほど続いた嫩江河畔までの輸送も一段落して、非番の看護婦たちが内務班や裏山で、隊員たちと語り合っている姿もよく見かけるようになっていた。接収以来、丸三月ぶりで院内には、和やかな空気が流れはじめていた。龍も暇になったらしく、日夕点呼後、よく杉の部屋にやって来て、長い間お喋りをしてゆく。片桐や小池もまじえ、ときには中原節子やとみ子も座に加わった。 収容患者が半分以上も減ったので、とみ子たちは仕事がなくなり、最近では輸送隊員のために専ら縫い物をしている臨時看護婦もあった。相変らず痩せてはいたが、もうすっかりどの隊員とも親しくなったよし子は、小池たち年配の隊員の膝にのって、可愛い声で教わった童謡を唄い、ときには、彼等に望郷の想いを募らせるのか、ふっと席を立つ者もあった。戸本と共に、杉も気づくかぎりよし子に食物を頒け、給与委員の片桐と相談して、よし子だけに特別食をつくらせたりした。そのお礼か、光江がいつか黙っていても杉の下着類を洗濯してくれるようになった。 「よして下さいよ。俺の仕事を奪(と)るのは」 戸本が抗議したが、光江はとりあわず、近頃では、杉の部屋の掃除もする。無論、戸本よりも行き届いていた。 「お前を馘にしようかな」 杉が揶揄うと、 「班長、光江さんが女房に似ているのを忘れちゃ困りますよ」 戸本はもう、はっきりと嫉妬の言葉を口にした。それが面白くて、 「だから、さ」 「ちえッ、女房の写真なんか、班長に見せるんじゃ、なかった。班長はね、中原節子を追っかけていりゃいいんですよ」 今度は杉が周章(うった)える番であった。 龍もすでに気附いているらしく、杉の部屋にやって来ると、 「戸本さん、僕が用事があるからって、中原看護婦を呼んで下さい」 例の悪戯っぽい目で杉をちらっと見る。赧くなるまいとすると、かえって頬に血がのぼり、杉は上気した顔の遣り場に困って、わざと寝台の毛布を畳み直したりした。 節子が現れると杉は、援軍を求める気持で戸本を片桐の許に走らせる。杉は、節子を前にすると、殊更に片桐と東京の話をした。全国に名を知られた有名店やデパート、或はうろ憶えの銀座裏の喫茶店の名前などを口にして、 「還ったら、何をおいても一緒に銀ブラしよう」 などと、いかにも懐かしげな口調で語った。銀座に限らず、東京の話になると、中原節子の瞳がきまって憧憬にうるむのを杉は知っていた。北陸の田舎女学校から日赤の看護婦養成所を経て、すぐ北満の部隊に配属されたという節子は、 「女学校の修学旅行のとき、たまたま病気になって、東京見物を仕損なってしまいましたの」 と、いつか残念そうに語ったことがある。今の杉に、節子の前で誇れるものがあるとすれば、自分が東京生れだということだけであった。 ――入隊前の、もうすっかり物資の乏しくなっていた頃、杉は、配給以外の食糧を手に入れるために幾度か身を削るような苦労をし、そのたびに、亡父も母も東京生れであることを、恨めしくさえ思ったものだ。故郷を持つ、丸々と肥えた友人たちが羨ましかった。亡父は「杉家は儂で三代つづいた、本当の江戸ッ子だ」と、よく自慢したが、そんな自漫が、なんの腹の足しにもならないことを、四代目の杉は思い知っただけである。初年兵時代も杉は、「東京生れのひょろひょろ兵隊奴」と、見るからに筋肉たくましい班附上等兵に目の敵にされた。殴られると杉の軀は、上等兵の期待どおり、他の新兵の二倍近くもふっとび、他愛なく内務班の隅に仰向けにひっくりかえった。 その、忌わしいだけであった東京生れが、今の杉には、節子に対する唯一の武器となっていた。明治神宮外苑の厳かな美しさや、日比谷公園のあでやかな花壇の模様を語るとき、今はもう、それらの総てが灰燼に帰しているだろうと思いながら、いやそう思えばこそ杉は、ますます熱っぽい口調になるのだった。嫩江河畔の土堤で空想した節子と一緒に東京の街を歩いている姿が、次第に、祈りにも似た願望となって、杉の胸裡いっぱいに充ち拡がり、俺はどんなことがあってもこの女と一緒に内地へ還ろう、と杉は烈しく心のなかで喘ぐのだった。傍の龍は、終始穏やかな微笑を湛えて、杉や片桐の話にうっとりと聞き入っている節子の横顔を眺めていた。 消燈時間が来ると、木原婦長の目をおそれてか、節子は名残り惜しそうに部屋を出て行くのだが、その白い制服の影が扉の向うに消えると、 「やっぱりナンバーワンですね」 龍はまた揶揄するように杉を見てから、 「あの美貌が患者たちの諍いの因になったので、幹部学校へ入れて少しでも患者との接触を避けようと計ったんですよ。ところがあの翌日、なぜわたしだけ入学させるんですかって、えらい剣幕で突っこまれましてね。まさか貴女が美しいからとも言えず、あのときは流石の僕も閉口しましたよ」 「そう言えば龍さん、幹部学校は閉鎖になったそうじゃありませんか」 片桐が糺すと、通訳はちょっと口籠ってから言った。 「新しい軍区の教育を先きにすることになったのです。いずれまた講師たちが帰ってきたら、皆さんに改めて入学して貰います」 節子が去って急に張りを喪った心のなかで杉は、俺はもう二度と行くもんか、と呟き、この平和な状態が帰国する日まで続いてくれれば何も言うことはないんだが、と思うのだった。 片桐の話では、看護婦たちが移って来てから湖月の喰い稼ぎ組も影をひそめ、代って、夜、脱柵して街へ酒を飲みに行く隊員がふえはじめたということだが、今更、隊長として杉が注意することもなく、また今のところ事故が起きるような気配もなかった。やがて外出日がきまり、演芸会でも開かれれば、この病院に残留したことが、いやでも幸運だったと信じられるようになるだろう。あのとき、他の班長の意思を聞く暇もなく、真っ先に山口中尉に指されて残留を希望したことが、結局は運がよかったのかもしれない。このまま民主聯軍側の過評に乗じて、せいぜいこの龍とも仲好くしていこう。それがどうやらいったん賢明な道のようだ。杉はそんな風にも考えるのだった。――
「杉さん、輸送隊員を至急娯楽室に集めて下さい」 ノックもせずにとびこんできた木原婦長が、切迫した調子でいきなり告げた。二日後に待望の演芸会を控えた朝であった。寝台の上で食後の一服をたのしんでいた杉は、すでに目が血走っている婦長の顔に、驚いて身を起こした。 「一体、なんです?」 「私からは申上げられません」 頬をひきつらせて木原婦長は言った。 「大急ぎで日本人全員を集合させろと、橋本軍医殿の命令です」 「橋本軍医が?」 「お願いします」木原婦長は、スカートを蹴って部屋を走り出た。 「なんでしょう? 班長」戸本が眉を寄せて訊いた。 「判らん。だが橋本軍医がなんで今頃……」 「とも角、ベルを押して来ます」 戸本も小走りに部屋を出て行った。接収以来、表立った発言をぴたりとしなくなった橋本の態度を気にかけながら、杉はこれまで直接にその理由を問い糺す機会を持たなかった。ひょっとするとあの軍医こそ、民主聯軍の思想に共鳴して黙々と協力しているのではないかと思ったこともあったが、龍もあまり接触しないらしく、通訳の口から橋本の話をきくこともなかった。その橋本の突然の命令である。木原婦長のあわてぶりと併せて、何か容易ならぬ事態が起きたことは想像出来たが、ここ数日の、日々是好日といったのんびりした日常からは、その内容をすぐ推し測ることは難しかった。 兵舎から内科病棟内にある娯楽室へ駈け足で集合してゆく隊員たちのあとから、杉は、じわじわと湧いてくる不安な想いを抑えて殊更にゆっくり足を運んだ。もうすっかり夏になった陽射しが、舎前の広場一杯に溢れ、表門の衛兵所の傍では、銃を抱えた二、三人の警備兵が、木蔭に腰をおろして居睡りしている。 病棟に入ると、相変らず悪臭がすぐ鼻を衝いてきたが、患者の減った病室はどこもひっそりしていた。 娯楽室には、すでに全員が整列を終え、杉の姿を認めると、輸送隊の最前列に居た小池がつと寄って来た。 「今朝の点呼には、たしかに全員居ましたね」 杉はぎょっとして訊き返した。 「誰か脱走したのか」 「いえ」と小池は」言った。「いまも調べましたが、たしかに全員揃っています。まさか、夜の脱柵を――」 「そんな小さな問題じゃないだろう」 「じゃ――」 俺にも判らない、と杉は無言で頸を振った。二日後の演芸会の準備で、表面の舞台には、色テープが天井からつるされ、右手の隅には、劇の背景につかうボール紙をつなぎ合わせてつくった松が立てかけてあった。片桐の発案で、中原節子が天女に扮する「天の羽衣」は、最も前人気を呼んでいる。ガーゼを縫い合わせた「羽衣」もすでに出来上り、それをまとって舞う節子の肢態を、杉もひそかに楽しみにしていた。 橋本軍医が、背をこごめて室の入口に姿を見せた。私語がぴたりと熄み、室内に重苦しい空気が充ちた。軍医の眉の間には、深いたて皺が刻まれている。一同をちらっと見廻してから橋本は、重い足どりで舞台にのぼった。 「終戦以来、もう一年になります」軍医は、足許に視線をおとしたまま低い声で言った。 「その間、三つの軍隊に忍従して、帰国する日を待っていた皆さんに――」そこで言葉を切り、橋本ははじめて面をあげ、壇上から杉たちを見降ろしたが、すぐまた目を伏せた。 「これから、私は、まことに口にしがたい命令を伝えなければなりません。――実は昨夜、突然、嫩江軍区の隣衛生部長によび出されて、実に容易ならざる命令を与えられました」 一同は固唾をのんで壇上の軍医を見守った。橋本の鼻下の髭が心持ちふるえているように杉には見えた。 「――今般、軍区司令部の命令によって、当病院に残っている患者を総て北安軍区へ後送することになりました。つまりこの病院は閉鎖になるのですが、同時に、日本工作人は、輸送隊を除き、三個医療小隊にわけて逐次、患者と共に訥河へ向って出発すること、また医療小隊の編成は日本側に一任する、と申渡されました」 嵐の前の静けさだったのか! 穏やかな微笑を湛えた龍明英の顔がふっと泛び、杉は急いでその顔を追い払った。憤りに似た思いが、胸の底から衝き上げてきた。看護婦の列からざわめきが起った。橋本軍医は、それを抑えるようにやや声を大きくした。 「不肖橋本、病院の日本人代表として、この命令だけは生命にかえても拒否する肚を決め、その旨、きっぱりと回答致しました。併し、隣部長は頑としてきき入れず、お前が編成出来なければ、軍側でこれを行う。またどうしても命令に従わねば、直ちに斉々哈爾市の全日本人に対して、あすから市中の通行禁止ならびに一切の商取引を禁止する、とまで言い出しました。やむなく回答を保留して帰院したのでありますが……」 まだ何か言いたいことがあるらしく、軍医の唇はひくひくと痙攣している。 看護婦たちはみな蒼白な顔になった。 「軍医殿」輪送隊の列の後尾から誰かが声をかけた。 「われわれは、どうなるんですか」 橋本は顔を起こして答えた。 「患者の後送が済み次第、輸送隊は解散になります。手当も出すと言っていました。併し……」軍医は再び声を高くした。 「問題は看護婦諸君です。無論、全日本人の通行禁止などは、大袈裟な威嚇に過ぎないと思います。が、実はこの病院が接収されましたとき、私が看護婦諸君の留用を拒みましたところ、やはり今回と同様な脅迫を与えられたのです。私が接収後、医者としての任務以外の発言を控えてきましたのも、実はそのためでした。帰国出来る日がくるまでは、なるべく彼等の機嫌を損ねず、おだやかな日を送ろう、私は私なりにそう念じてきました。今回も多分、単なる威嚇とは思いますが、併しわれわれがここで彼等の要求をはねつければ、今後、この街の日本人に対して、どのような圧迫が加えられるか判りません。そのために帰国の日がさらにのびるようになるかもしれません。これ以上、北上することは、万一日本人の引揚げが開始された場合、置き去りにされるという不安がないこともありませんが、これについては民主聯軍側は、責任を持って帰国の便を図ると約束しております」 語るにつれて橋本の声は弱くなってゆく。龍明英はなぜ俺に黙っていたのか。なぜひと言ぐらい、事前に洩らしてくれなかったのか。いつか、この病院も移動するかもしれませんとは言っていたが、あれは患者だけの話ではなかったのか。それも、こんなに事態が切迫していようとは――そうだ、あのとき、わざわざ口止めしたのは、龍のほうでは看護婦も連れて行くことを、仄めかしたつもりだったのかもしれない。杉は己の迂闊さに唇を噛んだ。 「――帰国についての保証を、どこまで信用するかは別として、われわれはいま、いやでも彼等の命令に応えなければならない破目に陥りました。犠牲という美名にかくれて、君たちに当地よりさらに奥地に向って出発してくれと頼むのは、私としても断腸の思いでありますが、どうか斉々哈爾在住五万の同胞の生活を護るために、目をつむって従ってはもらえないでしょうか――無論、私も一緒に行きます」 すでに哀願にかわってきている軍医の言葉に、看護婦の列から、はやくも嗚咽が洩れはじめた。輸送隊員も皆うなだれて、誰も口を開こうとはしない。二日後には、華やかな歌声や矯声でみたされる筈の娯楽室が、いまは葬儀場のように暗く、沈んでいる。ペンキ屋だったという隊員によって巧みにつくられたボール紙の松を、杉は凝視していた。その松の枝に掛けられるガーゼの羽衣を持ち去る漁夫の役を、杉は演じる筈であった。もう中原節子の舞い姿は見られないんだ。胸の裡にあるものが憤りなのか、哀しみなのか、杉には自分でも判然としなかった。左側の看護婦の列には節子もならんでいるに違いない。だが杉は、そのほうへ頸をめぐらすことも出来なかった。 「軍医殿、いやですッ」 突然、その列の一人が叫んだ。同時に、わっと女たちの泣き声が室一杯に溢れた。天井から吊り下げられた色テープが、かすかに揺れた。壇上の軍医は、いまにも前のめりに倒れそうに、さらに深くうなだれた。
「中原看護婦が裏山で待っていますよ」 戸本に耳打ちされたのは、夕食が終って、そろそろ夕闇が部屋のなかにしのびこんで来る頃であった。 「班長だって待っていたんでしょう、早く行ってやりなさいよ」 わざとのろくさ上衣の袖を通す杉を戸本はせき立てた。昼間、看護婦たちは全員、奥の内務班にとじこもり、昼食にも夕食にも、食堂に姿を見せたのは三分の一にも足らなかった。杉は夕方まで、苛々した時間を持て余した。龍の部星に、戸本を二度もやり、自らも三回足を運んだが、通訳は多忙を理由に、とうとう杉に逢おうとしなかった。今になっては、何を言っても手遅れとは承知しながら、杉はやはりひと言、龍に言いたかったのだ。 ――貴方が日頃口癖にしている和平や平等はどうしたんです! 所詮は曳かれ者の小唄であろう。だが、なぜきょうの命令をそっと自分にだけでも教えてくれなかったのか。杉はまだ、それが口惜しかった。加えて、近日中に別れなければならない節子と言葉を交す機会の摑めぬことが烈しく苛立たせた。 「われわれは本当に街へ出られるんですかね」戸本の問いに、 「そうさ、用がなくなればお払い箱だよ」 杉は吐きすてるように答えた。 「臨時看護婦も解散になるそうですよ」 「お前、街に出たら、光江さんと一緒になるつもりかい?」 「まさか」戸本は照れたように寂しい笑い顔になった。 「班長も、せっかくあの看護婦と仲好しになれたのに――。あの女は美しいし、なんと言ってもいい軀をしていますよ。班長、憶えていますかい、女は何よりも軀が第一――」 「わかったよ」 「それを、可哀想に、もうお別れか。せいぜい別れを惜しんでいらっしゃい」 杉はふと、戸本までが憎かった。 柵に沿うて小走りに丘へ登ると、崩れかけた屍体安置室の建物の蔭で、白い制帽が薄闇に浮んでいた。杉は呼吸を整え、跫音を殺した。節子は両手を鉄条網にかけ、灯の入った満人部落のほうをじっと見詰めていた。 「杉さんは、行かないのね」 訊いているのではなく、自分に言いきかせている語調だった。杉は返辞が出来ず、節子と同じように鉄条網に掌をそっと載せた。 「羨ましいわ」 「内地へ還れないのは、どこに居たって同じですよ」 「気休めはよして。行ったら、もう絶対に還れないわ」 「そんなこと――」杉は言葉につまり、針金を握りしめた。節子との間に張られた鉄条網の下のほうに、明らかに故意にねじまげた破れ目があった。雑草もそこだけむしられている。恐らく隊員たちは、夜、ここから脱柵していたのであろう。 「中原さんは、街に誰か知っている人はいないの?」 「居ないこともないけど、なぜ?」 はじめて節子が顔を向けてきた。 「別に――」杉は、その顔からも、鉄条網の破れ目からも目をそらして言った。 「僕も訥河行を志願しようかな」 「およしなさい、冗談は。杉さんは内地へ還りたくないの?」 「そうじゃないけど」 「わたくしね、内地へ還れたら、是非一度、杉さんに東京見物をさせて貰おうと、それを一ばんたのしみにしていたのよ」 「中原さん」 杉が手を離すと、鉄条網は、かすかにふるえた。ふるえは、節子のほうへ伝わっていった。 「でも、もう駄目ね。わたくし、なんで看護婦なんかになったのかしら」 「中原さん、僕は――」杉の咽喉はもう渇き切っていた。 「あしたの朝、編成が発表になるんですって。流石の木原婦長さんも泣いていたわ。わたしは泣かないわ。泪なんかひとに見せないわ。この病院、辛いこともあったけど、ここ十日間は本当に愉しかった。わたくし、杉さんには感謝しているの」 節子は夕闇のなかで唄うように喋りつづけた。昂ぶった杉の感情を、喋りつづけることで必死に堰きとめているようだった。 ふと人の気配を感じて杉は振りむいた。墓標の間から、警備兵らしい影が、こちらをうかがっていた。節子も気づいたのか口を噤んだ。杉が一歩、節子に近づこうとしたとき、 「さようなら」 耳朶を熱い息がかすめ、節子の躰は杉の傍をすり抜けた。丘を駆け降りてゆく白い制服は忽ち、闇に吸いこまれた。
杉は、その夜、はじめて白酎をのんだ。 最初のひと口は、鼻をつまみ、目をとじて含んだが、含むと同時に烈しくむせて吐き出した。戸本が止めたが、杉はきかずにコップを呷った。今度はむせなかったが、咽喉が焼け、胸が焦げた。三口目を嚥み下したとき、杉の目尻には泪がたまり出していた。もう一杯持ってこい、と戸本に命じたとき、杉はもう完全に酔っていた。後頭部が疼き、上体が大きく揺れた。 「俺は騙されたんだ。通訳を呼んで来い。龍は居ないのか」 顔をくしゃくしゃにして泣く杉を、戸本はねじ伏せるように寝台に倒した。杉は、片桐と小池の顔が自分を見降ろしているのを知っていた。輪郭のぼやけたその二つの顔に、 「帰れ、君らには用はねえぞ!」 呶鳴った拍子に、ぐっと咽喉にこみ上げてくるものがあり、抑えきれず、杉は嘔吐した。どろっとした酸っぱい液体を寝台の上にはき出すと、杉は自分の体が深い穴に陥ちこんでゆくのを感じた。 ――気づくと、瞼が重く、無理に開くと膜がかかったように室の壁が遠かった。頭をふると、後頭部に鈍痛が残っている。 「目がさめたの? 気分いかが」 女の声がして、膜がとり除かれた。濡れ手拭であった。のぞきこんでいる女の顔が、光江だと判るまで二、三秒かかった。 「駄目、寝ていらっしゃい」 起き上ろうとした杉を女の手が抑えた。烈しい羞恥に襲われて杉は毛布の中で両膝をすり合わせた。 「いけないわ、のめないお酒なんか、おのみになって」 枕許の椅子に坐り直した光江が微笑みながら衿許をそろえた。白地に朝顔を染め抜いた浴衣だった。眩しくて、杉はまた目をとじた。 「戸本さんに頼まれましたの。片桐さんたちも心配していらっしゃったわ」 改めて醜態が羞しかった。そっと毛布に指を這わすと、誰が始末をしてくれたのか、穢した箇所は綺麗に拭きとられて、いくらかしめり気を含んでいるだけであった。 「杉さんはまだ坊やなんだもの、大人の真似をしてはいけませんわ」 なぜ、今夜の光江はこんなになまめかしいのだろう。言葉も物腰も、いつもと別人のようであった。間近かに見る浴衣姿のせいだろうか。杉はふと、彼女たちが初めてこの病院に着いた夜、龍と一緒に幕代りの毛布をはねのけた瞬間、その場に立ち竦んだことを思い出した。あのときから俺は、女への羞恥を呼び醒されたのだ。そして――。 杉はまた咽喉に渇きを覚えた。頸を廻して枕許の手箱を見た。其処に、小さな薬罐が置いてある筈であった。 「ああ、おひやですね。ご免なさい、気がつかなくて」 光江は気軽に立って室の隅へ行くと、コップに水を注いだ。ついでに濡れ手拭を細い指で軽くしぼり、それをまた叮嚀にひろげて四つに畳む。コップを受けとったものの、杉はなぜか手がふるえて、口へ運ぶまでに二、三滴こぼした。 「まだ酔いが残っているのね。わたしがのませてあげましょうか」 濡れて冷たい左手を、杉の手ぐるみコップに添え、右手は杉の背の下に差し入れて、意外に強い力で上体を起こしてくれた。寝台の端にかけた光江の横腹が、杉の脇にぴたりと寄った。背を支えた手とは逆なぬくもりが伝わって来た。近々と迫った目が微笑っている。一気にのみ干したが、杉の咽喉はまだ渇いていた。酔いざめの渇きばかりではないようだった。クリームでもつけているのか、女の肌の匂いが強く鼻を摶った。杉は逆上した。 朝顔を鼻先きでかきわけて、杉は、光江のはだけた胸に顔をこすりつけた。女は、くすぐったそうに身をよじり、低い嬌声をあげたが、やがてその右手が、杉の背から這い上り、しっかりと頸を捲いた。「よし子が……」そんな呟きを耳許できいたようだったが、杉はもう、獣になっていた。 杉が二度目にはっきりと目醒めたのは、夜が明けはじめた頃であった。しっかり抱いていた筈の光江の軀はなく、後頭部の疼きも去っていた。蘇えった己の行為に、杉は思わず起き上った。その目に、扉を後ろ手で締めた龍明英の長身が映った。ぎょっとして目を凝らすと、龍も、杉の顔を睨み据えていた。薄明りのなかで、二人は、お互いの顔を見詰め合った。そのまま、二、三秒経った。 「杉さん、貴方だね」 龍が抑揚を殺した声でぽつんと言った。 「何がです?」 「しらばっくれないで下さい」 何を言っているのか杉には解らない。 「中原看護婦を、貴方は逃がしたね」 「なんですって!」 耳を疑った。急いで寝台をとび降り、足先きでスリッパを捜した。なかなか指先きが触れなかった。 「杉さん、本当に知らないの?」 龍の目が、ふっと和らいだ。一、二歩、部屋の中へ歩み寄ってきた。襟許から白いカラーが覗いていた。“さようなら”耳底に残っている節子の囁き。闇に吸いこまれて行った白い帽子。 「いつです、本当ですか、龍さんッ」 杉の声は嗄れていた。 「二時間ほど前、中原節子を入れて三人の看護婦が逃亡しました。警備隊をいま、叱ってきたところです。すぐ市中に手配しましたから、まあ捕えられるとは思いますがね」 龍はもう一度、杉の目を覗き込んだ。 「知らなかった――」それは無論、龍への弁解ではなかった。烈しい、遣り場のない悔いが杉の全身を襲った。 「たとえ捕えられなくても」龍がゆっくり言い、そこでふと語調をかえた。「勿論、杉さんは今度も残留するでしょうね。輸送隊と臨時看護婦は一応解散になりますが、希望者は新しい軍区へ連れて行きます。杉さんが、隊員のなかから、四、五人引き抜いてくれるといいんだけど」 「龍さん、僕は」 「無理なら、片桐さんだけでもいいですよ」 すでにいつもの親し気な表情に戻っている龍へ、 「いやだッ」 杉は、自分でも驚くほど大きな声を浴びせた。 「もう、いやです。僕は今度こそ街へ出ます」 通訳は、ニヤッと笑った。 「冗談はよしましょうよ」 「あんたこそ、冗談はよしてくれ」 杉は再び昂ぶってきた感情をたたきつけた。龍はまだ笑い顔であった。 「どうしてそんなに昂奮するんです。杉さん、あんたはまさか、本気で中原看護婦を……」 言いかけた通訳の横を、杉の躰が駈け抜けた。 「待ち給え、杉班長!」 何か大きな力で後ろから押しまくられているように杉は廊下を走った。内務班の入口に立っている男にぶつかりかけて、杉はやっと立ち停まった。小池であった。 「片桐は、片桐は居ますか」 小池は顔をそむけ、呟くように答えた。 「それが、二時間ほど前から居ないんです」 「居ない!?」 「厠に起きたとき気づいたんですが、それっきり見えないんです。いま、あんたに知らせようと思って」 杉は眩暈を覚えた。傍の柱に縋り、やっと堪えた。小池の延びた不精髭が、明るみをましたなかで、なぜかひどく赤茶けて見えた。 「班長が寝たあと、光江さんに暫くあとをたのんで、僕ら、隣り合わせた寝台にもぐったのですが」 その光江という言葉に、杉はまた、火のような熱いものが全身に襲ってくるのを感じた。 「捜すなら、自分も一緒に行きます」 小池が後ろから声をかけたとき、もう杉の躰は兵舎の入口にむかって烈しい勢いで走り出していた。入口の横でとびすさった者があった。杉にはもはやそれが龍明英であることもわからなかった。 ――莫迦ッ、莫迦ッ。 喚きながら、杉は笑いていた。光江の、のけぞった白い喉と、節子の白い制帽が重なり、うっとりと自分の話にきき入っている節子の瞳と、せつなげに見上げている光江の目が交錯した。後ろで自分の名をよんでいる龍の声を聞いたように思ったが、杉は駈けることをやめなかった。とまれば、その場に倒れてしまうに違いない自分を知っていた。すでにスリッパも脱ぎすて、杉は、跣で裏山への坂を、駈けつづけた。節子と片桐は、あの、ねじまげた鉄条網から逃げだしたに違いない。 「とまれ!」 意外な近さから声がかかった。龍のものではなかった。杉はまだ駈けつづけていた。 「とまれッ、とまらないと、撃つぞ」 仮墓標の間に、銃を構えた李の姿をみつけたとき、何かにつまずいて杉の躰は地に這った。後ろで龍が、中国語で李に何か叫んでいた。犬のように舌を出して杉は顔を起こした。二十米ほど先きの鉄条網には、前夜見たときよりも、さらに押しひろげられた穴が、開いていた。その空間から、満人家屋のものらしい炊煙が、ゆっくり立ちのぼっている。地面に倒れたまま杉は、朝空にひろがってゆくその煙りを、じっとみつめた。――
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