日本工作人 第2部 |
『日本工作人』
第二部 一の章 扉が静かに開いた。が、三寸ほど開いたままで、誰もはいって来ない。また一寸ほど開いた。遠慮深い押し方であった。 光江? 杉は心の裡で身構えた。あの夜以来、光江とは努めて顔を合わさないようにしている。たまたま廊下で逢っても、俯いて気づかないふりをした。光江のほうも、杉が避けているのを充分に知っている筈であった。 また少し扉が動いた。だが、硝子に映る影はなかった。 「誰?」 寝台から腰を浮かしかけたとき、お河童頭が半分、現れた。 「班長さん」 大人たちを真似て、よし子が小さな声で呼んだ。怯えているような目であった。 「なにか用?」 「ううん」やっと扉の蔭から全身を出して、 「はいってもいい?」 杉が首肯くと、よし子は含羞むようにわらい、両手を伸ばして把手を摑んだ。 「いいよ、おじちゃんが閉めるから」 光江に何かことづかって来たのだろうか。杉が手招きすると、よし子は素直に寝台に近寄った。髪の毛がいくらか汗臭い。抱き上げて隣りに腰かけさせ、杉は小さな目を覗き込んだ。 「お母さんが、何か……」 「ううん」と、よし子はもう一度頸をふり、 「遊びに来たの、つまんないから」 杉は苦笑した。自分の思い過ごしが、少し遣りきれなかった。 ――つまらない、か。 杉は立って窓に倚り、広場へ目を遣った。誰も居ない舎前の庭には、明るい陽が徒らに溢れている。風もない。伸びた楡の葉が、じっと動かず、死んだような静けさである。あいだに倉庫を置いた左手の炊事場から、かすかに水音が伝わってくるだけであった。もう昼をかなり廻っているが、食欲は全くない。戸本が運んできてくれた昼食も、箸をつけずに机の上に布をかぶせたまま置いてあった。その布の上の五、六匹の蝿も、貼ったようにじっとしている。 「おなか、空いていない?」 よし子は、目をしばたたいて頸をふり、それから幼い目を一杯に見開いて壁の油絵を見上げた。恐らく以前この病院に入院していた患者が退屈しのぎに描いたものであろう、支那家屋の屋根々々がずらりと並んでいる平凡な風景画であった。全体に灰色のくすんだ色彩で、左の隅の、ある屋根の上に小さな日の丸の旗が翻っているのが目立つ。右の下隅には、ローマ字でスズキという署名があった。多分、鈴木というその病兵は、城壁の上から眺めおろした占領中の祭日風景でも思い出しながら描いたのであろう。今の杉の身辺では、日の丸の旗はこの画の中だけにしかない。入隊するとき、先輩や友人たちが寄せ書きして送ってくれた日の丸は、奉天の弥生小学校に仮収容されていた頃に、校庭で、他の兵隊たちの日の丸と共に焼き捨てた。恐らく輸送隊員の中にも、日の丸の旗を持っている者は一人も居るまい。 油絵から足をぶらぶらさせているよし子へ目を移し、それを再び舎前へ戻して、 ――辛いな。 杉は自分にそっと呟いてみた。じっとしていると、またしても悔恨が襲ってきそうだった。 これまで一度も女としての魅力を覚えなかった光江に、いくら節子と別れの言葉を交した直後とはいえ、なぜ俺は、あんなに狂ったように烈しく求めたのだろうか。酒のせいだと己に弁解してみても、むろんそんなことで誤魔化しきれる過失ではない。あとで小池からそれとなく聞いた話では、あの夜、最初は酔っぱらいを扱い慣れたとみ子に杉の介抱を頼むつもりだったが、とみ子と一緒に部屋に顔を出した光江が、「私がお世話しますわ」と自ら買って出たのだという。そして傍から戸本も「光江さんならかえって安心だ」と言い添えたのでまかせたというのだが、杉はその経緯を聞かされたとき、改めて苦っぽいものが喉にこみ上げてくるような気持を味わった。 光江さんならかえって安心だ――その言葉の裏に、杉は、世馴れた、そしてあの日の事情を誰よりもよく知っている当番兵が、若い自分の酔態が次に何をひき起こすかを予測していたのを知ったからだ。戸本は、誰にでも愛想のよいとみ子に、杉が無体な振舞いを及ぼしかねないと見てとったに違いない。だが、結果は、安全だと信じられた光江のほうが杉を獣にさせてしまったのである。 ――あの夜の光江のなまめかしさ、あれはたしかに媚態だった。あのとき、若し厭なら、俺をつきとばしても遁げ出した筈だ。ひょっとすると光江は、以前から俺に好意を寄せていたのかもしれない。 悔恨を少しでも喰いとめようとしてそんな弁解を試みている自分に気づき、杉はまたしても遣りきれなくなった。 「班長さん」 呼ばれて振りむくと、さっさと寝台に上りこんだよし子が、杉の枕にちょこなんと腰かけていた。 「ね、綾取りしない」 小さな両手の間に、赤い紐がわたされている。 「おじちゃん、出来ないんだよ」 「そう。わたし、上手よ。ほら」 心持ち頸をかしげて、細い小さい指を思いのほか素早く動かしはじめた。杉は二ヵ月前、夕闇の漂う駅のホームでトランクに腰かけていた姿を思い出した。赤茶けた髪や痩せてひ弱そうな軀つきは、あのときと少しも変っていない。スカートから覗く膝小僧も同じである。 ――辛いな。 杉はまた呟いて目をそらした。無心に独り遊びしているよし子を見ていることは、当の光江と顔を合わせるよりも杉には堪えがたかった。 ――俺はこの子にこそ一ばん愧じなければならないのかもしれない。 が、珍しく遊びに来たこの幼児を、どうして追い出すことが出来よう。 「みんなのところ、どうして、つまんないの」 「どうしても」 綾取りから顔を挙げず、よし子は答えた。 そうか、この児も辛いんだな。 橋本軍医の話があってからすでに三日、編成を了えた看護婦たちは、命令が出ればすぐにも出発できる準備を整えてはいたが、そのどの顔も一様に蒼白く、奥の内務班は、このところ全くの“啞”となっていた。が、それにひきかえ、退院準備に忙しい輸送隊員の班内からは、無遠慮な笑い声が絶えず響いて来た。その、はっきり明暗二つに岐れた兵舎内の空気が、子供心にも異様に感じられるのであろう。それぞれに落着かぬ大人たちは、よし子を対手にする余裕を失っているに違いない。杉の処へも、小池と戸本を除いては、隊員は誰もやって来なかった。 戸本の話によると、杉班長が逃亡し損ねて李副隊長に捕まったという噂を、隊員の殆どが信じこんでいると言う。そう教えてくれた戸本も、半信半疑の表情であった。むろん杉は、ひと言も弁解しなかった。特に戸本の前では説明出来るわけがない。 「こうするとそっくりでさあ」と、髷の辺りを指でおさえて見せたあの細君の写真は、まだ当番兵のシャツのポケットに大切に蔵ってあることだろう。その細君とよく似た光江との過失。もし戸本が知ったら――。俺は、三ヵ月の間身の廻りを世話してくれたあの男にも顔むけ出来ない。いや、戸本ばかりではない。たとえ節子が捕えられてこの病院に戻って来たとしても、あのひととも口をきくことさえ出来はしないのだ。光江には後ろめたいが、俺は龍がすすめるように、訥河へ行くべきかもしれない。 ――あの日の午後、憑きものが落ちたように杉が部屋でぼんやりしているところへ、龍は相変らずの微笑を湛えた顔でやって来た。 「杉さん、脅かしちゃ、困りますよ」龍は椅子にまたがるように掛けた。「いいですか、貴方だけは絶対に出しません。いや、脅かされたんで、逆に脅かすのじゃありません。貴方は将来、わが民主聯軍にとって必要な人物なんですからね」 どんなに日本語が上手でも、この男に今の俺の気持が判るわけがない。杉は抑揚のない声を投げ出した。 「直接、汪指導員に話します」 だが龍は、まだ微笑を湛えた顔をゆっくりふった。杉はまた、気が昂ぶってきた。 「いやがる日本人を無理に引とめる権利は、いくら貴方がたでも無い筈です。第一、僕なんか連れて行って、何んの役に立つと思うんです」 「おかしいな。杉さんはこの病院に自発的に残ったんでしょう?」 「それは――」杉はつまった。幹部学校の話のとき、やはりはっきりと告げるべきだった。 「それに杉さんは、一度、隊長を辞任したでしょう。そして選挙でまた選ばれた。貴方の民主的な態度は、知らず識らずのうちに、われわれの思想を理解している証拠です」 「龍さん、お願いです。今度こそ退院させて下さい。僕は街へ出て働きたいんだ」 「働く? 嘘です。杉さんは街へ出て、中原看護婦を捜す気でしょう。無駄ですよ、もうすぐ逃げた看護婦たちは捕まります」 龍明英はすでに勝ち誇ったような表情になっていた。 「汪指導員のほうも、手遅れです。杉斑長は今後も工作に協力してくれますって、もう僕のほうから報告済みですからね。いつも僕が言っているように、この東北に真の和平が訪れたら、貴方だって、われわれと行動を共にしたことを誇りとするようになりますよ。もう少しの辛抱です。まあ見ていて御覧なさい。敗戦国の日本とは較べものにならない素晴らしい国に生れ変りますよ、この満洲は――」 確信を持って言いきる龍に、杉はそれ以上の抗弁も哀願も無駄であることを知ったのだった。 「班長さん、わたし、帰る」 対手になってくれない杉に退屈したのであろう、よし子がそう言って立ち上った。寝台の上なので、目の位置が、杉のすぐ近くにあった。 「おろして」 光江とよく似たその目を少し羞恥しそうにして、両手を差し出した。なぜきょうに限ってこう人懐っこいのだろう。杉はふと、試されているような気さえした。抱き降すとき、初めて背負ったときの、どきっとした薄い腰肉の感触が掌に蘇えった。 「お母さんにね」 自分でも思いがけない言葉が口をつき、杉は狼狽した。扉から半分出かかって、よし子が見上げた。 「――いや、また遊びにいらっしゃい。それから、今度からおじちゃんと呼んでね」 杉の精一杯の愛想だった。よし子が大きくうなずいて廊下を駈け去って行ったあと、杉はぐったりと寝台に腰を落した。 トラックが三台、正門から徐行しながら病院にはいってきた。エンジンの音に、輸送隊員が五、六人、兵舎からとび出して来た。舎前の庭に太いタイヤの跡を刻んでトラックは停まった。市内から徴発してきたのでもあろうか、三台とも、カーキ色の車体は剥げ、一台は、右の前燈ガラスが割れている。運転台の扉を開けて降りてきたのは、いずれも若い日本人のようであった。汚れた軍手で戦闘帽をずり上げ、腰から抜いた手拭で額を拭いながら窺うように病院内を眺め廻している。輪送隊員が何か叫びながら三人の傍へ駆け寄って行った。一人だけは反対に兵舎へ戻ってゆく。杉は窓からそこまで見て、部屋を出た。 内務班は騒然としていた。一人が杉の姿を認めると、 「班長」昂奮した声で呼んだ。広場から駆け戻った隊員である。 「三人とも元錬成隊員ですよ」 「トラックの?」 「ええ、行ってみますか」 すでに十二、三人の隊員が先きを争って兵舎をとび出して行った。杉は反対に奥の内務班の入口まで行き、聞き耳をたてた。境に垂れた灰色の毛布は、光江たちを収容したときからのもので、裾がすっかり傷んでいた。目の高さのところに、明らかに刃物で切った跡があり、その切れ目は叮寧に繕ってある。生地と違う黒糸なのでよけい目立った。 「忘れ物はありませんね」 上ずった声がきこえた。木原フミのものらしかった。誰も答える者はない。 「出発命令があるまで、そのままの姿勢で休んでいて下さい。私は橋本軍医殿に聯絡して参ります。何か質問はありませんか?」 今度も誰も答えず、一斉に腰を降す気配だけがした。私語もない。悲痛な空気が、毛布の向うからひたひたと寄せてきた。杉がそっと戻りかけたとき、毛布がゆっくりまくられ、木原フミが出てきた。 「あ、班長殿」 白い制服の胸に、水筒と救急袋を十字に掛けた婦長は、叮寧に頭を下げた。 「いろいろ、お世話様でした」 緊張で、蒼褪めた顔である。目のふちに雀斑が浮いていた。 「こちらこそ」杉も深く頭を垂れた。「お元気で」 並んで内務班を通り、兵舎を出た。婦長の白い制帽についた赤十字の徽章が、杉の目に痛いほど泌みた。 仕事以外では殆ど口をきいたことのない婦長だが、いよいよ別れるとなれば、やはり名残り惜しい。きょう別れれば、二度と逢うこともないかもしれないのである。病兵でいた頃、同室の患者や担当看護婦から、婦長は少し偏執者ではないか、という噂を杉は聞いたことがあった。事実、軍医の回診に跟いてきたときなど、恢復の遅い患者に、周囲の者が眉をひそめるほど烈しい言葉を浴びせていたのを、二、三度、目撃してもいた。だが、考えてみれば、そうした異常なほどの厳しさも、敗戦後のともすれば乱れがちな秩序を、懸命に保ってゆこうとする責任者として、当然、執らざるを得なかった態度だったのかもしれない。きょうの木原婦長は、小柄だけに、ひどく哀れっぽく杉には見えた。何か冗談でも言って、こわばった表情を少しでも和らげてやりたいとも思うのだが、杉には気をひき立てるような言葉がすぐには思いつかなかった。こんなときは、むしろ黙っているほうがいいのだろうか。 広場で輸送隊員に囲まれて談笑していた運転手の一人が、杉の姿を見つけると、駈け足で寄ってきた。 「班長殿、お元気ですか」 「まあ、日下さん」 木原フミが驚いた声を挙げた。杉にも見覚えはあったが、名前までは思い出せなかった。 「婦長さん、その節は」 昔どおり挙手の礼をしかけて自分でも気づいたのか、運転手は照れて、その手で頭を掻いた。人の好さそうな笑顔だった。まだ二十五、六であろう。陽灼けした顔に、歯が〓い。 「寧(ネエ)年(ネン)まで送るように言われております」 斉々哈爾から四つ先きの駅の名を告げて、 「今度はご苦労さまです。病院は、ちっとも変りませんね。――自分はいま、運送会社に居るんです」 あとは杉のほうへ向いて言った。 「途中、気をつけてやって下さいね。では班長殿、私は」 「いずれあとで」 背をしゃんと立てて本院のほうへ歩いてゆく木原婦長の後ろ姿を、杉は、日下と並んで少時、見送った。水筒の蓋が、陽に小さく反射している。長いスカートの下の、よく磨かれた黒い編上げ靴が、杉には目より先きに胸に泌みた。木原フミの小さな軀には、いま、百人の看護婦を預って出発する重い責任がのしかかっている。未知の土地で、まだ充分に気心の知れない異国の軍隊の許で、あてのない帰国の日が来るまで、この痩せて小柄な女は、その責任を無事に果たすことが出来るだろうか。黒い小さな編上げ靴がかすかな音を立てるたびに、杉は、いまからその重さに堪えかねているように思えるのだった。 「片桐上等兵に――」 並んで立った日下が、杉へ、ふりむきざまに言った。 「逢ったの、君」思わずせきこむ杉に、 「ええ」と日下は首肯いた。「いま、自分のところに居ります」 「じゃあ、中原……」 日下はまた首肯いて、そっと周囲を見廻してから声を落した。 「かくれています。いえ、自分らで隠れ家を見つけて、……大丈夫、まず発見されないでしょう」 「併し、軍のほうじゃ、もうすぐ捕まるって僕に――」 「おかしいな」日下は杉へ疑うような目をむけて言った。 「街の様子から見て、八路軍が特に捜している気配はありませんよ。もう少し、ほとぼりがさめれば、街を歩いたって平気だろうって、自分らは楽観しているくらいなんですがね――実は、自分がこの輸送を買って出たのも、念のため、八路の様子を探ってみようと思ったからなんです。兎も角、きょう、看護婦たちが出発しちまえば、心配はないでしょう」 龍明英はまた俺に嘘をついたのか。たしかにこの男が言うとおり、看護婦たちが発ってしまえば、今後、殊更に逃亡看護婦を捜索するようなことはしないだろう。節子は逃げるとき、ちゃんとそれを計算していたのだ。いや、片桐がそう教えて連れ出したに相違ない。あの幹部学校へ行った日の帰途、馬車のなかで軍区司令部の所在地を龍にたしかめたり、病院に潜りこんで来た「湖月」の連中から、あれこれ情報を蒐めていた片桐のことだ。逃亡が成功する可能性を充分に知っていたのだろう。 「で、片桐は――」 「まだ一緒に棲んではいません」 きっぱりした日下の口調に、何か吻とするものを覚えると同時に杉は、節子に一目逢いたい想いに烈しく捉われた。豊かな胸乳を揺ってこの広場で患者を追っていた節子の姿が、鮮やかに脳裡に蘇えった。切ない記憶であった。 「何か聯絡することはありませんか。輸送がおわったら、すぐお伝えしますけど」 片桐にか節子にか、日下の言うその対手が咄嗟に判断できずに杉は躊躇(ためら)った。と、 「班長殿にくれぐれもよろしくって、言っておりました。中原さんが――」 「あの――」杉が言いかけたとき、戸本をまじえた輪送隊員たちが近づいてきた。じゃあ、と言った顔で日下は杉からはなれると、また手拭で額の汗をふきながらトラックのほうへ足早に戻って行った。幅広いシャツの背に、汗の汚点(しみ)がひろがっていた。杉も手甲で顔をぬぐった。 「あの男、憶えていますか」 傍に来た戸本が小声で訊いた。 「いや」杉が曖昧な顔をすると、 「山口中尉の当番兵」 「ああ、そうだったね」 杉はやっと思い出した。班長室へ最後の集合を伝えに来たのもたしかにあの男だった。 「それがね、班長」 いつもの癖で戸本はそう前置きして、トラックのタイヤを地下足袋で蹴って確かめている日下の後ろ姿を頤でしゃくった。 「湖月から真っ先きに逃げ出したのがあの日下なんです。当番兵のときは、実にまめまめしく働いて、あの口喧しい山口中尉でさえほめていたあの男が――いや、それだからこそ一ばん先きに山口に愛想つかしたのかもしれませんがね。山口中尉は、なんでも銃殺されるって噂ですよ」 「銃殺? じゃ本当にスパイだったのか?」 「五日ほど前の人民栽判で決まったそうですよ」 「人民裁判?」 「これも、もう一人の運転手にいま聞いたばかりなんで詳しいことは判りませんが、なんでも龍沙公園の広場で多勢集まっているところへ引っ張り出され、民主聯軍の偉い奴が、山口中尉の罪状を算え立てて、この男は人民の敵だからみんなで刑を決めてくれって――すると、群集のなかから、銃殺してしまえ、すぐ死刑にしろって声が掛かり、みんなで、そうだ、そうだって、忽ち決まっちまったそうです。街じゃすでに五、六人が同じようにして銃殺されたって話ですよ。尤も、一ばんはじめに、銃殺しちまえって声をかける奴は、いつも決まっていて、どうやら八路軍のサクラじゃないかって噂です。奴等に睨まれたら、みんなこの手で殺されてしまうそうですよ。山口中尉は、湖月へ行くとき、かなりの金と薬品を持ち出したって話ですから……」 「そりゃ当然だろう、あれだけの患者を連れて出たんだから。それがなんでスパイになるんだ」 「いえ、その薬品を、街へ売っ払っていたというんです。日下の話じゃ、光復軍へかなり流していたそうですよ」 「まさかあの日下が密告したのではないだろうね」 楽観的だった先刻の口吻が、杉には急に不安になってきた。あの、人の好さそうな顔も、かえって油断がならないように思えてきた。 「いえ、密告(さし)たのは別の男、やはり湖月に居た患者だそうです。山口があまり横暴なので殺されるのを覚悟で投書したって話です」 併し、杉の心に芽生えた不安は消えなかった。先刻の日下の話を、思い切ってこの戸本に告げ、この男から、片桐と節子の隠れている場所を訊き出してもらおうか。そして、龍をなんとか誤魔化して外出許可をとり、戸本に聯絡してもらう。いや、場合によっては俺自身が訪ねて行ってもいい。そのときの節子の返辞によっては、もう一度、龍明英に泣きついて街へ……。 「お前、中原節子の噂は聞かなかったかい?」 後ろめたい思いを抑えて杉は探りを入れてみた。 「班長には残念ですが、何も。なあに、どこかに匿れていますよ。自分らが街に出れば向うから現れまさあね。俺はね、班長、片桐上等兵は単に利用されただけだと思っているんですよ」 戸本は慰めるような口調で言い、「それより、看護婦たちとも、いよいよお別れですね」ふと感慨深げな声になった。 「あすから輸送隊のなかにも失恋組が四、五人出ますよ。八路の奴、どこまで残酷なことをしやがるのか――」 併し、戸本の口吻には、かつて光江母子のために憤ったときの烈しさは無かった。
身仕度をととのえた看護婦たちが、兵舎から出てきてトラックの前に整列したのは、それから一時間ほどのちであった。 トランクやリュックサックは輸送隊員によって手際よく運び上げられたが、看護婦たちは誰もがひどく緩慢な動作で、車上の人となった。輸送隊員も臨時看護婦たちも殆ど総出で、三台のトラックを囲み、口ぐちに別れの挨拶を車の上へ投げた。車の上からは、億劫気な、短い言葉が応じてきた。 杉は隊員たちから少しはなれたところに、小池と並んで立っていた。杉には、女たちの表情から、先刻内務班で感じた悲痛な気配を看てとることが出来なかった。むしろ看護婦たちの態度には、けだるいようなものさえ漂っていた。仕度を終えてから乗込むまでが長すぎたので、緊張感を喪ってしまったせいかもしれなかった。長すぎたといえば、あの娯楽室で橋本軍医の話をきいてから、きょうまでの一週間も、看護婦たちにとっては残酷な長さであった。啞ですごした一週間が、いざ出発のときになって、彼女たちを痴呆させてしまったのかもしれない。それとも人間は、極度な悲痛さに直面すると、かえって心も躰も反応が麻痺してしまうのだろうか。 龍明英と汪指導員が、三人の運転手を呼んで何か指示を与えていた。二、三歩はなれた場所に、郭医務科長が、微笑して立っている。その傍では断髪の科長夫人が、それとわかる妊娠中の腹をつき出して、車上の看護婦と声高に話していた。以前、看護婦だったという夫人は、五尺そこそこの小柄なので、どうかすると二十歳前に見えることがあった。実際の年齢もせいぜい二十三、四歳であろうが、いつか龍から聞いた話では、彼女のほうが夫の郭秀文より党歴も古く、なかなかの理論家で汪指導員も理論闘争では一目置いていると言う。彼等は、林病院長の肝入りで、斉々哈爾に赴任する少し前に結婚し、夫人は、いま妊娠四ヵ月。いつもは部屋に引籠って滅多に外へ出て来ないが、きょうは夫の郭科長が看護帰隊の輸送責任者として一足先きに出発するので、見送りに出てきたのだ。郭秀文はその容貌にふさわしい温和な性格で口数もすくなく、日本の看護婦たちにも評判がよかった。それだけに夫人にすれば、新任地へ独りで行く夫が心配なのかもしれない。 杉は一度、医務局内で夫妻が口論しているのを廊下の通りすがりに見たことがあった。むろん口論の内容は判らなかったが、そのときも郭科長は忽ち妻に言い負かされたらしく、すぐ視線をあらぬほうへ投げて、いくらか哀し気に眉を寄せていた。きょうの訥河行きを欣んでいるのは、あの郭秀文独りだけかもしれない――杉はそんなことを考えていた。車上の看護婦は、立ったままお互いの肩に摑まり合って静かに出発を待っている。いくらか蒼褪めて見えるのは、近くにある楡の葉のせいかもしれぬ。杉はひそかに、目をそむけるような愁嘆場を懼れていたのだが、この分ならそんなこともあるまいと、救われる思いだった。あとはお互いに手をふり合って、トラックが出てゆけばよいのである。輸送隊も、あすにでも残った百人ほどの患者を嫩江河畔まで担送しおえれば、すぐ解散になるだろう。病院は直ちに門を閉ざし、一年近かった此処の生活はそれで一切が終了する――。 本院の玄関から橋本軍医が出てきた。いよいよ出発である。が、杉は軍医の姿を一目見て眉を寄せた。橋本が、いつものように視線を足許に落し、だるそうに営内靴を引摺っていたからである。軍帽も冠っていない。 「軍医は一緒に行くんじゃないのか?」 杉は傍の小池に訊いた。 「残務整理をしてからだそうですよ」 小池がすっかり伸びた不精髭を撫でながら答えた。 「残務? だって、あれから一週間も経っているんだぞ」 「わたしもおかしいとは思ったんですがね、あとにまだ患者が残っているからかもしれませんよ。まさか軍医が行かないことはないでしょう」 だが、杉には納得がゆかない。「無論、私も一緒に行きます」と壇上で前のめりに倒れそうなほど深くうなだれた橋本の姿が、まだ目の底に焼きついている。本来なら郭秀文なぞに頼まず、橋本が誰よりも早くトラックに乗りこんで看護婦たちを励ますべきではないか。そうすれば看護婦たちも、どれほどか心強いであろう。ひょっとすると軍医は、自分だけ残留するように工夫したのかもしれない。それとも、軍側が、橋本と看護婦を分離しようとしているのか。そこまで考えて杉はふと、己の凝心暗鬼に堪えられなくなった。 ――俺はなぜこんなに疑い深くなってしまったのだろう。これは、龍にたびたび嘘をつかれ、その上戸本から山口中尉や日下の行動を聞かされたせいなのだろうか。 「小池さん、僕、部屋に帰ってます」 兵舎へ戻る杉の後ろから小池もすぐ跟いてきた。 「きのう……」呟くような小池の声に、杉がふりむこうとすると、 「そのまま、前をむいたまま」 小池は命令するような強い口調で言った。 「光江さんから、聞きました」 思わず立ち停まった杉の背を、小池の手が軽く押した。 「歩きながらきいて下さい」と小池は言った。 「自分が介入する問題じゃないことは判っています。が、耳にしてしまったんで、わたしの意見だけは言っておきます」 また小池の手が静かに杉の背を支えた。 「過ちは誰にもありますよ。あとでくよくよしないこと、それが大切です。あの人も後悔しているようですが、むしろ光江さんがいま悩んでいるのは、杉さん、その後のあなたの態度についてなんです。あの夜は光江さんも少しは飲んでいたそうです。とみ子君と一緒に誘われて、内務班で無理矢理に飲まされたようです。杉さんだけが悪いんじゃない、いいですね。――黙って、歩きながらきいて下さい」 背中の掌から温味が伝わってきた。 「むろん、そんなことで杉さんの気持が軽くなるとはわたしも思いません。でも光江さんは、顔を合わせないようにしているあなたをひどく心配しています。なんでもなかったように振舞って欲しい若い杉さんには無理かもしれないが、わたしからも頼みます。最初は辛いが、次第に慣れてきて、しまいには自然に元どおり拘泥(こだわ)らないようになれる。それが過ちを癒す最もよい方法なんです。わたしにも若い頃、経験があります。避けていることは、いつまでも避けられないことと同じなんですよ。――歩いて、前をむいて歩いて行って下さい」 「小池さん、僕は」 「解っています。が、あなたはいま、何も仰言らないほうがいい。あとは自然と時間に、まかせるんです。いいですね。あすから廊下ですれちがったら、挨拶ぐらいしてあげて下さい。それが過失に対する礼儀です。もうひとつ聞いてくれますか」 杉は前をむいたまま首肯いた。 「あれほど東京へ帰るまでは一緒に行動しようと約束した片桐が、わたしにも無断で街へ出てしまったのは残念です。せめてわたしたちだけは信じ合ってゆきましょう。教師だったんで、すぐ説教めいたことを口にしてしまうんですが、こんな、どさくさのときこそ人間は信じ合わねば、人間としての値打ちがない、わたしはそう思ってます。いずれ街へ出て働くようになれば片桐とも逢うことだってあるでしょう。彼だって今頃は、わたしたちと別れたことを後悔していますよ。蓬ったら、また三人で、銀座の思い出を語りましょう――じゃあ」 兵舎の入口であった。背を支えていた掌がしずかにはなれた。 「ありがとう、小池さん」 杉はもう泪ぐんでいた。後ろの跫音が遠ざかって行った。躰全体が、じーんと音をたてて痺れている。誰も居ない内務班の入口で、杉は少時、立ち竦んでいた。やがてエンジンの音が響き、別れの言葉を投げ合う声が広場から伝わってきた。併し杉は、動かなかった。 すぐには躰を動かせない深い感動にひたっていた。
二の章 輸送隊に残留患者の後送命令が下ったのは、看護婦たちが出発した翌々日の朝であった。杉は担架隊の先頭に立った。 いつか李が言っていたように祭りが近づいているらしく、龍沙公園から河畔までの一本道も往き交う人がめっきり多くなっていた。商店が最も密集している龍安街を中心に、街も全体に活気づいている。 街を行く日本人の女たちはいずれもワンピースを着て、素足に下駄かサンダルをつっかけ、柄の長い日除傘をさして馬車に揺られてゆく派手な姿も見受けられた。暑い、ぎらぎらする夏の陽が露地の隅まで容赦なく照りつけ、道ばたには、銅のように陽灼けした半裸の労力たちが、背中で蠅を遊ばせながら死んだように寝込んでいる。真裸の小孩たちは、こすっからしい目を光らせて、道に溢れた露店の狭い隙間を巧みに駆け抜けてゆく。アンペラ掛けの小屋のなかでは、軍帽を阿弥陀にかぶった丸腰の八路軍兵士が、毒々しい色付きの冷し水を、声高に話し合いながら飲んでいる。その隣りの「手打ちそば」と書いた貼紙のある小屋では、ランニングシャツの日本人の男が五、六人、板をうちつけただけの腰掛けにまたがって、気ぜわしげに箸を使っている。この街に刻々と迫っている筈の危険なぞ、それらの何処を見廻しても杉たちには拾い出すことが出来なかった。今更逃げ出しても仕様がないと諦めているのか――最初はそうも思ってみたのだが、猥雑であっても活気に充ち溢れている街の景観は、杉たちのそうした推測さえも忽ち呑みくだいてしまうほどの旺盛な生命力を漲らせていた。 木原フミたちはもう目的地に着いただろうか。若し橋本の言葉が本当ならば、この旺んな街の活気は、あの女たちの犠牲によってあがなわれている筈なのだが……。 併し、担架隊も、街の喧噪で明るい空気に押れると、あと三、四日で自分たちもこの街の一員になれるという気持からか、以前の卑屈な態度を忘れたように、堂々と表通りを顔を挙げて進み、交代要員のなかには、警備兵に軽く合図して、途中で煙草や饅頭類を購い求める者も出てきた。 「俺も記念に一つ、かつがせて貰うかな」 戸本も担架の棒を肩にあてがった。 「班長、こうしていると、呉服を担いで歩き廻っていた頃を思い出しますよ。尤も肩の上に載っているのは、娘っ子たちを喜こばせた綺麗な反物とちがって、くたばり損ないの腐れ兵隊ですがね」 無遠慮に言い放つその声に、担架隊は陽気な笑いを撒き散らした。 杉も担架をかついだ。ここ一週間以上、使役らしい使役が無かったので躰がナマっていたのか、最初はちょっと足がもつれるようだったが、三十分も経つ頃には、うしろの隊員と担いだままで話を交せるようになった。全身にふき出す汗が、公園の楡の木蔭や、河畔で河面を渡ってくる風に忽ち吸い取られてゆくのも快かった。この分なら街へ出て労働できるかもしれない。こうして己の躰が健康をすっかり取り戻したのを確認しただけでも、病院に残留した意味はあった。あのとき湖月へ出て居たら、前々から山口中尉が嫌いだった俺のことだ、横暴さに堪えかねて密告者の一人になっていたかもしれない――杉は、交代場所に来ても、「いいよ、まだ」と担架からはなれなかった。 三日目の午後、杉が部屋に戻ると、よし子が寝台の上に坐って彼を待っていた。 「おじちゃん、きょうは、これをしない?」 先日、杉が言ったとおりにそう呼んで、両手に持った小さなお手玉を振って見せた。あれ以来、杉はまだ光江と言葉を交していなかった。小池に諭されてから、機会があったらこだわりなく挨拶だけはしようと思っていたのだが、看護婦隊が出発したあと、臨時看護婦たちも残留患者の世話で忙しいらしく、また杉にしても、わざわざ病棟へ出むいてまで機会をつくる気にはなれなかった。きょうこそ、きっと光江が寄越したに違いない。 「誰がつくってくれたの、それ」 遠廻しに探るつもりで訊くと、 「とみ子おばちゃんよ」 「ほう、とみ子おばちゃんが」 ちょっといなされた思いで杉は、シャツの裾をズボンからひき出しながら寝台に近づき、お手玉を一つ、手に取ってみた。なんの端布か、黄と赤の縮緬でつくったそのお手玉は、よし子の小さな手にふさわしい可愛らしさであった。いつも矯声を撒き散らしているようなとみ子にも、こんなものをつくる優しさが潜んでいたのか。勢いよく抛りあげ、煤けた天井に当ってさっと垂直に落ちてきたお手玉を手にうけとめて、杉は、明るい弾んだ声で幼児に言った。 「よし、おじちゃんと、どっちが上手か競争しよう」 対い合って寝台に胡坐をかいた杉が器用な手捌きを見せると、よし子は幼い目を輝かせて歓び、もっと、もっと、と強要(せが)んだ。母親似の一皮目や、これもよく似た薄い鼻翼を目交いに見ると、忘れようと努めているあの夜の光江の姿態が泛んできて、それを追い払うためにも杉は、乞われるままに、小さな三つの布袋を、宙に投げては手にうけ、手にうけてはまた宙に抛った。手に当る軽い感触は、遠い、幼い頃の記憶も呼び醒ました。三人の姉が学校に出払った留守に、少しでも上手くなって、姉たちが帰ってきたら吃驚りさせてやろうと、子供部屋の隅で独り練習していた幼年の日の自分が、胸を締めつけてくるように甘く、懐かしく、泛んでくる。 「あす、河原へ行ったら、おはじきになるような石を捜してきてあげようね」 杉の優しさが意外なのか、よし子は見開いた目でじっと見上げていた。
「班長、欲しいものがあったら買ってきますよ」 糊のきいたシャツの袖を叮寧にまくり上げながら、戸本が、弾んだ声を掛けてきた。 「別に何も要らないよ。それにお前、買物なぞする暇はないんだろ」 杉は悪戯っぽく応えた。 「冗談じゃない。俺はピー屋になんか行きませんよ。働く口をまず見つけなくちゃ」 「街へ出れば出たで、なんとかなるだろう」 「そうでしょうけど、俺だってこれまで労働したことはないし、手に職もありませんから、早いとこ、うまい仕事を見つけ出さなくちゃなりません。それに」 傍によってきた戸本は、杉の目を覗きこんで言い足した。 「うまくいったら中原看護婦に逢って本当の気持をきいてきますよ」 「あのひとのことはもういいんだよ」 「よかあ、ありませんよ。班長の気持を察すると、俺だって落着きませんからね。もう一つ、光江さんの職も捜し出さなくちゃ――きょうの外出は、躰が三つぐらい欲しいとこでさあ」 患者輸送も終り、三日後には退院することが決まった。退院後の身の振り方について、街の連中と聯絡したいから外出させてくれという要望を隊員たちから出され、杉はすぐ、龍明英に申し入れた。 「気がつきませんでした。早速あす、外出させましょう。退院するとき出す予定だった手当もあす渡すことにしましょう」 龍は簡単に許可してくれた。 「杉さんも外出しますか。この街とも当分お別れですからね」 通訳はもう杉が訥河へ行くものと思いこんでいる。 「いや、僕は部屋で寝ています」 杉は己の態度をまだ決めかねていた。あの活気に溢れた街へ出て働きたい思いは強かったが、その後知り得た噂から推して、節子が片桐と一緒に暮らしていることは殆ど疑いようがなく、そのような二人と邂逅する場面を考えると、杉は自分の気持に自信が持てなかった。それに戸本や小池と共に街へ出れば、厭でも光江母子とも一緒に暮らすようになるのではあるまいか。小池に諭されて、それがあの夜の過失を忘れ去る最もよい方法とは思っても、これもまた杉には、自信のないことであった。 足どりも軽く輸送隊員が正門を出て行ったあと、杉は暫く部屋のなかで寝ころがっていたが、森閑とした空気に堪え難くなって兵舎を出ると、本院へ足を運んだ。別に目的はなかった。 玄関から突き当りの患者用炊事場までの本廊下を軸にして、左側に内科、外科病棟がそれぞれ二棟ずつ横廊下で繋がり、右には、医務局、旧将校病棟、重患用個室などが並んでいる。炊事場の横からさらに渡り廊下で伝染病棟が裏庭へ張り出し、病棟の数は全部で八つ、三十人以上収容できる大部屋も十指に余った。かつては旧陸軍の一等病院として、またつい最近まで二千人以上の患者を収容していたその病室の総てが、いまは全くの無人となっている。廊下に鳴る自分の跫音が、壊れた窓硝子から夏の陽が躍りこんでいる真昼でさえ少し不気味なほど、大きくあたりに反響する。 どの病室も、廃屋のように荒れはてていた。鉄製ベッドも、その上に隙間もないほど患者を並べていた畳も、いまはすっかり運び出されて、白っぽい床だけが剥き出しになり汚点だらけの壁に猥らな落書が、ところかまわず、ぬたくっている。きのう、輸送隊が総動員で掃除したのだが、どの部屋にも、隅のほうに塵埃がかたまっていた。或る部屋では、壊れたスチームの鉛管が床の破れ目に刺しこまれ、その先きに雑草が二、三本挿してある悪戯もあった。なにを表現した悪戯なのか、杉は少時その前に立って考えてみたが、結局意味がわからずまた廊下を歩いて行った。龍の個室の前にも立ち停まったが、不在らしく内部から物音が聞こえないので黙って通りすぎた。 伝染病棟のなかほどまで来て杉はまた立ち停まった。かつて発疹チフスで収容されていた部屋の前であった。半開きになった扉を押し、そっと内部を見廻した。南向きの窓から陽が存分に射し込んでいた。ちぎれたカーテンが、微かに揺れている。左隅の、以前自分の寝ていた辺りに目を遣り、杉は扉に凭れた。 ――敗戦の日から、もう一年経つ。よくこれまで生き延びて来たものだ、と杉は思う。めまぐるしい一年であった。不可抗力とはいえ、絶えず帰国の日を夢みながら、遂にこんな北満まで流されてきてしまった。若しここで龍の言葉に従えば、俺はさらに北へ流れて行かねばならない。それが、そのまま帰国を諦めることになるならば、自分はいま、最も重大な岐路に立っているわけだ。しかも、右か左か、その撰ぶべき道を、いやでもきょうあすのうちに決めなければならないのである。ここで一歩誤まったら、生涯、内地の土を踏めなくなるかもしれない。杉は、扉から背をはなして、病室の中へはいって行った。 ――どうするんだ、一体、どうするつもりなんだ。 左隅の壁際で、頭を垂れ、スリッパの先きで床の継ぎ目に挾まった塵埃をほじりながら杉は、自分に問いかけてみる。戸本には「もういいんだよ」と言ったが、俺はやはり心の底で、中原節子の返辞を期待しているのだろうか。まだあの女が諦めきれないのだろうか。この最も大切な運命の岐れ路を、あの女の言葉にすがって決めようとしているのか。なぜ、自らの判断で決めようとしないのだ。二ヵ月前、残留か退院かを撰んだときは、唯たんに街へ出て働く自信がなかったのでこの病院に踏みとどまったが、いまは健康も恢復し、街の模様も幾度か見て、自信とまではいかぬまでも、なんとか喰うだけの労働は出来そうな気がする。それにも拘わらずこうして迷っているのは、終戦までの軍隊生活も含めてこの二年間、いつも命じられるままに流れてきた惰性のせいだろうか。もはや自分は、自ら運命をきり拓いてゆこうとする積極性を喪ってしまったのか。杉はほじくり出した藁屑やごみを足先きで叮寧に寄せ集めおわると、また次の継ぎ目をほじりはじめていた。 ――貴方は将来、われわれの軍隊にとって必要な人物ですからね。 恐らく龍明英は、俺がこれほど逡巡していることなぞ、夢にも知りはしないだろう。杉はふと、自分と殆ど年齢のかわらぬ龍の常に微笑を湛えた顔が羨ましかった。あの男は疑うことを知らない。この満洲が、自分たちの手によって素晴らしい国に生れ変ることを信じている。あの男には理想がある。理想に燃えている。 それにひきかえ、俺には、敗けたわれわれには、一体なにが残っているのか。いや元もと俺には、理想も何も最初から有りはしなかったのだ。二年前、入隊通知を受け取った日から、俺は己の意志を抹殺してきた。何事にも抗らわず、命じられるままに動いてきた。自分の国が戦争に勝つか負けるか、それすらも考えなかった。まして戦争の是非に思いを巡らすことなぞもなかった。死ぬまで、敵弾に当って斃れるまで、生きてゆけばいい。少しでも生きてゆけばいい。唯それだけであった。もし意志と名づけるものがあったとすれば、その、なんとか生きてゆこうという、生物としての本能だけだったろう。そして、どうにかここまで生き延びては来たのだが、これからもまた、ただ生き延びてゆくだけでいいのだろうか。内地へ無事に還ったところで、恐らく母は死んでいるであろう。三人の姉たちは無事としても、果してこの自分が生きて還ったことを、心から喜んでくれる者が幾人居るだろうか。生きるということは、結局は徒労なのか。それとも人間は、動物のようにでも、唯生きてゆくだけでもいいだろうか。 足先きでまた新しい継ぎ目を丹念に掘りながら、それにしても俺はよくよく病院と縁があるな、と杉は、内地を離れてからの歳月を振りかえってふと苦笑めいた思いも湧くのだった。 ――二年前の暮、麻布の東部六部隊に入隊して一週間目に杉は、品川から軍用列車に乗せられた。水筒と雑嚢は全員に渡ったが、銃は五人に一人の割りであった。その銃を担って杉は、五日目に山東省の広饒という町に着いた。杉の部隊は、周囲に高い城壁を繞らしたこの人口一万足らずの町を警備する独立歩兵大隊であった。匪賊討伐をかねた苛烈な訓練とビンタで三カ月が過ぎ、二月末に杉は、広饒から八里ほど離れた張店の旅団本部で、他の学校出の初年兵と共に幹部候補生の試験を受けた。無理矢理受けさせられた杉の成績は、大隊で最下位だった。 旅団本部の教育隊に編入されて間もなく、杉は己の躰が異常に肥え出したのに気づいた。まず顔が脹れ出し、脚がむくんだ。元は僧侶だったという若い教育隊長に、杉は恐るおそる躰の異常を申し出た。急性腎臓炎であった。 師団本部の在る済南の病院に入るまでの一週間、杉は、練兵休をとって誰も居ない内務班で、入隊してはじめてペンをとり、私物の手帳に兵隊にとられてからの感想を克明に誌した。死にたくない、という文字を、杉は三つも四つも書いた。自分をやっと取り戻したような気持だった。 入院する前日、杉が医務室で診察を受けている留守に、教育隊で抜打ち私物検査があった。医務室から戻ると、整頓棚の荷物が全部ぶち撒けられていた。杉は狼狽して藁蒲団の破れ目に手を差し入れた。手帳はなくなっていた。 済南の病院で杉は二カ月寝た。厳格な食餌療法が効いて、病状はかなりよくなっていた。最初は、尿意を覚えるたびに、心を弾ませて厠へ通った。二十人の同室者は総て腎臓炎患者で、なかには慢性で入院一年を越える者もあった。一進一退の病状を愉しんでいるような患者もいた。杉もいつか、病気が長びくことを願うようになっていた。 候補生の資格は二カ月入院すると無くなる。あと三日で丸二カ月目という日、教育隊の隊長が、突然、杉の病室に現れた。 「これを返す」 手帳を出されて杉は観念した。が、隊長は病状を聞いたのちに、「俺も候補生のとき同じ気持だった。死にたくなければ、将校になれ。少くとも兵隊より躰を大切に出来る。貴様を甲幹に推薦しておいた。あす、退院しろ、俺にまかせておけ」それだけ言うと、さっさと病室を出て行った。聞こえたのか、隣りのベッドの入院一年の上等兵が、やれやれと言った表情を杉へ向けた。 翌日、退院して原隊に戻った杉は、座金と軍曹の階級章を貰った。同時に、申告に廻った各下士官室で、中隊の総ての下士官から一つずつビンタを貰った。「もう貴様を殴れなくなるからな」班長たちはニヤニヤ笑って、うれしそうに杉の頬を順番に鳴らした。翌朝、杉は、ふくれ上った頬を押えて、予備士官学校の在る保定へ向かった。軍隊に入って初めての単独旅行だった。車窓から、濁りきった海のように広い黄河を眺めたとき、杉は軽い眩暈を覚えた。幅の広い座席に深く掛け、銃を抱えて心細さに堪えた。 保定に着くと、貴様たちの候補生隊は関東軍に編入されたからすぐ満洲へ行け、と命じられた。三日目に新京に着き、駅からその足で関東軍の司令部に出頭した。 「杉候補生は牡丹江省石頭の予備士官学校に五日以内に到着します」 係の中尉が、杉に二度大きな声で復誦させてから、旅費を渡してくれた。その夜、司令部にほど近い軍の指定旅館で、杉は内地をはなれてから初めて畳の上に寝た。外へ出て街を見物する元気はなかった。黒い覆いをかけた管制下の電燈の下で、銃の手入れだけは怠らなかった。油で薄く光る遊底覆いの冷たい感触に、ともすれば、泛んでくる母や友人たちの顔を忘れようと努めた。三日目の夜遅く、石頭駅に着いた。雨が降っていた。二里近い道をずぶ濡れになって学校へ辿りついた。赤い肩章をかけた週番士官に申告を終えたとき、杉はまた軽い眩暈を覚えた。 「貴様、病院下番でたるんどるな」 殴られた拍子に銃をはなし、銃は音をたてて床に倒れた。往復ビンタを六つまで数えたが、それ以上は感覚がなくなり、目の前で満面に朱を注いで怒っている週番士官の顔さえ杉にはひどく遠いもののように思えた。示された内務班に蹣跚くようにはいってゆくと、張店で別れた候補生たちが、それぞれ声を挙げて周りに寄ってきた。矢継ぎ早やの彼等の質問に、杉はうなずいてばかりいた。頬が真赫なくせに、死んだような目をした杉を、候補生たちは不思議そうに見下ろした。 ガス週間と言って、食事時と寝るとき以外は防毒面をかぶってすごす一週間が終ると、厠へも、点呼の整列へも、総て匍って行かねばならない匍匐週間が待っていた。三日で服も軍袴もぼろぼろになった。杉の躰もその服と同様に崩れ出していた。が、胸部の痛みと高熱に悩まされながら耐えた。やっと匍匐週間がおわった日、杉は日夕点呼の最中に失神した。胸膜炎と診断され、一里ほど離れた丘の中腹に在る附属病院に入った。死にたくないと書いたために俺は殺される――ベッドに横たわり、ぼんやりした意識の底でそう思った。病院の廊下に据えつけられたラジオの臨時ニュースで、杉がソ聯軍の参戦を知ったのは入院二十日目、独りで厠へ通えるようになって三日目だった。 ラジオを囲んだ患者たちは昂奮して、杉の腕を、病人とは思えぬほどの力で強く摑む者もあった。午後遅くなって臨時診察があり、退院を命じられた五十人近い候補生が丘の向うにある学校へ帰って行った。軍医に、闘わせてください、と頬を紅潮させて願い出る者もあった。杉は病衣のまま病院の門まで帰校する候補生たちを見送った。不思議と昂奮はなく、むしろ白けた気持だった。牡丹江の街へ迫っているソ聯軍を邀撃するため侯補生隊が学校を出発したという情報が伝わってきた頃、杉たちにも後退命令が降りた。病衣の肩から雑嚢を掛けて病院の前庭に集合すると、そのまま駅まで一里の道を、病人部隊の列は黙々と丘を降りていった。 駅には二十輛近い有蓋貨車が待っていた。分配された食糧は、握り飯が二個だけであった。輸送指揮に当った若い軍医の話では、延吉の病院に収容される筈であった。 併し、翌日の朝延吉に着いても下車命令は降りなかった。駅の構内には、軍人の家族らしい女子供が、慌ただしく家財道具を他の貨車に積込んでいた。杉たちの貨車は五時間後に動き出した。歩いたほうが速いような、焦れったい進み方であった。次の目的地である敦化まで丸三日かかった。その間に、乾パンが二人に一袋配られた。水筒一つ持たない患者部隊は、貨車が畑の間に臨時停車すると、おぼつかない足どりで畑の中へさまよい出て、瓜や西瓜を捜し求めた。小さな瓜を争って、病衣のまま組打ちする者もあった。四日間の輸送でよごれきった二つの病衣が、畑の中で転げ廻る姿は、醜いというより哀れであったが、そうした争いにさえ加わることが出来ずに衰弱しきった躰を貨車に横たえている自分が、杉には一層かなしかった。 敦化の病院でも杉たちは拒否された。途方にくれたような表情で軍医が、一輛ごとに事情を低い声で説明して廻ったが、患者たちは蒼白い顔を挙げようともせず、貨車の底に、いまは灰色にかわった病衣をまとって蹲っていた。丸二昼夜、貨車は敦化駅構内に置かれた。新京の病院なら間違いなく収容してくれる、もう少しの辛抱だ、と軍医が告げ廻ってから三時間後に、貨車はまた、仕方なさそうに動き出した。 戦争が終ったという情報が伝わってきたのがいつ頃か、杉には、はっきりした記憶がない。前の貨車に乗っていた衛生兵がそれを知らせに来たとき、貨車の上部の窓から見えた区切られた空が夕暮の色を漂わせていたのを杉は憶えているだけである。いま、貨車がどの辺を走り、どの辺に停車しているのか、寝たきりの杉には判らなかった。敦化を出て、それが幾日目だったかも判然としなかった。天皇陛下が放送したそうだ、と衛生兵は告げただけで、肩を落して次の貨車へ移って行った。片隅から、ゆっくり起き上った患者が病衣の胸につけていた階級章をはずすと、扉のほうへ、よろよろと歩き出した。影になったその幽鬼のような後ろ姿を視力の弱まった目で眺めているうちに杉は、底知れぬ深い宑のなかへ落ちこんでゆくように意識を喪った。…… 「班長(ばんじゃん)、杉班長」 はっとして杉が顔を起こすと、扉の外に李が立っていた。軍服を片手に抱え、訝し気な視線を注いできた。 「龍同志に頼まれて、あなたを捜していました」 「龍さんが何か――」 廊下へ出ると李は踉いて来いと目顔でうながした。蒐めた塵埃を踏つぶして杉は部屋を出た。 「班長、私、あすの朝、北安へ行きます。おわかれです」 「北安? 訥河じゃないんですか?」 「急に変りました。北安で、看護婦が、一人死にました。薬を嚥んで」 「看護婦? 日本の看護婦ですか!?」 「そうです。この病院に居た看護婦です」 「だって、あの人たちは訥河に――」 「予定がかわりました。北安の病院のほうがいそいで人が必要になったのです。看護婦の偉い人、なんて言いましたか、あの人です、死んだのは」 「木原婦長が――李さん、本当ですか」 「私もいま、龍同志からきいたばかりです。よくわかりません。それで看護婦たちが仕事をしません。騒いでいます。北安には、日本語の上手な同志が居りません。龍同志と私が、あす出発します。看護婦たちをなだめる役です」 「李さん」 杉は追い越して李の前に立ちはだかった。 「本当に木原婦長ですか、自殺したのは」声が上ずっていた。信じられない。信じたくない。スカートの下から覗いた黒い小さな編上げ靴。あのときの予感が、こんなにも早く。血の気のない、雀斑の浮いた木原フミの顔が、すぐ目の前にあるように杉は怯えた。 「詳しいこと、龍同志に訊いて下さい」 李は杉から目を逸らし、上衣を抱えなおした。炊事場の横から再び本廊下へ出た。 「班長、いつかは知らなかったので、あなたに失礼なこと、しました」 あの裏山でのことを言っているのだろう。だが杉には、それどころではなかった。龍は、いや民主聯軍は、また嘘をついた。訥河へ行くと偽って、なぜ北安へ看護婦たちを連れて行ったのか。いつか医務局の壁で見た地図によれば、北安は、寧年から岐れて、泰安、克山を経て北東へ約二百粁、距離は訥河とさしてかわらぬ処だが、小興安嶺の迫った龍江省の端れである。街としては訥河より大きく、病院の施設も比較できぬほど充実していると龍は言っていた。だが、そんなことは問題ではない。どうせ、どこへ連れられて行こうが、諦めている看護婦たちである。なぜ最初から目的地をはっきり告げなかったのか。それにしても、なぜ木原フミは自殺したのか。突然行先きを変えられ、裏切られた憤りと責任から――それとも他に何か原因があったのだろうか。 「龍さんは部屋に居るんですね」 李が首肯くと同時に杉は廊下を走り出した。憎悪が、烈しい憎悪が、杉の胸にふくれ上った。
三の章 内務班の合唱は、もう一時間以上も続いていた。「露営の歌」にはじまり、「ここはお国を何百里」「予科練の歌」と、次から次へといつ果てるともなく続き、そしてその総てが軍歌であった。女たちの声も混っているようだが、合唱というよりは呶鳴っているのに近かった。歌っている人間のこめかみに太い静脈が浮いているのが、すぐ想像できるような歌い方であった。 夕方、外出から戻った隊員の大半は赭い顔をしていた。夕食を満足に食べた者は三分の一もなかった。暗くなるのを待って、内務班の其処此処に、街から買ってきた白酎の宴が開かれた。最初は陽気な笑い声だけであったが、そのうちに一つのグループから歌が起り、次いで他のグループが競うように歌い出し、いまは全員が一つになって合唱している。歌は、建物を通してではなく、窓から杉の部屋に侵入してきた。内務班の窓も開け放してあるのだろう。手拍手に、やがて容器を箸で敲く音が加わり、アルミの食器の底を叩き合う音も二つや三つではない。隊員たちが、入れ替り立ち替り誘いに来たが、杉は、気分がすぐれぬからと断りつづけた。口実ではなかった。いつもなら真っ先にやってくる筈の戸本が、どうしたわけか姿を見せぬのも気がかりであった。外出から間違いなく帰って来ているのに、戸本は顔出しせず、日夕点呼のときも、わざと杉のほうを見なかった。節子に逢えなかったのか、或いは逢ってもよい答えを得られなかったに違いない。杉はそう察してはいたものの、やはりひと言、戸本の口から確かめたい気持があった。 併し、杉にとっては、そんなことよりも、昼間、龍から聞かされた意外な事柄のほうが、時が経つにつれてかえってはっきりと、それを語ったときの龍の口調までが鮮やかに脳裡によみがえり、とても酒宴に加わる気にはなれなかったのである。自殺を図ったのが木原フミだけではなかったのも意外だったが、そのあとで龍が語った話の内容が、さらに杉を動揺させていた。 木原フミの屍体が北安病院の薬品倉庫で発見された二時間後、二人の看護婦が睡眠薬を嚥んだ。日頃から木原に可愛がられ、一部には腹心だと毛嫌いされていた看護婦たちだった。幸い、すぐ発見されて二人とも一命は取りとめたが、この騒ぎで看護婦全員が室に閉じ籠り、軍側がどんなに威嚇しても病室へ出て行こうとしない。急報で、龍明英と橋本が宣撫に出掛けることになったのだという。 「此処を出発する直前に命令が出て北安派遣に変ったのです」 龍は初め、弁解するように杉に説明した。 「寧年でトラックを乗換えるとき事情を話して、そのときは看護婦たちも納得したそうです。ところが北安に着いてから、いくら敦医務科長が頼んでも、病室勤務を真面目にしなくなり、最初は木原婦長も敦科長と共に説いて廻ったそうですが、翌日、点呼をとるときには婦長はもう屍体になっていたというのです。遺書が一通あったそうですが、今のところ、誰宛なのか、聯絡はありません。北安じゃいま、収拾がつかなくて、それに患者たちまでが日本の看護婦でなければ厭だ、と言って騒ぎ立てているようです」 「貴方がたが悪いんです」杉は、流石に困った表情の龍を睨んで言った。「いつもわれわれを瞞いてばかりいる。少しは困ったほうがいいんです」 「あざむく?」と龍は言った。「あざむきはしない。杉さん、いつ、われわれが日本人を欺しました。貴方の言葉とも思えない。僕はこれまで、出来る限り日本工作人の便宜を図ってきた。きょうだって、貴方がたを外出させたじゃありませんか」 珍しく表情を強ばらせて龍は杉を睨み返した。が、それも一瞬のことで、すぐまたいつもの穏やかな顔に戻ると、 「なあに、自分と橋本軍医が行けば二、三日で収まります。僕はすぐ帰ってきますから、杉さんはそれまで病院に残っていて下さい。貴方一人で心細いなら、僕が戻るまでに同志を多くつくっておくことです」 この男の確信を根こそぎ覆えしてやりたいという烈しい思いに杉は捉われた。 「もし、貴方が帰ってくるまでに僕が街へ出てしまったら――」 杉はわざと揶揄するように言った。 「駄目、駄目。もう脅かしっこはなしにしましょう。貴方のことは、汪指導員がちゃんと監視してますよ。本当は、あす、杉さんも一緒に連れて行こうと思ったのですが、まあ、貴方のことは別に慌てなくてもいいし」 「断っておきますけどね、龍さん」この男の疑いを知らぬ心を、どうやったらぶち壊すことが出来るのか。杉は焦りさえ覚えた。 「僕は共産主義なぞに全く興味を持っていません。いや、興味の持ちようがない。何も知りはしないんだ。僕は、僕らの年代は、陛下のために死ぬことしか教わらなかったんです。それが一ばん正しいと教えられてきた」 「今でも正しいと思っていますか、それを――。いいんですよ。何も知らなくて。これから識れば、それでいいんです。僕だって最初は、何も知らなかった」龍は、遠いところを見るような眼差しになった。「ひとつだけ、僕がこの軍隊に入った理由を言いましょう。聞いてくれますか」 杉は仕方なく首肯いた。が、心の裡では、何を聞かしたって駄目だぞ、と身構えを崩さなかった。 「僕はね、杉さん、南満の或る街で警察署長をしている男の長男に生れました。家は清朝時代からの旧い家柄だときいています。金もありました。父は日本の大学を出て、満洲国が出来たとき、警察畑に入り、僕が中学に入った頃はかなり大きな街の署長になっていました」 龍明英がこれほどしんみりした口調で語るのは、杉にもはじめてであった。 「中学四年のときでした。下校の途中、街の繁華街で、苦力が、年とった苦力が、日本人の若い男に殴られているのを僕は見ました。ありふれた事件です。小さいときから、路上で、よく見かけた状景です。僕はすぐ行き過ぎようとした。ところが、周囲の見物人たちが、苦力が殴られて悲鳴を挙げるたびにどっと嘲うのです。悲鳴が大きくなるにつれて笑い声も大きくなりました。それだけだったら、まだよかったのです」 龍の口調は、かすかな昂ぶりをみせはじめてきた。 「見物人の一人が、殴っている日本人に、もっと叩いてみろ、この苦力は、まだまだ大きな悲鳴を挙げるぞ、と言いました。日本人は力一杯、苦力の背中を踏んづけました。見物人の期待どおり、苦力は絶叫しました。両腕で頭を抱え、背を丸めて呻きました。見物人は、もっと、とけしかけました。三度ほど踏んづけた日本人は、やがて見物人たちを見廻すと、急に気味が悪くなったように人垣をかきわけて逃げ出しました。あとに残った連中は、拍子抜けした顔ですぐ散って行きました。むろん、みな満人でした。僕は最後まで見ていました。途中で、堪えられなくなって何度も逃げ出そうとしたのですが、心の一方には、この状景をよく見ておけ、殴られた苦力の表情も、殴った日本人の顔も、見物人たちの喜びようも、一生忘れないようによく頭に刻みこんでおけ、と言う己自身に命じるものがあったのです」 杉はもう、心の構えを喪っていた。 「同じ満人同士でありながら――中学生の僕は義憤でたぎっていました。これでいいのか、憤りというよりむしろ泣き出しそうでした。杉さん、安っぽい公憤や感傷と嗤いますか。だが少年の僕はその夜、哀しみと憤りにあふれた心そのままの口調で父に訴えました。父は僕の話を静かに聞いたのちに、お前はそれが哀しかったか、と訊きました。鈍感な父への怨めしさも混えて、これが哀しくなくて、と僕は言いました。すると父は、お前はこのまま、この父と生涯逢わないことが出来るか、と訊きました。父は静かに説明しました。俺の齢ではもう駄目だ、お前のその若さが必要なのだ。お前はこのまま延安へ行け、そこには、民族を超えて人間が同じ生活を出来るための勉強をつづけている人たちが居る。お前はそこで人間に一ばん大切なことを学んで来い。きょうの哀しみを生涯忘れなければ、お前はきっとこの国を、二度ときょうのような哀しさを繰り返さない国とすることが出来るだろう。――延安の軍政学校で三年学びました。去年の暮、学校の生徒たちにも動員が下りました。東北の和平工作に従事せよ――僕は喜んで、故郷へ進撃してきたのです」 龍は椅子から立ち上ると窓に倚って、中庭のほうへ顔をむけ、暫くじっと動かなかった。己の言葉を改めてかみしめているようであった。その細い襟足を見上げて、 「お父さんに、お逢いになれましたか」 口に出してしまってからなんという質問をしたのだろう、と杉は悔いた。 「父は死んでいました」龍はゆっくり振りむくと、杉の目を覗き込むように見詰めて言った。「父も、弟も死んでいました。噂によると終戦直前に、自殺したとも、殺されたとも言います。むろんはっきりしたことは解りません。けれども、いまの僕には、死因はどうでもいいことなのです」 杉は目を逸らし、膝の上で手を握りしめた。もう迂闊には何も言えなかった。 「ついでに、もう一つ、喋ってしまいましょうか」 龍の声が急に明るくなったので杉は救われたように面を起こしかけた。だが、龍の話は、さらに杉を驚かせた。 「母は、僕を産んでから父の処へ嫁いだのです。母の最初の夫は、いや、結婚していなかったそうですから正式の夫ではありませんね。――その男は、日本人だったのです」 思わず挙げた杉の目を、龍は例の微笑を湛えた目で受けとめた。重大な告白をした人間の顔とは思えなかった。が、それがかえって杉には、話の真実味を強く感じさせた。龍は愉しい話を語り終えた人間のように、窓枠に後ろ手をつき、いくらか上体をそり加減にして、前よりも明るい声で言い足した。 「僕は、誰よりも、血の繋がっていない父を愛していましたよ。いまでも尊敬していますよ。――つまり、民族を超えて、というわけです」 布鞋を履いた足先きを少し上げて、足首を左右に動かしながら龍はちょっと考えるふうをしてから、「つまらない話をおきかせしましたが、結局、僕の言いたかったのは、どんなにちっぽけな事柄でも、それを契機に人間は一つの意志や行動に踏切ることが出来る、いえ、踏切ることが大切なのではないか、と言うことなのです。これまでに僕は、かなりの日本人と話合う機会を持ちました。彼等の答えはきまっていました。兎も角日本へ帰ってからだ――杉さん、僕は、貴方にだけは同じ答えをして貰いたくないんですよ。内地へ還らなくても、この満洲を建て直すことだって、僕は立派に日本のためになると思うのですけどね」 内務班の歌声はまだ続いていた。いくらか騒ぎは低くなってはきたが、まだ当分は続きそうな気配であった。 ――踏切ることが大切なのではないか。 杉は胸のなかで呟いてみた。龍の言葉に従って留まることが、踏切ることになるのだろうか。だが、それは、何をどう踏切ることなのだ。昼間、俺は、あの病室のなかで図らずもこの二年間の意志を持たなかった己の姿を振り返ってみた。大きな組織のなかで翻弄されてきた自分を、仕方がなかった、と心の底では肯定していた。生きているだけでいいと、最低線で自分を支えてきたことは、けっして間違いではなかった筈である。そうするより他に、俺に一体、何が出来たろう。けれども、こうして、戦争がおわって、自由になる日が迫ってきたいま、これからも生きてゆくだけでいいと言いきってしまうことは、やはり、間違いなのかもしれない。いつかも俺は、裏山で、並んだ仮墓標の間を歩きながら、唯生きている自分に愧じ入ったではないか。基本体操の号令をかけながら、地を蹴る爪先きに自ずと力がこもり、体操を愉しんでいたのも、つい一カ月ほど前ではなかったか。 だが杉には、それ以上考えても、すぐには解答が出てきそうに思えなかった。昼間も結局は、何も答えずに龍の部屋を辞してしまった。帰りがけに龍は、「木原さんのこと、他の人たちには話さないで下さい」と頼み、「かならず三、四日のうちに戻ります」と念を押した。むろん杉には、他の隊員に喋る気はなかった。憎悪に駆られて走りこんだ部屋から、杉は、俯向いて、心の動揺を抑えるのが精一杯の有様でやっと出てきたのだ。退院を明後日に控えて最後の宴を張っている隊員たちに話したところで仕方のないことでもあった。 歌声がふと熄んだ。と、今度は、はじけるような笑い声が湧いた。拍手が鳴り、内務班は一瞬、静かになった。杉は耳をそばだてた。 「月もおぼろに白魚の――」 歌舞伎の声色であった。掛け声がかかり、張りのあるセリフがつづいた。戸本の声のようであった。 ――俺も一緒に騒ごうか。 退け者にされているような錯覚で、杉はちょっと自分が寂しく省みられた。あの百人の隊員たちのなかには、自分と同じように悩んでいる者なぞ一人も居はしない。悩んだり考え込んだりするほうが滑稽なのかもしれない。俺たちは、やっとの思いで軍隊から死なないで、解放されるのじゃないか。謂わば高い山から息をきらせて下りてきたばかりなのだ。いま、麓にたどりついてひと息入れているところなのだ。それなのに、またすぐ目の前に山が現れ、これに登ってみないかと言う。いくらその山が美しく、そして頂上の眺めが素晴らしくとも、いますぐ登る気にはなれない。まあ待ってくれ、と言うのは当然だ。龍の告白は、たしかに俺の心を揺ぶった。いや、現在なお揺ぶりつづけている。だが、それとこれとは別の問題だ。俺はやはり休息したい。――また合唱が始まった。今度は軍歌ではなく、杉が通っていた大学の応援歌だった。先刻、誘いにきた隊員の一人が呉れた煙草を取り出して、杉は火を点けた。二服目を唇の近くまで持ってゆきながらすぐ吸わず、杉は口のなかで歌に和して小さく口誦んだ。壮行会で、同級生たちと口がさけるほど歌った記憶が泛んできた。肩を組み、頬を紅潮させて合唱した友人たちの顔が思い出された。彼奴たちも兵隊にとられたろう。そして何人かは死んだだろう。俺も内務班へ行って歌おう。椅子から立ち上ったとき、扉が開いた。光江が真蒼な顔で立っていた。あの夜以来、初めて対い合った。あの、朝顔模様の浴衣であった。 光江は杉の顔を見ないで言った。 「よし子が、ひどい熱なんです」
全身火のように熱い病児を、内務班から自分の部屋に抱き移した杉は、すぐ軍医を呼びに行った。 がらんとした本院の廊下を走りながら、杉は、自分の心がひどく怯えているのに気づいた。が、何に対して怯えているのかは判らなかった。元将校病棟の端れにある橋本の部屋から灯りが洩れていた。電燈が灯っているのは其処だけで、廊下は、暗く、不気味だった。近づくと、部屋のなかから不意に女の嬌声が洩れてきた。杉は跫音を殺して忍びよった。 ノックすると、嬌声はぴたりと熄み、ドアを開けたのは意外にも、とみ子だった。 「あら、班長さん、いま時分、なあに?」 驚いている杉へ、とみ子は酔った甘ったるい声で訊き、 「ちょうどいいわ、いま、軍医さんとお別れパーティを開いているところなの。軍医さんはあす、出発よ。斑長さん、ご存知?」 部屋の奥のベッドに胡坐をかいた橋本は、すでに顔が真赭だった。軍医はゆっくり盃を置くと、鼻髭を撫でた。 「内務班、ずいぶん騒いでいるのね。此処まで聞こえるわ」 とみ子の肩ごしに杉は口早によし子の高熱を告げた。 「ほんと、班長さん」よりかかっていた扉から背を起こしたとみ子は、 「昼間、私と元気に外山したのに」さあ、軍医さん、すぐ支度して頂戴、商売々々。班長さん、わたしがすぐお連れしますわ」 疫痢らしいという橋本の診断に、光江は頬をひきつらせ、ベッドの縁を握りしめて病児を見守った。よし子は、鼻翼をかすかにうごかすだけであった。光江は、見舞いに来た小池や戸本のほうを見ようともせず、口のなかで呟くように幾度も児の名を呼んだ。内務班はひっそりしていた。とみ子は酔いの醒めた白っぽい顔で、部屋の隅から少しつらそうによし子の寝顔と光江の横顔を交互に見詰めていた。 聴診器を診察着のポケットに蔵って部屋を出てゆく橋本のあとから廊下へ出た杉は、兵舎の入口のところで軍医の前に廻って、その顔を見上げた。薄暗くて、橋本の表情は見定め難かった。人差指で髭のはじを撫でつけ、 「今夜、と言うことはないだろう」 素気ない言い方であった。酒臭い匂いに、杉はふっと憎しみに近いものを覚えた。聴診器を申訳のように小さな胸にあてただけの診察も気に入らなかった。 「むろん、あすの出発は延ばして下さいますね。龍さんには、僕からも頼みますが」 杉はきめつけるように言った。髭からはなした手で診察着のポケットを軽く敲いて橋本は、自分に言いきかせるような口調で言った。 「これだけが、いまの儂を、医者にしているんだよ」 杉は咄嗟に意味が嚥みこめなかった。軍医は営内靴を履き直すと、兵舎を出て行こうとした。 「待って下さい、軍医殿」 軍医は背を向けたまま頷き、外へ出た。白い診寮着が闇のなかへ二、三歩進み、そこで停まった。 「きょう、北安からの聯絡兵に、残っていた薬品も、注射器も、すっかり持たせて帰してしまったんだよ。残っているのは――」 橋本は聴診器を取り出して杉に示した。 「儂は元もと外科専門だった。経験で、病名ぐらいは判る。が、いまの儂には、何もしてあげられない。薬を持たぬ医者は、見舞い客と変らないんだ。みすみす、見殺しにしなければならない。医者として、辛すぎることだ。儂はきょう、これで二人殺すことになった。――木原婦長のこと、君も聞いたろう」 杉はごくりと息を呑んだ。診察着の肩が、かすかに震えているようだった。 「組織というものは、残酷なものだ。個人の力では、どうにもならない。龍明英も、汪指導員も、結局は命令の代行者に過ぎないんだ。まして儂らに何が出来る」 軍医は杉から顔を逸らし、ちょっと間を置いてからゆっくり言った。 「木原とは戦争中も一緒だった。終戦直前、海拉爾(ハイラル)からこの病院に一緒に退ってきた。木原は一度、自殺を図ったことがある。儂だけが知っていることだ。やっと思い止まらせた。すると人が変ったように自他に厳しくなった。普通は温和しくなるものだが、あの婦長だけは逆だった。――出発直前に、急に儂だけ残留しろと命令が出た。理由はわからなかった。儂が一緒だったら、木原を殺さなくて済んだかもしれない。……いや、やはり同じだったかもしれない」 橋本は頸を落し、本院のほうへ歩み去った。 杉が部屋に戻ると、光江は、床に両膝をつき、唇をわなわな震わせていた。傍に立って痛ましそうに見ていた戸本が、杉に気づくと目だけで訊いてきた。杉はそっと頸を振った。 小池や戸本が内務班へ引き取ったあと、杉は電燈に覆いをかけた。光江の肩に両手を置き、 「しっかりしなくちゃあ――」 と力づけた。と、光江が急に躰を廻して、杉に取り縋った。鳴咽する女の肩を杉は少し力を罩めて抱いた。 「大丈夫だよ、すぐ治るよ」 「死ぬわ、この児は、死んでしまうわ」 讒言のように言って、光江は、さらに縋りついてきた。震えのましてきたその躰を、杉は一段と力を罩めて抱いた。 「大丈夫だってば」 が、自分の言葉が空ぞらしく、杉は、目の前の痙攣している唇に、自分のそれを押しつけた。そうするより、震えをとめることが出来ないように思えた。支えた両腕にぐっと重味が加わり、光江の躰は、放せば、そのまま崩れそうであった。――
翌日の朝、よし子は昏睡したまま息をひきとった。龍と橋本が、すでに北安へ発って行ったあとであった。もう夫に合わせる顔がないと、改めて小柄な躰を慄わせて●く光江を、杉は小池の力を藉りて、幼児の屍体からはがすように抱き起した。線香なぞむろん無く、たった一本残っていた蝋燭を立てた机を、ベッドの傍に置いた。その前で、隊員たちは黙って手をあわせた。誰も、ひと言も口をきかなかった。窓の下に、ぺたりと坐った光江は、よれよれの浴衣の衿をはだけたまま、焦点のない目で、合掌する隊員たちを見上げていた。もう強くなった朝陽に、乱れた髪が赤茶けて見えた。小池に目顔で頼み、杉は部屋を出た。呆けたような光江をそれ以上見ているのが辛く、また、独りになりたかった。 舎前の水道でなぜともなく両手を洗い、水をきっただけの濡れた手をだらんと垂したまま杉は、本院の玄関脇の植込みへ目を据えて歩き出した。数日前にみせた異常なほどの人懐っこさを思い出すと、目頭が熱くなってくる。瞼の裏に力をこめてそれに堪えた。幼い魂は、やがてみまかることを予知していたのだろうか。約束したおはじきの石を、とうとう捜し出せなかったことが、杉には烈しく悔まれた。もっと、もっと、とお手玉を強要(せが)んだ声が耳底に残っていた。どのような男か知らないが、光江の夫と顔を合わせられないのは、むしろこの俺のほうだ。せめてあのとき、もっと心から幼児の対手になってやればよかった。まだ湿っている手甲をズボンの腰で拭い、植込みを廻って玄関から本院にはいろうとして杉は足を停めた。植込みの蔭の石段に、戸木が両腕で頭をかかえて腰かけていた。 爪の間に黒い垢のたまった太い指で、薄くなった後頭部の毛を掻きむしっている。膝の間に、戦闘帽が落ちていた。杉が黙って戻りかけたとき、 「班長」嗄れた声で戸本が呼んだ。顔を伏せたままであった。 「俺が、殺したんです」 ぎょっとして見降ろすと、戸本は両のこめかみを手で揉みながら、 「きのう、街で、内田とみ子と一緒に、色んなものを食べさせたんです、よし子ちゃんに……」 肩で喘ぎ、戸本は鳴咽しはじめた。 「寿命だったのだよ。運命だったのだよ。お前のせいじゃない」 「いいえ」戸本ははじめて顔を挙げ、歪めた唇から押し出すように言った。「俺のせいです。ねだられるものを、なんでも食べさせた俺のせいです」 「もう、よそう」 杉は、自分でも意外なほど強い口調で遮ぎった。そして二、三歩あとずさり、そこでくるっと向き直ると、広場を、左隅からゆっくり眺め廻した。目を絶えず動かしていないと、忽ち泪が宿りそうであった。 「それからね、班長。中原さんのことだが……」 「それも、もうよそう、本当にもういいんだ」 きょうの俺には、この広い病院のどこにも行き場所はないのかもしれない――それでいて杉は、足早に広場を横ぎって、兵舎のほうへ歩いて行った。 一晩置くと腐敗するかもしれないというので、夕方になるのを待って杉は、毛布に包んだよし子の屍体を裏山へ運んだ。踉いて来ようとした戸本ととみ子を、光江はなぜか頑なに断った。そして、 「あれを戴けないでしょうか」 壁に掛かった油絵を指さして、よし子の死後はじめて杉へ口をきいた。 「なんにするのです?」 傍から小池が訊いた。 「よし子は、とうとう一度も内地を見ないで死んでしまいました」 光江は油絵と対い合って、自分にいいきかせるように言った。 「満洲しか知らないよし子には、この絵のような風景が故郷なんです。いつまでもこの故郷を、よし子に見せていてやりたいんです。……そうすれば、真暗な土のなかにいてもあの児は、きっと退屈しないで、独りでおとなしくしていますわ」 怺えきれなくなったのか、とみ子が口を掩って逃げるように部屋から出て行った。小池は、怒ったような表情で、壁から油絵をはずし、腰の手拭で、飾りも何もない粗末な額縁につもった埃を払うと、無言で光江に手渡した。不精髭に半分以上掩われた頬が、かすかに痙攣していた。母と子の心とは、これほど一つに結びついているものなのだろうか――杉は腕の中の毛布をしっかりと抱き直した。兵舎の出口まで送ってきた戸本が、其処に立てかけてあったシャベルを、これも黙って光江に差し出した。絵を左わきに、右手にシャベルを引摺って光江は、杉の後ろから裏山への道を踉いて来た。ブラウスと黒のズボンに着替えてはいたが、髪は無造作に後ろで束ねただけで、ほつれ毛が、頬に幾条も乱れていた。 はじめて背負ったとき、しっかり杉の肩を掴み、全身を固くしていたよし子は、いま、杉の腕の中で、その小さな手を胸に組んで、毛布に包まれている。どことなく影の薄い児ではあったが、僅か二カ月の縁だったとは……この病院に着いた夜、茶碗を捧げるように持って上眼遣いに小池たちへ怯えた視線を走らせていた顔、年配の隊員の膝で、教わった童謡を唄っていたあどけない顔、光江の腰につかまって、節子たちの“鬼ごっこ”を目を皿のようにして見詰めていた顔、遠慮深く、扉の蔭から半分覗かせた顔――。この児は、病院での二カ月間を、短かかった生命の最後の二カ月間を、幼い心にどのように刻み込んでいたのだろうか。大人たちの狼狽を、どのように受け止めていたのだろうか。戦争がなかったら、いや、父親さえ兵隊にとられていなかったら、今頃は、双親と共に、祖父母のいる内地へ還って、初めてみる美しい故郷のたたずまいに目を見張り、或いは近所の子供たちに、この満洲の風景を、幼い言葉遺いで熱心に教えていただろうに……。それなのにこの児は、若し戸本の言が本当とするならば、この病院で誰よりも可愛がってくれた男によって、死を与えられてしまったのだ。腕の中の死児は、はかないほど軽かったが、裏山へ登る杉の心と足は、鎖につながれたように重く、その重い心の底へ、後ろで光江が引摺るシャベルの音が、一歩一歩、さらに重量を加えてゆくように響いた。 幾列にも並んだ仮墓標の端れにある窪地を、杉は独りで掘った。表情を喪った光江は、死児を抱いて、杉が掘り終えるまでひと言も口をきかずに待っていた。土は一掬いごとに湿り気を帯び、抛り投げられた黒い土くれは、夕陽に一瞬、こまかな水滴を宿したように光って辺りの雑草をそよがせた。 腰の深さまで掘り、シャベルの手をとめて見上げると、光江は、穴の縁に背を向けて立ち、腕の毛布に頬を埋めていた。何か呟いているらしかった。シャツの袖で顔の汗を拭き、杉は穴の中に暫く佇んでいたが、鉄条網の向うに落ちかかっている弱い陽に気づいて、そっと這い上った。 杉が無言で毛布を抱きとろうとすると、光江は躰ごとふって拒み、一瞬、恨めし気な目で杉を睨んだ。杉は顔をそむけたまま、両手を差し出していた。その手に、静かに毛布が置かれた。 「すみません」 ゆだねると同時に光江は背を向け、両手で顔を掩った。低い鳴咽が洩れた。 穴の底に死児を横たえ、その上に、油絵を伏せて載せた。毛布がすっかり隠れるまで土を落してから杉は無言で光江を促した。穴の縁に膝を揃えて坐り、左手で口を掩い、右手でひとつかみずつの土をこぼす光江の傍で、杉も幾度か、手甲で頬をこすった。光江の手から、黄と赤のお手玉がすべり落ちたとき、杉は堪えきれなくなって荒々しくシャベルの柄を握ると、あとは憑かれたように土を掬っては投げ込んだ。 黒い湿った土の上を、杉は地下足袋で叮寧に踏みかためた。光江もゴムの運動靴で、ゆっくりと踏んだ。肩を落し、踏むというよりは靴先きで撫でているようなその姿に杉はまたこみあげてくるものをじっと怺えた。 夕陽を浴びて、二人は、お互いに別々な方向をむいて暫く佇んでいた。光江はもう哭いていなかった。シャベルで杖のように身を支え、杉は裏山の端れへ目を投げた。節子たちが逃げ出した鉄条網の破れ目には、新しい針金が張られていた。その十字に結ばれた新しい針金だけが、残照に、かすかに反射していた。もう節子とは、生涯、逢うこともないだろう。いや、逢ってはならないのだ。戸本から何も聞かないでよかった。一切を忘れ去ることだ。周囲で、たった一つ残っていた日の丸の旗――あの支那家屋の屋根にはためいていた絵の中の日の丸も、いまは土のなかに深く埋められた。たとえ帰国しても、米軍に占領されているという内地では当分、日の丸の旗を見ることも出来ないだろう。 ――踏切ることが大切なのではないか。 ――組織というものは、残酷なものだ。 ――避けることは、いつまでも避けられないことと同じなのですよ。 龍の言葉、橋本の呟き、小池の諭えが、杉の脳裡に泛んでは消えてゆく。左肩を突き上げるようにして歩いた片桐の恰好、すれ違う馬車のなかでこちらを睨み据えていた山口中尉の顔、蒼白な顔に雀斑を浮かせた木原フミ。そのときどきに受けた衝撃や打撃は、堪え難いほど辛く哀しいものでも、過ぎ去ってみれば、月日ほど短く、速いものはない。総ては時が押し流してくれる。 杉は遠い丘の向うへ目をむけたまま、おだやかな声で言った。 「お願いがあるんですけど、聞いてくれますか」 光江の弱い視線を頬に感じたが、杉はシャベルの先きを少し置き換えただけで言葉を継いだ。 「僕と一緒に、訥河へ行ってくれませんか。北安かもしれません。いえ、行先きはどこでもいいのです。この病院から、この街から、八路軍に踉いて、出てゆく気はありませんか」 光江は踏みならした黒い土のはじにそっと跼み、手で暫く泥を撫でさすっていたが、やがて低い声で答えた。 「とみちゃんも一緒に連れて行って下さいますか」 杉は細い項を見降ろし、またシャベルの先きを少し動かした。 「やはり独りでは心細い……」 「いいえ」光江はほつれた毛を手甲で撫で上げてはっきり遮ぎった。「あのひと、片桐さんが居なくなってから、お酒を飲みたがってばかりいるんですの」 よし子のために可愛いお手玉をつくったとみ子の気持が、杉にははじめて判った。胸の底に泌み入るような判り方であった。 「一緒に、行くだろうか」 「行きますわ、きっと。あのひと、この街に居たくないって、言っていましたもの。それにわたくしたち、四平街を出たときに、どこまでも一緒だって、約束したんですの。わたしも……」 光江はまた感情が激してきたのか、掌の土を握りしめた。 「わたしだって、この街に居たら、いつまでもよし子のことを思い出して」 小さく波を打ちはじめた光江の背に、杉は近よって静かに手を置いた。 「さあ、とみ子さんも待っているから、戻りましょう」 首肯いて素直に立ち上った光江は、 「あら、お顔に泥が」 手を出し、その自分の手も泥まみれなのに気づいて慌てて引っこめると、はじめて含羞んだようにわらった。手甲で頬の泥を落しながら杉は、並んで地に這う二人の長い影を眺めていたが、やがてシャベルを持ち直すと、ゆっくり裏山を降りはじめた。 西陽が、病棟の屋根を薄あかく染めていた。
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