日本工作人 第3部 |
『日本工作人』
第三部 一の章 きょうで丸二日、馬車に揺られている。両側は見渡すかぎりの向日葵畑。熾烈な真夏の陽に、黄と黒と葉の緑が、涯てしなく氾濫している。 馬車といっても大車の上にアンペラを敷いただけ、幌もアンペラである。大きな木製の車輪がひと廻りするたびに、車全体が容赦なく揺れる。風は、殆どない。――この、毒々しい原色の風景のなかで灰色なのは俺たちだけか、と杉は思う。 馬車の中は、杉を入れて四人。出発まで泣き暮らした光江は、まだ両瞼をはらして、手製のリュックサックにぐったりと凭れている。リュックのポケットには、十日前に急死したよし子の遺髪が、紙にくるんでしまってある。まだ心が痛むのか、それとも馬車の揺れで腰が痛いのか、ときおり、生気のない顔を烈しく歪める。左の手は、馬車に乗ったときからリュックのポケットを押えつづけている。ときに指先きが留金にかかるが、すぐ思い直すとみえて、手はポケットの上蓋のあたりを、ゆっくり、惜しむように撫でる。歪んだ顔に、三十歳の年齢が露骨に浮き上り、油気のない髪の毛が、頬に乱れている。 隣りのとみ子は、汚れたモンペの両膝を抱え、目を閉じている。が、眠っていない証拠に、瞼が、ときどき、ピクッと動く。汗が、やや開いた鼻翼の両側に宿っている。もともと白粉焼けで荒れているうえに、ここ二日、顔を洗っていないので、余計肌が汚れてみえた。はだけた肌襦袢の衿許もくろずんでいる。目を閉じているのは、片桐のことや病院のことなどを思い出しているのであろうか。それとも、こうして杉たちに踉いて来たことを、早くも後悔しているのだろうか。杉が訥河行を発表したとき、輸送隊から十人ほどの同行希望者が出た。が、いざ明朝解散という日の午後になると、小池を除くその全部が忽ち翻意して街へ出たいと言い出した。杉はむろん、とめなかった。杉自身が仕方なく加わった奥地行きである。留められるわけがなかった。いま、とみ子の横で、光江のトランクを枕に軽い鼾をかいて寝込んでいる小池だけが、現在の杉には唯一の心頼みだった。 「わたしだけは杉さんとの約束を守りますよ」 奥地行きが決まったとき、小池はそう言ったが、その口調のどこにも押しつけがましさがなかったので、杉は、改めて救われる思いだった。光江はよし子を喪わなければ、また、とみ子は片桐が逃亡しなかったならば、いくら杉が頼んでも、容易に同行を肯じなかったであろう。 「わたしはどこへ行ったってどうせ独りぼっちなんだから――」 光江に誘われたとき、とみ子はそう自嘲してあっさり承諾した。謂わば小池だけが、積極的に杉に同行したような形であった。 併し、奥地行が始まってから、杉の気を引きたてようとするのか、日頃になく口の軽かったその小池も、ここ二日、目に入るものが向日葵畑だけとあっては、自然と口数は減り、きょうはもう、朝から馬車のなかで横になったきりである。杉も、立てた膝頭に、肉の薄い両腕を預けて、単調な周囲に、先刻からうんざりしきっていた。 予定では、目的地の訥河まで、まだあす一杯を馬車で過ごさねばならない。その目的地にしたところで、期待どころか、これまで居た斉々哈爾の病院より、不自由で、目標のない生活が待っているに違いないのである。 光江の伸ばした足先きが、杉の腰に軽く触れた。すぐまた足を縮めた光江は、弱々しい微笑を泛べる。いい按配にいなくなったと思っていた蠅が、またうるさく幌を出入りしはじめた。目で追うと、今度は二匹になっている。 「少し外を歩くから、体を横にしなさい――」 ほんの身廻り品と毛布だけの荷物だが、それでも四人が足を伸ばして寝るには、馬車はいささか狭い。光江が懶くうなずくのを見てから杉は、 「よいしょ」 と、掛け声と共に馬車の後ろから外へ跳び降りた。布鞋なので足許は軽いが、それだけ、熱気を帯びた土肌が、すぐ足裏に伝わってきた。 車輪の立てる土埃を避けて杉は、馬の首と肩を並べた。首越しに反対側を覗くと、馬夫が目を閉じたまま足を運んでいる。年齢が判らぬほど真黒に灼けた頬に、蠅が一匹、はりついたようにとまっていた。 馬夫の右手から垂れた細い鞭の先きが、乾き切った道に一筋の跡をつけてゆく。脚の毛が、蹄にとどきそうなほど背の低い満洲馬である。その四本の短い脚が動くたびに、確実に小さな土埃が舞う。馬も馬夫も、仕方なく歩いているような鈍重な進み方で、これではあす一杯かかっても、目的地に着かぬかもしれない。―― 三十米ほど前を行く先頭の馬車の後部に腰かけて、両足をぶらぶらさせていた龍明英が、馬の蔭で頸筋の汗を拭いている杉の姿を見つけて手を挙げた。杉が、手拭を持った手で合図を返すと、龍も身軽に馬車から跳んだ。 「どう、疲れた?」 近づいた杉を、通訳は持ち前の大きな二重の目で覗き込んだ。 「目がくらみそうですよ」 杉が、午後の陽に燃え狂っているような向日葵畑を顎でしゃくると、 「僕もこの辺は初めてなんだが、全く広いなあ……」 「あすの夕方には、本当に着くんでしょうね」 「馬車を替えますよ。この馬車、少しのろいし、そのくせ、揺れるのは一人前、いや一馬前か。――どう、光江さんもとみ子さんも元気?」 杉が曖昧にうなずくと、 「鉄道が残っていれば、こんな苦労はしなくてもよかったんだが……。生憎、トラックもないんで」 右側の畑の百米ほど先きに、この道に沿うて敷いてあった鉄道線路を、ソ聯軍が撤退するときにそっくり持ち去ってしまったのだ。鉄道のないところからはトラックで――というのが、斉々哈爾を出発する前の約束だったが、線路の残っている最終駅の寧年の町に着いてみると、そのトラックが一台もなく、やむなくこの馬車旅となったのだ。しかもその馬車が、俄かづくりとあっては、若い、元気な龍明英も、いささかクサっているようだ。 「なにしろ新しい解放区なんで、思うような指導も出来ないし、手違いばかり。今も、郭医務科長夫人に苦情を言われていたんですよ。とんだ輸送指揮者だってね」 自嘲する龍に、杉も苦笑するより他はない。断髪の頭をふり立て、腹をつき出して呶鳴っている夫人の姿は、杉にも容易に想像出来た。寧年で、トラックが一台も残っていないことが判ったとき、彼女は駄々ッ子のように龍をなじり、杉たちに舌打ちさせることも忘れさせたほどである。 「いくら命令だって、あの軀でこんな旅に出るのが、土台、無茶ですよ」 小池が蔭で、半ば憂うように言ったが、夫人にすれば、すでに訥河に赴任している夫の許へ、一刻も早く行きたいのであろう。 「まあ、あす一杯の辛抱です。今夜泊る部落には、いくらかましな馬車を手配してありますから――」 語尾が急に弱まったところをみると、手配どおりになっているかどうか、龍にも自信がなさそうだ。 「いや、どうせ乗りかかった馬車、もう一日、胃袋の鍛練をつづけますよ」 杉は冗談を言った。今更、後悔してもはじまらないのである。此処まで来ては、もはや内地へ還る見込みどころか、発ってきた斉々哈爾市へも再び戻れないであろう。手拭をひろげて顔全体をつつむように汗をぬぐいながら、今頃、戸本は、中原節子に俺と光江のことを喋っているだろう、と杉は思った。 ――輸送隊の解散後、ガランとした兵舎内で、杉は、小池と光江と、そしてとみ子の四人で一週間暮した。戸本は、光江の残留がどうしても信じられないらしく、解散の朝まで執拗にその理由を杉に問い糺した。むろん杉には、答えるべき言葉がなかった。 「この街に居るのが、辛いんだそうだよ」 僅かにそう答えるだけの杉を、戸本は、明らかに敲りのこもった強い目で睨み据え、 「班長、俺はどうやら、あんたを見損なったらしいね」 最後に投げ棄てるように言って部屋を出て行った。杉は顔を伏せてその言葉を甘受した。よし子を死に至らしめたのが自分だと信じている戸本は、流石に光江と共に残留するとは言えなかったのであろう。それを承知で、この街に居るのが辛いんだそうだと代弁めいた言葉を口にした己に、杉はたまらぬ嫌悪を覚えた。だが、他にどんな言葉があったろう。 殆ど荷物らしいものを何一つ持たぬ輸送隊員が舎前の庭に整列を終えたとき、杉は、その一人一人に握手をしたのだが、戸本だけは露骨に顔をそむけて、杉の手を握ろうとはしなかった。何もかも告白して、長いあいだ身の廻りを世話してくれたこの当番兵に謝りたい――が、杉はやはり黙って戸本の前を通り過ぎた。杉のあとから小池も隊員たちと別れの挨拶を交していたが、戸本は、その小池の手も拒んだようであった。百人の隊員と握手を終えた杉の右手は、痺れていた。組長の一人が、隊員を代表して挨拶の言葉を述べた。痺れが直ると、手は熱をもったように火照り、同時に杉の胸の裡にも何か熱い塊りがふくれはじめた。 「杉班長殿に、かしらァ、なかッ」 一斉に注がれた隊員たちの目に、杉は火照った手を挙げて返礼した。ふるえた指先きが、こめかみに二、三度触れた。 相変らず無造作に小銃を肩から吊りさげた警備隊員に附添われて正門から街へ出てゆく輸送隊員を見送っているうちに、杉は、こみ上げてくる悲しみを幾度となく喉許で殺した。いっそのこと駆け足で列の後尾につき、皆と一緒に出て行ってしまいたい衝動も覚えた。救いをもとめるように振りむくと、小池も、唇をきつく結び、両脚をふんばって見送っていた。まるで怒っているような顔であった。 「みなさん、元気でね」 兵舎の窓から手をふっているとみ子も、大きな声で別れを告げることで、からくも泪をこらえている様子だった。 寝台を廊下へ出し、替りに、残っていた畳を四枚運びこんで、杉は、自室で三人に起居して貰うことにした。 「内務班で、のうのうと独りで寝ますよ」 暑さ理由に小池はそう言ったが、杉は拝むように頼んで自室に移ってもらった。四人一緒に居ることで、出来れば二度と光江と過ちを犯したくなかった。それに、あっさり残留を承諾したものの、四人きりになると、流石にしょんぼりしはじめたとみ子や、放心したように窓の外ばかり見ている光江を、せめて絶えず四人一緒に居ることで慰めてやりたかった。杉も独りで居ることに堪えられなかった。 四日目の午後遅く北安から帰院した龍明英は、すぐ杉の室に姿を現した。李も一緒だった。 僅かな間にすっかり陽灼けした龍は、例の微笑を湛えた目で室内をひとわたり見廻してから、皓い歯を見せた。 「やっぱり、僕の予想どおりでしたね」 「何が予想どおりなの? 龍さん」 部屋の隅で懐中鏡を覗きこんで髪をなでつけていたとみ子が、そのままの姿勢で訊いた。 「僕はね」と龍は、畳の上に腰をおろすと、笑いを含んだ声で言った。「とみ子さんもきっと残ってくれるに違いないと思っていたんです」 「へーえ、どうして私が……」 むき直ってさらに訊き返そうとするとみ子を軽く手で遮ぎり、 「龍さん、北安のほうは?」 と杉は訊いた。隣りの小池も胡坐の足を組み直した。 「うまくゆきました」まだ扉のところに立ったままの李が答えた。 「きょうあたり、みな、訥河へ行った筈です」 「訥河へ?」 「あんまりうまくはゆかなかったのですよ」 龍は布鞋を脱いだ足を畳に投げ出して苦笑した。 「意外に看護婦さんたちは強硬でしてね。橋本軍医や僕が幾度も頭を下げて頼んでも病室へ出て行かないんです。結局、妥協案を出しました。最初の約束どおり、訥河の病院へ総員移すという条件で、やっと解決したんです。尤も、北安へは、開通軍区から三十人の看護婦が直行することになったんでね」 「それじゃ、妥協案じゃありませんね」 小池が、穏やかな声で言った。 「あんまり虐めないで下さいよ」龍は、また人懐っこい微笑を見せた。 「で、木原婦長の遺書は? 原因はなんだったんです?」 木原が死をもって抗議した代償が、単なる訥河への移動だったのか。けろりとしている龍の態度が、杉はふと憎かった。 「看護婦の一人が持っているそうですが、誰にも見せません。だから原因もはっきりしないんです。それより、杉さんが残ると言ったら、看護婦たち、大喜びでしたよ。輸送隊から何人ぐらい訥河にくるだろうって、しきりに噂し合っていました。僕もいろいろ訊かれたのですが、まあ、あちらへ行ってからのお楽しみ、と言っておきました」 そこで龍は急に顔から微笑を消し、投げ出していた足をひっこめると、 「光江さん、このたびは、お気の毒でした。橋本さんも、行く途でずいぶん気にしていましたが……」 窓際で、天幕をリュックサックに縫い直していた光江は、針を持ったまま、深く頸を垂れた。杉は狼狽して眼を逸らし、その視線が、油絵をはずした跡の其処だけ白い壁にぶつかると、ますますうろたえて畳へ落した。小池が、シャツのポケットからつぶれた煙草を取り出し、無言で杉に差し出した。救われたように杉は急いでマッチをすった。烟りを吐きながら眉の間に皺が出来ているのが自分でもわかった。 訥河に顔見知りの看護婦たちが移っているにしても、よし子を喪った光江を力づけることは出来ないであろう。むしろ、多勢の女たちから、あらためてくやみを言われれば、光江の心は、それだけ傷つくのではあるまいか。杉も小池も、そしてとみ子も、あれ以来、光江の前では、よし子のことはひと言も口にしなかった。別に三人で申し合わせたわけではなかったが、今は出来るだけ死児に触れないでおくことが、光江への愛情だと、三人が三人なりに思いこんでいたのである。杉と小池の吐く烟りが一つに溶け合って、龍の胸の辺りにゆっくりと漂い流れた。暫くの間、誰も喋らなかった。扉に凭れていた李が、不思議そうな顔つきで、黙って坐っている五人を眺め廻した。 「杉さん、あとで僕の部屋へちょっと来てくれませんか」 やがて龍が低い声で言ってから立ち上り、手を使わずに、爪先きで軽く二、三度、三和土を敲いて布鞋を履き終えると、 「出発は多分、三日以内です。あすは、四人で街へ遊びに行ってらっしゃい」 入口の李を促して出て行ったあとで、 「あの人、私はなんとなく虫が好かないの。いつも笑顔で、あんな人がかえって肚黒いのよ」 懐中鏡を蔵いながら、とみ子が誰へともなく言った。 「そんなことはないよ」小池が躰を崩し、壁に背をもたせて静かに応えた。「龍さんは、自分の役目に忠実なだけさ。もし肚黒くみえるとすれば、命令どおりに動いているからさ。龍さん自身に罪はないよ」 小池の口調は、自分に言いきかせているようだった。 「それにしても、若いということは、いいことだね」 小池は目を細め、遠いところを見るような表情になった。 「龍さんはね」杉は言いかけて口を噤んだ。半分日本人なんだ――という次の言葉が、杉の喉許で潰れた。目をむけてきた小池へ、 「いや、なんでもありません」という風に、杉は弱々しく微笑って頸をふるのだった。 「杉さん」 暫く無言のまま杉と肩を並べて歩いていた龍明英が、急に、改まった声で呼んだ。額の汗を拭いながら杉が顔をむけると、龍はわざと正面を向いたまま、 「光江さんと、本当に結婚するつもりですか」 へんに抑揚のない声で訊いた。不意だったので、杉はすぐ返辞が出来なかった。 「貴方たちのこと、実は汪指導員にも話したんですがね、二人の結婚がお互いの思想を深めるものなら賛成だ、って言うんです」 龍はそこで一たん言葉を切り、今度は語調を速めて言った。 「つまり、もし結婚するなら、二人とも、もっと徹底的にわれわれの思想を体得して、生涯、解放軍のために尽す覚悟が必要だ、というわけです」 「すると、二人とも正式に入党しなければならないんですね」 「いえ入党するにしても、いろいろ難かしい手続きが必要です。そりゃ、一兵士として軍に参加して頂くなら簡単です。併し、まさか杉さんを、兵士には出来ません。いや、兵士として働いてもらうなら杉さんに入党して貰う意味がありません。やはり政治指導部員となってもらわねば……。けれども、指導員の結婚は、幹部の許可が必要なんです」 表情がこわばったのが、杉には自分でもわかった。 「僕はね、杉さん」 龍は、まだ正面を向いたまま言った。 「なにも結婚を急がれる必要は、ちっともないと思うんですよ。そりゃ、われわれの仲に入って、少い日本人同士が寂しい想いをするのはよく判ります。併し、今ここで光江さんと一緒になるより、もう少しわれわれと共に工作に従事して、真の和平がこの東北へ訪れてから、それに、二人がお互いにもっと理解し合ってからのほうが、結婚の意義が一段とあがる、と思うんですがね。失礼ですが、杉さんのは、単なる同情じゃないか、と僕は見ているんです」 最後のひと一言に、杉の顔つきはさらにかたくなった。杉は睨むような目を若い通訳の横顔へ据えた。今更、何を言うのか――が、杉は、迂闊に口がきけない。いま不用意に何か言えば、光江との間を、自ら諦めるような結果を招くのではないか、と思ったからだ。杉は、右手の甲を、ズボンにこすりつけた。すると今度は、黙っていることが急に不安になり出した。 「龍さん」嗄れた声で呼びかけ、杉はちょっと呼吸を整えてから口を開こうとした。が、龍明英は、相変らず正面をむいたまま、まるで追討ちをかけるように言い足した。 「正直なところ僕は、ここ暫くは杉さんに、女のひとのことは忘れて欲しいんです」 その昂然とした口調に、もう何を言っても無駄だ、と杉は思った。呼ばれて行った龍の部屋で、光江との経緯をかいつまんで杉が語ったとき、「承知しました、万事、僕にまかせて下さい」と、同じ口でこの通訳は言いきったものだ。杉は立ち停まって、もう一度、額の汗を拭った。すると、龍も足をとめ、はじめて窺うような視線を杉へ送って来た。二人の視線が、空間でちらっと交錯した。だが、すぐ目を逸らしたのは杉のほうであった。 馬夫は相変らず馬と並んで、ゆったりと歩いている。杉もまた歩き出したが、遽に両脚がずっしりと重くなった感じであった。 ――またしても俺はこの男に裏切られたのだろうか。 けれども、龍の豹変を今になって責めたところで、それが何になろう。この男は、小池も言っていたように、日本工作人係りという自分の職務に忠実だったに過ぎないのだ。一人でも多くの工作人を新しい解放区へ連れて行く。それが、この男の仕事なんだから――。 足裏に伝わってくる地熱を確かめるように一歩一歩ゆっくり運んで、そのくせ杉は、なんのためにこうして馬車と並んで進んでゆくのか、虚しい気持だった。 「おや、歌がきこえますね」 言うだけ言って気分が軽くなったのか、龍明英が、いつもの明るい表情で後ろをふりむいた。つられて杉も頸をめぐらすと、いつの間に起き出したのか、小池が不精髭をはやした顔を、馬の蔭から覗かせていた。 「なんの歌ですか?」 馬をやりすごし、馭者台に腰かけた小池へ龍が訊いた。 「いやあ……」小池はいくらか照れた顔で応えた。「故郷の、古い民謡ですよ」 「もう一度、聞かせてくれませんか」 「それより、今夜泊るところまで、あとどれくらいです?」 軍服の袖口を龍が捲ると、円い大型の腕時計の硝子が、キラッと反射した。 「あと二時間ほどですね。きょうは早目に、五時ごろには休もうと思いましてね」 龍は、半分は杉にも聞かせるように言ってから、 「ね、小池さん、是非、もう一度うたって下さいよ」 その妙に阿諛ねるような口調が、杉には、感情を弄ばれた直後だけに余計苦痛に感じられた。 「わたしはむしろ、龍さんの歌を教わりたいな」 小池が髭の間から歯を見せて言った。 「僕の歌? 何んの歌です?」 「無論、流茫の曲です」 「流茫の曲、か」 龍がふと、遠い空の彼方を見るような表情になった。 「あの歌を初めて聞いたのは、貴方がたが病院に来て一週間ぐらい経った頃でした。夕方、裏山へ散歩に行ったら、警備隊の部屋からきこえて来たんです。実にいい歌だと思いました。演芸会で是非合唱して貰うように、李さんにも頼んで、愉しみにしていたんですが……」 小池も、遥か前方へ視線を投げて言った。 「流茫の曲か」もう一度、龍はそう呟いてから、 「うたってみましょうか」 少し照れ臭そうな表情を杉へ向けた。杉は戸惑って、向日葵畑へ目を逃がした。
美しい山、懐しい河、追われ追われて、 果てしなき旅よ、 道づれは泪、倖せはない、 国の外にも、国のなかにも……
歌詞にふさわしい哀調を帯びた歌声であった。真夏の陽が氾濫する四囲の光景には、およそそぐわぬその一節々々が、杉の心の奥に深く沁みた。髭面を少し左に傾けて、小池も神妙に耳をすませている。車輪のギーイ、ギーイというゆるやかな軋みが、ふと伴奏めいても聞こえた。 ――まさか、われわれへの皮肉ではあるまい。帰国のあてもなく、喰うためとはいえ、異国の軍隊に従ってさらに奥地へ流れてゆくわれわれ四人への――。だが、それにしても、小池は、なぜ急に、こんな歌を教わろうとしたのだろうか。流浪じみた今の境遇が、自然と小池にも哀しい歌を撰ばせたのか。それとも、単なる退屈しのぎか。地を這う龍の影を、一、二歩遅れて見詰めているうちに、杉は、自らはぐらかそうと努めていた怒りが、ゆっくりと胸の裡にひろがってくるのを感じた。 だが、歌い終えた龍をふり仰いで、 「龍さん、もう一度、お願いしますよ」 と頼む小池の表情には、歌詞に心を動かされている様子はあまり見られなかった。杉は、小池へも、怒りに似たものを覚えた。 「弱ったなあ」 龍明英は杉をかえり見て、いかにもきまり悪そうに唇を歪めた。 「是非、聞かせて下さい、僕にも」杉は充分な皮肉を罩めて言った。 「じゃ、あと一回だけですよ」 龍は念を押してまた歌いはじめた。今度は、前よりも低い声であった。
ふるさとはどこ、ちちはははどこ、 国は盗まれ、身よりは殺され、 さすらい流れて、ゆく先きはない、 国の外にも、国のなかにも……
そっと近寄って覗くと、龍は、軽く目を閉じていた。 「国の外にも、国のなかにも――」杉も呟いて瞼をあわせてみた。将しく今の俺たちは、国の外にも国のなかにも、行く先きはないようだ。あれほど再びその土を踏むことを希っていた内地も、その後龍からきかされた情報では、東京をはじめ主な都市は米軍の空襲で殆ど焼野原になり、食糧難の日本では、餓死者がすでに十数万人も出ているという。そして、合法政党と認められた共産党が、革命への準備を着々と進め、日本はこの東北と同じように近いうちにかならず生れ変る筈だともいう。どこまでが本当の話か、むろん杉には判断できるわけもなかった。「元共産党員」とか「あの男は赤だ」という表現が、そのまま悪い人間に対する言葉として使われていた時代に杉は育ってきた。それがどのような思想なのか、考えてみたこともなかった。若し龍の話が真実ならば、革命近いそのような内地に戻っても、このまま、この満洲に居ても同じことかも知れない。いや、ひそかにそう思ったからこそ俺は、龍に呼ばれて彼の部屋へ行ったあの日、自ら光江とのことを龍に打明けたのではなかったか。杉は目を瞑ったまま、五日前の龍との会話を思い泛べた。 ――龍は、杉が部屋の扉を閉めきらぬうちに言った。 「先刻もとみ子さんに言ったけど、僕の勘は的中しましたよ」 「勘? なんの勘です?」 「南光江のことです。あのひとは、前の軍区でも非常によく働くので、ひそかに開通軍区の政治指導部でもマークしていたのです。やっぱり残留してくれました」 杉には意外な話だった。龍は椅子をすすめながら言葉をつづけた。 「そりゃあ、子供連れというひけ目もあったのでしょうけれど、臨時看護婦のなかでは、兎に角、一ばん熱心に工作に協力してくれました。杉さんも、なかなか目が高いですね」 「違う」と杉は言った。「違います、光江さんが残ったのは――」 「杉さんが好きだったからですか」 龍明英は珍しく声を立てて笑った。自分の冗談がすっかり気に入ったような笑い方であった。杉は、その笑い声がおさまるまで、じっと対手を見詰めつづけ、そして、ゆっくり首肯した。龍の表情が引き締った。 「出来たら、光江さんと結婚しようと思っています」 自分でも思いがけない言葉が杉の口をついて出た。龍の瞬きもせぬ顔を、杉は改めて凝視した。不思議と羞恥はなかった。 「それは結構ですね」 やや暫く経ってから寵はぽつんと言った。賛意など微塵もないその言い方が、かえって杉の気持をあおり立てたのかもしれない。杉は、熱っぽい目つきになって光江との経緯を龍に告白した。いまは一切をぶちまけて、この大陸にとどまる限り、一ばん心頼みになるこの男とより親密にならねばならない、という気持も心底にあった。 「杉さんもやっと本気になってくれましたね」 杉が語りおえると、龍はいつもの微笑を湛えた顔に戻り、静かに椅子から立ち上った。 「僕にまかせて下さい。政治指導部のほうへは、僕からうまく話します。出来るだけ、杉さんの希望どおりにしましょう。……子供を喪くして気を落しているでしょうから、杉さんもせいぜい慰めてあげるんですね。われわれがひそかに期待していた輸送隊長と最も協力的な看護婦の結婚なら、幹部たちだって大歓迎ですよ、きっと」 ――その舌の根も乾かぬうちに、と杉は、見開いた瞼の裏に力をこめて、前を歩いてゆく龍の細い襟足を睨みつけた。若し容易に結婚出来ないとすれば、光江を連れて来たことは、とんでもない間違いになる。夫を奪われ、児を喪ったあの女を、俺はさらに、内地にさえ還れなくさせてしまったのか。それに、幹部学校の入学者の人選をまかせられたとき、軍側の勝手な評価の鼻をあかすつもりで光江を選んだことも、結果は、彼等の期待どおりになっていたのかもしれない。暑さを感じないのか、相変らずきちんと上衣を着けている龍の後ろ姿に目を据えているうちに、杉は、いちどきに汗がふきこぼれてくるような憤りを全身に覚えた。憤りのなかには、背を焦すような焦躁もあった。 「おや、龍さん、部落が見えますよ」 馭者台から小池がのび上って言った。右手の向日葵畑が切れて、その向うに、低い土壁がのぞいていた。 「あすこですか、今夜泊るのは?」 「おかしいな、こんなに早く着くわけがないんだが……」 先頭の馬車がとまった。幌の中から、断髪、偏平な顔つきの郭医科長夫人が、しきりに手招きしているのが杉にも見えた。もう一度腕時計を覗いてから龍は、 「じゃ、またあとで」 言い残して、前の馬車へ向って身軽に駈け出した。ひと足ごとに小さく舞う土埃を、杉と一緒に見送っていた小池が、ふと頸をかしげた。 「杉さん、聞こえる?」 「何が――」 「音ですよ。あの音ですよ。ほら、あれは河の音かもしれませんよ」 耳をすませたが、杉には何も聞こえない。 「河音だ、たしかに河ですよ。嫩江が、この近くに流れているのかもしれませんね」 小池は急にはしゃいだ声になった。 「河だったら、ひと泳ぎしたいな。これでも学生時代は水泳部にいたんですよ。杉さんも泳ぎますか?」 杉が曖昧に微笑うと、 「よし、ひとっぱしり、訊いて来ましょう」 馭者台から若者のように小池は跳び降りると、そのままの勢いで駈け出した。杉は、すでに歩みをとめた自分の馬車の後ろへ廻った。 幌を覗くと、いま起き直ったらしい光江ととみ子が、這って出てきた。 「部落に着いたらしいよ。きょうは、此処泊りかもしれないね」 杉は、努めて明るい声を掛けた。 「河があるらしいんだ。君たちも、水を浴びたら」 まさか、と言うように光江がかすかに頸をふった。 杉の手を藉りて馬車から降りた光江は、眩しそうに目を細めて、おくれ毛をかき上げた。遠く目の届くかぎり、真すぐにつづいている今きた道に、二条の轍の跡が、これも真すぐにつらなっている。 「まったく広いなあ」 光江の肩にそっと手を置いて今更のように言いながら杉は、二度とこの道を通ることはあるまい、と思った。 「龍さんと、何を話していらっしゃったの?」 光江が皺のよったブラウスの背をむけたまま訊いた。 「うん、訥河に着いたらね、僕ら四人だけで住める家を捜してくれるってさ」 「そう」 気のない返辞に、嘘を嗅ぎとられたのを承知しながら、 「小さな街だけど、斉々哈爾より暮しよいそうですよ。水道はないが、水は凄く綺麗だって……」 「わたし、少しは色が白くなるかしら」 傍へ降り立ったとみ子が、笑い声で応えた。 「なるとも」 「じゃ、今度こそ、素晴らしい男をつかまえられるかな」 杉は、とみ子の肩を軽く敲いた。今頃、とみ子が好意を寄せていた片桐は、杉が好きだった節子と、斉々哈爾の街の片隅で、きっと夫婦になっているに違いない。この道を二度と通らない限り、あの二人とも、逢うことはないだろう。 「杉さん、やっぱり嫩江がすぐ近くに流れているそうです。龍さんも夕食前にひと泳ぎしようかって、言ってましたよ」 戻ってきた小池が、弾んだ声で知らせた。 「じゃ、三人で競泳しましょうか」 誘われて杉も、本気に、泳ごう、と思った。 「わたし、誰に応援しようかしら」 光江がはじめて笑顔を見せた。 「きまってるじゃない。小池さんの応援はわたしよ」 ねーえ、といった風にとみ子に見あげられて、杉はあわてて視線を向日葵畑へ向けた。そして、 ――革命。 ――結婚。 ふと、胸の裡で呟いてみた。どちらも、いまの杉には、遠い問題のようだ。だが、この大陸にとどまる限り、やがてはぶつからなければならない問題でもある。 ――そのときは、そのときだ。いまは唯、光江のために、いや、連れて来た三人のために、出来るだけ明るい顔でいることだ。 「あ、龍さんが呼んでいるわ」 とみ子の声にふりむくと、先頭の馬車の蔭で龍明英が手招きしていた。 「小池さん、僕もあとで、さっきの歌を教わろうかな」 杉は、ゆっくりと前の馬車へ近づいて行った。
二の章
部落の広場で車座になっての夕食がおわったのは、四囲がそろそろ昏れかけた頃であった。少し出てきた夕風が、水浴びしてさらさらした肌に快く、箸を置くと、満腹感と同時に、疲労がどっと杉の全身を襲った。足を投げ出し、片肘をついて食後の一服を深々と吸いこむと、そのまま目を閉じてしまいたいような懶さであった。隣りの小池も、マッチの軸を口に啣えたまま、穏やかな目で、昏れてゆく空を見上げている。とみ子と光江は、汚れた食器をひとところに集めていた。 向い側で膝小僧をかかえていた龍が、上衣の胸ボタンを掛けおえると、勢いよく立ち上った。 「あすは、朝五時に此処を出発、あすじゅうに訥河へ到着の予定です。今夜は、早く休んで、充分に睡眠をとって下さい」 食器を片手に持ってとみ子が龍をふり仰いだ。 「龍さん。あしたも、きょうと同じ馬車なの?」 「いえ、あすは、大きな本物の馬車を用意します。ご心配なく」 龍はニヤッと笑い、傍の郭夫人に中国語で何か言った。夫人は軽く頷いてから大儀そうに立ち上ると、目で光江たちを差し示しながら早口で言った。龍はちょっと眉を寄せたが、すぐ日本語で、 「光江さんと、とみ子さんは、夫人と一緒に休んで下さい。家は――」と龍は右手の大きな土壁を指さして、「あの村長の家です」 光江が、不安そうな目を杉へ投げてきた。同時にとみ子が、不服そうに唇をとがらした。杉は上体を起こし、わざと女たちを無視して小池へ顔をむけた。 「久しぶりに泳いだので、すっかり疲れましたよ。僕らも早く寝ましょうか」 「年寄りの冷水でしたね、まさに」 小池はマッチの軸をはき出すと、大きく伸びをして、ゆっくり頸を廻転させた。 「杉さんたちは」龍の声に小池は両手を伸ばしたまま頸の運動を中止した。龍は少し言いにくそうに低い声になった。 「僕と一緒に、あの納屋で我慢して下さい」 土壁から二、三歩はなれた処に、屋根の低い、二間四方ぐらいの小屋が建っていた。鶏が二、三羽、小屋のまわりの地面をつついている。雑穀小屋でもあろうか。やれやれ、と言った表情で小池がふりむいた。杉も苦笑した。 やがて郭夫人に促されて女たちが土壁のなかへ消えて行ったあと、小池が、老人のように腰をたたきながら立ち上った。先刻、河の存在をたしかめに前の馬車へ駈けて行った姿とは別人のような、いかにも億劫そうな恰好であった。杉も軍袴の埃を払って起き上った。 「おや」小池が、小屋の蔭を覗きながら「杉さん」と呼んだ。傍へよると、 「あの小孩(シヨーハイ)、さっき、河にいた子じゃありませんか?」 小屋の蔭から坊主頭をのぞかせている真黒い小さな顔には、たしかに見覚えがあった。杉が手招きすると、白い歯を見せて、四囲をそっとうかがうように近づいてきた。顔も手肢も一様に陽灼けして、まるで黒人の子供のようであった。二重の瞳が、かすかにわらっていた。 先刻、この部落から一町ほどはなれた河原で甲羅を干していたとき、向日葵畑の端れから、おずおずした表情で杉たちを覗いていた子供である。そのときも杉は手招きしたのだが、小孩は、ついに傍へ来ようとしなかった。まだやっと六つぐらいで、大きな葉の蔭に身をすりつけ、杉たちが服をつけおえるまで、見守っていた。 「お前、この村の子供か?」 小池が傍へよって、おぼつかない中国語で訊くと、小孩はコックリした。 「母親(ムーチン)は?」 幼い目をふと哀しげに伏せて頸をふった。 「わたしの子供も、ちょうどこれくらいになっていますよ」 小池が、小孩の汚れた頭髪を軽く撫でながらふりかった。 「お子さんは、一人だけですか?」 ええ、と小池は言い、跼みこんで小孩に何か囁きかけた。逢いたいだろうな、と杉は想い、そう言えば今まで、高等学校の教師をしていたということ以外、何一つ小池の家庭については思いを巡らしたことのない自分にはじめて気づいた。この男には故郷に妻子が居たのだ。それなのに、わたしだけは約束を守りますよ、と言われたとき、つい心細さから感謝するだけで、俺は辞退しようともしなかった。光江やとみ子ばかりか、この妻子ある男まで、俺は再び内地へ還れない境遇へつきおとしてしまったのか。それとも小池は、俺と同じように斉々哈爾に居ても奥地へ行っても、還れないという点では同じだとわりきっているのか。 併し、男の約束を守るということだけで、内地の妻子への想いをたちきれる筈はない。少くとも奥地へ行けば、万一、送還命令が出たときに、斉々哈爾の残留者より帰国の日が遅れることだけは間違いない。いや、ひょっとすれば、たとえ引揚げが再開されても、永久に還れないかもしれないのである。…… 「杉さん、あの児は、ひょっとすると日本人の児かもしれませんよ」 傍へ戻ってきた小池が殺した声で言った。 「日本人の? 本当かい?」 「あの顔は、満人じゃありません。混血かな、いや、たしかに日本人の児ですよ。言葉だって、満語を碌に知りません、むろん、日本語はわかりませんが――。杉さんも、開拓団の連中が避難してくる途中で、足手纏いになる子供を満人部落に置きざりにしてきたという話を聞いたことがあるでしょう?」 杉は頷いた。そして、怪訝そうにこちらを見上げている小孩の顔を見詰めた。 言われてみれば、満人の子供には珍しい二重瞼である。鼻は、つまんだように小さいが、その、しんこ細工のように可愛らしい鼻も小さいなりにきちんと鼻翼を持ち、とかく三角形で殆ど鼻翼のない満人の顔とはちがっているようにも見える。杉は反射的に、龍明英の貌を思い出した。 「若し日本人の児だとすると……」言いかけて、杉は狼狽して口を噤んだ。急に胸を締めつけてくるものがあった。斉々哈爾に居た頃、輸送隊員から聞かされた国境附近の開拓団の悲話が、はっきりと記憶の底から泛び上った。自らの手で幼児を殺してきた父親や、僅かな金で満人に吾が児を売った母親たちの話は、杉が耳にしただけでも十指に余った。斉々哈爾に辿り着いてから、発狂した若い母親もいたという。噂話として聞いたときは、そんなこともあろうかと、唯いたましさに眉を寄せただけであったが、いま、目の前に佇んでこちらを見上げているのがその悲劇の子の一人かもしれないと思うと、杉の心は、まるで自分が犯した罪の結果を見せつけられたように、烈しく脅えるのだった。 「違いますよ、ただの満人の児ですよ」 自分にいいきかすように杉は打ち消した。小池にも否定して貰いたかった。が、 「いや、たしかに、日本人の児です」 小池は即座に、確信に満ちた声で答え、シャツのかくしから巻煙草を一本とり出すと、黙って小孩に差し出した。皓い歯をみせて子供はすぐ受け取り、大切そうに、破れたズボンのポケットに蔵った。 「お前(ニイ)、それを父親(フーチン)にやるのか?」 小孩は頸を強くふり、 「ただではやらない。饅頭と交換するんだ」 そう答えて急に狡そうな顔つきになった。 「ご覧なさい。やっぱり満人の児ですよ」 杉は救われたように言った。併し、今度は小池が強く頸をふった。 「満人の児だったら、自分で吸いますよ」 十歳にも満たぬ幼児が大人たちの真似をして煙草を吸っている光景を、これまでに杉も幾度か目撃していた。だが、そんなことが証拠になるわけはない。小池がまるで意地を張っているようにも感じられ、 「若し日本人の児だとして」杉はいくらか皮肉な口調になって訊いた。「どうしようと思うんです、小池さんは」 「別に――」 小池は、それがもう癖になったように不精髭を撫でながら、夕闇に沈んでゆく部落の隅のほうへ目をむけた。 「いまのわれわれには、どうしようもありませんよ。この部落には、まだ他にも日本人の子が多勢居るかもしれませんからね」 不意に杉は、大きな力で全身をゆすぶられるような衝動を覚えた。 「この児だけでも、救えるかもしれません」 小池が驚いた目を向けてきた。杉は少し上ずった声になった。 「一緒にこの児を連れて行きましょう。こんな満人部落に居るより、せめて僕ら日本人と一緒に居たほうが……」 人間の心は、ときに、一瞬前まで自分でも考えてもみなかった動きかたをするものなのだろうか。杉は自分の言葉にかすかな昂奮を覚えた。 「連れてゆく?」小池がまじまじと見詰め、やがてゆっくりと頸をふった。 「この児には、此処に居るほうが幸福ですよ」 「なぜ?」 「たとえ龍さんが許可しても、わたしは反対です。杉さんは、よし子ちゃんの代役をこの児にさせるつもりですか」 杉は返辞につまった。小池の言うように、心の底に、逝ったよし子の代りをさせようとする気持が動いていたのかもしれない。 「光江さんにとっても、残酷ですよ。あのひとは、せっかく過去の総てを忘れようとしているんですから」 言葉の判らぬ大人たちの会話に倦きたのか、小孩は、くるりと背をむけると、広場の右隅のほうへ歩き出した。呼びとめようとした杉を、小池が目顔で制した。小さな裸足が、ぴたぴたと地面を遠ざかってゆく跫足が杉の胸に名状しがたい感情を波立たせた。小さな影が、崩れかけた土壁の向うにかくれたとき、 「あら、まだ豚小屋に行かないの」 とみ子が声をかけながら近づいて来た。石鹸の清潔な匂いが、薄闇のなかに漂った。 「やっぱり豚小屋なの? あすこは」 小池が、わざと明るい声で訊き返した。 「ふふ、冗談よ。大豆を入れておく小屋ですって、でも光江さんがね、杉さんがあんな豚小屋みたいなところに寝るのに、私たちが、ちゃんとした家で寝るのは申訳ないって。御馳走さま」 とみ子は杉の背を軽く敲いた。 「そうだ、杉さんだけでもあっちで一緒にやすんで貰えるように、龍さんに話してみましよう」 「莫迦なことを言わないで下さいよ」 杉はあわてて小池の言葉を遮ぎった。 「いや、これも冗談ですよ」小池は声を挙げて笑った。とみ子は、杉のあわて方がおかしいと言って、もう一度、前よりもやや強く杉の背を打った。杉も仕方なく和して笑った。三人の笑い声が、ひんやりした夕風にのって流れた。 「髪を洗ったんで、せいせいしたわ」 とみ子が顎をつき出して軽く頭を揺ると、夜目にも濡れて艶々した髪が、浴衣の襟に触れて、かすかな音をたてた。 「光江さんも、もうお風呂から上るわ。杉さんたち、今まで此処でなにをしていたの」 杉が小孩のことを言いかけようとすると、小池は再び目顔で抑えた。 「いま、その辺をひと廻りしてきたんですよ」 「食後の散歩? 洒落てんのね。あなたたちもお風呂に入ってきたら」 「いや、先刻、河で水を浴びたから、いいですよ」 「いやになっちまうわ、郭夫人ときたら。せっかく龍さんが気をきかして用意してくれたんだからって、私がいくらお風呂をすすめても、絶対に入らないのよ。妊娠中は、なるべく入浴したほうがいいのにね。あの人たち、どうしてああ不潔なのかしら。――私、満洲に居る間は、とっても子供なんか産む気になれないわ」 「おや、とみちゃんも、赤ん坊が欲しいのかね」 「私だって女よ。本当はね、小池さん。私、片桐さんの児が産みたかったの」 杉がはっとしたとき、とみ子は、けたたましい笑い声を挙げた。もう暗くて表情はよく判らなかったが、笑い声には、あきらかに自嘲がこもっていた。流石に小池もすぐ応酬できぬらしく、不精髭をやたらに撫でていた。 「ね、光江さんが出てきたら、皆でもう一度、河のほうへ散歩に行かない?」 「行きましょう。とみちゃんとなら、どこへでも」 小池の受け方は、とってつけたようであった。
小池の鼾は、ときどき小さくなりながらも、寝ついたときからずっと続いていた。気になり出すと、杉はますます目が冴えて、眠れなかった。小屋のなかは、壁の破れ目から月の光りが微かに射し込んでいるだけで、目が慣れても、殆ど闇に等しかった。小池は丸一日馬車に揺られたうえに水泳の疲れが加わったらしく、杉の左隣りで、土間に分厚く敷いた藁の上に横になると、五分と経たぬうちに鼾をかき出した。ねそびれた杉は、闇のなかで、幾度か光江の姿を描いては消した。今頃、光江も、とみ子と並んで横になりながら、やはり俺のことを考えているのではないだろうか。右に寝ている龍明英は、死んだように寝息さえ立てない。寝返りも打たぬらしく、藁の動く音もしなかった。 最初は、龍も起きているのかと思い、殺した声で二、三度名を呼んでみたが、右隣りからの返辞はなかった。 ――そっと忍び出てみようか。それにしても、何時頃だろう。 杉は、寝たまま藁の音を立てぬように躰をよじって軍袴のポケットを探り、マッチを取り出した。 小さな炎に、龍の後ろむきの寝姿が、ぼんやりと浮き上った。その左腕にはめられている筈の腕時計を覗こうとして伸び上ると、龍は、両手首をそれぞれ反対側の袖口に差し入れていた。幼い頃、だぶだぶの服を着せられたときに、わざと服の袖に手を入れて胸の前で輪をつくり、“支那人みたいだ”と嫌がったことが思い出された。漫画や子供雑誌の挿絵でも、支那人はいつも袖に手を入れていた。 ――やはりこの男には、中国人の血が流れているのだ。 マッチの火が燃えつきるまでのほんの僅かな間、杉はそんな感慨に囚われた。まるで他人事のように明るい顔で自分の出生を語ったが、本当にこの男には日本人の血が混っているのだろうか。あれは、俺を引き留めるための創作だったのではないだろうか。闇の中で、杉はマッチの箱を握りしめながら、龍の頭が在る辺りへ見えぬ目を注いだ。まだやっと一時を過ぎたばかりぐらいであろう。夜風にふかれて河の近くまで行ってみようか。光江を思って熱っぽくなった頭も、そうすれば少しはすっきりするだろう。だが、はっきりと時間のわからぬことが、妙に杉を不安にさせた。 ――あの夜光時計があったらなあ。 一年前まで、大切に片ときもはなさず腕にまいていた時計が、杉の脳裡に泛んできた。病院に居た頃は、起床も消燈も食事時間も、総てベルが鳴ったので腕時計を持たなくとも不自由は感じなかったが、斉々哈爾を出発してからは、一切が龍の腕時計によって事が進行していた。一日中、馬車にゆられている旅なので、特に時間を気にすることもなかったが、一旦、いま何時頃だろうと気になると、それを知る手がかりを失っているだけにかえって焦躁を覚え、せっかく、“時”から解放されている筈なのに、逆に、“時”に縛られてみたいような気にもなるのだった。 ――売らなければよかった。 今更のように杉は、一年前に手ばなした腕時計への愛惜を反芻した。中学の入学祝いに、一ばん上の義兄が贈ってくれたその夜光時計は、友人たちの羨望をあつめた自慢の品であった。入隊するときも腕にはめ、一期の教育期間中も硝子が毀れないように腕をかばってつい演習中の動作がにぶり、そのために班附上等兵に殴られたこともあった。消燈後、毛布のなかで青く光る文字盤を見詰め、中学時代の思い出に、思わず泪が滲んできたこともあった。いわば青年への成長期を、自分と共に克明に時を刻んで一緒に過ごしてきたその時計を、杉が思いきって金にかえたのは、一年前、奉天の仮病院から大連へ脱出する資金が欲しかったときで、当時の杉は、それほど内地へ還りたい気持が烈しかったとも言えよう。 ――新京の病院でも拒絶された杉たちの病人部隊が、さらに丸一昼夜かかって奉天に辿り着いたとき、すでに街にはソ聯軍が進駐しており、駅構内の引込み線には、人や荷物を満載した数十本の貨車の列が釘づけになっていた。病友の手に支えられて、杉は仮病院の弥生小学校の二階の教室に収容され、その後丸二週間、烈しい肋間神経痛と、午後になると八度を越す熱に悩まされた。 教室一杯に毛布を敷きつめ、その上に約五十人ほどの病兵が横たわっていた。他の教室も同じだった。石頭の病院からずっと一緒だった前川という同じ幹部候補生が、親切に杉の面倒を見てくれた。同い齢だが、杉とは比較にならぬほど大人びた前川は、大阪生れだと言ったが、言葉には殆ど関西訛りがなく、同室の患者たちとも、誰彼の差別なくいつも朗らかそうに話し合っていた。絶壁型の後頭部に、ちょうど蹄鉄の型をした大きな禿があり、患者の一人が無遠慮にその由来をきいたとき、前川は指先きで禿をゆっくり撫でながら、 「小学校時代に、直りかけたおできに、校庭で不意に飛んで来た野球のボールがぶつかったんですよ。自分はそれ以来、野球が大嫌いになりました」 と言って、周囲の者たちを笑わせた。杉も寝ながら聞いていて吹き出した。以来、前川のことを、誰もが禿川さんと呼ぶようになったが、そんな綽名には小さい頃から狎れているとみえて、前川は一度も厭な顔をみせなかった。 微熱と神経痛がおさまると、いつか杉は、教室の前の廊下へ出て、そこの窓枠に凭れ、下の運動場を眺めている日が多くなった。 コの字型の校舎に囲まれた長方形の校庭には、競技用の白線が消え残っていた。それを見下ろすたびに杉は、遠い昔、幼い胸をふくらませた運動会の情景を思い出し、衰弱した躰を感傷にひたらせた。ときおり、赤十字の腕章をまいた衛生兵が、小走りに校庭を横切って、そっと右手の裏門から外へ出てゆく姿も見受けられた。そんな姿を見ると、「進行係」という腕章をつけた先生たちが、呼子笛を口にくわえながら、生徒たちを指図していた光景が、ありありと泛んできて、杉は窓枠に凭れたまま、暫く、現実の己の境遇を忘れるのだった。向い側の廊下の窓にも、杉と同じように汚れた白衣を着た病兵たちが並んで、終日ぼんやりと校庭を眺めていた。校舎は、北満の各病院から避難してきた病兵たちで、教員室も小使部屋も満員らしかった。 前川が、街で日本人狩りが始まった、というニュースを運んできたのは杉たちが移ってきて二十日ほど経った頃――すでに九月も中旬に近かった。 脱走兵の捜索に名をかりて、街に居る若い日本人の男を、ソ聯兵が自動小銃をつきつけ片っぱしから拉致してゆく、という話だった。 「郊外の北陵という処に捕虜収容所があって、其処から毎日千人ずつ、シベリヤ行の貨物列車へ乗せられるそうですよ」 前川の話に、同室の者たちは一斉に表情をかたくした。今にこの病院にも露兵(ローモズ)がやってきて、軽症者は引っぱり出されるのではないか――、一人がそんな想像を口にすると、もうそれが事実のように次から次へと拡がって、翌日からは、廊下で立ち話をする者さえなくなった。食事のとき以外は、総ての病兵が、行儀よく毛布を胸までかけて横臥した。 厠の帰りに廊下で行き逢った担当看護婦の宮本に、杉はそっと噂をたしかめた。ソ聯兵の乱暴を懼れて、軍服軍帽姿をした宮本看護婦は、帽子の庇の下から、それだけでも女と見破られてしまうに違いない睫毛の長い目でじっと杉を見上げ、 「大丈夫、杉候補生のような重症者は、連れてゆかないわ」 それじゃ本当に病兵たちも狩り出すのか、と杉が重ねて訊くと、宮本は廊下に誰も居ないのを見定めてから一段と声を低くして言った。 「きのう、ソ聯軍の女軍医がやってきて、患者名簿を調べていたわ。あとで軍医殿にきいたら軽症者と重症者を選別しろって、命令したそうよ」 膝頭が顫えてきそうになるのを杉は堪えた。 「でも、この話、誰にも話しては駄目よ」 宮本は片目をつぶって念を押すと、急に杉の左手を摑み、手首を強く握りしめた。 「私が居る限り、貴方は大丈夫。最後まで、重症患者に入れておくわ」 軍袴の腰を揺って廊下を駆け去ってゆく宮本看護婦の後ろ姿を見送り、杉は手首に残された意外に強い女の握力に戸惑った。それまで、日に一回の検温のとき以外はこれと言って親しい口をきいたこともない看護婦である。思わぬ好意を示されて、杉は、病室へ戻っても、何かだまされているような感じからなかなか抜け出せなかった。 翌々日の午後、軍医からいきなり名前を読み上げられた五人の患者が、病室を出て行ったきり、夜になっても戻って来なかった。あとできくと他の病室でも五人ずつ連れ去られたという。患者全員が一ぺんに啞になったように口を閉ざし、校舎全休が“死人の家”と化した。 翌日の朝、さらに十人の患者が呼び出された。病室がより一層重苦しい沈黙に閉ざされたその日の午後、前川が、杉の耳許で囁いた。 「大連まで逃げれば、引揚げ船に乗れるそうですよ。たとえ乗れなくても、大連へ行けば日本人狩りはないそうです。自分は二、三日中に此処を脱走する計画です」 目が、君も行かないか、と誘っていた。 「大連まで、どうやってゆくの?」 「満人にまぎれ込んで貨車に乗るんです。七十円出すと、のせてくれるって話です」 遽には信じ難かったが、此処に居て、いつ呼び出されるかと、恐怖におののいているよりはましかもしれない、と杉は思った。それに自分より遥かに分別のありそうなこの男と一緒なら、脱走はうまく成功するかもしれない。 「でも、僕は一銭も持って……」言いかけて杉は、毛布から左腕を抜き出した。「これ、売れるだろうか?」 前川は手首ごと執って夜光時計を少時眺めた末に、 「最低五百円、いや八百円には売れますよ。――でも、いいの?」 「いいんです。これで二人の汽車賃にしましょう」 内地へ還れるなら、時計など問題ではない。お願いします、という意味を罩めて杉は同僚を見上げた。前川は頼もし気に大きく頷いた。 時計は、衛生兵の手を経て八百円で売れた。そのうちから満服を整える金として三百円を前川に渡し、残りは千人針にくるんで、毛布の下にかくした。次の日、さらにまた五人の患者が室から消えた。いずれも杉と症状のかわらぬ者たちであった。もう、宮本看護婦の気まぐれな言葉をあてにしてはいられなかった。いつ脱走するつもりか、と杉のほうが積極的になると、あと二、三人同志を募ってから、と前川はかえって慎重になった。その落着いた返辞に、杉は脱走の成功を確信した。 毛布の下にかくした五百円の金が盗まれているのに気づいたのは、いよいよあすの夜脱走しようと前川が告げた日の午後であった。杉は色を喪い、両隣りの毛布も全部、剥がして調べた。金は出てこなかった。何が無くなったんだ、と同室者に訊かれ、「お守りだ、もういいんだよ」と、杉は肩を落してぼんやり答えた。腕時計を売った金を持っていることは、前川の他には誰も知らぬ筈であった。その前川は、他の室の同志と打合わせてくると言って、昼前から病室に居なかった。 夕食前に戻ってきた前川に、杉はもう半分泣き顔になって金が紛失したことを訴えた。 前川は疑わし気な目附きで幾度も、「本当に無いのか」と念を押した末に、ふっと顔をそむけると、 「今になって金を持たぬ者は、一緒に連れては行けないな」 冷たい口調で言い、また病室を出て行った。杉はぽかんと、後頭部の馬蹄型の禿を見送った。 夕食後、厠にしゃがんで、杉は哭いた。金がなくなったことより、裏切られた哀しさが、堪えようとしても泪を溢れさせた。泣き顔を見られたくないので、厠を出ると、暗くなった校庭の隅にそっと佇み、ますます孤独の哀しみを味わった。もうすっかり薄くなった校庭の白線が、杉を殆ど絶望的にさせた。 「杉候補生じゃないの。どうしたの、こんなところで」 人の気配に踵を返そうとしたとき、宮本看護婦が傍に寄って来た。問われるままに杉は、一切を看護婦に喋った。病衣の背に廻わされた女の手が温かく、喋りながら杉はまた泪ぐみそうになった。 「あの禿の仕業よ。なんて非道いことをするんでしょう。脱走計画なんて嘘よ。最初からあんたの腕時計を〓っていたのよ」 そこまでは疑いたくないと言う杉の背を、宮本看護婦は焦れったそうに軽く敲き、 「いいわ、私が代って仇を討ってあげるわ」 この前よりさらに強く杉の手を握り、宮本は勢いよく階段を昇って行った。 翌朝、軍医が前川の名を呼び上げたとき、杉は頬から血が引くのを感じた。そして思わず、前夜宮本にきつく握られた左首を、右手でかくすように押えた。前川は、病衣の帯を締め直すと、一緒に呼び上げられた四人の誰よりも早く廊下へ出、部屋にむかって、 「皆さん、お世話になりました」 馬鹿叮寧な最敬礼をした。見せびらかすようなその馬蹄型の禿から、杉は、あわてて目を逸らしたのを憶えている。 ――あのとき、時計の金を盗みさえしなければ、前川はシベリヤヘ行かずに済んだかもしれない。 手のマッチ箱を再びポケットに蔵いながら、杉は胸で呟いた。いや、俺が唆かされて時計を売らなければよかったのだ。あの当時は、自分が被害者だとばかり思っていたが、今になってみれば、むしろ被害者は前川だった。彼奴は今頃、シベリヤで死んでいるのではあるまいか。俺が宮本看護婦に喋りさえしなければ、前川は巧く満人にまぎれて、大連まで逃げのびることが出来た筈だ。そして、それから一週間目に、もう終ったと思っていた最後の人選があった日に、宮本看護婦が不意の発熱で倒れさえしなかったら、俺もあのまま、奉天にとどまることが出来たに違いない。 ――もう、よそう。 杉は、暗闇のなかで自分に言いきかせて回想を打ちきり、音を忍ばせて起き上った。小池は相変らず規則正しい鼾をくりかえしている。爪先きで布鞋を捜しあて、そっと扉を押すと、戸外は、意外なほど明るい月夜であった。 目の前の土壁が、月の光りに黒い翳を地に匐わせている。狭い通路から母屋を窺うと、窓から、かすかな灯が洩れていた。光江は起きているだろうか。暫く、土壁に手をかけて覗いていたが、やがて杉は、跫音を殺して広場へ出た。更けた夜風に、抱えて出た上衣を着た。自分の影を踏んで杉は、広場を横切り、河岸のほうへ歩き出した。昼間は聞きとれなかった河音が、いまは、はっきりと耳に伝わって来た。 部落を出はずれると、向日葵畑の向うに、重なりあった巨きな葉の蔭から、河面を月光ににぶく光らせた嫩江がのぞいていた。 ――昼間、宿営準備に忙がしい龍明英は、ついに杉たちの水浴に加わらなかった。とみ子が、執拗いまでに誘ったが、若い通訳は、部落の満人たちと声高に話し合うばかりで、見むきもしなかった。 「龍さんはきっと、金槌なんでしょ」 しまいにとみ子は、そんな悪たれを言った。 「金槌?」はじめてむき直った龍は、言葉の意味が嚥み込めぬらしく、眉を寄せた。ときには杉なぞよりも正確な日本語の発音をする彼にも、流石に理解出来ぬらしかった。とみ子は、そんな顔がおかしいと言って、傍若無人な笑い声を撒き散らした。満人たちが呆気にとられた表情でとみ子を眺めていた。 「金槌って、どんな意味なのです?」 生真面目な顔で龍に訊かれて杉はうろたえた。 「いや、いいんです。なんでもありません」 その杉の答え方がよほどおかしかったのか、今度は光江までが失笑した。小池もニヤッとしかけ、これは途中で気づいて、困ったようにやたらに不精髭を撫でた。龍は杉たちの態度から侮辱されたと思ったのであろう、明らかにムッとした表情になり、満人たちを促して大股に村長の家のほうへ去って行った。 水面は斉々哈爾の街はずれを流れていた河とは比較にならないほど澄んでいた。河幅も半分ほどの狭さだった。併し水温は、爪先きを浸したときは生ぬるかったが、腰までつかると意外な冷たさで、結局、杉と小池は、二、三掻き、水泳の真似ごとをしただけですぐ岸へ戻った。 「なあんだ、せっかく応援しようと思っていたのに」 とみ子はつまらなそうに言って、杉の裸身から眩しげに目をそらすと、光江と並んで土堤の斜面に跼み、「いいわねえ、河って」わざとのような嘆声を放った。そのときになって杉は陽に曝された生っ白い自分の裸身に急に羞恥を覚え、女たちからややはなれた斜面に腰をおろしたのだった。 ――小孩が覗いていたのは、ちょうどこの辺だった。あの児も今頃は、死んだようになって寝入っているだろう。 向日葵畑が切れたところまで来て、杉はぎょっとして立ち竦んだ。ひと際ひょろ高い茎の蔭に、ブラウス姿の光江が、両膝を抱えて蹲っていた。声をかけようとして、杉はよした。月の光りを浴びた女の横顔が、あまりにも寂しい翳を漂わせていたからだ。杉は息を殺して光江の姿を見守った。河を渡ってくる夜風がいくらかしめっぽく、杉は上衣の襟を右手で揃えながら肩をつぼめた。女のほつれ毛が、頬の上で揺れていた。 ――やはり寝そびれたのだろうか。それとも、死んだよし子のことを思っているのか。 光江はときおり、手甲でおくれ毛を耳のうえに掻きあげるほかは、河へむけた顔の位置さえ動かそうとはしなかった。杉にはそれが、泪をぬぐっているようにも見えた。布鞋のなかで、杉は無意識のうちに、栂指を強くこすりつけていた。痩せたブラウスの後ろ肩を抱き締めたい衝動を、杉は足指に力をこめることで堪えた。 ――病院を発つまで自室で起居を共にしていた間に、杉は、口数の〓い光江から、それとなく過去の身上話を聞いた。対手の感情を傷つけぬように気を配りながら、併し、識っておきたいことだけは、何気ない話のうちからひき出した。多くは杉の想像どおり、平凡な、身上話とも言えない過去であったが、応召するまで十年一緒に暮した夫については、「口やかましい人で」と光江は言うだけで、杉には、どのような男だったのか、想像をめぐらす手がかりも得られなかった。自分に対して遠慮しているのかとも思ったが、それにしても喋りたがらぬ女の様子から、けっして幸福な結婚生活ではなかったのだ、と杉は自分勝手に解釈した。そう思うことで、過失を弁解しようとしていたのかもしれなかった。 光江が静かに立ち上った。河のほうへ二、三歩行きかけ、思い直したのかゆっくり振りむいた。杉はわざと乱暴に傍の向日葵の茎を押しわけて大股に近づいた。そして思いがけない杉の出現に驚いている女の顔へ、明るい声をかけた。 「そんな恰好で、寒くありませんか」 河にむかって、二人は、身をすりつけるように並んで立った。対岸も一面の向日葵畑で、河岸近くの月光を浴びた葉が、風に、大儀そうに揺れていた。上衣を脱いで着せかけると、光江は素直に両肩を入れた。襟の下にかくれた髪を、杉はそっと持ち上げてやった。とみ子と一緒に洗ったらしく、まだいくらかしめり気を帯びた髪の感触が、指先きから全身へ、ゆっくりと、それだけに或る確実さを持って泌み渡っていった。 「そうしていると、初めて駅のホームで逢ったときのことを思い出しますよ」 光江が心持ち顔を起こして微笑した。あれから三ヵ月、光江ばかりでなく、女たちはなぜか一度も軍から支給された緑色の制服を着ようとしなかった。杉はごく自然に女の肩に手を置いた。 ――単なる同情からではない。俺は、たしかにこの女が、好きになったのだ。 にぶく光る河面に目を預けて、杉は、はっきりと心の裡で言いきった。 「夕方ね、あなたがお風呂から出たら散歩しようと、皆で待っていたんですよ」 「ごめんなさい。郭夫人が急におなかが痛いって言い出したものですから、ずっとつき添っていたんです。馬車に揺られて、若しか流産でもしたら大変だと思ったんですが、すぐ治りましたの。ホッとしましたわ」 手を向う肩に廻し、杉は静かにひきよせた。杉の胸にもたれながら光江は言った。 「私、夫人と約束しましたの。訥河へ行って、無事に赤ちゃんを産むまでお世話することになりました。だって、多勢、看護婦さんが居ても、お産の経験があるのは私だけなんですもの」 「男の児だろうか」杉はふと、さっきの小孩を思い泛べた。 「どうしても男の児が欲しいって、夫人も言ってましたわ。そして、龍さんのような素晴らしい党員に育てるんだって……」 「素晴らしい党員か――貴女も龍さんをそう思う?」 「私には判りません。ただ、目的を持って働いている男のひとって、やはり、いいなあと思います」 「僕らには……」 「ごめんなさい。そんな意味じゃないんです。いいえ、今の私たちには、目的を持つことが出来ないんですもの」 「持つことは出来る」杉は自分でも意外なほど強い口調で遮った。 「踏切ればいいんだよ。一生、内地へ還らない覚悟がつけば、どこまでもこの軍隊と共にいま働くことさえ出来る。それが、いいことか悪いことかわからないけれど、若し僕らが現在の状態を保ちたいならば、そうするより他に道はない……」 むろん自身に言いきかす言葉だったが、光江も躰を固くして聞いていた。この部落に着いたとき、経てきた道をふりかえって遥かに遠い問題だと思っていた革命も結婚も、要は自分の気持一つで、近くにたぐりよせることが出来るかもしれない。胸に伝わってくる女の体温も、いくらか杉を大胆にさせていたようだ。杉は、光江の髪に顎をこすりつけるようにして訊いた。 「光江さんは、開通軍区で、模範工作人だったんですってね」 「違うわ、私はただ、与えられた仕事を出来るだけ真面目にやっただけですわ」 「じゃ、幹部学校へ入学するとき、なぜ、すぐ承知したんです?」 後ろめたい想いをかくして杉は殊更に問うた。 「私、小学校しか出ていませんの」いくらか躰を起こしかけて光江は答えた。「どんな勉強でもいいから、少しでも学問を身につけたかったの。いえ、学校と名前がつくところに、小さいときから憧れを持っていたんです」 杉の胸に、いとおしさがこみ上げた。改めて肩を引き寄せ、その腕に力をこめて杉は言った。 「どんなことがあっても、たとえどんな邪魔が入っても、僕たちは一緒に暮らそう。内地へ還ることを諦めれば、僕たちはきっと幸福になれるよ」 自分の言葉に激し、杉は腕の中の顔へ強く唇を押しつけた。光江は抗らわなかった。鳩尾に当る上衣のボタンが少し痛かったが、かまわず杉は烈しく小さな唇を吸い、一段と腕の力を強めて抱き締めた。目交いにある女の耳朶の生毛が、月光にかすかにひかってみえた。杉は、その薄い小さな耳朶も口に含んでしまいたかった。 ……ふと、頬に触れている光江の鼻尖の冷たさに気づいて杉は顔をはなした。腕の力が弱まるのを待っていたように、光江はすぐ躰ごと杉から離れた。そして二、三歩あとずさると、くるりと背をむけた。腕を通していない上衣の両袖が揺れた。 「杉さんは」光江が背をむけたまま低い声で言った。「中原さんが好きだったんでしょ」 咄嗟に答えられず、杉は目を伏せた。 「私、戸本さんから聞いていましたの。似合いの恋人同士だと、私も、ひそかに羨ましく思っていました。あの日、杉さんが飲めないお酒を飲んだ理由も、戸本さんから教えて貰いました。だから私、生意気にも姉さんぶって介抱してあげようと……」 「もう、総て、過ぎたことです」杉は努めて穏やかに遮った。 「これからのことを、これからの僕たちのことを、話合いましょう。先刻、とみちゃんが冗談だけど、私も子供が産みたかった、と言ってました。光江さん、よし子ちゃんの代りに、いつかは僕らも児を――」 光江の後ろ肩がぴくっと動いた。 「駄目なの、だから私は駄目なの」 顫えを帯びた声を挙げて光江は急に蹲まった。 「よし子を産んだときに失敗して、私はもう、女ではなくなったの。二度と母親になれない躰になってしまったんです」 思いがけない告白に杉は茫然と女を見降ろした。両手に顔を埋め、光江は鳴咽しはじめた。地に垂れた上衣の袖ボタンが、小さな光りを反射させていた。もう二度と夫に顔を合わせられないと屍体においかぶさって哭いていた姿が思い出され、胸の奥深いところに、殴られたような痛みを覚えた。杉は近づいて、顫えている両肩をそっと抑えた。何を、どのように言ってよいか判らなかった。ただ肩を抑えて、鳴咽がおさまるのを待つよりほかにすべがなかった。
三の章 早朝、部落を発った二台の馬車は、常に三十米の間隔を保ちながら、昼近くまで殆ど休みなく走った。 馬車は、龍明英の約束と違って、前日と同じような大車であった。だが、車輪が太い自動車用のタイヤに替っていたし、馭者も、部落で新しく傭った二十歳前後の若者だったので、速度は、以前の倍近かった。車台も、前の馬車より幅が広く、光江の替りに乗った二人の警備兵が脚を投げ出して坐っても、さして窮屈ではなかった。光江は、郭夫人の強いての願いで、前の馬車に乗り移った。杉は、もの足りなく思う反面、何か吻とした気持でもあった。 途中、小さな部落を二つほど過ぎると、両側を埋めていた向日葵畑も玉蜀黍畑も途ぎれ、あとは見渡す限りの原野となった。若い馭者は、細長い革鞭の音を派手にならしながら、その合間に、「走吧(ゾーベ)、走吧」と元気な掛け声を馬の背に浴びせて、遮るもののない一本道に馬車を急がせた。 幸い、前日と違って風もあった。また、出発して間もなく、目的地のほうへむかって珍しい驟雨が駆け抜けて行ったので、土埃もあまり立たなかった。動揺だけは相変らずかなり烈しかったが、小池は朝から長々とねそべり、とみ子も話対手のない不聊から、肘枕で横になっていることが多かった。二人の警備兵は、最初、馭者を対手に何か冗談を言っては笑い声を撒き散らしていたが、それにも倦きると、やがて二人とも銃をかかえて脚を投げ出し、居眠りをはじめた。どちらも日本語は殆ど喋れぬらしかった。 杉は、馬車の後部に腰かけていた。空は薄雲に蔽われ、ときおり強い陽がふってきたがすぐまた翳って、前の晩の明るい月夜から推してうだるような暑さを想像していた彼を吻とさせた。 振り落とされぬように幌のへりに摑まって杉は、先刻から、“流茫の曲”の節を思い出そうと幾度か口誦んでいた。歌は小学校の頃からあまり得意でなく、初年兵時代、日夕点呼後に舎前の庭で行われた軍歌演習も、班長や班附上等兵に見つからぬように、ただ戦友たちの口にあわせて歌っているように見せかけて過ごした。それに軍歌の殆どは、歌うというより、あるだけの声の呶鳴り合いでもあった。 “流茫の曲”は、病院に居た頃、夕方、警備隊員がよく合唱しているのを杉も幾度か耳にしていた。併し、歌詞が中国語だったので、軍歌にしては哀しそうだな、と思う程度でさして心にとめなかった。それがきのう、初めて龍明英から日本語で聞かされ、杉は、警備兵たちがこの歌を好んで夕方に歌っていたのが理解出来るような気がした。小池に需められて龍が照れ臭そうにこちらを見たときは、お願いしますと皮肉を罩めた口調で言ったが、あれはむしろ胸に泌み込んできた哀調を撥ね返そうとしていたのかもしれない。 「ふるさとはどこ、ちちはははどこ……」 幾度目かの歌詞を口のなかで小さく呟き、杉はまた、小池から貰った煙草を大切そうにポケットに蔵った小孩の顔を思い泛べた。 あの児が本当に日本人の児だとすれば、この歌ほど、あの児にふさわしい歌はない。いや、この涯てしなく広い北満の部落々々には、あの児と同じような運命の児が数多く散らばっているに違いない。そうした子供たちがやがて成長し、自分が日本人であることを知ったときは、どのような思いを抱くだろうか。顔も知らぬ親を恨むことも、また、見たこともない祖国へは、どんな想いを寄せることも出来ぬであろう。だがその頃は、この大陸も、龍明英が口癖のように言っているとおりの楽土に生れ変っているかもしれない。成長したあの児たちは、もはやまだ見ぬ祖国に憧れることも、その祖国に生きているかもしれない親に逢おうとも思わず、幸福な、平和な老百姓として、この土地で暮すよろこびを心から味わっているかもしれないのだ――それでいいのだ、いや、そうあって欲しい、と杉は思う。戦死することが至上の栄光だと教えこまれてきた俺たちより、たとえ祖国を遠く、はなれても、平和に生きのびてゆくことが出来れば、むしろあの児たちのほうが幸福なのではあるまいか。 「少し腹がへってきたようですね」 起き出してきた小池が、反対側の幌のへりにつかまりながら、隣りに腰をおろした。 「寝てばかりいても、腹だけはちゃんと減るから妙ですよ」 小池は片手だけで器用にマッチをすって煙革に火をつけた。烟りに細めた目尻に、少し目脂がたまっていた。 「どうもよく思い出せないんです」と杉は言った。「流茫の曲の節が――」 「節ですか」小池は微笑した。「歌ってごらんなさい、節なんか、少しぐらい違ったっていいですよ。わたしはただ――」 ますます細めた目を、小池はゆるやかなカーブを描いている経てきた道の遠くへ投げながら言った。 「あの歌詞が好きなんです」 低い歌声が、同時に二人の口から流れ出た。二節目に入ったとき、杉の両肩に手が置かれた。振りむくと、とみ子が中腰に立っていた。杉の目顔に誘われて、やがてとみ子も低い声で和した。三人ともうろ憶えで、ときに調子が乱れることもあったが、杉は目を瞑って、歌詞の持っている哀調にひたった。 馬車のなかでは、二人の警備兵が、同じ姿勢でまだ居眠りをつづけていた。――
饅頭と竹筒の水だけの簡単な中食が済むと、馬車は再び走り出した。雲が厚味をまして陽はすっかり翳り、夕方まで保つかと危ぶまれるほどの空模様になった。今度は、小池が起きて、杉は横になった。二つ折りにした毛布を二枚重ねて敷いてみたが、馬車が烈しく揺れるたびに肩が痛く、目を閉じたものの杉は容易に寝つかれなかった。 中食のとき、前の馬車から戻ってきた光江は、誰へともなく、郭夫人が元気でいることを伝えただけで、あとは不味そうに饅頭をちぎっていた。杉も食欲がなく、半分は小池に頒けた。髭におおわれた口をもぐつかせて、とみ子の食べ残した分まで小池は平らげた。その屈託のなさそうな健啖ぶりに、杉はふと、心頼みにしているこの男の心を測りかねた。旺盛な食欲は、“流茫”の歌詞が好きだといった人間とは、まるで別人のようですらあった。出発の合図に、光江は何か言いたそうな顔をちらっと杉へ向けたが、そのまま黙って前の馬車へかえって行った。用事でもあるのか、龍明英は、ついに杉たちの馬車を覗きにも来なかった。 寝むられぬままに杉は、やがて着く訥河の街を想像してみた。きのう、光江に、水がすごく綺麗だと言った言葉は、まんざら嘘ではなかった。病院を出発する前に、以前その街へ行ったことのある李から聞いていたのだ。 「この斉々哈爾とは比較できませんが、小さいながら整った街で、周囲には高い城壁が残っていますよ」 そんな李の説明から杉は、初年兵時代に駐屯していた広饒の街を思い泛べ、あの街より美しかったら、俺も気持よく働けるだろう、と想った。 五米近い城壁の上から眺めおろした広饒の城内には、そりをうった青い支那瓦の屋根屋根が並び、一歩城外へ出ればすぐ共産匪が襲ってくるという古兵たちの説明が、遽に信じられないほどのどかなたたずまいを見せていた。常に実弾を携帯しなければならない城外での演習を終えて城門をくぐると、兵舎までの目抜き通りの店頭には、緊張感からとき放たれた杉たちの、疲れきった躰を癒してくれるように物珍しい異国の品々が溢れていた。商いによってことなる極彩色の店飾りを、目にするだけでもたのしかった。 或る日、隊の先頭に立った下士官の一人が、露天商人の南京豆を入れた大きな籠をわざと蹴転がした。すると初年兵たちは、天秤にしていた銃を正確に担ぎ直し、歩調をとって、道路一杯にばらまかれたその南京豆の上を行進した。靴底で、ザックザックと鳴る音が、疲労した五体に不思議な快感を呼び醒まし、「噯呀(アイヤー)」と商人の挙げた嘆声を黙殺することで、杉たちは、内務班での日頃の虐待のウサを晴らしたような気持も味わった。 見ただけでそれを噛むときの歯の感触を思い出させる山東白菜を、車に山積みにして運ぶ苦力たち。まるで工芸品のような精巧な模様のある焼餅を、飾窓にかかげた店。正月、兵舎前の広場で見物した高足踊り。そして、よし子と一緒に埋めた油絵のように、紀元節には街の角々に、日の丸の旗さえ翻えっていた。杉の記憶にある広饒は、若し自分が日本の兵隊でなければ、二年でも三年でも飽きるまで住んでみたいと思うほどの街であった。――むろん主客の顛倒した現在、たとえ広饒と同じような街であったとしても、これからゆく訥河では、満人たちの顔色をうかがって、肩身狭く暮さねばならないだろう。だが俺は、今度こそ積極的に工作に従事してみよう、と杉は思った。 仕事は、担架輸送でも、石炭搬びでも、なんでもいい。きのう光江が言ったように、与えられた仕事を、真面目に果たす。蔭日向なく、軍側の評価も気にせず、黙々と、どんな仕事にも不平を洩らさず、常に明るい顔で働こう。そして訥河で幹部学校が再開されたら、俺は小池と一緒に自らすすんで入学しよう。彼等の思想を学んでみよう。もう、遅疑逡巡しているときではないようだ。斉々哈爾病院の医務局で、地図と共に壁に掲げられてあった毛沢東という写真の男が、どれほど偉大な人物か、また、これまではその名を耳にしただけでも不動の姿勢を執らねばならなかった天皇の存在について、彼等の考えに耳を傾けてみよう。けっして無駄ではあるまい。たとえ心から理解できぬとしても、そういう思想があるということだけでも、知っていて損はない。 杉は横になったまま頸だけ廻して、警備兵を見た。この男たちも、心から自分の軍隊の思想に共鳴しているわけではあるまい。いつか龍も言っていたように、ただ喰うために参軍しているのかもしれない。若しそうだとすれば、街へ出て働く自信がないだけで病院に残留した自分と同じではないか。見るからに無知で、暇さえあれば居眠りばかりしているこの警備兵と自分はいつまでも同じではいられない。居ぎたなく睡りこけている警備兵へ注いだ杉の目は、いつか熱っぽい光りを宿していた。 ――俺はこれまで、龍明英にしてやられて来た。いつも被害者だと思ってきた。だが俺は、本当に被害者だったろうか。国が戦争に敗けたということで、自ら卑屈な被害者意識に陥込んでいただけなのではあるまいか。或いは弱者意識を逆に楯として、何事も運命だと安易な逃避をしていたのかもしれない。若しいつかの龍の告白が真実ならば、あの男にも半分は日本人の血が混っている。彼と俺が、同じ立場に立つことだってできる筈だ。俺にだって、この満洲を素晴らしい国に建て直すための力になることが出来る筈だ。 「それに――」と杉は、声にして呟いた。俺が積極的に工作に協力する姿を見れば、龍だってやがては光江との結婚を認めるだろう。訥河の病院がどのような建物かは知らないが、むろん最初は、女たちと同じ室で暮らすことは出来まい。併しそのうちには龍明英のほうから光江との結婚を促すだろう。黙っていてもあの男は、政治指導部の許可をとってくるだろう。 「そうなったら」杉はもう一度声に出して呟いた。たとえどのように狭く、きたない部屋でもいい。俺たちは一緒に暮すことが出来るのだ。そしてその頃には――杉は目の前で向うむきに寝ているとみ子の背を見詰めた。昨夜、部落へ戻る途中で、「ね、小池さんは、とみちゃんが好きなんじゃないでしょうか」と光江は言ったが、その推測が当っていれば、この女(ひと)も、小池と一緒になっているかもしれない。 ――俺たちは、隣りあった部屋にそれぞれ住み、朝、女たちは病室へ、俺と小池は、充実した気持で工作へ……いや、その頃はもはや工作人ではない。暖昧な“日本工作人”という呼称を返上して、東北民主聯軍の一員になっているに違いない。 杉は再び警備兵を見た。腕の中の小銃が、いまにも倒れてきそうであった。馬車が揺れるたびに負革が細かく顫え、ゆるんだ索条の頭が、小さな音を立てつづけている。初年兵の頃、安全装置をはずし忘れて銃架にかけておいたために、兇暴な班附上等兵からもう死ぬかと思うほど殴打された記憶が蘇えった。李が仮墓標の間から「とまらねば撃つぞ」と構えたのも、この同じ三八式歩兵銃であった。だが、たとえ民主聯軍に正式に入っても、俺はもう二度とこの銃を手にしたくない――。 不意に、足裏をつつかれて杉は半身を起こした。小池が微笑して幌の外を指さした。 「山が見えて来ましたよ。まだかなり遠いですが、訥河はあの山の裾ですよ、きっと――」
すでに日は昏れていたが、馬車が訥河の城壁に辿り着いたのは、予定より一時間ほど早かった。 先頭の馬車が城門の前に停まると、「誰か」鋭い中国語が降ってきた。城門の真上にある警備所に、人影が動いた。身軽に馬車の後部から飛び降りた龍明英が、両手をメガフォン代りにして答えた。警備所の影が一つ、ひっこんだ。杉が三米ほど後ろに停まった馬車のなかから夕闇を透かしてふり仰ぐと、警備所のわきの銃眼から、機関銃らしい銃口がつき出ていた。やがて前を塞いでいた分厚い木の門が開かれた。「走吧」馭者の掛け声に、馬車は城門をくぐり抜けた。 ――いよいよ目的地に着いた。あすからこの街で、俺たちの新しい生活がはじまるのだ。 併し、一歩城内にはいると、両側の民家は、杉の期待に反して、どの家も表戸をぴたりと閉め、通りには、殆ど人影がなかった。灯のともっている家も、数えるほどしかない。やはり夜の早い田舎町なのだろうか。それとも、まだ治安がゆきとどいていないのか。杉は急に不安になってきた。傍の小池も同じらしく、幌の中から落着かぬ視線を左右に投げていた。 「なんだか、ひどくひっそりした街ね」 杉の右腕に摑まったとみ子も、心細そうな声であった。 「つい此の間まで、光復軍のゲリラ隊が出没していたそうですよ。先刻、警備兵がそんな話をしていましたよ」 小池の言葉に、とみ子が手に力をこめた。 「でも、こうして街へ入ってしまえば大丈夫ですよ。まさか危険なところに、病院は開きませんからね」 城門から百米ほど進んだところで馬車は左折した。道は少し細くなり、両側に空地がふえ出した。馬車の速度が急に落ちた。と、今度は右へ曲った。左手に、三階建ての煉瓦づくりの建物が見えた。校舎風の建物であった。 ――あれが病院か。 建物の周囲は雑草の茂った広い空地で、二階の窓からの灯で、そこだけが縞になって暗緑色の葉が浮き上って見えた。以前は石塀でもあったのか、道路との境に、細長い混凝土の土台が半ば雑草にうずまっていた。 馬車が停まった。杉の想像どおり、其処が病院だった。 建物の中央、二階正面の窓のひと際明るい灯が、三つの黒い人影を浮かべている。丸い石門の柱が二本、廃墟のように立ち、そこから玄関まで、はじの欠けた石畳が敷いてあった。 郭夫人を抱き降ろした龍明英が、二階の窓にむかって手をふった。三つの影がすぐひっこみ、間もなく玄関に話声がきこえた。 一ばん最初に玄関に現れたのは、汪政治指導員の長身であった。つづいて、ずんぐり肥満した林玉鳳病院長が出てきた。林の姿を見るのは、杉には丸二ヵ月ぶりであった。男のように太い眉をしたその女院長に、郭夫人が駆け寄りざま抱きついた。龍が汪指導員と軽く握手したとき、白い診察着の男が出てきた。意外にも橋本軍医であった。 「あら、軍医さんだわ」 とみ子が小走りに近づいて行った。杉もつられて石柱の近くまで寄った。汪指導員が、龍にむかって、妙に押し殺した声で何か告げると、龍の横顔がさっと引き締った。傍から林病院長が口をはさんだ。龍が振りむき、杉の目とぶつかると、うろたえたようにすぐまた汪のほうへむき直った。常にないその仕種に、杉は咄嗟にただならぬ予感を覚えた。林病院長が左腕を郭夫人の背に廻したまま、低い声でまた何か言った。杉は、回国(帰国)という言葉と、日本工作人という言葉だけを拾い出すことが出来た。 何かわれわれのことを言っている――杉がさらに近寄ろうとしたとき、橋本軍医が、挨拶を済ませたとみ子と共に歩いて来た。 「やっぱり君は来たんだね」 軍医は、呟くようにそう言ってから目顔で合図し、杉のわきを通り抜けた。あとを追って馬車の近くまで戻ると、軍医は立ち停まった。 「せっかく来たけど、無駄になったよ」 わざと自分の顔を見ないで言う橋本に、杉はせきこんで訊いた。 「なぜです? 何かあったんですか」 馬車から荷物をおろしていた小池が、毛布を胸に抱えて振りむいた。 「いや」と軍医は視線の遣り場に困ったようにちょっとうつむき、 「欣ぶべきニュースなんだ」 声と一緒に顔を挙げた。 「ニュース?」 「うむ」と橋本は頷いて言った。「儂はゆうべ此処に着いたんだが、けさ、国府軍と中共軍との間に一時停戦協定が成立したという情報が届いた」 杉と小池は、同時に顔を見合わした。 「停戦した理由は、在留邦人を直ちに全員帰国させる話合いがついたからなのだ」 「本当ですか、軍医殿」小池が毛布を抱え直した。 「多分、間違いないだろう。あいだに米国が入って交渉をまとめたそうだ」 「われわれも――」杉は嗄れた声で訊いた。「還れるのですか」 橋本はゆっくり首肯した。 「私、困っちまうな」とみ子が頓狂な声を挙げた。「還るたって、私は内地へ行ったことがないんだもの」 杉は茫然と軍医の顔を眺めていた。不意に距離感を喪ったように、眼前の橋本の顔が、ひどく小さく見えた。望遠鏡を逆さに覗いたような、その小さな顔が横をむき、そして視界から消えた。はっとして気を執り直すと、橋本は診察着の背を丸めて、道路の中央へ歩き出していた。 「軍医殿」 呼びとめたものの杉は、喉に殺到してきた言葉をどれから先きに口にしていいか判らなかった。立ち停まった橋本が、背をむけたまま低い声で言った。 「看護婦たちは軍の都合で、あすの夜こちらへ来ることになっている。彼女たちは、まだ何も知らないだろう。いや、恐らく軍は、最後まで彼女たちに日本人の送還命令が出たことを教えないだろう。現在の彼らには、日本の看護婦が絶対に必要だからな」 「そんな、そんな莫迦な――」 「いや」 軍医はきっぱりした口調で遮り、少し間を置いてから今度は呟くようにつけ加えた。 「儂も残るよ。すでに、残るように要請されているんだよ」
二日後の朝遅く、杉たち四人を荷物台に乗せたトラックは、斉々哈爾へ向かって訥河の病院を出発した。運転台には汪指導員と龍明英が乗り込み、途中、故障さえしなければ、夜九時までには斉々哈爾に到着する筈であった。今にも降り出しそうな雨雲の下を、トラックは、杉たちが馬車で丸三日間かかった道程を一日で走破すべく、全速力で疾走した。 荷物台には、なかに何が入っているのか、厳重に釘を打ちつけた十個ほどの木箱が積み込まれていた。杉たちは、その木箱に腰かけ、真夏とは思えぬほど冷たい風を避けて運転台の後ろにひとかたまりになった。 朝から、誰も、ひと言も喋らなかった。杉は略帽を深くかぶった顔をうつむけ、同行者の誰とも視線を合わさないようにしていた。杉ばかりでなく、小池も光江も、目を伏せていた。とみ子は途中で木箱から腰をあげ、車台にじかに毛布を敷いてその上に坐ると、皆に背をむけて木箱に凭れた。そしてトラックが烈しく動揺するたびに、両腕で木箱を抱えこんだ。 杉はときおり、左手でそっと上衣の胸を押えた。上衣の裏ポケットには、木原フミの遺書が入っていた。昨夜、橋本の部屋に光江たちの軍服を返上しに行ったとき、黙って軍医が差し出したその遺書の表には、意外にも杉の名が認められてあった。杉はその場で封を切った。中味は便箋が一枚、そしてたった一行、「杉班長殿、お元気で」とだけ書いてあった。杉は顫える手で便箋を軍医に渡した。橋本はちらっと目を当て、すぐ元どおりにたたむと、黙って杉へ戻した。杉も無言で受け取り、そのまま目礼して室を辞した。 予想だにしなかった死者の心を預けられて、杉は、遽に躰が重くなった。死を前にしてたった一行にこめた木原フミの心を思うと、すぐ捨てることも出来ず、と言って、むろん小池や光江に話すことは出来なかった。目を瞑ると、雀斑の浮いた木原フミの顔が泛び、幕代りの毛布越しにきいた「何か質問はありませんか」という声が耳底から蘇えってくる。自分への想いなど毛すじにも見せず別れて行った婦長の哀れさが胸に迫り、杉は、閉じた瞼の裏に泪がにじんでくるのをふせげなかった。 「そろそろ、この間の部落が見える頃ですね」 沈黙に耐えきれなくなったのか、隣りの小池が、誰へともなく言った。怯々と顔を起こすと、小池は中腰になって運転台の屋根の向うを眺めていた。道の両側は、原野からすでに向日葵畑にかわっている。先日は真夏の陽に燃え狂っているように見えたその向日葵畑も、きょうは、低く垂れた雨雲の下で、元気なく垂れていた。光江が弱々しい視線を遠慮深く送ってきた。その泣いているような顔と目を合わせた瞬間、杉は、何者かに全身をゆすぶられるような衝動を覚えた。 「小池さん」 上衣の裾を引っぱって坐らせると、杉は、埃のたまった小池の耳に囁いた。 「ね、この間の小孩を連れて帰りましょう」 小池が強い眼差しで杉の目を覗き込んだ。杉もまた上瞼に力をこめて対手の目を見詰め返した。不精髭におおわれた小池の頬に小さな筋肉の動きが走った。少したってから小池は、静かに頷いた。 「なんのお話?」 光江が、小さな声で訊いた。杉は小池からはなした目をなごませて、光江へ注ぎ、ゆっくり立ち上った。 「あなたに、もう一度、お母さんになって貰う相談です」 右手を軽く握って拳をつくり、杉は、龍明英の背にむかって、運転台の窓硝子を叩いた。叩きながら杉は、はじめてよし子を背負ったときの薄い腰肉の感触を思い出し、それを振り払うように、小孩を背負って引揚げ船のタラップを登ってゆく自分の姿を思い描いた。 左手に部落の土壁が見え出し、雨が、静かに窓硝子を濡らしはじめた。
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