日本工作人 あとがき |
『日本工作人』
あとがき
いまでも私は、東北民主聯軍の、濃いグリーンの軍服をはっきりと目に浮かべることができる。 カーキ色の日本の軍服を見馴れた目には、すこぶる派手な色で、しかも、布地も織りもきわめて粗末な、つまり、見るからに安っぽい軍服であったが、兵士たちはいずれもそれを誇らしげに身にまとっていた。 ご存知のように日本の軍服は、将校と兵隊とでは布地も仕立てもまったく違い、そして、だれもが一目でわかる階級章をその襟につけていた。ところが、民主聯軍は上級幹部も一兵士もすべて同じ服であり、私の知るかぎりでは、階級章はもちろん、それに類するものを服につけている者は一人もいなかった。「東北民主聯軍」と書いた小布を、左袖に縫いつけているだけであった。 それでいて彼らは、日ごろの動作こそ緩慢だが、上級者の命令をきちんと守り、銃の手入れも怠らなかった。軍隊生活を愉しんでいるようにさえ見えた。 職業軍人や志願した者はともかく、兵隊にとられた日本人で、軍隊生活を楽しかったと思う者はほとんどいないのではないだろうか。民主聯軍の、軍規違反者に対する即決の重い罰も、私には大きな驚きの一つであった。 私がこの軍隊に接したのは、終戦直後のわずか数ヵ月間にすぎなかったが、兵士たちは一様に人懐っこく、勤務が終ると言葉が通じないくせに、よく私たちの部屋に遊びにきて、何時間も暇を潰していった。彼らの何人かと筆談で、お互いの郷里の風習などを語り合ったことを、私はいまでもなつかしく思い出す。中学時代、私は漢文の成績が悪く、教師に匙を投げられたほどであったが、そんな私が書き並べた漢字だけでも結構、意味が通じ、毎晩のように遊びにくる兵士さえあった。しかし、彼らの口から、いや、筆から、毛沢東や周恩来の名前を伝えられたことは一度もなかった。それに文字を書ける兵士は、十人に一人くらいのわりであった。
終戦の翌々年、中国から復員した私は、当時まだ町であった東京都下の調布市内で小さな店を借り、出征中に母が近郊の農家に疎開しておいた蔵書を並べて、古本屋を開いた。蔵書といっても、学生時代の小遣いで買った本だからタカは知れており、二ヵ月もたたぬうちに本棚はあらかたカラになった。売るばかりで、ちっとも仕入れなかったし、当時は古本を売りにくる人など、ほとんどいなかったからである。 この古本屋の店番をしながら、私は、中国で体験したことを毎日、少しずつノートした。二ヵ月たってノートを二冊書き潰したとき、ちょうど売る本がなくなり、私は新聞社の試験をうけて、補欠ながら、どうやら就職することができた。社会部に配属され、警視庁詰めになった私は、ノートをもとに、いつか中国での体験を小説にまとめたいと思いながら、毎日、血腥い事件に追われて、なかなか机に向かうことができなかった。 八年後、内勤にかわったのをしおに、私はようやく小説を書く気になり、まず、新聞記者生活や少年時代に材をとった短篇を書き上げて、同人誌に発表した。幸運にもこの二作が、平野謙氏やいまは亡き山本周五郎氏の目にとまり、それぞれ芥川賞の候補にあげられた。これに力をえて私は、机の抽斗の底からノートを取り出し、この「日本工作人」を書きはじめた。ノートをとってから、丸十年目であった。 私にとって初めての長篇であるこの「日本工作人」は、「秋田文学」に連載中、直木賞の候補になり、未完ゆえに選考からは除かれたが、小島政二郎先生から、その選考後記で身にあまるおほめのことばをいただいた。また、連載中、しばしば山本氏から激励のお葉書をいただき、完結後、横浜・間門にあった氏の仕事部屋へお邪魔したときは、シャンペンを抜いて祝ってくださった。ともに忘れえぬ感激であった。 このような菲才にすぎたる幸運に加え、少年時代からなにかとご指導いただいていた野口冨士男先生のお口添えによってこの「日本工作人」は、昭和三十三年秋、出版の運びとなった。ところが、製本を終って、いよいよあすは取次店へ渡るという夜、関東地方を襲った台風によって神田川が氾濫、製本所に積んであった初版五千部は、この本と同時に発売される予定だった他の作家の小説集とともに、すべて水びたしになってしまった。出版社からそれを知らされたとき、私は電話口でしばらく口がきけないほどのショックをうけた。 処女出版でワクワクしていただけに、出鼻をくじかれたというより、鉄槌でいきなり殴られたような衝撃であった。のちに、このいきさつを小島先生にご報告したところ、「私も処女創作集があす小売店へ出回るという日に関東大震災が起こってすべて灰になったが、かえって、もっといいものを書こうと奮い立った」と、はげましてくださった。 幸い、「日本工作人」は紙型が無事だったので、出版社はすぐ刷り直しにかかり、予定より約一ヵ月おくれただけで陽の目を見ることができたが、水害のためか、まもなく出版元は倒産してしまい、いまでも私は、なにか申しわけないような気がしてならないのである。 こうした数々の思い出を持つ小説だけに、この「日本工作人」が十数年ぶりに再刊されることがきまったとき、私は、旧友にめぐり会ったような喜びと、深い感慨を禁じえなかった。むろん、この機会に筆を入れたが、あえて加筆しなかった個所もある。よくも悪くもこの小説は、三十歳をすぎたばかりの当時の私が、精一杯に刻みつけた“記念碑”だったからである。 前にも述べたようにこの小説は、作者の体験に基づいている。むろん、小説なので、それなりの虚構はまじえてあるが、大筋はほぼ体験どおりだし、登場人物にもそれぞれモデルがある。そこで、この際、モデルたちのその後について、少しばかり触れておこう。 奥地行き直前に病院から街へ脱走した「片桐」と「中原節子」は、在留邦人の引揚げが開始されるまで街に潜伏して無事帰国したのち、正式に夫婦になって現在、東京で幸福な家庭生活を営んでいる。「杉」とともに訥河まで行き、一緒に博多へ引き揚げてきた「小池」は、のちに某造船会社の課長になったが、数年前、脳溢血で急逝した。 満洲育ちで内地にまったく身よりのない「内田とみ子」は、帰国後、この小池の家でしばらく厄介になっていたが、現在は大阪で幸せな主婦となっている。そして、「南光江」は――残念ながら、郷里に戻ったきり、その後の消息がわからない。帰国後二年ぐらいは手紙をやりとりしていたのだが、いつか間遠になり、やがて、まったく返事がこなくなってしまったのである。 わからないといえば、私たちの帰国後も抑留されていた「橋本軍医」をはじめ約百人の看護婦たちはどうなったのか。十数年前、中国に留用されていた日本人技術者が多数引揚げてきたとき、私はその名簿を調べてみたが、記憶にある氏名をついに拾い出すことができなかった。聞くところによれば、いまなお、かなりの日本人が中国に残留しているという。 私も一時は帰国を諦め、大陸に骨を埋めようかと思ったことがある。一つには、引揚げる前の晩まで民主聯軍側から執拗に引きとめられたからだが、いまでも私は、もしあのまま中国に残っていたら、と思うことがある。そして、そう思うたびに脳裡に浮かぶのが最後の最後まで私の翻意を迫った龍通訳のまなざしである。部屋を出て行きながら、振りかえって、なお何か言いたげだった彼の表情を、私はいまもはっきり覚えている。 民主聯軍と私たち工作人のパイプ役をつとめ、私には個人的な親しささえ示してくれたあの龍さん(本名・羅明英)は、いま、どこで、なにをしているのか。これも留用邦人の再引揚げがきまったときのことだが、その出迎えの船に乗って日本記者団が天津へ出発する際、私は、その一人に、彼への手紙を託した。もし、彼があのまま民主聯軍の衛生部にいるなら、紅十字会を通せば、なんとか届くのではないかと思ったからである。 しかし、現在に至るまで彼からの返事はない。手紙を託した同僚は、「まちがいなく紅十字会の一人に手渡した」というのだが……。 私の古いノートには、この小説に生かせなかったエピソードが、まだかなり残っている。が、それらを拾い読みするたびに、懐しさと同時に、なにかたまらない気持ちになるのは、私がいまなお、生きのびて帰国したことにうしろめたさを感じているからだろうか。
最後にもう一つ、思い出を書き加えておこう。このあとがきを書いている途中で私は、米国のニクソン大統頷が北京空港に到着した模様をテレビで見たが、出迎えた周恩来首相と握手したのち、この両首脳が暖かそうな外套を着た三百数十人の解放軍儀仗兵を閲兵するさまを見ながら、二十六年前、民主聯軍に命じられて、斉々哈爾の飛行場へ草むしりに行ったことを思い出した。真夏の陽が照りつけるなかで汗まみれになりながら、私たち日本工作人は滑走路の両側の草を取り除いたり、格納庫内の整理を手伝ったりしたが、作業が一段落したとき、私が兵士の一人に理由をたずねると、彼は胸を張ってこう答えた。 「あす、北京から周恩来同志が飛んでくるんだ」 むろん、当時の私は、周恩来が中国共産党でどんな地位にある人か、知らなかった。民主聯軍の最高司令官が、先ごろ失脚したと伝えられる林彪将軍であったことを私が知ったのも、また、ずっと後であった。 現在、中国問題がクローズアップされているが、もし、将来、中国へ自由に渡航できるときがきたら、私はぜひ一度、青春の二年間をすごした土地を訪れて、望郷を胸にむなしく死んでいった戦友たちの冥福を祈りたいと思っている。
昭和四十七年二月 津田 信
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