津田信「記事」 |
■戦後作家の履歴・津田信(国文学「解釈と鑑賞」(至文堂)6月臨時増刊号 1973年6月より)
作家の身辺に同じように取材しながら芥川賞候補、直木賞候補になる原因がそこにある。津田の文学はその処女作以来、ほとんどの作品が戦争下の自身と自身の妻の青春の彷徨と、青春の傷をお互いに舐め合うようにして癒していく戦後の人生を描いている。 青春の傷からの回復というのが津田の一貫して、追求してきたテーマでもある。「人間の矮小さとけなげさを質実に描きわけ」ているという平野謙の評、「時間の流れはその点どの点でも固定観念に乱されていないことが認められる」という吉田健一の評は極めて的確である。現実を一度は受け入れ、そしてやんわりと押し出してしまう独特の思考と感情の動きに津田の独自性とポピュラリティがある。それは過酷な現実の中で日本の庶民が生きていく姿そのものではないだろうか。
■文学紀行――津田信「女夫ケ池」(『私のかまくら』8月号、No.251、1999年8月1日発行より)
■二宮ゆかりの人物――津田信(にのみやまち図書館だより 第13号、2005.1.15 )
昭和40年に発表された『二重丸の女』や『海のわかれ』は描写力がすばらしく、とくに『海のわかれ』は、評論家の吉田健一が読売新聞の「大衆文学時評」で、このごろのものでは起承転結のしっかりした、小説の体をなす成功作、と激賞しています。翌昭和41年に、親交のあった干葉治平氏の直木賞受賞に刺激され、18年間勤めた新聞社を辞め筆一本の生活に入りました。
そして冒頭にあるように、昭和50年に二宮に移り住むと同時に、約10年間の沈黙を破って私小説の『夜々に淀を』、続いて『日々に証しを』を執筆。直後に心筋梗塞で倒れましたが、療養期間を経て、病後の初仕事としてこの『結婚の構図』を雑誌「主婦と生活」に昭和55年2月から12月まで連載しました(連載時のタイトルは『哀しからずや』)。その後も文筆活動と並行して、大学の講師など活躍されましたが、昭和58年11月22日心筋梗塞のため58歳で亡くなりました。
■「私小説家の死」―― 高井有一
(『群像』1984年2月号(講談社)より)
同時に、秘かな苛立ちがあつたのかも知れない、と今になつては思ふ。自分は自然主義文学で育ち、徳田秋声を日本一の小説家と信じてゐる、と津田さんの作品の中にある。しかし、さういふ信条が古めかしいと受取られる方向へ時勢が動いてゐるのを、察しられない津田さんでもなかつただらう。私自身も、初めての作品以来ずつと、古風だと言われ続けて来た。津田さんはそんなところに類縁を感じ、好意を持つて呉れたのだつたらうか。
そのころ津田さんは、市ケ谷台町にあつた私の住ひと百米と離れてゐない余丁町のアパートの一室を仕事場にしてゐた。そのアパートの入口で、ぱつたり顔を合わせた事がある。かなり長い間会つてゐなかつたので私は懐しく、お茶に誘つたが、津田さんは客がくる予定があるからと言つて、ほんの少し立ち話をしたきりで、薄暗いアパートの階段を足早に昇つて行つた。何か遠くなつて行くやうな気分で、私はそれを見送つた。ゴーストライターの仕事が、どれほど酬いられる事少く、陰惨な人間関係に耐えなくては続けられないかは、小野田寛郎の手記を代筆したときの内幕を披露した『幻想の英雄』を読めば判る事である。
作者自身をそのまま写したとおぼしい主人公が、家庭の外に女を囲つて子供まで産ませる事を妻に認めさせ、更に別の若い女とも関係するやうな愛欲図が、飾らぬ筆で書かれてゐる。一度に2人の女と関係する場面が克明に描かれてもゐる。そしてそれ等はすべて事実だと作者は言ふのである。筆を運ぶ作者の苦しげな表情が想像され、私は傷ましくてならなかつた。虚構を排し、文章の飾りを棄て、事実をありのままに書くといふ私小説の信条が、作者を追ひ詰めてかういふ作品を産み出させたのだつたか。
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