[134] ビーチ・ボーイズのコンサート後、竹島、尖閣の映像を見て、愛国派の韓国人・中国人の醜さにあきれる 印刷
2012年 8月 18日(土曜日) 02:09

スクリーンには、ベニスビーチの光景。流れるのは、「Do It Again 」や「Little Honda 」「Surfin' Safari 」などの心地よいカリフォルニアサウンド。8月16日の千葉・QVCマリンフィールドは、まるで50年前のウエストコーストそのものだった。

  この日は、ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)のデビュー50周年ツアーの日本ステージ。もう二度と見られないと思い、家内と二人で出かけた。開演4時半に球場に入ると、前座の星野源が歌っていた。まだ、日は傾いたばかりで、スタンドは明るく、上空には鮮やかな真夏の青空が広がっていた。

  その後、本当の前座、アメリカ(America)の演奏が始まった。曲が進むうちに、じょじょに昔彼らの曲を聞いたころを思い出し、気持ちが高ぶってくるのがわかった。とくに、「夢のカリフォルニアCalifornia Dreaming」を聞いたときは、思わず涙が出た。

  

  

   アメリカが薄暮のなかにステージを去り、空に暗さが増した19時ジャスト、ついにビーチ・ボーイズの5人がステージに登場した。今回は、存命するオリジナル・メンバーが全員そろったが、みな70歳代の老人である。それはそうだろう、もうあのときから半世紀もたっているのだ。

   ビーチ・ボーイズは1962年のデビューで、「I Get Around」「California Girls」「Sloop John B」「Good Vibrations」 などの大ヒットを次々に生んだ64年~66年の全盛期には、私たち鎌倉の中学生にはビートルズより人気があった。鎌倉育ちの私たちは、湘南を日本のウエストコーストと信じ込み、当時のあらゆる西海岸文化にかぶれた。

 

「自由の国」(Land of Freedom)アメリカ を象徴する西海岸文化

 

   ただ、まだサーフィンの板など手に入らなかったし、スケボーもフリスビーも持っていなかった。稲村ヶ崎にメインはなく、当然、サーフショップなど一軒もなかった。私たちは、バミューダパンツにフルーツオブザルームのTシャツを着てビーチを歩き、それで西海岸のビーチ・ボーイになった気分でいた。材木座海岸にフリスビーが飛び交い、七里ガ浜でサーフィンをする姿をたまに見かけるようになったのは、私が大学生になってからだ。

   ビーチ・ボーイズのウイルソン兄弟は、ともかく「かっこよかった」。ウエストコーストの風物は、なにもかもかっこよかった。当時のアメリカはかたや公民権運動があり、ベトナム反戦運動もあったが、そのすべてがかっこよかった。 「自由の国」(Land of Freedom)、それがアメリカであり、どこまでもそれを追い求めるのがアメリカの文化だった。それを体現して、あらゆることを楽しむ若者たちの姿に、私たちは限りなく憧れた。

   長髪が不良と言われ、ビキニの水着がふしだらと言われた時代である。「カリフォルニアガール」のような女の子は、湘南の海辺のどこにもいなかった。

 

いまも大事に持っている 『サーフィン・サファリ』と『ザ・ビーチ・ボーズデラックス』

 

   中学時代の仲間のなかで、ビーチ・ボーイズにいちばん傾倒していたのが、リュウくんだった。材木座の彼の家に遊びに行ったとき、彼がビーチ・ボーズの全アルバムを持っているのを知った。それで、「貸してくれない」と『サーフィン・サファリ』と『ザ・ビーチ・ボーズデラックス』(日本編集のベストアルバム)の2枚を借りた。その後、なにかの機会に「返すから」と言うと、「いいよ。順平(当時の私のあだ名)にやるよ」と言う。

 なぜか、彼は本当に気前がよかった。その2枚とその後、自分で買った『ペット・サウンズ』など数枚は、50年たったいまも書棚の奥に眠っている。

   ウイルソン家3人兄弟のうち、デニス・ウィルソンとカール・ウィルソンはすでにこの世にいない。1960年代の後半から、ビー・ボーイズは分裂気味になり、リーダーだったブライアン・ウィルソンは、麻薬に溺れたり奇行を繰り返したりしたこともあった。しかし、2006年ぐらいからオリジナル・メンバーでの再結成の話が進んだ。そして、今回、デビュー50周年ということで、オリジナル・メンバーでの、おそらく最初で最後の世界ツアーとなったのだった。

 

アンコールの時間になった。1曲目は「ココモ」。最後は 「ファン・ファン・ファン」

 

  70歳代の老人になったビーチ・ボーズたちだが、そのサウンドは健在だった。いちばん元気そうなのがマイク・ラヴで、相変わらずふらっとした感じなのがブライアン・ウィルソンだった。しかし、キーボードに向かうと、彼は昔と同じようにさっそうとしていた。ビーチ・ボーイズは1960年代と同じく、2010年代になっても、私にとっては西海岸、いやアメリカそのもので、かっこいいのだった。

   後年、大人になって初めて西海岸に行き、ベニスビーチ、ハンティントンビーチ、ラグーナビーチ、マリブなどをこの目で見たときの感動は忘れられない。

  

   1時間半ほどのステージはアッという間にすぎ、アンコールの時間になった。1曲目は「ココモ」。ここでは、クリストファー・クロスがゲスト・ヴォーカルとして登場し、マイク・ラヴと歌の競演となった。そして最後は、アメリカのメンバーも参加しての「ファン・ファン・ファン」。拍手と喝さいのなかで、ビーチ・ボーイズはステージを去った。

 

 

あまりに醜い中国人活動家。プロなんだからもう少しマシなかっこうをしろ!

 

 久振りに感じたウエストコースト。西海岸文化。その余韻で家にもどり、ニュース映像を見ると、尖閣諸島に上陸した中国の活動家たちの姿が映し出されていた。彼らは香港人になりすました「世界華人保釣連盟」の中国人政治団体員だが、みな、けっこう年を取っている。正直、オッサンそのもので、私と同じぐらいの年齢の人間もいる。

  

 (↑「香港の活動家逮捕」を伝えるテレビ朝日のニュース)

  彼らを見た瞬間、すぐに、なんてかっこ悪いんだと思った。その風貌といい、格好といい、プロの活動家なんだからもう少しなんとかならないのかと思うほど、ひどいのである。彼らが乗ってきた船もまたみすぼらしい。中国政府が裏から資金を出しているのに、こんなボロ船しかチャーターできないのか?

 

釣魚島には入管事務所を設け、中国人を「ウェルカムジャパン」すべき

 

 ナショナリズムは美しいときもあるが、大方は醜い。とくに、今回のように大義も正当性もない運動は醜い。単に、国家主義に便乗して領土をよこせと言っているだけだ。なぜ、彼らは国家主義の手先になるのか? 彼らは別に主義主張があるわけでなく、資金さえもらえればなんでもするだろう。

 それならもう少しスマートに、船も外洋型のクルーザーで乗りつけるとか、服装もブランドTシャツを着てくるとかすべきだろう。言われたとおり、マンダリンで怒鳴りたてて、国旗を振りまわすのでなく、上陸後にサーフィンでもしたらどうだろうか。せっかく来たんだから、出迎えた日本側といっしょになにかすべきだろう。そのほうがよほどアピールする。

   日本は、一刻も早く彼らを強制送還するというが、沖縄の最高級リゾートでリゾートライフを楽しんでもらってから、帰ってもらったほうがいい。ともかく逮捕して、その後は最高の待遇で歓待すればいい。彼らは面喰裏うに違いないが、そのほうが逆に効果的だ。こういうとき、「なるべく穏便に」という日本式の悪い対処の仕方を取るのがいちばんいけない。すぐに帰す必要などない。せっかく日本に来たのだから、日本を十分に楽しんでもらうべきだ。

 また、今後、釣魚島には入管事務所を設け、「どんどん来てください。ウェルカムジャパン。入管後は思いきり旗を振れます。ただし、パスポートはお忘れずに」と、中国で宣伝すればいい。釣魚島の観光パンフレットもつくって、どんどん中国で配ろう。

 

遠泳してきたので競泳用のパンツ姿。それはないだろう

 

 自由の国のアメリカ人と違って、中国人のやることは、ともかくダサイ。韓国人も同じだ。日本人も同じところがある。東アジアはなんとなく共通していて、そのことが私は嫌でたまらない。

 竹島に上陸した韓国の学生の、水着姿で国旗を掲げる姿にもあきれた。一行は、国立の韓国体育大学の水泳部の学生や歌手キム・ジャンフン氏らおよそ40人で、13日午前、韓国の東海岸にあるキョンサン北道のウルジンの海岸から海に入り、3日をかけて到達したという。

 

 (↑「竹島に不法上陸」を伝えるNHKのニュース )

  そうして、テレビに映るのがわかっているなら、競泳パンツとスイムスーツ姿はないだろう。日本と同じアメリカの属国なのに、韓国人は日本人よりナショナリズムが強く、今回の学生たちのように、庶民層はアメリカ文化を受け入れない。

 韓国体育大学の学生に言いたい。ビーチ・ボーイズの「サーファーガール」のジャケットのように、メンバーでサーフボードを持って行進でもすれば、もっと楽しい映像になっただろう。日本人も楽しめただろう。また、水着も、競泳パンツを止めて、ロクシーやクイックシルバーなどのスイムパンツを着たほうが、よほどかっこよかっただろう。

 名作「サーファーガール」

 

白い布の名札が縫い付けられていて、そこにハングルが

 

 1990年代の初めから毎年、私たち一家は夏の一時期をハワイで過ごすようになった。90年代は、小学生の娘とカピオラニビーチで毎日のようにボディボードをしていた。ビーチで私たち家族が陣取る場所は決まっていて、水着も持ち物もボードもみな現地調達。ハワイのサーフィン文化はウエストコーストと同じで、親しみやすい。水着もボードもローカルモーションに行き、ビラボングやクイックシルバーを買った。サーフィン文化は、ビーチ・ボーイズの60年代からずっと変わっていない。

 90年代の半ば、いつものようにビーチにいると、明らかに違和感のあるいでたちの小学生連れの家族がやって来るようになった。肌の色から最初は私たちと同じ日本人かと思った。というのは、子供が紺色の競泳用水着を着ていて、頭にはスイミングキャップを被っていたからだ。が、よく見ると、そのスイミングキャップと水着には白い布の名札が縫い付けられていて、そこにはハングルで学年と学級と名前が書かれていた。

  ワイキキのビーチで、パンツ型の競泳用の水着を着ている子供は、明らかに違和感がある。女の子のワンピース型の水着も同様だ。ひと言で言うと、ダサイのだ。しかも、ほぼみんな紺色で、そこに白い布の名札が縫いつけてある。こうした水着を、かつて日本人も着ていた。しかし、それは1980年代までだっただろう。もちろん、私の子供のころはみなこういう水着だった。

  もう一つ、不思議なことに、韓国人ファミリーはビニール浮輪を持ってきていた。これも、ワイキキのビーチでは違和感がある。なぜなら、現地の子供も欧米観光客の子供もそんな浮輪では遊んでいないからだ。

 

韓国人の次は中国人がビーチにやって来た

 

 韓国人は日本人より1週以上遅れている。そのときはそう思った。90年代後半から、ハワイにやって来る韓国人観光客は増えた。そうして、しばらくすると、韓国人ファミリーのファッションと水着が変った。彼らも自然に現地ブランドを身に付けるようになった。

 ところが、2000年代に入ってからは、今度は中国人観光客がハワイにやって来るようになった。かつての日本人、韓国人と同じように、彼らもまた異和感たっぷりのいでたちをしていた。子供の水着姿はもちろんのこと、大人たちも普通のズボンとワイシャツ姿で、デジカメやビデオカメラを持ってバスを降り、集団でビーチにずかずかと入って来るのだ。リゾートファッションというものをまったく知らない連中の出現に、しばしビーチの人々はびっくりした視線を注いでいた。

 

いっしょにビーチ・ボーズを聞いてサーフィンでもしよう

 

  そんな中国人も、いまはワイキキに溶け込んでいる。日本人が、韓国人が変ったように、中国人も変貌を遂げたのだ。

  しかし、尖閣や竹島問題をとおして見る一部の中国人、韓国人はなにも変わらない。ナショナリズムに自己陶酔し、自分がさも正義の代表のように振る舞う。その醜さ、ダサさに気づいていない。愛国心が強いと、為政者にそれを利用され、人生を棒に振るということを、この人たちはわかっていない。

 それにしても、船に同乗してきた香港メディア(といっても北京御用達)の記者は、ジャーナリストとして恥ずかしくないのだろうか?自由と正義、そして独立した個人のためにメディアは存在する。それを放棄して、単に金やナショナリズムのために報道する。彼らに家族があれば、そういう生き方は家族からけっして尊敬されないだろう。

 「釣魚島は中国のものだ」なんて、バカなことを言っていないで、いっしょにビーチ・ボーズを聞いてサーフィンでもしようと、私は中国人に言いたい。韓国の学生にも、竹島でサーフィンをしようと言いたい。

   ところで、尖閣や竹島には、サーフポイントがあるのだろうか? 誰か教えてほしい。