[177]日米中で違う歴史。オリバー・ストーン監督『もうひとつのアメリカ史』で考える戦争の意味 印刷
2013年 8月 14日(水曜日) 06:21

オリバー・ストーン監督が広島・長崎訪問のために来日し、それに併せてNHK-BS1では、『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(全10話)が放映された。

 このシリーズを見て、私はさまざまなことを考えさせられた。

 とくに私の胸を揺すぶったのは、ストーン監督が、「日本への原爆投下は軍事的にはまったく不要だった」と、はっきりと述べていることだ。

 トルーマンはルーズベルトの死去により大統領になるまで、原爆のことは知らなかったという。しかし、知るやいなや開発を急がせ、実験成功を待つため、ポツダム会談の開催を2週間も遅らせた。それは、スターリンを威嚇するためだったと、ストーン監督は言う。

「日本への原爆投下はソ連を牽制するためであり、軍事的な意義や正当性などない」

 

          (大田直子ほか訳、早川書房)

 

トルーマン政権内にあった原爆投下不要論

 

 私は、この番組を見るまで、ヘンリー・ウォレスに関してはほとんど知らなかった。ウォレスはニューディール政策の推進者で、ルーズベルト政権の農務長官、副大統領、そしてトルーマン政権の商務長官を歴任した。そんな彼を、ストーン監督は「アメリカを代表する知性だった」と高く評価している。

 ウォレスは、終始、原爆の使用には反対したという。また、トルーマン政権内でも、ニミッツ、アイゼンハワー、マッカーサーなどの軍の幹部たちが、原爆投下は「道徳的にも非難されるべきであり、軍事的にも必要ない」としていたという。

 しかし、トルーマンは、核兵器の国際共同管理を拒否し、ソ連の脅威を煽り、バーンズ国務長官とともに、核の威力を背景にした戦略を進めて行く。その結果、冷戦を引き起こしたと、ストーン監督は述べている。

 

もしヘンリー・ウォレスが大統領になっていたら?

 

「ウォレスがもし、シカゴの党大会で引き続き副大統領候補に指名されていれば、ルーズベルトの死後、大統領になっていた。そうなれば、原爆の投下はあっただろうか? 戦後の核開発競争もあっただろうか? 人種隔離や女性の権利向上は数十年早く実現しただろうか?」

 ミズーリ州選出の凡庸な政治家ハリー・トルーマンは、1944年の党大会で派閥人事によりルーズベルトのランニングメイト(副大統領)に選ばれた。本来なら、ウォレスが選ばれていたのである。

 原爆投下は、日本本土上陸作戦による犠牲者数を少なくするために必要だったとするのが、アメリカの公式見解である。私は、今日までこの公式見解を半ば信じてきた。

 しかし、その犠牲者数は、年を経るごとに水増しされてきた。当初はトルーマンですら15万人ほどとしていたのが、やがて100万人になり、9.11テロ後にブッシュ大統領が演説で引き合いに出したときは、「もしそうしなかったら数百万人の命が奪われていただろう」となった。

 

アメリカの教科書の歴史の記述

 

 私の娘は、インターナショナル・スクールに通っていため、日本の歴史教育を受けていない。そこで、日本の歴史、とくに戦争に関しては、私が直接教えなければならないと思っていた。

 そこで、娘が中学生になったとき、私はアメリカの教科書では、太平洋戦争はどう扱われているのか、娘の教科書を見てみた。

 当時、娘が「Social Studies」(社会科)で使っていた教科書は、「The American Nation」(Prentice Hall / Pearson)である。これは、アメリカではポピュラーな教科書だ。

 その中にある「原爆投下」の記述を読んで、私はアメリカの教科書が日本のものとは違うことを知った。

 アメリカの歴史教科書は、単なる史実の記述だけではなく、それをどう捉えたらいいのか、少なくとも生徒に「考えさせよう」と編集されていた。つまり、史実が述べられた後に、「レビュー」「一次資料にあたってみよう」等の欄があり、そこで、「なぜそれが起きたのか?」「そのときの選択は正しかったのか?」というクエスチョンが設けられていた。

 

       『The American Nation』

 

いろいろな見方があることを知ろう

 

 たとえば、原爆投下の記述の後には、《トルーマン大統領は、どういう理由で原子爆弾を使うことを決めたと思いますか?》という質問がある。

 さらに、《戦争後、トルーマン大統領は、原子爆弾使用に同意したことについて、「それは戦争の苦しみを早く終わらせ、何万人ものアメリカの青年たちの命を救うためだった」と語りました。この大統領の決定は正しかったと思いますか?  あなたの意見の根拠を述べなさい》という質問もある。

 また、「一次資料にあたってみよう」には、1945年9月9日付け『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事が載っている。これは、ウイリアム・L・ローレンス記者が長崎への原爆投下に同行し、その瞬間をその目で見た感想が書かれている。そうして、その記事に対して「いろいろな見方があることを知ろう」と、生徒に感想を述べることを求めている。

 こうした教科書の記述から、私は、アメリカにはいまも原爆投下に対しては異論があること、アメリカ人が罪の意識を持っていることを知った。それを、『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』は、はっきりと描き出していた。

 

政府の歴史観だけの中国の歴史教科書

 

 私が昔習った日本の歴史教科書は、客観的な事実の記述ばかりに終始していた。いま思うと、どこからも文句が来ないように、編集者がはじめから配慮していたように思える。

 それでは、中国の教科書はどうだろうか?

 私が知る限り、それはアメリカの教科書、日本の教科書とは大きく違っている。そこに描かれた歴史は、自国中心主義で凝り固まり、都合の悪いことは書かれていない。つまり政府の歴史観を押し付けているだけで、生徒たちがどう考えるかということを尊重していない。このような教科書で育った子供たちは、本当に不幸だと思う。

 中国の歴史教科書は、たとえば南京大虐殺の記述など、日本人は残虐だと洗脳するためにだけ書かれているように思える。その証拠に、1990年代に江沢民による「愛国主義教育」が強化されてからは、小学校の教科書に、それまではほとんどなかった南京大虐殺が取り上げられ、それに多数のページを割くようになった。

 だから、中国人と話すと、90年代に教育を受けた世代である「80后(バーリンホウ)」「90后(ジュウリンホウ)の若者たちのほうが、南京大虐殺をよく知っている。「30万人が殺された」というプロパガンダを史実だと思っている者もいる。

 

南京の大虐殺記念館を訪れて

 

 私の娘は大学院で南京大学に留学したため、南京で暮らしたことがある。そのとき、中国人の友人がたくさんでき、いまでも交流している。私も娘がお世話になった中国人学生の親御さんに、南京に行ったとき、本当に暖かく迎えられた。

 しかし、人間同士はこうして交流できても、南京大虐殺記念館に行くと、ムードは一変する。記念館の展示は、日本人にとっては本当に情けなくなるもので、日本人がいかに残虐であるかばかりが強調されている。訪問者の記帳ノートにも、「日本人を皆殺しにせよ」などと書かれていた。  

 この記念館ができたのは、1985年(抗日戦争40周年の年)である。それ以前は、このようなものをつくろうという動きは、中国国内にはなかったという。実際、歴史教科書にも、南京大虐殺に関しての詳しい記述はなかったという。

 

真珠湾のアリゾナ記念館でした握手

 

 ハワイの真珠湾には、いまでも戦艦アリゾナが沈んだまま眠っている。その上にアリゾナ記念館がつくられ、すぐ隣には戦艦ミズーリが繋留されている。湾上にあるアリゾナ記念館にはボートで行く。

 日本人観光客は、ハワイでは米本土からの観光客を除くと、断トツに多く、年間約800万人のうち約150万人にも達している。今年は、円安でもっと多いと聞く。しかし、ほとんどの日本人観光客は、ここを訪れない。

 アリゾナ記念館には、娘がまだ小学生の頃、家族で出かけた。このときも日本人観光客は、私たち以外には、2、3組だけだった。ボートから記念館に乗り移り、上から海面を見下ろしていると、「平和のために、かつての敵と味方は握手をしましょう」というアナウンスが流れた。それで、アメリカ人家族と握手をした。

 戦争を繰り返さないというのは使い古されたメッセージだが、その重みを感じることは、今日、本当に少なくなくなった