[043]出版産業「ついに2兆円割れ」で思う紙メディアのあり方 印刷

20091215

朝日新聞が12月13日(日曜日)の1面で、「本の販売2兆円割れ 170誌休刊・書籍少ないヒット作」という記事を載せた。もう12月半ばだし、年度を締めくくるときだから、こうした記事が載るのも仕方がないと思うが、こんなのは本来ニュースではない。というのは、こんなことはとうの昔からわかっていたからだ。

さらに、記事自体がいわゆる発表もので、その分析もありきたり。目新しいものはなにもなかったので、私は正直がっかりした。

 では、なぜ、この記事をきっかけに、このブログを書き始めたかといえば、最近のメディア界の動きが、あまりにも急だからだ。そんな動きを追いかけつつ、こうした記事に目をやると、過去に引き戻された気がして、ものすごく憂鬱になる。

出版界は毎年、毎年、前年割れが続いて、ついに13年

それなのに、出版業界の人々も、この記事を書いた記者の意識もほとんど変わっていないのは、なぜなのだろうか?いまさら、何万部、何十万部売れた、ベストセラーが少なくなったなどと言っても始まらない。もはやそんなことをベースにして、業界の動向を語ってなんの意味があるのだろうか?

 

なぜ、販売枚数からダウンロード数に基準を換えないのか?

 

 昔は、レコードやCDが販売枚数を競っていた。しかし、いま音楽業界の動向はそんな数値ではわからない。パッケージメディアからダウンロードメディアへと時代は大きく変わっている。だから、たとえ本や雑誌であっても、これからはダウンロード数のほうがはるかに数字として価値がある。村上春樹の『1Q89』が今年最大のベストセラーだが、販売数がミリオンを達成したからといって、それが社会的に影響力をどれほど持ったかは、販売数ではわからない。

 紅白歌合戦やレコード大賞が時代遅れなのは、その年のヒット曲や話題曲をいまだに販売枚数などを基準にして選考しているからだ。なぜ、ダウンロード数を基準にしないのだろうか? ただ、そうしたら、レコード大賞曲が「何百万ダウンロードを達成した○○です」と発表され、お年寄りはなんのことかわからなくなってしまうかもしれない。また、紅白出場歌手はいまとはまったく違う人たちになってしまうだろう。現在、演歌はほとんどダウンロードされない。だから演歌の大御所などという人々は、続々落選するはずだ。

 と、ここまでちょっと先を急ぎ過ぎたので、朝日記事をもとに、以下いちおう今年の出版界をふり返ってみることにしたい。

 

ついに2兆円割れ。今年は、最終的には1兆9300億円に!

 

 朝日記事のデータのもとは、出版科学研究所である。出版科学研究所の予測によると、出版界の売り上げが2兆円を割り込むのは確実な状況となったというのが、この記事のたったひとつ伝えるべき点である。

 今年は、最終的には1兆9300億円台に落ち込むだろうというのが、その予測だ。

 これは出版界にとっては惨憺たる数字だが、私に言わせてもらえば、その程度ですんだのは幸いだったのではないかということになる。日本は高齢化社会になり、お年寄りに資産が偏在しているから、本や雑誌の落ち込みがこの程度ですんだのであり、もし若い社会だったら、こんな数字ではすまなかったはずだ。言うまでもないが、この調査では、古書店やブックオフなど新古書店での販売金額は含まれない。

 日本の出版産業は、1989年から20年間にわたって「2兆円産業」と言われてきた。出版産業は、バブル期のピークの1989年に2兆399億円となり、初めて2兆円の大台に乗った。しかし、その後、1996年に過去最高の2兆6563億円を記録してからは、下降の一途となった。毎年、500~1000億円減り続け、昨年は2兆177 億円まで、市場規模は縮小してしまった。

 

この秋から書籍・雑誌ともさらに数値は悪化している

 

 そして今年は、10月末時点で1兆6196億円と昨年同期比4%減。この後に出る11、12月のデータを加算しても2兆円に達する見込みはない。最終的には1兆9000億円台の確保がやっという状況だ。つまり、出版産業は、ついに「2兆円産業」という看板を下ろすときを迎えたのだ。

 そればかりか、この秋からは、書籍・雑誌とも、さらに大幅な落ち込みを記録している。出版科学研究所が12月3日に発表した、10月期の書籍・雑誌販売額調査によると、9月期の4.9%減に続き、書籍・雑誌とも大幅なダウンを記録している。

 その内訳は、書籍が前年同月比8.7%減、雑誌が同3.6%減。雑誌の内訳は、月刊誌(=週刊誌以外のすべての雑誌)が同3.6%減、週刊誌が同3.7%減。書籍はなんと、2桁近い落込みが続いている。

 

売れないのに出版点数はどんどん増えるという悪循環

 

 それなのに、本や雑誌はどんどん発行されている。ほかの産業ならとっくに生産調整に入っているはずだが、出版社は再販売価格維持制度(再販制)にあぐらをかいて、ともかく部数を維持したいだけのために発行を続けている。

 とくに書籍は、なぜこんなに出すのかというほど出版されている。新刊の刊行点数は、1989年には約3万8000点だった。それが、昨年は約7万6000点と倍増した。そして今年はといえば、10月末時点で昨年より3.2.%増である。

 これでは、オンラインメディアへの移行という時代の流れがなくても、売れなくなって当然だ。まして、ミリオンセラーなど出なくて当たり前だろう。しかも、返品率はじわじわと上昇している。ちなみに昨年の返品率は40.1%で、今年は10月末の時点で40.7%とさらに悪化している。

 

廃刊してしまえば売上がなくなるので、それが怖くてできない

 

 ただ、雑誌は本と違って、広告媒体だから、時代の影響を大きく受ける。不況で広告が入らなくなれば、販売収入だけで経費をカバーできない。当然、広告収入が維持できなくなれば廃刊するしかなくなる。

 バブル期は、たとえば女性誌・ファッション誌なら、1号あたり何千万、何億と広告が入ったので、日本では次々に女性誌・ファッション誌が創刊された。しかし、いったん広告が落ち込めば、これらの雑誌は毎号何千万円単位の赤字を生む元凶となる。

 今年は、多くの休刊誌が出た。10月までに『諸君!』『BRIO』『マリ・クレール』などを約170誌が消えた。来年はさらに増え、すでに休刊が決まっている『PINKY』などを含め、女性誌・ファッション誌の多くが消えざるをえないだろう。

 毎号赤字を出しながら、それでもなぜか、大手出版社の雑誌は発行され続けている。その理由は、ひとつは上層部がバブル期を経験したために、新しい時代に対応できないこと。もうひとつは、廃刊してしまえば売上がなくなるので、それが怖くてできないことに尽きるだろう。

 しかし、ほかの部門の黒字があって赤字を相殺できるならまだしも、内部留保の取り崩しや、社員の給料カット、リストラまでして刊行し続ける理由が私にはわからない。

「なんとか部数を伸ばしてほしい」「売れる企画をやってほしい」「がんばって売ってほしい」「広告を取ってほしい」と言うのが、どこの社でも上が言う口癖だ。しかし、これらはなんの解決策にもなっていない。なかには、「いずれ広告が回復したとき、一番手の雑誌になっていなければならない」などと言う人までいる。一番手の雑誌になっていれば広告が入ると思っているのだろうが、景気が回復しても紙媒体への広告は未来永劫戻ってはこない。

 

活字と紙が不可分だという意識に捉われる不思議

 

 すでに、ノンフィクション誌、言論誌などのビジネスモデルは崩壊した。情報誌も同じ道をたどっている。次は、広告依存の女性誌・ファッション誌である。アメリカでは「メレディス」も「コンデナスト」も、広告依存度は日本より低いのに、真剣にメディアとしての将来を考えている。つい、先日、彼らが「ニューズ・コーポレーション」「タイム」などと組んで、コンテンツをオンライン配信する「デジタルニュースス タンド」を共同で立ち上げることにしたのも、その現れだ。
 今後、この共同チームは、スマートフォンや電子書籍リーダー、ノートパソコンなどの携帯端末で新聞や雑誌を閲覧するために、共通のフォーマットの開発を目指す。そのため、このデジタルニューススタンドは、「新聞・雑誌版のiTunes」と呼ばれる。

 ところが、この日本では、そうした動きはまだまだ見られない。デジタルに大きく舵を切ろうとする出版社は現れない。新聞では、産経だけが半ばバクチ的に、デジタル化に舵を切っただけだ。

 私がどうしても不思議なのは、なぜ、情報やニュースから文芸にいたるまで、活字と紙が不可分だという意識に捉われるのだろうかということだ。たとえば記者や編集者は、絶えず時代の先端を走り、ニュースや情報を追いかける。そして、それを価値あるモノとして読者、消費者に伝達する。だから、メディアと言うのであり、新聞や雑誌をつくって発行しているからメディアなのではない。

 

「ロッキー・マウンテン・ニュース」廃刊で尻ごみしてはダメだ

 

 アメリカの動きが先行しているのは、この点を、旧メディアの人間たちがはっきりと認識し出したからだ。なにも紙でなくても、ニュースも情報も、論説も文芸だって、最終消費者に伝達できれば、それでメディアの役目は果たせる。

 しかし、日本のメディア経営者の多くが、この本質的な問題に踏み込もうとはしていない。

 それは、紙からオンラインに移行すると、たちまち売り上げが落ちるからだ。今年の2月に廃刊した「ロッキー・マウンテン・ニュース」は、かつてはピューリッツァー賞も受賞した伝統ある中西部の代表的な新聞だった。しかし5年前、ロッキー社はその伝統を捨て、記者の数を2分の1に減らしてまで、紙からウェブへと完全移行した。人件費を半減させてまでトライしたのだから、経営判断として画期的だった。しかし、ウェブでは広告収入が伸びず、とうとう廃刊へと追い込まれてしまった。

 こうした例があるから、紙での売り上げがあるうちは、まだそれをなんとか確保していこうとする。「ニューヨークタイムス」も、ずっとそうだった。まして、コンデナストのような雑誌社は必死に紙を維持してきた。ただ、去年あたりから、パッケージメディアはほぼなくなることが確実視されるようになり、メディアを続けるなら、業界の再編か、紙を縮小したうえでの大胆な打開策に打ってでるしかなくなってきた。

 

ウェブを別物と考え、FacebookもTwitterもやらなくていいのか?

 

日本でもそう考えている人は相当数いるが、残念ながら、アメリカほど危機感ない。私に言わせれば、これは危機というより、将来のメディアのあり方を思えば、じつに楽しい冒険、チャレンジだと思うが、目先のことに追われ、決断をする会社はほぼない。

どんないいニュース、情報でも、紙を選択した時点で価値がなくなるし、まったく売れない。あるいは社会的な影響力を持たないと、これらの人々が悟らない限り、変わらないだろう。

 いまこそ、メディアの次世代モデルをつくるべきときだ。それをできる立場にいる人々が、ウェブを別物と考え、FacebookもTwitterもやらず、ケイタイでメールぐらいはしても、たとえばiPhoneで配信ニュース、本を読んだりしないのだから、いかんともしがたい。本や雑誌をつくるときには、「時代のトレンドを的確にとらえれば売れる」などと言う人々が、iPhoneも持っていなのなだから、これはマンガだ。

 ところで、私もまだiPhoneユーザーではない。でも、先日、親しい同年代の友人が15年間契約し続けたドコモ・ケイタイを捨ててまでiPhoneに乗り替えたので、年内にはiPhoneにするつもりでいる。Twitterも、近いうちには始めようと思っている。

 

ソニーが個人や小規模出版社向けにポータルサイトを開設

 

 メディアの大転換時代をはっきりと認識しているのは、新聞・テレビ・出版社などの旧メディアの人々ではなく、グーグルやマイクロソフトのようなIT企業と、ソニーなどの電子メーカーだ。ソニーは、今年の9月から、電子リーダー市場への新たな取り組みとして、同社の電子ブックストアで個人や小規模な出版社が作品を提供できるようにするポータル『Publisher Portal』を開設している。アメリカでの話だが、ソニーは電子出版の Author Solutions および Smashwords と提携し、個人や小規模な出版社のコンテンツを ソニーの電子ブック販売サイト『The eBook Store from Sony』で販売できるようにした。

 この試みが成功するかどうかは、『Publisher Portal』にかかっている。ソニーでは、このサイトに参加する著者は、自ら出版方法を選んで作品を出版し、最短なら10日で 『The eBook Store from Sony』にアップするようにするという。 もし、こうしたことに、次世代メディアを見据えた若者たちが積極的に参加していけば、紙だけで生きてきた既存の著作者たちは、いずれ淘汰されていくだろう。

 

Simon & Schusterが始めたテキストと動画を融合させた書籍

 

 こうした動きを恐れた既存出版の大手の Simon & Schusterも、10月からオンラインビデオ書籍サービスの提供を開始した。このサービスは『vook』と名付けられ、iPhoneアプリケーションとパソコンの Web ブラウザ経由の2形式で利用できる。つまり、テキストと動画を融合させたものである。

次世代メディアは、活字は活字、音声は音声、動画は動画という固定された枠組みを超えて成立していくと考えられている。だから、そこに照準を絞るなら、このようなものになるのは必然だ。Simon & Schusterは、 次のようなステイトメントを発表している。「vook は、デジタルメディア時代の読書において、すべてを変革するモデルだ。使い勝手がよく、同時にいくつもの作業を行なう今日の読者や、情報とエンターテインメントの吸収方法にも対応する、初の実用性あるテキストと動画の融合体である」

 まだ私は、この vook 書籍を見ていないので判断しようがないが、これが次世代の本のひとつのかたちなのは、間違いないだろう。

 

救いがたいほど時代遅れの日本の著作者たち

 

 日本の既存メディアの幹部の意識も遅れているが、じつはもっと遅れているのが、活字を書いて生計を立てている著作者たちだ。年輩の大作家は別として、私と同世代の著作者、その下の40歳代の著作者でも、いまだにデジタル化、オンライン化がわかっておらず、対応できていない人は多い。さらに、新聞や雑誌、本などはなくなりはしないが、ほぼなくなりつつあるということがわからない人がほとんどだ。

 だから、出版されるとなるといろんなことを言ってくる。いつ発売されるのか?部数はいくらか?そのとき、どのように売ってくれるのか?新聞広告はいつか?どれくらいの大きさか?どの書店にどれくらい配本されるのか?ウェブなどでもプロモーションするのか?

 こういうことを言われると、私は絶望的になる。第一に、部数などそんなに刷れない。第二に新聞広告などほとんど利かないし、さらに販促にまわす予算などほとんどない。あったとしても、既存出版社のやり方は古すぎて効果はほとんどない。書店にチラシを配ったり、店頭ポスターをはってもらったりしても、効果はたかが知れている。要するに、紙メディアが紙メディアにお金をつぎ込むことほど、滑稽なことはない。まだ、ウェブ上のブロガーたちに書評を頼んだり、著者自身が知り合いにマスメールを出したりしたほうがましだ。

 

本を売りたいなら、自分や家族の映像をYouTubeに投稿しろ

 

 この時代にパッケージメディアを売ることほど大変なことはない。たとえば、『SAPIO』誌の「メディアを裁く!」というコラム欄にこんな話が載っていた。

 今回の執筆者は、最近『ホームガール』という本を買いたCJRの外部エディターの一人、ジュディス・マトロフ女史。彼女が本を書いた後、出版元のランダムハウス社から、宣伝・販売のための会議に呼びだされて出かけると、マーケティングの担当者から、矢継ぎ早に質問をされた。「Facebookにどれだけ友達がいるか?」「自分のウェブを持っているか?」など。そして、本を売りたいなら、すぐにブログを始め、ほかのブログに投稿し、場合によってはケンカを売り、さらに、自分や家族をビデオに撮ってYouTubeに投稿しろとまで言われる。

 50歳のマトロフ女史は驚くが、本を売りたかったので、この提案を受け入れ、Facebookに登録し、ブログを書き、6歳の息子とともに撮った映像をYouTubeに投稿した。やってみると、これが意外に面白く、しばらくすると知らない人からメールがどんどん届き、アマゾンの順位も上がり出した。

 ―という話なのだが、この話と対照的なのは、日本の著作者でこんなことを受け入れる人はほとんどいないということだろう。大家になると、本が売れないのは出版社のせいだと言い出す人までいるから、私はあきれるばかりだ。いまや、紙メディアは自分の身を削り、巨額の赤字を抱えながら本や雑誌を発行しているのだ。そう考えれば、著作者は宣伝ぐらいは自前でやるのが当たり前で、場合によっては原稿料を放棄してもかまわないぐらいの気持ちがなければ、本など書いてはいけない。

 

ネットの中は90%がクズだが、質の低下は起きていない

 

ウェブコンテンツは、たいしたおカネは生まない。それでも、ありとあらゆる人が参加して、今日まで発展してきた。しかし、紙側の人間は、それは「質の低下を招く」「プロとアマの差がなくなる」として毛嫌いしてきた。しかし、それは本当だろうか?

本来、オリジナルなコンテンツをつくり、それを広く世の中に広めたいために、著作者を含めたクリエイターたちは日夜努力してきた。だから、その行為がたとえおカネを生まなくとも(本が売れなくとも)、文句をほかに持っていくのは筋違いであろう。

誰が、金銭的なリターンだけのために、論文を書き、ノンフィクションの取材をし、まして、芸術作品をつくろうとするだろうか?

 このように考えれば、オンラインの世界は、オフライン(紙を含めた旧メディア)ほどおカネを生み出さないだけ純粋な世界であり、質の低下など起きてはいないのだ。もちろん、ネットの中は90%以上がクズ情報だが、レベルの高い情報もコンテンツもある。私は、この1年、自らネットの世界に飛び込み、それを身をもって感じてきた。

このブログは、もちろん、一銭もおカネを生み出さない。サイトに少しでもアフィリエイトを入れればという人もいたが、自分で取材し考えたことを純粋に書きたいので、それを止めてきた。

 

女性誌ビジネスを年収300万円モデルにしてしまった宝島

 

 だいぶ長くなったが、話を紙メディアに戻すと、雑誌というビジネスモデルは、紙だけではもうしばらくすれば終焉を迎える。とくに、女性誌・ファッション誌は、現在のつくり方では限界に来ている。

 もっと具体的な話をすると、先日、大手出版社の女性誌担当者からメールが来て、「山田さん、なぜ女性誌がもうもたないのかわかりますか? それは、宝島がビジネスモデルを破壊したからですよ」と書いてあった。彼が言うには、「宝島の女性誌は、女性誌ビジネスを年収300万円モデルにしてしまった。これでは大手は対抗できない」ということだった。

 私はこれを聞いて、なるほどそうだったのかと思った。いまや、派遣やフリーターと年収レベルで変わらないスタイリストやフリー記者を使い、ページ単価をぎりぎりまで下げて、宝島社は女性誌をつくって成功している。これに3つもついてくる付録の効果もあって、確かに部数は伸びている。

 しかし、これはメディアとしての成功だろうか? 質の低下を招いていないだろうか?

 私は、いまの紙メディアが紙に固執して続ければ続けるほど、質の低下を招くと思っている。つまり、質の低下は、ウェブより紙のほうが著しいのだ。最近のビジネス本などを見ると、新刊点数の増加が明らかに質の低下を招いている。これだけでも紙メディアの人間が、オンラインメディアを「質が低い」と批判するのはおかしいと思う。

 

元のモデルを維持しながら新しいモデルをつくるには2倍のコストが

 

さて、ここまで書いてくれば、紙メディアがいま大転換をはかるべきときに来たのは明らかだろう。政治の世界も「政権交代」したのだから、メディアは「紙ウェブ交代」、あるいは「オフオン交代」を急がなければならない。紙というオフラインに固執すればするほど、将来はなくなるはずだ。

 いまのように、紙を捨てきれない。そのうえで、オンラインもやっていこうというのは大きな間違いだ。このような明確な方向を定めない経営をしていると、必ず最悪の結果を招く。

 私はこれまで多くのビジネス関係の書籍をつくったので、経営を刷新させた名経営者に何人も出会ってきた。彼らに共通するのは、明確な方向を設定したことだ。その方向が間違っているかいないかは関係ない。ここに行くということを大方針として掲げ、「どんなことをしてもやりとげる。できなかったら責任を取る」と言った人間だけが成功している。

 当然、大反対にもあう。帰り血も浴びる。しかし、新しいビジネス、新しい時代をつくるには、避けて通れないことだろう。

 しかも、元のモデルを維持しながら、さらに新しいモデルをつくるとなれば、当然、コストは2倍かかる。これでは、いまの日本の紙メディアはほとんどが潰れるしかない。

 今後の紙メディアの勝ち組は、このことに気がつき、いちはやくオンラインに舵を切ったところから出るだろう。再編も、そのリーダーシップを握ったところから起こるだろう。