[065]いまもあの姿が!65歳で逝った梨元勝さんの思い出 印刷

2010年9月03日(金曜日)22:33

フリーランスの生活になったというのに、落ち着く暇もないくらい忙しい。猛暑の中、出かけることが多く、あっという間に8月が過ぎた。今日も1日、東京の街を取材や打ち合わせで動き回っていると、ふと、梨元勝さんを思い出す。ホテルのロビーにいると、そこに突然、マイクを持って梨元さんがいまにも入ってくるような気がする。8月21日、肺がんで死去。享年65歳。

 本当に、なんでこんなに早く逝ってしまったのだろう。65歳ではまだまだ早すぎる。梨元さんが逝ってすぐ、作家の大下英治さんにお会いしたが、大下さんも同年齢、マスコミは同期だ。大下さんが週刊文春記者だったとき、梨元さんはヤングレディの記者だった。当時の思い出を大下さんはしみじみと語った。それは、私が光文社に入り女性自身の編集部でキャリアをスタートさせる7、8年前のことだ。

 

 女性自身で芸能を担当していたときは、かなり頻繁に梨元さんに会った。1980年代の半ばから90年代の初めにかけて、ワイドショーの全盛時代だった。梨元さんの連載記事もやった。それで、「今度、業界生活25年になるので本を出します。その編集を手伝ってほしい」と頼まれ、1冊編集させてもらった。テレビ朝日出版から1992年に出版された「恐縮です!で25年」だ。このタイトルはかなり悩んでつけたが、「梨元さんと言えば『恐縮です』。これ以外にない」と言うとすぐに決まった。

 

 その本を編集し終えてすぐ、私はニューヨークに行った。というのは、当時の松田聖子の不倫相手のジェフが「彼女との真相を話す」と持ちかけてきたからだ。当時、芸能をやっていた芋沢貞雄記者といっしょにギャラの1万ドルを持ってニューヨークに行き、ジェフに会った。そして、ホテルに戻ると、電話が入った。

「梨元です」

「あ、梨元さん。本のことでなにかありましたか?」

「いえ」

「じゃあ、なにか? それより、なんでぼくがここにいるのを知っているのですか?」

「奥さんに聞きました。そうしたら、ニューヨークに行ってしばらく帰ってこないというので。それでなんかあるなと思って」

「そうですか? でも、いま取材中ですから話せませんよ」

「そう思って、じつはぼくもニューヨークに来ました」

「えっ! いまどこにいるんですか?」

「エセックスハウスにチェックインしました」

 本当に勘のいい人だった。ジェフの手記は女性自身の独占スクープである。彼と話をつけ、ギャラも渡した。そこに割り込んできてもらっても困るが、来てしまった以上、会うことにしてエセックスハウスに行った。

 

 まさか、ニューヨークにまで押しかけてくるとは、このときは本当に驚いた。

 結局、ジェフの独占取材は女性自身、梨元さんは周辺取材ということにして、その後テレビのクルーと、ジェフのホームタウン、ボルチモアまで行った。そこで、ジェフの兄をつかまえ、「聖子はジェフとよくこの街にやってきたよ」という証言を取ったので、テレビの取材はなんとかかっこうがついた。

   約1週間ぐらい、梨元さんと一緒に周辺取材をし、私と芋沢記者はその間にジェフと直接会って手記を書いた。

「松田聖子:ニューヨークの真実」と題した独占手記(3週間連載)は、2人のキス写真も載せたのでバカ売れし、ワイドショーも視聴率が上がった。


   それ以後、私は芸能担当を離れたので、梨元さんと会う機会は少なくなったが、その後、函館大学で授業をすることになったというので、同行したことがある。このとき、新書で1冊出すというので、これをまた編集させてもらった。「噂を学ぶ」という本だ。

   梨元さんは、週刊誌記者からレポーターになったから、常にメディアは何をすべきかを考えて行動していた。「芸能レポーターが芸能サポーターになっちゃまずいでしょ」と、新書「噂を学ぶ」では、メディア論を展開した。「芸能ニュースを他のニュースより一段下に見るのはおかしい」が梨元さんの口癖だった。記者魂というのがあるなら、それを最期まで捨てなかった人だ。

 

   9月になったというのに、連日暑い。この猛暑はまだ1週間以上続くという。芸能のおっかけ取材を毎週していたのは20年も前だが、記憶にあるのは日航機が墜落した1985年の夏が異常に暑かったということ。今年の夏はそれ以来の暑さだ。そして、何かもの哀しい夏である。