[069] 出版社は電子書籍をつくれない。村上龍氏の電子書籍会社設立の衝撃 印刷
2010年 11月 09日(火曜日) 01:35

作家の村上龍氏が、電子書籍の制作会社「G2010」を立ち上げ、11月4日、都内で記者会見した。村上氏は、この7月、自身の新作小説『歌うクジラ』の電子版を紙版に先駆けて出版したが、それを手がけた企画制作会社グリオと新会社を共同で設立することになった。

 この新会社で村上氏は、自身の作品ばかりではなく他の作家の作品も扱い、よしもとばなな氏や瀬戸内寂聴氏の作品なども電子化するという。

 会見によると、新会社の設立目的は、書籍の電子化コストを透明化し、売り上げ配分に関する公平なモデルを示すことで、電子書籍を巡る利害関係者の対立を避け、今後の電子書籍の普及に寄与していきたいという。今年は「電子書籍元年」と言われ、現在、さまざまな動きが錯綜しているが、その根本にはプレーヤーの思惑が立場によって違うことがある。

 そこで、新会社では、たとえば音楽やアニメーションが入った電子書籍を制作する際にかかるプログラミング費用などを細かく発表し、業界の参考にしてもらうという。そうして、参加者の思惑をポジティブ変えていきたいという。

 

既存の出版社は電子書籍をつくれない

 

 村上氏は会見で、既存の出版社に頼らず新会社を立ち上げた理由について、「多くの出版社は自社で電子化技術を持たず外注しているから」と言い、「作家が出版社の仲介で外注先にアイデアなどを伝えるのは、コストと時間がかかりすぎる」と説明。また、「特定の出版社と組んで電子化を行うと、他社の既刊本は扱えない」とも語った。

 これを聞いて、私は、やはりそうかと大きくうなずくしかなかった。出版関係者には衝撃かもしれないが、いまの日本の出版社で、本当の意味での電子書籍を制作できるところは、ほぼない。だから、村上氏は自身で電子出版を始めるしかなかった。簡単に言えば、こういうことだからだ。

 現在、電子出版に対し、多くの人間が誤解している。誤解とまではいかなくとも、プラットフォーム、メーカー、流通、書店、出版社、作家など、それぞれが持つイメージが食い違っている。

 まず、これを整理しないと、村上氏の真意は理解できないだろう。

 

電子出版の今後には3つの方向がある

 

 そこで、簡単に整理してみると、電子出版の今後には、次の3とおりが考えられる。1つ目は、いわゆる紙の本をそのまま電子化していくというもの。2つ目は、映像だったり、音楽を組み込んだりして、従来の紙の本とはまったく異なった電子書籍をつくっていく方向。村上氏の『歌うクジラ』はこの方向の電子出版である。

 そして3つ目が、自費出版モデルで、これはブログなどのソーシャルメディアと結びつき、電子書籍というより、電子回覧板のようなものになるだろう。電子出版になると、誰でもが出版できるセルフパブリッシングが進むので、こういうことが日常化する。ただし、この3番目のモデルは、既存の出版社がビジネスにするには難しい。

 そして、さらに大きな問題は、ユーザーにとっては、この3つとも、ほぼどうでもいいことにある。ユーザーにとっては、面白い、楽しめるコンテンツが、プロであろうと素人であろうと、また既存の出版社からだろうと、新しい電子書籍の会社からだろうと、ともかく存在していればいいだけだからだ。

 電子書籍は紙より便利なのは間違いない。だから、今後、電子端末が普及すれば、書籍は紙から電子に移っていくが、そのとき、やはりビジネスになるのは、村上氏が目指す新しいかたちの電子書籍だけだろう。

 

セルフパブリッシングはゴミ書籍が増えるだけ

 

 1つ目の紙を電子化しただけのものは、今後、グーグルなどがやってしまえば、それで終わりだ。グーグルは、グーテンベルグ以来の全世界の書籍をデジタル化してしまおうというのだから、それが完成すれば、その先はない。アマゾンも同じだ。ここに、既存の出版社が介在する余地はほとんどない。

 また、3つ目のセルフパブリッシングは、今後、どんどんプレーヤーが増え、そのなかでメジャーな作家が生まれる可能性もある。しかし、それは一部の話で、本流はそうはならない。というのは、セルフパブリッシングというのは、これまでの紙の出版が維持してきたクオリティの破壊だから、結局は、ゴミ書籍が大量に増えていくだけだからだ。要するに、紙ならとうてい出版できないものまで電子では出版されるので、ビジネスになるのは、そうしたコンテンツから上前をはねるプラットフォーム側だけとなる。これは、iPhoneのアプリ制作に、世界中の素人が参加しているのを見ればわかるだろう。

 というわけで、2つ目の従来の書籍ではない電子書籍だけが、将来のビジネスになるわけだが、これを村上氏は「出版社ではできない」と言ってしまったわけだ。

 村上氏は会見と同時に、自身のメルマガで、今回の経緯についてかなり長くていねいに説明している。それによると、こうした新しいかたちの電子書籍を村上氏は、リッチコンテンツと呼んでいる。

 

『歌うクジラ』制作過程で村上氏が学んだこと

 

 『歌うクジラ』の場合、リッチコンテンツを制作するにあたり村上氏がまずしたことは、坂本龍一氏への楽曲依頼と、『群像』連載作品であることから版元の講談社との話し合いだった。

 《講談社は、電子書籍への深い理解がある野間副社長の英断により、紙に先行する『歌うクジラ』電子化に理解を示し、しかも制作をグリオに委託することも了解してくれました。》 

 とのことで、電子版『歌うクジラ』にはパッケージとして音楽が入り、さらにアニメーションも加わったリッチコンテンツとなった。

 このようなプロセスで、村上氏が学んだことは、次のようなことだった。

《電子書籍の制作を進めるに当たって、出版社と組むのは合理的ではないと思うようになりました。理由は大きく2つあります。1つは、多くの出版社は自社で電子化する知識と技術を持っていないということです。「出版社による電子化」のほとんどは、電子化専門会社への「外注」です。わたしのアイデアを具体化するためには、まず担当編集者と話し、仲介されて、外注先のエンジニアに伝えられるわけですが、コストが大きくなり、時間がかかります。『歌うクジラ』制作チームの機動力・スピードに比べると、はるかに非効率です。2つ目の理由は、ある出版社と組んで電子化を行うと、他社の既刊本は扱えないということでした。いちいちそれぞれの既刊本の版元出版社と協力体制を作らなければならず、時間とコストが増えるばかりです。》

 つまり、既存の日本の出版社はリッチコンテンツをつくる技術もなければ、そうした人材もいない。さらに、既刊作品となると何社かに散らばっているため、その壁をこえられないということだ。著者なら誰も、自分の作品を自分の手元で一括管理したいが、いまの状況ではそれができないのである。そうした経緯からの新会社の設立だった。

 

出版社も編集者も「中抜き」される

 

 この村上氏の結論は、出版界に大きな衝撃となるのは間違いない。なぜなら、村上氏のような人気作家が、電子出版で組む相手が出版社ではなく、電子化技術を持つIT側の企業でありクリエーターたちだからだ。

 これまでは電子出版が進んでも出版社は「中抜き」されないという見方があった。しかし、そうではないことがこれで明らかになってしまった。また、編集者は作家にとって必要だから、生き残れるとも言われたが、紙の出版しか経験のない人間は無理なことも、これで明らかになった。

 つまり、今後、電子書籍がリッチコンテンツになっていくとしたら、その市場では、既存出版社も既存編集者もほぼ必要ではないということだ。(ただし、ノンフィクションは違うかもしれない)

 

 

結局、人気作家しかリッチコンテンツはつくれない

 

 もうひとつ、リッチコンテンツは制作費がかなりかかるので、村上氏のような人気作家でないと、これをつくるのは不可能だ。紙の本で1万部ぐらいしか見込めない作家の作品をリッチコンテンツにしても、その制作費は現状では回収すらできないだろう。この点でも、既存の紙の出版社は苦境に立たざるを得ないと思われる。

 村上氏は、コストを公開している。

《『歌うクジラ』では、音楽やアニメーションが入ったリッチコンテンツだったので、グリオの作業チームの人件費を別にして、プログラミングの委託実費が約150万かかりました。坂本龍一へのアドバンスが50万、計200万でした。ただし、わたしとグリオのスタッフの報酬は制作費として計上していません。》

 ということで、定価は1500円に設定した。《現在10000ダウンロードを優に超えています。わたしもグリオも確かな手応えを得ました。》というので、仮に10000ダウンロードとして計算すると、1500万円の売上げにしかならない。このうち、プラットフォーム(アップル「iPad」など)が30%を持っていくとしたら、既存の出版社が外注費をかけて制作したら、収入は微々たるものか、あるいは赤字になる。

 村上氏のような人気作家でもこうなら、それ以外の数多くの作家をかかえる出版社が、すべての作品を電子化できるだろうか?

 

 

まだ市場すらできていない日本の電子出版

 

 村上氏はこうも書いている。

《電子書籍は、グーテンベルク以来の文字文化の革命であり、大きな可能性を持つフロンティアです。電子書籍の波を黒船にたとえて既得権益に閉じこもったりせずに、さまざまな利害関係者がともに積極的に関与し、読者に対し、紙書籍では不可能な付加価値の高い作品を提供することを目指したほうが合理的であり、出版、ひいては経済の活性化につながると考えます。》

 たしかにそうだが、現状では、まだ日本の電子出版はその端緒にもついていない。アマゾン「Kindle」が切り開いたような、一般書籍の電子市場もまだできていない。このままでは、3番目のセルフパブリッシングの進展から、ゴミの山だけが増えて終わってしまう可能性もありそうだ。