[078]大相撲に危機到来!しかし、八百長システムこそが日本の本質。本当に真相究明したら、日本の社会まで崩壊する!? 印刷
2011年 2月 05日(土曜日) 02:25

相撲の八百長発覚でメディアは大騒ぎしている。連日、新聞、テレビでいろいろな人がコメントしている。取材する側の相撲記者たちも「今回ばかりは真相究明しないとファンが許さない」などと、したり顔でコラムを書いている。しかし、なにをいまさらではなかろうか?

 相撲が八百長を前提にした興業であり、一種のショーであることは、相撲記者なら誰でも知っていたことだ。私も20年前に取材し、この事実を関係者から教えられた。だから、それ以後、何度も「八百長疑惑」が持ち上がり、議論が巻き起こり、裁判になり、死者が出ても驚かなかった。

  今回の八百長は、前回の野球賭博発覚と違い、当事者である力士が八百長に手を染めていたことが初めてわかったことで、衝撃が大きいという。ばかばかしいにもほどがある。相撲にはもともと「ガチンコ」(真剣勝負)と「注射」(八百長)があり、両者が混在しているから、面白いのである。

「この一番はガチンコか注射か」と予想し、「やっぱり■■は転んだ」と推理が当たるか、当たらないかが、いちばん面白いのである。この予想を立てるためには、前場所、前々場所までさかのぼり、両者がどんな星の売り買いをしたかを読まなければならない。これは、かなり難しいが、本当のファンならこうした楽しみ方をしている。真剣勝負で「■■、がんばれ!」と叫んでいるのは、相撲の表の顔しか知らない人間、子供たちだけだ。

 

記者は「真相究明」と書くより先に嘘を書いた謝罪をすべき

  現在の状況だと、春場所(大阪府立体育会館)は中止だろう。非常に残念だ。放駒理事長は、「気持ちとしてはやりたい。でもファンに理解してもらえない状態でいいのかどうかを考えないといけない」と言った。これは世論やマスコミを意識した発言だが、多くのファンは「裏切られた」などと思っていない。

  文科省の役人から政治家まで、全員が「国民が許さない」などと言っているのは、自分たちが今日まで事実を知っていたのになにもしなかったことの「すり替え」だ。なんでも国民感情、ファンの声にして処置をしていけば、過去の責任を取らないですむ。

 
  スポーツ記者もそう思っているから、したり顔でコラムを書く。本来なら「じつは力士が星の売り買いをしているのは知っていました。■場所の■■関の大関昇進がかかった一番は注射でした。それなのに、あんな記事を書いてすいません」と、素直に読者に謝るべきだろう。去年、追放された琴光喜は朝青龍に27連敗した。これを「苦手」と書いてきた記者は、全員、嘘つきである。琴光喜はいろいろな記録を残したが、「ここ一番に弱かったのは、ばくち好きのくせに、花札に弱い。その借りを土俵で返すことが多かった」(関係者)からだ。
 

力士をはじめ相撲社会はほとんど「バクチ漬け」

 
  20年前、私が相撲を取材した当時、力士たちは、連日、バクチ漬けだった。当時、本場所中に国技館に行けば、1館の公衆電話から電話している力士をよく見かけた。いまのようにケイタイがなかった時代だから、力士たちは公衆電話で相撲賭博や高校野球、プロ野球賭博にはったり、あるいは競馬のノミ屋に連絡を入れていた。

  中盆が、その日の注射連絡に、東西の支度部屋を行き来していた。

  力士たちは、バクチの種目を選ばない。ほとんどなんでもやる。
 もっともポピュラーなのはやはり麻雀で、歴代の巡業部長、二子山(花田勝治氏)をはじめ、春日ノ親方(元栃ノ海)、二子山親方(元貴ノ花)などもみな麻雀好きで、地方巡業では決まって卓を囲んでいた。

  ただ、麻雀は勝負に時間がかかるので、現役力士たちに好かれるのが、“バッタまき”だった。これはスジ者が“あとさき”と呼ぶ花札賭博で、張り方は配られた2組の札のどちらかに張る。2組の札は常に1枚が開けられているので、それを見てベットするわけだが、勝ち負けは単純で、合計して9に近い方が勝ちである。力士たちはこれに熱中する。張りは両サイドが同額にならなければならないので、張りが足りないと声がかかる。そして一方に50万円、反対側に50万円というふうになると札が開けられ、勝った方が賭金を持っていく。


 “バッタまき”は本当に単純なバクチで、畳一畳ほどあればどこでもできる。だから、巡業中の支度部屋でも行われていた。力士ばかりではない。行司から、呼び出し、親方までが集まってやっていたこともあった。


相撲をスポーツニュースから外してエンタメニュースにできるのか?

 
  このように力士とバクチはつきものだ。とくに地方巡業のときなどは、列車の中、ケイコ場までバクチ漬けだった。また、動く金もバカにならない。地方場所の場合、タニマチと場を囲むこともある。また、タニマチがカジノや花札賭博の場を立ててくれることもある。こういうときに力士は勘違いする。たとえば、タニマチとの麻雀なら、社長連中は祝儀代わりにバンバン負けてくれるからだ。そうすると、力士たちは自分が強いと勘違いし、その後、暴力団関係者などに誘われ、どんどんバクチに染まっていく。
 土俵上が注射に染まるのは、こういうところにも原因があった。

  話を戻して、「今度こそ真相究明」とメディアは騒いでいるが、本当にそんなことをしたら、相撲の定義をスポーツから興業に変えるしかなくなるだろう。だからいま、力士、相撲協会ばかりか、政治家から役人まで全員本当に「困った」と思っているはずだ。

  たとえば、白鵬が抜いた千代の富士の53連勝という記録などが、注射のうえに成り立っているとしたら、その記録自体に意味がなくなる。スポーツだからこそ、記録は成立する。これまでのすべての歴史は書き換えなければならない。

  当然、NHK中継もなくなり、相撲はスポーツニュースからエンタメニュースに移るしかないだろう。

なぜ、横綱や大関が何人もいて、秩序が保たれているのか?


  さて、今後相撲がどうなろうと、相撲こそは日本文化を色濃く反映した「国技」であることに変わりない。日本文化の本質とは、八百長だからだ。八百長と言うと言いすぎかもしれないので、「決着をつけないこと」と言ったほうがいいかもしれない。

 それは、相撲の番付に如実に表れている。

  現在は白鵬の一人横綱が続いているが、これまで横綱は2人や3人もいることがあった。また、番付は東西(「東」と「西」)に分かれ、大関も関脇も何人もいる。なぜ、こんなことが許されるのだろうか?これだけでも、相撲はスポーツではない。
 スポーツは優勝劣敗により、1人のチャンピオン(勝者)を決めるために行われるものだ。とすれば、相撲の番付は完全にその機能から逸脱している。「東」と「西」に横綱がいては、どちらが本当に強いかわからない。大関も何人もいる。また、同部屋力士の取組もない。

 つまり、日本文化は、完全なる勝者をつくることを嫌うのである。白黒をハッキリつけさせて、誰がいちばん強いかを決めると、日本というシステムは崩れてしまうのだ。たった一人のリーダーを決めて、それに従っていくというのは日本のシステムではない。なるべく争わず、穏便にいく。会社でも、社長がお飾りだったり、派閥があって実力者同士が話し合ってものを決める場合が多い。談合もまた同根だ。政治の世界でも、日本に本当のリーダーシップを持った総理が出たことがあるだろうか?

  番付とはいうが、あれは、わざわざ「東」と「西」を作り、横綱から小結にいたるまで、2人以上の力士を選び、その秩序のなかで全体を維持していくという巧妙な仕掛けである。

  欧米のスポーツに(いや社会全般に)、こうしたランキングは存在しない。テニスにしてもゴルフにしても、ランキングは必ず、1位なら1人である。この観点からすれば、日本はダブル・スタンダードが社会システムを機能させているといえるのだ。

隠岐島の「柱相撲」が象徴する日本の社会システム

 島根県・隠岐島では、いまでも、毎年春になると、「柱相撲」という島をあげての祭りが行われている。これは島の各村からチャンピオンが出場し、年に1度の“島の横綱”を決定する神事である。

 ところが、この横綱決定戦は、不思議なことに必ず2番勝負となっている。チャンピオンを決めるトーナメントなら、2番勝負にする必要はまったくないのに、なぜこうするのか? おそらく、それは、敗者に花を持たせるためで、決定的な優劣をつけるのを社会全体が嫌うからであろう。

 
 では、その2番勝負がどのように行われているかというと、まず最初の勝負は完全な実力勝負、勝ったほうが勝ち進む権利を得る。そして、次の2番目は先に勝ったほうが負けたほうを勝たせるのである。つまり、2番目の勝負は注射(八百長)で成立しているのだ。こうすると、どの勝負も1勝1敗になってしまうが、確実に横綱は決まる。

  しかし、スポーツならチャンピオンは全勝のはずが、この柱相撲では何敗もしているという“あいまい”さが残るのである。

 こうなると、もうこれは、日本人の生きる知恵というしかない。何百年も何千年も同じ島の中で共生しきた人々は、便宜的にはチャンピオンが欲しい。しかし、本当のチャンピオンを選んでしまっては、その村社会は崩壊してしまうのである。こうして本当は誰が強いかわかっているにもかかわらず、外からは誰が強いのかわからないように、勝敗を操作してしまう。つまり、談合して八百長をし、その社会の存続をはかるのである。これが、相撲の八百長を成り立たせている本質である。

  したがって、本気で相撲の浄化を押し進めるなら、日本の伝統的な社会システムまで破壊する覚悟でやらねばならない。そんなことが、はたしてできるのだろうか?