[003] 『レボリューショナリー・ロード』を見る 印刷
2009年 2月 01日(日曜日) 06:41

2009年1月26日

見終わってしばらく言葉が出ない


近所(歩いて数分)にシネマコンプレックスがあるので、封切り映画はよく見に行く。昨日は、家族3人で、『レボリューショナリー・ロード / 燃え尽きるまで』を見た。
 ところが、見終わってからしばらく、3人とも言葉が出ない。考えさせられることがあまりにも多く、いつもなら、真っ先になにか言う娘も、ずっと黙ったままだった。


 しばらくして、私は、「少なくともノックスビルの15階にはなにもない」というデュカプリオのセリフを、ノックスビルを自分の勤務先の会社名に変えて冗談で言ってみたが、誰も笑わない。言った私も笑えなかった。


 『レボリューショナリー・ロード』は、1961年に刊行されたリチャード・イエーツの小説の映画化作品。『タイタニック』で主演した2人、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが11年ぶりに共演を果たしたことで話題になっているが、内容はラブロマンスではない。


「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」は幸せか?


 時代は1950年代の半ば。
第二次大戦後の好景気で、アメリカ人が本当に豊かになり、すべてがうまくいっていた頃、ニューヨーク郊外のコネティカット州の住宅地「レボリューショナリー・ヒルズ」を舞台に、若い夫婦の悲劇が起こる。

 レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットは子供2人と、この「レボリューショナリー・ヒルズ」に引っ越して2年がたつ。しかし、最近、なにかが狂ってきたことを感じ始めていた。
それを象徴するように、冒頭から、夫婦げんかで映画は始まる。そして、全編を通して、夫婦げんかは延々と続いていく。

 見ていて、本当に疲れた。

 ともかく、夫婦のセリフのひとつひとつが胸に突き刺さってくる。自分も若い頃、あんなセリフを妻に向かって言ったことがあると思うと、思い出したくもないことを無理やり思い出すように強要されたようで、気分がよくなかった。

 この映画のメッセージを簡単に言うと、世間からは理想的と思われる「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」(一流会社に勤め、郊外の一軒家に妻と子供とともに暮らす。いわゆる中流の豊かな暮らし)が、はたして幸せなのかということに尽きる。このメッセージがあまりにも強く、見終わってからも心を離れない。
 
それを得るために、なにか失ったものがあるはずだ。では、その失ったものとはなんだろうか?

 
50年前の話とはいえ、テーマには今日性がある


 この映画(とくに原作)のテーマは、サバービア(郊外居住者)と家庭崩壊である。

 誰しも若い頃、自分には無限の可能性があると思う。そういう自信と野望に満ちた夫を愛して、妻は結婚した。しかし、あれほど期待に満ちていた未来は、いまは輝きを失ってしまった。
郊外で暮らすようになって、サバービアの一員になると、夫も自分も変わってしまった。あまりにも平凡で、単調な暮らし。それが、耐えられない。

 郊外コミュニティは確かにスノッブで教養的だが、それは表面だけ。そこには、ホンモノの生活はない。

 映画の展開は省くが、郊外住宅地の中流の暮らしは、いまでも「アメリカン・ドリーム」である。だから、誰しも郊外にマイホームを持とうとする。それが、結局、現在の金融危機につながるサブプライム・ローンの悲劇を生んだ。

 だから、この映画は50年前の話とはいえ、そのテーマには今日性がある。

  

結局は「デッド・エンド」(行き止まり)に!


 ちなみに、レボリューショナリー・ロードはコネティカット州を東西に貫く実在の大通りだという。独立戦争を勝利へ導いた道として知られていて、じつは、ウィーラー夫妻(レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット)が住んだ家は、この通りのデッド・エンドにあるという。

 つまり、「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」は、結局は見せかけの豊かさと幸せにすぎず、結局はデッド・エンド(行き止まり)ということなのだろうか。

最終更新 2011年 12月 30日(金曜日) 23:48