[090] 日本は復興しない!このまま「さらに失われる10年」に突入!三つの点から検証する日本の長期衰退 印刷
2011年 5月 10日(火曜日) 00:57

東日本大震災から、間もなく2カ月になる。

 そこで、もう書いてもいいと思い、はっきりここに書くことにした。このまま日本は長期衰退を続けるだけで、おそらく復興はしない。しないばかりか、さらに大きな困難が襲ってきて、「さらに失われる10年」になっていく。そういうふうにしか思えないということを、どうしても書いておくことにした。

 私がそう確信するのは、「日本は強い国です」「日本の力は団結力です」というような空虚なスローガンがいまだに流れ、メディアも復興を叫ぶだけで、今後なにが必要かを冷静に、いや冷厳に分析報道しないからだ。

 本当に冷静に、いまの日本が置かれている状況を見れば、復興するという理由より、復興しないとする理由のほうがはるかに多く見つかる。国内ばかりか、世界全体を見渡せば、日本の復興はまずあり得ない。

 

 私は、自分自身にも、そして周りにも「本当に日本は強い国ですか?」とまず問いたい。そして「強い」とするなら、その根拠はなにかとさらに問いたい。今回の大震災が襲う前まで、日本は「失われる20年」を続け、懸案のデフレ脱却もできず、財政は破綻寸前という状況のなかにあった。つまり、日本の底力は尽きつつあったのに、なんで「秋口には景気は持ち直す」(政府の見通し)などと言えるのだろうか。

 ここでは、書きたいことは山ほどあるが、次の三つの点にしぼって、日本が復興しない理由を述べておきたい。

 

 一つめは、「日本は強い国」が幻想だということ。

 二つめは、日本には民主主義、資本主義のルールがないこと。

 三つめは、世界経済が悪化し、二番底に向かいつつあること。

 

「日本が強い国」は単なるスローガン、希望的観測

 

 このうち最初の二つは日本自身の問題だから、いまこの時点で日本と日本人が持ってる英知と力を結集すればなんとかなるだろう。もしかして、三つめも、その影響を最小限に留められるかもしれない。しかし、この三点とも、私たち自身が認識しないことにはどうしようもない。

 それでは、一つめの「日本は強い国」が幻想だということを説明したい。現在、これまで悲観的だった識者、メディアも含めて、ほとんどの人間が、「日本は強い国」だと思い込みたいというのはわかる。しかし、それは太平洋戦争中の「神国ニッポン」と同じで、単なるスローガンであり、現実ではない。戦争も復興も戦理・戦略に基づいた計画と、それをファイナンスする経済力と技術が必要だ。

 それがなかったために、日本は太平洋戦争に敗れた。では、現在の民主党政権や官僚でつくる日本国の上層部に戦理・戦略があるだろうか? 節電や自粛、増税などしか出てこない現政府は、「欲しがりません勝つまでは」を国民に強いた当時の政府と同じではなかろうか?太平洋戦争の戦史を見ると、日本軍は戦場では最強の軍隊だった。しかし、上層部が腐っていた。

 こう見れば、「日本は強い国」は、英語で言う「Wishful Thinking」に過ぎないと思う。

 

明治維新とも戦後復興とも違いすぎる環境

 

  次に、歴史を持ち出して、「日本は強い国。明治維新も戦後復興も成し遂げた。だから、今度もできる」という意見がある。しかし、残念ながら、こういうことは歴史のアナロジーとしても成立しない。

  というのは、当時といまではまったく、環境が違いすぎるからだ。

 たとえば、太平洋戦争直後の日本は、一気に若い国になった。戦争を指導して来た世代は、社会から追放され、20代、30代の若者が企業社会の第一線に立った。政治家の世代交代も大胆に行なわれた。明治維新でも武士は没落し、同じように世代交代が起こった。

  また、戦前はブロック経済と保護主義が世界経済を席巻し、日本はそのなかで孤立したが、戦争が終わってみると、アメリカを中心に自由貿易体制が確立され、日本はモノを買うことも売ることも自由にできる環境のなかにいた。

 つまり、戦前の日本がどんなに強く願っても得ることのできなかった理想的な経済発展の条件が、戦後には実現したのだ。

  単純に、こう考えてみるといいだろう。つまり、敗戦時の日本は発展途上国だった。しかも、日本が目指すべき発展のモデルは眼前にあった。アメリカである。

  このような条件がそろえば、日本人の勤勉さ、個人よりも集団の輪を重んじる国民性は思う存分発揮できる。だから、日本は高度成長を実現させ、世界第二位の経済大国になったのである。

  しかし、いまの日本はどうだろうか?とっくの昔に先進国の仲間入りし、経済は現状維持がやっと。そんななか、急速に少子高齢化が進んでいる老いた大国になってしまった。しかも、この国は高度成長期の後にリスクを取らずに出世した人々が、いまだに社会を支配している。これで、どうして復興できると言えるのだろうか?

 

なぜ、首相の一存で浜岡原発をストップできるのか?

 

  次に、二つめの「日本には民主主義も資本主義もない」ということだが、これは現在、すべての面に現われている、そのなかで私がもっとも不思議なのが、福島原発事故に対する政府と東電などの対応である。

  いまや焦点は原発事故の修復から、原子力政策、被害補償に移った。ところが、それを実行するにあたり民主主義も資本主義のルールもまったく無視されている。

  まずなぜ、いきなり浜岡原発を首相要請でストップできるのか? これは安全問題というより、民主主義の手続きの問題で、議会でなにひとつ議論されないうちに、こんなことができるなら、国会は必要ないことになる。同調する中部電力もどうかしている。中部電力の株主は政府に対してもっと怒るべきだろう。菅直人が民主主義も市場も理解できていない男なのはもう明らかだが、これは一種の翼賛政治ではないだろうか。

 

なぜ、東電のステークスホルダーは救済されるのか?

 

 また、東電の損害賠償に関して、枝野官房長官が「安易な免責はあり得ない」と記者会見で政府見解を述べたのにはあきれた。日本は法治国家なのだから、法の解釈を政府が行ってはいけない。司法が行なうべきだ。しかもこれによって、東電の補償問題は、「東電の力を超える部分は政府が行う」ということになってしまった。

  つまり、東電による補償はある程度までで、それ以上は政府、すなわちわれわれ国民の税金で行うということになってしまった。

  日本にも会社法などの法律があり、金融市場のルールがある。それによれば、誰が損失を負担すべきかが明確に定められている。しかし、その手続きが日本ほどあいまいなところはない。

  まず、東電は立派な民間企業なのだから、保有する株式や不動産など、売却可能な資産をすべて現金化する。次に、本社ビルや社宅をキャッシュに換え、さらに役員報酬や社員の年収カットを行う。そのうで、整理解雇を含めたリストラを行い、退職者への年金もカット、社債をデフォルトするところまで持っていかなければならない。これで資金が捻出できないなら、東電は会社分割などをして、営業継続会社と補償会社に別けるべきだ。

  リスクは、東電の株主や、融資や社債を購入している金融機関が取るのが資本主義のルールである。株主はそのリスクを承知で投資し、有限責任で負担することになっている。

  これが実行されないまま、ステークスホルダーでもない国民が負担することはありえない。もし、このまま株主責任を問われないなら、こんな市場は資本主義市場ではない。日本は、中国と変わらない共産主義独裁国家になってしまう。

  なぜ、議会でこの賠償問題が議論されないのだろうか?

 アンケート調査によると、一般国民の4割が「電気代の値上げも仕方ない」と思っているという。日本には、民主主義も資本主義もない。

 

世界経済が向かう「二番底」(double dip)

 

 三つめの世界情勢だが、現在、復興報道(国内報道)ばかりで、日本はさらに内向きになっている。世界に目が行っていない。しかし、世界経済は激動しており、アメリカ、ヨーロッパはリーマンショック以後の経済衰退から立ち直っていないばかりか、とくにヨーロッパでは「PIIGS問題」(ピッグス問題)をキッカケとして、ユーロとEUそのものが危機にある。

  また、アメリカは、株価はリーマンショック以前の水準に戻ったが、それは第二次ITバブルと金融緩和策のおかげである。フェイスブックが注目され、ITバブルでなんとかしのいでいるが、これが弾けてしまえば、二番底(double dip)の可能性がある。ソーシャルメディア革命などと浮かれているが、中東に大混乱を起こしただけで、実体経済がともなっていない。

  日本は、リーマンショックまで中国の発展による輸出主導経済が持ち直して、なんとか持ちこたえてきた。ただ、それは、中国経由でアメリカ、ヨーロッパにモノを輸出していただけだから、ヨーロッパ、アメリカが回復しないことには、どうにもならない。しかも、福島原発事故で、何十年もかけてつくってきたメイドインジャパンの信用が崩れようとしている。

 このようなことを見れば、日本が復興するような理由は、ほぼどこにも見受けられないのである。

 

歴史のアナロジーならポルトガルが好例

 

  ここで、歴史のアナロジーに話を戻すと、日本はポルトガルになるのではいう見方のほうが、よほど説得力がある。ポルトガルは16世紀はスペインと並んで世界を2分した大帝国だった。キリスト教も鉄砲も、ポルトガルが日本に伝えた。

  その大帝国は、その後、オランダ、イギリスなどにじょじょにその地位を奪われ、18世紀に入ると明らかに衰退に向かっていた。そこに襲ってきたのが1755年のリスボン大震災と大津波だった。

   リスボン大震災のマグニチュードは8.7とされ、津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡したされる。この地震と津波でリスボン市内の建物の約9割は破壊され、民家から宮殿まで、16世紀の独特のマヌエル様式の建築物はことごとく失われた。街はもちろん、文化も破壊されたポルトガルは、その後、今日まで250年間にわたり、世界史の舞台から消えてしまった。

  そして、つい先日、国家財政破綻(国債のデフォールト危機)に見舞われ、IMFとECB(欧州中央銀行)からの緊急融資でしのいでいる。

リスボン大震災

  こうした大災害の後は、人心が乱れ、国民の意識、すなわち国民性までが変わるということがある。世界帝国だったころのポルトガル人は、富にはどん欲で、大航海時代を実現させた。当時の航海は命がけだったから、荒々しい気性がポルトガル人の特徴とされた。しかし、いまのポルトガル人の性格は、おっとりしていてカネに対する執着が薄いという。

  もし「日本が強い国」が幻想だとわかり、この後、増税とインフレによる震災不況が襲ってきたとき、はたして私たちは立ち上がれるだろうか?

  日本では、「失われた20年」が続いてきた間に、若者たちの意識が変わってしまった。現代の若者たちは「草食系」と言われ、ひと昔前に日本人が持っていた進取の精神やどん欲さはなくなってしまっているという。