教育[003]日本の国際化が叫ばれた時代 印刷

日本で初めての「国際化オピニオンマガジン」の登場


 このサイトを起ち上げるに際に、私は、保存していた自分の原稿や雑誌類を整理した。そのとき、どうしても整理しきれなかったのが、1988年に創刊された雑誌『UPDATE』(版元:ほんの木)である。この雑誌は、当時としては画期的な編集方針のもとに創刊され、「地球時代と国際化を読むビジュアル・オピニオン・マガジン」と銘打たれて、たしか3、4年は続いたと思う。

 バブル経済のピークで、日本が飛躍的に世界に発展していた時代。「国際化」ということがしきりに言われた時代。日本人は一日も早く「国際人」になるべきだと言われていた時代。そうした時代の最先端を行く、じつに素晴らしい雑誌だった。


 NY私立大の霍見芳浩教授や、オーストラリアのラトローブ大学教授の杉本良夫氏などが登場して先進的な意見を述べ、毎号、パレスチナ情勢や開放に向かう中国など、当時注目の国際問題の特集記事が巻頭を飾った。

 じつは、この雑誌を創刊したのは、いまも私が先達として尊敬する柴田敬三氏で、柴田氏は小学館の編集者から転じて、自らこの雑誌を起ち上げたのだった。当時、柴田氏が編集室を置いていた小学館そばのビルに、私は何度か足を運んだ覚えがある。
 だから、そんな記憶がよみがえり、整理しながら、ついつい読みふけってしまった。

 

インターナショナル・スクールに子どもを通わせる親


 さらにもうひとつ。じつは、この雑誌の1989年の6月号に、私と家内と当時5歳の娘の写真が載っている。それは、この号の特集「市民レベルで進む日本の教育改革」で、インターナショナル・スクールが取り上げられ、インターナショナル・スクールに子供を通わせている親の一例として、私たちが登場しているからだ。
 当時、娘は横浜市中区山手にあった「セントジョセフ・インターナショナル・スクール」(廃校になり現存しない)のG-1(小学1年生)だった。
                       

 ではなぜ、私は純粋な日本人なのに、自分の娘をインターナショナル・スクールに入れたのだろうか? これを述べていけば、私が、いまでも日本の教育について批判的なのがわかってもらえると思う。

 『UPDATE』(1989年の6月号)の記事のリードは、こう書いている。

《押し寄せる国際化の波。その中にあって日本で最も遅れているのが教育ではないだろうか。世界は常に変化しており、“昨日”と同じことを繰り返しているだけでは何の進歩も望めない。3月15日には「新学習指導要領」が告示されたが、「日の丸」「君が代」を学校教育の場で強制しようというもの。海外では戦前の国粋主義の復権を目指すものととらえる人々も多く、地球時代を迎えようとする世界の動きからはまたも一歩後退した。一方、市民の間では自分たちの手で海外との交流に取り組む動きが見られる。塾とアメリカの市の教育委員会とによる交換留学、インターナショナル・スクールへの入学希望者増、小学校の英語教育導入と、国のシステムを越えた教育から得るもの、学ぶものは子どもたちを伸び伸びと大きくしている。》



日本の教育は20年前とまったく変わっていないのでは?

 

 いま読み返すと、このリードにある日本の現状は少しも変わっていないと思える。当時から20年も経つのに、日本の教育は国際化せず、いまだに受験教育一本槍ではないだろうか? 子どもたちを伸び伸びと育てることに、教師も親も抵抗しているとしか思えない。子どもを将来の宝と考えず、ただ規則で縛り上げ、知識を詰め込んで機械化するのが目的としか思えない教育が、今日でも行われている。

 私は、どうしもそれが嫌だった。なぜなら、私自身もそんな教育を少なからず受けて育ったからだ。
しかし、では、どうすればいいのか? 日本は発展し、世界第2位の経済大国となって、企業も人も海外にどんどん出て行っている。そんな時代にふさわしい学校があるだろうか? 娘をセントジョセフのキンダ―(幼稚園)に入れる前、私はそんなことを漠然と考えていた。

 しかし、私の頭には、インターナショナル・スクールという選択肢はまったくなかった。というより、当時、週刊誌『女性自身』の編集部にいて、締切が終われば麻雀、競馬なんて生活をしていたから、じきに3歳になる娘の幼稚園をどこにしようかなどということは、すべて妻まかせだった。たぶん、近所のどこかにある幼稚園に入ればいいだろうとしか考えていなかった。



インターナショナル・スクール卒業生は日本の大学に行けない

 

 ここで、インターナショナル・スクールについて触れておくと、日本では、こうした学校は学校教育法で「各種学校」扱いである。つまり、インターナショナル・スクールは日本の義務教育を受ける学校ではないので、入学すると「就学義務違反」とされ、罰金を課さられることになる。
 もちろん、いまではムードも変わったが、当時、私は区役所に呼び出され、罰金は取られなかったが、「非国民」のようなことを言われた。
 
 また、いったん入学して中学、高校と卒業しても、日本の中学、高校を卒業したとは認定されないので、日本の大学には進学できない。これも、いまでは、ほとんど問題にされなくなったが、当時は、日本の大学に行くならICUか上智しか選択肢がなかった。

 さらに、インターナショナル・スクール卒業生は、大学入学資格検定(大検)さえ受験できなかった。
この規制が緩和されたのは2000年のことで、この年より、大検については、これまで受検が認められていなかったインターナショナル・スクールや外国人学校の卒業者についても受検資格が拡大された。



円高ドル安で学費が高騰してアメリカ人は真っ青

 

 さて、娘をセントジョセフの幼稚園に入れた経緯については、次回に書くことにして、ここでは、先に、当時の社会のムード「国際化」についてもう少し書いておきたい。

 私の娘が4歳の誕生日を待たずにセントジョセフの幼稚園に入ったのは、1987年9月のことだった。
 前々年の1985年のプラザ合意Plaza Accord以来、円はドルに対して高騰を続けていた。プラザ合意前、1ドル235円だったドルは、1年後にはその価値はほぼ半減して150円になり、1987年には120円〜130円台を記録するまで下落していた。
   だから、アメリカ人の父兄は「学費が2倍になってしまった」と嘆いていた。

 「国際化」が言われ出したのは1980年代初頭のことだが、プラザ合意による円高と、この年、日本が世界一の債権国creditorになってからは、さらに声高に叫ばれるようになった。

   つまり、「日本社会は国際化しなければならない」「日本は大国にふさわしく国際貢献をもっとしなければならない」という文脈だった。ただし、エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は1979年に書かれ、ここから日本人の慢心が始まっていたから、国際化はかけ声だけで終わる可能性は十分にあった。
   事実、バブル崩壊以後の日本は、国際化とは裏腹の「内向きの国」の国になり、長期衰退を続けてきた。

外の国際化とともに、国内でも進んだ国際化

 

 日本の国際化をふり返ってみると、それはまず、企業の海外進出から始まっている。日本企業は生産の拡大とともに、1960年代後半からアジアに、1970年代後半からはアメリカやヨーロッパに、大量に進出した。この流れは、1980年代になると、ますます加速し、バブル時代は、ジャパンマネーが世界の資産を買い漁った。

 海外進出した日本企業は、その後、現地生産をも開始したので、国際社会のなかでの日本の行動が問われることになった。海外では、労働者のロイヤルティに根差した「日本的経営」は通用しないし、日本人だけでまとまって物事を決めるやり方は批判を浴びた。
海外ニュースが、そうした日本企業が起こした不祥事を伝えることも多かった。

 企業の海外進出と同時に、国内では「もうひとつの国際化」も起っていた。それは、当初は「じゃぱゆきさん」と呼ばれたフィリピン女性やタイ人女性の大量流入だ。それにともない、なぜかアジア人男性も増え、その後、イラン人や南米移民の日系二世、三世も日本に数多くやってくるようになった。
 また、日本人の海外旅行も急増した。パック旅行が全盛となり、ハワイは日本人なら一度は行く海外旅行先になった。

 

国際政治学者・藤井厳喜氏との不思議な縁


 では、1987年、娘をインターナショナル・スクールに入れた年、私はなにをしていただろうか?
 思い出すのは、この年の夏、石原裕次郎が死んだことだ。そして、マドンナやマイケル・ジャクソンが来日したこと。大韓航空機爆破事件が起ったことなどである。女性週刊誌の現場で、私は、そんな記事作りに追われていた。

 ここで、話を雑誌『UPDATE』に戻すと、私たち一家が載っている特集の次に、なんと、当時気鋭の国際政治学者として登場した藤井昇氏(現・藤井厳喜)のインタビュー記事が載っている。
 これは、今回、雑誌の整理をしていて、初めて知った。

 藤井氏と私は同年代だが、あの当時は、面識はまったくなかった。面識ができ、いっしょに仕事をするようになったのは、光文社ペーパーバックスを創刊して、執筆を頼んでからである。だから、ページをめくりながら、不思議な縁だとつくづく思った。