■津田 信[つだ しん]略歴 本名は、山田 勝雄 (やまだ かつお)。東京都生まれ、府立第三商業学校を卒業後、早稲田大学進学。1944年従軍し、満州に出征。戦後、復員後は新聞記者となり、下山、三鷹事件などを担当する。
記者生活のかたわら創作を始め、1930年同人誌『貌』に参加し、翌年発表した『瞋恚の果て』が第35回芥川賞候補になる、以後、『風の中の』が芥川賞候補、『日本工作人』が直木賞候補など、合計8回候補になった。この間、小島政二郎に師事し、立原正秋、高井有一らと同人誌『犀』に参加、徳田秋声に私淑して、作品を発表し続けた。
1966年、日本経済新聞社を退社し、文筆生活に入る。しかし、以後10年間、『週刊現代』『女性自身』など週刊誌のアンカーやゴーストライターを務め、作品は発表しなかった。
1977年、ノンフィクション作品『幻想の英雄—小野田少尉との三カ月』を発表し、ルバング島帰還兵・小野田寛郎のベストセラー 『わがルバング島の30年戦争』 (講談社、1974年)およびその元になった週刊誌連載の「手記」のゴーストライターであることを表明。「手記」の内容が偏向したものであることを明らかにして話題を呼んだ。
以後、『夜々に掟を』『日々に証を』『結婚の構図』などを発表したが、1981年心筋梗塞で倒れ、1983年に58歳で死去。
■津田信[つだ しん]年譜 (1925年9月1日〜1983年11月22日)
・1925年 9月1日、東京・芝区愛宕下町4丁目(港区新橋4丁目)に生まれる。本名・山田勝雄。父恒雄、母ふくの次男で8人兄弟(男2、女6)の末っ子。芝区立桜川尋常小学校から愛宕高等小学校へ。 ・1939年(14歳) 府立第三商業学校に入学。6月、乾性肋膜炎になり鎌倉山にあった叔父宅でひと夏転地療養(翌年も再発し、同じく鎌倉へ)。 ・1940~1942年(15~17歳) 小説を耽読し、級友とガリ版同人誌を発行。投稿雑誌『若草』『文庫』などに小品を投稿、幾度か佳作に。 ・1943年(18歳) 6月、友人と2人で三鷹町の太宰治宅を訪問。小説家とはじめて接す。8月、野口富士男氏を訪問、徳田秋声文学の手ほどきを受ける。12月、府立三商を繰上げ卒業。 ・1944年(19歳) 3月、徴兵検査で第2乙種合格。12月、応召、東部六部隊(東京麻布一聯隊)に入営、渡支。 ・1945年(20歳) 満州にて終戦。中共軍衛生部の使役に従事。日本工作人と呼ばれる。 ・1946年(21歳) 12月、引揚げ船で帰国。都下調布町の戦災者寮に住む母の許へ。 ・1947年(22歳) 4月、サンニュース・フォト社へ入社。社会部記者となり讐視庁詰め。 ・1948年(23歳) 3月、第一新聞社へ移り、引き続き警視庁詰め。太宰治情死事件などを取材。 ・1949年(24歳) 4月、日本経済新聞社の第一新聞社合併にともない日経社へ。引き続き社会部警視庁詰め。下山、三鷹事件などを担当。都下神代村(現・調布市)の都営住宅に移る。 ・1950年(25歳) 11月、鈴野満佐子と結婚。 ・1952年(27歳) 6月、整理部へ転属。12月、長男順生まれる。 ・1953年(28歳) 同僚との同人誌、組合機関誌などに小説を発表。横浜市南区若宮町の妻の実家へ移る。 ・1955年(30歳) 8月、次男幸伯生まれる。11月、鎌倉市津517(腰越4-3-10)へ転居。同人誌「貎」に参加。 ・1956年(31歳) 2月、「貎」と合併した第三次「文学生活」創刊号に『復讐』(70枚)を発表。山本周五郎より激賞の手紙をもらう。以後、しばしば横浜本牧の山本氏の仕事場(マカドエン)を訪れて教えを受ける。6月、「貎」4号に『瞋恚の果て』(125枚)を発表。同作品が第35回芥川賞候補に挙げられる(受賛は近藤啓太郎『海人舟』)。12月、「新潮」同人誌推薦作特集に『流茫』(37枚)が掲載され、小説ではじめて原稿料(1枚500円)をもらう。 ・1957年(32歳) 6月、「貎」5号に『風の中の』(120枚)、9月「別冊週刊サンケイ」に『小箱』(37枚)を発表。11月、「秋田文学」同人になる。『風の中の』が第37回芥川賞候補に(受賞は菊村到『硫黄島』)。 ・1958年(33歳) 1月、「秋田文学」3号に初の長編『日本工作人』第一部(130枚)、5月、同4号に第二部(98枚)を発表。7月、同作品が第39回直木賞候補に(受賞は山崎豊子『花のれん』、榛葉英治『赤い雪』)。9月、同5号に第三部(110枚)を発表。10月、初の単行本『日本工作人』(現代社)刊行。11月、銀座で同本の出版記念会。小島政二郎、十返肇、野口冨士男、和田芳恵、瀬戸内晴美、安田武、藤井重夫氏らが出席。このころより小島政二郎氏に師事。 ・1959年(34歳) 1月、『日本工作人』が第40回直木賞候補に(受賞は城山三郎『総会屋錦城』、多岐川恭『落ちる』)。3月、「秋田文学」7号に『春の掟』(100枚)、6月、同8号に『暮色』(100枚・短編4編)、12月、同10号に『女夫ヶ池』(237枚)を発表。「秋田百点」に『遠い人』を連載(未完)。 ・1960年(35歳) 1月、『女夫ヶ池』が第42回直木賞候補に(受賞は司馬遼太郎『梟の城』、戸板康二『團十郎切腹事件』)。11月、「秋田文学」12号に『忍ヶ丘』(138枚)を発表。 ・1961年(36歳) 1月、『忍ヶ丘』が第44回直木賞候補に(受賞は寺内大吉『はぐれ念仏』、黒岩重吾『背徳のメス』)。5月、『女夫ケ池』(大和出版社)を刊行。 ・1962年(37歳) 5月、「秋田文学」15号に『夜の暦』(80枚)を発表。7月、同作品が第47回直木賞候補に(受賞は杉森久英『天才と狂人の間』)。 ・1963年(38歳) 「三田文学」5月号に『冠婚葬祭』(70枚)、11月、「秋田文学」20号に『菩薩』(90〇枚)を発表。小冊子に掌編、短編を3、4編発表。 ・1964年(39歳) 5月、「秋田文学」22号に『がんもどき』(70枚)、10月、「詩と小説と評論」に『破れ暦』(80枚)、11月、「犀」創刊号に『吹き降り』(80枚)を発表。 ・1965年(40歳) 1月、『破れ暦』が第52回直木賞候補に(受賞は永井路子『炎環』、安西篤子『張少子の話』)。「小説現代」5月号に『二重丸の女』(58枚)、同7月号に『海のわかれ』(40枚)、11月、「冬樹」3号に『夜の償い』(80枚)を発表。10月、初の書下ろし長編『たそがれの橋』(冬樹社)を刊行。 ・1966年(41歳) 2月、日本経済新聞社を退社。文筆生活に入るも、以後約10年間、週刊誌、月刊誌、婦人誌記事のリライト、著名人の手記代筆、紀行記、映画評などをやり、小説は一作も発表せず。4月、「秋田文学」28号に『ああ直木賞』掲載。 ・1967年(42歳) 母ふく死去。東京・牛込抜弁天の仕事場で月の大半を過ごす生活が続く。 ・1974年(49歳) 「小説宝石」5月号に『夜の形見』(54枚)、7月号に『けもの谷』(50枚)を発表。5~7月、28年ぶりに帰還した元日本兵小野田寛郎と共同生活をし、同人の手記「戦った、生きた」(「週刊現代」連載。単行本では『わがルパング島の三十年戦争』と改題)を代筆。その間、フィリピン・ルパング島を取材。 ・1975年(50歳) 6月、中郡二宮町山西40番地に転居。「小説宝石」6月号に『背信の白い肌』(80枚)(『吹き降り』改作)を発表。 ・1976年(51歳) 7月、書下ろし長編『夜々に掟を』(520枚)(光文社)を刊行。 ・1977年(52歳) 6月、書下ろしノンフィクション『幻想の英雄-小野田少尉との三ヵ月』(580枚)(図書出版社)を刊行、反響を呼ぶ。8月、「週刊ポスト」に『英雄批判』(ルポ)を5回連載。4~12月、藤沢鵠沼公民館で文学講座を担当。「舟橋聖一の人と文学」「自然主義作家の系譜」「女流作家研究」などを講ず(56年9~10月にも)。 ・1978年(53歳) 4月、旺文社文庫の太宰治『津軽』に解説を執筆。6月、心筋梗塞で倒れ、小田原・山近病院に40日間入院。10月、書下ろし長編『日々に証しを』(430枚)を刊行。 ・1979年(54歳) 6~12月、スピック社で西武流通グループの社内報編集を手伝う。 ・1980年(55歳) 「主婦と生活」2~12月号に長編小説『哀しからずや』を連載。 ・1981年(56歳) 2月、『結婚の構図』(『哀しからずや』改題)を主婦と生活社より刊行。2~12月号「主婦と生活」に『女の裏窓』(事件にもとづくフィクション)を連載。4~7月、横浜放送映画専門学校で「文学」講座担当。10月より「週刊宝石」のリライトをはじめる。「小説宝石」12月号に『夜の虜』を発表。 ・1982年(57歳) 4~7月、横浜放送映画専門学校で講座。 ・1983年(58歳) 2月、再び心筋梗塞で倒れ、横浜・有馬病院に1ヵ月入院。11月、3たび心筋梗塞の発作、同22日午前、有馬病院にて死去。享年58歳。 (文責 山田幸伯)
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