夜々に掟を(3) 印刷

夜々に掟を

十六〜二十

 

【十六】

三月五日
「やっぱり住民票をとった者がいました」と、阿部が電話で報せてきた。
「しかし、名前は判りません。区役所へ行って申請書の綴じこみを見せてくれと言ったら、規則で駄目だと言うんです。それじゃこの一カ月ばかりの間に、小野知子の住民票をとった者がいるかどうか、それだけでも教えてくれと頼んだんです。そうしたら二月中旬に確かにとった者がいるというじゃありませんか。これで投書犯人が区役所で駿ちゃんの名前を知ったことは、間違いありませんよ」
井口の仕業だろうか、と私は訊いた。
「多分、奴ですよ。井口はね、近くデータマンをやめて、どこかの業界紙に就職するという噂です。その最後ッ庇じゃありませんか。確証がないから断定は出来ませんが、とにかく、二、三日中に奴をつかまえて、それとなく探りを入れてみます」
しかし私には、井口がそれほど私を怨んでいるとはどうしても思えなかった。たしかにこの世には女みたいに怨みっぽい男がいる。恋敵を殺す者さえいる。だが、あの投書によって私と妻が離婚し、私の家庭が壊れれば、むしろ、私と文世をより強く結びつける結果になりかねない。文世との仲を手助けするようなものではないか。そう考えると、井口ばかりでなく、森も容疑者のなかから除外すべきではあるまいか。
午後遅く、知子を医院からアパートに連れて帰る。まだ多少足許がふらつくが、医者も許可し、当人も帰りたかったからだ。蒲団を敷いてやると、すぐ横になった。意識が回復した夜、駿吉はママが鎌倉に連れて行ったと教えると、知子は黙って頷いた。それきりきょうまで駿吉のことにはひと言も触れない。駿吉は、準にも章にもすっかりなついて、毎朝目が醒めるとすぐ二人を起こしに行くらしい。妻が電話でこう言った。
「ママのマの字も口にしないわよ。一日中、私や準たちにくっつき通し、トイレまで追っかけてくるの。何だかひどく愛情に飢えている感じよ。このところ、あなたも知ちゃんもあの子を碌にかまってやらなかったんでしょ。けさも、ママはぶつからイヤだ、と言ってたわ」
可哀想なので、私も駿吉のことは知子に何も言わなかった。「元気らしいよ」とだけ告げておいた。
体がかゆいと言うので、お湯を沸かして拭いてやる。少し痩せたようだ。乳房もひと廻り小さくなった感じである。下腹部も拭いてやりながらちらっと見ると、知子の瞑った目尻から涙が糸を引いていた。
夜、寿司をとって食べながら、阿部から聞いた話をする。暫く黙って聞いていたが、
「阿部さん、どうして見舞いにこなかったのかしら」
ぽつんと呟いた。
「俺がとめたんだ。どうせ二、三日で退院するからって。お前だって厭だろうと思ったし」
「そう」と頷きながら、それでも腑に落ちない表情であった。阿部は私よりもむしろ知子と親しくしていた。ひと頃は仕事部屋に三日にあげず遊びにきて、私が仕事をしている間、知子とお喋りをしていた。このアパートで知子の手料理に舌鼓を打ったことも何度かある。
「私のこと、ばかだと言ってたでしょ」
「いや、別に。助かってよかったとは言っていたが」
そういえば電話で知子の自殺未遂を知らせたとき、阿部がそれほど驚かなかったことを思い出した。投書を見せたときも、「これ、神田局の管内で投函していますね」と消印を指さし、そこまで気がつかなかった私のほうが驚いたくらいであった。
「私、元気になったら区役所へ行って、自分で調べてみるわ」
「どうして?」
「園池さんのことであなたを怨んでいる人がいたとしても、わざわざ区役所まで行って私やチビのことを調べ、それをママに密告するなんて、どう考えてもおかしいんですもの」
「するとお前は、阿部が嘘をついていると言うのか」
知子は答えなかった。
「そんなことより早く快(よ)くなって、チビの面倒を見てやれ」
「ママは返してくれるかしら」
「当たり前だ。それともお前はこのままチビを……」
「いや。ね、お願い、今度くるとき、必ずチビを連れてきて」
私の膝に手をかけた。その手を戻して立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「今夜は仕事部屋で寝る」
「ね、抱いて」
「ばかを言うな。体にさわるぞ」
「抱いてくれるだけでいいの。今晩一人にされたら、また死んでしまいたくなるわ」
数十分後、牀の中で知子は、「棄てないで、棄てちゃあ、いや」と囈語(うわごと)のように繰り返しながら下腹部をすりつけてきた。さっきお湯で拭いてやったのに、知子の体にはまだ汗臭さが残っていた。
三月十一日
章は準と同じ高校へ進学出来ることが決まったが、準のほうはもう一つの私大も失敗して、浪人することになった。が、当人はそれほどがっかりしていない。知子の自殺騒ぎで市立大を受験し損なったが、「受けたって、どうせ合格しなかったよ」と、他人ごとのような口調だった。私への思い遣りなのだろう。受験勉強から解放された二人は終日、駿吉を相手にレスリングの真似をしたり、チャンバラごっこをしてふざけている。駿吉は大喜びだ。二人に乱暴に扱われれば扱われるほどキャッキャッと笑い、遊び疲れたり、どこかへ頭をぶつけたりすると、泣きながら、「鎌倉ママ、おんぶ」と言って、妻にすがる。妻もそれを待っていたように兵児帯でおぶうと、そのまま台所仕事をする。夜は妻に抱かれて寝る。「ママのところへ帰ろう」と私が言うたびに、「イヤ」と答え、準が、「駿ペイ、うちの子になるか」と聞くと、ニコッとしてうなずく。そんな駿吉を見るたびに、文世の出現以来、知子の関心が私と文世にばかり向けられていたことがいやでも判り、さすがの私も胸が痛んだ。
妻は買い物にも駿吉を連れて行く。近所の人に訊かれると、「親戚の子で、母親が病気の間預かっている」と答えているらしい。
「この子が準や章のようにあなたに似ていたら、通用しないわね」と笑ってから、「それにしても、知ちゃんにも似ているところがないわね」と不思議がる。
どういうわけか妻は、知子の処置について何も言い出さない。死を賭した知子の気持ちが妻をひるませているのだろうか。文世についても嫉妬めいたことは一切言わず、むしろ驚嘆していた。
「私を新宿に送ってきたときも、鎌倉までお伴しますと何度も言ったのよ。私も一緒に来て貰いたかったけど、あなたが厭そうな顔をしていたから新宿で帰したの。普通の娘だったら、知ちゃんの看病さえしないわよ。だから私、病院へ顔を出さないほうがいいと言ったの。知ちゃんも辛いだろうけど、あの娘のほうがよっぽど辛いだろうと思って。よくよくあなたが好きになったのね。それでなくちゃあ、こんなに尽くさないわ。この娘にならあなたを奪られても、仕方がないと思ったくらいよ」
知子のほうも、あれほど駿吉を連れてきてと言っていたのに、
「鎌倉がすっかり気に入ったらしく、帰るって言わないんだ。準や章と一日中騒いでいるよ」
私がそう言うと、
「そう、準ちゃんたちが可愛がってくれてるの」
それきり口にしなくなったのは、一旦母親の義務を放棄した後ろめたさがあるからか。
「園池さんにもあなたからよく謝っておいてね。あなたの心をあの人から引き剥がそうとした私が間違いだったのね。それがよく判ったわ」
むろん、この状態がいつまでもつづくわけがない。いわば小康状態で、いずれ妻は二人に対する私の決断を迫るに違いない。言ってみれば束の間の平和である。しかし、たとえ束の間にせよ、私を何よりも吻(ほつ)とさせたのは、文世の態度が以前と少しも変わらぬことであった。
「私、奥さまにもあの方にも、とても及ばぬことがわかりました」
だからこの際お別れします――と言う言葉がつづくのかと私は恐れたが、文世はそれだけしか言わず、仕事部屋にくれば必ず泊まってゆく。今更あとへは退けない気持ちなのだろうか。
勿論、それぞれの心の底を覗けば、どす黒い嫉妬が渦巻き、その嫉妬と必死に闘っているに違いないが、表面上は三人が三人とも、他の二人に遠慮して、私に早急な結論を求めようとはしなかった。
私もすぐ結論を出す気はなかった。いや、出せないのだ。文世の顔を見れば、俺がこの世で一番好きなのはこの娘だ、それだけは間違いないと思い、知子のアパートヘ行けば、俺のために命を捨てようとしたこの女をこれ以上哀しませてはならない、全く可哀想な奴だと思う。そして家に帰れば、真紀子だからこそ堪えてくれたのだ、俺には過ぎた女房だと沁々思い、そっと感謝する。どの気持ちも私には真実で、それに優劣をつけたり、軽重を問うわけにはいかなかった。しかし、
――調子のいいことを言うな。三竦(すく)みのうえに胡坐をかいて、三人とも俺に惚れていやがるとヤニ下がっているだけじゃないか。
もしそう言われれば、私には反論できなかった。日が経つにつれて、何とかこのまま均衡を保ってはいかれないものかという思いが芽ばえはじめていたからである。
三月十三日
昼から区役所へ出かけて行った知子が、四時すぎに戻ってくるなり、「犯人がわかったわ、阿部さんよ」と言った。
「阿部? どうして?」
「あの人、区役所になんて行っていないもの」
知子は区役所の係員を拝み倒して一、二月分の申請書の綴じこみを借り出して一枚ずつ調べたが、小野知子の住民票をとった者はついに発見できず、念のため係員に、十日ほど前若い男がやはり申請書のことで問い合わせにきたかと訊ねたところ、係員は即座に首を横に振った、というのである。
「申請書を調べる人なんか滅多にいないから、いたら忘れるはずはないと係の人は言うの。それに二月は、転勤や入学期を控えて、往民票をとる人が例月の二倍も三倍もあるんですって。私も調べ終えるのに三時間以上かかったわ。阿部さんの話じゃ、簡単に教えてくれたって言うんでしょ。おかしいわよ。あの人、嘘ついたのよ。投書したのはあの男よ」
私には信じられなかった。知子がじかに調べたことで阿部が嘘の報告をしたことは、もはや疑いようがなかったが、彼はいわば知子の味方のはずであった。知子が窮地に陥るようなことをするはずがなかった。第一、私は彼に恨まれるようなことを何一つしていない。それに私の家庭を壊したところで、一体、何の得があるのか。
「私も最初はどうしても信じられなかったわ。でもよく考えれば、駿吉の名前も生まれた時期も、あの人がいちばんよく知っているし、私が園池さんのことを聞いたときも、俺が津田さんに意見してやると意気捲いていたわ。あなたを懲らしめてやろうと思ったのじゃないかしら」
私はまだ半信半疑だった。どんなに親しくしていようと、頼まれない限り、相手のプライバシーには踏みこまない、というのが男のつき合い方である。秘密はお互いの家庭にバラさないという暗黙の了解があるからこそ、男同士のつき合いが成り立つ。少なくとも私が交際しているのは、それをわきまえた男たちばかりである。それが常識であり、阿部もその一人だと思っていた。
もっとも、彼はあれきり、顔を出さない。アパートを知っているのに、知子の見舞いにもこない。井口をまだ摑まえることが出来ない、という電話を一回かけてきただけである。その点がおかしいと言えばおかしい。
しかし、仮に彼を犯人だとしても、では、その目的は何なのか。知子が言うように、ただ私を懲らしめるためだったのか。彼は正義を行なったつもりなのだろうか。
幸い、知子は死なないですんだが、私の発見が遅れて死んでいたら、間接的な殺人と言うことさえ出来る。むろん、投書犯人はあの投書が知子を自殺へ追いこむとは考えなかったろう。が、投書が知子の立場を不利にすることは予測できたはずである。するとどうしても投書の目的は、私の家庭を混乱させ、私の動揺をねらったとしか思えない。すべては己の不徳の至すところには違いないが、なぜ私が標的にされなければならなかったのだろう。
私はすぐにも阿部と会って真偽を確かめようと想ったが、知子は意外なほど冷静であった。
「問い詰めたって白状しないわよ。黙っていれば、そのうちに向こうのほうからきっと尻尾を出すと思うの。あの人を信用していた私たちがばかだったのよ」
もし阿部が犯人なら、今頃彼は私の間抜けぶりに笑い転げているだろう。何しろ、犯人自身に犯人捜しを頼んだのだから。
三月十六日
ひとまず駿吉を戻すことになり、昼前、妻も付き添って家を出る。駿吉はいやがったが、鎌倉ママも一緒に行くということで、やっと納得した。妻は駅まで駿吉をおぶい、電車の中でも膝にのせているほうが多かった。
仕事部屋でひと休みしてから、私が駿吉の手を引いて知子の処へ連れて行ったが、僅か二町の距離を二十分以上もかかった。「ママのところに帰るの、いやッ」と駿吉が泣き喚き、私の手を何度も必死にふりほどこうとしたからである。抱き上げると、両手で私の頭を叩き、小さな脚で腹を蹴った。通りすがりの人がみんな不審そうな目を向けてくる。誘拐犯人に間違われかねない。私のほうが泣きたくなった。引き摺り引き摺り、やっとアパートの前に辿りつき、外から知子を呼ぶ。待ちかねていたようにドアを開けた知子が、
「駿ちゃん」
と笑顔で呼びかけた。駿吉が泣きやんだ。やっぱり母親の顔を見れば……吻として私が手をはなすと、駿吉はいま来た道を駆け戻った。知子が世にも哀しそうな顔をした。途中まで逃げた駿吉を捉(とら)え、今度は頭を小さな拳が叩くのにまかせて、ようやくアパートに連れこんだ。
部屋に入っても駿吉は隅に突っ立ち、両手を差しのべた知子に近づこうとしなかった。知子はベソをかき、救いを求めるように私を見た。私は顔をそむけた。裁かれているような気がした。伊東に泊まった翌朝、雨上がりの舗道で私と知子の手にぶらさがりながら水溜まりを越えるたびに笑い声をあげた駿吉。この数ヵ月間、この子にとっては両親が揃って相手をしてくれたのは、あのときだけだったのだ。卓袱台の上に知子がありったけのお菓子をならべると、それに釣られてようやく駿吉は母親のそばに寄った。
「ね、連れて帰りましょうよ」
部屋に戻って私が話すと、妻は真ッ先にそう言った。もう涙ぐんでいた。
「ばか。何といったって実の母親なんだ。すぐ元に戻るよ」
「でも、子供は正直よ。そんなにいやがるのは、よっぽど非道い目にあったのよ。それでなきゃ、はじめて見た私にあれほどなつきはしないわ。知ちゃんは女であり過ぎるのよ。あなたが園池さんに夢中になったら、もう駿ちゃんどころじゃなくなったのよ。ほんとうはそんなときこそ子供を可愛がらなくちゃあ。そのほうが気も紛れるし……」
「しかし、あいつはお前より十歳も若いんだ。女の面が強く出るのは当然だよ」
「だけど、欲しくて産んだ子なんでしょ。あなたの子がどうしても欲しかったんでしょ。それなのに駿ちゃんのことも考えず自殺を図るなんて手前勝手すぎるわ。あなたが本当は子煩悩なことを知ちゃんだってよく知っているはずよ。だからこそ子供を欲しがったんじゃない。子供を絆にすれば一生あなたが離れないと、計算ずくで産んだんじゃない」
妻の声が次第に高くなるので、もうよせ、と目顔で叱った。廊下の共同炊事場で水音がしていた。帰り仕度をしながら妻が低い声で言った。
「二、三日中に鎌倉に来るように言ってちょうだい。知ちゃんと二人きりで、じっくり話をするわ。私、場合によっては駿ちゃんを引き取るつもりなの。私が育てたほうがいいような気がするの」
新宿まで送って行き、コーヒーを飲む。ふと思い出したように妻が言った。
「あなた、この頃、よく眠るわね。みんなバレちゃったので吻としているんでしょう。ほかの人にもそう言われない? それとも、ほかの人のときは、起きてガンバッているの?」
三月十九日
知子が鎌倉へ出かけて行った。夕方、仕事が一段落したところで家に電話をする。準が出て、「いま晩飯を食べている」と言い、「パパ? パパもおいでよ、みんないるよ」と声が駿吉にかわった。そのあとで出た知子は、「今夜こちらに泊めて貰います」と意外に明るい声であった。私が居ない家で、二人の母親と三人の子供が一つ食卓を囲んでいる光景を想像し、妙な気持ちになる。夜、仕事場に泊まりにきた文世にそれを話すと、
「この次は私が鎌倉に呼ばれる番ですね」すでに覚悟をしている表情であった。
「君にはそんなことをさせないよ。第一、僕は誰が何といおうと君と別れないよ」
「津田さんは本当に幸せな方ですね。奥さまはよく出来た方ですし、あの方は死ぬほど津田さんを愛していらっしゃるし……」
「しかし、僕が欲しいのは……」
「随分、欲張りなんですね」
「ああ、人一倍欲が深いんだ」
困った人、と言うように文世が頬笑んだ。
文世の話で、井口も森も投書犯人でないことがはっきりした。一昨日、森は文世に、
「須山さんに、まさかお前じゃないだろうなと言われてびっくりした。僕は津田さんに隠し子があることさえ知らなかった。君を津田さんに奪られたことは確かに口惜しいが、それを根に持つような男ではないと津田さんに伝えてくれ」
と、きっぱりした口調で言ったそうだし、井口も昨日電話をかけてきて、業界新聞に就職したことを、明るい、屈託のない声で告げたというのである。
たとえ一時にせよ、二人を疑ったことをすまない、と思った。やっぱり阿部の仕業なのだろうか。
三月二十日
仕事に出かけた文世と入れ違いに、知子が妻と一緒に戻ってきた。二人とも堅い表情をしている。
「園池さんに電話をかけてちょうだい。三人で話し合うことになったの」と妻が切り口上で言った。
「居ないよ、今頃。もう仕事に出ちゃったろ」
「いいから掛けて」
ダイヤルを廻し、受話器を二人の間に差し出して、鳴りつづける呼出し音を直接聞かせた。
「居ないんじゃ、しようがないわね。知ちゃん、またにしましょうよ」
不思議なことに妻が吻とした表情を見せた。知子と駿吉がアパートに帰るのを待って妻に訊いた。
「どういうことなんだ?」
「全く知ちゃんには敵わないわ」
妻はそう言ってから煙草に火をつけ、「今夜、ここに泊まってもいい?」と聞いた。
「いいけど、家のほうは?」
「子供たちに言ってきたわ。私、これからはちょいちょい泊まりにくるわよ」
「そんなことより話はどうなったんだ」
「出来るだけ早く別れてくれと言ったの。知らないうちはともかく、判ってしまったら、やっぱり私の立場として、認めるわけにはいかないもの。こういうことには、けじめが大切ですからね。そうしたらあの人、私だけ別れるのは片手落ちだ、園池さんとも別れさせろと言うのよ。あっちと手を切るなら自分も別れるって」
「あの女に俺とあの娘のことを指図する権利はないはずだ。第一、引き剥がそうとしたのが間違いだったと、あの女自身がこの間言ったばかりだ」
「まあ、聞きなさいよ。あなたが園池さんを容易なことじゃ諦めないことは、私にも判っているわ。だから妥協策を出したの。向こう五年間はいまの状態を認める、そのかわり、会うのは週一回にしてほしいって。五年たてば知ちゃんだって四十歳になるでしょ。そのあとは母親だけになってくれと頼んだの。もちろん、駿ちゃんとは父子なんだから一生縁は切れない。会いたいときはいつでも会っていいけど、そのときは外で会うようにしてほしい――私にとっては最大の譲歩のつもりだったの」
しかし知子はウンと言わなかった、あと五年しか女の命を与えないと言うのはガンの宣告に等しい、ママだっていま四十五なのに、夫婦関係をつづけているではないか、期限を切られて残る日数を数えながら暮らすくらいなら、いっそいま女を諦めたほうがいい、それに園池さんをこのまま放っておいたら、私よりものっぴきならなくなる、そのうちにアパートでも借りて同棲するかも知れない、子供が出来るかも知れない、そうなったらパパは二度とママのところにさえ戻らなくなるだろう――。
「だから出来るだけ早いうちに三人できっぱり話をきめようと知ちゃんは言うの。そりゃあ私も知ちゃんの気持ちが判らなくもないけど、いますぐ園池さんに手を切れというのは可哀想でしょ。さっき電話をかけたとき、居なくて吻としたわ」
「すると俺は、三人がきめたことにただ従うだけなのか。俺の意志は無視されるわけなんだな」
「しようがないでしょ。あなたの決断を待っていたら、いつになるか判らないもの。私には判っているの、あなたはみんな欲しいんでしょ。誰も手放したくないんでしょ。でも、そうはいかないわ。私だってそこまで寛大じゃありませんよ」
図星を指されて苦笑するしかなかった。
「とにかく、もう暫く待つわ。あなたはあの騒ぎのあと、知ちゃんは半ば諦めているらしいと言ってたけど、私の見るところでは逆ね、死に損ねて余計あなたへの執着が強くなったみたいよ。でもそれが当然かも知れないわね」
私は午後から仕事にかかり、妻は新宿へ買い物に出かけて夕方戻ってきた。提げ袋から駿吉の服を二、三着取り出して見せた。十時すぎ、「先に寝るわね」と言って押入れから浴衣を出した妻が、「全く無神経ね、あなたは」と呆れた。
「これ、園池さんに貸したんでしょ。あの娘、どんな思いでこの浴衣を着たと思う。ここに泊めるなら、新しい浴衣ぐらい買ってあげればいいじゃない」
まさに一言もなかった。
「私みたいに甲羅を経てれば、少々のことには目をつぶることも出来るけど……いまに嫌われるわよ」
神戸の長姉万起(まき)から電話がかかってきたのはその直後だった。
「姫路の栄子がもう駄目なんだよ」
夕方から危篤状態に陥り、医者も今夜もつかどうかわからないと言っている――と、姉は声をつまらせた。
「なぜ、もっと早く報せてくれなかったんだ」
「私も一時間ほど前に報されて、たったいま、飛んできたんだよ」
二時間後に、いま息を引き取った、という電話がきた。が、不思議と悲しくはなかった。昨夏、見舞いに行ったとき、すでに死期が近いことを予感していたからだろうか。ただ、あのとき、四国見物や太刀魚釣りなどせず、もう少し姉と一緒にいてやればよかったという後悔は覚えた。
私は仕事を急いだ。朝までに書き上げ、一旦鎌倉の家に戻って、私は服を着替え、妻は喪服を用意していかねばならないからだ。
姉とは、お互いに結婚してからは年に一回会うか会わないかであった。だから思い出は幼い頃のほうが多い。同じ小学校だったので、毎日一緒に登校した。弁当箱を間違えたとき、そのまま半分食べたところに姉が取り替えに来て叱られたのを覚えている。しかし、何よりも一番強く印象に残っているのは、私が入隊一週間目に大陸の戦線へ行くことがきまり、麻布の兵舎から軍用列車の出る品川まで隊伍をととのえて行進したとき、歩道を一緒に跟(つ)いてきて、小休止のとき、素早く食物の入った風呂敷包みを渡してくれたことである。
夜が明けるのを待って知子のアパートに寄り、姫路へ行くことを告げる。
「園池さんには知らせたの?」
「いや、まだだ。三、四日帰れないから、お前からそう伝えておいてくれ」
寝不足なのか、知子ははれぼったい顔をしていた。

【十七】

三月二十二日
午後一時から告別式。感情の抑制を全く失っている義兄にかわって、参列者に挨拶をしたが、途中からつい涙声になった。義兄は昨夜からウイスキーを呷っては棺を撫でてただ泣くばかり。親戚の間から、いくらなんでもだらしがなさすぎる、という囁きももれたが、妻を喪った悲しみを剥き出しているその姿に、私は一種の感動さえ覚えた。
式後、霊枢車のあとから火葬場へ行ったが、今日は友引で焼くのは明朝四時、骨上げは七時からとなった。一旦姉の家に戻ったものの、相変わらず酒を飲んではボロボロ涙をこぼしている義兄や、形見わけの相談をしている姉たちの姿を見ているのが堪えがたくなった。
「俺たちはどこかの旅館に泊まる。あす、焼き場へ直接行く」
そう言い置いて妻と外へ出た。妻をなるべく姉たちと接触させたくない気持ちもあった。きのう、通夜の席で姉たちから、「真あちゃん、痩せたわね、やつれたみたいよ」と口々に言われていた妻は、跟いてきながら、「ね、私、そんなに痩せた?」と訊く。
私にはそれほどとは思えなかったが、久し振りに会った人の目は変化に敏感だし、その理由を尋ねられれば、妻も口を割りかねなかった。
姫路にくる新幹線の中で、「駿ちゃんのことは一切秘密よ」と妻は自分から言い出した。私も姉たちに内緒にしておきたかった。
母の存命中、私の情事は、母の口から姉たちに筒抜けであった。
「お前はしょっちゅう家をあけるんだってね」
遊びにくるたびに姉たちは私を非難し、その分だけ妻に同情して、「あんた、よく辛抱しているわね」と、感に湛えない表情を見せた。しかし、心底から同情しているのではなかった。「他の女と寝てくる亭主が不潔じゃないの?」と訊いて、妻の反応を窺う様子からも、それは容易に察しられた。姉たちは、私が結婚するときも異口同音に言った。
「私生児を産んだ女と一緒になるなんて、お前にはよくよく潔癖感がないんだね」
こういう姉たちが駿吉の存在を知ったら、口では同情しても、腹の底ではそれみたことかと言うに違いない。それを知っていたからこそ、内緒にしておこうと妻は自ら言い出したのであろう。
しかし、妻の胸のなかには、私に裏切られた口惜しさ、哀しさを誰かに訴え、同情して貰いたい気持ちもあるに違いない。姉たちに「痩せたわねえ」と言われたときに、妻の唇の端がかすかにひきつったのを見て、せめぎ合うその二つの気持ちを私はいやでも感じないわけにはいかなかった。
駅前の繁華街で晩飯を食べてから、近くの、西洋の城のような外観をしたホテルに行く。
「お葬式の晩に気が咎めるわ」
入口でためらう妻に私は言った。
「どこへ泊まったって同じさ。こんなときでもたければ、お前とこういう処にはこられないからな」
妻と連込み旅館に泊まるのは、結婚後はじめてであった。
「昔と違って、近頃は豪華絢爛、至れり尽くせりの設備なんだぞ」
「相手が園池さんじゃなくてお気の毒ね」
通されたのは総鏡張りの六角形の部屋で、中央に円型のベッドが据えてあった。
「ほんと、凄いわねえ」
目をみはって次の間や浴室を覗き廻る妻の姿に、はじめて新宿の旅館に連れこんだときの文世を思い出した。
細長い舟形の浴槽に並んで浸かると、見馴れた裸体なのに、少し新鮮味を感じた。
「やっぱり、痩せたようだな」
「いままで太りすぎていたんだから、痩せたほうがいいのよ。おかげさまでまたスマートになれるわ」
「そんなにつらいか」
「今更、何を言ってるの。私がどんなつらい思いをするか判らないから、平気で事を起こしたんでしょ」
「判っていても、あえて無視しているんだ。しかし、平々凡々な亭主より変化があって面白いだろ?」
「あり過ぎてこの二十年、息をつく暇もなかったわ。ねえ、あの二人をどうするつもりなの?」
「お前はどうしたいんだ」
「私がこうしてくれと言ったってきく人じゃないでしょ。私、駿ちゃんを引き取ろうと思ったけど、やっぱり無理ね」
「たぜ?」
「母にも内緒にしておきたいのよ。志郎が結婚して折角ほっとしているところなんですもの。あの人だってそう先が長いわけじゃないし、これ以上心配かけたくないのよ。駿ちゃんを引き取ることになれば、いやでも母に事情を打ち明けなければならないでしょ。と言ってこのままにしておけば、あなたはいつまでも知ちゃんと手を切らないだろうし……」
「とにかく、もう少し時間をくれ」
「いつもそれなんだから。私ね、絶対にあんたより先に死なないわよ。私が先に死んだって、あなたは義兄さんみたいに泣きっこないもの。泣くどころか、しめたって思うに違いないもの」
「お前だって俺が先に死んだら吻とするんじゃないか」
「以前は臨終のときにあなたのいちばん好きな女を枕許に呼んでやろうと思っていたんだけど、いまは違うの。園池さんも知ちゃんも絶対に呼んでやるものかと思っているの」
「最後に復讐するわけか」
「ええ、これからはうんと意地悪してやるの。――もうやめるわ、今夜は。せっかく、豪華絢爛ホテルに泊まったんだから」
一時間後、妻は思いきり乱れ、鏡に映るさまざまなその裸形を眺めながら、俺はまだ当分死にたくない、と思った。強いてこじつければ、姉の葬式の夜にあえて妻と痴戯に耽ったのも、そこに生きている証しを求めたかったのかも知れない。
三月二十五日
まことにおかしなことになった。姫路へ行っていた留守に、文世が二回知子のアパートを訪れ、二回目はつい話しこんで遅くなり、泊まって行ったというのである。私が葬式に出かけたことを電話で告げた際に知子が遊びにこないかと誘い、文世はそれにすぐ応じたらしい。
「二人で何を話したんだ」
「あなたの棚卸(たなおろ)しよ」と知子は笑った。「奥さんを愛しているくせにすぐほかの女に手を出して、女の心を弄んではよろこんでいる、この世で最も性質(たち)のよくない男だって」
「するとこの際、二人とも別れようと意見が一致したわけか」
「ところが結論は反対なの。危険だと判っていながら逃げ出すことが出来なかったと、園池さんも言ってたわ。あなたはあの人のこと、口数が少なくて温和しい娘だと言ってたけど、結構、私より喋るわよ。小さいときのことや、鹿児島の彼氏のことも詳しく話してくれたわ。これからも、あなたの居ないとき、二人でお喋りしようということになったの。また遊びにくると言ってたわ」
二人で共同戦線を張るつもりなのだろうか。
三月二十八日
「駿ちゃんをまた預かりたい」と、妻が電話で言ってきた。学校がないので準も章も遊びに出かけ、毎晩おそくでなければ帰宅しないらしい。
「あなたはいいわよね、そっちにも家庭があるんだから。私は一日中、一人きりなのよ。知ちゃんに言ってちょうだい、借りるだけで絶対に奪りはしないからって。手なずけたりはしませんって」
「しかし、あいつはいま、チビの心を取り戻そうとして、一生懸命ご機嫌をとっているから、貸してくれないかも知れないぞ」
「情けない人ね、実の母親のくせにわが子におべっかを使うなんて。とにかく、あした、受け取りに行くわ」
子供に罪はないとは言え、妻にとって駿吉は憎むべき存在のはずである。しかし、十日ばかり預かってすっかり情が移り、可愛くてしょうがなくなったらしいことが、その口ぶりからも察しられた。私が家に帰ると妻が真ッ先に訊くのは駿吉のことだったし、姫路から戻るときも、駿吉への土産ばかり買っていた。一時、私はそうした妻の態度に疑念を抱いた。わざと寛大なところを見せようとしているのではないか、駿吉を可愛がることで俺への点数を稼ごうとしているのじゃないか、と。
だが、よく考えてみれば妻が今更、私の歓心を買う必要はなかった。妻は私が文世に惚れていることを知っていたが、同時に、私に家庭を放棄する気がないことも知っている。夫が隠し子をつくった上、別の若い女にうつつを抜かしているのだから、妻にとってはこれ以上の危機はない。夫の愛を完全に失ったと思うのが普通である。にもかかわらず妻が錯乱もせず、せいぜい私に皮肉を言うぐらいにとどまっているのは、心底では私に愛されていることを疑っていないからであった。もし夫の愛を見失ったと思うならば、もっと取り乱して、それがいやでも日常生活に現われるはずである。駿吉を可愛がるどころではないだろう。確かに妻は痩せた。食欲がなく、夜眠れないと訴えている。しかし、それをあからさまに訴える妻に、私は私で安心していた。明らかに妻は私を許しており、許している自分を私に知られることも隠そうとしていない。そこに間違いなく心の繋がりがあった。それをお互いに感じ合っていた。第三者に言ったら、夫婦の狎(な)れ合いじゃないか、と言われるかも知れないが、狎れ合いにこそ夫婦の偽らざる姿があるのではなかろうか。
若い頃、妻はよくこう言った。
「一生かかって女の愛がどういうものか、あなたに教えてあげる」
私は、永遠の愛なんてあるものか、とせせら笑い、そもそもその傲慢さが真実の愛にはほど遠い証拠だときめつけた。情事がバレたとき、「お前の愛を確かめたかったのさ」と逆手にとったこともあった。なぜ駿ちゃんを産ませる気になったのか、と妻に問い詰められたときも、私は同じような答えをしたが、単なる言い逃れではなく、心の底にそれがなかったとは言い切れなかった。
妻の愛を確かめるために外子(そとご)をつくったなぞという言い訳が成り立つはずがないことは、私もよく承知している。しかし、知子に出産を許したとき、バレたら妻はどんな態度に出るだろうか、という想いが頭を掠めたのも事実であった。
夕方、仕事が一区切りついたところで知子のアパートに行くと、文世が来ていた。奥の部屋で駿吉に絵本を読んでやっていた文世は、悪戯を見つかったような表情をし、台所から割烹着姿で出てきた知子は、にこやかな笑顔を見せた。
「園池さんが、晩ご飯を食べてってくれると言うので、仕度をしているの。あなたも一緒に食べる?」
咄嗟に答えられなかった。いや、どんな表情をしたらいいのか、それにさえ戸惑った。私は駿吉を手招きし、胡坐の中にかかえこんで聞いた。
「鎌倉ママがあしたおいでって。ボク、行くか」
駿吉がコックリして、知子に告げた。
「ボク、鎌倉ママのおうちに行くよ」
顔を硬張らせた知子に妻の言葉を伝えると、「仕方がないわ」と呟いた。「この子が行きたがるんだから。でも、あんまり長いことはいやよ」
夕食後、駿吉は文世の膝にまたがり、「ケーキのおねえちゃん、お風呂ヘ行こう」と言い出した。
「駄目よ、駿ちゃん、おねえちゃんはもうおうちに帰らなければならないんだから」
知子がたしなめたが、駿吉は文世のセーターの襟を摑み、おねえちゃんと一緒でなければいやだと、だだをこねた。文世が困りきった顔で私を見た。
「ボク、おねえちゃんを困らせると、もう来てくれなくなるよ」
傍から知子も言った。
「パパに連れていって貰いなさい。ね、パパとたらいいでしょう?」
「駄目だよ俺は。まだ仕事があるんだ」
駿吉がますます文世に獅噛みついた。その背中を撫でながら文世が言った。
「おねえちゃんはね、外のお風呂に行ったことがないのよ」
「ボクが連れてってあげる」
結局、文世が負け、三人は銭湯へ出かけた。私は一人でお茶を淹れ直しながら、洗い場でお互いの裸身を晒している二人の姿を想像し、落着きを失った。二人はカランの前に並んで石鹸を使いながら、ときどきチラッとお互いの肌を盗み視ているに違いない。どちらの体つきも肌の色も熟知しているだけに、それがなまなましく目に浮かんだ。不意に欲望も張ってきた。私は胡坐の脚を組み直し、煙草をたてつづけに三本吸った。
頬を真っ赤にした駿吉が文世におぶわれて、戻ってきた。駿吉を降ろすと文世は上気した頬を両手で押え、フーッと大きな溜息をついた。
「ご免なさい。疲れちゃったでしょ」
湯道具をかかえ、一足遅れて戻ってきた知子が謝った。
「混んでいるうえ、チビがつきっきりなのよ。服を脱ぐのも着るのもおねえちゃんでなければ、いやだと言って。それに園池さん、本当に銭湯ははじめてだったんですって」
駿吉が今度は、おねえちゃんと一緒に寝ると言い出した。知子が駿吉の小さな蒲団を敷き、そのわきに座蒲団をならべて文世は横になった。スカートから伸びた湯上がりの脚が、ますます私を落ち着かなくさせた。文世が絵本を読み出したのをしおに立ち上がり、
「なるべく早く帰してあげろよ」
知子に言い置いて仕事部屋に戻ったが、すぐにはペンを執る気になれず、二人の女の気持ちをあれこれ忖度(そんたく)した。
知子が自殺を図ったのは、私との関係が妻にバレたこともあろうが、主因はあくまでも文世への敗北感である。だから知子は、文世が別れれば私も別れると妻に言ったのだ。裏を返せば文世が別れない限り私も別れないと宣言したことになる。つまり知子の心を占めているのは文世への嫉妬、敵愾心だ。その文世と仲よくしはじめたのは、私との生活ぶり、駿吉の父親としての私の姿を文世に見せつけることで、文世の心のなかに私への嫌悪感をかき立てようとしているのではないだろうか。私との結びつきが、もはや色恋ではなく、生活そのものであることを文世に感じさせるには、じかに文世をアパートに呼び寄せるのが最も手っとり早い方法である。それに文世を手許に引き寄せておけば、私と文世が二人きりで会う機会がそれだけ減る。伊東の宿で知子は、「あなたと園池さんが寝ていると思うと、私、気が狂いそうになるの」と言った。恐らく知子は、アパートに遊びにきた文世が、少なくともその夜だけは仕事部屋に泊まったり、私と泊まりに行ったりするまいと、それをアテにしているのだろう。
では、文世のほうはなぜ知子と親しくつき合うようになったのか。慎み深いので口にこそ出さないが、私と知子の肉体関係を文世がいまいちばん気にしていることを私は知っている。ときどき夜遅く仕事部屋に電話をかけてきて、「あら、いらっしゃったんですか」と、意外そうな、そして吻としたような口調で言うからである。私は文世に、知子と肉体交渉を断ったと言ったわけではない。しかし、年若い文世にすれば、相変わらず私と知子が肉体関係をつづけているとしたら、それだけでも堪え難い屈辱に違いない。と言って、あからさまにそれを私に確かめることが出来ないので、夜更けに電話をかけてくるのだ。つまり二人が親しそうにしているのはあくまでも上べだけで、その実、お互いに牽制し合っている――私はそう解釈せざるを得なかった。
午前一時すぎ、ようやく原稿を書き上げて、取りにきたS誌の若い編集者に渡し、もう今夜は文世からの電話はあるまいと思ったので知子のアパートヘ行く。
驚いたことに文世はまだいた。ついさっきまで彼女の心を忖度していたうえ、やっぱり……と言う文世の目つきにぶつかって、私は余計うろたえた。
「徹夜じゃなかったんですか」
知子に訊かれて、
「思ったより早く書けたんだ」
と答えたものの、それが言い訳にならないことを自分でも知っていた。案の定、文世が、
「私、お暇します」と腰を浮かせた。
「あら、いいじゃない、泊まっていらっしゃいよ。さっき、そうおっしゃったじゃない」
「泊まっていきなさい」と私も言った。「君がいやなら、僕は仕事部屋に戻る」
「いえ、それでは……」中腰のまま文世は俯向いて、あきらかに迷っていた。自分だけ帰れば余計惨めな思いをしたければならない。それが判っているからだろう。
「私はチビとこっちの部屋で寝るわ」と知子が言った。「だから、そっちでパパとやすんでちょうだい」
「そんなこと、出来ません」顫え声で文世が拒んだ。頬が蒼褪めていた。
「三人で雑魚寝しよう。それならいいだろう。少し窮屈だが、寝られぬことはないよ」
駿吉を小さな蒲団ごと手前の部屋に移して、私は、奥の部屋の二つ並べた牀の継ぎ目に横たわった。
「疲れているから先に寝るぜ。君たちはまだお喋りをしてるんだろ」
「襖をしめましょうか」と知子が訊いた。
「どっちでもいい」
知子が半分ほど閉め、文世の背中が隠れた。私は腹這いになって煙草をのみながら、聞き耳を立てた。お茶を淹れかえているらしい音がした。二人はこれから私を挾んで寝なければならない。そのあと何が起こるか、いやでも想像せざるを得ないはずだ。むろん私も眠れるわけがなかった。
知子が殺した声で何か言い、二人の忍び笑いが聞こえてきた。
「僕にもお茶をくれ」
「はい」と知子が答え、文世が運んできた。湯呑みを受け取りながら、「怒っている?」そっと訊いた。文世が小さく首を振った。
「あなた、おなかは空いてない?」と知子が訊いた。
「何か、あるのか」
「私たち、これから即席ラーメンを食べるの。召し上がりますか」
「ああ、出来上がったら呼んでくれ」
ラーメンを食べたあと、まず私が牀に戻り、つづいて知子の浴衣に着替えた文世が、左側の蒲団に入った。最後に髪を解いた知子が襟をかき合わせてから牀に横たわった。
薄闇の中でかなり長い沈黙がつづいた。私は目だけ動かして左右の女たちを盗み視た。二人とも申し合わせたように外側へ顔を向け、髪の間から文世の右の耳と知子の左の耳が覗いていた。どちらも私がちょっと上体をずらせば唇が届くところにある。それがかえって私の体を金縛りにさせた。うっかり手さえ動かせない。動かせば反対側の女にあらぬ想像をかき立てさせることになるからだった。
二人とも息を殺し、身動き一つしない。が、全神経を磨ぎすましているのがひしひしと感じられた。息苦しさに堪えかねて私はまた腹這いになり、枕許の煙草に手をのばした。同時に二人が深い溜息をついた。
三月二十九日
朝、駿吉の手を引いて、文世を表通りまで送って行った。まだ九時前で殆どの商店はシャッターを降ろしていた。
起きたときから文世は頭痛を訴え、「風邪を引いたらしい」と言った。「私も何だか体がだるい」と知子も呟いた。二人とも寝不足に違いなかった。
昨夜、私は何度か兇悪な欲望に駆られながら、結局はそれを行動に移すことが出来なかった。二人の手を握っただけにとどまった。知子が熱い息を吐きながら私の右腕にすがってきたのは、牀に入って一時間以上もたった頃であった。私は腕をゆだねたまま、そっと左手を文世へ伸ばした。蒲団の下で探りあてた文世の手が握り返してきたとき、知子の指が私の下腹部に這ってきた。このとき、もし私が積極的な行動に出ていれば、二人を捲きこんでともに地獄の快楽に溺れることができただろう。しかし、私は、ためらった末、自らその欲望を封じこめてしまった。私はやっぱり臆病者であった。
二人の女を同時に御したいという欲望は、いまにはじまったことではなかった。若者の間では乱交が流行しているとも聞いていた。だがこれは、流行非流行にかかわらず、また年齢によらず、男なら誰しも一度は実現してみたい願望であろう。昨夜はそれが叶えられる、まさに千載一遇ともいえる機会であった。
それなのに、いざとなったら私は、自分でも思いがけない自制力が働いて、身動きがつかなかった。
元々、私には倫理観が稀薄である。ないといったほうが正しいだろう。少しでもあれば妻以外の複数の女と平気で交わったり、子供を産ませたりしないはずだ。むしろ人倫を踏みはずしたところに性の快楽があると思い、私は私なりにそれを確かめてきた。
勿論、性にはやさしく劬(いたわ)り合う、穏やかな歓びもある。だが、快楽だけを測るならば、やましさや後ろめたさを伴う不倫な関係のほうが間違いなく深いところへ導いてくれる。二人の女の間に身を横たえたとき、私の体はぞくぞくするような期待感に溢れ、殆ど、けだものになりかかっていた。
では、肝腎かなめのそのときになって、なぜ、自らブレーキをかけてしまったのか。
要するに私は怕かったのだ。後の祟りを恐れたのだ。欲望を遂げるのはいいが、そのために文世に愛想をつかされるのが怕かったのである。嵐の夜が去って明るくなったとき、若くて経験のとぼしい文世は地獄に堕ちたわが身を愧じ、二度と私の前に姿を見せなくなるのではないか――その危倶が欲望を抑え、踏みとどまらせた。私は知子の体を押し戻し、文世の手をほどいてその手甲を二、三度撫でてから、自分の指を引っこめた。むろん、欲望を完全に鎮め切るまでには、それからさらに一時間近くかかったが、その格闘に疲れてようやく眠気がさしてきたとき、どうやら危機を乗り越えたという一種の自己満足も覚えたのだった。
表通りで空車を待ちながら、文世はなぜかしきりに自分の髪先をいじっていた。
「今夜、部屋に来る?」と私は訊いた。姫路から戻って以来、まだ二人きりの夜を過ごしていなかった。文世は答えなかった。
「部屋がいやなら、どこかへ泊まりに行こう」
「いやではないんですが」と少し嗄れた声で言った。「いくらか熱があるようなんです。家で休みます。もし熱がなかったら……」
ちょうど空車がきて、私たちの前にとまった。乗りこむ文世の背中に、電話をくれと念を押した。
「おねえちゃん、バイバイ」
手を振る駿吉に、文世も車の中から掌を見せて応えたが、窓硝子越しに私と目が合うと、さっと視線を逸らした。多分、今夜はこないだろう、と私は思った。
妻が仕事部屋にやってきたのは昼少し前であった。その後ろから準の顔が現われると、「ア、大きいお兄ちゃん!」駿吉は膝に飛びつき、抱き上げられると同時にカン高い笑い声をあげた。
妻が提げ袋から大きな板チョコを出した。
「お兄ちゃんにも呉れるか」
「うん」抱かれたまま包装紙を破く駿吉の笑顔を、妻も笑いながら見上げた。可愛くてたまらないといった表情であった。
三人を連れて新宿御苑へ行く。桜がほころびかけていた。広い芝生を準のあとを追って前のめりに駆ける駿吉を眺めながら、
「男の子でよかったわね」
妻が呟いた。
「駿吉のことか」
「うちの子供たちが、よ。もし準や章が娘だったら、パパは不潔だって追い出されているところよ。準はね、私が駿ちゃんを連れに行くと言ったら、友だちとの約束を断わってわざわざ跟いてきたのよ。あの子はあの子なりに気を遣っているの。少しは子供たちにも感謝するのね」
「不潔な父親か。清潔な人間なんて、かえって気味が悪いよ」
「すぐ居直るんだから……それより来週、駿ちゃんを連れて、どこかへお花見に行かない?」
準に肩車をして貰っている駿吉の笑い声が、風に乗って伝わってきた。
「それとも忙しいの?」
「いや、行こう」
「気のない返事。さては園池さんと約束してあるんだな」
「厭味を言わないと、お前はもっといい女房なんだがな」
「せめて厭味ぐらい言わせてよ」
三人を新宿駅まで送って仕事部屋に戻ると、知子が襷(たすき)がけで掃除をしていた。
「チビ、どうだった?」
「準も来たんで、大はしゃぎだったよ」
「そう、よかったわね」
言葉と裏腹に、掃き方が少し乱暴になった。
「掃除が終わるまで、コーヒーでも飲んでくる」
外へ出ようとする私を呼び止め、
「今夜、ここへ泊まりにきていいでしょ」
ひそめた声で訊いた。
「鉢合わせするかも知れんぞ」
「あら、あの人が来ることにたっているの?」
「はっきり来るとは言わなかったが……多分、来ないだろう」
「いいわ、私はあしたにする。早くコーヒーを飲みに行って」
わざと私まで掃き出すようにした。
夕方、須山君が急ぎの仕事を頼みにきた。アテにしていた他のアンカーが急病になったと言い、
「お願いします。午前二時までに何とか」と大仰に掌を合わせた。渋々、引き受けると、吻とした顔になって、「その後、阿部は来ましたか」と訊く。首を振ると、
「本当に彼の仕業かなあ」
「僕も彼を犯人と断定したわけじゃない。はっきりした証拠もないし……。しかし、嘘をついたり、あれきり姿を見せないんだから、いやでも疑わざるを得ないんだ」
「そう言われれば確かに怪しいことは怪しいですね」
須山君が帰ったあと、すぐ仕事にかかり、半分ほど書いた十一時すぎ、遠慮がちなノックの音がした。知子が辛抱しきれずに来たのだろうと思って、「ああ、入れよ」と声をかけた。ドアのかげから文世が羞しそうな顔を覗かせた。
「よく来てくれたね、熱は?」
「はい、夕方までぐっすり眠りましたら、頭の痛いのも治ったものですから」
弁解するような口調だった。
「来てくれないと思ったから仕事を引き受けちゃったんだが、あと半分ほどだから、待っててくれ」
「私のことは気になさらないでください。本でも読んでいますから」
「そうだ、今のうちにお風呂へ行ってくる。昨日も一昨日も入っていないんだ。君は?」
「家で入ってきました」
石鹸箱とタオルを握って部屋を出ると、知子のアパートヘ駆けた。夜更けにやってこないとも限らなかった。
「やっぱり、来たの。私もそうじゃないかと思っていたの。来てくれて、嬉しいでしょ」
知子はそう言って、作り笑いをした。
「まだ仕事が残っているんだ」
「いいじゃない、時間はたっぷりあるんだから。せいぜいお楽しみくださいませ」
「ばか」
「そのかわり、あしたの晩はきっとよ」
銭湯でいつもより念入りに体を洗いながら、独りでに顔がほころび、鼻歌でも唄いたい気持ちだった。男を知ってから僅か三ヵ月なのに、文世は早くも自分から求めるようになった。仕込み甲斐があったし、これからが楽しみでもあった。落とすまでに多少手間はかかったが、一旦そうなると文世は素直で従順で、どんなこともいやと言わなかった。まさに教え甲斐のある生徒だった。まだいくらかぎごちなさは残っているが、次に私が何を求めているか、素早く察して脚の位置をかえ、ときには何も言わないうちに自分から顔を蒲団のなかへもぐらせた。舌の動かし方も殆ど申し分がなかった。
それでいて昼間は、しとやかで、控え目で、相変わらず言葉を崩さず、私に何か訊く場合も必ず、「お聞きしてよろしいですか」と前もって念を押す。夜と昼と別人のようなその変化が、私にはたまらない魅力だった。
部星に戻ってすぐ須山君に電話をかけ、締切りを二時間ほどのばしてくれと頼んだ。何も訊かずに了解してくれた。
「蒲団を敷いて、先にやすみなさい」
「でも、原稿を取りにいらっしゃるんでしょう?」
「大丈夫、部屋の中に入らないようになっているんだ」
二時すぎ、書き上げた原稿をデータと一緒に紙袋に納め、それをドアに画鋲でとめた。以前そうしておいてから知子のアパートヘ出かけたことが何度かあった。
この夜、文世ははじめて私を「あなた」と呼び、呼んでから急に羞しくなったのか、私の胸に揉みこむように額をすりつけた。事後、脚をからめたまま、眠りに引きずりこまれる寸前に、ドアの外で画鋲をはがしている音が聞こえた。文世もその気配に気づいたらしく、もう一度、すがりついてきた。
三月三十日
とうとう私は、けだものになった。
地獄の快楽を知った。私ばかりでなく、知子も文世もひたすらに快楽を追い求め、三人が三人とも破倫の底に身を堕した。

電話のベルで私と文世が目を醒ましたのは昼すぎであった。牀から手を伸ばして受話器を取ると、妻からであった。私の受け応えでそれを察した文世は、私の脚をはずそうとした。そうさせまいとしてわざと脚に力をこめたが、文世に脛毛(すねげ)を引っぱられて、危うく声をあげそうになった。
起き上がると、文世は手早く服を着て廊下へ出た。唇をきつく結んでいた。
顔を洗って戻ってきた文世に言った。
「これからもいやな思いをさせることがあるだろうけど、我慢してくれ」
文世は黙って頷き、細長い柱鏡をはずしで、本棚の下の段に立てかけると、私に背を向けて髪をとかしはじめた。
「怒っているんだろ、僕の無神経ぶりに」
「いいえ」と手を休めずに文世は答えた。「わざと無神経を装っていらっしゃるんです」
「そうかも知れない。しかし、正直に言うと、君に対して、もう他人行儀に気を遣うのをやめようと思っているんだ。それが君の神経を逆撫でするようになるかも知れないが、僕はあるがままに振舞いたいんだ」
「わかっています。私もそのほうが気分的に楽になると思っていたのですけど……」
「けど……?」
「いいえ。そうしてください。どうか私にお気を遣わないでください」
私はわざと蹴るようにして牀をはなれた。本当はもうひと眠りしたかったのだが、明け方、文世の体に顔を埋めたとき、そのお腹が鳴っていたのを思い出したからであった。文世はちょい腹すきで、事後、子供のように空腹を訴えたことが二、三回あった。そこで旅館に泊まりに行く前や部屋に泊まるときは、忘れずに煎餅やポテトチップの袋を買っておいた。牀で腹這いになりながらそれを食べるとき、文世は顔まであどけなくなって、私の心にひとしお、いとしさをかき立てたが、昨夜は生憎、菓子類が何も残っていなかった。
近所のトンカツ屋で昼飯を食べたあと、河田町の静かな住宅街をひと廻り散歩してから部屋に戻ると、たまたま電話が鳴っていた。知子からであった。
――お昼、食べに来ないの?
「いま、済ませてきた」
――あら待っていたのに。まだ園池さん、居るの?
「ああ」
今夜も泊まっていくの?
「まさか」
ねえ、今夜はいやよ。私の番よ。
「判っている。用がなければ切るぞ」
私が受語器を置くのを待ちかねたように文世が言った。
「私、お暇します。あちらへいらっしゃるんでしょ」
「いや、飯を待ってたそうだけど、もういいんだよ」
「私に気がねなさらないで、どうぞ、いらっしゃってください。さっき、そうおっしゃったじゃありませんか」
「しかし、いま君と食べたばかりで、これ以上食べられないよ。僕は君と一緒にいたいんだ」
「私が昨夜ここに泊まったこと、ご存じなんでしょ。どうかご飯をあがるときだけでも、ご一緒にいてあげてください。一人で食べるくらい、まずいものありませんもの」
「じゃ、一時間ばかり待っていてくれる?」
「ごゆっくりしてきてください」
「帰っちゃ駄目だよ。今夜も泊まるんだよ」
「今夜はあちらへいらっしゃるんでしょ」
「いいんだ、あっちはいずれ埋め合わせするから」
言ってからハッとした。案の定、文世は眉をしかめ、さっと顔をそむけた。文世にとっては何よりも耳にしたくない言葉だったろう。しかし、今更とりかえしがつかなかった。
外へ出て横町を半分も行かないうちに小雨が降ってきた。立ちどまって傘をとりに戻ろうかとちょっと迷ったが、そのまま歩き出したとき、後ろで駆けてくる靴音がした。
振り向くと、蒼い顔をした文世だった。
「何か用?」
そばまで来た文世は、わざと私を見ないで言った。
「私、帰ります」
「なぜ?」
「もうお部屋には伺いません」
宣言するように言うと、くるりと背を向けて、大股に横町を戻りはじめた。そのあとを追い、
「なぜさ、何を怒っているんだい?」
訊ねる声が弱かったのは、その理由に気づいていたからである。表通りへ出た文世は、歩幅を落とさずに市谷台町の方へずんずん歩いて行く。雨脚が強くなった。
「気に触ったら謝る。とにかく、戻ってくれ」
前を向いたまま文世が言った。
「もうお目にかかりません」
「本気なのか。本気でそう言うのか」
私は少し腹が立った。たしかに私の言葉は不用意だった。デリカシーにかけていた。が、小娘じゃあるまいし、いちいち言葉に傷ついていては、大人の恋なぞ出来はしない。だから先刻、あるがままに振舞いたいんだと断わったじゃないか。それでいいと答えてくれたじゃないか。
「ね、部屋に戻って話し合おう。頼むからそうしてくれ」
後ろから肘をとろうとした私の手を邪慳に払い、屹(きっ)と睨んだ。これまで一度も見せたことのない怕い表情であった。私がひるんでいるうちに文世は手をあげて空車をとめ、さっさと乗り込んだ。車が見えなくなったあとも暫く私は、その場に立ちすくんでいた。昨夜、両隣の部屋に気を遣いながら、私はいつもより執拗に文世を攻めた。文世も、堪忍してと言いながら応じ、何度もはっきりと口に出して歓びを表現した。果ては囈語(うわごと)のように「あなた」と言った。その文世が私の言葉に全く耳を藉さず、逃げるように帰って行ったことがまだ信じられない気持ちだった。
知子の自殺騒ぎにも堪え抜いてくれたのに、なぜ今になって急に我慢できなくなったのか。それほどさっきの言葉は彼女の心を傷つけたのか。致命的な失言だったのか。
「どうして傘もささないできたの」
私を迎えた知子は呆れながら、タオルで手早く濡れた頭髪を拭いてくれた。
「だめ、そのまま坐っちゃあ、着替えないと風邪引くわよ」
「下着まで通っちゃいないよ」
知子はまだ昼飯を食べていないらしく、食卓には二人分のお菜が手つかずに載っていた。
「見ててやるから早く食べろよ」
「それより、どうしたの? 何かあったんでしょ」
私がかいつまんで話をすると、
「しようがない人ね、どうして本当のことを言っちゃうの、園池さんはママや私と違うのよ。怒るの、当たり前じゃない。でも、心配ないわ、夜になったら電話を掛けてくるわよ。もし、掛けてこなかったら、こっちから掛けて謝るのね。機嫌を直してくれるわよ」
「しかし、もう逢わないと言ったんだ」
「まさか、真に受けているわけじゃないんでしょ。大丈夫、逢うわよ。あの人はもう逢わずにいられたくなってしまっているもの。だけど今夜はいやよ。ね、一膳だけでも食べない?」
「食欲があるわけないだろ」
「ほら、それが悪いのよ。私は馴れているからいいけど、私に言うようにあの人にも言うからご機嫌を損ねてしまうのよ。これからはもう少し考えて喋るのね」
「お前にそんなことまで言われれば、世話はねえや」
一時間ばかりして仕事部屋に戻り、文世から電話がかかるのを待った。五時すぎ、ベルが鳴ったので飛びつくと、S社からであった。もう一本特集記事をまとめてくれ、という註文であった。半ばヤケになって引き受けると、三十分もたたないうちに若い編集者がデータ原稿を届けにきた。

午前零時半、三十分も早い。
原稿を書き上げて背筋を伸ばしたとき、ノックの音が聞こえた。約束の時間より三十分も早い。もう取りにきたのかと思い、どうぞ、と答えた。が、ドアを開ける気配がない。空耳だったのかと小首をかしげながら立ち上がった。濡れ鼠になった文世が薄暗い廊下に立っていた。頬にべったりと髪が貼りつき、真ッ蒼な顔をしている。
「お詫びしにきました。あんな別れ方をして申しわけありませんでした」
声が顫えていた。寒さだけではないようだった。肩に手を廻して部屋に入れようとしたが、
「私、帰ります。謝りにきただけですから」
「何を言ってるんだ。そんなに濡れてて、帰せるわけがないだろ」
それでも廊下から動こうとしない。濡れた髪の間から哀しそうな目をのぞかせ、全身を小刻みに顫わせていた。
「あっちのアパートヘ行こう。いま、原稿を取りにくるんだ」
強引に腕をとって階段を降りた。まごまごしていたら、編集者が来るし、知子も泊まりにくる。それに一刻も早く着替えをさせなければ本当に風邪を引いてしまう。
「いままで何処にいたの?」
一つ傘の中で聞くと、文世が嗚咽をもらした。歩きながら子供のようにしゃくり上げた。自分で自分の感情を持てあましているのが、手にとるように判った。
「赤ん坊」
胴に廻した手に力をこめて囁いた。
「どうせ、子供です」
また、しゃくり上げた。
知子のアパートには鍵がかかっていた。別の路地を通って仕事部屋へ行った知子と、入れ違いになったらしい。
「どこへ行ったんだろ、風呂かな」
とぼけながら文世の表情をうかがった。文世は肩をつぼめて俯向いた。
「ここで待っているわけにもいかないな。もう一度部屋に行こう」
路地を半ほどまで戻ったところで、雨ゴートを着た知子と行き遇った。
「この人を連れてってくれ。びしょ濡れだから、すぐ着替えさせなくちゃ駄目だぞ」
知子が心得顔で頷き、傘をさしかけて、さあ行きましょう、と促した。肩を寄せあった二人の後ろ姿が角に消えるまで見送った。たてつづけに二つ大きなくしゃみが出た。
一時間後、私は一昨夜と同じように二人の間に横たわった。五分もたたぬうちに知子の指がさぐりにきた。その手首を掴んで元へ戻し、かわりに私がさぐってやった。もう潤んでいた。仰向いたまま左手を文世の胸へ伸ばした。乳首がすぐ目醒めた。左右の指先を別々に動かしながら、闇の中で二人の呼吸を測った。二人とも徐々に早まってゆくようであった。またさぐりにきた知子の手を払い除け、文世の手を導いた。その掌にゆだねてから、文世の茂みを指先でわけた。知子と同じ状態になっている。暫く微妙に違う感触をたのしんだ。知子が肩の付け根に火照った頬を押しつけ、鳩の啼き声のような声をもらした。文世にも聞こえたはずであった。その証拠に、文世の手に力が加わった。動きが早くなった。私自身、それ以上二人の変化を測る余裕を失った。文世の体から引き揚げた左手で、彼女の手を私の体から剥がすと、その掌が粘っていた。
思いきって文世の方へ向き直り、唇を強く吸った。文世も応じた。私の背中に貼りついた知子が、後ろから胴を強く抱き締めてきた。頸筋に熱い息を感じた。唇をはなし、再び文世をまさぐりながら、闇に馴れた目で相手の瞳の中を見詰め、いいね、と念を押した。
「こんなことまで、しなければ、いけないんですか」喘ぎながら文世が聞いた。
「どうしてもいやなら、いい。でも、我慢出来ないんだ」
知子の手が腰を越え、前へ廻って私を捉えた。
「私、そんなつもりで、謝りにきたんじゃないんです」
知子が口をはさんだ。
「今更、何を言っているの。いやなら、いいのよ」
文世が観念したように両眼をとじた。仰向けになった。私は上半身を起こし、頭の位置をかえた。二人の顔の前に剥き出しの体を晒し、文世の腰を抱き寄せた。甘露をむさぼる私の体を、後から知子が頬張り、前からは文世が含んだ。はじめて知る強烈な感覚が腰から脳髄へ走った。自由になる左手で知子の秘部をさぐり、文世の最も敏感な処を舌先ではじいた。二人がもらす息が、絶えず私の太腿に生温かくあたった。私を含んだまま二人は殆ど同時に昇りつめた。もし昨夜文世と交わっていなければ、私はその前に果てていたろう。
昇りつめたあとも文世は口をはなさず、知子だけが私の顔のそばに頬を寄せてきた。
「どうしたんだ?」
「だって、なかなか譲ってくれないんだもの」
私の体を一人占めにした文世の唇は、狂ったようにあちこち、這い廻り、次第に私も堪え難くなってきた。しかし、そこからの刺戟よりも、知子と頬を寄せて文世の秘所を目の前にしていることが、昂奮に拍車をかけた。私は文世にかぶさり、すぐ一つになった。知子が後ろから私の腰に頬を押しつけ、文世のなかに納まり切れぬ部分を両手で包むように揉んだ。私よりも先に文世がまた昇天した。
知子が隣の牀に横たわり、目顔で催促した。文世から身を剥がして、知子と胸をあわせた。違った感覚が衰えを防ぎ、知子の鞴(ふいご)のような息遣いが私を前よりも逞しくさせた。文世は右腕を曲げて顔を掩い、暫く死んだようになっていた。薄い腋毛がより一属、私の官能を煽り、思わず腰に力が入った。知子が声をもらしたとき、文世の体はくるりと一回転して、その潤んだ目が知子の顔の隣に並んだ。私は上半身だけずらして文世の唇を吸い、右手をその乳房に這わせた。知子が腰を揺すり立てた。文世の左腕が私の首に捲きついた。知子と結ばれたまま上体を文世に移し、手を下腹部へおろした。秘液の溢れ出るのがはっきり判った。すすりなきが重なり、二人はまた同時に昇りつめた。
長い間の願いが、いま、間違いなく叶えられた。一昨夜、自らブレーキをかけたことも、今日の昼すぎ、文世が怒って帰ったことも、すべてはこのけだものの時間へのプロセスと言えた。
夜が明けるまで、私は官能の海に溺れた。片方の体に身を沈めながら、もう一方の蜜を吸い上げ、それに疲れれば二人の唇にわが身をゆだねて、うっすらと汗ばんだ白い腿を交互に枕がわりにした。三人が三人とも、秘液と汗と唾液にまみれ、もはやどれが誰のものやら分かち難かった。知性も理性も羞恥も尊厳も失った三つの肉体が、感覚と嗅覚と視覚の中で、互いにむさぼり、快楽の虜になった。
掛け蒲団は部屋の隅に押しやられ、敷布はまるまって花模様の敷蒲団があらわになった。窓の外が白みはじめて、その紅い花模様のうえの裸身の白さが鮮明になると、己の行為をわが目で確かめたいという新たな欲望を覚えた。しかし、一つ一つの行為を見定めることはできなかった。一つの行為はごく自然に次の行為を誘って切れ目なくつづき、不公平にならぬように気を配れば、いやでも私は絶え間なく五体のどこかを動かしていなければならなかった。最後に三人は一つの輪になった。それぞれの手と口が、それぞれの体を愛撫し合って、ようやく三人は疲労の果てにたどりついた、おだやかな陶酔に身をゆだねた。ときどき、漣(さざなみ)のような痙攣が走ったが、それも忽ち甘美な酔いに溶け、寝入りばなの赤ん坊がときどき思い出したようにおしゃぶりを吸うのと同じ状態がしばらくつづいた。このまま死ねたら――と私は思った。文世も知子も同じ思いだったのではないだろうか。

【十八】

三月三十一日
文世は、私がまだ牀の中にいるうちにそそくさと帰って行った。
昼前、いちばん先に起きたのは知子で、すぐ食事の仕度にかかったらしく、台所から水音が聞こえた。その音で私ははっきり目が醒めたが、隣の文世がまだ眠っているのを見て、そのまま寝たふりをつづけた。明るいところで文世とまともに顔を合わせるのがちょっと照れ臭かったし、文世は私以上に羞しい想いをするだろうと思ったからである。
しかし、文世は五分とたたぬうちに上半身を起こして、枕許からブラジャーをとった。私は掛け蒲団のかげで薄目をあけ、文世がブラジャーのホックをはめているのを盗み視た。白い二の腕や背中が眩しかった。文世は牀の中でセーターを着、スカートをはいた。私がまだ眠っていると思ったのだろうが、着替えるところを見せたことのない、いつもの文世らしくなかった。かなり疲れているらしいと、私は肚の中でニヤニヤした。文世は浴衣を袖畳みにし、それを胸に抱えて部屋を出て行ったが、間もなく、
「せめてご飯を食べていらっしゃいよ」
知子の声が聞こえた。それに対して文世が何か言ったが、押し殺した声なのでよく聞きとれなかった。
「じゃあ、またいらっしゃいね」
階下まで送って行った知子が上がってくるのを待ちかねて訊いた。
「どうして引きとめなかったんだ」
「あら、起きていたの」
知子はそれだけ言って台所へ去った。牀から鎌首をもたげると、知子は文世が畳んだ浴衣をひろげ、腰にあたる処を調べるように見てから、クルクルッとまるめた。
「なぜ、あわてて帰ってしまったんだ?」
「あの人ね」と、薄笑いを浮かべて知子が説明した。
「急に生理になっちゃったの。浴衣を汚したので、それがはずかしくなったらしいの」
雨の中をびしょ濡れになりながら戻ってきたわけも、さして抗(さか)らわずに地獄の快楽に身をゆだねたわけも、それでわかった。生理前の昂ぶった欲望のなせるわざだったのだ。
京都で私に初めて許したのも生理前であった。いつだったか文世は、正確な二十八日型で初潮以来ほとんど狂ったことがない、と語った。だから、ちょっと計算すれば、妊娠し易い時期も、欲望の昂まるときも事前に知ることが出来たのだが、私は昔からそういうことにうとくて、生理そのものにさえ、「いま病気なんです」と告げられるまで気づかなかった。妻も知子も不順なので、計算する必要がなかったせいもある。
午後、仕事部屋に戻った私は、真ッ先に整理箪笥のいちばん下の引出しをあけた。その底に、初夜の“記念品”を蔵ってあったことを思い出したからだ。ところが、いくらかき廻しても見つからなかった。引出しを全部調べたが出てこなかった。
引き返して知子に訊いた。
「お前、箪笥の中を整理したか」
「ええ、掃除に行ったときに」
知子は質問の意味が判ったらしく、眉を寄せて言った。
「いやらしい人ね、あんな物までとっておいて。棄てちゃったわよ。あれを見つけたときだけは腹が立ったわ。あの人なら生理のときでも抱くのかと思って」
「違うんだ。あれは記念なんだ」
「記念?」鴉鵡返しに聞いて、やはりすぐ察したらしく、
「そんなに処女が貴重なら、手をつけなければよかったのに。第一、日頃の話と違うじゃない。処女なんて面倒臭いだけだと言ってたくせに」
「今更、妬くな」
「処女も三カ月たつと随分変わるものね。ゆうべなんか、あの人のほうが夢中だったじゃない。もっとも、それだけ、あなたのお仕込みが上手だったんでしょうけど」
「俺にはお前のほうが何倍も悦んでいるように見えたがな」
「何よ、あの人にばかりサービスしていたくせに。私なんか、お刺身のつまみたいなものだったわ」
「へーえ、するとお前は一つもよくなかったのか」
「そりゃあ、いつもと違って……でも、何と言ってもあなたがいちばん楽しかったんでしょ。私はあなたが楽しければ、どんなことでもしようと思ったの。だけど、しょっちゅうは厭よ。癖になったら困るもの」
「いいじゃないか、楽しければ」
「楽しさは苦痛と隣合わせだということが、よく判ったわ。あなたは楽しさばかりだったでしょうけど」
「あの娘、怒っているんじゃないかな」
「どうして怒るのよ。あんなに何度も悦んでいたじゃない。あの人も、あなたのためなら何だってすると思うわ」
昨夜の三つ巴の痴戯を思い出すと、あれは自分のためと言うより、二人の女の悦楽を深めるためではなかったかとさえ思えてきた。
四月一日
夕方、新宿二丁目の喫茶店で文世に会う。
昼間、電話をかけたとき、文世は泣きながら、暫くお目にかかりたくない、と言った。もうこれ以上ついていけません、とも言った。
私は極力、詫びた。二度とあのようなことはしない、僕にとっても思わぬ成り行きだった、悪夢だと想って一刻も早く忘れてくれ――詫びながら、しかし私は、なぜ詫びる必要があるのかと、言葉とは裏腹な思いを持てあましていた。
たとえ、人でなしの行為であっても、それがもたらした悦楽を文世も間違いなく味わった。私が無理強いに引き摺りこんだわけではない。ああなることは、雨に濡れながら戻ってきたとき、すでに文世も予想していたのではなかったか。はずかしいのは判る。だが、今更それにこだわって私を避けたとてはじまらないではないか。
――もう堕ちるところまで堕ちてしまったのだ。往生際が悪すぎるぞ。
むろん、そんな思いはおくびにも出さず、頼むから会ってくれと私は懇願した。会って改めて謝りたいと言った。
「本当に会うだけでいいんですね」
念を押してから文世はようやく承諾した。いいも悪いも、生理中の文世を抱くわけにはいかない。それに徹夜仕事が控えていた。
約束の時間が三十分すぎても文世は喫茶店に現われなかった。気が変わったのだろうか、ちょっぴり不安になった。
もっとも、文世はこれまでも時間どおり来たことが滅多になかった。大抵十分か二十分遅れ、「ご免なさい」と謝るのが常であった。謝るくらいならなぜ時間どおりに来ないのか、それが私のたった一つの不満でもあった。
二杯目のコーヒーを註文し、あと十分待ってこなかったら諦めようと思ったとき、文世がそっとドアを押して入ってきた。顔ばかりか、体全身を硬張らせ、遅れたことも謝らず、ソファに浅く腰かけた。私の顔をまともに見ようともしなかった。
「魔がさしたと思ってくれ」
私は投げ出すように言った。電話でくどいほど謝ったのだから、同じ言葉を重ねる必要はなかった。俯向いたまま文世が言った。
「残酷な方なんですね」
私は文世の額に目をやって、胸の中で呟いた。その残酷さを悦んでいたじゃないか――。
「もうこれ以上、いじめないでください。私、堪えられそうもありません」
「わざといじめたわけじゃない。あの晩は、ああなるしか、なかったんだ」
「男の方は」文世はそこで一旦言葉を切り、下を向いたまま言い足した。「へんな映画を観たり、へんな本を読むそうですけど、私はそんなもの、観たくも読みたくもありません」
ボーイがコーヒーを運んできた。砂糖を入れる文世の手が顫えていた。それを見て不意に私はいじめたくなった。あの晩、私と知子が重なっているとき、文世は自分から身を転がして、そばに寄ってきた。文世の秘部を吸いながらうかがったとき、私を含んでいる知子の下半身へ文世はゆっくり手を這わせた。そして私たちは輪になった。その生々しい記憶と、これ以上いじめないでくれと言う言葉が重なって嗜虐を煽った。
「確かにあの晩、僕は常軌を逸していた。けだものになった。しかし、それだけに悦びが深かったことも確かだった。でも、僕ばかりじゃなかったはずだ。君だって否定はできないだろう」
スプーンの手をとめて、ちらっと目を挙げたが、私の目と合うとあわてて伏せた。そして小さく頷いた。頬が少し赧くなった。コーヒーをゆっくり飲み干してから私は言った。
「今夜は、これから仕事なんだ。あす、電話するよ」
「あのう、あしたはまだ……」
「判っている。終わった頃、会おう」
文世の頬がさらに赧くなった。
四月六日
きょうで丸五日、文世と連絡がとれない。この五日間、朝昼晩を問わず数十回ダイヤルを廻したが、呼出し音がむなしく鳴りつづけるばかりだった。生理はもう終わったはずである。なぜ文世は自分のほうから掛けてこないのだろう。母親はどうしたのか。母娘で急に旅行へでも出かけたのだろうか。
R企画に訊けばすぐ判るはずだが、何となく気がひけるし、千駄木の家をじかに訪ねたくても番地さえ知らない。仕事がたてこんでその暇もない。不安を仕事にまぎらわせるよりほかになかった。昨夜、思いきって夜中の一時すぎに電話をしてみたが、やはり、出ない一体、文世母娘はどこへ行ったのか。まさか、居留守を使っているのではあるまい。
四月七日
文世は病気だった。けさ、電話に出た母親が、「心臓発作で五日前から入院している」と教えてくれた。二日の朝、急に苦しみ出し、救急車で運んだと言うのである。
「なぜ、すぐ知らせてくれなかったのですか」
思わず咎める口調になった。
「申し訳ありません。ついさっきまで、付ききりだったものですから」
これから見舞いに行きたいと言ったが、
「あしたか、あさってには退院します。どうかご心配なく」
母親は入院先を教えてくれなかった。私を警戒しているようであった。
電話を切ってから、もしや自殺を図ったのでは? と思い、あわてて打ち消した。文世は知子のあの苦しみ方を目のあたりにしているし、こんな痛い思いをしなくちゃならないんですから」と医者が言ったとき、かたわらで聞いてもいた。
私たちは確かに人倫を踏みはずしたが、自ら命を断つほどのことだったろうか。もし、あの夜の行為を愧(は)じるなら、喫茶店で私に会う前に死を企てたはずである。それともあれは今生の別れのつもりだったのか。しかし、あのとき文世は、いつもより悦びが深かったことをはっきり認めたではないか。
本当に病気で入院しているのなら、誰よりもまずこの私の見舞いを待ちのぞんでいるはずである。私たちは生涯、口外できない秘密をわかち合った。あの秘密が心臓発作の原困ならば、尚更私に会いたいはずだ。会って私を責めれば、それだけでも胸が軽くなるはずだ。
「私は本当の病気だと思うわ」と知子は言った。「だって、あの人には自殺する理由がないもの」
「なぜ?」
「自分があなたにいちばん愛されていることを知っているんですもの。これほどあなたに愛されていて、なぜ自殺しなければならないの?」
「しかし、あの晩のショックが……」
「あの人は、私よりも芯が強いわ。その証拠に、私やチビがいることが判ってもあなたから離れなかったじゃない。あなたが姫路へ行っていた留守に私たち話し合ったの。お互いに一人の男を愛してしまったのだから、どんな辛いことも辛抱しましょうって」
「俺はきょう家に帰るけど、お前、電話をかけて母親から病院の名を聞き出してくれないか。女の声なら、教えてくれると思うんだ」
「いいわ、そんなに気になるなら、何とか聞き出してみるわ。場合によったら、私がお見舞いに行ってみるわ」
四月八日
妻と駿吉を連れて、小田原の城止公園へ花見に行く。今年は例年より早く咲いたので、すでに散りかけていたが、それでもかなりの人出で、いくつものグループが花吹雪を浴びながら車座になって酔声を挙げていた。
「どうしたの、何だか浮かない顔ね」
天守閣への道を登りながら妻が訊いた。黙っていると、
「園池さんを連れてきたかったんでしょ? 何なら電話で呼んであげましょうか」
「ばかたことを言うなッ」
「何よ、急に大きた声で怒鳴って、みんな、見てるじゃない」
駿吉に引っぱられるまま、妻は腰をふりふり先へ登って行った。妻には何事も隠さないように心掛けているが、あの夜のことだけは打ち明けられない。性については私も妻も、すぐ不潔だの潔癖感がないのなどと言い立てる姉たちのような小児性からはとっくに卒業しているつもりである。だがそれにしても、あの夜のことを知ったら、妻は許さないだろう。私に愛想をつかし、別れると言い出すに違いない。いつだったか、妻はこう言ったことがある。
「私が何でも許すと思ったら大間違いよ。そりゃ妻として、出来るかぎりは寛大でいたいと思うけど、人間としてあなたが許すべからざることをしたら、そのときは断乎として別れるわよ」
まさにあの夜の行為は、許すべからざる行為であった。たとえどの男の奥底にも潜んでいる願望であったにせよ、それを理性で封じこめ、抑え切るのが人間なのだろう。私は間違いなく人間を失格した。
むろん、私も、金さえ出せば、二人がかり三人がかりで男に奉仕する女たちがいることを知っている。金の介在なしにプレイとしてそれを楽しんでいる若者たちの存在も耳にしている。だが、商売や遊びならまだ許せる。私の場合は、相手が、この世で自分が最も愛している女と、私の子供を産んだ女である。いわば私は、彼女たちの心を、愛を、虐殺したにも等しいのだ。まして文世は私しか男を知らない。快楽から醒めたあと、屈辱と汚辱にさいなまされて死を選んだとて不思議ではない。まともな神経なら、むしろ、そのほうが当然である。
では、知子はなぜ私を許したのか。なぜ、けろりとしているのか。知子は一度、死の淵をのぞいた。死に損なった強さを持っている。退院した夜、私に抱かれながらとめどなく涙を流し、歓びの果てに、死なないでよかった、ともらした。あのとき知子は間違いなく愛欲の深さを知った。そして、私から棄てられないためにはどんなことでもしようと思ったに違いない。ずっと以前、知子は私の、囁きを真に受けて、夜遅く鎌倉の家にやってきた。恐らくあのときから、私の心の底に潜んでいた願望の手助けをするつもりだったのだろう。
坂の途中で、花に囲まれた天守閣の白壁を見上げていると、妻が戻ってきた。
「せっかく来たのに考えごとばかりしていて、つまらないわ。駿ちゃんだって可哀想よ」
「ご免。ボク、向こうの遊園地へ行って汽車ポッポに乗ろうか」
本丸跡の広場は花見客で溢れ、天守閣に登る石段には長い行列が出来ていた。その石段脇からS字型の坂が遊園地のほうへのびている。両側から駿吉の手をとって坂をくだりながら呟いた。
「おかしな夫掃だな」
「え、だれのこと?」
「俺たちさ」
「ほんと、へんな夫婦ね」
ちょっと笑ってから頭上の桜を見上げた屈託のなさそうな妻が、いまの私には救いになっていた。
四月九日
「私にも病院を教えてくれないのよ」顔を見るなり知子が言った。「一両日中に退院するからって。私、自分でもしつっこいと思うほど訊いたんだけど、お母さん、どうしても病院の名前を言わないの。何か意地になっているみたいだったわ。やっぱり、あなたの言うように自殺を図ったのかも知れないわね」
「仕方がない。あす一杯待ってみよう。退院したら何とか言ってくるだろう」
そう言ったものの、再び募ってきた不安を抑えられず、夕方、電話してみた。意外にも男の声が応じた。文世の兄らしかった。私が病状を訊くと、
「かなりよくなったようです。実は私もついさっき出張から帰ったばかりで、まだ病院へ行ってないんです。え、病院? それが判らないんですよ。いえ、知っていることは知ってます。前にも一度入院したことがあるんで……。しかし、荒川のごみごみした横町をいくつも曲がった奥にある病院で、電話じゃ教えにくいんです。名前ですか? それもうろ覚えなんです。とにかく、あすかあさって退院するそうですから、わざわざお見舞いに来てくださらなくても……退院したら必ず連絡するように言っておきます」
ますます疑惑が深まった。妹の入院した病院名を知らぬはずがない。明らかに嘘をついている。
見舞いにきてもらいたくないのだ。来て貰ったら自殺未遂がバレる――もはやそう考えるよりほかになかった。
知子ばかりか、文世まで追いつめてしまった――しかし、自己嫌悪の虜になってはいられなかった。病院を教えてもらえないなら、R企画に文世の家の住所を訊き、せめて家を訪ねてお詫びしよう。そう思ったとき、森から電話がかかった。
「園池が入院しているのをご存じですか」
「うん、聞いているけど」私は曖昧に答えた。
「あす、病院へ見舞いに行くつもりですが、何かお言づけがあったら言っておきますけど」
「君は病院を」言いかけて、あわてて言い直した。「心臓が悪いと聞いているけど、本当なのかね?」
「ええ。彼女、昔から心臓があまりよくなかったんです。ご存じなかったんですか。うちの事務所に入って間もない頃も一度、入院したことがあるんです」
「僕も見舞いに行きたいんだが、何だか厭がっているようなんで……」
「ええ、汚ない病院ですから。僕にも来て貰いたくないようでしたが、事務所としては、ほっておけませんので」
「僕が心配していると伝えてくれ」
「判りました。あす、また連絡します」
同じ事務所に所属しているとはいえ、別れた森に見舞いを許し、なぜ、私を拒むのか。やはり文世は私の人でなしの行為を憎んでいるのだろうか。許さないつもりなのか。

【十九】

四月十五日
文世と新宿の旅館に泊まる。あの夜以来である。二キロ痩せたと言う文世は、確かに頬がこけ、腰の骨もあらわになった。肌も蒼味がかり、太腿の静脈がはっきり見える。風呂の中でも、私は毀れ物のようにあつかったが、文世のほうはむしろ前より積極的になり、かえって私をはらはらさせた。
事後、髪の毛を撫でながら、本当のことを話してくれと私は言ったが、文世は自殺未遂をきっぱり否定し、前々から心臓が弱くて、これまでにも三、四回軽い発作に襲われたことがあると繰り返して言った。
「じゃあ、なぜ僕の見舞いを拒んだの?」
「私、お待ちしていたんです。入院する前に母に連絡してくれるように頼んだのですが、母が忘れてしまったのです。でも、それを母に確かめることができませんでした。ですから私、お見舞いに来てくださらないことを、ひそかに怨んでいたくらいです」
「お母さんはわざと連絡しなかったんだね」
「そうかも知れません。母は薄々、気づいていたようですから」
「お兄さんにも口止めしたわけか」
「いえ、兄は本当に病院の名前を度忘れしたんだそうです。謝っておいてくれと言ってました」
しかし、それで疑問が氷解したわけではなかった。本当に私の見舞いを望んでいたのなら、入院中、文世自身が電話をかけてきたはずである。やはり文世は、私と会えない状態か、会いたくない心理状態だったのだろう。
私はそれ以上追求しないことにした。追及すれば、いやでもあの夜のことに触れなければならない。あれから二週間たって、文世はようやく以前の文世に戻ってくれた。文世にとっては、あの夜を忘れるために必要な二週間だったのだ。
「駿ちゃん、まだ鎌倉ですか」
私の胸を指先で撫でながら文世が訊いた。
「おととい、こっちに連れ戻してきた」
「あの方、お元気ですか」
「ああ、君のことを心配していたよ」
「お目にかかりたいんですけど……もう一生、お会い出来ないかも知れませんね」
「なぜ?」
「それを私の口から言わせるのですか」
細い胴を抱き締めながら、頼みがあるんだと私は言った。
「なんでしょうか」
「取材記者をやめてほしいんだ」
鹿児島の男との結婚を諦めたのだから、これ以上週刊誌の世界にいる必要はないはずだ、それに君自身もいつか、何を取材してもむなしいと言ったではないか、むろん、君が一本立ちのライターになりたいなら別だが、いずれ辞めるつもりならば、一日も早くこの世界から足を洗ってほしい――私は用意してきた言葉を耳許で囁いた。文世は黙っていた。
「もっと正直に言おう。君を誰にも見せたくないんだ」
胸の中で文世が顔を挙げようとした。その頭を頤先で押えつけて私はつづけた。
「僕とのことで、君が編集者や他の取材記者たちから好奇な目でじろじろと眺められているのを想像すると、それだけで僕はたまらたくなるんだ。苛々してくる。彼らの目の届かないところに君を蔵いこんでしまいたくなったんだ」
私はまだ言葉を飾っていた。出来れば文世を手活けの花にしたかったのだ。私が会いたいとき、抱きたいときに、いつでも応じられるような状態に文世を置きたかった。
「母にも」と文世が言った。「辞めるように言われています。私自身も今度の病気で体に自信がなくなりましたし……私、辞めます、当分、うちで静養します」
気がかりなのは、文世の家の経済状態であった。文世が仕事を辞めれば、兄の収入だけに頼るしかない。それでやっていけるのだろうか。ちょっとためらった末に、私は思いきってそれを口にした。
「大丈夫です。母も保険の仕事をやっていますから。それに私、本当を言いますと家事のほうが好きなんです」
「僕も出来る限り援助するつもりだけど」
「それだけはやめてください」
文世はきっぱりと言った。
「ご免、君のプライドを傷つけるようなことを言って」
「いいえ、そうじゃないんです。私、これ以上ご迷惑をかけたくないんです」
明け方、私たちはまた一つになった。
四月二十日
「いまR企画を辞めてきました」
と、文世が電話で伝えてきた。声が少し湿っていた。やはり感傷的になっているのだろう。
「引きとめられたろ?」
「皆さん、喜んでくださいました」
「どうして?」
「勘違いしていらっしゃるんです。……結婚すると思って」
「結婚? 僕と?」
「いいえ。噂はひろまっていますが、皆さん、半信半疑だったようなんです」
「しかし、森君は……」
「森さんは何も洩らさなかったようです。その点、森さんに感謝しています」
「とにかく、これからは自由に会えるね。誰にも気がねしなくていいわけだ」
「でも、暫くうちでおとなしくしているつもりです。辞めたのに留守勝ちになったら、母はますますへんに思いますもの」
「それじゃ、かえって不自由になっちゃうじゃないか」
「暫く辛抱してください。私も我慢しますから。そのかわり……」
「そのかわり、なんだい?」
「積立金がおりましたら、私がご馳走します。どこかへ連れて行ってください」
声がやっと明るくなり、私も心が軽やかになった。
四月二十七日
文世と箱根へ行く。バスが宮ノ下をすぎると、谷間にまだ桜が散り残っていた。元箱根で降り、箱根神社下の湖畔でひと休みしているとき、「きのう、吾妻先生からお電話がありました」と文世が言い出した。「秘書をやる気はないかとおっしゃるんです」
「誰の?」
「河村先生の」吾妻慎一の師、河村正也はすでに文化勲章も受賞し、その作品は昭和文学の最高峰とさえ言われている。
「君に勤まるだろうか」
「そんなに怕い方ですか」
「実際には知らないが、気むずかしさでは色々な伝説があるくらいだからね。原稿を頼みに行った女性編集者が、丸二時間、向かい合ったままひと言も喋って貰えず、しまいに泣き出したそうだよ」
「私、お断わりします」
「文豪の実像を知りたい気持ちが君にあるなら、またとないチャンスだけど」
「もし気がすすまないなら、僕の助手になってくれないかと吾妻先生はおっしゃるんですけど」
「何だ、それが狙いだったのか。それこそ危険だな」
「どうしてそんなふうにおっしゃるのですか。先生はとても私のことを心配してくださっているんです」
「判った。吾妻さんとよく相談して決めなさい」
私は湖面へ目を向けてわざと冷淡に言った。文世も私の頬にそそいでいた視線を湖へ向けた。モーターボートがけたたましい音を立てて私たちの前を横切り、その余波が足許の湖岸で小さな飛沫をあげた。そっと目を遣ると、文世は肩のところで髪先をいじっていた。
二、三日前、ある雑誌で、「性的欲望が昂まると、女性のなかには無意識に自分の髪先をいじる者がいる」という記事を読んだ。知子のアパートで雑魚寝した翌日、表通りで空車を待っているときも文世は同じ仕草をした。
そばに寄って、後ろから文世の肩を軽く抱いた。
「今夜、どこへ泊まろうか。強羅? 宮ノ下?」
「人が見ます」と言いながら、文世はじっとしていた。
五月二十日
われながらよく体がつづくものである。
土曜と日曜の夜は妻の相手をし、月曜の夜は文世、火曜は知子、水木はほぼ徹夜で仕事をして、金曜はまた文世と夜を倶(とも)にする。仕事が一晩ですむときは公平を期するために知子を抱く。つまり、週のうち女ッ気がないのは仕事をする一晩か二晩だけで、泊まる場所も、家、旅館、仕事部屋、別館、知子のアパートと毎晩のように違う。しかもその間に、飛びこみ――急に頼まれた仕事もこなし、駿吉の相手もしてやらなければならないのである。
当然、どこにいても落ち着かない。家にいれば文世や知子母子が気になるし、文世と旅館にいるときは妻のことが頭に浮かび、知子のアパートでは、今頃文世は何をしているかと心配になる。たえず何かに追われている感じで、「さすがに少し遣りきれなくなった」と高梨に愚痴ったが、「贅沢言ってやがる。結構、愉しんでいるくせに」
全く取りあってくれなかった。確かにはじめのうちは三人それぞれの反応ぶりや感覚の違いを愉しんでいた。だが、慣れるにつれて官能的な歓びは次第に弱まり、と言って、うっかり手を抜けば、「ほかの人にはもっと丁寧にするんでしょ」と厭味を言われるので、余計、負担になってきたのである。
――俺の齢では、やはり三人は無理なのだろうか。
世の中には六十すぎで四人も五人もの女を囲っている男がいる。三人ぐらいでネを挙げるなんてだらしがなさすぎるぞ。だが、いくら自分で自分を嗾(けしか)けてみても息切れしてきたことは否定出来なかった。
むろん、そのたびに放出していては体が保たない。それに、若い文世は言うまでもなく、知子もまだ妊娠の可能性がある。いやでも貝原益軒の養生訓を実践しなければならなかったが、すると、その自制が欲望そのものにもブレーキをかけ、昨夜も、ひと休みしようとしたら、
「私って、つまらないんでしょ」
文世が哀しげな顔を見せた。そのくせ、いざ私が急を告げると、
「あとで、こわいことになりませんか」
全身をこわばらせて、今度は文世のほうがブレーキをかける。知子は逆に前後を忘れたが、そうなるとかえって私は抑制力が働いてしまう。結局、私が放恣(ほうし)に身をゆだねられるのは妻とのときだけ、ところが妻はまたこんなふうに言うのである。
「いいのよ、無理しなくても。二人に叱られるわよ」
ときおり、文世や知子に口で取って貰ったが、自ら望んでそうするのではなく、やむを得ずそうして貰うのだから、歓びは薄い。むしろストレスがたまって、妙な息切れを覚えるのだった。
息切れするのは肉体ばかりではなかった。私は最近、自分でも無口になったのに気づいている。いや、意識的に口数を少なくしている。
「この頃、トンチンカンな返辞ばかりするわね」と妻に皮肉られ、知子にも、「その話、前に聞いたわよ」と言われることが多くなったからである。元々、私は饒舌で、何か面白い話を聞いたり読んだりすると、それを適当に粉飾して、身近な者に話さずにはいられなかったが、近頃は誰に何の話をしたか、いちいち覚えていることが出来なくなった。多分はじめてだろうと思って喋り出すと、「それ、二度目よ」と言われ、「この間の話ね」と言って後日譚を語りかけると、話そのものが相手には初耳だったりする。自ら箝口令を布かざるをえなくなった。
文世は先週から吾妻慎一の助手をつとめている。目下は資料蒐(あつ)めが主で、図書館や古本屋を廻り、一日に一回、仕事場のホテルヘ顔を出せばいいそうだが、それで報酬は、「R企画以上のものを出す」約束というから、底意が感じられる。しかし、いまは黙っているよりほかにない。疑いを口に出せば、「まだ私が信じられないのですか」と言われるに違いないからだ。
出来れば私が文世を助手にしたいが、それほど仕事があるわけではないし、経済的なゆとりもない。よしんばあったとしても、妻や知子が承知するまい。
正直なところ、私はまだ、妻子を棄て、知子母子と縁を切って、文世と一緒になる決心がついていない。もし妻がたった今、二人の女と別れろと迫っていたら、私も時の勢いで、逆に離婚に踏み切っていたかも知れない。山代温泉の番頭と女中のように、文世と人知れぬ遠い土地へ駆け落ちしていたかも知れない。事実、あの北陸旅行のあと、文世と何度か駆け落ちの相談をしたことがあった。「いっそ心中しちまおうか」と、半ばは文世の心を試す気持ちで持ちかけたときも、私の目をじっと見詰め返して、「私はいつでも」と文世は言った。不倫の男女には暗い将来しかない。もし文世と一緒になるなら、収入は少なくても、もっと地道な仕事について、ひっそりと暮らそうと思っていた。いや、そうすべきだと考えていた。齢も四十五だし、体もすっかりナマっている。肉体労働はとても無理だが、貧乏覚悟なら、私にも出来る仕事があるだろう。小学校の用務員でも、ビルの手すり磨きでもいい。ささやかに、つつましく、文世と二人きりの生活を守ってゆく。当然、妻子や知子母子への仕送りは出来ないから、準も章もすぐ働きに出なくてはなるまい。別れて暮らしながら前と同じ仕事をし、扶養の義務だけを果たすことによって、少しでも罪悪感を軽くしようと考えるのは虫がよすぎる。第二の人生に輝きを期待するなぞ厚かましすぎる。駆け落ちはやがて陋屋(ろうおく)に窮死するのを覚悟すべきだ――私のこうした考えに、一応うなずいたあとで文世は聞き返した。
「いまおっしゃったとおりにしたら、本当にお子さんを忘れられますか」
返辞につまって自分の考えが所詮、空想にすぎないことを私は思い知らされた。窮死覚悟の駆け落ちと言えば、一見、いさぎよさそうだが、その実、エゴイズムの弁解にすぎない。扶養の義務さえ拒否しようとする卑怯な言い訳であり、ごまかしであった。
この一カ月間に私の考えはかなり変わってきた。あわてて決心することはない、と思いはじめた。西洋には、疲れているとき重大な決心をするな、という諺があるそうだ。俺はいま疲れているんだ、と自分に言いきかせ、三人が三人とも、それぞれの存在を認め合っているんだから急ぐことはないさ、と胸で呟いてみる。少し息切れしはじめたのは確かだが、男冥利に尽きる状態であることもまた事実である。
私はこれでもか、これでもか、というように苛酷な鞭(むち)を文世に加えてきた。知子母子の存在がバレたとき、知子の自殺騒ぎ、あの破倫の夜――そのすべてに文世が堪え抜いてくれたのは、いつか必ず私と一緒になれると信じたからだろう。一途で、ゆるぎない文世の愛は、もはや疑いようがなかった。私にとってこれ以上の果報はなかった。
ところが、文世の愛情を確信したその途端に私のなかから、妻や知子と別れよう、何が何でも文世と一緒になろう、という気持ちが薄れはじめた。決心がぐらつき出した。
――俺が誰よりも愛していることは、彼女もよく知っているはずだ。それなのに離婚してわざわざそれを証明する必要はないじゃないか。妻帯者の愛は、離婚以外に証明できないのだろうか。
私はそんなふうに思いだした。明らかに文世の愛の上に胡坐をかきはじめたのだ。勿論私も、現在の状態をいつまでもつづけようとは思っていない。つづくはずもない。いまはいい気になって蜜蜂のように花から花へ飛び廻っているが、そのうちに必ず三人の誰かが痺れを切らして、私に決断を迫るに違いない。それも、さして先のことではない。ひょっとすると、それは明日かも知れない。口にこそ出さないが、三人とも心のなかではじりじりしながら毎日を過ごしているに違いなかった。それを承知の上で私は自分に言いきかせる。
――そのときになって決心したって遅くはない。何も俺から言い出すことはないさ。
もっとはっきり言えば、三人ともほしいのだ。寛大でこれと言った落度もなく、二十年来肌に馴染んできた妻、はじめから日蔭の身に甘んじて報われない献身をつづけてきた知子。どちらの肉体も私によって開花し、爛熟し、牀の中ではとめどなく乱れて悦楽の虜となり、文世とはまた趣きを異にした歓びを私にもたらす。文世一人とひきかえに二人を手放すのが惜しくなってきたのである。妻にしても知子にしても、たとえ蛇の生殺しにせよ、私に棄てられるよりましなのではないだろうか。
要するに私は多情なのだ。高梨が言ったように、結構楽しんでいるのかも知れない。
五月二十五日
神戸の姉夫婦と小田原で落ち合い、芹ノ湖畔のM旅館に行く。ここの自慢は庭一杯の躑躅(つつじ)。やや盛りをすぎてはいたが、そのあざやかな色彩に暫し圧倒される。少憩後、姉と妻を部屋に残し、義兄と旅館専用の釣場へ降りて、やまべを釣る。釣りは昨夏の太刀魚釣り以来である。家から持参した、うどん粉、さなぎ粉、酒かす、糠(ぬか)などまぜた撤き餌が水に溶け、茶色に濁ったところへ糸をおろすと、ものの十秒とたたぬうちに魚信がある。ここのやまべは型がよいうえ、数釣りが楽しめるので、義兄は数年来、今頃になると必ず箱根にやってきて堪能するまでおみこしを据え、その都度、私もお相伴する。義兄は今年七十四歳、養子に店を譲り、釣り三昧の生活を送って十年近くになる。若い頃は散々、芸者遊びをしたそうだが、六十五で男が終わったと義兄自身の口から聞かされたことがある。「はかなくならなかったか」と聞いたら、「この世にはほかの楽しみもある」と笑っていた。淡々たる口調だった。私も義兄のようになれるだろうか。
昔から釣り好きは好色と言われている。竿に伝わる一瞬の魚信が、女体の微妙な反応に通じると説く人がいる。いささかうがちすぎているが、私の場合、好色であることは当たっている。しかし、強弱の差こそあれ、色を好まない男なぞいるわけもない。
一時間ほど経った頃、妻がやってきた。予備の竿を渡すと、早速、並んで釣りはじめた。燃えるような新緑に包まれた山上湖で、夫婦そろって釣糸をたれる――人が見たら、幸せな中年夫婦の見本のように思うだろう。「あ、釣れた」と子供のように歓声を挙げる妻に、数カ月前、夫に隠し子があるのを知って貧血を起こしたことを誰が想像できるだろう。こんなところを文世が見たら何と思うだろうか。同じ湖岸で文世の肩を抱いたのはつい一カ月前であった。はじめて文世の手を握ったのは、この湖を渡る遊覧船の中でだった。
夕方までに妻も三十尾近く釣る。スラックス姿のせいもあって、妻はいつもよりずっと若やいで見えたが、夜更け、誰もいない大浴場の湯舟の隅で膝に抱き上げると、下腹に何本もの横皺が出来ていた。
また少し痩せたようであった。

【二十】

五月二十九日
昼すぎ、文世が電話で、「ご相談したいことがある」と、ひどく遠慮っぽい口調で言った。すぐピンときた。
「吾妻さんに口説かれたんだろ?」
「………」沈黙が図星であることを語っていた。
一時間後に仕事部屋にやってきた文世の話によると、昨日ホテルの仕事場へ資料を届けに行ったとき、いきなり愛を告白されたというのである。
「勿論、拒絶したんだろ?」
「はい、好きな人がいますって……」
満足すると同時にいくらか拍子抜けしたのは、あまりにも予想どおりだったせいだろう。
「吾妻さん、がっかりしていたかい?」
「やっぱりそうかとおっしゃって、その人と結婚するのかとお訊きにたりました。私がそのつもりですと答えましたら、いまの話はなかったことにして、これまでどおり仕事を手伝ってくれとおっしゃるのです。考えてみます、と言って帰ってきたのですが……」
「まさか君は助手をつづけるつもりじゃないんだろ」
「やっぱり辞めるべきなのでしょうか」
私は呆れて文世を見詰めた。一体、どういう気持ちなのか。感情と仕事は別と、割り切っているのだろうか。たとえ文世は割り切れたとしても、吾妻慎一のほうは平静さを保てるわけがない。毎日、一対一で顔を合わせるのだ。
「その仕事場というのは普通の部屋?」
文世が頷いた。
「じゃあ、そばにベッドもあるわけだ」
「先生は紳士ですから、そんなことは絶対になさいません」
「紳土がどうして娘みたいな君を口説くんだい?」
「先生ご自身も二度と口にしないと約束してくださいました」
「何だ、僕に相談するもしないも、君の気持ちはもう決まっているんじゃないか」
「でも、どうしてもいけないとおっしゃるなら、お断わりするつもりです」
「僕も吾妻さんの良識を信じよう」
色恋に良識なぞあるわけがない。いきなりベッドに押し倒されたら、どうするのか。しかし、そこまで口に出来なかった。改めて自らを省みるまでもなく、私には文世の行動を制限する資格なぞない。それに文世はきっぱり拒絶したのだ。私が危倶を感じているだけなのである。
だが、それにしても文世はどうして即座に助手を辞める気にならなかったのか。相手の気持ちを受け入れる気はなくても、名を知られた作家に言い寄られれば、悪い気はしない。心をくすぐられたことは確かである。しかも相手はこのまま助手をつづけてくれと頼んでいる。不埒(ふらち)なことをしたらすぐ辞めればいい。いわば切り札を握ったも同様だから、これからはかなり我儘も出来る……女が持っている一種の残忍さを感じないわけにはいかなかった。それとも文世が助手をつづけようとするのは、すっかり胡坐をかいてしまった私への、形をかえた抗議なのだろうか。夜、牀の中で文世が訊いた。
「どうして先生の気持ちが前から判ったのですか」
「恋する男の敏感さ。さ、いまや君はスターだね。有名作家をはじめ、まわりの男がみんな夢中になっているんだから」
「からかっていらっしゃるんですか」
「僕だって有頂天さ。みんなに惚れられた君をこうやって僕だけが独占出来るんだから」
「私のほうは違いますね」
「何が?」
「私は津田さんのアクセサリーにすぎませんもの」
藪蛇であった。
六月十日
神戸の店の慰安旅行に加わり、朝、大阪から松山へ飛ぶ。妻は飛行機がはじめてなので、離陸後もしばらく顔をこわばらせていたが、禁煙のランプが消えると、それからは機窓に貼りついて、上から見る瀬戸内海の美しさに嘆声をあげつづけた。一行は二十五人。松山空港からは貸切りバスで市内を遊覧する。どこへ行っても投句箱が目立つ。奥道後を見たあと、午後遅く道後に戻って旅館に入る。夜は宴会。余興の順番が廻ってきたので、妻と『麦と兵隊』を合唱、お茶を濁す。妻と一緒に歌をうたったのは、はじめてであった。歌いながら、この旅行のことを告げたときに、「奥さまもご一緒ですか」と文世が言ったのを思い出した。「いや、僕だけだよ」とあわてて答えたが、文世は嘘を見抜いた表情であった。
妻が姉夫婦の部屋からなかなか戻らないので、先に眠ってしまう。ひと眠りして小用に起きたとき、ようやく戻ってきた。
「今まで何を喋っていたんだ?」
牀に入りながら舌をチラッと出し、
「とうとう白状しちゃった」
「チビのこともか」
「言うまいと思ったんだけど、うまく義姉さんの誘導尋問にひっかかっちゃったの」
姉に、痩せ方が尋常じゃない、一度健康診断してもらったらとすすめられてつい打ち明ける気になったらしい。
「私が別れさせてやると言ってたわよ。手切れ金がいるなら用立ててやってもいいって」
「頼んできたのか」
「まさか。第三者が何を言ってもきかない性格なのは、私がいちばんよく知っているもの。夫婦の問題だからと釘を差しておいたわ」
「じゃあ、最初から喋らなければよかったんだ」
「でも、喋って、せいせいしたわ。胸の閊(つかえ)えがとれたみたい」
妻がふと哀れだった。
六月十一日
生憎、降り出した雨の中を出発、三坂峠でひと休みしたあと、バスは仁淀(によど)渓谷に沿って曲がりくねった三十三号線を南下して昼すぎ高知市に入った。桂浜で昼食。いい塩梅に雨が上がって薄陽が射しはじめた。妻が五色石を拾っている間、少しはなれた処でぼんやり煙草をのんでいると、姉が近づいてきた。バスでも、昼食のときもわざとはなれた席をとったので、チャンス到来と思ったのだろう。が、姉が何も言い出さぬうちに先手を打った。
「心配しないでくれ、いずれ何とかするから」
足許の石を拾い、荒波に向かって力一杯、投げた。向かい風のせいか、海に届かなかった。
「全く図々しいね、お前は。真あちゃんも暢気すぎるよ。よく旅行にこられるね、お前たち夫掃には呆れはてたよ」
もう一つ、石を投げたが、それも波打ち際に落ちた。妻が五色石を拾いあつめたビニール袋を振り振り寄ってきた。
「みてご覧、あいつは屈託がないだろ?」
「でも、随分、痩せたよ。残酷だよ、お前は。栄子のお葬式のときから何かあると気がついていたんだけど……子供までつくるなんて、ばかげているよ」
店員の一人がバスの出発を知らせにきた。
午後、竜河洞を見物。雫よけの白い袢纏をはおって入ると、洞内の道は狭く不気味で、妻はうしろから私の袢纏の裾を握りつづけた。夜八時すぎ大阪空港帰着。
姉の家に一旦帰り、妻と山手町の連込みホテルヘ泊まりに行く。姉の家に泊まれば、いやでもお説教を聞かねばならない。
ボタン操作で右へも左へも廻転する円型ベッドにはしゃいでいた妻が、
「あなた、園池さんといつもこういう部屋に泊まるんでしょ」
「いや、俺もこんな凄いの、はじめてだ」
鏡張りの天井を最後まで見ようとしなかったことを思い出した。
「お気の毒ね、今夜は私が相手で。もっとも相手が園池さんのときは仕掛けなんてどうでもいいんでしょうけど」
どうしてこんな仕掛けが必要なんですか――と、真顔で訊いたことも思い出された。
「帰ったら新宿の旅館にも連れていってね。これからは私もせっせとこういう処に泊まるつもりよ」
「冗談じゃない。いい歳をした夫婦が行けば笑われるだけだ」
「あら、雑誌に書いてあったわよ。最近は夫婦の利用者がふえたって」
近頃の文世はむしろ旅館よりも仕事部屋に泊まるのを望むようになった。連れ立って銭湯へ行き、帰りも風呂屋の前で待ち合わせて一緒に戻るのが楽しそうであった。五日ほど前の晩、銭湯から戻って牀を敷きかけているときにJ誌から、二頁のニュース物を別館でまとめてほしいという電話があった。二頁なら二時間ばかりで済む。引き受けて服を着替えた私を、
「おはよう、おかえり」
文世はわざと大阪弁で送り出した。私も調子を合わせて、その手に靴ベラを戻しながら、
「すぐ帰るさかい、待っててな」
文世は嬉しそうに頷いた。
「思い出し笑いして、いやな人」
円型ベッドの上で妻が睨んだ。
六月二十四日
文世と甲府の湯村温泉へ行く。十二、三年前の初夏、新聞社の部会をこの温泉でやったことがある。当時は周りの水田から蛙の鳴き声が聞こえたが、いまは甲府の街と家並みつづきで往時の記憶とまったく繋がらない。
純和風庭園の中に建った離れの一軒に案内される。四畳半、八畳にバス、トイレ付きで、造りは古いがそれだけに木口はしっかりしている。廊下の硝子戸を開け放つと、木橋の架かった池が見えた。
「二人きりだったらちょうどいいね、こんな家が」
廊下の籐椅子に腰をおろして言うと、文世も頷きながら深沈とした目を向けてきた。だが、いまの私には東京に二戸建ちの家を借りるだけのゆとりはない。
「仕事部屋を移すつもりなんだ。もっと遠くへ」
「本当ですか」文世が声を弾ませた。
「君も捜してくれよ。でも、やっぱりアパートだぜ」
宿帳にわざわざ妻文世と書き加えてから、「大風呂は?」と五十年輩の女中に訊いた。
「本館の一階にございます。今日は空いておりますから、奥さまもご一緒にどうぞ」
浴槽の真ン中に二抱えもある白い円柱が立っていた。その蔭に並んで身を沈める。文世の裸身はもう見慣れていたが、磨り硝子を通してまだ西陽が明るい広々とした浴室の中で目(ま)なかいにすると、欲望とは違った新鮮な歓びが湧き上がるのを覚えた。平泳ぎで浴槽の奥まで行き、手招きすると、はにかみ笑いを見せながら文世も泳いできて、差し出した両手につかまった。引き寄せると両瞼を軽くとじて唇を突き出した。
手拭いを前にあてて浴槽を出る文世の後ろ姿から、ふと色気がこぼれた。艶っぽさを感じたのは、はじめてであった。先日文世は久し振りに会った女子大時代の友だちに、「あなた、恋愛中でしょ」とひやかされたそうだが、第三者には男を知った色艶や躰つきの変化がよく判るのかも知れない。吾妻慎一が感情を抑え切れずに告白したのも無理はないか――私はニヤニヤしながら、今度は背泳ぎで円柱を一巡した。
六月二十五日
「今日は何の日か知っている?」
朝、文世が目を醒ますのを待って訊いた。文世は宙を見て暫く考えていたが、「判らないわ、教えて」と甘え声を出した。
「薄情者」
「あら、なぜですか」
「はじめて君に会った日だよ。一周年記念に、おいしいおめざをあげようか」
枕の上で羞しがりながらコックリする文世を引き寄せた。
遅い朝食を摂ってからハイヤーで昇仙峡へ行く。天神森から一気に仙娥滝の上まで昇り、そこに車を待たせて新緑の渓谷を眺めながら二百メートルほど歩いて降る。観光客はまばらで、谷からの涼しい風が、対岸の覚円峰を見上げる文世の髪先をゆらしていた。
坂道を戻りはじめると、忽ち息が切れた。文世が後ろから腰を押してくれた。
「さっきのおめざがこたえたらしい」
文世がシャツの上から抓(つね)った。やっと車まで戻ると、
「ロープウエーでパノラマ台へ行っていらっしゃい、富士も日本アルプスも一目ですよ」
運転手の言葉に誘われて、ためらわずにロープウエーの切符を買った。乗客は私たちだけ。動き出してから、ハッとした。文世が高所恐怖症だったのを思い出した。床に目を落とし、すでに顔色が蒼白になっている。
「ご免」だが、こればかりは途中で降りるわけにはいかない。
「大丈夫です」そう言って作り笑いをする文世の肩を抱き寄せた。昨日から今朝にかけての楽しさをいっぺんに台なしにしてしまった自分の迂闊さに、自分で腹を立てた。
雲が思いのほか厚く、パノラマ台からは富士も日本アルプスも見えなかった。
「損しちゃったな。しかも君に辛い思いをさせて」
「よくよく富士山がお好きなんですね」
ベンチに腰かけた文世がようやく元の顔色に戻って笑った。
武田神社に寄って甲府の裏駅でハイヤーを降りたのは午後一時すぎであった。真夏のような強い陽射しが広場に溢れている。東京はもっと暑いに違いない。帰るのがいやになった。
「もう一晩、泊まっていこう」
「お家のほうは、よろしいんですか」
「知っちゃ、いないよ」
わざと投げ棄てるように言って、身延までの切符を買った。母が生前、死ぬまでに一度連れて行っておくれと言い暮らしていたのを思い出したからだ。波高島(はだかしま)という駅をすぎる頃から富士川の流れが車窓に見えはじめた。川面がキラキラと陽に反射していた。
身延は石段が急だと聞いていたので、駅からタクシーで登り、本堂裏で降りた。広い境内には参詣客が殆ど見当たらず、法被(はっぴ)を着た老人がゆっくりと竹箒を動かしていた。本堂前の公衆電話で下部温泉の宿を予約してから、女坂を降りた。藪鶯の蹄き声が聞こえる。毎日読経を欠かさなかった母の願いをついに叶えてやらず、今頃になって若い娘とやってきたことが、後ろめたかった。
「君は死後の世界を信じる?」
「いいえ。津田さんは?」
「全然」
「でも、お寺がお好きですね。どうしてですか」
「別に好きなわけじゃない。日本の観光地はたいがい神社仏閣に結びついている。ただそれだけだよ」
「そう言えば、どこへ行っても掌を合わせませんね」
「拝むなら生き仏を拝むよ」
「生き仏って?」
「たとえば、君」
「あら、私、拝まれたことがあるのかしら」
「箱根でも京都でも散々、拝んだじゃないか」
「私も拝もうかしら」
「え、誰を?」
「私だけにしてくださいって」
「あ、また鶯が蹄いた」
ごまかすよりほかになかった。
六月二十六日
隣の甲斐常葉駅前から本栖湖へ行くバスの中で、ふと思い出した。
「お父さん、その後どうした?」
「大阪へ行ったようです」
「とうとう会わなかったの?」
小さく頷いて目を窓へ逸らした。
「会いたくないの?」
「一生会うまいと決心したんです」
私が文世と一緒になったら、準も章も、そして駿吉も、私と生涯会うまいと思うだろうか。いや、私自身、三人の子供をきっぱりと棄て切れるだろうか。
本栖湖畔で富士吉田行きのバスを待っているうちに小雨がぱらつき出し、かすかに見えていた富土山は忽ち厚い雲に閉ざされてしまった。
河口湖畔の湖面に突き出したホテルのグリルで昼食を摂る。子供たちがまだ小学生の頃、夏休みにこの湖で遊覧船に乗ったり、口ぼそを釣ったりしたのを思い出した。その夜安アパートのような旅館に泊まり、子供たちの寝顔をうかがいながら妻を抱き寄せたことも――。
「どうなさいました?」フォークの手をとめて文世が訊いた。
「この雨、あがりそうもないね」
「雨のせいか、だんだん東京へ近づいているのに、逆に遠くへはなれて行くような気がするんです」
言葉の裏に秘められた文世の気持ちが痛いほど判った。が、今日は帰らねばならない。丸三日間、家に連絡していなかった。
「今夜から仕事なんだよ」
「わかっています」
昨日、山道で冗談めかして言った文世の言葉が、耳底からよみがえった。
心底から愛しているなら、文世が願っているように妻とも知子とも肉の関係を断つべきであった。それこそが愛の証しだった。「愛は自らに貞節を課す」と何かで読んだ。私の毎日は無節操の極みであった。文世には他の男たちの求愛を退けさせ、自分の欲望は野放しにしてきた。口先ばかりと非難されても、一言もない。このままの状態をつづければ、文世ばかりか、妻や知子も心身ともにボロボロになってしまうだろう。
人にはさまざまな掟がある。夫婦といえども侵してはならない矩(のり)がある。まして夫婦ならざる男と女は、お互いに抑制してこそ心を保ちうることが出来る。
それを私は平気で破った。俺は多情なんだと居直って、むしろすすんで掟に挑戦した。自分の欲望に捲き込み、人倫にそむかせ、それを物差しにして心を測ろうとした。愛欲の底に引き摺りこむことで、三人を三人とも繋ぎとめようとした。良くも悪くもこれが愛欲の実相だと押しつけ、もはや逃れられまいとたかをくくった。嫉妬と独占欲を封じこめようとした。
いま、三人は必死に堪えている。堪えることが愛だと信じて――。だが、いつまでも堪えられるはずがない。もはや堪え切れぬと悟ったとき、三人が三人とも私を一斉に見放すのではあるまいか。
「出来るだけ早く、新しい仕事部屋を捜すよ」
雨にけぶる湖面を眺めながら私は言った。いくら貞節を心に決めたとしても、妻や知子に面と向かって、
「もうお前を抱かない」
と、どうして宣言することが出来よう。今更、そんな仕打ちをすれば、かえって私に執着するだけだ。やはり徐々に遠ざかり、なし崩しに納得させるしか方法はない。仕事部屋を移せば、まず知子から遠ざかることが出来る。
「いいんです」と文世が言った。「お急ぎにならないでください。駿ちゃんが可哀想ですもの」
仕事部屋が遠くなれば当然、駿吉と接触する機会は少なくなる。しかし、いずれは子供への愛着も裁ち切らねばならない。
「秋までには必ず移るよ」
文世へというより自分に言いきかせた。
七月十五日
午後、新宿から高速バスで箱根の桃源台へ向かう。乗客は私と文世だけ。カーテンで窓から射しこむ暑い陽をさえぎり、リクライニング・シートを倒して胸の上に文世の手を抱えこむ。二の腕の肉づきがいくらか豊かになった。特急バスなので御殿場までノン・ストップ。運転手の背をうかがい、文世の唇を吸う。乗り物のなかで接吻したのは、はじめてであった。文世の膝の上に、鍔(つば)の広い陽除け帽が載っている。その下に指をもぐらせると、めッ、という顔をした。
河口湖で自分から約束したにもかかわらず、仕事に追われてまだ一度も新しい部屋を捜しに行かない。夜のほうも相変わらずだ。幼い頃、姉たちからよく、「女の腐ったような児」とさげすまれた。優柔不断な性格は直らないのかも知れない。「それでいて、女には図々しいんだから」というのは妻の口癖である。
しかし、知子に仕事部屋を移すことは予告した。
「ママの命令なの?」と訊き返されて頷いた。俺の意志だとはどうしても言えなかった。この期に及んでまで私はいい子になりたがっていた。
「奥さんて、いいわねえ」
知子は、はじめて皮肉を言った。
桃源台から遊覧船に乗ろうと思ったが、切符売場には「本日終了」の札が下がっていた。湖尻の発着場も同じだった。夏休みの前で客が少ないからだろう。不意に風が出てきて、湖面が騒ぎはじめた。陽も翳って、水の色が濃くなった。湖岸の土産物屋を兼ねた食堂に入り、薄べりを敷いた板の間で狐うどんが出来上がるのを待っているとき、
「きのう、鹿児島から電話がありました」
文世が湖へ顔を向けたまま言った。煙草を口ヘ持って行きかけた手をとめ、黙って先を促した。
「遊びにこないかと言ってました」
「彼はまだ結婚しないの?」
「そうらしいです」目を戻して曖昧な笑いを見せた。
「まさか君を待っているんじゃないだろうね」
答えなかった。電話でそれに類することを言われたに違いない。
「鹿児島へ行ってみたい?」
首を振った。が、弱々しい振り方であった。うどんが来た。箸を割ってひと口啜(すす)り、ふと疑惑を覚えた。
「本当に鹿児島から電話があったの?」
「ええ」と湯気の向こうで答え、「なぜですか」と訊き返した。「いや」と今度は私が曖昧に笑った。一向に仕事部屋を捜そうとしない私に痺れを切らして、刺戟を与えようとしたのではないかと思ったのだ。
「君が行きたがっても、行かせないよ」
「私、ちゃんとお断わりしました。多分、もう電語をかけてくることはないと思います」
そのときになって鹿児島の男が何という名前なのか、まだ聞いていないことに気づいた。だが、今更聞いても仕方あるまいと自分に言いきかせた。
店を出ると、先刻のバスがとまっていた。折り返し新宿へ戻るはずである。
「帰ろう」
「え」文世が立ちどまり、「鹿児島の話でお気を悪くされたのなら、お詫びします」
「そうじゃない。東京で何か旨いものを食べたくなったんだ。それとも、ここに泊まりたい?」
「別に……」しかし文世は、明らかに割り切れない表情であった。
七月二十二日
「あの方にお会いしてはいけませんか」
不意に文世が言い出した。汗まみれになった胸を剥がし、腹這いになってひと息入れているときであった。あれ以来、文世は知子に会っていない。私も文世の前では、なるべく知子のことを口にしないように気をつけてきた。
「会ってどうするんだい?」
「どうって……なんだか急にお会いしたくなっただけです」
額面どおりには信じられなかった。いつか、一生お目にかかれないかも知れませんと文世は言った。知子に会えば、いやでもあの夜のことを思い出す。いちばん思い出したくない出来事のはずであった。文世は何を企んでいるのか。このところ、文世が仕事部屋に泊まってゆく回数がふえている。歓びもさらに一段と深まったようだ。だが、まさか三人で再び夜を過ごそうというのではあるまい。
「あの方に聞いてみましょう」
文世の口調を真似て言うと、
「私、うまくごまかせるわ」
媚(こび)を含んだ目で掬(すく)うように私を見た。
――ごまかせる?
意味を問い返そうとして二、三日前、「甲府へ行ったこと、あの方、ご存じなんですか」と文世が訊いたのを思い出した。私は首を振ったが、「気づいているかも知れない」とは言ってあった。多分、それを指しているのだろう。私とグルになることでさらに心の繋がりを確かめたいのだろうか。
七月二十五日
知子に文世の言葉を伝えた。
「私も会いたいと思っていたの。是非遊びにくるように言ってちょうだい」
昨日、妻がまた駿吉を鎌倉へ連れて行ったので、知子は寂しがっていた。
「章があすの晩、友だちと神津島へ行く。九時出港だそうだから、その前に三人で飯を喰い、みんなで見送りに行ってやろうか」
「あとでママにバレない?」
「バレたっていいさ」
知子の目に久し振りに灯がともった。いずれこの女と男女の交わりを断たねばならない。いま優しくするのはかえって残酷になると知りながらも、やはり不愍がる気持ちは否定出来なかった。
七月二十六日
ついに文世を怒らせてしまった。
朝、文世に電話をすると、
「今夜はお友だちと食事をする約束をしてしまったんです」
「じゃ三人で飯を喰うのはまたにしよう」
文世はちょっと黙っていたが、
「食事のあと、どうなさるおつもりなんですか」
やや切り口上で訊き返した。
「別にどうもしない。君があの女に会いたいと言うから、機会をつくっただけだよ」
とりあえず午後四時に新宿で会う約束をした。三時半までに仕事を片づけて喫茶店へ行くと、珍しく文世が先に来ていたが、浮かない表情をしている。
「お友だちが急に都合が悪くなって……でも、今夜はあの方とお二人でお食事をなさってください。私はご遠慮します」
まさか言われたとおりにするわけにもいかず、アパートでじりじりしながら待っているに違いない知子を気にしながら、小料理屋へ入った。ビールを飲んだ。なぜかいつもより酔いが早く廻った。心が急いていたからか。酔った目に文世がセクシーに映った。
――食事のあと、どうなさるおつもりなんですか。
朝の言葉がよみがえり、抑えていた欲望が、鎌首をもたげた。しかし、まだこのときは漠然たる期待だった。
八時前に文世を連れて竹芝桟橋へ行った。タクシーを降りて思わず目をみはった。岸壁が、リュックを背負った若者たちで埋めつくされていた。千人近い数であった。章を拾い出すことは不可能だった。すでに神津島行きの大型船が横付けにたっていた。
拡声器が乗船番号順の整列を呼びかけると、若者たちは背中の荷物をゆすり上げ、数字を書いた立て札の前にノロノロと並びはじめた。二十数年前、コロ島で引揚船に乗る順番を待っていたことを思い出す。この船に乗れば間違いなく日本に帰れる――こみ上げてくる喜びが思わず足踏みになった。収容所で何十日も風呂に入らず、どの顔も汚れ切っていた。服装もひどかった。が、目だけは明るく輝いていた。
いま、目の前の若者たちは思いきり派手な色シャツを着、奇抜な帽子をあみだに冠り、三人に一人は磯釣り用の太いリール竿をかついでいる。昔なら大半が兵隊にとられる年恰好である。
「見つかりませんか」そう言いながら文世が傍によってきた。
「これじゃ、とても無理だね。帰ろうか」
そのとき、乗船が始まった。船腹に吸いこまれる列に目を凝らしたが、五十人ずつ区切った列が蜿々(えんえん)とつづき、やはり章を拾い出せそうもなかった。後ずさりして、船全体を改めて眺めた。
乗りこんだ若者たちが忽ち甲板に溢れた。後部甲板の手すりに並んだ顔を順ぐりに見ていると、船尾の麦わら帽が何となく章に似ていた。船の真下まで駆け寄ると、やはり章だった。大声で名前を呼んだ。章も気づいた。
「いいか、しっかり受けとれ」
新宿で買ってきた菓子包みを抛(ほう)りあげると、デッキから身を乗り出した章が巧みに受けとめた。
「船室は?」
「もう一杯なんだ。ここでゴロ寝さ」
「気をつけろ」
章は文世に気づかぬらしかった。
大門まで歩いてようやくタクシーを拾い、乗りこむとすぐ文世が言った。
「やっぱり、いいお父さまなんですねえ」
そして、そっと溜息をついた。
仕事部屋に戻って十分もたたぬうちに電話が鳴り、いきなり知子が噛みついてきた。
「ひどいわ、すっぽかして」
「悪かった」目の前に文世がいるので、それだけしか言えなかった。
「私、まだご飯を食べていないのよ。着替えして、ずっと待っていたのよ。すぐ来てちょうだい」
「それが駄目なんだ」
「なぜよ。……あの人がいるの?」
黙っていると、
「お願い、来てよ」
悲鳴に近い声になり、電話が切れた。
「どうぞ、あちらへいらっしゃってください」
この前と全く同じ状態になった。
「君も一緒に行かないか」
文世が首を振った。
「会いたいと言ったじゃないか」
「またにします。今夜はお会いしたくないんです」
知子が待っているのを承知の上で私と食事をし、港へも同行した。明らかに文世は張り合っていた。故意に邪魔をしている。知子に会いたいと言ったのは、私と知子の肉体関係がつづいているかどうかを、じかに知子から聞こうと思っているのかも知れなかった。
すっぽかした弱味から、私は、知子が可哀想になった。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
よそゆきの着物を着た知子は、部屋の真ン中にペタンと坐って、両眼に涙を溜めていた。
「お前、あの娘をここに呼んできてくれ」
手短かに説明してから私は言った。
「来るかしら」知子がのろのろと立ち上がった。
「来るよ、帰ろうとしないんだから」
言外に意味をこめた。すぐ察したらしく、知子がはにかみ笑いを見せた。またあの悦楽を味わうことができる。二度目はもはや過ちとは言えなくなる。ひょっとすると文世もそれを期待しているのかも知れない。私は北叟笑(ほくそえ)んだ。
しかし五分もしないうちに知子が一人で戻ってきた。
「居ないわよ」
「帰っちゃったのかな」正直、がっかりした。
「部屋の隅にハンドバッグが置いてあったわ。近所へお茶でも飲みに行ったんでしょ。もう、いや、私、おなかがペコペコ」
「そう言わずにもう一度行ってくれ。いや、俺も行く」
仕事部屋に戻って坐るか坐らぬうちに文世が帰ってきた。部屋の中の私と知子を見て、入口に立ち竦(すく)み、忽ち顔を硬張らせた。
「すまないが、これの飯につき合ってやってくれ」私は先に外へ出た。五、六歩行って振りかえると、二人が並んで跟いてきた。吻としてまた歩き出すと、足早に文世だけが追つてきた。
「私、今夜は帰ります。帰らせてください」
「まあ、つき合えよ」
「お食事のあと、どうなさるんですか」
「心配するなよ。飯を喰ったら、あれはアパートに帰すよ。そうすればいいんだろ」
私は心にもないことを言った。そのときになればなんとかなる、という自信があった。
「そういうわけにはいきません」
強い口調で言いきり、不意に駆け出した。背中が怒りを現わしていた。
――ちょっと待てよ。
引き止める暇もなく、文世は十メートルほど先で空車をとめた。
「どうしたの、急に帰っちゃって」知子がゆっくり近づいてきた。
「やっぱり三人は厭なんだろ」
「今更……帰りたい人は、帰ったらいいわ」
七月二十九日
「また謝ってくるわよ」と知子は言ったが、あれきり文世は電話をかけてこない。私も連絡しなかった。あの晩、文世は間違いなく私の底意を感じとった。だから二度も、どうするのかと念を押したのだ。私はそれを自分に都合のいいように解釈した。裏腹なことを言いながら。しかし、文世はもう私から離れられはしない。一時は腹を立てても結局は戻ってくるだろう。
このところ、文世と一緒の夜が多かった。暫く冷却期間を置くことにしよう。その間に新しい仕事部屋をみつけ、「きまったよ」と知らせれば機嫌を直してくれるだろう。
七月三十一日
まだ文世は電話をかけてこない。このままにするつもりなのか。いささか心配になって電話をかけたが、二度とも留守であった。
八月三日
電話に母が出て、「きのう、九州へ出かけました」と言った。すぐには信じられなかった。嘘だと思った。
「九州? あのう……鹿児島へ行ったんですか」
「あ、ご存じなんですか。何ですか急に思い立って出かけて行きました」
嘘をついている声ではなかった。
「いつ頃、お帰りでしょうか」自分でも声が顫え気味になっているのが判った。声ばかりでなく、体じゅうが顫えてきた。
「さあ、何も申していませんでした。いずれ向こうから連絡があると思いますけど」
「飛行機でいらっしゃったんですか」
「いえ、鉄道でございます。あれは高い処が嫌いなものですから」
余計、打ちのめされた思いだった。鹿児島まで長い時間をかけてトコトコ行く――文世はよくよくの決心だったに違いない。
いつ電話を切ったか覚えていなかった。暫く呆然としていた。あれからたった一週間しか経っていない。たった一週間で文世は心変わりしてしまったのか。だが、逢いそめてから一週間連絡をしなかったのは、今度がはじめてであった。取り返しのつかない一週間であった。きのうの夜行で発ったたら、今時分、鹿児島の男に会っている。もうその胸に抱かれているかも知れない。
――誰のせいでもない。恨むなら手前自身を恨め。
一度、掟を破って文世を自殺未遂にまで追いこんだにもかかわらず、あの晩、私は性懲りもなくまた夜の掟を破ろうとした。しかもその前に竹芝桟橋で、親ばかぶりを見せつけた。父親に棄てられた文世にとっては、船の上と下で手を振り合った私たち父子の姿は堪えがたいものだったに違いない。
――やっぱりいいお父さまなんですね。
私は日頃、文世の前でも、妻子のために生きているのじゃない、と嘯いていたが、それが口先だけであることを見抜いてしまったのだ。君のお父さんが羨ましいと私は言った。恐らく文世は、私に自分の父親と同じ決断を期待していたのだろう。本当に私を愛しているなら妻子を棄てられるはずだ――と。そして、私に見切りをつけたとき、初恋の男が再び心によみがえってきたに違いない。
――箱根で鹿児島から電話があったと聞いたとき、もっとダメ押ししておけばよかった。いや、諦めるのはまだ早い。長い汽車旅の間に思い直して、途中で引き返してくるかも知れない。ひょっとしたら今頃、上りの特急に乗りかえているのではなかろうか。
この前、夜をともにしたのは七月二十二日――十日前である。文世は鹿児島の男を心底から愛しているのではない、と思った。愛しているなら、たった十日前に妻子ある男と交わった躰でどうして逢えよう。逢えば自分ばかりでなく、相手の男も侮辱したことになる。それとも口を拭い、シラを切り通すつもりなのか。たとえ相手はごまかせても、自分には嘘はつけない。だませない。
――お前は平気でそれをやっているじゃないか。お前も心底からあの娘を愛していなかった。だから平気で出来たんだろう。ざまあ見ろ、ばちが当たったんだ。天罰覿面(てきめん)とはこのことだ。
夕方、知子のアパートヘ行くと、
「どうしたの、まだあの人と連絡がつかないの」
台所から手を拭きながら出てきた。
「鹿児島へ行っちまったよ」
「嘘」知子が笑った。
「嘘を言ったって、はじまらないだろ」
知子の目を避け、自動車の玩具を走らせていた駿吉を胡坐の中に抱き入れた。
「ボク、今夜はパパと一緒に寝ようか」
真ン前にペタリと坐った知子が念を押した。
「ね、本当なの? 本当に鹿児島へ行ったの」
「いつ帰るか判らないそうだ。このまま帰らないかも知れないな」
膝の中で駿吉が訊いた。
「だれが帰らないの」
八月六日
文世はまだ帰ってこないらしい。帰りに佐賀の実家に寄ってくるかも知れないと母親は言った。
だが、佐賀にはもう誰もいないと、いつか文世は言った。
八月八日
まだ帰らない。もう一週間になる。このところ、仕事が手につかない。
八月十日
あす帰るという連絡があったそうだ。帰ってきたら何と言って弁明する気なのだろう。
八月十二日
まだ帰ってこない。何かあったのだろうか。まさかこのまま鹿児島に住みつくわけではないだろう。暑さがひどくこたえる。毎晩、眠りが浅い。寝言ばかり言っていると知子に言われた。
八月十四日
まだ連絡なし。帰ってきたら何もきかずに迎えてやろう。
八月十五日
連絡なし。……頼む、早く帰ってきてくれ。

(了)