夜々に掟を(2) 印刷

夜々に掟を

十〜十五

 

【十】

一月九日
志郎が婚約者の安藤富子を連れて、新年の挨拶にやって来た。二人は来月初め、高梨の勤めている品川のホテルで式を挙げる。
志郎は戸籍上、真紀子の弟になっている。妻と結婚したとき、彼は小学一年生だった。私は結婚と同時に彼を引き取りたいと真紀子の父親に申し入れたが、「あの子まで連れて行かないでくれ」と断わられて、内心吻としたのを覚えている。
それから二年後に義父は病死し、以後、志郎は義母の手一つで育てられた。志郎の実父と真紀子は従兄妹同士だが、幸い、志郎には何の影響もなく、心身ともに健やかに成長したのは、義母の慈愛のおかげである。
職場で恋仲になった婚約者の富子は群馬県生まれで言葉遣いこそやや粗いが、よく肥えた、見るからに健康そうな娘である。齢は志郎より一つ下で二十五歳。志郎はいまだに自分の出生の秘密を知らないので、私を義兄さんと呼んでいるが、妻が産んだ子供なのだから、私の子供同様である。私は、その義理の子の結婚相手と同い齢の女を恋人にしているわけだ。
夕食は志郎たちと一緒に家族全員ですき焼き。食卓を囲んだ志郎、準、章の顔を改めて眺め、俺が死んでも男の子が三人いるのだから真紀子が暮らしに困ることはあるまい、と胸で呟いた。
もっとも、準たちも志郎が異父兄とは知らない。知ったら、かなりのショックを受けるだろう。しかし、それよりも私が心配なのは、駿吉の存在を知ったときのことである。異父兄ばかりでなく、異母弟までいたとなれば、目を廻すに違いない。
結婚前に不義の子を産んだ母親、結婚後よそに子供をつくった父親――準たちは、何という両親だろうと、さぞかしおのが血を呪うことだろう。
いずれ、そのときが来る。いや、目の前に迫っている。
昨夜は子供たちが遅くまで起きていたので、妻は“未亡人”の件をそれほど詮索しなかった。
「あした、ゆっくり聞くわ」と打ち切ってくれたので、どうにかシラを切り通すことが出来たし、今夜も志郎たちが泊まってゆくので、また危機を回避てきそうだ。昨夜、もし妻の追及が急だったら、私は知子のことばかりでなく、文世との関係まで白状させられていたかも知れない。
一月十二日
文世があす、『シリーズ人生』の取材で北陸へ出かけることになった。
山代温泉の端(はず)れに、夫が四十六歳、妻が六十七歳の夫婦が住んでいる。四十年前、夫は幼稚園児、妻はその保母であった。かつて、鼻をかんでやったり、手洗いに連れて行ってやったりした園児と結婚したこの年上妻に、夫婦の歴史を語らせようというねらいである。
夫が二十歳くらい年上の夫婦はさして珍しくない。早い話が、私が文世と再婚したとしても周囲はそれほど驚くまい。が、妻が二十歳も年上というのは、やはり珍しいケースである。私も興味をそそられた。出来たら、じかに取材してみたい。いや、正直に言えば、取材にかこつけて、文世と一緒に旅行したかった。北陸へは十年ほど前に一度行ったきりである。雪の降る北国の温泉宿で炬燵にあたりながら何日か過ごせば、文世の心はさらに一層私に寄り添ってくるに違いない。何とか一緒に出かける手はないものだろうか――。
一月十三日
羽田空港のコーヒーショップで文世に知恵を授けた。
「あした、旅館から編集部に電話して、とても一人では手に負えないから津田さんに応援を頼んでほしい、と言ってごらん」
「巧くゆくでしょうか」
「大丈夫、僕もそれとなく編集部に謎をかけておくよ」
小さく頷いてから文世がそっともらした。
「暫くお目にかかれないんですね」
「きっと、あさってには会えるよ」
卓のかげで手を握ると、強く握り返してきた。
別れるとき、旧著を一冊渡す。妻と結婚するまでのいきさつを書いた長篇である。文世は前から私の小説を読みたがっていた。おととい、仕事部屋に泊まったときにも、「もしおいやでなかったら、奥さまのことをもっと聞かせてください」と言い出した。関係が深まると女はきまって妻のことを識りたがる。だが、私と妻が幼な馴染みで初恋同士だったことを識ると、大抵の女が戦意を喪った。文世に渡した小説は、書評で、甘ったるい夫婦純愛物語だとけなされた。文世がどんな反応を見せるか、私にとっては一種の賭けでもあった。
夕方、文世から、無事に着いたという電話が仕事部屋にかかった。宿屋の名前と電話番号を告げてから、「紅がら格子の、とっても古い宿屋さんなんです」と、いくらか顫えを帯びた声で文世はつけ加えた。
「どうしたの? 声が少し変だよ」
「私、身体の顫えがとまらないんです」
「そんなに寒いの? その旅館、暖房完備じゃないの?」
「そうじゃないんです。いま、小説を読み終えましたの、あれは、みんな本当のことなんですか」
咄嗟に返事が出来なかった。
「あんまり、なまなましくて……私、怕くて……」
「読ませなければよかったな。とにかく、そっちへ行くよ。編集部に頼まれなくても、何とか都合をつけて必ず行く」
「いいえ、ご無理なさらないでください。辛抱できますから」
「僕のほうが辛抱できそうもないんだ」
そのくせ、私は夜遅く知子のアパートヘ行き、久し振りのせいか、いつにない昂ぶりを見せる知子とともに昇りつめてしまった。
一月十四日
予想どおり、シリーズ担当の編集者田所君が、「取材の応援に北陸まで行っていただけませんでしょうか」と電話で言ってきたとき、
「北陸へ? 寒いところは苦手だな」
私はわざと億劫そうな声で答え、
「それに僕が行ったら園池君が身の危険を感じるんじゃないかな」
冗談めかして、さぐりを入れてみた。
「いや、その点は大丈夫です。彼女、見かけはひ弱そうですが、あれで芯はなかなかしっかりしていますから」
受話器を握ったまま思わず苦笑した。
夕方、鎌倉の家に帰る。準が、二つの私大に願書を出したと告げた。「そうか、ま、しっかりやれ」それだけしか言わない私に、拍子抜けしたような表情であった。夜、妻を抱く。どういうわけか、妻はあれ以来、未亡人の件を追及しない。いささか気味が悪いが、多分、私とは逆に、夫のことより、準の受験のほうが心配なのだろう。
一月十五日
田所君に見送られて午後一時発の飛行機に乗る。豊橋上空で大きく右へ旋回、間もなく雪をかぶった飛騨の山々が眼下にひろがる。
小松空港まで迎えに来てくれた文世と安宅の関跡や実盛の首洗い池を見て廻る間、タクシーの中でもその手を握りつづけた。東京を遠くはなれ、だれの目も気がねする必要がないせいだろう、文世もぴたっと肩を寄せてきた。
期待に反して、関跡は、松林の中に義経や弁慶の像が建っているだけだったし、首洗い池も、見るかげもない枯れた小さな蓮池であった。そのなかに建っている『むざんやな兜の下のきりぎりす』という芭蕉の句碑も、曇天のせいか、よけい寒々と見えた。
柴山潟に向かう道路の両側に、赤い印のついた棒がほぼ五十メートルおきぐらいに立っている。運転手に訊くと、
「雪が降ったときの目印なんですが、今年は十数年ぶりに雪のない正月で、われわれの商売にとっても大助かりです」
そう言ってスピードをあげた。
宿は文世が言ったとおり、古風な白い麻のれんの下がった老舗であった。「別の部屋をとっておいた」と文世は言ったが、玄関に迎えに出た白髪まじりの上品な顔立ちの番頭が、
「誠に恐れ入りますが、お部屋を一つにしていただけませんでしょうか。本日は祭日で急にお客さまが……」
と、低頭した。
「そのほうがこっちも好都合だ」
わざと明るく答え、傍で脅えたような表情の文世に囁いた。
「請求書を別々にして貰えば、バレやしないよ」
部屋は内庭に面した二階の次の間付きで、襖(ふすま)の色もしっとりと落ち着いた紺地だった。お茶を運んできた五十前後の、ちょっと愁い顔の女中が去るのを待ちかねて文世の体を抱き締めた。私の腕の中で喘ぎながら、
「ほんとうに、いらっしゃったんですね」
文世が目を潤ませた。
夜、早々に牀に入り、お互いの秘部に顔を埋めた。ときどき口を休めて窺うと、私の右腿を枕にして、目を閉じながら根元から尖端までゆっくりと唇で辿っている文世の顔が、闇になれた目に映った。目を戻して、眼前のいくらかしめり気を帯びた繁みを掌で愛撫しているうちに、ふっくらとした丘の頂きに、小さな黒点を一つ見つけた。指先でそっとこすったが、落ちなかった。明らかに黒子だった。
私にも性器の中ほどに一つの黒子がある。文世はもう気づいただろうか。文世の黒子に唇を寄せながら、感動めいたものがゆっくり体中にひろがってゆくのを覚えた。
――この黒子は子供の頃からのものなのだろうか。それとも大人になってから出来たのか。
もし発毛後のものなら、母親も知らないはずである。いや、ひょっとすると文世自身も気づいていないかも知れない。知っているのはこの私だけ――繁みに頬を押しつけながら、
――誰にも、俺以外の誰にも見せたくない。いや、見せさせるものか。
同時に、堪えきれず、文世の口のなかで果てた。文世は短く呻き、しかし、すべてを飲み干したあとも唇をはなそうとしなかった。
一月十六日
朝、町端れの取材先へ出かけたが、応対に出た六十七歳の小柄な妻は文世を見ると、
「まあ、また、いらっしゃったんですか」
呆れたように言って奥へ引っこみ、代わって出てきた四十六歳の夫も、
「今更、週刊誌のタネになりたくありません」
と、きっぱり言った。そして、いくら頼んでも私たちを玄関から上げようとしなかった。ちょうどそのとき、音を立てて大粒の雹(ひょう)が降りはじめた。私はその雹に望みを繋いだ。外に立った私たちを見かねて、なかに入りなさいと言ってくれるだろう――と。入ってしまえば、何とか口説き落とす自信があった。しかし、式台に立った齢より老けて見える夫は、私たちを見降ろして、ひと言も言わない。諦めて玄関の戸をしめた。幸い、雹は四、五分でやみ、金米糖をばらまいたような道を私たちは仕方なく引き返した。
「おとといも昨日も、炬燵の中で世間話をしてくれたんですけど」
文世は白い息とともに溜息をついた。
「なまじ僕が一緒に行ったので、態度を硬化させてしまったのかな」
しかし、断わられてむしろ私は吻とした。もし相手が取材に応じたら、それに時間をとられて文世と二人だけの時間が減ってしまう。編集部にも、「来週号に載せたいので、あす中に取材が終わったらすぐ引き返してきてくれ」と念を押されていた。
文世が二日間にわたって夫婦から聞き出した話によると、敗戦の翌年、南方から大阪に復員した男は、空襲で肉親が全滅したことを知ると、その足でこの町に疎開していた昔の保母を訪ねあて、二人は半年後に結婚したという。そのいきさつを文世に語ったとき、彼は台所にいる妻に聞こえないように一段と声を落としてこうつけ加えたそうである。
「保母時代の妻はほんとうに優しくて、いわば私が最初に憧れた女性なんです」
私にも似たような経験がある。復員後、母の次に私が会いたかったのは初体験の相手――真紀子の叔母であった。数え十六の夏、私は十九も年上の叔母の誘惑に負けて過失を犯した。芸者上がりの彼女は、その前年に私と真紀子が指切りをしたことを承知の上で私を誘い、事のあと風呂場で私の体を丹念に洗いながら、「心配しなくていいわよ、真紀子には内緒にしておくから」と囁いた。私がその後丸四年間も真紀子に会わなかったのは、そのためであった。そしてその間に真紀子は志郎を産み、それと前後して入隊通知を受け取った私は、再び叔母と過ちを犯し、以後、入隊までの三カ月間、三日にあげず彼女の家に入りびたって愛欲にただれた日を重ねた。「もう、あんたには教えることがなくなったわ」と彼女が言ったのは入隊を二日後に控えた夜で、私ももうこれで思い遺すことはない、と思った。しかし、生き延びて内地に帰還した途端、彼女に教えこまれた官能の歓びが火を噴いたように全身によみがえり、闇成金の囲い者になっている叔母の家へ私はそっと忍んで行った。もしあのとき、彼女の旦那が居合わせなかったら、私はいまと違った人生を辿っていたろう。
山代駅前の喫茶店で、ストーブに手をかざしながら文世が言った。
「齢をとると、どんな組み合わせもおかしくなくなるんですね」
たしかに私の目にも、小柄ながら福々しい顔をした年上妻と、痩せて額がすっかり抜け上がった夫とは似合いの夫婦に見えた。齢の開きが少しも感じられなかった。
――あの男も保母さんを捜し当てたとき、戦死しないでよかったと思ったのだろうか。
だが、それから今日までの二十余年間、その気持ちを持ちつづけてきたとはとても信じられない。結婚三、四年で妻はもう五十代――色艶を失ったその肌を見るたびに、二十歳も年下の夫は、下唇を噛みしめたのではあるまいか。妻のほうも、息子のような夫に、人の二倍も三倍もの気を遣って、神経の休まる暇がなかっただろう。
私の叔父も十歳も年上の女と一緒になったが、叔母は生涯叔父の浮気に悩まされつづけ、「これでやっと焼き餅から解放されるわ」というのが死ぬ前の日の言葉だったと、後で母から聞かされたのを覚えている。私自身も小学生の頃、叔父の家に泊まった翌朝、叔父が寝床の中で叔母に歯まで磨いて貰っているのを見て、びっくりした記憶がある。叔父が起き上がると、叔母はパンツをはかせ、襦袢(じゅばん)や着物を着せかけ、後ろへ廻って帯を結び終えると再び足許に跼(しゃが)んで足袋まではかせた。その間叔父は突っ立ったまま煙草を咥え、叔母の髪に灰が落ちても知らん顔をしていた。そして叔母が死ぬと、それを待っていたように叔父は十五も年下の女を家に引き入れた。
「僕はさっきの夫婦が取材に応じてくれたとしても、編集部が期待しているような夫婦愛物語にはならなかったと思うな」
「でも、何といっても二十年以上も連れ添ってきたのですから、どちらも並々ならぬ愛情だったんだと思いますわ。私、二日間、あのお宅にお邪魔して、あのご主人がいまでも奥さまを愛していらっしゃるのを、言葉のはしばしからはっきりと感じましたの」
「するとあの奥さんは、日本一幸せな奥さんかも知れないね」
ちょっと間を置いてから文世がつけ加えた。
「津田さんも本当に奥さまを愛していらっしゃるんですね。小説を読んでよくわかりましたわ」
否定も肯定も出来なかった。文世も私に否定して貰いたくて言い出したのではないようであった。
宿に戻って編集部に電話を入れた。
「きょうの感触じゃ期待薄だけど、もう一、二回アタックしてみる。しかし、アテにはしないでくれ」
「判りました。来週号には他のものを入れますが、せいぜい頑張ってみてください」
田所君の返事をそのまま文世に伝えて、
「これであと二日はこっちに居られるぞ」
片目をつぶってみせると、
「悪い方」
そう言いながら文世の目も笑っていた。
夜更け、他の客がいないのを確かめてから、文世と一緒に大風呂に入る。私の前ではもう裸身を羞しがらなくなった。
一月十七日
昼間、永平寺見物。狭い入口で脱いだ靴をビニール袋に入れて持ち、案内僧に言われた通り広間に行くと、百人ぐらいの観光客がきちんと正座していた。間もなく中年の雲水が現われ、寺の縁起や見学心得を喋り出したが、その口調がひどく横柄なので、文世を促して席を立ち、勝手に寺院内を見て廻る。建物そのものより、廻廊の窓からのぞいた雪化粧の杉木立ちが美しい。斜面に建っているので、奥の法堂まで登ったときはちょっと息が切れた。
昨夜も私たちは二時間余もお互いの体をむさぼり合った。こちらに発つ前夜は妻、その前の晩は知子、さらにその前夜は文世……連続五日なのだから息切れするのも当然か。
外へ出ると粉雪が降りはじめた。勅使門へ通じる石段の下で、文世をカメラに納めていると、
「かわいこちゃんなんか連れちゃって、うまくやってるぜ」という声が飛んできた。いずれも一杯機嫌の十人ばかりの団体客が、ニヤニヤしながら私たちを眺めていた。文世が外套の襟に頤(あご)をうずめて、雪の中を足早に歩き出した。私は団体客に向かってわざと笑いながら片手をあげ、文世の後ろ姿にまたシャッターを切った。こんな場合、照れると団体客は余計図に乗ってくる。案の定、もう揶揄は飛んでこなかった。
金沢駅前から乗ったバスが終点・湯涌(ゆわく)温泉のホテル前に着いたのは午後四時すぎ、乗客は途中で全部降り、残っていたのは私たちだけであった。降りるとき、運転手が「ごゆっくり、どうぞ」と愛想のよい声を背中に送ってきた。
丘の頂きにあるこのホテルは、地元の富豪が金にあかして建てたもので、戦後はずっと進駐軍に接収されていたと聞く。私が神戸の姉とはじめてここに泊まったのは、接収が解除されて間もない頃であった。そのときは洋間だったが、今度は谷に面した和室に通された。雪におおわれた斜面の底に小さな池があって、樹間からその青黒い水面がのぞいている。文世は丹前に着替えたあとも、まだ廊下のガラス戸越しに谷を眺めていた。この温泉は、東京ではあまり知られていない。躾(しつけ)のよい女中に訊くと、やはり関西からの客が大半のようであった。女中が去ったあと、
「どうしてこんなところをご存じなんですか」
文世が不審そうに訊いた。
「姉と金沢見物に来たとき、偶然知ったんだ」
それでも訝(いぶか)しげな表情だったので、
「本当に姉と来たんだよ」
文世がフフッと笑い、
「仲がいいご姉弟なんですね」
しかし、それはけっして皮肉ではなく、むしろ羨ましそうな口調だった。文世も齢のわりには随分旅行しているらしく、よく旅先でのエピソードを話してくれた。が、その殆どが友だちとで、話に肉親が登場したことは一度もなかった。
ホテルにはさまざまに趣向を凝らした風呂があって、香水風呂、春雨風呂などという名が付けてある。夕食後、その一つの噴流風呂に入ると、渦を巻く湯の中で文世は悲鳴のような歓声を挙げた。もう、前も隠そうとせず、子供のようにはしゃいで何度も湯舟を出たり入ったりした。ホテルに着くまで、「本当に編集部に連絡しなくてよろしいんですか」と心配していたが、ようやく取材旅行を忘れたようであった。
一月十八日
ホテル前の小丘にある江戸村を見物する。前田家の家老屋敷、金沢の町家、北国路の本陣などをそのまま移築した家々の庇(ひさし)から絶え間なく雪どけ水が滴り落ち、それが陽に光るさまが、建物そのものより私の目を奪った。建物の内部をひと通り見てから、敷地の一隅に立って雪の中の村全体を眺め渡すと、いまにも丁髷(ちょんまげ)姿の侍が建物から出てきそうな感じであった。
午後、金沢に戻り、兼六園の池畔の茶屋で抹茶を飲む。水面をぼんやり眺めていると、「おうちのことを思い出していらっしゃるんですか」悪戯っぽい口調で文世が訊いた。
「ああ」と私は答えた。「このまま君と蒸発してしまったら、家族はどうするかと思って……」
「あれあれ、蒸発しない前からそんなことを考えるようでは、とても実行できませんね」
「そうかも知れない。でも、半分は本気なんだよ。あの番頭さんのことを考えれば、どこへ行ったって生きていかれるんだから……」
文世の顔から笑いが消えた。山代温泉の、あの品のよい番頭と部屋の係だった愁い顔の女中が駆落ち者であることを知ったのは、宿を発つちょっと前であった。勘定書を持ってきた別の若い女中がそれを教えてくれた。「今日は暇なんで二人とも休みをとった」と言い、「そりゃ仲がいいんですよ、私たち、いつもあてられっぱなし。あの番頭さん、前は大阪の大きな会杜の部長さんだったそうです」と、こちらが聞かぬことまで説明した。
「東京へ帰りたくないな」
目を池に戻しながら呟くと、
「私も」と文世は言い、そっと溜息をついた。
「僕はこの齢だから、あと四、五年君と一緒に暮らすことが出来れば、どこで朽ち果てようと後悔しないけど、その頃、君はやっと三十……やっぱり無理だね」
「私、自分でも不思議なんです」
「何が?」
「よく女は自分の花嫁姿を夢みると言いますでしょ。でも私は一度もそんな夢を描いたことがないんです」
「嘘。鹿児島の彼と結婚するつもりだったじゃないか」
「結婚を考えたことは確かですが、花嫁衣裳を着た結婚式のことは一度も考えませんでしたの。どういうわけか……」
「形式なぞどうでもよかったんだね」
膝の上のハンカチをハンドバッグに蔵(しま)いながら文世が呟くように言った。
「意地の悪いことをおっしゃるんですね」
小松空港から家に電話をかけてもう一泊すると告げる。夜七時羽田着。原宿の旅館に行く。東京で泊まるくらいたら、湯涌にもう一泊すればよかったのだが、あすの飛行機が満席だったのだ。
夜更け、隣の部屋から女の悲鳴と泣き声が聞こえてきたとき、「喧嘩でもしているのでしょうか」と文世が眉をひそめた。
「ばかだな、違うよ」
「でも、あんなに」
「いまに君もああいう声を出すようになるんだよ」
「どうしてですか」
「さあ、どうしてでしょう」
隣室の悲鳴が一段と高く、そして長く尾を引いた。
「怕い」文世に獅噛みつかれ、それがまた私の官能に火をつけた。

【十一】

一月二十三日
文世が『シリーズ人生』のスタッフからはずされて、近く連載がはじまる『皇室物語』の取材へ廻された。明らかに北陸旅行の崇(たた)りである。取材が不首尾だったうえ、碌(ろく)に連絡もせず私と二日も三日も泊まって来たことが、担当キャップ玉木君の癇に触ったらしい。編集部内では、「旅先であの二人はデキた」という噂がもっぱらだそうである。
すべては私のせい――だが、当の文世も私も、この措置に吻としていた。北陸へ出かける前から文世は、「みなさんの前で、よそよそしく振舞うのがつらいんです」ともらしていた。私も、彼女のデータ原稿を冷静に扱う自信を失っていた。それに同じ仕事に携わっていると、二人だけのときもつい仕事の話が多くなる。会っているときだけは、仕事を忘れた二人になりたかった。
新連載の『皇室物語』は、かつて売れッ子作家だった吾妻慎一が執筆ばかりでなく、取材も積極的にやるそうで、文世はきのう早速、吾妻さんと一緒に元侍従のところへ取材に行った。
「吾妻先生がインタピューなさっている間、私はおそばで先生に言われたことをメモするだけでいいんです。それに帰りは家の近くまで送ってくださいましたの」
文世は新しい仕事が気に入っているようだった。吾妻慎一の作品は若い頃私も愛読した。ひと口で言えば抒情派で、吾妻さんが師と仰ぐ河村正也氏の影響がきわめて濃い。小説の女主人公は殆どが清純可憐な娘であった。大袈裟に言うと、ひと頃はどの文芸雑誌の目次をひらいても吾妻慎一の名前が出ていた。雑誌に穴があきそうになると編集者は必ず吾妻慎一のところへ駆けこむ、すると註文どおりのストックを引出しから出してくる――そんな伝説さえあった。一、二年前、一人娘を嫁がせた「父親の哀歓」という文章に胸を摶たれた記憶がある。
「写真で見たんだけど、とても綺麗なお嬢さんだった。吾妻さん自身が美男子だから」
私が言うと、
「あら、先生はお相撲さんみたいに肥っていらっしゃいますよ。お酒と運動不足でこんなになっちゃったと、嘆いていらっしゃいましたわ」
文世の口調はいかにも親しげであった。
私も勤めをやめてから体重が七キロふえた。頤(あご)は二重になり、下腹も少し出てきた。林の中で妻や知子が私の腰を撫でながら、「本当に肉がついてきたわね」と、ときどき呆れたように言う。
三十代までは頬がこけ、肋骨もすっかり浮いて見えるほど痩せていたのだから、ちょうど人並みになったとも言えるが、自分でも体が重く、動作がにぶくなったことを感じている。白髪も上ばかりではない。先日も妻がみつけて大袈裟に嘆いていた。気がつくたびに抜いているが、これだけは文世にみつけられたくない。やっぱり、過ぎるのだろうか。
一月二十六日
文世は昨日、取材の帰りに吾妻さんの家に寄り、著書を五冊いただいたという。吾妻慎一は文世に気がある、と直感した。が、口には出さなかった。言えば、気を廻しすぎる、と笑われかねないからだ。しかし、吾妻慎一の作品から推して、文世が吾妻さん好みの娘であることは間違いない。いや、文世のよさは中年にならなければ判らない。「奥さまも歓迎してくださった」と文世は言うから、あるいは吾妻夫婦は、嫁にやった娘さんのかわりを文世に求めたのかも知れないが……。
このところ、徹夜仕事が多く、文世と泊まりに行くことが出来ない。知子にもご無沙汰している。それが嫉妬を生むのだろうか。夕方、仕事部屋に来た文世は、私があすの朝までの仕事に追われているのを知ると、「私も今夜は先生の小説を読まなくては」と言い残してすぐ帰って行った。
二月一日
久し振りに紺ダブルの背広を着、黒の革靴を履いて家を出る。この六日は志郎の結婚式、それまで家に戻れないからである。
東京駅で文世と落ち合い、下田行きの急行に乗る。車中、文世が、きのうも吾妻さんの家に寄ったと言うので、冗談めかして警告した。
「そのうち、きっと口説かれるよ」
「まさか」と文世は笑った。「いつも奥さまとお喋りするほうが多いんですよ」
「それが手かも知れないよ。まず、安心させておいて……」
「まだ私が信じられませんの」
小田原を過ぎて、車窓から冬の海に見入っていた文世が、「その後、おうちのほう、どうなさいました?」と、窓ガラスの汚れをチリ紙でこすりながら訊いた。
「君が言うなと言うから、まだ打ち明けていない」
「そうですね、そのほうがいいですね」
その口調から心の底では逆のことを望んでいるのを感じた。結ばれてから丸一カ月以上の日がたち、特に北陸旅行では体の歓びも深まったはずである。やはり私の家庭を、妻を、意識せざるを得なくなってきたのだろう。ときどき、「お訊きしてもよろしいですか」と前置きして、私の過去の情事を聞きたがるようにもなった。私も知子母子のことを白状する時期が近づいているのを感じている。
午後四時、弓ケ浜の国民休暇村着。夕方の浜辺を散歩する。去年の十月にここに来たとき、「春になったらもう一度来よう」と知子に約束した。あのときは文世をここに連れてくることなぞ、夢にも考えなかった。しかし、三日前、文世と一泊旅行に出かける話がきまったとき、弓ケ浜へ行こうと真ッ先に想った。知子に対して後ろめたさを覚えなかったわけではない。が、それよりも、あの美しい浜辺をこの娘にも見せてやりたい、という思いのほうが強かった。
風は殆どなく、浜辺はうそのように暖かかった。夕陽を半身に浴びて海に見蕩れている文世の後ろ姿を、五、六歩はなれたところから眺めながら、やっぱり連れてきてよかった、と思った。この浜には文世こそがふさわしいとさえ思った。
夜、娯楽室へ行くと、ジュークボックスの音楽に合わせて何組かの男女が踊っていた。若やいだ気持ちになって文世と手を組んだが、二、三歩足を動かしただけでやめてしまった。やはり照れ臭い。一組、素人ばなれした見事な動きを見せるカップルがいた。男は二十七、八、女は二十前後。頬を寄せて、どちらも陶酔した顔である。若さが羨ましかった。
二月二日
熱川の鰐(わに)園や植物園を見物する。崖の中腹にある巨大な温室で、数百種の睡蓮(すいれん)が華麗な花を競っている。あまり種類が多いので私は食傷気味になったが、文世は正方形に区切られた水槽の前にいちいち立ちどまり、何度も感嘆の声をもらした。
もう一泊したいが、懐ろが心細い。今週貰う稿料をあてにして、家からあまり持ってこなかったのだ。ちょっとためらってから文世に言うと、
「今夜の分は私に出させてください」
「いや、宿賃はあるんだ。足りなくなったら頼むよ」
文世も泊まりたがっているのが判って、湯ケ島の旅館に電話をかける声が思わず弾んだ。
湯ケ島のS荘は家の造りも調度品もすべて民芸調で、番頭は昔ながらの袢纏(はんてん)姿、女中はみんな絣の着物を着ている。
「ここへはどなたといらっしゃったのですか」
「神戸の義兄と釣りに来たんだ。ほら、そこの川へ」
旅館の真下を流れる猫越川でかじかを釣った話をすると、
「奥さまとは旅行なさらないんですか」
「いや、去年はあっちこっちへ行ったよ」
言ってから自分の口をつねりたくなった。
夕食前、文世とピンポンをやる。きのうのダンスと違って、二人きりだ、よし、と丹前の袖をまくり上げたまではよかったのだが、文世に打ちこまれて忽ち息を切らした。
「やっぱり年寄りの冷や水だね」
壁際の椅子に腰を落として喘いでいると、文世がハンカチで額の汗を拭いてくれた。
夜、腰枕をあてがって一つになり、私は内部の蠕動(ぜんどう)を味わった。私の囁きにうながされて、繋がったところへ指先をのばした文世は、それがさらに刺戟になったのだろう、短い声を発して私の腰を強く抱き締めた。だが、堪えがたくなった私がそれを告げると、一瞬、動きをとめ、「どこへ?」と訊き返した。まるで笑い話みたいなその質問が、ブレーキの役目を果たした。
「どうなさったのですか」
躰をはがして隣に横たわった私におずおずと訊く。
「君は本当に何も知らないんだね」
「ご免なさい」
「だからますます君が好きになるんだ」
一時間後、今度は怺(こら)えきれずに、ついに文世の中で果てた。呼吸が元に戻るまで、文世は私の背を静かに撫でつづけた。ようやく顔を起こすと、文世の目尻が濡れていた。
二月三日
修善寺に行くたびに寄る喫茶店が虎渓橋のすぐそばにある。奥の席に坐ると、窓の真下が桂川で、その川面に旅館の湯煙が立ち迷うさまがみえる。が、何よりもコーヒーが旨い。昼すぎ、桂川の瀬音を聞きながら、この店で淹れ立てのコーヒーを飲んだとき、持ち越した昨夜の疲れと湯疲れが、いくらかほぐれたような気がした。家にいるとき、私は朝風呂に入り、妻に湯殿までコーヒーを運ばせて、湯舟につかりながら飲む。それではっきり目が醒める。文世にコーヒーを持ってこさせる日が、いつか来るのだろうか。
修禅寺境内はちょうど梅が咲きはじめていた。古木の前に文世を立たせて写真を撮る。京都と北陸で写した文世の写真はもう四十葉近くになる。写真屋から出来てくるたびに見せるのだが、文世は一葉もほしがらない。不思議なくらい自分の写真に冷淡である。私の写真もほしがらない。これは物足りない。
修善寺駅で切符を買ったあと、発車まで三十分ほどあったので、修善寺大橋まで戻り、狩野川の河原へ降りてみた。去年の春、妻とここにやまべを釣りに来た。なぜ私は他の人と来たところにばかり文世を連れてくるのだろう。土地カンのある処のほうが安心して連れて歩けるからか。知ったかぶりをしたいのか。それとも、「ここへはどなたと……」と、焼き餅をやかせてみたいのだろうか。
二月五日
朝十時前にタクシーで動坂まで行き、文世の家に赤電話をかける。千駄木と聞いているだけで番地を知らなかった。バス停前の喫茶店で待っていると、十分もしないうちに息をきらせて駆けつけてきた。カーディガン姿だった。
「何かあったのですか、急にこんなところまでいらっしゃって」
「きのう稿料が入ったんで、お金を返しにきたんだ。いや、それは口実で顔が見たくなったのさ」
椅子に腰かけ直してから文世が言った。
「よろしかったら、家にいらっしゃいませんか」
思いがけない誘いだった。
「誰もおりませんの」
どんな家に住んで、どんな生活をしているのか、ちょっと覗いてみたかったが、家族の留守を幸いにノコノコ上がりこんでは、あまりにも図々しすぎる。
「またにするよ。きょう取材がないなら、これからどこかへ行こう」
「じゃあ、ここで待っていてくださいますか、すぐ着替えてきますから」
コーヒーをひと口飲んだだけで店を出て行った。口では誘ったものの、文世にも本気で家へ連れてゆく気はなかったらしい。
「ほかの小説も読ませていただけますか」遠慮がちに文世が言い出したのは、一時間後、六義園の池畔のベンチに腰かけているときであった。
「読んで貰いたいけど、古いものばかりだから」
「最近は小説をお書きにならないんですか」
「書き方を忘れてしまったんだ」
文世が笑った。
「本当なんだよ。誤解がないように言い足せば、小説臭い小説はもう書くまいと自分に言いきかせているんだ。僕は体裁屋だから、小説の中でもなかなか裸になれないんだ。ザックバランに素話(すばなし)ができるようになるまで書くまいと思っているんだ」
師の大伴政雄先生にも、「文章を書くな」と戒められている。「文章に凝ったり、こだわったりしているうちは、本当の小説は書けない、小説の文章は橋渡しにすぎない、作者の言いたいことが読者に伝わったらそれでいい、それが本当の散文だ、名文を書こうと思うな、いつも使っている言葉で書け、喋るように書けばいいんだ、そのかわり、自分の感動したものしか書くな。作者が感動しないものをいくら書いたって、読者が感動するはずがない――」これが先生の持論であった。
たしかに自分の古い小説を読むと、文章を書いている箇所がかなりある。いかにも小説臭いところがあって、自分でも鼻につく。小説を書くという意識が働いていたからだろう。
「まずその意識を捨てることからはじめたんだ。イロハから出直しだ。途端に何も書けなくなった。何を書いても気に入らないんだ。文章にこだわらずに書いたつもりでも、読み返してみるとやっぱり文章が鼻につく。みんな削ってしまいたくなる。つまり、書き方を忘れてしまったんだ」
「それだけ進歩なさったんでしょ」
「臆病になったんだね。まだ裸になりきれないから、書きにくいところはつい文章でごまかす。結論として、書けないうちは無理して書くまいと思ったんだ。そのうちきっと書けるようになる。自分の言いたいことを、何でも気儘(きまま)に喋れるようになる。そうなるまで小説はお休みさ」
実を言うと、私が文世に言いたかったのは、もっと別のことであった。
伊豆旅行の間、文世は深沈とした目を何度か見せるようになった。湯ケ島の宿で私が愛を囁くたびに、「私も」とかならず囁き返すようにもなった。私はこれ以上、知子のことを隠しているのが辛くなった。裸になりたかった。それこそ何もかもザックバランに喋りたかった。
告白した結果、どうなるか。それは判らない。文世を失うかも知れない。いや、ここまでくれば大丈夫だろう――そんな自信がないこともなかった。
二月六日
新宿の旅館を出る前に文世に言った。
「あさっての夜、あけといてくれないか。話があるんだ」
ハッとしたように私を見上げ、
「何か大切なお話ですか」
おびえた声で聞き返した。頷くと、
「怕い」
そのくせ、表情は言葉とは裏腹に何かを期待しているようであった。明らかに誤解している。
違うんだ――口まで出かかった言葉を呑みこみ、この分ではよくよく気をつけて切り出さねばならないと、早くも気が重くなった。
しかし、遅かれ早かれ、打ち明けねばならない。文世の心を確かめるには、もってこいの材料である。
新宿駅で文世と別れ、知子のアパートに寄って新しいワイシャツに着替え、ネクタイを締めた。服にブラシをかけながら知子が言った。
「きょうの結婚式が無事にすめば、ママも長い間の肩の荷がおりるわね」
「あいつも来年の今頃は孫のお守りで夢中さ」
「あら、あなただってお祖父ちゃんになるのよ。もういい加減で女遊びもやめるのね。相手のひとだって可哀想よ」
「ばかを言え。俺と識り合って喜んでいるよ。近頃の若い男は頼りないからな。どうだ、こうやって、ダブルの背広をきちんと着れば俺も満更棄てたもんじゃないだろう」
「そのひと、どうするつもりなの? 一緒に暮らす気なの?」
「お前さえいなければ、とっくに同棲していただろうな」
「ママはどうするの? ママとも離婚する気なの?」
「うるさいな。まだそこまで考えちゃいないよ」
「そんなに私がいや?」
「そういう言い方がいやなんだ」
鏡越しにじっと見つめてきた知子の目を逸らし、わざと舌打ちした。妻に劣らず知子も辛抱強い。それをいいことに、私は気の向いたときしか可愛がってやらなかった。それでも知子は不平一つ言わなかった。が、近頃はその辛抱強さが鼻につく。女房は一人でたくさんだ、と思うことがある。この四年間、妻よりも知子と一緒にいる時間のほうが多かった。だから知子の女房気取りも無理はないとは思うのだが、いまの私には知子の気持ちを察してやる余裕なぞない。望みどおり子供を産ませ、毎月経済的にも面倒を見てやっているのだから、文句を言われる筋合いはない。文世と関係が出来てからは、たしかに回数は減っているが、飢えない程度に抱いてやり、その都度、満足させてやってもいる。それで充分じゃないか。
「お前はね、チビが怪我しないように気をつけていればいいんだ」
言い残してアパートを出た。
品川のホテルに行くと、フロントにいた高梨が待ちかねたように寄ってきた。
「皆さん、もう集まっているぜ。控え室は二階だ。そうだ、この間の写真、出来ているぜ。持ってこようか」
伊豆で撮った文世の写真の引き伸ばしを頼んであった。
「ばか、きょう持って帰れるわけがないだろ」
階段を登りかけたとき、裾模様を着た妻が降りてきた。
「ゆうべから仕事部屋にいなかったじゃない。未亡人とやらと、どこへしけこんでいたのよ」
「よせ、こんなところで」
結婚式が終わってロビーに戻ると、受付のところに準と久子が坐っていた。机の上のご祝儀袋を見せながら、「かなり集まったよ」と準が笑う。久子はピンクのワンピースの胸を大きな薔薇の花で飾っている。あと五、六年たてば、今度はこの二人の結婚式だが、もし文世と一緒になったら、私はその式に呼んでは貰えないだろう。
立ち喰いパーティ形式の披露宴は出席者約七十人。会場の隅で妻が女学校時代からの親友三人に囲まれていた。三人とも志郎の出生の秘密を知っている。そばによると、「真あちゃん、よかったねえ」と口々に言う彼女たちの祝福の言葉が聞こえた。その沁々(しみじみ)とした響きに私もちょっと胸がつまった。
仲人の挨拶がすんで新郎新婦がお色直しに席を立ったあとを、章がギターを弾いて場をつなぐ。義母が隅の椅子に腰かけて、しきりに鼻をかんでいる。間もなく洋服に着替えた新郎新婦が拍手に迎えられて戻ってきた。二人は今夜このホテルに泊まり、あす紀州めぐりに旅立つ。二十年前、母を連れて行った自分の新婚旅行を思い出す。「もう出来ているくせに新婚旅行だって? 行くなら私も連れて行っておくれ」母にわめかれたとき、私は一蹴することが出来なかった。母親同伴の新婚旅行なぞ、ちょっと例がないだろう。ふと隅を見ると義母の隣で妻もハンカチを目にあてていた。そばによって、「よせ、みっともないぞ」と小声で叱った。
二月七日
十時すぎに牀を離れようとしたところに妻がやってきて、枕許にきちんと膝を揃え、畳に両手をついた。
「きのうはどうも有難うございました。おかげさまで志郎も結婚することが出来ました」
結婚二十年間、妻からこんな挨拶をされたのは、はじめてであった。
「ばか、よせよ、お前らしくもない」
妻も照れ臭そうに笑って、
「さっき、志郎から電話があったの。これから新婚旅行に出発しますって。私、お昼から実家へちょっと行ってきたいんだけど」
「ああ、行っておいで。おばあちゃん、一人で寂しがっているだろう。これからはお前もちょいちょい行けなくなるな」
幸い、義母は体が丈夫で、家に泊まりがけで遊びにきても、少しもじっとしておらず、掃除や洗濯はいまだに妻より手際がよい。一人娘の妻は我儘一杯に育った。だから、私と結婚するとき、殆どの親戚が半年ともつまいと噂した。事実、母の嫁いびりは、これが俺の実の母かと私が憤りを通りこして哀しくなるくらいひどかった。「うちの息子は二本棒で、瘤つき女を嫁にもらった」
と、母は何も知らない隣近所にまで触れ歩いた。
「いびられるのは覚悟してきたけど、志郎のことを言われるのが何よりも辛い」
と、妻もよく割烹着の裾で涙を拭いていた。
そんな妻を持ちながら、私は外に子供をつくってしまった。知子に哀願されたとはいえ、産むことを認めてしまったのだから、責任はあくまでも私にある。駿吉のために長生きしてやろうとは思わないが、後年、「父親に可愛がられた」という記憶だけは残してやりたい。その記憶さえあれば駿吉も、逆境に堪えていけるだろう。それともこれは私の身勝手な願いだろうか。自己弁護にすぎないかも知れない。
午後、文世の家に電話をかける。母親が出て、つい十分ほど前に出かけたと告げた。
「仕事ですか」
「さあ、電話で呼び出されて、急に蒼い顔をして飛び出して行きました。何かあったのでしょうか。何かご存じではないでしょうか」
ひどく心配げな声であった。仕事上で何かミスでも犯したのだろうか。それとも吾妻慎一に呼び出されたのか。私にも見当がつかない。気がかりで終日落ち着かなかった。

【十二】

二月八日
もう少しで知子を殴りつけるところだった。私が右手を振り上げると同時に知子は胸をそらし、左腕で顔をかばった。もしそのとき傍から駿吉が「パパ」と呼びかけなかったら、私の手は間違いなく知子の腕を払い除け、その頬を鳴らしていただろう。駿吉が、もう一度「パパ」と呼び、「ご本、読んで」と言った。それですっかり気勢がそがれた。
しかし、憎悪は納まらない。知子を睨み据えて怒鳴った。
「貴様に何の権利があるんだッ」
「ご免なさい」と謝ったが、「でも、会わずにいられなかったのよ」顫え声でつけ加えた。駿吉が私の膝に絵本をつきつけた。
「うるさい。あとでママに読んで貰え」
「怒鳴らなくてもいいでしょ。この子には罪がないんだから」
その言い草がまた怒りに火をつけた。が、もう殴る気はなかった。殴ってもはじまらなかった。すべては身から出た錆であった。
――今日はいつもより早目に東京に来て、仕事部屋へ行く前にアパートに寄った。結婚式の模様を聞きたがっていたからだ。しかし知子は、私の話に上の空であった。鼻白んで立ち上がったとき、わざと私の顔を見ないで知子が言った。
「園池さんに会ったの」
耳を疑った。聞き違えたかと思った。
「きのう、お目にかかって、お話ししたの」
「本当か」
私はまだ半信半疑だった。知子は文世の名前を知らない。阿部も教えなかったと言った。名前も知らぬ文世に会えるはずがない。だが、知子はいま確かに園池さんと言った。
「誰に聞いたんだ? どうして彼女の名前が判ったんだ」
「R企画に電話して、教えて貰ったの」
文世の母親の、怯えたような声を思い出した。文世が蒼くなって出て行ったというそのわけが判った。
「お前が呼び出したのか」
「あの人、最初は私のことを鎌倉のママと思ったらしいわ」
いきなり電話で呼び出されたとき、文世はどんなに驚いたことだろう。何よりも先にそれが私の胸に来た。知子に会いに行くまでの文世のみじめな気持ち――それを思うとたまらなかった。知子の思い遺りのなさに、無性に肚が立った。私が思わず手を振り上げたのはそのときである。
しかし、あとから思うと、殴ろうとしたのは知子への憎悪ばかりではなかった。もう駄目だ、文世とはもう会えない――その絶望感をごまかそうとしたのではなかったか。
すぐ文世に電話をかけて謝ろうと思った。事実、仕事部屋で何度も電話機に手をかけた。だが、私の声を聞いた途端に文世は電話を切ってしまうだろう。そう思うと、ダイヤルを廻すことが出来なかった。
恥毛の中の黒子が、目に浮かんだ。もはや二度とあの黒子に口づけすることは出来ないのか。左頤の下に三つ並んだ黒子にも。私の腿を枕にして、私を愛撫してくれたときの顔。次から次へと溢れてきた泉。もうあの甘露を吸うことも出来ないのか。
京都の宿ではじめて交わってから足掛け三ヵ月、指を折ってみると今日で四十八日。僅(わず)か四十八日!
今夜、自分の口から知子のことを打ち明けるつもりだった。多分、宥(ゆる)してくれるだろうと八割ぐらいの自信があった。だが、当の知子から聞かされたのでは、いかに文世が私を愛していようとも、許しはしまい。今頃は、裏切られた、だまされたと私を怨み、わが身の悲運を嘆き悲しんでいるに違いない。告白がたった一日遅れたばかりに、私は、せっかく手に入れた理想の女を喪ってしまったのだ。
しかし、今更悔やんだとてすべては後の祭り――己の卑劣さがもたらした当然の報い、いわば天罰であった。
仕事が手につかず、部屋で独り悶々としていたが、夜更け、再び知子のアパートヘ行って、二人が会ったときのいきさつを詳しく聞いた。
――きのう、仕事部屋へ掃除に行った知子は、机の引出しの奥から、国民休暇村のマッチを見つけた。頭に血がのぼった。すぐR企画に電話をかけて、私から断片的に聞いていた文世の容姿を告げ、そのひとの名前、自宅の電話番号を教えてくれと言った。R企画の答えはこうだった。
「うちでは所属記者の自宅を外部の方に教えないきまりになっている。用があるなら当人から連絡させる。そちらの電話番号を言ってくれ」
二十分後、仕事部屋に電話がかかり、女の顫え声が、「奥さまでしょうか」と訊いた。知子は「違う」と答え、「津田のことで是非会いたい」と告げた。一時間後に抜弁天の喫茶店で会うことになり、「私は小さい子供を連れているから、すぐ判ると思います」と知子は言った。
「それでお前は、俺と手を切れとあの娘を脅迫したのか」
「頼んだのよ、お願いしたのよ、この子のために出来たら別れてくださいって……でも、あのひとは多分あなたと別れないわよ」
「なぜだ」
「私がいくら頼んでも、最後までうんと言わなかったもの。男と女の仲は、頼まれたから別れますというわけにはいかない。私自身が別れる決心がついたら黙っていてもお別れします――そう言ったわ」
文世にとってはそれが精一杯の抵抗だったのだろう。
「お前は何という残酷な女なんだ。いきなりチビを見せれば、あの娘がどんな衝撃を受けるか、少しも考えなかったのか」
「あら、とっても可愛いと言ってくれたわ。膝に抱き上げてケーキを食べさせたり、頬ずりまでしてくれたわよ」
「ばか。本当は胸で泣いていたんだ」
「大丈夫、あのひとは絶対にあなたから離れないわよ。あなたを愛していることが、私にもよく判ったわ。それに、たとえあのひとが別れると言っても、あなたが手放さないでしょ」
「いくら俺が別れたくないと言っても、もう会っちゃくれないよ」
「私、あのひとを一目見て判ったの、あなたが夢中になったのが――。お化粧一つしないであんな綺麗な娘、ちょっといないもの。私も男だったら、いっぺんで夢中になると思うわ。指もほっそりして……。私もあなたに初めて会ったとき、ああ私が捜していたのはこの人だと思ったわ。だからよく判るの、あなたの気持ちが。あなた、あのひとの顔を見ているだけで、おなかの下のほうがポカーッと温かくなるんじゃない? 私たち二時間以上も話し合ったの。私もすっかりあのひとが好きになったわ。あのひとも最後に言ってくれたの、こんなことで知り合ったのでなければ、私たち、いいお友だちになれたのにって……」
なぜか自分でも判らない兇暴な欲望に駆られて知子を押し倒した。知子も烈しく応えて何度ものぼりつめ、その都度私は手で彼女の口に蓋をした。アバートの壁は薄い。それをよく承知しているのに知子は、私の掌から悲鳴を溢れさせた。
二月十日
呼出し音が切れて、受話器から「モシ、モシ」という文世の声が聞こえた途端に私は言った。
「どうか切らないでくれ、頼むから切らないで、僕の話を聞いてくれ」
受話器の向こうで文世が息を呑んでいるのが判った。
「ご免、悪かった。許してくれ」
ただひたすら謝った。文世は何も言わない。が、電話を切らないだけでも救われた思いだった。
「瞞(だま)したわけじゃない。この間、話があると言っただろ、僕の口から言うつもりだったんだ。それだけは信じてくれ」
「もういいんです」
やや経ってから、かすれた声で文世が言った。胸が詰まった。もういい、と言うのは、終わりという意味なのか。
「もう何もおっしゃらないでください。私、判っていたんです」
「判っていた?」
「いつだったか、女のひとの影を感じると申し上げました。……私、それほど驚きませんでした」
「じゃあ、許してくれるの?」
一転、心が浮き立った。
「きのう、お電話くださいましたか」
「え、ああ、何回もかけた」
実は怕くて一度もかけていなかった。
「私、きのうまた伊豆へ行きましたの」
声は低いが意外なほど落ち着いている。それがかえって不気味だった。
「伊豆へ? 何しに?」
「取材がすんでから、日が暮れるまで下田の浜でぼんやりしていました」
「君はまさか――」
「海に足をひたしたら、とっても冷たくて……そのとき、もう一度だけお目にかかりたいと思いました」
「じゃあ会ってくれるんだね、有難う」
一時間後に新宿の喫茶店で落ち合う約束をし、受話器を置くと同時に、万歳、と心で叫んだ。
すぐ服を着替えた。所持金を算(かぞ)え、今夜は新宿でいちばん豪華な連込みホテルに泊まろうと声に出して呟いた。できたら温泉で二、三日過ごし、文世の心をときほぐしたい。が、時間も金もそれだけの余裕がなかった。
新宿までゆっくり歩いても二十分とかからないが、じっとしていることが出来なかった。体中に歓びが、欲望が、漲(みなぎ)った。小走りに知子のアパートヘ行き、三和土から声をかけた。
「お前の言ったとおりだったよ」
階段の上から顔だけ出して知子が訊いた。
「これから会いに行くの?」
「ああ、泊まってくるぜ」
「よかったわね」
ドアを締めて、前のめりに足を速めた。知子の気持ちなぞ、かまってはいられなかった。
二月十一日
ホテルを出る間際になって、雨が降っているのにはじめて気づく。フロントに電話で時間延長を告げ、また浴衣に着替えながら言った。
「もう一度、お風呂に入ろうよ」
文世が呆れた顔をした。つい二時間ほど前に入ったばかりであった。しかし、私が湯舟の中から呼ぶと、文世も裸になってきた。湯舟のへりに腰かけさせて、下腹部に顔を埋めた。先刻も同じことをし、そのあと牀に戻って、ひとしきりお互いをむさぼった。旅館に泊まった翌朝はいつもそうする。今朝は雨のおかげで念を押すことになった。
もう堪忍してと言う文世と入れかわって湯舟のへりにすわると、今度は文世が私の体に顔を寄せて来た。明るいところで文世が自発的にこの行為に及んだのは、はじめてであった。肩まで湯につかり、目を閉じ、額にうっすらと汗を浮かべて私を含んでいる文世の顔。何という刺戟的な眺めだろう。頬に手をかけて堪え難くなったことを告げると、ようやく口をはなしたが、私の腿に頭をゆだね、今度は頬ずりをはじめた。もはや文世は疑いもなく官能の虜になっている。だから私を宥したのだ。私と別れられない体になってしまったのだ。
――昨夜、文世は約束の時間より二十分も遅れて私をやきもきさせたが、向かい合って喫茶店のボックスに坐ると同時に大粒の涙をこぼした。私は黙ってハンカチを渡した。それを目にあてがい、少時肩を顫わせていたが、
「ご免、つらい思いをさせて」
私がそこまで言うと、小さく首を振り、「もう、本当にいいんです」と、電話のときと同じ言葉を繰り返した。その言葉に辿りつくまでの彼女の心の葛藤が、胸に痛いほど伝わった。
今更、弁解してもしようがないので、文世がコーヒーを飲み終えるまで私も口をつぐんでいた。気のせいか面やつれして見えた。コーヒーカップを受け皿にゆっくり戻しながら、
「結婚式、いかがでした?」
文世がやっと顔を挙げた。
「うん、なんとか無事に……それより、今夜帰らなくていいんだろ?」
おびえたような表情で訊き返した。
「あちらは、よろしいんですか」
「君がそんな気がねをすることはないんだよ」
「でも、坊やが……」
「君と二人だけのときは、あの母子の話はしたくないんだ」
「そうおっしゃるなら……。でも、本当に可愛い坊やですね。客観的に見ても」
その表現がおかしくて、私がつい苦笑すると、文世も微笑した。喫茶店を出て旅館街のほうへ歩き出すと、
「私、おなかがペコペコなんです」
文世がまた照れ臭そうな顔で言った。
――知子が言ったとおり、この娘はもう絶対に俺から離れないな。
私がそう思ったのは、中華料理店の隅のテーブルで文世が三たび羞しそうな表情を見せながら、「この二日間、ご飯が喉に通らなかった」と正直にもらしたときであった。
二月十五日
「津田さんは全く罪な人ですね」
仕事の打ち合わせがすんでから須山君が言い出した。
「このところ、森が大荒れなんですよ。毎晩、自棄(やけ)酒を飲んで、碌に仕事をしないんです。麻雀も打ち方が荒っぽくなって、負けがこむ一方……かなりこたえているようですよ」
私には返事のしようがなかった。
「彼女をどうするつもりなんです? まさか一緒になるわけじゃないんでしょう?」
「判らない」
「家のほうにはまだバレていないんですか」
「ああ」
「あっちは?」
「バレちゃった、一週間ほど前に」
「それで?」
「それでって、別にどうってことないよ」
須山君が感心したように小さく首を振った。
「なるほど、これじゃ森なんか歯が立たないわけですな」
「若いくせにモタモタしているからさ」
いい気になって私が言うと、
「取材旅行先でかなりいいセンまで行ったそうなんですがね」
ちょっと気になるようなことをもらした。
「いいセンって、どの程度だったのかね」
「さあ、僕も詳しいことは知りませんがね」
須山君は急に話題をかえた。
二月十六日
夜遅く文世が折詰をさげて、仕事部屋にきた。銀座で吾妻慎一にお寿司をご馳走になったという。
「じゃ、これはお母さんへのお土産だろ?」
「いいんです。母はあまりお寿司が好きじゃありませんから」
遠慮なくぱくつきながら、からかった。
「口説かれたんじゃないのかい?」
「先生はそんな方ではありません」
お茶を淹れながら文世は妙にムキになって否定した。
一時間後、牀の中で私が抱き寄せようとしたとき、文世が訊いた。
「森さんはここの電話番号を知っているでしょうか」
「ああ、仕事の打ち合わせで何度か掛けてきたことがあるよ。なぜ?」
「実は事務所であの方から電話を受けたのは、森さんだったんです」
「じゃ、あれがここの番号を言ったとき、森君はすぐピンときたはずだね」
「でも森さんは、私に電話番号を報せてくれただけで、ほかのことは何もおっしゃいませんでした」
森は直接知子に会ったことこそないが、噂は聞いているはずである。それなのになぜ、電話番号だけを文世に伝えたのだろうか。森にとって私は、愛している女を横どりした憎い男である。その憎い男の正体をあばき、文世の目を醒まさせる絶好の機会――知子の電話を受けたとき、森は咄嗟にそう考えて、わざと番号だけを知らせ、知子と文世がじかに話をするように図ったのだろうか。しかし、森の一存で取りつぎを拒否することも出来たはずだ。もし彼が真実文世を愛しているのなら、文世の受けるショックを考えて、取りつぐ前に何らかの予備知識を与えるべきではなかったか。私の部屋の電話番号と知りながら、それだけを文世に伝えた彼の気持ちが、理解出来なかった。いささか不気味でさえあった。
「それで彼はその後、何も言わないの?」
「あの方とお会いした翌日、きのうの電話の女は誰だったのかと訊かれました。ですから私、森さんは何もご存じないのだと思って、取材先で知り合った方ですと嘘をついたのですけど……」
ますます森の気持ちがわからなくなった。彼はとぼけて、文世の反応をうかがったのか。それとも知子の存在を本当に知らなかったのか。
文世の肩を引き寄せながら私は言った。
「聞いておきたいことがあるんだ」
「何でしょうか」
文世も私の胴へ手を廻しながら聞き返した。
「森君とはどの程度だったんだい?」
「……」
「接吻はしたんだろ?」
文世は黙っていた。
「君と森君が一緒に取材旅行に行ったという話を聞いたけど、そのとき、同じホテルに泊まったんだろ?」
「……でも、お部屋は別々でした」
腕の中で文世の体がわななきはじめた。
「森君は朝まで紳士だった?」
一瞬、文世の顫えが止まった。が、またすぐ顫え出した。
「僕の推測を言おう、彼は夜中に君の部屋をノックした。君は何か用事かと思ってドアを開けた。君はベッドに押し倒された……」
かなり経ってから文世が言った。
「森さんから、お聞きになったんですか」
「いや、飽くまでも僕の推測だよ。しかし、当たっているだろ?」
文世は嗚咽をもらし、途切れ途切れに告白した。
「たしかに、森さんが……でも途中で……だから、じかに……触れたわけでは……」
文世の体を力一杯抱き締めた。京都の夜以来、頭の片隅にあった疑問――文世が露骨な言葉で結合を確かめた謎が、ようやく解けた。文世のそこは、やや下に位置している。若い森は目標を定めかね、あせっているうちに暴発し、文世はそれを未成熟な体のせいと思いこんだらしい。文世が鹿児島の彼に積極的になれなかったのも、多分、その失敗が因になっていたのだろう。そして私は、その失敗のおかげで、無垢(むく)な文世の体を手に入れることが出来た。あの夜、文世は言葉で確かめたあと、「うれしい」と言いながら獅噛みついてきた。自分の体が正常であることをあのとき、はっきり知ったのだ。幾晩も拒みながら、結局私に許したのも、自分の体を確かめるには私の年齢と経験が必要だと、文世は文世なりに判断したのかも知れない。
二月十八日
文世に準を引き合わせた。
あすの大学受験にそなえて仕事部屋に泊まりにきた準を、夕方、いつも文世と待ち合わせる新宿の喫茶店に連れて行き、私は何気ない調子で言った。
「お前に会わせたい人がいるんだ」
「誰?」
「いま、ここに来る。そのかわり、ママには内緒だぞ」
それだけで準は了解した顔になった。十分ほど経って現われた文世を引き合わせると、二人ともぎごちない挨拶をし、特に準は、コーヒーを飲み干すまで、二、三度眩しそうな目をちらっと挙げただけであった。そんな準と私を見較べながら、
「本当によく似ていらっしゃるんですね」
文世はいかにも感に堪えないように言った。
昨日、「長男に会ってくれるか」と私が訊いたとき、文世は訝しそうに私を見詰め、
「どうして私を」
と聞き返した。
「別に意味はないんだ。ただ会わせたいんだよ。いや、君を見せたいんだ」
「どうして」とまた言いかけ、「何て紹介するのですか」と言い直した。
「恋人だとはっきり言うよ」
文世は暫く考えているふうだったが、急に悪戯っぽい目を見せて、
「あのう、客観的に見てハンサムですか」
と聞いた。
「また客観的か」
「あら、おかしいですか」
そう言いながら、文世のほうが先に声に出して笑った。文世の明るい笑い声を、私ははじめて耳にしたような気がした。
喫茶店の並びにある鰻屋に入ると、文世も準もようやく口がほぐれ、話題も受験とはなれて最近売り出したフォーク歌手の賛否へ移って行った。傍からそんな二人を眺めて、私も何がなし吻とした。
なぜ文世を引き合わす気になったのか、私自身説明がつかなかった。強いてこじつければ、受験を目前にして固くなっている息子の気持ちを少しでもほぐしてやろうと考えたのか。もっとも、いきなり父親から若い恋人を紹介された準は、逆に心を動揺させたかも知れない。
もう一軒、喫茶店に寄り、そこで文世と別れたあと、歩いて仕事部屋へ戻ったが、その途中で、
「いいか、絶対にママには秘密だぞ」
私が念を押すと、
「わかっているよ」
準はニヤッと笑った。
「綺麗な人だね。婦人記者?」
頷きながら、私の頬はだらしなくゆるんだ。
牀に入る前に準を銭湯に誘ったが、出しなに家で入ってきたというので、私は洗面器をかかえて仕事部屋を出、知子のアバートに寄った。毛糸編みの手をとめて知子が訊いた。
「ご飯は?」
「準と外で済ませてきた」
「あの人も一緒だったの?」
その勘のよさにグキッとしたが、「まさか」と私は否定し、襖を少し開けて隣の部屋を覗いた。駿吉の寝顔が、一条になった電灯の光の中に浮かんだ。二町とはなれていない処にこの子の兄が来ている。いつかは二人を異母兄弟だと引き合わせねばならない。それがいつになるか、いや、引き合わせる日が果たしてくるかどうかも、いまの私には見当がつかない。
「あの人、なんて言ってた?」
知子が背中に声をかけてきた。
「何を?」
「準ちゃんのこと」
「疑り深い奴だな。飯を食ったのは準とだけだよ」
「嘘、顔に書いてあるわよ。あなたにそっくりだと言ったでしょ。私も準ちゃんに会いたいな。もう何年になるかしら」
知子をはじめて鎌倉の家へ伴ったのは、たしか準が小学校に上がったばかりの頃であった。その後二、三回泊まりがけで遊びに来た知子は、子供たちともすっかり仲よくなったが、私と関係が生じてからはさすがに来られなくなり、「知ちゃんどうしたのかしら、この頃さっぱりお見限りね」と訝しがる妻に、「郷里の秋田へ帰ったんだろ」と私もシラを切り通した。当時知子は横須賀線戸塚駅から一町ほど離れたアパートに住み、近くの美容院に勤めていた。そのアパートに、私は勤めの帰途、気が向いたときだけ、十日に一度ぐらいの割りで寄った。いつ寄っても、小さな卓袱台に晩ご飯の仕度が出来ていて、「冷蔵庫にお刺身が入っています」などというメモが、添えてあった。「無駄になるからよせ、俺はその日の気まぐれで寄るんだから」と私は言ったが、「いいの、私にはご飯づくりが楽しみの一つなんですから」知子は笑ってとりあわなかった。それが私の気分的な負担になっていることには気がついていないようであった。
勤めを辞める一カ月ほど前、珍しく東京で会って飯を喰い、一緒の横須賀線に乗ったとき、私は知子に囁いた。
「うちの奴と三人で寝る覚悟なら、今晩、家に来てもいいぞ」
当時知子のアパートに寄った夜も妻を抱いていた私は、同時に二人の女を御してみたいという欲望に取り憑かれていた。知子は何も答えずに戸塚駅で降りたが、その晩、私が帰宅して一時間もたたぬうちに家にやって来た。唇をきつく結び、蒼白な顔をしていた。まだ起きていた子供たちは、数年ぶりの知子を懐かしそうな顔で迎えたが、妻に子供部屋へ追い払われた。そのあと、三人は長い沈黙を余儀なくされた。やがて妻は牀を三つとり、「あなたは右のはじに寝てね」と哀願するように言った。妻は突然やってきた知子にその理由を聞かず、知子も何も言わなかった。さすがの私も、二人に己の欲望をむき出しに告げることが出来ず、右はじの牀に横たわったが、異様な雰囲気がかえって欲望を募らせた。
夜更け、私は妻の牀にもぐりこんだ。妻はちょっと抵抗しただけで、むしろ途中からは積極的になった。暗闇の中で妻に体をゆだねながら、私は知子を窺った。蒲団の中で息をひそめ、体を固くしているようであった。私はそっと手を這わせた。知子はその手を二、三回押し返したが、体をずらそうとはせず、私の指が乳房に触れると、今度は自分の掌をそっと私の手甲に重ねてきた。しかし、結局私はそれ以上の行為に及ぶことが出来なかった。そのままあっけなく果てると同時に、まるで憑き物が落ちたように私のなかから、けだものの欲望が消え去ってしまったのである。翌朝、知子は私が眠っているうちに帰って行った。あとで妻が「あの娘だけはやめてちょうだい」と泣きながら言い、私も手を切る気になった。だが、その決心は半年と保たなかった。
銭湯から戻ると、枕元に受験参考書を散らかしたまま、準はもう眠っていた。電気炬燵を隅に片づけて、私もすぐ横になった。準と並んで寝るのは久し振りであった。もし準に、なぜ文世に会わせたのかと訊ねられたら、私はたしかに返答に窮したろう。が、何も訊かずに屈託なく眠ってしまった準に、物足りなさを覚えたのもまた確かであった。
二月二十二日
新宿から直接知子のアパートに行くと、珍しく鍵がかかっていた。ひと休みするつもりで部屋に入ると、卓袱台に置き手紙が載っていた。
《二十六日までチビをお預かりします。ちゃんとお返ししますからご心配なく。二十六日の午後、部屋に連絡します》
奥の部屋もきちんと片づいていた。置き手紙をポケットに蔵い、芝居がかったことをしやがると思ったが、二十六日まで、まだ三つにもならない駿吉と何処で過ごすつもりなのか、やはり不安を覚えた。日蔭者の知子は自分で交際範囲を制限していたから、母子で転がりこめるようなところはあまりない。私が知っているのは、都下福生に住む彼女の高校時代の友だちと、九段にいる叔母の家ぐらいだった。
多分福生だろうと思いながら、念のため、不断、健康保険証や領収書を蔵っている茶箪笥の引出しをあけると、見慣れない布張りの小さな手帖がいちばん上に載っている。
最初の頁に「ママヘ」と書いてあり、次に駿吉の性癖や食物の好き嫌いなどが箇条書になっていた。手帖を元に戻して舌打ちした。知子は私がこの手帖を見つけることを計算して、わざと残していったに違いなかった。
仕事部屋から文世に電話をかけて、母子が家出したと告げた。息をのむ文世に、置き手紙を読み上げてからつけ加えた。
「だから今夜は気兼ねなく、ここに来てくれ」
「それより、お捜しにならなくていいんですか」
「芝居だよ。抛っておく。それより君のほうの仕事は?」
「吾妻先生と逗子へ行くことになっています。夕方までには帰れると思いますけど」
「僕もそれまでに出来るだけ仕事を片づけておく」
本棚から辞書を取り出したとき、その隣に入れておいた『国民休暇村案内』という本が無くなっているのに気づいた。ははン、と思った。知子は、約束を破って文世を弓ケ浜へ連れて行ったのをまだ根に持って、自分も弓ケ浜に出かけたに違いない。
湯ケ島の国民宿舎から電話がかかってきたのは六時すぎであった。知子の名前を確かめてから、
「けさ、ご予約をいただいたのですが、まだお着きになりません。キャンセルされるんでしょうか」
ばか丁寧と思えるほどの問い合わせだった。隠すより現われるとはこのことである。
「恐らく途中で道草を喰っているんだと思います。間もなくそちらに着くでしょうから、よろしくお願いします」
十分ほどたってまたベルが鳴り、今度は文世からであった。行く先が判ったことを告げ、
「ばかだよ、あの女は。子供連れで湯ケ島へなんか行ったって、ひとつも面白いことないのに」
私がそう言うと、
「すぐお迎えにいらっしゃったほうがいいんじゃないでしょうか」
「行くもんか、迎えになんか。それより、何時頃来られる?」
「一旦、事務所に戻りますから、あと二時間ぐらいは……」
「早く来てくれよ。顔が見たいんだ」
母子の居処が判った安堵も手伝ってか、強い欲望を覚えた。
八時少し前、湯ケ島の国民宿舎に電話をかけた。
「どうしてここが判ったんです?」
驚く知子に、「お前の行く処ぐらい、俺にはお見透しさ」とうそぶいてから、
「で、二十六日までそこにずっと居るのか」
「あしたもう一晩ここに泊まって、あさってとしあさっては弓ケ浜を予約してあります。どうせ二十六日まで仕事が詰まっているんでしょ」
「そのあとはどうするんだ」
「チビをあなたに渡したら、私はどこか遠くへ行きます」
「どこかとは、どこだ」
「チビさえ無事なら、私はどこへ行こうと気にならないでしょ」
「するとチビは誰が育てるんだ」
「ママに頼んでちょうだい。そのほうがあなただって安心でしょ」
途中から泣き声になった。それ以上何か言えば知子の感情を昂ぶらせるだけなので、「あした、また掛ける」電話を切ったとき、ドアがそっと開いて、見慣れた文世の外套の裾がこぼれた。
いつもより念入りに愛撫したが、文世の体はなかなか燃え上がらなかった。枕を胸にかって腹這いになり、煙草に火をつけると、
「みんな私のせいなんですね」文世が呟くように言った。「私さえ身を引けば、駿ちゃんだって幸せに……」
「もう少し我慢してくれ。あの女とは出来るだけ早く別れる。きっぱり手を切る。あれも覚悟しているはずだ」
「いいえ、お別れするとすれば私です。いちばんあとから割りこんだんですから」
「僕が愛しているのは君なんだよ。君だけたんだ」
「違います」
「違う?」
「奥さまとは二十年、あの方とは十年もつづいていらっしゃるんでしょ。愛していらっしゃる証拠です。元々、私の出る幕なんか無かったんです」
煙草を灰皿に捨て、文世の裸の肩を引き寄せた。
「女房のことはともかく、あの女には負けたんだよ、一途さに。あんまりひたむきなんで、つい可哀想になったんだ、最初から愛してなんか、いなかったんだ」
文世が肩からそっと私の腕をはずし、薄笑いを浮かべながら言った。
「私、知っているんです」
「何を?」
「可哀想たア、惚れたってことよ」
呆気にとられた。どんなときでも言葉を崩したことがない文世の口から、こんな声色めいたセリフが飛び出そうとは、思ってもみなかった。
「ばか」
「ア、痛い、やめて」
手荒く自分の体の上に抱え上げた。
二月二十四日
妻からの電話で、準が不合格だったのを知る。可哀想だが、こればかりはどうにもならない。それに、あさってはもう一つの私大を、三月三日には公立大を受験することになっている。どっちかに引っかかってくれるだろう。
「あしたはどうするんだ、やっぱりここに泊まりにくるのか」
「家からじかに行くそうです。パパの部屋に泊まるとまた落ちるからって」
「励ましてやりたいが、仕事が詰まっていて当分帰れそうもないんだ」
「大丈夫です。当人もそれほど落胆してはいませんから」
正直なところ、私の関心は準の受験より知子母子の上にあった。知子は本気で駿吉を手放し、私と別れるつもりなのだろうか。本当に別れてくれればそれに越したことはないが、さてその場合、妻にどうやって打ち明け、駿吉の養育を承知させるか、だ。いちばんいいのは駿吉のことは一切知子にまかせ、毎月養育費を送る方法だが、それでは父親としての感情が抑えきれそうもないことを自分で知っていた。
――成長過程をわが目で確かめ、子供にパパと言って甘えられるから可愛いのだ。一緒に暮らさなければ男親の愛情なんか、日ましに薄れて、しまいには消えちまうさ。
私は何度か自分に言いきかせた。事実、文世に溺れてからは、駿吉への愛情が急速に薄れてきた。ときには駿吉の存在を煩わしいと思うことさえある。養育費を送るだけの父親になれば、妻にもバレずに済むし、文世も愛情の証明と受け取ってくれるだろう。
――だが、俺はそんなふうに割り切れるだろうか。気がかりにならないだろうか。今頃は何をしているだろうと、何かにつけて後ろめたい気持ちに陥るのではあるまいか。
割り切れ、母子を切り捨ててしまえ、と自分で自分をけしかける一方で、もう一人の私が絶えずそう問いかけてくるのだった。
二月二十五日
文世の体にまた新しい黒子を二つ見つけた。
久し振りに行った原宿の旅館の浴室で、あとから入ってきた文世が蛇口の前に跼(しゃが)んで体をしめしているとき、湯舟の中からその背中を見て、腰の両側に一つずつあるのを発見したのである。二つの黒子はまるで測ったように同じ高さにあった。
そっと湯舟を出、文世の後ろに膝を開いて跼み、両方の拇指でいきなりその黒子を押した。文世はアッと叫び、手拭いを落として私の胸に倒れてきた。両膝で胴をはさみ、もう一度拇指に力をこめた。文世はまた短い声を挙げた。どうやらそこも性感帯らしい。
「君は便利なひとだね」
後ろ向きのまま全身の重みをゆだねてきた文世に囁き、
「ここに黒子があるのを知っている?」
三たび文世は声を発し、小さくかぶりを振った。
「感じ易いところに、ちゃんと印がついているんだ」
「嘘、そんなところに黒子なんてありません」
「じゃ鏡で見てごらん。ほかの、もっと、とてもいいところにもあるんだから」
「きらい」
私の手を逃れて湯舟に飛びこんだ。

【十三】

二月二十六日
旅館を出ると、いまにも降り出しそうな空模様だった。例のガラス張りの喫茶店に入ろうかと思ったが、陽が当たらなければどこでも同じなので、駅まで歩き、すぐ近くのコーヒー店の扉を押した。最近開店したばかりらしい、明るい造作であった。
「今夜は伊東にお泊まりになるんですね」
お絞りを使いながら、文世が自分に言いきかせるような口調で言った。きのう、弓ケ浜にいる知子に電話をかけ、午後三時に伊東駅で落ち合うことになっていた。
「いや、きょう中に涙ってくるつもりだけど」
「ゆっくり泊まっていらっしゃってください」
そう言ってから、あわてて言い足した。
「けっして皮肉じゃないんです。私も今夜、独りで考えてみます」
「僕の気持ちはもうきまっているんだ。はっきり話をつけてくるよ」
文世がゆっくり首を振った。
「あの方にとっては大変な問題なんですから、どうか結論を急がないでください」
明け方まで痴戯に耽っていたのが信じられないような凛とした表情であった。
小田原を過ぎた頃から雨が降り出し、余計、気分が滅入った。伊東駅の改札口を出た途端、「パパ」と駿吉が膝に飛びついてきた。抱き上げて、
「ママは?」
「あっち」
小さな指先を辿ると、人込みの間からベンチに腰かけた知子の後ろ髪がのぞいた。大股で近づき、「次の上りで帰ろう」といきなり言った。知子は物憂そうに頭を振った。
「どうするんだ」
「帰りたかったら、チビを連れて帰ってください」
「お前はどこか行くあてがあるのか」
「静岡のほうへ行きます」
「静岡に誰か知っている人がいるのか」
「いいえ」
知子は一段と強くなった雨脚を見ている。風も出て、ときどき横殴りの雨が足許近くまで吹きこんだ。バスが二台着いて、大きな紙袋をさげた客がわれ先に駅に駆けこんでくる。構内はみるみる人でふくらんだ。
「早くしないと乗れなくなるぞ。話は東京に戻ってからにしよう」
「帰りませんよ、私は」
知子がヒステリックに言ったので、同じベンチに腰かけていた人々が一斉に目を注いできた。駿吉を抱き直してベンチから離れた。
「ママ、来ないよ」
駿吉が腕の中で体を捩(よじ)った。
「ママなんて抛っておこう」
「ダメ」小さな手にレインコートの襟を摑まれて立ちどまったとき、
「お宿はもうきまっていますか」
鍔(つば)付きの制帽を目深くかぶった年輩の客引きが声をかけてきた。知子がどうしても帰らぬと言い張るなら、ここに泊まるより仕方がない。客引きが推薦した海岸べりの旅館にきめた。
「いま、旅館の車が迎えにくる」
ベンチに戻ってそれだけ言い、「ボク、きょうはどこへ行ってきた?」と駿吉に訊いた。
「ワニ」
「え、どこだって?」
「熱川の鰐園へ行ったんです」
帰らないときまって機嫌が直ったのか、知子の口調がいつものに戻っていた。鰐園には月初めに文世と行った。まさか知子もそこまでは知らず、偶然に行ったのだろうが、私は鳩尾(みぞおち)のあたりがむずがゆかった。
旅館の三階の部屋から眺めると、防波堤に打ち寄せる波が三、四メートルもの飛沫をあげてから、道路を滝のように叩いていた。サッシの窓で音が聞こえないだけに、かえって不気味だった。どす黒い海を鉛色の空がおおって、右手の岬の稜線も半ばがそのなかに溶けこんでいる。テレビをつけるとちょうどニュースの時間で、太平洋岸に低気圧が停滞し、雨は明朝までつづくと告げた。今夜はこの部屋の中も低気圧、と胸で苦笑する。
駿吉が寝つくと、案の定、知子が坐り直した。
「私、死ぬつもりで薬も買ってあります」
目も据わっている。
「へーえ、そりゃまた、どうして」
こんなときは茶化すに限る。
「遅かれ早かれあなたに棄てられるんですから、悲しい思いをする前に自分で自分を始末するんです」
「だれが棄てると言った」
「棄てたも同じでしよ。あなたの心はすっかり園池さんへ移ってしまったんだから。あの人のことで頭が一杯なんでしょ」
「たしかに彼女が好きだ、惚れている。しかし、お前に対して一応、責任は果たしているつもりだ」
「本当は果たしたくないんでしょ、私がいなくなればせいせいするんでしょ」
「ほほう、すると俺のために自殺するというわけか」
「もうこれ以上、苦しみたくないんです。お義理で顔を見せにきてもらっても、ちょっとも嬉しくありません。かえって辛くなるばかりです。そりゃあ、あの人は若いし、綺麗だし、はじめっからかなわないのは知ってました。でも、あなたと園池さんが泊まりに行った晩、私が朝までどんな思いですごしているか……ママと違って、私はあなたにきらわれたら、もうそれで終わりです。誰にも文句も泣き言もいえない立場です。園池さんだって、私の弱い立場がわかっているはずです。女なら女の気持ちが……」
「あの娘を恨むのはよせ。恨むなら俺を恨め」
「ほら、そのとおりあなたはあの人に夢中なんです。私の気持ちなんか、もうこれっぽっちも考えていないんです。奪ったものは、いつか奪われるとよく言いますけど、私はママからあなたを奪ったなんて思っていません。はじめからそんな自惚れは持っていませんでした。ただあなたのママヘの愛情の何分の一か、何十分の一かを頒けてくれれば、それで一生満足だと思っていました」
「それなら今更、文句を言うな」
「ママには申しわけないと思っています。あなたにも感謝しています。ここ数年間、幸せでした。家庭生活の真似事もさせて貰ったし、子供を育てる楽しさも知ったんですから……。でも、もう終わりなんです。あなたが園池さんと一日も早く一緒に暮らしたがっている気持ちが、よくわかるんです。だけど、チビだけは園池さんに渡したくありません。ママに頼んでください」
煙草に火をつけようとしたが、生憎、ライターが付かなかった。
「それ、取ってくれ」
壁際に押しやった座卓の上のマッチを指さした。知子がそれを取って、居ざりながら差し出した。その手を摑み、力一杯引いた。前のめりに倒れてきた体を膝の上で横抱きにした。
「やめてッ」浴衣の裾を乱してもがく体を押えこみ、
「本当に死ぬつもりか」
わざと目をむいて睨みつけた。知子がもがくのをやめた。
「死んだら俺が悲しむとでも思っているのか。気が咎めてあの娘と別れるとでも思っているのか。冗談じゃない。邪魔者がいなくなったと吻とするだけさ。あの娘を見りゃあ、ママもしょうがないと諦めるだろう。そうなりゃ、俺とあの娘は堂々と一緒に暮らせる。それでもお前、死ぬか。自殺するか。死にたければ、さっさと死ね。予告なんかするな。死ぬ気なんか微塵もないくせに、気を引こうと思って、ヘタな芝居をするな」
知子が泣き出した。図星を指されると女は大抵泣いてごまかす。
「顔を見るのも辛いなら、別れてやる。チビの養育費ぐらい送ってやる」
「別れるくらいなら死ぬわ」
「それみろ、別れられもしないくせに」
「あなた!」知子が獅噛みついてきた。いまそんなことをすれば一生この女を背負いこむことになるかも知れないと思いながら、私の手は剥き出しになった知子の腿へのびて行った。十分もたたぬうちに知子が新しい嗚咽をもらした。
妙な胸苦しさを覚えて目を醒ました。知子が私の胸に顔を伏せていた。
「重いよ」肩を押し上げようとすると、かえって額を揉みこんできた。両腿が私の左脚をかいこんでいた。夜が明けてきたらしく、水色の光が窓のほうから流れてくる。かすかに波の音が聞こえた。
「どうしたんだ、眠れないのか」
「お願いがあるの」胸の上で知子が言った。
「三カ月……いいえ、一カ月でいいから、あの人と会うのをやめて」
両腿が脚を締めつけてきた。
「会うのをやめたら、どうするんだ」
「どうしもしない。一カ月あなたが辛抱してくれれば、その間に私の気持ちも鎮まると思うの」
「嘘をつけ。その間に何か工作するつもりだろう? もう一度あの娘に会って別れてくれと言う気だな」
「絶対にそんなことしない。いまはとっても辛いの、あなたが園池さんと寝ていると思うと、私、気が狂いそうになるの。ね、お願いだから一カ月辛抱して」
「無理だな。俺も気が狂いそうになるんだ、あの娘に会わないと」
「一カ月でいいの、たった一カ月でも駄目なの?」
「駄目だ、一カ月どころか、三日と会わずにはいられないんだ」
知子の気持ちを鎮めるために嘘をつくのはたやすかった。知子も本音を聞きたがっているのではあるまい。たとえ嘘でもいいから、いまは気休めの言葉が欲しいのだろう。そのせつないまでの気持ちは判るのだが、しかし、私は方便を使いたくなかった。文世のためにも、知子のためにも、いい加減な、その場限りの口約束はしたくなかった。いや、だれのためでもない。私自身、毎日でも文世と会いたいのだ。一カ月も顔を見なかったら、仕事も手につかないだろう。
知子が胸から顔をあげ、上目遣いに私を見た。髪が額を半分おおい、これまで見せたことがない妙にエロティックな目つきだった。
「そんなにあの人の……いいの?」
「ばか、体じゃない」
「ね、私、なんでもする、どんなことでもする」
上目遣いのまま、知子の顔が私の体を這って下のほうへ遠ざかって行く。
「判らない奴だな。こればかりは替わりが効かないんだ……よせ、そんなことをしたって無駄だぞ」
「ね、あの人もこうしたの。……あの人は、どうするの」
くぐもった声を合(あい)の手のようにして、知子の唇が這い廻る。いま知子は狂おしいばかりの情欲と嫉妬に身を焼かれているのだ。その生身の業が哀れだった。隣の牀で駿吉が可愛い寝顔を見せている。さっきより明るさが増し、雨はとっくに上がったようだ。暖房を切ったのか、肩のあたりが少し寒い。
――結論を急がないでください。
きのう、別れしなに言った文世の言葉が、その口調のまま思い出された。この分では急ぎたくても、急ぎようがない。
「もう、よせ。それより風呂に入ろう。お湯を出してこいよ」
脚の間からゆっくりと身を起こした知子が、浴衣の前を合わせながら、浴室のほうへ歩いて行った。その後ろ姿がひとしお哀れだった。
――可哀想たア、惚れたってことよ。
また文世のセリフが思い出された。
二月二十七日
海からの南風が暖かく、陽もうららかで、いっそ、眩しい。両側から駿吉と手を繋いで旅館の門を出る。道路のところどころに出来た水溜まりが、青空を映している。駿吉を吊り上げてその一つを飛び越させると、面白がって、はなれた水溜まりのほうへも手を引っぱる。きのうはよく見えなかった岬も、青空を背景に、松の緑までがひと際鮮やかだ。寝不足のはずなのに知子も晴ればれとした顔をしている。明け方の浴室での痴戯が、鎮静剤になったのか。おかげで私は心身とも疲れた。家に帰ってぐっすり眠りたい。
しかし、来週、文世に何と告げたらいいのか。まさか仰せに従って結論は出さなかったと正直に白状することは出来ない。あさっての三月一日は文世の誕生日。前から二人きりでお祝いをしようと約束してある。伊東へ出かけてくる前は、知子と別れ話をきっぱりつけて、それをプレゼントにしようと考えていた。が、こうなっては何か他の贈り物を捜さなくてはなるまい。
「駿ちゃん、もういや。ママ、手が疲れちゃった」
知子に手を放された駿吉が、両手で私の右腕にぶら下がった。バランスを失って足がもつれ、もう少しで水溜まりに踏みこみそうになった。
「私が居ない間、あの人と毎日一緒だったの?」
再び駿吉と手を繋ぎながら知子が訊いた。
「ずっと仕事だよ。あの娘だって働いているんだぞ」
「なぜ週刊誌の取材なんかしているのかしら。モデルにでもなればいいのに」
「写真を撮られるのが嫌いなんだ」
「どうしてかしら。私だったら……ね、それより、もう一晩駄目?」
「冗談じゃない。体が保たねえよ」
「おとなしくするから」
「お前の悪い癖だよ、すぐつけ上がるのが」
駅に着くと、ちょうど十分後に上りがあった。
「俺は藤沢で降りるぞ」
「いいわよ。私は小田原から小田急にするから。チビをロマンスカーに乗せてやりたいの」
小田原駅で私も降りた。新宿まで送ってやる気になったのだ。小田急のホームに上がり、赤電話で家へ掛けた。丸二日連絡していなかった。
「パパ? どこへ行ってたんだ!」
いきなり準が噛みつくような声で怒鳴った。
「何かあったのか」
「ママがひっくり返ちゃったんだ。すぐ帰ってきてくれ」
「ひっくり返った? 病気か」
咄嗟に、脳溢血? と思った。
「病気どころじゃないんだ。ちょっと待って」
十円玉を継ぎ足す手がかすかに顫えた。いま妻に脳溢血で倒れられたら、家の中は収拾がつかなくなる。遠くで誰かと話している準の声がする。背中まで焼けるような焦燥感を覚えた。
「いま、どこにいるんですか」
妻の、ひどく間のびした声が聞こえた。
「熱海だ、きのう急に麻雀大会に誘われたんだ。お前、どうしたんだ、病気じゃないのか」
「そう、病気よ、きのうの朝、倒れたの」
「原因はなんだ?」
「あなたよ」妻の声がシニカルな笑いを含んでいる。
「俺? 俺が何をしたと言うんだ」
「随分、長い間私を瞞していたものね。嘘つきは知ってたけど、これほど非道(ひど)いとは思わなかったわ。やっぱり、知ちゃんだったんじゃない。あなた、知ちゃんに子供まで産ませていたのね。駿吉って言うんだってね、その子」
さすがに何も言えなかった。妻は誰に聞いたのか。ひそかに調べたのだろうか。
「そろそろ、三つになるそうじゃない。みんな判ってしまったわよ。すぐ近くに住まわせているんだってね、道理で掃除にくるはずよ」
そこまで知られていては、もはやシラを切ることはできない。それにしても、よりによって、こんなときにバレるなんて。
「誰に聞いたんだ?」
「あなた、よっぽど人に怨まれているのね」
「怨まれる? どうして」
「投書があったのよ、匿名の……それに何もかも詳しく書いてあったわ。だから、それを読んで、私、玄関でひっくり返っちゃったの」
不意に声をつまらせ、あとは鳴咽になった。その鳴咽にまじってブザーが鳴った。残っていた十円玉を慌てて入れた。もっと詳しく聞きたかった。が、言葉にならない。えらいことになったという思いだけが胸をふさいだ。
「パパ、とにかく、早く帰ってきてくれ」電話の声が再び準になった。「ママはきのうから何も食べていないんだ」
「わかった、出来るだけ早く帰る」
受話器を戻したが、少時、その場に立ちすくんだ。ホームの拡声器が、間もなく特急が到着すると告げた。
「どうしたの、顔が真ッ蒼よ。気分でも悪いの」
駿吉の手を引いて近づいてきた知子と目があった瞬間、この女かも知れないと思った。
――どうせ棄てられるなら、その前に自分から何もかもバラしてしまえ。
知子は恐らくそう考えたのだ。そして伊豆へ出かける前に投函したのだ。いや、きのうの朝、配達されたというから、旅先で出したのかも知れない。
「ね、どうしたのよ。何があったのよ」
わざと答えず、駿吉を抱き上げてロマンスカーに乗りこんだ。お絞りを配りにきた赤い制服のサービス嬢に駿吉のジュースを註文したあと、前後の座席に乗客がいないことを確かめた。私は努めて穏やかに聞いた。
「お前、うちに手紙を出したな」
お絞りで駿吉の顔を拭いていた手をとめて、
「手紙?」知子が眉を寄せた。「そんなもの出さないわよ。私が鎌倉へ手紙を出せるわけがないでしょ」
「正直に言えよ、怒らないから」
知子の顔を見据えた。どんな僅かな表情の変化も見逃すまいと思った。
「正直も何も……妙なこと言わないでよ」
この女でないとすると、一体、誰だろう。知子の目の動きを見つめながら、電話で妻から聞いた話をわざと間を置いて伝えた。知子の顔に怯えの色が徐々に浮かんだ。
「それで、ママは何て言ったの、私のこと。怒っているんでしょうね」
「お前じゃないとすると、誰の仕業なんだろう。俺は誰に恨まれているんだろう」
人間、いつ、誰に恨まれるかわからないというが、私には思い当たる節がなかった。
「ママはすぐ別れろと言うでしょうね、そう言われたら、あなた、どうするの?」
「お前は誰かに恨まれていないか」
「こんなことになるなら、私、やっぱり死ねばよかったんだわ。ね、私が死ねばママもいままで隠してきたこと、そう怒らないわね」
「もう手遅れだよ。それより、一体、誰だろう。俺に何の恨みがあるのか……」
本来なら、妻のショックを思い、危機に直面した知子の今後を考えなければならぬはずなのに、私は投書の犯人のことばかりが気になっていた。肚が立ってならなかった。
「私を恨むとすれば、あの人ね。ほかには考えられないわ」
「あの娘が? ばかを言え。なんであの娘がそんなことをするんだ」
「だって、私を追っ払えば、それだけあなたとの結婚の可能性が大きくなるじゃない」
「何を言ってるんだ。俺が伊東へ行く前に、お前のことを心配して、結論を急がないでくれと言ったほどなんだぞ。そんな肚黒いことをするものか」
「まるで私が肚黒いみたいね。……あなた、私やチビのこと、誰と誰に話してあるの?」
「高梨を別にして、名取、須山、阿部の三人だけだ。しかし、あの連中が俺のことを中傷するわけがない。そんなことをしたって一銭の得にもならない」
皆目、見当がつかなかった。
「森さんという人じゃない? あなたに園池さんを奪られて、恨んでいるんでしょ」
疑えないことはなかったが、駿吉の名前や年齢や、知子が住んでいる場所まで、どうやって調べたのか。日頃の森の性格から推してそこまで執念深く復讐するとは、とても考えられなかった。
「謝って済むことじゃないけど、ママによくお詫びしといてね。私もそのうちに直接行って謝るけど……。私、覚悟はしているわ。でも、チビのことを考えると……ね、お願い、何とかして」
新宿で別れるとき、知子はくどいほど繰り返したが、私には答えようがなかった。すべては妻の出方一つにかかっている。即刻手を切らなければ離婚すると妻が言い出したら、私はそのとおりにしなければならない。いままでの情事とはわけが違い、今度ばかりは寛容な妻も許さないだろう。
――しようがない、何もかも白状して、あいつの判決を待つしかない。
新宿から折り返し乗った江ノ島行きの特急が新原町田を過ぎる頃、私は自分に言いきかせた。

【十四】

二月二十八日
午後二時近くなって、ようやく牀を離れた。子供部屋を覗くと、準も章もまだ死んだようになって眠っている。台所で妻が汚れた食器類を洗っていた。きのうにくらべると、いくらか顔色がいい。吻として寝室に戻り、枕許から匿名投書をつまみ上げて、読み返した。
《前略 御注意申上マス 夫君ト小野トモ子サン(余丁町某アパート居住)トノ御子息駿吉様丸三年ノ誕生日 サゾオ可愛コトト察上ゲマス 目下余丁町近辺(嘘ト思ッタラ区役所調査セヨ)ニテ極秘裡ニ水入ラズノ生活ヲシテイマス 「パパ」ト駿吉君ニ言ワレル夫君トトモ子サンノ幸福ノスガタ 貴女ハ騙サレテイル 一日モ早ク子供ヲ入籍セヨ 夫君宅ヨリ徒歩五分ニテトモ子サンニアエル 冷静ニ問イツメルコト 夫君数年間ノ同棲ノ陰謀 興信所ニ頼ムベシ》
宛名は《津田方山田奥様》としてあり、差出人は春本花枝。筆蹟を隠すために、一画ずつ定規をあてがって書いたらしく、縦の線も横の線も活字のようにきちんとしている。書き上げるのに、かなりの時間がかかったに違いない。それほどのエネルギーを費やして私の家庭破壊をねらった投書犯人の怨念が何よりも不気味だった。
きのう、帰宅するまで、かなりの修羅場か、あるいは愁嘆場になることを私は覚悟していた。しかし、妻は意外に冷静だった。息子たちの話によると、妻は葉書を握ったまま玄関で貧血を起こし、意識が回復すると十分おきぐらいに仕事部屋に電話をかけた末、これから東京へ行くと言って着替えをはじめたが、その途中でまた倒れたという。妻は夜になって再び東京へ行くと言い張ったが、そのときは息子たちが引きとめたらしい。
「私が間抜けだったのよ、鈍かったのよ」
それが私を迎えたときの、妻の最初の言葉だった。
「お正月に仕事部屋に行ったとき、もっと近所の人に詳しく聞けば、知ちゃんだとはっきり判ったはずですものね。近くの未亡人だというあなたの弁解を鵜呑みにしていたわけじゃないけど、まさかと思って。もっと正直に言えば、私、心の底で知ちゃんじゃないことを願っていたのね。それに四年間、一度も仕事部屋へ行かなかったんだもの、妻として、それが最大の落度よね」
妻は私を責めるより、己を責め、反省めいた言葉を連ねた。それがかえって私を戦(おのの)かせたが、投書が舞い込んでから私の帰宅まで丸一昼夜たっていたことが、妻のショックや怒りを鎮静させるのに役立ったのも確かだった。
昨夜は、というよりもけさの四時近くまでかかって、私は妻と息子たちの前で一切を白状した。知子のことばかりでなく、文世との関係もぶちまけた。一昨日仕事部屋を留守にして知子母子を伊東まで迎えに行った理由を説明するには、そもそも知子がなぜ飛び出したかを語らなければならなかった。
「やっぱり、そうだったの。滅多に人を褒めたことのないあなたが、お正月にその娘のことだけは褒めちぎっていたから、ヘンだとは思っていたけど……もう、あのとき、体の関係まであったの」
しかし、文世のことで知子も嫉妬に苦しんでいたのを知ったせいなのか、妻はあまり怒らなかった。
「問題はその駿ちゃんという子だね」
準が大人びた口調で言い、章も、「弟か――」と嘆息するように呟いた。
「パパはその子をどうするつもりなんだい」
準に訊かれて返辞に窮した。別れ話をつけに伊東まで出かけたものの、結局、じゃあじゃあぐじゃぐじゃになってしまったとは、さすがに言えなかった。
「ママ、その子を引き取ったら?」
「私が?」妻は、準と私を見てから、「でも知ちゃんが手放しっこないわ」と答えた。
引出しの手帖を思い出して、「手放すかもしれない」と私が言いかけようとしたとき、「駄目だよ」章が断ち切るように言った。「兄貴も俺も受験を控えて、いま、いちばん大変なときなんだぜ」
「ばかねえ」と妻が言った。「たとえ引き取るにしても、もっと先の話よ」
私がお白州(しらす)から一応放免され、息子たちが子供部屋に引き揚げたのは午前三時半を廻っていた。寝室で夫婦二人きりになったら、また蒸し返すのではないかと懼(おそ)れたが、妻はいつもと同じように私と一つ牀に入り、腿が触れても避けようとしなかった。その腿がうっすらと汗ばみ、妻の息づかいが元に戻ったとき、ともかくこれで最初の一日が終わった、長い一日だったと、私は心身の疲れからはじめて解放されたのである。
夕方、親子四人が久し振りに食卓を囲み、私がビールを持ってきてくれと言うと、
「あなたみたいな太平楽な人、見たことないわ」
妻は呆れ顔で言いながらも栓を抜いた。
「俺にもちょっとくれよ」章がコップを差し出した。
「お前、受験勉強中だろ」
「へーえ、俺たちのこと、少しは気にしているんだね」
日頃からへらず口をたたく子で、それがいまの私にはかえって救いになった。妻もビールを一口飲んでから、
「あなた、彼女と準を会わせたそうね」
だが、咎める口調ではなかった。準がチラッと私を見たのも、悪戯を見つけられたときのような目つきだった。
「そのうち、俺にも紹介してくれよ」
「ばか」と妻は章を叱り、「男の子はこれだからね。母親の味方にはなってくれないのね」と嘆息した。
「俺はパパの味方じゃないよ」と準が言った。
「今度のことは明らかにパパが悪い。弁解の余地は全くないよ。でも、出来ちゃったことをいくら責めたって、解決にはならない。問題はどう処理するかだよ」
「そのとおりだ」うっかり相槌を打った途端、「あたたッ」と妻が睨んだ。
しかし、私が予想もしなかった奇妙な団欒ではあった。むろん、嵐が去ったわけではない。準の演説どおり問題はこれからで、今後、一荒れも二荒れもあるだろう。いわば嵐の前の静けさである。つくられた団欒、偽りの団欒とも言えた。だが、たとえ似非(えせ)団欒にせよ、狎れ合いにせよ、いま間違いなく親子四人は一つの卓を囲んで晩飯を喰っている。残ったビールを飲み干しながら、この分では何とか切り抜けられそうだ、と思った。やはり私は後生楽なのだろうか。
三月一日
「投書は知ちゃん自身じゃないかしら。一日モ早ク子供ヲ入籍セヨ、と書いてあるでしょ。これが目的じゃないのかしら」
妻に言われて、知子への疑惑が再び鎌首をもたげた。確かに「入籍セヨ」という命令形だけが前後の文章から浮き上がっている。知子が誰か親しい人に頼んで書かせたのだろうか。妻が私に愛想をつかせば、知子には思う壷である。私が文世を愛していることは知っているが、まさか子供まである仲の自分を差し置いて再婚はすまい――知子はそう考えたのではあるまいか。しかし、知子はいつだったか、こう言ったことがある。
「もし仮に、ママがあなたより先に死んでも、私はその跡に入らないわよ。私にはママの真似はとっても出来ないもの」
あるいは反語だったかも知れないが、そのとき私もはっきり言った。
「当たり前さ。チビの籍は入れても、俺はお前と再婚はしないよ」
それに知子は妻の名前を知っている。私がどうしても解せないのは「山田奥様」という書き方であった。これは犯人が妻の名前を知らない証拠である。
勤めを辞めて以来、私は誰にも、どこでも、筆名で通してきた。編集者や記者たちは、妻の名前どころか、私の本名さえ知らない。郵便物も本名でくるのは、市役所や税務署の通知ぐらいである。そして駿吉のことを知っている四人のうちで、私の本名を知っているのは、二十年来のつきあいである高梨だけであった。
しかし、高梨は友情を守りきってくれた。
私の留守に、「あなたなら詳しいことを知っているはずだ」と妻から電話で責められたとき、高梨は最後までシラを切り通した。その証拠に、実は彼が駿吉の名付け親の一人だと私が打ち明けると、
「男の友情って……」と妻は絶句した。
もう一つ私が解せないのは、密告の目的である。私の家庭が壊れると、犯人はそれによって何か得るものがあるのだろうか。それとも破壊そのものが目的なのか。私の暮らしは人に軽蔑はされても、けっして羨ましがられるようなものではない。金も地位も名誉もない。それに、たとえ離婚しようが、対世間的に私が失うものはない。離婚が仕事に影響するはずもなかった。
もっとも、家庭が紛糾すれば、それを収拾するために仕事の時間を奪られるかも知れないが、名取編集長も須山君も、「うちの仕事をもっと引き受けてくれ」と言っているくらいである。阿部もときどき、「知子さんのためにも、もっと仕事をしなくては駄目ですよ」と言う。この三人が私の仕事に響くようなトラブルを図るはずがない。どう考えても、いや、考えれば考えるほど、私には犯人がわからなくなるのだった。
夕方、田所君から電話。今週は締切りが一日早いので、あすから『シリーズ人生』にかかってくれ、と言う。夕食後、煙草を買いに出たとき、知子のアパートに電話をかけ、管理人に「あす帰る」という伝言を頼む。文世の家にも電話すると、「きょうは誕生日なので、兄と食事に出かけた」と母親が言った。知子は身を縮めて戦々競々としているだろうし、投書騒ぎを知らない文世は、伊東での結果も報さず、きょうの約束もすっぽかした私を、さぞ怒っていることだろう。
三月二日
小田急江ノ島駅で電車に乗る前に文世へ電話をかけ、午後零時半に新宿駅改札口で落ち合った。デパートの最上階にある鰻屋に入り、黙って投書を見せ、文世が読み終わるのを待って、この三日間のいきさつをかい摘んで話した。
話の途中で私は運ばれてきた重箱の蓋を取り、箸を割ったが、文世はお茶にさえ手を伸ばさなかった。
「冷めちゃうよ」
「とっても食べる気になれないんです。……あの方はどうなさっているんですか」
「まだ会ってない。しかし、あれも今度は覚悟していると思う。僕にとっても別れるまたとない機会なんだ。ね、少しでも食べたら」
「はい」と頷き、もう一度投書を手にして文世が呟いた。「津田さんというのは、ペンネームだったんですね」
文世にも本名を知らせていなかったことにはじめて気づいた。文世には、私の話よりも、そのほうが衝撃だったのかも知れない。中身を半分以上残して重箱の蓋をしめながら文世が言った。
「私にもお知らせしておきたいことがあるんです」
「何?」
「きのう、津田さんのことを兄に打ち明けましたの。そうしましたら……」
「叱られたろう? すぐやめろって言われたろう?」
「いいえ。兄は……妻子ありかって、唸ってました」
ようやく文世の顔がほころんだ。
「それで?」
「それだけしか言いませんでした。かなり驚いたようですけど、お前もきょうで満二十六になったんだから、俺は何も言わないって。私も兄からびっくりさせられました。実は、兄はときどき父に会っていたんです」
「じゃ、居所を知っていたの?」
「はい。去年から二カ月に一ぺんぐらいずつ会って、お小遣いも渡していたそうです。父は女のひとと別れて、生活にも困っているそうなんです。兄は母や私の前では父を許さないといっていましたけど……私、兄を見直しました。お前が会いたければ、いつでも会わせてやると兄は言うんですが……」
「会っていらっしゃい、お父さん、喜ぶよ」
「父は新しい仕事が見つかって、近く大阪へ行くそうです。兄は家に帰ってこいと言ったそうですが、親爺は黙って首を振っていた、と言ってました」
文世の目にうっすらと涙がにじんできた。
「あしたにでも会いに行ったら? 大阪へ行ってしまったら、なかなか会えなくなるよ」
「私、会いません」
「お母さんに遠慮しているの?」
「お前さえよければ暫く大阪で父と暮らしてみないか、と兄が言うんです。私、会ったら跼いて行ってあげたくなるからです」
濡れた目をじっと注いできた。私は慌てて視線をそらした。何も言えなかった。文世の兄が大阪行きをすすめたのは当然である。私も彼の立場だったら、やはり妹を妻子ある男から引きはなそうと考えるだろう。文世が父親と一緒に大阪へ行ってくれれば、兄にとっては一石二鳥である。失意の父親も喜ぶに違いない。私は自分を父親の身にもなぞらえてみた。もし文世と一緒になることが出来たとしても、何年かのちに文世に棄てられたら、私もまた彼女の父親のようにどの面さげて家に戻れようか。たとえ準や章が、彼女の兄のように「帰って来い」と言ってくれたとしても……。だが、そんな仮定の場合を考えるより、いま、私は文世を失いたくない。文世と会えない日々に堪えられそうもなかった。
「とにかく、会うだけでも会ったら」
「そうですね」ぽつんと、うつろな声であった。
取材へ行く文世と別れて、知子のアパートに寄ると、きちんと、よそゆきの着物を着ていた。
「どこへ行くんだ」
「もしかして、ママに呼びつけられるんじゃないかと思って……」
脅えきった表情で、目も落ち窪んでいた。
「なぜ電話をかけてくれなかったの。ゆうべも仕事部屋でずっと待っていたのに」
「うちの奴はまだ何も言わないよ。駿吉のことがあるから、そう早く結論を出せるわけがないだろ。それより、投書は本当にお前じゃないんだな」
「まだそんなことを言っているの。ママにバレたら一番困るのは私じゃない。どんな投書なの? 持ってきた?」
「あとで見せる。俺はすぐ仕事があるんだ。夜七時すぎに仕事部屋に来い」
知子がいま最も不安に陥っているのを承知しながら、私は劬(いたわ)ってやるどころか、いつもより素っ気なくした。優しくしてやったら、別れないでくれ、棄てないでくれ、と縋りついてくるに違いない。そうなったら別れるときよけい手古摺る。つれなくすれば、それだけ早く覚悟するだろう。
仕事部屋で高梨に電話をかけ、七時頃にきてくれと頼み、阿部にもかけたが、留守であった。名取、須山両君にはあす仕事が終わってから直接会うことにした。まさかとは思うが、口外しなかったかどうか、念を押しておくに越したことはなかった。
田所君が打ち合わせをすませて帰ったあと、すぐ仕事にかかったが、書き出しがきまらず、煙草ばかり吸いつづけて、少し後頭部が痛くなった。
七時きっかりに知子が駿吉を背負って現われ、つづいて高梨がやってきた。二人に投書を見せ、犯人の見当が全くつかないと私は言った。「本当に俺を入れて四人しか知らないのか」と高梨は念を押し、「あんたのほうは?」と知子へ目を移した。
「叔母や友だちの家にはチビも連れて行ったことがあるけど、私に不利になるようなことを……第一、みんな、鎌倉の所番地さえ知らないわ」
高梨と私が犯人割り出しの方法を練っていると、知子がややヒステリックな声で言った。
「さっきから聞いていると、投書のことばかりなのね。肝腎な私とこの子のことはどうでもいいの」
「今更、じたばたしたってはじまらないじゃないか」
「いずれにせよ」と高梨が口を挿んだ。「奥さんの気持ちにまかせるより仕方がありませんよ」
私が黙っていると、
「じゃママが別れろと言ったら、あなたはそのとおりにするのね。あなた自身の意志はないのね。ママにバレたときは何とかしてやると言ったのは、嘘だったのね」
「何とかしてやりたいけど……」言質をとられまいとして私は語尾を濁した。
「私は園池さんだと思うの、この投書」
「彼女じゃない、絶対に」
「なぜ?」
「彼女はこれを見るまで、俺の本名を知らなかったんだ」
知子の顔から血の気が引いた。唇を半開きにし、目をいっぱいに見開いて暫く私を見つめていたが、かすかに首を左右にふると、
「そうだったの、あの人に先に見せたの」
呟きながら駿吉を抱いて立ち上がった。高梨に碌に挨拶もせず部屋を出て行く知子を、私は黙って見送った。

あとで人に説明したとき、「虫が知らせた」と私は言った。が、本当をいうと、ちょっと気になっただけであった。十一時すぎに文世が電話をかけてきて、「あと一時間ぐらいたったらお伺いします」と言ったとき、知子のアパートを覗いてみる気になったのは、ひょっとして夜更けに知子がやってくるかも知れないと思ったからである。ときがときだけに鉢合わせだけは避けたかった。しかし、路地を小走りに抜けながら、ガス管でもくわえているんじゃないかな、という危倶がちらっと頭を掠めたのは確かだから、やはり虫が知らせたと言えるかも知れない。たとえ一瞬にせよ、なぜ、そんな危倶を抱いたのか、私自身、わからない。知子の死を願う潜在意識があったのだろうか。
奥の部屋で、知子と駿吉は別々の蒲団に眠っていた。吻として引き返そうとしたが、いつも目ざとい知子の掛け蒲団がピクリとも動かないのが気になった。ためしに小声で名前を呼んでみた。やはり、動かない。声を大きくした。まだ動かない。蒲団の裾に膝をつき、四つン這いになって覗きこんだ。蒲団の襟に鼻まで埋め、枕許のスタンドの灯に髪の毛が少し赤茶けて見えた。馬乗りになった恰好で蒲団をはがすと、新しい浴衣を着ていた。その両肩を揺すって、おい、と呼んだ。知子は薄目をあけたが、すぐまた閉じた。もう一度、肩を乱暴に揺すった。
「お前、薬を嚥(の)んだなッ」
知子が微かに頷き、眠いの、寝かせてと目を閉じたまま嗄れた声で答えた。
「ばかッ、いつ嚥んだ、何という薬だ、おい、起きろ」
頬を叩いた。肩を揺すりつづけた。
「お願い、眠いのよ、このまま寝かせて」
無性に腹が立った。思いきり殴りつけたかった。
「ふざけるな、起きろ、どれくらい嚥んだんだ」
知子の唇が動いた。が、声にはならない。嚥んでからさほど時間は経っていないようだ。
蒲団を全部剥がし、両腋(わき)に腕を入れて抱き起こした。
「いや。眠いんだってば」
「駄目だ、起きるんだ」
台所の流しの前へ運んだ。ちょっとでも力を弱めると、足萎えのようにその場へくずおれそうになる。左腕で背をかかえ、右手の人差し指を知子の口の中へ突っこんだ。
「さ、吐くんだ」
しかし、ゲーゲー言うだけで、粘っこい唾液しか出ない。そばのしゃもじ差しに、古い割箸が何本かささっていた。それを咥(くわ)えさせ、もう一度指をこじ入れた。割箸が落ち、指をまともに噛んだ。
「ばか、吐くんだ。吐かないと死んじゃうぞ」
「ね、やめて。……あと、頼むわね」
腕の中で知子は急に意識を喪った。牀まで引き摺り、仰向けに寝かせた。息が切れ、ハアハア言いながら駿吉を見た。縫いぐるみの熊に手をかけて、ぐっすり寝入っている。
一町ほど離れた医者を起こし、手短かにわけを話した。「すぐ連れてきなさい」と、ガウンの紐を結び直しながら医者が言った。この医者に知子は中絶して貰ったことがある。駿吉も風邪を引いて二、三回かかったことがあった。
仕事部屋に駆け戻って、家に電話をした。私一人では手に負えない。妻に応援を頼むしかなかった。私の声はよほど上ずっていたらしい。「落ち着きなさいよ」と妻はまず言った。「すぐ行きますからね、心配しないで。駄目よ、あなたがしっかりしなくちゃあ。大丈夫、死にゃしないわよ。お医者さんが巧く処置してくれるわよ」
私も落着きを取り戻し、金はあるのか、と聞いた。
「たいして無いけど……あ、あるわ、準の入学金が。みんな持ってゆくわ。夜中だから、タクシーを飛ばせば一時間ぐらいで行けると思うわ」
「俺は医者に行くから、チビを頼む。知子のアパートまでの道順を書いて、部屋に置いておく」
「わかった。出来るだけ早く行くわ、いいわね、落ち着くのよ」
略図を書き終えたとき、アパートの前で車のドアが閉まる音がした。階段を駆け降りると、やはり文世であった。その腕を摑んで路地を曲がった。
「どこへ行くのですか」
「あの女が自殺を図ったんだ」
文世が足をとめた。
「これから医者にかつぎこまなきゃならないんだ。手伝ってくれ」
私は足を速めた。私に引き摺られながら、文世が何か言おうとした。
「多分、助かると思う。いま家に電話して、うちの奴にも来て貰うことにした。それまで手を貸してほしいんだ」
文世のショックや感情を考慮している暇はなかった。彼女の腕から手を離して、私はさらに足を速めた。手伝うのがいやなら黙って帰るだろう。断わられても仕方がなかった。文世の靴音が跡を追ってきた。
ハンガーから羽織をはずし、文世の手を藉(か)りて正体のない知子に着せかけた。両脚を踏ン張ってその体を背負った。四十キロないはずなのに、ひどく重い。息が詰まりそうだった。医院まで背負い通せるかどうか自信がない。だが、何としてもかつぎこまねばならない。背中の知子は軽い鼾をかいていた。
文世が先に階段を降り、下駄を揃えてくれた。一段ずつ、ゆっくり降りた。一段ごとに重みがました。袖がまくれ、剥き出しの知子の両腕が肩から垂れて、私の胸の前でブランブラン揺れる。それが視界の邪魔をする。やっと下駄を履いた。ゆるんだ鼻緒が気になったが、「よいしょ」と声をかけて背負い直し、歩幅を落として歩き出した。女をおぶったのは、はじめてであった。しかも正体を失った躰である。いまにも背中からずり落ちそうで、ものの十メートルも歩かぬうちに腰が痛くなった。
さっきは一気に駆けた医院までの道が、ひどく遠い。知子の尻をかかえた腕に力をこめ、二度も三度もゆすり上げた。傍の文世が手を添えて、「大丈夫ですか」と何度も訊く。次第に前かがみになり、ようやくそこだけ明るい医院の前に辿り着いたときは、頭を擡(もた)げることも出来なかった。幸い、玄関脇に大きたゴミ箱があった。その蓋の上に知子をおろし、大きく息をついた。文世が後ろから知子を支えた。そのとき、頬につめたいものが触れた。雨であった。アパートからそこまで、誰にも会わなかったことも、みじめな思いから救ってくれた。
医者に言われて、私は診察台に寝かされた知子の頭を、文世は膝を押えた。医者が左手で知子の頬をつかみ、指先に力をこめた。唇が開いた。その隙間に細いゴム管を差しこみ、少しずつ送りこんだ。突然知子が烈しい勢いで頭を振った。ゴム管がはずれた。私は慌てて両手に力をこめた。医者がまたゴム管を差し入れた。今度は凄まじい捻り声をあげはじめた。けだものじみた声であった。膝を押えたまま文世が目をつぶり、顔をそむけた。知子の額に静脈が浮かび、こめかみの血管がふくらんだ。呻き声はさらに大きくなった。両手が使えたら、私も耳をふさぎたかった。ゴム管をなおも送りこみながら医者が呟いた。
「こんな痛い思いをしなくちゃならないんだから……」
私にも骨身にこたえる言葉だった。
医者がゴム管のはじをくわえて、大きく吸った。深呼吸をするように二度も三度もそれを繰り返した。知子の捻り声が間遠になり、医者がゴム管の先を下におろした。間もなく青黄色い液が滴り出し、診察台のわきに置いたポリバケツに雨だれのような音を立てた。医者はゴム管を持ったまま跼み、液の出具合を見つめた。バケツの底が液で見えなくなり、そこからかすかに湯気が立った。医者が液の中に指を入れた。ちょっと掻き廻してから指先の匂いを嗅いだ。バケツを傾けて量もはかった。
「大丈夫でしょう、これだけ戻しましたから」
私と文世は同時に溜息をついた。知子の口からゴム管がはずされ、汚れたその口のまわりを文世がハンカチで丁寧に拭った。いまにも泣き出しそうな表情であった。
「二階の病室でリンゲルを打ちましょう。多分、あす中には意識が戻ると思います」
裸電球のともった薄暗い畳敷きの病室であった。医者の細君が敷いてくれた薄い蒲団に知子を寝かせ、私はまた大きな息をついた。文世が遠慮がちに、知子の額に乱れた髪をかき上げ、せつなそうに目をしばたたいた。
「すまないけど、アパートに戻ってチビを見ていてくれないか」
この上、駿吉の世話をさせるのは酷だったが、と言って文世に知子の付き添いをさせるわけにはいかなかった。小さく頷いて立ち上がった文世が、ドアの前で不安そうに振り返った。
「僕も少し経ったら戻る。もし泣いていたら、パパがすぐ来ると言ってくれ」
火の気のない病室で肩をつぼめ、昏々と睡っている知子の顔を見詰めていると、また無性に腹が立ってきた。駿吉を身籠ったとき、「あなたと別れても産む」と知子は言った。一人で育てるとまで言い切った。すでに二回自然流産し、中絶手術も二回受けていた知子は、これ以上中絶したら母体に責任が持てないと言う医者の言葉を援用して、「あなたはいっそ私が死ねばいいと思っているんでしょ」と全身をふる顫わせた。そんな思いまでして駿吉を産んだくせに、さっさと一人で死のうとした身勝手さへの腹立ちであった。
むろん、そこまで知子の気持ちを追い詰めたのは私である。しかし、私は知子に永遠の愛を約束したわけではない。変わらぬ愛を誓った覚えもない。私が気まぐれで、放埓で、女にだらしがないことは、知子もよく知っているはずであった。
――それなのに面当て自殺なぞ図りやがって。
むろん、私の心に憐みがなかったわけではない。しかし、知子の思い詰めた心情を思うよりも、自殺騒ぎによって周りの者がどれだけ迷惑を蒙り、どんな気持ちを味わわねばならないか、それを考えようとしなかった思慮のなさが、許し難かった。知子が死ねば、私はむろん、妻も文世も一生、負い目を感じなければならない。駿吉にしても、成人後、母を死に追いやったのが父の女出入りと判れば、私を怨みつづけるだろう。もしそれも承知の上で服毒したとすれば、結局、知子も心の底から私を愛してはいなかったことになる。所詮、人間は報われぬ愛を貫き通すことは出来ないのか。
リンゲルの用意をして病室にやってきた医者が、知子の脈を診て、少し眉を寄せた。
「大丈夫でしょうか」私は思わずせきこんだ。
「多分」と言ってから医者は、わざと私のほうを見ないでつけ加えた。
「どんなことがあろうと、人間、生きていかなくちゃいけません」
腕時計を見ると午前一時を廻っていた。そろそろ妻が着く頃である。子供が心配なのでちょっと家に戻ってきたいが、と私は恐るおそる言った。
「いいですよ。もう、心配はないでしょう」
外へ出ると濡れた舗道に外燈の光がにじんでいた。

【十五】

三月三日
「主人が色々お世話になりまして」
妻が両手をつくと、文世も髪が畳に触れそうになるほど深々と頭を下げた。初対面の挨拶をかわす二人の傍で、私はほっと息をついた。妻の口調には少しの厭味もまじっていなかった。
「ご免たさいね」と妻は、まだ俯向いている文世に謝った。「あなたにまで、ご迷惑をかけてしまって。いやな思いをなさったでしょ」
「いいえ」と文世が少し顫え声で答えた。「私がいけないんです。私のせいでこんなことに……」
「悪いのはこの人よ」
妻は私へ目を向けて、きっぱりと言った。私は黙って小鬢(こびん)をかいた。
「みんなこの人が蒔いたタネよ、自分では刈れもしないのに。本当にしようがない人なのよ。あなたも驚いたでしょう、呆れ返ったでしょう」
文世がまた俯向いた。答えようがなかったのだろう。妻は坐ったまま、部屋の中をゆっくり見廻した。冷蔵庫、食器棚、箪笥、本箱へと移ってゆくその目つきが、次第に険しくなる。頬が少し引きつった。いずれも知子が自分の貯金で買いそろえた物だが、それを説明するわけにはいかなかった。
この部屋を借りたのは駿吉が産まれる三カ月前だったから、丸三年たつ。その三年間、夫が寝泊まりしてきた隠れ家を、妻はいま、わが目で確かめている。胸は恐らく張り裂けんばかりだろう。妻ばかりではない。文世も居たたまれぬ想いだろう。妻も文世も、出来ることたら生涯目にしたくなかった家である。
だが、知子の自殺騒ぎがいやでも二人の足をこの家へ踏み入れさせ、私が隠してきた生活の半分を否応なく目にしなければならなくなった。特に文世は、知子のけだものじみた捻り声を耳にし、妻とも顔を合わせる破目になった。いつかは妻と会わねばならぬと思っていたかも知れないが、まさかこんな会い方をするとは夢にも考えなかったろう。総ては私の放埓さ、無節操の結果である。心をズタズタにされた文世は、妻も言ったように私に呆れ果て、絶望したに違いない。
今夜はいきなり捲きこまれてやむをえず手を藉したが、いますぐにでもこの場から逃げ出したいと思っているに違いなかった。
「とにかく、私、着替えさせて貰うわ」
妻が帯締めをほどきはじめた。
「その前にお茶を淹れてくれ。喉がカラカラなんだ」
「あ、私が淹れます」
文世が卓袱台の前にいざり寄ったとき、暗くしてあった奥の部屋で駿吉の蒲団が動いた。私が立ってゆくと、むっくりと起き上がった。
「おしっこか」
コックリした駿吉を抱き上げ、妻と文世のわきを通ってトイレヘ運んだ。二人の、それぞれの想いのこもった目を背中に感じた。
朝顔の前で手を添えてやりながら、小さな耳に言いきかせた。
「ママはね、ポンポンが痛いんでお医者さまへ行ったからね。おとなしくしているんだよ。ボクのことはね、おばちゃんが見てくれるからね」
「おばちゃん? どこのおばちゃん?」
何と説明していいか言葉に詰まっていると、
「駿ちゃん、終わったら早く出ていらっしゃい」妻が声をかけてきた。私もついでに用を足して部屋に戻ると、駿吉は妻の膝に腰かけ、その前に寄った文世が、口をとがらして駿吉に飲ませるお茶をさましていた。
「ボク、このお姉ちゃん、知っているだろ?」
文世が目だけで笑いかけると、駿吉はうなずいて、「ケーキ」と言った。多分、抜弁天の喫茶店で会ったとき、一緒にケーキを食べたのを思い出したのだろう。
駿吉を妻に頼んで、私と文世は雨の中を医院へ戻った。それからすっかり夜が明けるまでの丸五時間、二人は交替で知子の体を押えつづけた。リンゲルの太い注射針を差しこまれた知子の左腕を一人が押えている間、もう一人は、枕許と蒲団の裾をいそがしく行ったりきたりした。知子が少しもじっとしておらず、枕の上で激しく頭を左右に振ったり、自由の利く右手で掛け蒲団をはねのけたり、はては両脚で蒲団を蹴り、太腿まで露わにしたからである。
「苦しいんですねえ、よっぽど」
知子の腕を押えながら、泣き出しそうな顔で文世はくり返し呟いた。その苦しみを与えた因は他ならぬこの私だったが、知子があまりにも踠(もが)くので、体の重みを加えながらつい叱りつけた。
「おい、もう少しおとなしくしろ」
むろん、意識のない知子に聞こえるはずはなかったが、もしそばに文世がいなかったなら、私は怒鳴りつけるだけでなく、知子を殴りつけていたかも知れない。次第に知子の踠きが私の非を責め立てているように思えてきたからであった。
「どんな具合です」
医者が覗きに来たのは、ようやく知子が静かになって、軽い鼾をかきはじめた頃であった。医者は聴診器をあて、瞳孔を調べてから、穏やかな口調で言った。
「この分なら遅くとも夕方までには意識を回復するでしょう。目が醒めると空腹を訴えますから、欲しがる物は何でも食べさせてください。発見するのがもう一、二時間遅れていたら、危ないところでしたね」
いっぺんに疲れが出た。医者が去ると、文世が壁のほうへ体を向けて頭を垂れた。泣いているようであった。
暫く知子の様子を見てから仕事部屋へ行き、田所君の自宅に電話をかけて、原稿を断わった。一旦引き受けた仕事を途中で断わったのは、はじめてであった。

昼すぎ、知子のアパートに戻ると、妻が兵児帯で駿吉をおぶっていた。
「この子を鎌倉へ連れて行きますね。何か作りたくても、ここの家、何がどこに入っているか、判らないもの」
「大丈夫かな」
「何言ってるの。この子、あれからずっと起きっぱなしで、すっかり私になついちゃったわ――ねえ、駿ちゃん、鎌倉ママのおうちに行くのね」
妻の背中で駿吉が大きくコックリした。その後ろへ文世が寝んねこ袢纏を着せかけた。
「気がついたら知ちゃんに言ってね、駿ちゃんのことは心配しないようにって。それからこの子の服、適当に持っていきますからね」
私は急いで茶箪笥の引出しをあけたが、いつか見た布製の手帖は見当たらなかった。
「じゃあ、帰りますね」
妻が両手に大きな紙袋をぶら下げた。袋のはじから駿吉の玩具がのぞいていた。
「子供たち、驚くだろうな、チビが行ったら」
「さっき、家に電話しておいたわ。準はね、きょう市立大の受験だったけど、受けに行かなかったらしいわ。ゆうべ一晩中起きてたそうよ。助かったのならなぜすぐ電話をかけてよこさなかったのかと、叱られちゃった」
風も加わって、外は吹き降りになっていた。
「弱ったわね、これじゃ傘もさせないわ」
「あの、よろしかったら私がお伴致しましょうか」
文世が遠慮がちに申し出た。
「そうして貰おうかしら」妻が私の顔色を見た。この雨の中を子供を背負った妻だけを帰すわけにはいかなかった。と言って、文世に家まで送らせれば、文世は今晩、鎌倉に泊まらなければならなくなる。文世にとっては、ここにいるよりも辛い夜になるだろう。いわば針の蓆に坐らせるようなものだ。
「すまないけど、新宿まででも送ってやってくれないか」
「はい」文世はすぐ外套を着こみ、妻から紙袋を受け取った。
「ケーキのおねえちゃんも行くの?」
寝んねこの中で駿吉が嬉しそうな顔をした。
「ボク、向こうへ行ったら、おとなしくするんだぞ」
「大きい兄ちゃんがいるんだって。鎌倉ママ、早く行こ」
この際、人見知りをしない駿吉の性質が何よりの救いだった。妻と文世は肩をくっつけ、一つ傘に入って表通りへ出て行った。その後ろ姿を見送りながら、急に空腹を覚えた。
医者が言ったとおり、知子が意識を回復したのは五時頃であった。三、四回薄目を開けたり閉じたりしていたが、そのうちに枕許に坐った私の顔がはっきりしてきたらしい。唇を微かに動かした。
「え、何だい?」唇のすぐそばまで持っていった耳に、「ご免なさい」という消え入りそうな声が聞こえた。しかし、また目を瞑ってしまった。
文世が新宿から戻ったのは、知子が意識を取り戻す少し前であった。途中で買ってきたワッフルの包みを枕許に置き、知子の寝顔を少時眺めていたが、「私、帰らせていただいてよろしいでしょうか」と、ためらいがちに言い出した。
「有難う、おかげで助かったよ。家に帰ってぐっすり休んでくれ」
「本当は私も居なければならないのですが、奥さまに言われましたの。意識が戻ったとき知ちゃんが余計辛い思いをするから、あなたは顔を見せないほうがいいって……。あした、また参ります」
文世が帰ったあとで、ワッフルが知子の好物だったのに気づいた。昔、家に遊びに来ていた頃に知子から聞いて妻は覚えていたのか。三十分後にはっきり意識を取り戻した知子は、そのワッフルを一つ食べ、医者の細君が運んできてくれた五目寿司も私が養ってやると二、三匙(さじ)、口にした。知子が残したその五目寿司を食べながら私は、きょうが桃の節句だったのに、はじめて気づいた。
三月四日
夜七時まで知子に付き添う。溲瓶(しびん)はいやだと言うので、その間二回、トイレに連れて行った。和式便器に手を添えてまたがらせ、浴衣の裾をまくってやり、後ろから支えた。妻にもこんなことをしてやったことがない。私のために命を棄てようとした女が、死に損ねて、私に体を抱えられながら用を足している。その尿の音をじっと聞いた。
九時すぎに阿部が仕事部屋にやってきた。例の投書を見せると、駿吉のことを誰にも口外しなかったと彼はきっぱりした口調で言い、「僕が徹底的に犯人を捜査しましょう」と意気込んだ。彼の口ぶりから察すると、私と文世との仲はデータマン仲間でかなり噂になっているらしい。
「坊やのことは知らなくても、津田さんがこの仕事部屋のそばに女を囲っていることは殆どの者が知っています。その上、園池文世にまで手を出したという噂で、若い連中のなかにはあなたの悪口をいう者がかなりいますよ」
「かげでどんな噂をされようと構わないが、怨みを買うようなことじゃないはずだ」
「園池文世をひそかにねらっていた男は意外に多いんです、僕も最近知ったんだけど」
しかし、阿部が挙げたのは私が知らぬ男ばっかりだった。文世が井口に結婚を申し込まれたことを思い出して話すと、
「井口? 奴ならやりかねませんね、陰険な男だから。よし、それとなく探ってみましょう」
誰の仕業にせよ腑に落ちないのは、犯人がどうやって駿吉の名前や歳を知ったか、である。
「わけありませんよ。区役所で住民票をとれば、すぐ判ります。これはわれわれ取材記者のイロハですからね。あすにでも区役所に行って調べてみましょう。住民票をとるには申請書を出さねばなりません。その控えを見れば誰がやったか、すぐ判ります」
阿部と入れ違いに、「遅くなって申しわけありません」と詫びながら文世が来た。『皇室物語』の取材で朝からまた逗子へ行き、いま帰ったばかりという。少しやつれている。無理もない。一昨夜は知子の看病で一睡もせず、昨日は雨の中を何度も医院とアパートの間を往復した上、妻を新宿まで送って行った。そしてきょうは朝から取材。それに文世はきのう、「私のせいでこんなことに」と何度も自分を責めていた。思いつめた知子も哀れだが、考えようによっては文世のほうがよっぽど辛い思いだろう。だからかえって今更逃げ出すことも出来ず、今夜もやってきたのだろう。
「だいぶよくなったよ。食欲も出てきた。君も今夜はここでゆっくり寝ていきなさい」
昨日妻が置いていった浴衣を出すと、文世は素直にそれに着替え、私の胸に頬を埋めて目を閉じた。私も最初は静かに眠らせてやるつもりだった。だが、肌を寄せ合い、足首を重ね合わせてお互いの体があたたまってくると、やはり欲望を抑え切ることが出来なかった。背中を撫でさすっていた手を下へおろすと、文世も目を瞑ったまま手を這わせてきた。
一町ほどはなれた医院の薄暗い病室で、知子は死に損ねた体を横たえ、妻は鎌倉の家で駿吉に添い寝している。それなのに私は、心身ともに疲れているはずの文世の体をまさぐり、無慙な己の欲望に捲きこもうとしている。
一時間後、甘い疲労の中で、阿部の話を伝えると、文世の体がまた小刻みに顫え出したついさっきの痙攣とは性質の違う顫えだった。
「どうしたんだい? 井口のことで何か思い当たることがあるの?」
文世が両手で顔を掩い、指の間から鳴咽をもらした。
「やっぱり、私のせいたんです」
「じゃ君も井口の仕業だと思うの?」
前に文世は、高崎の旅館で井口に犯されそうになったとき、跣足(はだし)で逃げ出した、と語った。だが、鳴咽のまじった途切れ途切れの告白によると、事実はそのとき、下穿きも剥ぎとられ、井口に押えこまれた、というのである。
「でも、直接触れる前に、井口さんは、急に、駄目になって……」
森と同じように井口もまた逸(はや)る欲望を抑えかねて、暴発させてしまったのだ。二人の男が全く同じ失態を演じたのである。だからこそ文世は、コンプレックスの塊りと言ったのだ。私とはじめて結ばれたとき、言葉で確かめずにはいられなかったのだ。大晦日に井口の呼び出しに応じたのも、すべてそのせいだった。
失敗したとはいえ、一度は自分の前で体を開いた女――井口と森が文世に執着し、未練を持った理由がはじめて判った。
――この娘は二人の男に体を許そうとしたのか。
たったいま果てたばかりなのに、激しい欲望を覚えた。思いきり文世をさいなんでみたい衝動に駆られた。私はいきなり文世のひかがみを摑んだ。
「あ、やめて」
そう言いながらも文世はくの字になり、私の肩に両脚が載ると、一分もしないうちに枕から頭を落とした。唇が半開きになった。