津田信「記事」 印刷

■戦後作家の履歴・津田信

(国文学「解釈と鑑賞」(至文堂)6月臨時増刊号 1973年6月より)

【経歴】 大正14年9月1日、東京・港区新橋に生まれた。本名山田勝雄。府立第三商業学校卒業。16、17歳の頃から自然主義文学に親しみ、特に徳田秋声に沈溺し、野口富士男との交渉の中で文学に開眼した。『若草』の投稿常連だった。19年、召集されて中国に渡り、敗戦、ソ連軍捕虜収容所生活。発疹チフス(そのため輸送列車から放り出されシベリア行きを免れた)、林彪を最高司令官とする東北民主聯軍下の徴用生活などを経験し、22年1月帰還。帰国後、日経新聞社会部、整理部記者として活躍し、41年退社した。主として同人誌『秋田文学』に拠った。「現代文学の会」会員。


【文壇処女作】 『第三次文学生活』(昭和31年2月)に発表した『復讐』が処女作。後の『女夫ケ池』の原型で叔父の妻との関係が従弟の発狂の原因ではなかったかと怯える主人公の罪の意識と不安、殺意を描いたもの。31年6月、山本周五郎・平野謙推薦による『瞋恚の果て』(「貎」)が第35回芥川賞候補にあがり、以来じつに計芥川賞2回、直木賞6回の候補になっている。『流茫』(「新潮」昭和31年12月、同人雑誌推薦号)は後の『日本工作人』の第三部冒頭の書き下ろし。


【代表作品】 長編『日本工作人』(昭和33年、現代社)、同『女夫ケ池』『忍ケ丘』(昭和36年、大和出版)、同『たそがれの橋』(昭和40年、冬樹社)のほか「夜の掟」(『秋田文学』昭和37年5月)、「破れ暦」(『小説と詩と評論』11号、昭和38年)、「海のわかれ」(『小説現代』昭和40年7月)など。


【評価】 津田文学は、秀作『海の別れ』などを除くと、いわゆる私小説の系統に属する。しかし現代では私小説も良かれ悪しかれ主題と造形性において私小説をのり越えることを余儀なくされる。長年の新聞記者生活が培った発想と感覚もかつての私小説のもつ排他的な純粋性に安住せしめないのであろう。

 作家の身辺に同じように取材しながら芥川賞候補、直木賞候補になる原因がそこにある。津田の文学はその処女作以来、ほとんどの作品が戦争下の自身と自身の妻の青春の彷徨と、青春の傷をお互いに舐め合うようにして癒していく戦後の人生を描いている。

 青春の傷からの回復というのが津田の一貫して、追求してきたテーマでもある。「人間の矮小さとけなげさを質実に描きわけ」ているという平野謙の評、「時間の流れはその点どの点でも固定観念に乱されていないことが認められる」という吉田健一の評は極めて的確である。現実を一度は受け入れ、そしてやんわりと押し出してしまう独特の思考と感情の動きに津田の独自性とポピュラリティがある。それは過酷な現実の中で日本の庶民が生きていく姿そのものではないだろうか。

 

■文学紀行――津田信「女夫ケ池」

(『私のかまくら』8月号、No.251、1999年8月1日発行より)

 朝から梅雨の名残の雨が降っている。昼近く、鎌倉駅から乗った藤沢行のバスを梶原口で降り、笛田にある夫婦池へ歩いた。バス通りを折れると、新興往宅地の真ん中を行く道はすぐに上り坂になる。細く柔らかい雨に、家々の庭は透き通った明るい緑色に染められている。


 十分ほど歩いて日蓮宗佛行寺の門前まで来た時、中学生らしい男の子の乗った自転車が三台、雨に濡れるのにも構わずにぐんぐんと私を追い越して行った。雨のせいもあってか、たまに車が通るだけで人影は見えず、少し心細くなっていたのだが、自転車の勢いに触れると体が軽くなって、先を急いだ。


 道は平坦になり、昔から続いているらしい数軒の農家や畑を過ぎると、右手に夫婦池が現れた。道に接するほとりには木道が造られていて、池を眺められるようになっているが、そこ以外は鬱蒼と繁る木々に取り囲まれている。そして、こんもりとした林を隔てたその向こうに、同じような大きさの池がもう一つ、隠れてあった。二つとも水は青というより茶色に近かった。池の上に伸びた枝から落ちる雫が、銀色に光りながら水面で踊っているように見えた。


                     ※


 鎌倉・腰越に住んだ津田信の小説「女夫ケ池」は、直夏のこの池から始まる。
主人公の〈私〉は、15歳、中学1年の時に肋膜炎にかかり、夏休みを鎌倉山にある叔父の家で静養していた。1カ月もすると病状も良くなり、年下の従弟和夫と毎日のように女夫ケ池に出かけて行き釣を楽しんだ。東京の下町に育った〈私〉には、釣は初めての経験だった。


 夜になると、3、4歳のころのいくつかの記憶が鮮明に浮かんで来ることがあった。
よく父親に連れていかれた新橋の家で、半玉たちとおはじきをして遊んだこと。生後まもない和夫が貰われてきた時のこと。和夫の生母の「どうか、仲好くしてやってくださいね」と言った感情に追った声。叔父夫婦の養子になってゆく和夫との別れ……。


 そんな夏休みも終わろうとしていたある日、叔母の姪に当たる真佐子と鎌倉山の家で出会う。真佐子は〈私〉より8カ月ほど年上だったが、大人の女のように見えた。生まれて初めての接吻――。その夏から、〈私〉にとって真佐子は、人が人生のどこかで一度は出会わなければならない運命の様な存在となった。
 真佐子への淡い思いと彼女の心変わり、中学生の身での叔母との過ち……。やがて〈私〉は出征し、復員。新聞記者としての生活を始める。真佐子は妻子ある男の子どもを生んでいた。そうした年月の中で、真佐子の存在が再び〈私〉に濃い影を落とし、生き続けることでさらに深まってゆく独り独りの孤独を、まざまざと見るのである。


 和夫が叔父とも叔母とも別れて精神病院に入院していることを真佐子から知らされ、和夫を引き取ろうと決心をする。が、引き取りに行った〈私〉は全く予期しなかった和夫の拒絶に直面する。
地方支社へ転勤することになった〈私〉は、真佐子に一緒に暮そうと言う。東京を離れる前に再び訪れた女夫ヶ池は、12年を経てそのままに在った。
「……着物が、すがれた草叢のなかで、鮮やかすぎるほどくっきりと私の眼に沁みたが、それにも拘わらず跼んだ真佐子の姿そのものは、なぜか、ひどく寂しい翳を漂わせていた。/私は背を起こし、小径をゆつくりと真佐子へ近づいて行つた。」


                        ※


 連作ともいえる「女夫ケ池」と「忍ケ丘」の2作を収めた『女夫ケ池』(昭和36年大和出版刊行)のあとがきには、湘南の海岸町に移り住んで、それまでの30年余を振り返った時、「どうしても書かずにいられなかった小説である」と記されている。津田は、この2つの小説に特に愛着を抱いていたようだ。


 戦後、新聞記者として太宰治の情死事件、下山、三鷹事件などを取材した津田は、のちに『幻想の英雄――小野田少尉との三カ月』(図書出版社刊)を書いて反響を呼んだ。
新聞記者としての視線が加わることによって、10代後半から書き続けた小説がさらに陰影のあるものになっていったのかもしれない。


〈私〉と和夫がバケツと釣り竿を下げて転がるように駈け降りた急坂を上って、桜並木が続く鎌倉山の「旭ケ丘」バス停へ出た。
 バスを待つ間に並木を透かしてうっすらと陽が差してきた。その明るさの中で、子どもの頃見た抜けるような真夏の空が、待ち遠しかった夏休みが、蝉の声が、傘を畳む手の中からたち現れてくる不思議に襲われていた。
                                         (文:山内晶)

 

■二宮ゆかりの人物――津田信

(にのみやまち図書館だより 第13号、2005.1.15 )

『……私は長年住みなれた鎌倉から二宮町の海辺に居を移しましたが、それと殆ど同時に、作者が素っ裸にならなければ小説は書けない、とようやく悟って、放埓だったかつての自分の姿を正直に2つの長編に書くことができました。しかし、その直後に心筋梗塞で倒れ、退院後も1年あまり、砂浜の散歩が唯一の日課のような日々を送らねばなりませんでした。……』

 これは、津田信著『結婚の構図』(主婦と生活社/19813)のあとがきの一部です。津田氏が二宮に居を移したのは、昭和50年6月のことでした。


 津田信(つだしん・本名:山田勝雄)は大正14年9月1日東京港区新橋に生まれ、16~7歳のころから自然主義文学に親しみ、特に徳田秋声に沈溺し、野口冨士男との交渉の中で文学に開眼しました。20歳の年に召集され、中国に渡り2年後に帰還。帰国後、日本経済新聞社の記者を務めながら、「秋田文学」を中心に数々の雑誌に小説を発表し、昭和33年の長編『日本工作人』などで芥川賞候補に2回、直木賞候補に6回選ばれてます。

 昭和40年に発表された『二重丸の女』や『海のわかれ』は描写力がすばらしく、とくに『海のわかれ』は、評論家の吉田健一が読売新聞の「大衆文学時評」で、このごろのものでは起承転結のしっかりした、小説の体をなす成功作、と激賞しています。翌昭和41年に、親交のあった干葉治平氏の直木賞受賞に刺激され、18年間勤めた新聞社を辞め筆一本の生活に入りました。


 しかし、その後しばらくの間小説を一作も書くことができずに、週刊誌のゴーストライターの仕事などで生計をたてるようになりました。後に発表する『幻想の英雄』のなかでは、ルバング島から生還した小野田元少尉の手記のゴーストライターをしていたころの胸中や内幕を披露しています。
 

 そして冒頭にあるように、昭和50年に二宮に移り住むと同時に、約10年間の沈黙を破って私小説の『夜々に淀を』、続いて『日々に証しを』を執筆。直後に心筋梗塞で倒れましたが、療養期間を経て、病後の初仕事としてこの『結婚の構図』を雑誌「主婦と生活」に昭和55年2月から12月まで連載しました(連載時のタイトルは『哀しからずや』)。その後も文筆活動と並行して、大学の講師など活躍されましたが、昭和58年11月22日心筋梗塞のため58歳で亡くなりました。

◇参考資料:『女夫ヶ池』(津田信著/大和出版/1961) 『たそがれの橋』(津田信著/冬樹社/1965) 『日本工作人』(津田信著/現代社/1958) 『結婚の構図』(津田信著/主婦と生活社/1981/ツダ) 『夜々に掟を』(津田信著/光文社/1976) 『日々に証しを』(津田信著/光文社/1978/ツダ) 『幻想の英雄』(津田信著/図書出版社/1977/916ツダ) 『文壇うたかた物語』(大村彦次郎著/筑摩書房/1995/910.2オ) 『作家の生き死』(高井有一著/角川書店/1997/914タカ) 『吉田健一著作集15』(吉田健一著/集英社/1979/918,6ヨ15) 『戦後作家の履歴』(至文堂/1973) 『鎌倉文学散歩 長谷・稲村が崎方面』(鎌倉市教育委員会/1999) 『朝日新聞縮刷版1983』(11月23日)

 

■「私小説家の死」―― 高井有一

                

 (『群像』1984年2月号(講談社)より)

 昭和39年の末から3年余り、私たちが出してゐた同人誌「犀」の一揃ひに、法外とも思へる高い値段が付いてゐるのを古書店で見かけた。どうしてそんな値で取引が成立つのか事情は解らないが、紐で括られた10冊の雑誌の背文字を跳めてゐると、自分たちのやつた事が否応なく過去へ繰込まれてしまつたやうな、奇妙な感じに捉はれた。


 その「犀」の同人ひとり、津田信さんが、昨年の11月22日に没くなつた。津田さんと私とは、「犀」の発足後間もない同人会で識り合つてから最近まで、細々とながら跡切れない付合ひがあつた。縁は私の地味な小説を津田さんが積極的に認めて呉れたところから始まつた。当時大阪に住んでゐた私の許へ何か機会がある毎に、津田さんの葉書が届いた。「犀」だけでは発表の場が不足だらうから、必要ならいつでも他の同人誌に紹介してあげる、と親切な申し出があつたのを忘れない。尤も私は、「犀」では納まり切れないほど多作が出来たわけではなかつた。


 同人会での津田さんは、頑固そのものであつた。私小説以外の小説は認めない。評論は興味がないから読まない、と言ひ放つて、周りの意見にはまるで耳を藉さなかつた。既に何回も芥川賞、直木賞の候補に挙げられてゐた津田さんにとつて、修業の足りない連中の意見なんぞ、青臭くて取るに足りなかつたのかも知れない。

 同時に、秘かな苛立ちがあつたのかも知れない、と今になつては思ふ。自分は自然主義文学で育ち、徳田秋声を日本一の小説家と信じてゐる、と津田さんの作品の中にある。しかし、さういふ信条が古めかしいと受取られる方向へ時勢が動いてゐるのを、察しられない津田さんでもなかつただらう。私自身も、初めての作品以来ずつと、古風だと言われ続けて来た。津田さんはそんなところに類縁を感じ、好意を持つて呉れたのだつたらうか。


 昭和41年に、津田さんは18年間勤めた日本経済新聞社を辞めた。親交のあつた千葉治平氏の直木賞受賞に刺戟されて、筆一本で立つ決心をしたといふ。だが事は志に反して、それからの10年間、津田さんは1作も小説を書かなかつた。金を稼ぐために週刊誌記事のアンカーとなり、有名人のゴーストライターとなり、忙しく暮すうちに、小説への意欲も萎えて行つたのらしい。

 そのころ津田さんは、市ケ谷台町にあつた私の住ひと百米と離れてゐない余丁町のアパートの一室を仕事場にしてゐた。そのアパートの入口で、ぱつたり顔を合わせた事がある。かなり長い間会つてゐなかつたので私は懐しく、お茶に誘つたが、津田さんは客がくる予定があるからと言つて、ほんの少し立ち話をしたきりで、薄暗いアパートの階段を足早に昇つて行つた。何か遠くなつて行くやうな気分で、私はそれを見送つた。ゴーストライターの仕事が、どれほど酬いられる事少く、陰惨な人間関係に耐えなくては続けられないかは、小野田寛郎の手記を代筆したときの内幕を披露した『幻想の英雄』を読めば判る事である。


 10年を経て津田さんはやうやく立直り、『夜々に掟を』と、『日々に証しを』の2つの長編を書下しの形で発表した。いづれも本領とする私小説である。津田さんの死後、私は、『夜々に掟を』を読み返し、『日々に証しを』を新しく読んだ。そこから受けた印象を何と言つたらいいか。津田さんの師に当る小島政二郎氏は、『夜々に掟を』に序文を寄せて、津田信は悩み抜いた末に、小説家は裸になる事だといふ真理を悟り、「見事に素ツ裸となつた」と言つてゐる。その通りかも知れない。

 作者自身をそのまま写したとおぼしい主人公が、家庭の外に女を囲つて子供まで産ませる事を妻に認めさせ、更に別の若い女とも関係するやうな愛欲図が、飾らぬ筆で書かれてゐる。一度に2人の女と関係する場面が克明に描かれてもゐる。そしてそれ等はすべて事実だと作者は言ふのである。筆を運ぶ作者の苦しげな表情が想像され、私は傷ましくてならなかつた。虚構を排し、文章の飾りを棄て、事実をありのままに書くといふ私小説の信条が、作者を追ひ詰めてかういふ作品を産み出させたのだつたか。


 ここ数年は、秋田魁新報社が秋田県出身の作家や画家を招いて催す新年会の席で、津田さんと一緒になつた。津田さんは、同人誌「秋田文学」の主宰者が日本経済新聞の秋田支局長を勤めてゐた関係で、秋田と繋がりがあつたのである。会ふ度に津田さんが話題にするのは、小島政二郎氏の事であつた。小島氏がいかに文章に厳しく、芸術小説についての理想を高く持つてゐるかを、繰り返し聞かされた。津田さんは殆ど一滴も酒を飲まないのに、機嫌よく早口で喋つて、私は飲みながら専ら聞き役であつた。


 昨年の新年会には、津田さんは現はれなかつた。体調が思はしくないから、と欠席の理由が伝へられたやうに思ふ。私は知らなかつたが、津田さんはかなり前から心臓が悪かつたらしい。過日私は、津田さんの次男の山田幸伯氏に会ひ、死ぬ少し前に津田さんの書いた短い手記を見せられた。「死期が近づいている。明日かも知れない」とそれは書き出されてゐた。僅かな坂を上つても、たちまち息切れがするといふ。

 死んでもいいのか。困る。だが、それも運命だろう。できることならもう一作、欲を言えばわが人生の集大成を書き上げてから死にたいが、恐らくその前に生を終えることになるだろう。まさ子には気の毒だが、あとは息子たちにまかせるしかない。
不思議なことに、それほどこの世に未練がないことが、助かる。執着が日ましに薄くなる。それがいいことかどうか判らないが、心境が少しずつ澄んできていることは確かだ。

 宗教を信じない津田さんは、遺言して葬儀を行はせず、遺体は大学病院に献体された。三年前に逝つた立原正秋58歳、そして今、津田信58歳。好誼を受けた人に若くして先立たれて、時代があまりに早く過ぎ去つて行く気がしてならない。