日々に証を[三の章]〜[五の章] 印刷
【三の章】
 
 

 知子が妻に呼びつけられて私の家にやってきたのはその翌年の春――前の晩から降りはじめた雨が一向に衰えをみせず、四月中旬にしてはひどく肌寒い朝であった。
「ご免なさい、こんな降りに足を運ばせて」
 妻はそう言いながらタオルを手にして、玄関へ迎えに出た。三和土(たたき)で裾の濡れた雨コートを脱ぐ知子の髪に、水滴がいっぱい宿っていた。妻がタオルでそっと拭いた。知子は素直に拭かれていた。顔に血の気がなかった。
 知子は足袋を脱いでから框(かまち)に上がり、濡れ縮んだ着物の裾を引っぱった。うつむいた頬に、ほつれ毛が二筋、貼りついていた。
障子のかげからそこまで見て、私は知子と入れ違いに出勤した。
「女同士で話し合うから、あなたは知ちゃんがくる前に出かけてちょうだいね」
 前の晩、妻から念を押されていたのだが、雨脚が衰えるのを待っているうちに、知子がやってきてしまったのだ。玄関の部屋ですれ違うとき、知子が助けを求めるような目を向けてきたが、私はレインコートの襟を立ててそれを無視した。
 私が半ば自分から知子のことを妻にバラしたのは、その十日ほど前であった。牀(とこ)のなかで脚をからめながら、
「もう白状したっていい時期よ。本当に怒らないから教えてちょうだい」
 と言われた結果だったが、私が意を決してひと言、
「秋田だよ」
と洩らすと、
「やっぱり……」
 妻はしばらく絶句した。しかし、私は内心ほっとした。からめた脚を妻がほどこうとしなかったからだ。私が情事を告白するのは、殆どの場合、牀のなかでだった。そこがもっとも安全な懺悔の場所であった。
ほかの女と違って、知子のことだけは絶対に妻に気づかせまい――そう思っていた私がなぜ自分から白状したのか。理由は二つあった。
一つは、“おあと交替”が見つかったからだ。
 新しい相手は阿佐ケ谷に住んでいる、かなり名を知られた女流作家だった。彼女と関係が生じてから私は、勤めの帰途、東京駅まで歩きながら、今夜は横須賀線にしようか中央線にしようかと迷い、改札口を通ってもなお心がきまらず、ホーム下の通路の隅に立ちどまるようなことが幾度かあった。そして、横須賀線に乗りこんだものの発車間際に気が変わって、あわててホームヘ飛び降りたり、阿佐ケ谷へ行ったのに、締切りギリギリの仕事に追われている女流作家に謝られて、舌打ちしながら引き返したことも一再ならずだった。
 女流作家は私より齢が上で、すでに四十をいくつも越していたが、俗に言う千人に一人の軀で、肌も吸いつくような餅肌だった。その軀に魅せられて、私が戸塚に寄る回数は当然のように少なくなった。知子も歓びが深まったらしく、それなりに味わいも濃くなっていたが、天性の軀の前では、やはり影が薄かった。
 独身の女流作家には私のほかにも何人か情事の相手がいて、彼女の書く小説がそれほど面白くないのに註文が絶えないのは、編集者を巧みにベッドルームに誘うからだ、という噂もあった。実際にその軀を知って私も噂を半ば信じる気になった。ひと頃私は、女流作家の家に泊まった翌日戸塚に寄り、終電車で家に帰ってさらに妻を抱くようなこともした。そして相手が違えば可能なことを知り、一人悦に入ったりした。
 女流作家の家に泊まった晩、夜半から降り出した雪に気づかず、翌朝遅く目が醒めて顔を見合わせたことがあった。東京では何十年ぶりかの大雪で交通機関もとまり、それをいいことにもう一晩泊まってクタクタになった私は、勤め先でつい居眠りして同僚からひやかされたりした。嘘か本当か、「あなたとなら一緒に暮らしてもいい」と囁かれてヤニ下がり、帰りがけに彼女が差し出した幾箱かの外国煙草をポケットというポケットにつめこむようにさえなった。二人が搦み合っているときに隣室で鳴り出した電話が一時間たっても鳴りやまず、その呼出し音が刺戟になって、異常な昂奮を覚えた夜もあった。
 知子のことを白状する気になったもう一つの理由は、知子がしきりに子供を欲しがるようになったからだった。
「準ちゃんたち、その後元気?」
 或る晩、お茶を淹(い)れながら知子が訊いたので私がうなずくと、
「会いたいな、随分大きくなったでしょうね」
 上目遣いにうかがった。私は黙ってお茶を啜った。
「ね、駄目?」
 知子も茶碗を口へ運びながら、今度はいくらかはにかんだような目を見せた。その真意を測りかねて、
「とぼけて家に来ることか」
「ううん、赤ちゃんよ」
 知子は一且、目を逸らせ、それから怯々(おずおず)と視線を戻してきた。
「子供は駄目だと言ったろ。何回、同じことを言わせるんだ」
「でもママは、女の子が欲しかった、女の児をつくってから手術をすればよかった、と言っていたわ」
「するとお前がママのかわりに女の児を産むというのか。お前が産んだ児を、うちの奴が育てると思うのか」
「私がちゃんと育てます。あなたも女の児が欲しかったんじゃないの?」
「ばかだ、お前は。それほど子供が欲しければ、だれかとちゃんと結婚するんだな」
これ以上残酷な言葉はないと知りながら、そこまで言って私はふと気づいた。
「まさか、お前――」
「違うわよ」知子が首を振った。「もしそうだったら、とっくにあなたの前から姿を隠しているわ」
「姿を隠す? へーえ、するとお前は一人で育てるつもりなのか。育てられると思っているのか。第一、子供が可哀想だ」
「私のお友だちにも、そうしている人がいるわ」
「ばかはお前ばかりじゃないらしいな」
知子が不意に立ち上がって部屋を出て行き、間もなく共同炊事場から水道の音が聞こえてきた。知子はなかなか部屋に戻ってこなかった。様子を見に行くと、物干場へ出る戸口の前で、こちらに背を向けて佇(たたず)んでいた。
「そんなところで何をしてるんだ」
 知子の両肩が小刻みに顫(ふる)えていた。嗚咽しているその肩を見つめて、今度こそ手を切ろうと私は思った。一途で辛抱強いうえ、知子は腕に職がある。どこへ行っても喰うに困らないし、その気になれば女手一つで子供を育てることも不可能ではない。口先だけでなく、身籠ったら本当に姿を隠しかねなかった。自分の知らないところで自分の子が育てられ、何年かたってからその子が突然名乗り出る――考えただけで私はゾッとした。
 私が告白した翌日、妻は知子のアパートを見に出かけたらしく、私が勤めから帰ると、
「あんなアパートであなたがくるのを毎晩、じっと待っていたのかと思うと、何だかあの娘(こ)が可哀想になっちゃった」
そう言って私を驚かせた。薄々勘づいていたらしい妻は、私の裏切り行為に腹を立てるよりも、
「あの娘、中絶したこともあるの」
そのほうが意外だったようで、幾度も首を小さく振っては、「へーえ、見かけによらないものね」と溜息をついていたが、
「でも、それを聞いて私も気が楽になったわ。あなたがはじめての男だったら、私もおわびしなくちゃあ、と思っていたけど、そんな経験までしているなら、この際、私が会って、きっぱり手を切るように申し渡すわ。いいわね、それで」
私にはむしろ願ったり叶ったりだった。
「あの娘(こ)だって私に言われたら、まさか、いやだとは言えないはずよ。あの娘の勤めているお店の電話番号を教えてちょうだい。あしたにでも電話をかけて、今度の休みの日に家にきて貰うわ。それでいいわね」
妻はもう一度念を押した。
知子が呼びつけられた日、雨は昼前に上がって、午後からは嘘のような青空がひろがった。気温も急上昇して、一足飛びに初夏になったような暑さが夕方になっても去らなかった。私は社にいる間じゅう、今頃妻と知子はどんな話をしているのかと、そればかりが気になって、殆ど仕事が、手につかなかった。
妻の寛容さに私は改めて胸を摶(う)たれた。「あの娘にだけは」とくどいほど念を押されていた女と、二年以上も隠れて関係をつづけてきたのだから、「あなたには愛想が尽きた、別れる」と言い出されても仕方がなかった。浮気だった、摘まみ喰いだった、という弁解は成り立たなかった。
妻が別れると言い出したら、むろん私は平謝りに謝り、たとえ土下座しても思いとどまって貰うつもりだった。
幸い、妻は、私が拍子抜けするくらい怒りを見せず、自分から解決に乗り出してくれた。私はいつもの流儀で、逢わなくなったらそれで終わりにするつもりだったが、
「それじゃ、よもやに引かされて、かえってあの娘が可哀想よ」
妻は知子の気持ちまで察してくれた。この際自分が乗り出せば、いくら尻腰(しっこし)のない私でも、いくら辛抱強い知子でも、二度と裏切るまいという計算が働いていたのかも知れないが、辛い気持ちをこらえて尻拭いをしてくれる妻に私はやはり感謝せずにはいられなかった。
「どうだった、さんざん泣かれたろう?」
その晩、帰宅するなり私が訊くと、
「知ちゃんには負けたわ」
妻が私の煙草の箱から一本抜き出しながら苦笑いした。
「負けた?」
「今すぐにはとても別れられない、と言うのよ」
「そんな」
あまりにも意外な話なので、妻の顔の前にライターを突き出しながら私は点火するのさえ忘れた。
「結局、お店の休みのたびに家に遊びにくることになったの。あら、どうしたの、火を付けてよ」
「何だか、さっぱりわからん。順序立てて説明してくれ」
「あなたが出て行ったら、いきなり私の前に両手をついて、あのひとをつまり、あなたを、取り上げないでくれと言うの。取り上げられたら私は死ぬしかありませんと言い出したのよ。いきなり先手を打たれて、私、何も言えなくなっちゃった。だって、あんまり必死な顔なんだもの。あの娘が可哀想になっちゃったの」
「それで、公認することにしたのか」
「公認? まさか。可哀想にはなったけど、知った以上、黙っているわけにはいかないと私が言ったら、あなたと会うだけでいい、けっして何もしない、だから、せめて会うことだけは許してくれと言うのよ」
そこで妻は言った、軀の関係があった男と女が会えば、それだけで済むわけがない、いまいくら、あんたが何もしないと誓ったって、とてもそれを信じるわけにはいかない、信じろと言うほうが無理だ、それに、あんたが会うだけのつもりでも、うちのひとが手を出したとき、きっぱり拒めるとはとても思えない、もしそうなったら、それこそ私が公認したも同じになってしまう、それじゃますます私の立場がなくなってしまうではないか――と。
「だから、やっぱりこの際、別れてちょうだいと頼んだの。まるで私のほうが何か悪いことをして、あの娘に謝っているみたいだったわ」
「それでも厭だと言うのか、あの女は」
「俯向いて、返事をしないのよ」
「いくら厭だと言っても、俺が行かなければそれまでじゃないか」
「調子のいいことを言うわね。その自信がないから一切お前にまかすと言ったのは、どこの誰よ。それはそうと、あなた、私の過去もみんなあの娘に喋ったの?」
「いや、お前のことを書いた小説を読んで、どこまでが本当で、どこからがフィクションかと聞くから、殆ど事実通りだと答えたんだ」
「とにかく、私、結婚前に子供を産んだことも、あなたと結婚するまでのいきさつも、結婚してからのあなたの女遊びも、洗いざらい、話したわ。パパは何人、女のひとを泣かせてきたかわからないし、これからも、恐らく男性でなくなるまでパパの女遊びは治らないだろうって。でも、知ちゃん、少しも驚かないのよ。あなたのことを、もつと冷たい人かと思っていたけど、案外優しくて思いやりがあって、今まで大勢の女のひととかかわりを持ったのも、断わり切れなかったからじゃないのかって言うの」
「ほほう、よく知っているな」
「ばか。ママだって、パパの優しさを知っているから、これまで我慢できたんでしょうって。あんた、よっぽどあの娘を可愛がったのね、ああ、癪だ」
「よせ、今更。そんなことより、結局、どういう話になったんだ」
「だから最初に言ったでしょ、家に遊びにくることになったのよ。あなたと二人きりで会うことは諦めるから、せめてこの家で会わせてくれと言うの」
「するとお前の立ち会いの許に会うわけか」
「きょう限り二度と顔を見られないと思うと、それだけで気が狂ってしまいそうになる、だからここで顔だけでも見させてくれ、口を利いてはいけないと言うなら、利かなくてもいいから、お店の休みの日にここに来させてくれと泣きながら言うの。よくよく、あなたが好きなのね、私、自分の立場を忘れて、貰い泣きしちゃった」
普通なら、甘ったれるな、と言下に刎(は)ねつけるところだろう。私は知子の厚かましさに呆れ、同時に妻の並みはずれた寛容さに改めて呆れた。
「何よ、どうしたのよ、ぽかんとした顔をして」
「じゃ、来週から休みのたびにやってくるわけか」
「それも駄目だって言えなくなってしまったんだもの。あの調子じゃ、駄目だと言ったら、本当に死にかねないもの」
「しかし、顔だけなんて、蛇の生殺しだな」
「ほら、すぐ図に乗る。駄目よ、絶対に駄目よ。私も譲歩したんだから、それだけは厭よ。ちゃんと約束を守ってよ。二度と手を出したら、それこそ承知しないから」
「心配するな、俺もそれほどバカじゃない」
「本当よ。あの娘にも念を押しといたわ。もしパパがアパートヘ訪ねて行っても、ドアを開けないでちょうだいって。いいわね、私に隠れて焼けぼっ杭に火をつけるようなことをしたら、そのときは私のほうこそ何をするかわからないわよ」
うなずきながら私は妙に落ち着かない気持ちだった。妻に白状し、妻に処置をまかせたときは、それで一切ケリがつくと思っていた。知子のひたむきな感情は知っていたが、妻が乗り出せば一も二もないとタカをくくり、もうこれからは東京駅で迷うこともなくなると決めこんでいた。ところが、妻から思いがけない知子の勁(つよ)さを聞かされると、急にこのまま手放すのが惜しくなり白状するんじゃなかったと後悔に似たものも覚えた。女流作家の類いまれな軀を知り、子供を欲しがっている知子に恐れをなして別れる決心をしたにも拘らず、それほど俺のことを思っていたのかと、その心情が改めて胸に沁み、大切な物を取り落としたような気持ちになった。
そんな私の気持ちを察したのか、「本当に厭よ」と妻がくり返した。
「もし、あの娘と縒(よ)りを戻したら、そのときこそ私は別れますからね」
「わかった、少しくどいぞ」
妻が私の顔をじっと見て薄笑いを浮かべた。
「何だ?」
「念を押さなくても、今のところはそんな余裕はなさそうだから、安心はしているけど」
「安心?」
「だって、また新しい相手ができたんでしょ。だから知ちゃんと別れる気になったんでしょ」
妻は何もかもお見通しであった。

 

 店が休みのたびに知子が遊びにくると、私はそそくさと出勤し、夜も、知子がアパートに戻った頃を見はからって帰宅した。
 なまじ顔を合わせれば知子も辛いだろうと思ったし、私自身も平静ではいられなかったからだ。足かけ三年にわたって肌に馴染んだ女と、妻のかたわらで一緒にお茶を飲んだり、世間話をしたりすることは、さすがの私もできなかった。知子のくる日が夜勤や休みの日にぶつからないように、前もって同僚に勤務をかわって貰うように頼んだりもした。
しかし、帰宅して、
「今夜のお菜(かず)、知ちゃんが作ったのよ」
卓袱台の覆いをとりながら妻に告げられると、そこに知子の思いが残っているようで、私は忽ち食欲を失った。
「これ、おねえちゃんが呉れたよ」
章に玩具を見せられるのも辛かった。だが、誰よりも辛いのは、知子がくれば一日中その相手をしなければならない妻だったに違いない。
「この頃は晩ご飯を食べたあとも、なかなか帰ろうとしないの、あなたが帰ってくるのを待っているのよ。一目でも逢いたがっている気持ちがわかるんで、こっちのほうがせつなくなるわ」
妻からそんな話を聞かされながら、知子が煮たという私の好物のがんもどきを黙って口へ運ぶと、味が妻の味と殆ど違わないので、私はますます気が重くなった。
「と言って、泊めてやるわけにもいかないし……やっぱり、あのとき、きっぱり断ち切ればよかった」
溜息をつく妻に私は何とも答えようがなかった。
「あの娘、あなたの着物を何枚も作ったんですってね。アパートに置いといても無駄になるから、こっちへ持ってくると言うの。それだけは断わったわ。いくら私でも、よその女の作った着物を家であなたに着せるわけにはいかないもの。それとも、あんた、着る? 罪滅ぼしに」
「いやだよ、あの女の思いだけで肩が凝っちゃう」
不思議だったのは、知子と関係を断ったら、女流作家にも興味を喪ってきたことだ。まるきり喪ったわけではなく、妻との馴れきった夜がつづくと、自分でもいやらしいと思うくらい好色になって、今度こそ相手にネを挙げさせてやろうと意気込むのだが、中央線のなかで、あの雨の日の血の気のなかった知子の顔がふっと頭に浮かぶと、それまでの意気込みが嘘のように消えてしまうのだった。女の愛情を勝手なときだけ利用して、面倒臭くなったら刎ねつけたことに、やはり後ろめたさを感じていたからだろうか。
「やっぱり知ちゃんに家にくるのをやめて貰うわ」
三カ月ばかりたった夜、帰宅すると妻が待ちかねたように言い出した。
「おばあちゃんがね、一体あの娘は何しに来るのかって言うの。私が返事に困っていたら、あんた方、さも仲よさそうにしているけど、その実、心の底を探り合いしているのがよくわかるって言われちゃった。仕方がないから、かいつまんで事情を話したら、人間に仏さまの真似はできないんだよと、ピシャリと決めつけられちゃった。私、思い上がっていたのかも知れないわね。――ね、いいでしょ、断わっても」
「今更、俺に異存のあるはずがないだろ」
口ではそう言ったが、知子への未練が全くないわけではなかった。正直言って、そっとアパートに寄ってやろうかと思ったことも幾度かあった。寄れば、妻と約束したとはいえ、知子が木戸をつくはずはない。ドアを開けて私の顔を見れば、怺(こら)えてきた感情がいちどきに爆発し、泣き声を挙げてしがみついてくるに違いない。だが、妻に跡始末をまかせておきながら、その妻をまた裏切ったら、つい憐憫(れんびん)の情に負けたんだなぞという言い訳は、もはや絶対に通用するはずがなかった。
「知ちゃんだって、家にきている間はあなたへの未練が断ち切れないだろうと思うの。むしろ、募らせるようなことになるんじゃないかしら。だから、残酷なようだけど出入りを一切禁止したほうが、あの娘の将来にとってはいいことなんだと思うの。こんど来たら、よく話し合ってみるわ」
「とにかく、お前のいいようにしてくれ」
たまたま或る出版社から書下ろし長篇の依頼があった。喜んで引き受けたものの、勤めのかたわらでは、期限までにとても書き上げられそうもなかった。私は長期欠勤する肚を決め、妻の実家が懇意にしている医者に事情を打ち明けて診断書を頼んでみた。医者は気さくに承諾してくれた。雑談をしているうちに、医者がかなりの小説好きであるうえ、戦後しばらくの間、中国大陸で中共軍の医療機関に従事していたことを知った。私も終戦直後の北満で約半年、中共軍の使役をやった。私の最初の長篇は当時の経験を綴ったもので、その一冊を贈呈すると、
「もしよかったら、空いているうちの病室を使いませんか。入院したとなれば、勤め先も信用するでしょう」
医者がそう言って微笑した。願ってもない話なので、早速、厚意に甘えることにした。横浜郊外の、妻の実家から二町ほどはなれた住宅街のなかにある個人病院で、提供されたのは二階の陽当たりのよい個室だった。窓のそばに青桐が大きな葉をひろげていた。
「知ちゃんのほうは私がケリをつけておくわ」
病室に私の身の廻り品を運びこみながら妻が言った。
「そのかわり怠けないで書いてちょうだいよ。院長先生も、評判になるようなものを書いてほしいって期待しているんだから」
だが、一カ月半入院しながら私は結局、予定の十分の一の枚数も書けなかった。はじめての一人暮らしに私はかえって落ち着きを失い、近くの喫茶店に日に二度も三度も通ううちに、その店の娘と親しくなって、夜になると文学好きのその娘がこっそり病室に遊びにくるようになったからだった。
娘といってももう二十七歳で、並ぶと私の肩までしかない小柄な女だったが、商売柄、話題が豊冨で、本もよく読んでいた。亮子というその娘の特徴は、二重の、くっきりとした大きな瞳で、両親とも奄美大島の出身という話だった。父親に早く死なれて、顔立ちのよく似た母親と二人でやっている喫茶店には、彼女目当てに通ってくる常連が多くて、昼間はゆっくり話ができなかったが、それだけに病院の消燈時間がすぎてから病室のドアがそっと開き、そのかげから亮子の大きな瞳がのぞくと、私は胸が鳴るような思いがした。
亮子がくると私はすぐスタンドの灯を消した。消燈時間後も私の病室だけは点燈を許されていたが、明るくしておくと当直の看護婦が退屈しのぎによくお喋りにやってくるからだった。
暗い病室のなかで、ベッドに並んで腰かけ、声をひそめて語り合うのだから、手を握り、接吻するまでにいくらも時間はかからなかった。やや厚みのある唇の感触を愉しみながら、
――雪国の女と別れたら、こんどは南の島の娘が飛びこんできた。
私は肚のなかで北叟笑(ほくそえ)んだ。しかし、亮子は、それ以上のことを許さなかった。唇を合わせながら私が胸へ触れようとすると、強い力で私を押しのけてベッドからはね起き、反対側の壁に貼りついた。バツの悪さを暗がりが救ってくれたが、私を思いきり押しのけたときの亮子の力は、彼女が帰ったあとも肩に残っていた。そこを撫でながら、
――折角、手に入りかけたのに、俺としたことが……
軽い後悔を覚え、
――もう今夜限り、やってこないだろうな。
ベッドに仰向けに倒れると、煙草のけむりを天井へ向けて吐き出した。
翌日私はトイレヘ行く以外、一歩も病室から出なかった。亮子の店へ行きたい気持ちと闘いつづけた。夜は、いつもより早目にベッドにもぐった。それだけに前日と同じ時間に亮子がそっと入ってきたとき、飛び起きてその小さな軀を抱き締めずにはいられなかった。
亮子は女子大の英文科を出てから二年ばかり外資系の商社に勤めたが、母親だけでは店の客足が落ちるので勤めをやめてしまったと語り、
「こんなチビでも結構、吸引力があるのよ」
そう言って、笑ってみせた。
私が恋愛経験を訊くと、
「そりゃ何人かの人から誘われましたけど、みんな真面目じゃないんです。私、母一人子一人でしょう、母に心配させまいと思って、大学時代も、学校を出てからも、心ならずも真面目にすごしてきましたの」
そんな言い方で、処女を匂わせた。知子の例があるので、私は容易に信じなかったが、唇以外には断じて触れさせようとしない態度は日がたっても崩さず、
「齢をとっているくせに、物わかりが悪くてご免なさい」
そう言われると、自制しないわけにはいかなかった。
「どう、少しは書けたの?」
日曜日になると、妻が子供たちを連れて様子を見に来た。
「きのう出版社から電話があって、今度の小説で受賞するのを期待していると言ってたわ」
私はわざと肩を竦(すく)めて見せた。
ボストンバッグから着替えを出して汚れた下着とつめ替えたあと、妻は子供たちを一足先に実家へ行かせて、窓をしめた。他の病室の見舞客で賑わう廊下の跫音(あしおと)や話し声を気にしながらの交わりが、真ッ昼間だけに夫婦を異常に昂奮させた。ベッドからおりると、妻は手早く軀の汗を拭き、帯を締め直した。そして音を立てないように窓を少しずつ開け、まだ火照っているらしい顔に風を当てた。口を心持ち開き、目を細めている妻の顔に私は久し振りの色気を感じた。
「よくわけを話して、知ちゃんに納得して貰ったわ」
コンパクトの鏡をのぞいて頬をパフでたたいていた妻が、パチンと音を立てて蓋をとじてから告げた。
「やっと諦める気になったらしいの。ヤレヤレだわ。そりゃ誰を愛したってその人の自由だけど、妻子がある人を好きになったら、それなりのエチケットをわきまえるべきだと思うの。こっちの家庭にまで自分の愛情を押しつけるなんて――。あの娘のはどう考えても愛情の押し売りよ。あなたには一途さと映ったかも知れないけど、少し強引だったと思うわ。もう、ああいう娘だけはいやよ。単なる浮気じゃなくなるから」
「この際、秋田へ帰ってくれるといいんだがな」
亮子へ気持ちが傾いていたので、私は身勝手な願いを口にした。
「さあ、今更帰れないんじゃないかしら」
「しかし、あの女が以前、秋田に帰ったのはやっぱり恋に破れたからなんだぜ」
「だったら尚更よ。あの娘がこっちへ出てきたのはあなたを好きになったからだということは、同人雑誌の人たちも勘づいているんでしょ?」
「薄々は、な」
「それだったら余計帰れないわよ。全くあなたも罪つくりをしたものね」
また新しい罪をつくろうとしている私には、耳の痛い言葉だった。

 

 喫茶店が休みの日、亮子が店の二階にある自分の部屋に私を請じた。本箱と文机と洋服箪笥が壁をふさぎ、知子の部屋とよく似ていた。母親がコーヒーとケーキを運んできて、すぐまた階下へ降りて行った。
「母は気をきかしているのよ」
その言葉から亮子が私とのことを母親に打ち明けているのがわかった。階下で聞き耳を立てているのではないかと思うと、声をひそめて恋を語るわけにもいかず、私はときどき、わざと大きな笑い声を挙げた。一時間ばかりいて亮子を外へ誘い出し、大桟橋や外人墓地を歩いた。月並みなデート・コースだったが、私はようやく若やいだ気持ちになって、自分でも呆れるくらい冗談を言って亮子を笑わせた。
鎌倉の寺を案内したのを除くと、私はついに一度も陽の下を知子と歩いてやらなかった。知子の部屋での自分を思い出すと、いつも、だらしなく寝そべっている姿しか浮かばなかった。心もルーズだった。妻の目をかすめて通いながら、色恋の雰囲気にはほど遠く、と言って愛欲にまみれていたというのでもなかった。大体、知子には、精神的にも肉体的にも私を溺れさせたり、酔い痴れさせたりする要素がとぼしかった。ひとことで言えば家庭的な女だった。綺麗好きで、自分でも、「家事をしているときが、いちばん気が休まる」と言い、妻からも、
「知ちゃんがくると台所がすっかり片づいて、その点は大助かりなの。あのひと、お鍋もお釜もピカピカに磨かないと気がすまないのね」
と聞かされていた。
「知ちゃんは道を間違えたのよ。結婚したらいい奥さんになるのに……」
妻はそうも言って溜息をついた。妻は知子と反対に家事があまり好きではなく、特に掃除下手で、部屋の隅にはいつも綿ぼこりが溜まっていた。雑巾がけなぞ滅多にしないとみえて、硝子戸の桟や本棚が挨をかぶっていないことがなかった。そのかわりと言ってはおかしいかも知れないが、妻はいつまでたっても所帯臭くならず、質屋通いも一向に苦にしなかった。
私は少年の頃、人から神経質と言われ、私自身もそれを己れの長所のように思っていたが、軍隊に入って、神経質なんて贅沢にすぎないと思い知らされた。神経質だったら軍隊は一日たりとも務まらない。復員後も、私は顔にも軀にも肉がつかず、そのうえ、眉間に縦皺を寄せる癖があるので、人から神経質そうに見られていたが、その実、人一倍神経がラフである自分を知っていた。ラフだからこそ平気で次々に女と情事を重ねることができたのだ。知子も私を神経質と見間違えたらしく、私が部屋にいる間、絶えず私の顔色をうかがって、小まめに灰皿を取りかえたり、肩に落ちた髪の毛を目ざとく見つけてすぐ摘まんだりした。が、私の実体を誰よりもよく知っている妻は、いつだったかこんなふうに呟いた。
「得ね、あなたは、いかにも繊細な神経の持ち主のように見えて。女が引っかかるのはきっとそのせいね」
私の病院暮らしは、亮子と知り合ったことを除けば結局、勤めをサボっただけで終わってしまった。私はもっと一人暮らしを愉しみたかったのだが、病室で亮子と顔を寄せ合っているところを、不意に見舞いにきた妻の母親に見つかってしまい、早速、やってきた妻に、
「全くあきれた人ね、知ちゃんのことがやっと片づいたと思ったら、もう、これなんだから。院長先生も看護婦さんたちも、とっくに気づいてたけど見て見ぬふりをしていたそうじゃない。婦長さんから聞かされて、私、顔から火が出る思いだったわ。あした、退院するのよ」
そう宣告されてしまったのだ。
翌日の昼すぎ、私は妻と一緒に亮子の店へ挨拶に行った。
「近くの喫茶店の娘だそうね。連れて行ってちょうだい。主人が入院中お世話になりましたと、お礼を一言いたいから」
妻が荷物をまとめながら言い出したとき、さすがに私は色を失ったが、そんな私をニヤニヤ眺めてから、
「心配しなさんな、どんな娘か見たいだけよ。大丈夫、厭味にとられないように気をつけて言うわ。何も知らないで、ただ単に挨拶にきたように振舞うわ。あなたが困るようなことを私がするわけがないでしょ」
事実、妻は亮子の前で皮肉に響くような言葉遣いは一切せず、朗らかで屈託のない奥さまの役を演じ切った。菓子折りの出し方もごく自然だったし、亮子の母親が新しく淹れてくれたコーヒーの味を褒めるときも、素直で少しの厭味もなかった。はじめは傍らでハラハラしていた私も、その態度に吻(ほつ)として、
「家のほうにも遊びにきて下さい」
妻の誘いに顔を強ばらせている亮子へ、
「本当に、いらっしゃいよ」
と、言い添えたりした。
 だが、それだけに、亮子にしてみれば余計辛かったに違いない。私たち夫婦が辞去するまで、亮子はまともに私の顔を見ようとしなかった。あとで妻が言った。
「ちょっと薹(とう)が立っているけど、スレてはいないようね。でもそのかわり、いざとなるとなかなかウンと言わないんじゃないかな」
 その後、亮子とは週に一回ぐらいの割りでデートを重ねた。私は夜勤明けや遅番の午後を利用し、亮子は週二回通っている英会話の塾をサボって、本牧の三渓園や大船のフラワー・センターなどへ出かけた。妻と一緒に店へ挨拶に行ったことを、私はあえて弁明しなかった。亮子も触れなかった。ひと一言、何の話のときだったか、
「奥さまには貫禄負けしました」
ぽつりと洩らしただけであった。
日がたつにつれて私は苛立ってきた。亮子と逢うのがいつも昼間で、接吻はおろか、手を握ることもできなかったからだ。渋谷で落ち合ったとき、プラネタリウムに誘い、人工の夜空の下で久し振りに唇を重ねたが、むろん、そんなことでは満足できなかった。
「いつになったら、大人のコースに変更してくれるの?」
たまりかねて私が言い出すと、わざと私から目を逸らして、呟くように言った。
「来月、どこかへ連れて行って下さい」
「本当? 万歳、辛抱の仕甲斐があった」
「でも、一晩だけではいやなんです。それも出来たら泊まるごとに、少しずつ東京から遠ざかる――そんな旅がしたいんです」
「まるで駆け落ちだな。で、どの辺まで遠ざかればいいの?」
「距離は問題じゃないんです」
亮子はその旅行によって私が一つの決断をすることを望んでいるのかも知れなかった。
「おうちがだんだん遠くなる、か。ちょっと無理だな」
「やっぱり、ご無理ですか」
大きな瞳を真っすぐに注いできた。思いきって私は言った。
「妻には何の落ち度もないし、子供たちはまだ小さい。僕はいますぐ家庭を放棄するわけにはいかないんだ」
「私、奥さまと別れてほしいなんて、言ってません」
「しかし、結果は……」
「私、ずっと前から心に決めていたんです」
「何を?」
「私が今までお行儀をよくしてきたのは、はじめて男の方と夜をすごすときは、そのひとと最低三日は一緒にいられるときにしようって……」
三日一緒にいればその男を虜(とりこ)にできるという自信があるらしかった。私は私で、亮子を虜にする自信があった。
「スケジュールは、まかせてくれるね?」
「お願いします」
だが、翌日から旅行費のことが胸に閊(つか)えた。
結婚後、女と旅行したことが一度もなかった。夜をともにしたのは、いつも東京や横浜の連れこみ旅館、あるいは女の部屋でだった。懐ろにそれだけの余裕がなかったからで、いってみればみみっちい情事ばかり重ねてきた。負担のかかりそうな女は最初から敬遠してきた。
二人で三日以上の旅行をするとなれば、かなりの金を用意しなければならない。当時、温泉旅館の宿賃はたしか三千円ぐらいだった。二人で二泊すれば、足代を入れて少なくても二万円はかかる。前にも言ったように、私の月給は四人の家族を養うのに精一杯だったし、さし当たって原稿料の入るアテもなかった。
いつもの私だったら、無理算段してまで行くことはねえや、と、さっさと諦めてしまうところだが、亮子から再三、「真面目にすごしてきた」「お行儀よくしてきた」などと手入らずの軀を匂わされていたので、何としてでもそれをわが物にしたかった。
私は何人かの友だちに借金を申しこんだ。だが、「こっちが借りたいくらいだ」という返事ばかりで、この人ならと見込んだ先輩には、
「たとえ、有ってもお前には貸さないよ。どうせよからぬことに使うんだろうから。かみさんを泣かせるような真似はもういい加減でよすんだな」
意見までされてしまった。
私は久し振りに女流作家を訪ねた。下心がある私の軀は、はじめて天性の軀に打ち克つことができた。まだ陶酔のなかにいる彼女の耳に口をよせて、それとなく打診すると、胸に置いた私の手を払い除け、急にベッドから起き上がった。
「あなたも相当なワルね、私を忘れずにいてくれたのかと思っていたのに……。断わっておきますけど、あんたの女遊びのお手伝いをするほど、私はおめでたくはないの」
金の使い途なぞ、ひと一言もいわないのに、彼女はちゃんと見抜いていた。
旅行へ出かける予定の日が一週間後に迫った夜、私は仕方なく亮子へ手紙を書いた。社務が忙しくて、どうしても連休がとれない、一カ月ばかり延ばしてほしい、と。折り返し届いた亮子の手紙には便箋にたった一行、こう書いてあった。
「思いのほか臆病な方なので驚きました。さようなら。奥さまによろしく」
金のためにみすみす女を逃がしたのははじめての経験だったが、
――なあに、借金してまで手に入れるような女じゃない。それに処女だかどうか、わかるもんか。
私は負け惜しみを言いながら、亮子の手紙を封筒ごと細かく裂いて屑籠に抛(ほお)りこんだ。
この世は全く皮肉である。「さようなら」の手紙を受け取ってから一カ月もたたないうちに、会社宛に知子の手紙がきて、なかに和服姿の知子の写真と一万円札が二枚入っていたからだ。
便箋には、その後元気で働いていること、同封の金はお店から貰った臨時手当だが、今のところ自分には使い途がないので、そちらで何かに役立ててもらいたいこと、写真は先日の休みに横浜の山下公園でお店の主人に撮ってもらったものであることなどが、簡単にしたためられてあった。
写真の知子は粋な小紋の和服を着て、花壇をバックにちょっと気取ったポーズをとっていた。
写真は机の抽斗(ひきだし)の奥に蔵(しま)い、お札だけを内ポケットに突っこみながら、この金が一カ月前に届いていたら、と思わずにはいられなかった。

 四

 半年ぶりに非常用階段を登って、ドアをノックしたが、返事がなかった。ドアに耳を近づけてもう一度、ノックした。やはり物音がしたかった。私はポケットから鍵を取り出した。ずっと会社の机の抽斗に抛りこんでおいた鍵であった。
 電燈のスイッチをひねって、真ッ先に私の目に飛びこんできたのは、赤い花模様の鏡掛けをたらした鏡台であった。私が通ってきていた間、意地を張って買わなかった鏡台を、私がこなくなってから買った女心が理解しがたかった。鏡台の抽斗をあけると、私が使っていた髭剃りやヘアクリームが蔵ってあった。部屋のなかは鏡台がふえただけで、あとは何も変わっていなかった。
 部屋の隅に、白い布をかぶせた卓袱台が出ていたので、跼(しゃが)んでその端をはぐると、食事の支度ができていた。がんもどきと蕗(ふき)の煮付け、鯵(あじ)の塩焼き、ほうれん草のおひたし……どれも私の好物で、しかも二人分が用意されていた。卓袱台の下に小鍋が隠れていた。蓋をとると、シチューから湯気が立ちのぼった。知子は食事の支度をしてから銭湯へ行ったらしかった。
――今夜俺がくることをなぜ知っていたのか。
 私は狐につままれたような気持ちだった。金の入った手紙を受け取ってから二週間たっていた。
こんな手紙にほだされて行くもんか、金はすぐ送り返そう――最初はそう思った。が、どんな金でも金は便利なもの、三日とたたぬうちに手をつけてしまい、もうすぐ給料日だ、給料を貰ったら元通りにしてすぐ返そうと思いながら、その給料日がきても私は返送しなかった。
――金だけ返したんでは、あまりにも知子の気持ちを踏みつけにしすぎる、何かひと言かふた言、書いてやるべきだ。
 しかし、その文句が思いつかず、愚図愚図しているうちに十日たった。
――何だかんだと言いながら金を返さないのは、知子の顔が見たいからなんだろう。
「冗談いうな。あの女とはきっぱり手を切ったんだ。それに二度と女房を裏切るようなことだけはしたくない」
――嘘をつけ。お前の気持ちが本当に知子から離れているなら、さっさと金だけ送り返しているはずだ。付ける文面に迷っているのは、未練がある何よりの証拠じゃないか。
「未練じゃない。この金が、あの女の手だということぐらい俺だって知っている。しかし、こんな見え透いた手まで使って俺の心を呼び戻そうとしている女の気持ちが哀れなんで、何か言ってやろうと思ったまでだ」
――ほら、その気持ちが未練なのさ。
結局、私は、いいか、アパートヘ行っても金を返したらすぐ帰るんだぞ、と自分に言いきかすことで自問自答を打ち切った。
卓袱台の布をもう一度めくって、私は、がんもどきを一つ、口に抛りこんだ。やっぱり妻の味とよく似ていた。
二十分たっても知子は銭湯から戻ってこなかった。私は箪笥の上に金の入った封筒を置きかけたが、もう少し待ってみる気になって、所在ないまま部屋のなかを眺め直し、本箱の隅に大学ノートが一冊挾んであるのに気づいた。何気なくそのページをめくって、私はそれが自分への伝言帳であることを知った。とびとびの日付のわきに、
《今夜は少し遅くなります。おなかが空いたら先に召し上がって下さい》
《蝿帳のなかに、ほかのお菜も入っています》
《きょうはお店が臨時休業なので、横浜へ買い物に行ってきますが、暗くなるまでに必ず戻ります》
などと記されていた。
私は急いでページを繰った。日付は半年前まで遡(さかのぼ)ることができた。
――あの女は俺がこの部屋にこなくなってからも、毎晩欠かさず俺のお膳をつくっていたのか。
廊下に跫音(あしおと)がしたので、私は慌ててノートを本箱に戻し、電燈を消した。胸を摶(う)たれている自分をすぐ知子に見られたくなかった。息をひそめていると、ドアの前で跫音が止まり、鍵を差しこんでいる音が聞こえた。
「あら?」という知子の声がし、ほんの少しドアが開いた。その隙間から廊下の裸電燈の光が洩れてきた。知子は入ってこなかった。ドアの向こうで息をつめ、恐怖と闘いながらなかの様子を窺っている姿が目に浮かんだ。
「俺だよ」
声をかけて電燈をつけると、洗面器をかかえた知子が入ってくるなり、その場に崩れるように坐りこんだ。湯上がりなのに、顔に血の気が全くなかった。洗面器を膝にのせたまま、幾度も肩で息をついた。
「脅かして、ご免」
知子はまだ声が出ないらしく、微かに首を振ってから洗面器を畳におろした。
「少し痩せたな」
ようやく私を見上げ、目が合うとはにかみ笑みをみせた。その頬にいくらか血の気が戻ってきた。
「いい鏡台を買ったじゃないか」
私は立ったまま言った。
「買って貰ったんです」
「――誰に?」
「先月、父が出てきたんです。上野でやっている書の展覧会を見に――。あのう、お茶にしますか。それともコーヒー?」
「俺にかまわないでくれ。お父さん、ここにも寄ったの?」
「ええ。何か欲しいものがあれば買ってやると言って……」
「こんな処に一人でいないで帰ってこいと言われたんだろ?」
図星とみえて、知子は黙ってポットの湯を急須に注いだ。私は跼んで封筒を卓袱台のはじに置いた。
「気持ちだけ貰っておく。酷なことを言うようだが、やっぱり秋田へ帰ったほうがいいんじゃないか」
「郷里には一生、戻りません」
「無駄だぜ、いくらここに頑張っていても。俺にはもう二度とママを裏切る気はないんだから」
「そんなこと、念を押されなくてもわかっています」
「わかっているなら、なぜ、こんなお膳をつくるんだ」
胸を摶(う)たれたばかりなのに、私は知子をいじめてみたくなった。
「私の、楽しみなんです」
うつむいて、呟くように言った。
「楽しみ?」
「毎晩、あなたの好きなお菜を作るのが、それだけが今の私の楽しみなんです。心が休まるんです。それに、一人分でも二人分でも、たいして変わらないから……」
嘘をつけ、それじゃ、あのノートはなんだ――出かかった言葉をのみこんで私は立ち上がった。知子がそおっと見上げ、すぐまた顔を伏せた。離れていると気にかかり、顔を見ると残酷なことを言っていじめてみたくなる自分が、自分でもわからなかった。
 私はいきなり膝で知子の肩を押した。短い叫び声をあげて、知子は簡単にひっくり返った。乱れた着物の裾から白い脛(はぎ)が宙に躍った。

 五

「産ませて」
 背を壁につけ、両膝をそろえて知子が幾度も哀願した。私はそのたびに、「だめだ」と、首を振った。はじめは卓袱台をはさみ、声も殺して押し問答していたのだが、私が首を振るたびに知子は後ずさり、つれて私の声も大きくたった。
「いいか、あす病院へ行って、堕ろすんだぞ」
「いや、私、産むわ」
「ばか、絶対、許さん」
 知子を睨み据え、私は自分に舌打ちした。縒(よ)りが戻ってから半年たっていた。その間、一度も知子の部屋に泊まらず、必ずその夜のうちに帰宅した。はじめは、知子が搦めた脚に力をこめて、「ね、一緒に」と言うたびに、「だめだ、ママが待っているんだから」と自制した。が、そんな夜を幾度かくり返すうちに、知子の反応が弱くなり、すると今度は私のほうがついムキになった。
――ばかはお前だ、ムキになって前後を忘れるなんて。
 しかし、今更後悔したって、おっつかなかった。
「どうしても産むと言うのなら、今度こそ本当に別れるぞ。今夜限り、ここにはこないぞ。むろん、家にやってきたって絶対に会わん」
 壁の前で知子は肩を顫わせていた。
「それでも産みたければ勝手に産め。俺は元々、無責任な男だ。準や章にもこれまで父親らしいことは何一つ、してやらなかった。ましてお前が産んだ子なんか知っちゃいない。母子ともども喰うに困って、どこかで野垂れ死にしようが俺の知ったこっちゃねえ」
知子は医者から三カ月目に入ったと言われている腹の前で、両拳を握っていた。その甲に、頬を伝わった涙が落ちた。
「産みたければ、産むといい。そしてその子が大きくなったとき、なぜ結婚できない男の人の子供を産んだのかと、責められるといい」
濡れた目でチラッと私を見て、
「責められたら……」
鼻をすすってから知子が言った。
「よく事情を話してやります」
「ほほう、事情を説明したら、理解してくれると思うのか」
「女のいちばんの幸せは、愛している男の人の子供を産むことです。その気持ちをよく説明すれば、わかってくれると思います。わかってくれる子に育てます」
「たいそうな自信だな。わかるどころか、九分九厘、グレるだろうな。グレなくても、恨むだろう。それでもいいのか」
「覚悟しています。たとえ叛(そむ)かれても後悔しません。ね、お願い、あなたの子がほしいの。叔母が、死んだ母の妹が、北海道の室蘭にいます。叔母も若い頃、妻子のある男のひとが好きになって随分、悩んだことがあるんです。あなたがどうしても厭だというなら、私、その叔母の処へ行って産みます。叔母ならわかってくれると思います」
「お前が欲しいのは俺の子じゃない。ただ、子供が欲しいだけなんだ。それほど母親になりたければ、俺と別れて子供好きの男と結婚するんだな」
腕時計をのぞくと、間もなく終電の時刻だった。立ち上がってレインコートを肩に引っかけながら言った。
「あしたの晩、また来る。それまでに俺か子供か、心を決めておくんだな」
翌晩もその次の晩も私は知子を説きつづけた。あのとき、二万円にほだされなければ、と幾度も後悔しながら――。
まごまごしていると中絶できない月になってしまうし、一週間後に私は秋田の合評会へ出かける予定になっていた。知子が出てきてから、何となく気がひけて、合評会にはご無沙汰していた。地元の同人たちに、「その後、マドンナ、どうしていますか」と訊ねられたら、忽ち返事に窮する自分を知っていた。私が久し振りに合評会へ出る気になったのは、知子をモデルにした小説を同人誌の最近号に発表したからだった。勿論、シチュエーションをかなり変えたが、読む人が読めばモデルがだれかすぐわかるはずだった。私はその小説で同人たちの好奇心を一応満足させ、質問を前もって封じたつもりだった。いま思えば、虚構をまじえず、何もかもありのまま書けばよかったのだが、当時の私にはまだそれだけの度胸がなかった。
私は秋田へ行くことを知子に隠していた。私のために郷里を捨てた女に、その郷里へ行くことを言い出せなかった。が、出かける前に何とか始末をつけておきたかった。
上野を発つ前の晩、私は切り札を出した。
「俺はあす秋田へ行くぞ」
ドキッとしたように知子が見上げてきた。
「どうしても俺の言うことがきけないというなら、秋田でお前の両親に会ってくる」
「会って……どうするの?」
「俺たちのことを正直に何もかも打ち明けてくる。お前が妊娠して、子供を産みたがっていることも」
「本気なの?」
「ああ、本気だ、そうすりゃ、お前の父親がいやでも引き取りにくるだろう。いや、引き取ってくれと頼むつもりだ」
「そんなこと、あなたに出来るはずがないわ」
「なぜ? こうなったら恥も外聞もない。お前の父親に殴られるかも知れないが、殴られたって、子供を産まれるよりましだ」
俯向いてかなり長い間黙っていた知子が、
「わかったわ」
やっと聞きとれる声で言った。
「わかったって、どうわかったんだ」
「……諦めます」
「本当だな、本当に諦めるんだな」
「私、産んでから父へ手紙を書くつもりだったの。産んだあとなら、許すも許さないもないし……でも、その前に事情がわかったら、絶対に許してくれないわ」
「当たり前だ」
「特に継母は体面を重じる人だから……。義理の娘の私が私生児を産んだら、継母は立場を失って、世間に顔向けができなくなってしまうわ」
終わりのほうは自分に言いきかせているような口調だった。私は吻とし、するといつもの癖で、もっと知子をさいなんでみたくなった。
「はっきり言ってやろうか」
「……何を?」
怯々(おずおず)と顔を挙げた。
「お前は私生児を産むことで継母に面当てしようと思っていたんだろう」
「そんな――」
「母親が立場を失うことぐらい、とっくの昔にわかっていたはずだ。それなのにあえて産もうとしたのは、心の底で母親に――」
「ばかなことを言わないでよ。私、それほど継母を怨んではいません。私が子供を産めば父だって困るんです。父は教職の身だから余計困るはずです」
「そこまでわかっていながら、なぜ、産もうと思ったんだ。産めばまわりの者がみんな迷惑する」
「子供を産むのは女にとって理窟じゃないわ」
「じゃ、どうして俺が秋田の話を出した途端に諦めたんだ」
知子は再び項垂(うなだ)れた。
「とにかく、俺はあす秋田へ行く。いや、久し振りに合評会へ出るんだ。いいか、留守の間にちゃんと始末しておくんだぞ」
「一緒に病院へ行ってくれないの?」
「いやだね、そんな役目は。うちの奴も何度か堕ろしたが、俺は一度も跟(つ)いていったことがないんだ。いいな、一人で始末するんだぞ」
知子が頷くのを見て、私は急に空腹を覚えた。
「外へ寿司でも食べに行こうか」
「私、何もたべたくありません」
「お前、あれほど俺と外を歩きたがっていたじゃないか」
知子が鏡台の前へのろのろといざり寄った。
私が立ち上がって壁からレインコートをはずすと、
「一つだけ、お願いがあるの」
「何だ」
「今夜、泊まっていって」
「ばか言うな。あすから留守になるんだ、今夜は――。いいから早く支度をしろ」
知子はクリームの瓶を手にしたまま、鏡台の前でぼんやりしていた。鏡に、魂の抜けたような顔が映っていた。いっぺんに二つも三つも齢をとったような顔であった。その背中に歩み寄って、後ろからそっと肩を抱いた。知子の手から瓶が落ち、畳に転がった。
「――乱暴に、しないで」
私はかえって動作を荒げた。知子は目を閉じ、両腕を畳に投げ出していた。
――流産すりゃ、それにこしたことはねえ。
暫くたって私が離れると、知子は両掌で顔を掩い、静かに泣き出した。裾を直してやり、煙草を一本吸い終えてから私は言った。
「早く行かないと、寿司屋が閉まっちまうぞ」
知子が掌の下から、笛のような泣き声を洩らした。


【四の章】


 

 あんなに手こずったんだから二度と妊娠させまいと用心するのが普通だが、一年もたたないうちに私はまた知子を身籠らせてしまった。
 しかし、今度は知子も覚悟をしていたとみえて、私に変調を告げてから、急いでつけ加えた。
「心配しないで。ちゃんと病院へ行くから」
 二度目の中絶は真冬だった。
 粉雪の舞う日で、いつもより早目に家を出た私がアパートに行くと、雨ゴートを着た知子が風呂敷包みを膝のわきに置いて、薄暗い部屋の隅に坐っていた。前々日の晩に、
「お願い、どうしても一人じゃ心細いの」
そう言われて私は付き添って行く約束をした。
「すぐ行く?」
ほおけたような顔で知子が小さく頷いた。
雪のなかを傘をさしかけ、足駄を履いた知子のノロノロした歩みにあわせて、二町ばかりはなれた病院へ行った。二人とも殆ど喋らなかった。二人の吐く白い息を冷たい風が待ちかまえていたように、傘の外へさらって行った。
病院の玄関で知子は私のスリッパを揃えた。その肩に雪片がいくつか散っていたが、待合室にいた人々が一斉に目をそそいできたので、私は出しかけた手を引っこめた。
時間を予約してあったので、産婦人科病棟の廊下の長椅子に腰をおろさないうちに、看護婦が知子の名前を呼んだ。畳んだ雨ゴートと風呂敷包みを私に預けて、知子はベソをかいたような顔で手術室に入って行った。長椅子に腰かけているのは、大きな腹を突き出した妊婦ばかりであった。私はスリッパに目を落としていた。間もなく看護婦が、手術室の隣りの予備室に私を案内した。ベッドとスチール製の椅子が二脚、それだけしかない殺風景な部屋で、壁のところどころに黄色い雨もりのしみがあった。
手術は三十分ぐらいだったろうか。
境のドアが開いて、二人の看護婦に腋(わき)の下と膝を抱えられた知子が運ばれてきた。腰のところから細帯のはじが垂れていた。
「一時間ぐらいしたら目を醒ますはずです」
正体のない知子を荷物のようにベッドに置くと、看護婦はそう言い置いてすぐ手術室へ戻って行った。
知子の乱れた髪を指先で撫で上げてやったついでに、頬に触れてみた。氷のように冷たかった。ベッドのわきに引き寄せた椅子に浅く腰をかけて、昏々と眠っている知子の蒼白い顔を見つめていると、足許から寒さが這い上がってきて思わず胴震いが出た。
妻以外に、私の児を二度身籠り、二度とも堕ろしたのは知子だけであった。三年以上長続きしたのも知子がはじめてであった。顔も軀もさほど気に入っているわけでもないのに、なぜ妻を裏切ってまで縒りを戻してしまったのだろう。知子の愛情をたしかめたかったのだろうか。
立ち上がって窓によると、雪はさっきより小降りになっていたが、空は夕方のように薄暗かった。
知子が消え入りそうな声で私の名を呼んだ。が、気がついたのではなく、うわ言であった。また、私を呼んだ。たまらなく不愍(ふびん)になった。毛布の下をさぐって手を握ってやろうとしたとき、不意に知子が枕の上で頭を激しく左右に振った。
「どうした?」
知子が膝を立て、足先で毛布をはねのけた。裾から脛が剥き出しになり、両手で胸をかきむしるような仕草をしながら、全身をゆすった。ベッドから落ちそうになった。私は知子の上に体ごとかぶさって、押え込んだ。知子は両手で私の体を押しのけようとしたが、すぐ抵抗をやめて、おとなしくなった。隣りの手術室で何かの音がした。私はあわてて体をはがした。こんなところを見られたら誤解されると思った。大急ぎで知子の裾をととのえ、毛布をかけ直した。
五分ぐらいたって、知子が三たび、私の名を呼んだ。前よりも細い声であった。同時にまた頭を振り、体をゆすりはじめた。
「おとなしく、しろよ」
やはり体で押えこむより他になかった。麻酔は醒めぎわがくるしいと聞いていたが、こんなに暴れるとは知らなかった。たった今、不愍さを覚えたばかりなのに、私は知子の頬を思いきり殴りつけたくなった。意識的に私に面当てをしているように思えた。
知子はさらに数回暴れた。暴れ方が少しずつ弱くなったので、もう抛っておこうと、私はベッドのわきで見おろした。はだけた衿から乳房がこぼれ、まくれた裾から太腿が露わになった。もう一人の私が、早く直してやれ、と命じたが、私は手を伸ばさなかった。
そのとき、看護婦が入ってきた。
「また、暴れているのね」
私が手を出す前に看護婦が裾を直し、
「全く癖が悪いんだから、この人は」
捨てゼリフのようにそう言ってすぐまた出て行った。私が秋田へ出かけた留守に堕ろしたときは、美容院の女主人が付き添ってくれた。おそらくあとで知子は女主人から自分が暴れたことを聞き、それで今度は私に付き添いを頼んだのだろう。ずっと後に睡眠薬自殺を図ったときも知子は、意識を取り戻すまでの数時間、踠(もが)きつづけて私を手こずらせた。
雪は昼すぎにみぞれにかわった。そのなかを私は、往きの倍も時間をかけて知子をアパートに連れ帰った。
「ありがとう、もう大丈夫よ」
口ではそう言いながら、私がドアの鍵をあけている間、知子は廊下の壁に寄りかかって短い息を吐き、いかにも辛そうであった。勤めを休んでそばに居てやりたかったが、たまたま月給日で、出がけに妻から、「あした電気代を払わなくちゃならないの」と念を押されていた。
夜、東京駅で駅弁やいなり寿司の折詰めを買ってアパートに寄ると、知子が蒲団から起き上がろうとした。叱りつけて横になるのを見定めてから、炊事場で薬罐(やかん)をガスにかけた。ガスの炎を見つめていると、近くのドアが開く音がし、ジャンパーを着た二十五、六の青年がやはり薬罐をぶら下げて出てきた。私に不審そうな目を向けてから、隣りのガス台に薬罐をのせ、もう一度私をチラッと見て部屋に引っこんだ。他の部屋に住んでいるのは若い工員ばかりだと知子から聞かされていたが、アパートの住人と顔を合わせたのは、このときがはじめてであった。
枕許に胡坐(あぐら)をかいてお茶を淹(い)れ、私も、いなり寿司を一つ摘まんだ。知子は横になったまま食べた。この部屋で私が自分でお茶を淹れたのも、はじめてだった。知子が肘をついて軀を起こしかけたので、
「飲ませてやるよ」
口に含んで顔を近づけると、仰向いて唇を開いた。受け損ねてこぼれたお茶が知子の頤(あご)から首筋へ伝わった。
「もう一杯」
「すぐ甘ったれる」
知子が泣き笑いの顔をみせた。
「まだ痛むか」
「少しね。でも、大丈夫。あしたは起きられるわ」
「ばか。二、三日は寝てなくちゃダメだ。あすの晩、また来る」
「いいのよ。怕(こわ)いわ」
「怕い?」
「あんまり優しくされると、もうこれっきりになるんじゃないかと、かえって心配なの」
私は内ポケットから月給袋を取り出した。
「手術代、俺が出すよ。今月は夜勤手当が多かったんだ」
知子が枕の上で小さく首を振った。私が袋からお札を引き出そうとすると、
「いいのよ、本当に。まだ貯金が残っているから。それより、お願いがあるの」
金よりも厄介なものを要求されるのではないかと不安になったが、少し間を置いてから知子が呟くように言った。
「おいしいショートケーキが食べたいの」

 

 知子が美容院を辞めて、東京駅の近くにある料理屋に勤めるようになったのは、二回目の中絶から半年ほどたった頃であった。新聞の求人欄でお帳場さん募集の広告を見て出かけた知子は、
「お給料はいまと殆ど変わらないけど、一日中、坐っていられるから」
 そう言って、
「ね、仕事をかえてもいいでしょう?」
 私に同意を求めた。
「お前さえよければ。しかし、通うのが大変だぞ」
「朝は十一時までに行けばいいんだし、夜は七時だから、行き帰りとも腰かけられると思うの。坐れなくても、一日中立ち通しの今の仕事より疲れないわ。手術が崇(たた)ったのか、ここんとこ、立っていると腰がだるくてしようがないの」
「自分の店を持つつもりじゃなかったのか」
「美容師になったばかりの頃は夢を描いていたけど……あなたに逢ったときから、棄てちゃったの。ね、東京へ通うようになったら、ときどき待ち合わせして、一緒に帰ってこられるわね」
「それより、勘定を間違えないようにするんだな」
「あら、こうみえても算盤は三級なのよ」
月に二、三回、東京駅の地下街で飯を喰い、一緒にアパートに戻って二時間ばかり牀の中で過ごしてから家に帰るようになった。一度、起き出そうとする私の胸に額を揉みこむようにしながら、
「たまには泊まって行けないの?」
と聞いたが、
「長つづきさせたくないのか」
それっきり、せがまなくなった。
私はどの女にも最初から妻子があることを隠さなかったが、女のほうがいくら妻のことを詳しく聞きたがっても、曖昧な笑いを浮かべて口を濁した。それくらいのエチケットは心得ていた。しかし、知子にだけは、訊かれればたいがいのことは喋った。このところ風邪気味だとか、この間買い物に行って蟇口(がまぐち)を落としたとかいう些細なことも。長男が自転車から落ちて膝を怪我した話も、次男が学級委員に選ばれたことも喋った。知子は私の話に一喜一憂し、ときどき、「逢いたいな」と呟いた。
知子と長つづきしたのは、こうやって家庭の出来事を何でもあけすけに喋れたことも一因になっていたのだと思う。知子も新しい勤め先の話をよく私に聞かせた。
客の殆どが社用族で、なかには帰りのタクシー代を現金で帳場から貰ってゆく一流会社の部長もいるという話だった。
「美容院で奥さん連中の亭主自慢や子供自慢にもうんざりしていたけど、男の人のほうがもっといやしいことがわかったわ。休みの日に奥さんや子供たちをぞろぞろ連れてきて高いお料理を註文し、それを全部会社のツケにする人さえいるのよ」
知子から聞かされたそんな話を家に帰って妻に喋りそうになり、あわてて他の話に切りかえたことが幾度かあった。
 ずっと後で、「あなたくらいお喋りはない」と妻に言われたことがある。
「あんまり知ちゃんが何でもかんでも私のことを知っているんで、びっくりしたわ。寝物語にあの娘としょっちゅう、私のことをこき下ろしていたのね。家のことはベラベラ向こうに喋って、私には四年も五年もよく隠し通せたものね。口を拭ってよくだまし続けたものね。さぞかし私がバカに見えたでしょうね」
私自身、いまでも当時を振り返って、よく長いことバレなかったなあ、と不思議な気がする。戸塚に寄ることがすでに生活の一部になっていて、殊更妻の前でオドオドしなかったせいだろうか。
「暫く来られないよ」と知子に言い、のびのびになっていた書下ろし長篇を仕上げるために私はまた仮病をつかって長期欠勤した。今度は家に閉じこもって毎日、机に向かった。そろそろ四十歳になるというのに、私は一向に芽が出なかった。このへんで決定打を放たないと立ち腐れになってしまう、という焦躁を覚えていた。中間雑誌に載った短編が、新聞の時評欄に顔写真入りで大きくとり上げられたが、その小説は人から聞いた話をふくらませた全くのフィクションだったので、むしろ戸惑い気味だった。自然主義文学で育ち、徳田秋声を日本一の小説家と信じている私は、私小説で認めてもらいたかった。しかし、私の書く私小説にいつも下されるのは、「筋を作りすぎる」「面白すぎる」という批評だった。
 私自身は筋を考えたり、技巧を凝らしたりしたことは一度もなかった。妻の過去、結婚までのいきさつ、結婚後のだらしない女出入り、自分のぞろっぺいな性格などをできるだけ正直に書いたつもりだった。ただ、身辺雑記的な小説だけは書きたくないと思っていた。多分、そのせいだろう、私の小説が芥川賞の候補になると選考委員から、「この作者はストーリーテラーだ、達者すぎる」と嫌われ、直木賞の候補になると、「純文学だ、芥川賞向きだ」と言われたのは。
 新聞社時代の同僚で、私の書いたものを全部読んでいる中柄(なかつか)という友だちがいる。彼の批評は辛辣(しんらつ)だった。
「お前の小説には、いつもいい男ぶった主人公がでてきて、女にモテた話ばかり。だから読者の反撥を買うんだよ。要するに自己批判がないんだな。いっぺん自分をはなれて、徹底的に面白い小説を書いてみないかね。そのほうが有名になる早道だと思うね」
日頃、妻からも、「あなたは自惚れのかたまり」と言われていた。元々、自惚れがなくては小説なぞ書けやしないが、私が好んで小説に自惚れ強い男を描くのは、自分を可愛がって、よく思われようなんていう気がないからだった。私はこんなに自惚れ強い厭な奴なんですよと正直に語っているつもりだった。
大体、私は女にモテたのだろうか。前にも言ったが、私は選り好みしなかっただけだ。私のような男は、この世にたくさんいるだろう。男はみんな女にモテたいはずだ。私はただ機会を逃さなかっただけで、芯からモテたとは思っていなかった。要するに色好みだったにすぎない。
しかし、この世に色を好まない男がいるだろうか。同性愛者は別にして女がきらいな男がいるだろうか。女が好きで浮気っぽい男を正直に書いてどこがいけないのか。
私がそう言うと、中柄はすぐ再反論した。
「書くならもっと徹底的に書くんだな。ワルならワルらしく、女をとことん弄ぶ男を。ところがお前の書く主人公は、いつも中途半端で、ときどき、もっともそうな反省をしたりする。だからますます読む者のカンに触るんだ」
「俺はワルかね?」
「へーえ、自分じゃワルだと思ってないの。だから自己批判が足りないと言うんだ。本当は奥さんを愛しているくせに、その寛大さをいいことによその女にすぐ手を出して、面倒臭くなるとさっさと家庭へ逃げこんでしまう。女にとっては最も扱い難い、タチの悪い男だよ、お前は。オーバーに言やあ、女性の敵だ。お前が懲りないのは、これまで悪女にぶつからなかったからだな。悪女に逢ってキリキリ舞いをさせられたら、もっと成長すると思うんだが、お前さんはずるいから、泣き寝入りしそうな女しか相手にしない。俺に言わせると、そんな情事をいくらくり返しても同じだよ」
私はグウの音も出なかった。
欠勤している私にかわって、勤め先へ給料を取りに行った妻が、帰ってくるなり、
「珍しい人に逢ったわ」
と言ったとき、知子に逢ったなと私は思った。なぜ咄嗟にそう思ったのか、いまでも自分でわからない。
「誰だい、珍しい人って」
「あの娘よ、知ちゃんよ」
自分の予感が的中したので、私は余計ギョッとした。
「あの女、郷里へ帰らなかったのかね」
妻の表情をうかがいながら、私は精一杯、とぼけた。
「まだ戸塚にいるんだって」
箪笥の前で帯締めをほどきながら妻が言った。それには答えず月給袋の中身を調べていると、
「でも美容院は辞めて、いまは東京のお料理屋で働いているそうよ。東京駅で電車の列に並ぼうとしたら、あの娘が前のほうにいるんでつい声を掛けちゃった。おかげで坐ってこられたわ」
「料理屋で何をしているんだろ、お座敷女中でもしているのかね」
「お帳場だって。あんた、本当に知らないの?」
伊達締めのはじを握ったまま妻が振り向いた。
「知るわけがねえだろ」
妻はちょっと疑わしそうな表情を見せたが、
「あの娘、あなたの小説が載っている雑誌を大切そうに胸にかかえていたわ。まだ忘れられないのねえ」
終わりのほうが呟くような口調だったので、私はひそかに胸を撫でおろした。しかし、その反面、何となく物足りない気持ちでもあった。
「それで戸塚まで一緒だったのか」
「ええ、向かい合って。あの娘、何だか元気がなくて、自分のほうから何も言わないの。戸塚であの娘が降りてから、なまじ声をかけなければよかったと思ったわ。あの娘にすればきっと辛かったのね」
「結婚しないつもりなのかね?」
「やっぱり気にかかる? でも、逢っちゃダメよ。逢ったらガッカリするから」
「ガッカリ? どうして?」
「だってあの頃から較べるとずいぶん老けたもの。軀も何だかひと廻り小さくなったみたい」
ようやく長編を書き上げて、三カ月ぶりに出勤した日、私は早速、戸塚に寄った。
「ひもじかったか」
牀のなかで訊くと、素直に頷いたが、どことなく動きが鈍く、いつもは私が起き出すと一緒に牀をはなれてお茶を淹れ直すのに、その晩は私が服を着終わっても、蒲団から出てこようとしなかった。
「どうしたんだ、久し振りで、疲れたのか」
知子は暫く黙っていたが、
「ママと逢ったときね、流産したばかりだったの」
そう言うと、掛け蒲団を引き上げて顔を掩った。
「なぜ、連絡しなかったんだ」
言ってから、長い間勤めを休んでいた自分に、知子が連絡のとりようがなかったことに気づいた。もし脱稿が遅れ、そして流産していなかったら――私は背筋が寒くなった。

 

 数え四十二歳のとき、私は新聞社を辞めた。
それまでに八回、私の小説は文学賞の候補になったが、一向にうだつがあがらず、このまま二足の草鞋(わらじ)をはいていたら、結局、あぶはちとらずになるんじゃないか、という焦躁が日ましに深まって、筆一本で喰えなくなったら、そのときはそのときだ、とようやく決心がついた。
 私は毎日、勤めに出て行くのが、いやで仕方がなかった。当時の私の仕事は文化欄の整理で、仕事そのものは楽だったし、面白くないわけでもなかったが、通勤時間を入れて一日十時間以上も拘束されるのが何よりも苦痛だった。
 辞めるきっかけになったのは、千葉治平の直木賞受賞だった。彼の受賞を祝って同人誌が特集号を出したとき、私は次のような感想文を寄せた。
「千葉治平の受賞が決まった夜、私の家には、友人たちからひっきりなしに電話があった、という。当夜、私は、久し振りに栃木県から上京してきた友人と東京駅のそばの喫茶店で話しこみ、鎌倉の家へ帰ったのは十一時すぎであった。千葉の受賞は、その喫茶店のテレビで知った。私にはかなりのショックだった。留守にかかってきた電話は、私のそのショックを察しての劬(いたわ)りの電話に違いなかった。妻から電話をくれた友人たちの名を聞いて、私はその友情に感謝した。
 受賞後、千葉は、『候補に決まったとき、家の裏で声を出して泣いた』と、どこかに書いていた。私も十年前、はじめて芥川賞の候補になったとき、暫く軀の顫(ふる)えがとまらなかったのを覚えている。活字にした二つ目の作品だったし、私はまだ三十歳だった。
 この十年間に私は芥川賞候補に二回、直木賞の候補に六回なった。これは戦前戦後を通じて最多記録だそうである。が、むろん、自慢できる記録ではない。『お前はよくよくツイていない』と友人たちは慰めてくれるが、八回も落ちたということは、どの作品も非力で魅力に乏しかったことを語って余りがある。残念ながらそう認めざるを得ない。
 恐らく私ほど賞に悩まされた男はいないだろう。はじめて候補になった直後、当時大磯に住んでいられた沢野久雄さんと偶然、湘南電車で一緒になった。
『芥川賞は一発でとらなければ駄目ですよ』と氏は言った。『僕のように何回も落ちると、ますますむずかしくなり、候補になった作品ばかり集めて本にし、こういう小説を書くと絶対に受賞しません、とあとがきをつけようか、と思っています』
 そんな冗談を言う沢野さんが、私には羨ましくてならなかった。自分にとって、候補は、はじめの終わりだろうと思っていたからだ。まさか後年、自分が沢野さんの倍近くも候補に挙げられようとは夢にも思わなかった。今の私は、たとえ何回候補になろうと、それがけっして実績にならないことをよく知っているが、当時の私は、二、三回候補になれば、いずれ受賞できるだろうと思っていた。安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三、近藤啓太郎などの諸氏は、いずれも三、四回目で受賞し、たしか池波正太郎氏が直木賞を受賞したのは五回目の候補のときだったはずである。
 しかし、五回を越すと、候補回数を重ねれば重ねるほど、賞とは縁遠くなる。見合いずれした娘と同じで、候補ずれ、落ち馴れてくるからだろう。私なぞまさにその典型である。
 それはともかく、はじめの頃は、候補になっただけで嬉しかった。新聞の学芸欄に載った『予選通過作品』の記事を後生大事に切り抜いておいたくらいである。万一受賞したら――そう思うと、夜もよく眠れなかった。特に選考当日は朝から落ち着かず、勤め先へ出ても一切、上の空だった。そして、選考時間が迫ってくると、胸苦しくさえなった。誰も居ないところへ逃げ出したかった。一人になりたかった。これは、候補になった者でなければ、わからない気持ちだろう。千葉も今度の選考日には、恐らく当時の私と同じ気持ちだったに違いない。このまま選考が中止になって、ずっと候補のままで居たい――そう思ったことさえある。落ちるのがわかっていたからであろうか。(中略)
 私は『秋田文学』に発表した小説で五回、直木賞の候補になった。その間、何度か合評会で秋田へ行き、地元の同人たもとも親しくなった。地元の同人たちが私の受賞を期待していることを知れば知るほど、私はなんとかして『秋田文学』に書いた小説で受賞したかった。知遇に応えたかった。
 が、あまり落ちてばかりいるので、ようやく周囲も飽きはじめ、私自身も疲れてきた。勤め先の新聞社でも、『おい、万年候補、いい加減でとれよ』と冷やかされた。しかし、こればかりは、いくら当人が欲しがっても、どうにもならない。それに私は通算六回目ごろから、候補になるだけではさして感激も覚えず、選考日になっても、さほど胸が騒がなくなった。
 もうどうともなれ、と言った気持ちだった。だから落ちても、あまり落胆しなかった。落ちたときの心境にすっかりお馴染みになり、最初の頃は、選考日の翌日出勤するのも辛かったのに、その頃になると平気な顔で出社できた。周囲も何も言わなくなった。彼らも、『残念だったね』という言葉を口にするのに飽き飽きしてしまったのだろう。はじめの二、三回は、翌日の新聞の『時の人』欄で、ニコヤカに笑っている受賞者の写真を見るのさえ、癪だったが、回を重ねるに従って、かなり客観的に見ることが出来るようにもなった。何事も馴れである。
 七回目に落ちたとき、私は殆ど受賞を諦めた。同時にこれ以上『秋田文学』に迷惑をかけてはなるまいと思った。最初の約束通り、私の提出した作品は、どんなに枚数が多くてもかならず掲載された。そのかげで他の同人の作品が犠牲になっていたに違いないからである。(中略)
 私の八回目の候補作品は、他の雑誌に発表したもので、またも落選ときまったとき、自分が一躍脚光を浴びる運を持たないことをはっきりと知った。そして、これで十年間悩まされた賞から俺はやっと解放されたと思った。
 千葉の受賞作は、今までに彼が発表した小説のなかでは、最もすぐれている。しかし、この小説が候補に挙がったと聞いたとき、私は正直言って、まさか受賞するとは思わなかった。地味な叙述が直木賞向きではないと思ったからである。
 一度、候補にあげられると、もう一度、なりたくなるものである。少なくとも私はそうだった。だから私は、もし千葉がこんどの作品で受賞できないと、そのあとが辛いだろうと心配した。私はしばしば、『前の作品のほうがよかった』と評された。
 千葉は見事受賞して、私の杞憂を吹っとばした。かつて沢野氏が言った通り、まさに一発でとったのである。私は呆ッ気にとられた。してやられた、と思った。
 同じ『秋田文学』に拠(よ)って、ついに受賞できたかった私が、千葉の受賞でどれほどショックをうけたかは、ここに改めて書くまでもあるまい。はっきり言って、私は彼の受賞を喜ぶ前に、自分の衝撃を持てあました。彼の受賞を喜ぶようになるまで、かなりの日数を要した。
 他の文学賞と違って、芥川賞と直木賞は、受賞ときまったそのときから、その人の運命まで変えかねないほどの大きな力を持っている。昨日までの無名作家が、たちまちスターになり、時の人になる。私は過去数回、もしかしたら私もなることができたかも知れないそれらの『時の人』たちに、嫉妬と羨望を覚え、そしてその都度、来年こそは――と自分を慰めてきた。私が自らを慰めることができた一つの理由は、それらの『時の人』の殆どをじかに知らなかったからである。
 が、今度ばかりは違っていた。千葉とは何度か会い、手紙も何十通もやりとりしていた。彼が送ってきた数百枚の生原稿を読んだことさえあった。千葉自身も書いているように、私も彼を、華やかな賞とはもっとも縁の遠い作家と見てきた。私ばかりでなく、故郷田沢湖畔に材を取ったこれまでの彼の地味な作品を読んだ者は、だれもがそう思ったに違いない。その千葉の受賞は、私にとって、まこと痛烈な皮肉であった。皮肉きわまりない運命と思えた。
 千葉の受賞をことほぐために筆を執りながら、私はあまりにも自分について語りすぎてしまったようだ。が、今の私は、儀礼的な、うわっ面なお祝いの言葉を述べるよりも、正直な感慨を誌すほうが、千葉も喜んでくれるものと信じている。自分の裸の心を見せることが、劬(いたわ)りの電話をかけてくれた友人たちの友情に応える唯一の道――とも信じている。
 これを読んで、泣きごとを書いてやがる、と嘲(あざ)笑う人もいるだろう。事実、書きながら、匿名批評家に好餌を与えるようなものだ、と思わぬでもなかった。しかし、私は、これを読んで他人がどのように嘲笑しようが、もはや、かまわない。私は正直な気持ちを書くことによって、千葉の受賞からうけたショックを一日も早く鎮めたい。書かずにいると、いつまでもショックから抜け出せないような気がするのである。
 私はこの二月限りで、二十年近く勤めた新聞社を退いた。筆一本に専念することになった。もとより自信はない。殆ど無名に等しい、そして妻子を抱えた四十男として、暴挙に近い行動である。だが、長い間見聞してきた新聞社というものを、私は私なりに何とか小説に書きたかった。しかし、勤めている限り、書くことはできない。停年まであと十余年、私はとてもそれまで温めておけそうもなかった。他にも理由はあったが、私は思い切って社を辞めた。将来のことはわからない。やめて一週間、私は、自分でも信じられたいくらい、筆が動くようになった。
 誰にも気がねなく書くこと、誰にどう思われようと意に介さず、自分の恥をさらけ出すこと――それが物書きにとって、いちばん大切なのだろう、私がこの一文を書くことが出来たのも、勤めをやめたせいに違いない。
千葉は受賞後も勤めをやめず、二足の草鞋をはきつづけるという。
『君は受賞もしないのに辞めるのか、大した自信だな』
 勤めていた社の同僚から私はからかわれた。いずれ月給のありがた味を思い知るぞ、と言わんばかりであった。
 私にしても受賞してから大威張りで勤めを辞めたかった。確実な文壇への鑑札を手にしてから社を退きたかった。が、そうは問屋が卸してはくれなかった。
 趣味で小説を書いている人は問うまい。しかし、やがては職業作家になることを目ざして、同人雑誌で勉強している者は、例外なく芥川賞や直木賞が欲しいはずである。『そんなもの、俺はいらない』とうそぶく人もいるが、私は信じない。芥川賞患者、直木賞亡者とののしられようが、みんな喉から手が出るほど欲しいのである。 鰻屋の前で、何度かその匂いを嗅がされながら、ついにのれんを分けて入ることを許されなかった私は、その罪な匂いから十年目でやっと後ずさりすることができた。これからは匂いに惑わされず、自分なりの仕事に精を出さねばならない。そして鰻を食べた千葉治平は、それを栄養素として、受賞作をのりこえる作品を書かねばならない。
 勤めを辞めたばかりの私は、いま、かなり悲壮になっているが、どんなに悲壮な決意でいようと、運命の神は、最後まで私に微笑んでくれないかも知れない。それもまた運である。(後略)」
 あと二年たてば勤続二十年で停年退職扱いになり、規定の退職金が貰えるが、いま辞めたらその六割しか貰えませんよ――社規にくわしい後輩が忠告してくれたが、私にはその二年が辛抱できなかった。
「あと二年、毎日いやな顔をして出勤するあなたを見るの、私だって辛いわ。思いきって辞めちゃいなさいよ。何とかなるわよ。食べられなくなったら、またどこかへ勤めればいいじゃない」
 妻の言葉が何よりも私の気分を楽にしてくれた。ある大手の出版社から、「新聞社を舞台にした長篇が出来上がり次第、本にする」と言われたことも私を勇気づけた。私の本を装幀してくれた画家も、
「これからが本当の人生ですよ」
 と、励ましてくれた。
 しかし、それから丸十年、私は小説を一作も書かなかった。

 四

 勤めを辞めて二カ月後、
「小遣い銭かせぎに、週刊誌の仕事を手伝ってくれませんか」
 と、別の出版社から頼まれた私は、月に一回でいいと言うので気軽に引き受けた。東京へ出る口実ができた、とも思った。しかし、二カ月もたたないうちに毎週となり、週に二本となり、やがて他の週刊誌からも註文がきて、いつかそれが本業となってしまった。右から左へ金になる誘惑には勝てなかった。その間、暇をみては机を浄め硯を新たにしたのだが、目先の欲望に負けて、いつも長つづきしなかった。
「あんたは小説のかわりに子供をつくったのね」
 後年、妻に厭味を言われたが、その通りなので一言もなかった。
週刊誌の仕事をはじめて半年後、私は牛込余丁町のアパートの一室を借りて、週の大半をそこですごすようになった。陽当たりの悪い四畳半だったが、雑文屋にふさわしい部屋とも言えた。私と一緒に周旋屋を何軒も廻ってその部屋を決めたとき、妻が言った。
「あなたのことだから、一人暮らしをはじめたら得たりや応と浮気をはじめるでしょうけど、この部屋に女を泊めることだけはよしなさいよ。女はね、男の部屋に入れて貰うと、すべてを許されたと思うものなのよ。泊めたらそのまま居つかれてしまうわよ」
そのときは、
「だれがこんな薄ぎたない部屋に居つくもんか」
と一笑に付したが、結果は妻の言った通りになってしまった。一カ月ばかりたって知子を仕事部屋に泊めたところ、それからは三日にあげず泊まりにきて、
「留守にお掃除をしておくわね」
 週末、私が鎌倉の家に帰ったあとも、戸塚の自分のアパートヘ戻らなくなってしまった。
仕事部屋には、若い編集者や取材記者たちがしょっちゅう出入りした。知子は料理屋から戻ると、ひと息入れる暇もなく彼らにお茶を淹れ、買ってきた餅菓子を出し、私が原稿を書き上げるまでの話し相手もつとめた。
長い間、私の訪れを待つだけの生活をつづけてきた知子は、少しでも私の仕事に役立つことをするのが嬉しいらしく、客が煙草を切らしているのに気づくと、何も言われないうちにサッと外へ買いに行き、夜更けに酔っぱらった取材記者が転がりこんでくると、眉を寄せる私を目顔で制して、甲斐がいしくネクタイをほどいてやったり、服を脱がせて毛布をかけてやったりした。
 私は子持ちの編集者がくると、知子の前で、妻や子供たちの話をした。そんなとき、相手のほうがチラチラッと知子の表情をうかがった。電話で妻と話をしているときも、居合わせた編集者がハラハラした顔でそばの知子を盗み視た。私はそんな彼らが気の毒になって、出入りする一人一人に、お心遣いご無用と説明し、「ただし、鎌倉の家にきたときは、見ざる聞かざるだぜ」と、釘をさすことも忘れなかった。
知子が泊まりに来ない晩、私は前に関係があった女流作家とよく電話で長話をした。勤めをやめた直後、何年ぶりかで突然電話をかけてきた彼女から、
「いい齢をして妊娠しちゃったの。どこか病院知らない?」
 と相談されて以来、性を抜きにした交際が復活していた。かつて体の関係があった私にそんな相談をける彼女の神経に、さすがの私も驚いたが、私のほうも、他の女との旅行費を借りに行ったことがあるのだから、相手の無神経ぶりを嗤(わら)うことはできない。それだけに退屈しのぎのお喋りをするには、またとない相手でもあった。
 或る日、女流作家が電話で、「あした、セックス・カウンセラーのところへ行く」と言った。
「取材?」
「いいえ、個人的なことでよ」
「あなたがセックスの相談とは考えられないな」
「私じゃないの、人を連れて行くの」
 二年ほど前に新人文学賞をとった主婦作家の名を言った。その主婦作家とは私も会合で一、二回顔を合わせたことがあった。私と同い齢ぐらいで、明るい屈託のなさそうな顔にふさわしく、豊満な体つきをしていた。夫は一流会社に勤め、大きな邸に住んでいるという噂も聞いていた。
「あのひと、はた目には幸福そうだけど、不感症でずっと悩んでいるのよ」
 数年前から夫と同衾するのが苦痛になり、最近では一緒に食卓を囲むのさえ辛くなったという話だった。
「ご主人が浮気でもしたんじゃないの?」
 胸も腰もたっぷりした軀つきを思い浮かべながら私が訊くと、
「その点は私にもはっきり言わないのよ。不感症って多分に心理的なものだから、カウンセラーに悩みを全部ぶちまければ、治るんじゃないかと思うの」
「小説家にあるまじきことだね」
「あら、どうして?」
「小説家なら、その悩みを小説に洗いざらい書くべきじゃないか」
「あのひと、亭主持ちでしょう、やっぱり、あからさまには何もかも書けないんじゃないかしら」
「僕の勘じゃ、不感症じゃなくて、浮気がしたいんじゃないのかな」
「あなたと違うわよ」
「よしんば不感症だとしても、医者に相談することはないと思うな。何なら僕が治してやってもいい」
 むろん、冗談だったし、女流作家のほうも、
「そうね、あなたたら治せるかも知れないわね。いっぺん、彼女に聞いてみるわ」
と笑っていたが、翌日、当の主婦作家からじかに電話がかかってきて、
「あのう、相談に乗っていただけますか」
 咄嗟に返事ができないほど、真剣な声であった。
 三日後の夜、私は彼女と新宿の喫茶店で落ち合い、並びの寿司屋でほんの少しアルコールも入れてからホテルヘ行った。彼女は少しもためらわず、いっそ堂々としていた。
 はじめはたしかに反応がにぶく、孤軍奮闘の趣きだったが、一時間ぐらいたつと、急に目覚めたようになって、それからは私のほうがタジタジとなった。あとで知ったのだが、彼女の夫は二年ほど前に軽い脳溢血で倒れ、右半身が不随だった。
 彼女とホテルヘ行ったのは三回ぐらいだったろうか。牀のなかでは思いきり乱れるくせに、陶酔から醒めると急に家のことが心配になるらしく、シャワーを浴びて手早く身支度をととのえると、タクシーであわただしく帰って行った。何のことはない、私は不満解消の道具に使われたようなものであった。ばかばかしくなって、彼女から電話がかかってきても私はわざと気のない返事をくり返すようになった。
「彼女、とってもあなたに感謝しているわ。うちにきても、あなたの話ばかり、小娘のようなのぼせようよ」
 女流作家に聞かされて私はますます鼻白んだ。
 二カ月ほどたった月曜日、私が鎌倉の家から仕事部屋へ行くと、留守に泊まりこんでいた知子がはれぼったい顔で出窓に腰かけていた。
「料理屋、きょうは休みなのか」
「休んだのよ。ゆうべ一睡もできなかったの、電話が鳴り通しで――」
「おかしいな、俺が週末、この部屋にいないことは週刊誌の連中、みんな知っているはずなんだが。それに急ぎの仕事なら鎌倉のほうに連絡してくるはずだ」
「仕事じゃないわ。女のひとよ」
「女? お前、電話に出たのか」
「出ないからベルが鳴り通しだったんじゃない。あなたに言われているので、留守中、電話が鳴っても一切、私は出ないわ。大抵、七、八回鳴らして切れるけど、ゆうべは一晩中よ。十一時すぎから明け方の四時まで鳴りっぱなしだったのよ。あんなにしつっこく鳴らしつづけるのは、女よ、女以外にないわ」
 多分、あの主婦作家だろうと思ったが、それにしても私は腑に落ちなかった。彼女が逃げ腰になった私を怨むのは勝手だが、私が居ない仕事部屋に五時間も電話をかけつづけてみたところで、何の効果があるのか。私には痛くも痒くもない無駄ないやがらせではないか。しかし、その謎は知子の説明ですぐ解けた。
「退屈だったんで私、立川にいる高校時代のお友だちと電話で十分ぐらいお喋りしたの。電話がかかってきたのは、私が電話を切ってから一分もしないうちだったわ。最初は七、八回鳴らしてすぐ切れたんだけど、また鳴り出して、それから明け方まで鳴りやまなかったの」
 恐らく主婦作家は、最初電話をかけたとき話し中だったので私が仕事部屋にいると思い、知子の電話が終わるのを待って掛け直したのだろう。ところが一向に出ない。たった今、話し中だったのだから居ないはずはない。番号を間違えたかなと思って、もう一度、掛け直したが、やはり出ない。居るのに出ない! 彼女は意地になってベルを鳴らしつづけたに違いなかった。
「はじめはママからと思ったの。あなたがまただれかと浮気して鎌倉へ帰らないのじゃないかと思ったの。だから、余計、怕かったわ。でも、あんまりしつっこいので、これはママじゃない、他の女だと思ったの。よっぽど受話器を取って、一旦、切ってしまおうかと思ったんだけど、万一、ママからだったら、とんでもないことになるんで、切るわけにいかなかったの。近所迷惑なんで電話機に蒲団をかぶせたんだけど、それでも鳴りやまないの。私、蒲団のうえにかぶさって、電話機を押えながら、しまいには泣き出してしまったわ」
知子はそう言いながら、そのときの恐ろしさを思い出したのか、肩を顫わせた。
「とんだ目にあわせたな」
肩を抱きよせると、
「いや、もう、いや、あんな思いをするのは」
 泣きながら私にしがみついた。
 五時間も電話を鳴らしつづけた女、その呼出し音にじっと堪え抜いた女――。
 ややたって私の腕の中から出た知子が、お茶を淹れながらぽつりと言った。
「女って、怕いのよ」
 主婦作家とはそれきり縁が切れたが、女流作家のほうはいまでもときどき、家に電話をかけてくる。私が留守のときは、妻と三十分ぐらいお喋りをするらしい。彼女が類いまれな軀の持ち主であることも、彼女の仲立ちによって主婦作家と関係を持ったことも、私はすっかり妻に話してある。だから何を喋られても私は一向に平気なのだが、妻にすれば、それだけに受け答えに戸惑ってしまうようだ。
「物を書く人間がみんなどっかおかしいのは私も知っているけど、前に肉体関係があった男の家に電話をかけてきて、そこの奥さんと平気で世間話をするなんて、やっぱりまともじゃないわ。私は鈍感であんまりこだわらないほうだけど、あのひとと話をしていると、何だか、こっちまでおかしくなってきちゃうの」
「俺が何もかも女房に話しているとは思っていないから、彼女も澄ましてお前と喋るんだよ。まともじゃない点は俺のほうが上かも知れない」
「それにしても私に向かって、奥さまはまだ月々のしるしがあるんですかなんて訊くのよ。私にすれば何だかからかわれているみたい」
「さばさばしていて、いっそ、いいじゃないか。ひょっとすると彼女、俺との関係なんか忘れてしまっているのかも知れない」
「まさか」
「関係を断って何年もたてば、男と女なんて所詮そんなものなのかも知れないな」
「早くそうなってくれないかな」
「何の話だ?」
聞き返すまでもなく、妻が知子のことを言っているのがわかるので、私はそれきり口をとざさざるを得なかった。


【五の章】


 

 毎週月曜日の昼になると私は、着替えをつめたボストンバッグをぶらさげて、鎌倉の家を出た。
 小田急の江ノ島駅から特急に乗って新宿に着くのが午後一時半、国電で池袋へ行き、西武池袋線に乗りかえて次の椎名町駅で降りるのが二時ちょうど。駅から仕事部屋まではゆっくり歩いても五分とかからなかった。
アパートの二階にある仕事部屋は、東南に窓の展(ひら)いた角部屋で、周囲は平屋ばかりだったから、陽当たりと風通しは申し分なかったが、そのかわり、ちょっと掃除を怠ると小さな塵まですぐ目立った。
 部屋は六畳に二畳分の板敷きで、流しとガス台が付いている。家具は本箱、サイドボード、テレビ、机がわりの電気炬燵。この部屋で私は金曜日まで一人で暮らした。二階には他に三部屋あって、いずれも大学生が住んでいたが、このアパートにいた四年間、私はついにその誰とも口をきかなかった。
食事は専ら外食で、仕事に追われて外へ出かける暇のないときは即席ラーメンで空腹をみたした。余丁町からここに越してくるとき、妻と知子が相談して、炊事道具をひと通り買い揃えてくれたが、ラーメンを茹でる小さな鍋のほかは滅多に使ったことがなく、家から運んできた米は一度も手をつけずに、流し台の下の戸棚に袋ごと抛りこんであった。
 しかし、コーヒーだけは毎日欠かさず自分で淹れた。私はインスタントを含めて一日に最低十杯はコーヒーを飲んだ。
 コーヒーと煙草だけで半日以上すごし、仕事中に急に気分が悪くなって炬燵のわきに倒れたことが三回ばかりあった。胸が絞り上げられるように苦しくなって、目の前が暗くなり、ほんの僅かな間だったが、意識を喪った。気がつくと全身に冷や汗をかいていた。
 こんなことを繰り返していたら、今に意識を喪ったままそれっきりになるかも知れないと、少しばかり怕くなったが、その一方で、なアに人間そう簡単にくたばりゃしないさ、とタカをくくってもいた。
 毎晩十一時になると妻が電話をかけてきた。
「ちゃんとご飯を食べなきゃ駄目よ。おなかをすかして煙草ばかりのんでいると、また倒れるわよ」
「わかっている。そっちは変わりないか」
「ええ、準も章もせっせと受験勉強しているわ」
「あんまり無理させるな」
「あなたこそ無理しないでよ」
妻が電話をかけてくるのは私の健康を気づかうよりも、私が部屋にいるかどうかを確かめるためであった。
この部屋に越すことがきまったとき、
「椎名町へ移ったら、知ちゃんとは週一回にしてほしいの」
と、妻がいつになく固い表情で言い出した。私は言下に刎ねつけた。
「お前にそんなことまで指図されるいわれはない」
「指図じゃないわ、頼んでいるのよ。それとも週一回じゃ足りないの?」
「ばか、回数じゃない。いいか、そもそもセックスというやつは、第三者に決められて、はいそうですかとその通りにするようなものじゃないんだ」
「へーえ、私は第三者なの」
「俺と知子のセックスについては、お前は間違いなく第三者じゃないか。お前にそこまで管理されてたまるか」
「妻が夫に、他の女となるべく寝ないでくれと言うのは当然でしょ。普通の奥さんなら、週一回どころか、年に一回だって絶対に許さないわよ」
「するとお前は、妻には夫のセックスを管理する権利があると言うんだな」
「権利だなんて言ってないわ。頼んでいるんじゃない。とにかく、あっちへはなるべく泊まらないようにしてほしいの。今まで通りならわざわざ仕事部屋を移す意味がなくなっちゃうわ」
「むこうに泊まるのは何も知子と寝たいからじゃない。駿吉とできるだけ一緒にいてやりたいからだ」
「卑怯よ、すぐ駿ちゃんをダシにして。そりゃあ私だって、なるべくあの子をあなたと一緒に居させてやりたいと思うわ。でも、あっちへ泊まって、あんたが何もしないなんて、誰が信じるものですか」
「信じられないなら一度、見に来い。ちゃんとチビを間にして寝ているから」
「そんなに知ちゃんて、いいの?」
「うるさい。つべこべ言うなら、もう、引っ越すのはよすぞ」
いま振り返ってみて、あの頃の俺は全く横暴だったなアとつくづく思う。妻がもっともいやがっていた知子との間に子供をもうけたばかりでなく、二十歳も年下の文世と三日にあげず泊まり歩き、それがいっぺんにバレてしまったのだから、本来なら私はひたすら恭順の意を表して、妻の言うなりになっていなければならないはずであった。ところが私は逆に居直って、妻がちょっとでも気に入らないことを言うと、近所に聞こえるような大声で呶鳴りつけた。日ましに痩せてゆく妻を少しも劬(いたわ)ってやろうとしなかった。自分ばかりが可愛くて、まわりの人の気持ちを思いやる余裕を失っていた。
妻の電話から三十分後、今度は知子から電話がかかってきた。
「今夜も徹夜? そろそろ寒くなってきたから風邪を引かないようにね」
「チビは?」
「いま、眠ったわ。この頃うるさくてしようがないの。パパはいつ帰ってくるのかって。こんどの土曜日、お天気だったら、どこかへ連れて行ってやってよ」
「考えておく」
週刊誌の仕事は企画通りの材料が集まらず突然中止になることがよくあった。そんな夜、私は文世の写真を取り出して、くり返し眺めた。
文世の写真は手許にちょうど五十葉残っていた。新宿の中央公園で高層ビルをバックにして撮った三葉を除くと、あとはいずれも二人で旅行したときのスナップであった。どういうわけか文世は、自分の写真を少しもほしがらなかった。
小雪のちらつく越前永平寺の勅使門下で、外套の襟に顎先を埋めている立ち姿、山代温泉の白い暖簾がさがった宿の玄関で微笑んでいる顔、南伊豆の弓ケ浜で落日を眺めている横顔、京都の南禅寺山門前で、鳩の群れを小腰をかがめて見つめている姿……。しかし、私が最も気に入っていたのは、湯ケ島の宿で丹前の両袖を胸に抱いて、藤椅子に腰かけている文世だった。
文世と伊豆巡りをしたのは二月はじめだったが、朝、充ちたりた眠りから私が醒めると、暖かい陽が部屋いっぱいに射しこみ、文世は縁側の籐椅子に凭れて猫越川をはさんだ対岸の小丘を見上げていた。朝陽を浴びたその横顔に誘われて、私は飛び起きるとすぐ鞄からカメラを取り出した。
「だめ、まだ顔も洗っていないんです」
文世は袖で顔を隠したが、そのかげから目だけのぞかせて、私がまだカメラを構えているのを知ると、少しずつ袖をおろして、はずかしそうに目をしばたたいた。前の晩、文世は初めて歓びを口にした。
この写真はいま、妻が持っている。妻は私と旅行に出かけるとき、この写真を忘れずにハンドバッグに入れて行く。
「文世さんも一緒だから、退屈しないわね」
皮肉を言うのも忘れなかった。
章が池袋に在る大学に入って、鎌倉から通うのは大変だと言い出したとき、私は椎名町の仕事部屋を彼の下宿に譲った。そのとき、文世の写真を袋に入れ、古雑誌をつめた段ボールの箱の底に隠した。妻に訊かれれば、女とのいきさつを何でも喋ってしまう私だったが、さすがに写真を家に持って帰るのは気が引けたからだ。
ところが一カ月もしないうちに章にみつかってしまった。成る晩、妻が、
「これ、あなたのいちばん大切なものじゃないの」
ニヤニヤした顔で袋を差し出した。思わず私は息をのんだ。
「あの部屋で毎晩、それを眺めていたんでしょ」
図星だったので、何も言えなかった。
「私と旅行するときは風景ばかり撮っているくせに」
その晩、妻が寝てからそっと袋の中身を調べると、私がいちばん気に入っている湯ケ島での写真だけがなくなっていた。軽い鼾(いびき)かいている妻の寝顔を幾度もうかがった。まさか揺り起こして訊くわけにもいかなかった。
訊きたくてウズウズしながら三日ばかり黙っていたが、ついに我慢しきれず、
「写真、あれだけだったか」
私は努めてさり気なく切り出した。途端に妻がニヤッとした。
「一枚、貰っておいたわ。私がいちばん気に入ったのを」
「お前が持っていて、どうするんだ」
「どうしも、しないわ。とっても綺麗に撮れているんで、欲しくなっただけよ。それとも、あなたが持っていたいの?」
うかつに返事ができなかった。
「あなたもあの写真が好きなんでしょ。見たくなったらいつでも言いなさい、見せてあげるから。章もあの写真がいちばんいいって言ってたわ。この写真通りのひとなら、俺も一度会いたかったって――」
いまでこそ、滅多に見ようという気が起こらなくなったが、椎名町の仕事部屋にいた頃は、暇さえあれば取り出して眺め、すると、逢いたい、一目だけでも逢いたい、という想いがこみ上げてきて、気がつくと、涙が滲んでいることさえあった。当時の私は、いや、いまでも私は、文世のなめらかな肌触りや、お返ししてくれた愛撫をはっきりと覚えている。

 二

 金曜日の午後、ガスの元栓をたしかめ、窓の雨戸を締めて部屋を出ると、池袋に在る出版社に寄って前週分の原稿料を貰い、そのあと編集者や取材記者たちと近くの喫茶店で一時間ばかり雑談するのが当時の習慣になっていた。ときには彼らに問われるままに、最近読んだ本の感想や文章論をひとくさり弁じることもあった。
 その喫茶店を出て、並びの菓子屋でチョコレートやドロップを買うと、渋谷行きの都バスに乗り、明治通りの「新田裏」で降りる。そして抜弁天へ向かう都電の軌条跡をゆっくりと歩く。以前、この道の右側には都電の車庫があって、黒ずんだコンクリート塀の内側にいつも何十輌もの電車がとまっていた。私が週に一回ここを通る頃は空地になっていたが、いまは、十何階かの都営アパートがそびえている。
 この道を私が殊更にゆっくりと歩いたのは、中学一年から兵隊にとられるまで住んでいた家が、車庫の真ン前にあったからだ。その家にはささやかな庭があり、板塀もめぐらしてあったが、始発から終車まで、電車が通るたびに震動が伝わってきて、越してきた当座は家の者がみんな寝不足になった。その家が強制疎開でこわされたことを私が知ったのは復員後だった。現在はラーメン屋にかわっている。
 毎週ここを通るたびに私は、以前住んでいた頃の人たちに再会できるのではないかという期待を抱いたが、ついに誰とも行きあわなかった。一軒一軒、標札をたしかめてみたが、記憶にある名前を拾い出すことができなかった。家並みもすっかり変わっていた。
知子母子の住んでいるアパートは、市ケ谷富久町の狭い路地裏にあった。やはり二階建てで、上下に四世帯ずつ住んでいるが、ドアは階下に八つ並んでいた。知子の部屋も二階南側の角で終日陽当たりがよく、どんな大きな洗濯物も軒下に吊るしておけば半日で乾くことが、綺麗好きの知子を喜ばせていた。
ドアをあけるとすぐ階段で、登ったところが三畳、奥が四畳半、それに小さな台所とトイレが付いている。
知子が戸塚からこのアパートに越してきたのは、妊娠八カ月目であった。知子は一人で近所の周旋屋を幾軒も廻った末に決めた。仕事部屋を捜すときに私は妻と一緒にやはり界隈の周旋屋を歩いたので、
「お前が気に入ったところなら、どこでもいいよ」
と下駄をあずけ、引っ越してくる日がきまってからやっと見に行った。町名こそ違っていたが、路地伝いに行けば余丁町の仕事部屋から五分とかからなかった。
妻に徹底的に隠すなら、もっとはなれた場所にするのが当たり前だが、隠し子を産ませるのに仕事部屋と目と鼻の先のアパートに知子を引っ越させたのは、すでにこのとき私が、いずれ遅かれ早かれバレてしまうだろうと思っていたからに他ならない。バレたらバレたときのことだとタカをくくっていた私は、
「ママにわかったときは何とかしてね」
と知子に言われるたびに、
「ああ、わかった、何とかする」
と答えていた。
知子が引っ越してきた日、私ははじめて知子の身内に逢った。
その朝早く、仕事部屋に女の声で、
「知子姉さん、そちらにいますか」
という電話があり、
「私、知子姉さんの弟の嫁なんですが、いま秋田から上野に着いたところです」
と、強い東北訛りで告げた。聞きとりにくいその言葉から、「弟の大学入試に付き添って近く上京することを、戸塚のほうへ手紙で知らせておいた」という話を理解するまでに私は十分以上もかかった。私は知子が引越し準備のため三日前から戸塚に戻っていることや、きょうが引っ越しの当日であることを手短かに話し、「ともかく、ここにいらっしゃい」と言って、上野からの道を教えた。
一時間ほどたって仕事部屋に現われた知子の弟嫁は、三十前後の顔も体つきもがっしりとした女だった。十八、九の青年と三つぐらいの男の子を連れてきた。彼女の口から、知子が私との関係を弟夫婦にだけは打ち明けていることがわかった。
間もなくトラックが着き、私が運転手や助手を指図して荷物を知子の部屋にようやく納めおえたところに、戸塚の跡始末をすませた知子が両手に大きな風呂敷包みをぶらさげて肩で息をつきながらやってきた。
荷物の間に窮屈そうに座っている弟嫁の姿を見て、「あれ」と知子は目を見張ったが、それ以上に弟嫁のほうが知子のおなかに驚いたようであった。
「父や継母には産まれてから報せるから、それまでは内緒にしておいてね」
知子が頼むと、弟嫁は幾度も頷き、膝の上の男の児を抱え直して言った。
「義姉さん、この子のお古でよかったら、送りますけど」
知子がチラッと目を走らせてきたので、私はわざと明るい声で、
「ぜひ、お願いします。そうしていただければ、助かるよな」
おわりのほうは知子へ向けて言った。吻(ほつ)としたように知子の目が笑った。
その晩、弟嫁たちをアパートに泊めて、知子は仕事部屋に寝た。牀のなかで知子が、
「あの人たち、選りに選ってこんな日にきて――よけいわずらわしい思いをさせて、ごめんなさい」
と謝ったとき、
「かえって、よかったじゃないか。じかにこっちの状態を知って貰えて」
私は半ば自分に言った。子供ができれば、単に男と女ではいられなくなる。いずれは、いやでも相手の身内とかかわりを持たねばならなくなる。それが早くなっただけだ、と私は自分に言いきかせた。
知子が出産する前に私はさらに四人、知子の身内に逢った。たしか予定日が三、四日後に迫った頃であった。
徹夜仕事を終えて、ひと眠りしようと思っていたときに知子から電話があった。北海道の叔母と秋田の叔母が、それぞれ娘を連れて訪ねてきたので、ちょっと顔を出してくれまいか、という頼みだった。私は正直、うんざりしたが、知子の立場を考えて承諾し、三十分ばかりたってから重い腰を上げた。
知子の二人の叔母はどちらも五十前後、その娘たちもともに二十歳ぐらいだったが、顔立ちは四人とも違っていた。知子とも似ていなかった。
二人の叔母から、
「知子が大変お世話になりまして」
と丁寧に挨拶されたとき、私はただ黙ってお辞儀を返した。それまでに知子に一銭も与えていなかったからだ。
知子は妊娠六カ月まで料理屋に勤め、アパートの敷金も前家賃も引越し費用もすべて自分の貯金でまかない、出産費用も、「用意してあるから」と言って、私に負担をかけなかった。
もし私が、知子の生活の面倒を見ていたならば、いわゆる二号の旦那として、叔母たちの挨拶をそれなりの態度で受けとめることができたかも知れないが、金銭的には全く知子におんぶした形だったので、すっかり戸惑ってしまったのだ。広い世間には、私と同じような立場の男も数多くいるはずだが、こんなとき彼らはどんな態度をとったのだろうか。
北海道の叔母が淑江(としえ)という娘を頤(あご)でしゃくりながら、
「これがあす、羽田を立つので――」
と言った。その春大学を卒えた淑江が、カリフォルニアの大学に留学することになって、それを見送りに上京してきたことがわかった。四人のなかで訛りが少ないのはその淑江だけだったが、まるでそのかわりのように知子が秋田弁丸出しになった。しかし、それよりも私を驚かせたのは、知子が日頃とは別人のように多弁になったことであった。生き生きとした表情で喋りまくる知子を、私はこのときはじめて見た。
五人の女が交わす言葉が、私には半分ぐらいしかわからなかった。いやでも私は、はじめて秋田の合評会に出席したときのことを思い出さざるを得なかった。まだ仕事が残っているので、と嘘を言って仕事部屋へ戻りながら、子供が産まれたら知子に一切秋田弁を使わせないようにしよう、と思ったことを覚えている。
知子はいつも黙って私を迎えた。ドアの音に二階の踊り場から顔を出すが、「いらっしゃい」とも、「お帰りなさい」とも言わなかった。私も無言で階段を登る。「こんにちは」とも、「只今」とも言えなかった。ずっと後に、小学校へ上がった駿吉を、
「うちに帰ってきたときは、只今って言わなきゃ駄目じゃないか」
と、たしためたところ、
「パパだって、何も言わないじゃないか」
と逆襲されたことがあった。
私が原稿料の入った袋から、その週の生活費を渡すと、はじめて知子は、「すみません」と呟くように言って、心持ち頭を下げた。知子はかなり長い間、私が金を差し出すたびに哀しげな表情を見せ、ちょっとためらってから、恐るおそるといった恰好で手を出した。私からこだわりなく金を受け取るようになったのは、駿吉が四つぐらいになってからだった。
部屋には半間の押入れが一つしかないので、いつもその押入れの前には、入り切れないマットレスや敷蒲団が畳んで積まれてあった。和服に着替えた私が、その蒲団に凭れて、コーヒーを啜っていると、ほどなく顔も手も泥だらけにした駿吉が戻ってくる。
「パパ、何か買ってきた?」
「先に手を洗いなさい」
台所へ駆けこんで、背のびして水道の栓をひねる駿吉の後ろ姿に、私はつい目を細めてしまう。週に一回しか接触しないので、見るたびに成長を感じた。
余丁町に仕事部屋をもうけてから駿吉の存在が妻にバレるまでの丸五年間、私が鎌倉の家ですごしたのは毎週、土曜日と日曜日だけであった。その間に長男は中学から高校へ進んで大学受験期を迎え、次男は中学を卒業した。つまり、最も成長の著しい時期であり、父親の意見を必要とする時期でもあった。にも拘らず当時の私は、殆ど子供たちのことをかえりみなかった。何もかも妻にまかせきりだった。長男にも次男にもガールフレンドがいて、「かなり親しくしているらしいの」と妻が心配げに言ったときも、
「俺の子だもの、女に手が早いのは当たり前さ」
と、全く気にかけなかった。そんな私が、駿吉の成長ぶりに目を細めるのも、齢をとった証拠だろう。
手を洗って私の膝にもたれた駿吉が、
「はい、パパ」
まず自分が一つ頬張ってからチョコレートを差し出した。
「あら、ママにはくれないの?」
駿吉は渋々、知子にも一つ渡すと、蒲団の山に這い上がって私の肩にまたがった。
「パパ、立って」
胸のわきに垂れたその小さな脚をつかんで私がゆっくり立ち上がると、
「あなた、ギックリ腰になってよ」
「パパとお風呂へ行くか」
「うん」
頭の上で駿吉が弾んだ返事をしてから、
「パパ、歩いて」
と、催促する。私は電燈の笠を中心に、狭い部屋のなかをそろそろと廻る。
「随分、重くなったな、首の骨が折れそうだ」
私はそう言いながら、その重みを愉しんでいた。
「あなた、早く降ろさないと着物の襟が泥だらけになってよ。駿ちゃん、もういいでしょ、パパはお仕事でつかれているんだから」
私が降ろしにかかると、駿吉が両腿に力をこめ、同時に髪の毛を引っぱった。
「痛いッ。ボク、やめてくれ」
「降参か」
「うん、降参」
駿吉は小学校に上がるまで、私の顔を見さえすれば肩車をせがんだ。私にもそれが愉しみの一つだった。

 三

 駿吉と銭湯へ行くのは、いつも陽のあるうちなので、洗い場にはたいてい五、六人の年寄りが散らばっているだけであった。
 私はわざとゆっくり着物を脱ぐ。駿吉はズボンとパンツを一緒に脱いで素ッ裸になると、得意気に叫ぶ。
「ボクの勝ち!」
 超音波式の湯舟に入ると、私はきまって湯が勢いよく噴き出している隅の穴へ右肩を押し当てる。数年来、肩と脇腹の痺れがとれず、そこに湯があたると痛痒い快さを覚える。知子にもときどきマッサージをして貰ったが、痺れは一向にとれなかった。
「お前の取り柄はこれだけだな」
 牀に腹這いになって背中を揉んで貰いながら私はよく冗談を言ったが、たしかに知子は按摩が上手だった。強くも弱くもない揉み加減がいつも私を甘い睡りに誘い込んだ。気がつくと揉み疲れたのか、知子も私の背に手を掛けたまま居眠りしていることがあった。
湯舟の底に両掌をついて体を浮かせ、両脚を思いきり伸ばすと、われ知らずアーアという声が出る。これも老化現象の一つなのだろう。父も晩年、湯に入るたびに同じような声を洩らした。
 父は四十九歳のとき脳溢血で倒れ、それから七年間、半身不随だった。中学生だった私は、いつも口許からよだれを垂らし、右脚を引き摺って歩く父の姿をうとましく眺めた。いっそ早く死んでしまえばいいのにと腹のなかで毒づいたことも幾度かあった。父がそばにくると、何とも明状し難い匂いがした。
 しかし、それでいて、「役立たず」と母から口ぎたなく罵られているのを見ると、無性に父が可哀想になった。母は毎朝、鏡台の前に大きな腰をデンと据えて、隣りの部屋からいくらか呂律(ろれつ)のまわらぬ声で父が呼んでも、わざと聞こえない振りをしていた。母は七十五歳で死ぬまで日髪日化粧の習慣を捨てなかった。
血統なのか、父の兄弟もみんな脳溢血で死んでいた。いずれも酒好きだったが、特に父は斗酒なお辞せずの口で、しらふで帰宅したことは滅多になかった。夜遅く門のほうで鈍い音がし、母と一緒に飛び出すと父がきまって前庭に倒れていた。「もう遅いからお寝よ」と母に幾度も言われながら、少年の私が眠い目をこすって父が帰宅するまで起きていたのは、倒れている父の足許に必ずといっていいほど折詰めが転がっているからであった。
父が脳溢血に襲われたのは、風呂から出た直後だった。前の晩家をあけた父は、夕方帰ってくるとすぐ膳を出させ、母のお酌で二、三本飲んでから、「風呂に入る」と言って立ち上がった。母がとめたが父は聞き入れなかった。
「お前、ちょっと行って、見ておいで」
母に言われて私が湯殿へ行くと、硝子戸越しになかから、アーアという声が聞こえた。戸を細目に開けて覗くと、風呂桶から首だけ出した父が、「坊主か、入ってこい」と、上機嫌な声で誘った。父からそんなことを言われたのは、はじめてであった。私はすぐ茶の間に戻って、「何でもないらしいよ」と母に報告した。
湯殿のほうから、とてつもない大きな音が響いてきたのは、それから十分とたたないうちであった。茶の間にいた家族全員が先を争うように駆けつけると、脱衣場に仰向けに倒れた父の真ッ裸の体から湯気が立ちのぼっていた。
「あんたはね、お酒ばかりか、芸者遊びをして散々私を泣かせたから、罰があたったんですよ」
寝たっきりになった父にお粥を養いながら、母がその都度言いきかせていたのを私は覚えている。母は自分が左褄をとっていたことがあるだけに、父の芸者買いが余計腹立たしかったに違いない。父は倒れてから三年目にどうやら歩けるようになったが、それから四年後に二度目の発作で死ぬまで、家族の厄介者であったことに変わりはなかった。
私も妻によく言われる。
「あんたはあっちこっちの女を泣かせてきたから、とてもまともには死ねないわね。みんなの怨みで何か業病に取っつかれ、死ぬまで七転八倒の苦しみをするんじゃない」
私自身、苦しまずに死にたいなぞという贅沢は望んでいないが、せめて半身不随だけは免れたいと思っている。私が酒を飲まないのは、そのせいでもあった。
 だが、医者の話だと脳溢血は酒を飲む飲まないに関係がないそうだし、事実、祖父の弟――私の大叔父は一滴も飲まなかったのに、やはり中気になって十三年も寝たっきりだった。もし私が父と同じように半身不随になったら、妻も母のように私を邪慳に扱うのだろうか。妻にそれとなく聞いてみたら、
「へーえ、あんたでも気になるの? あんたはきっと『心配しなくてもいいわ、ちゃんと看病してあげるから』という答えを期待しているんでしょうが、そうは問屋が卸さないわよ。半身不随になったら、このときとばかり、うんといじめてやるわ。いまから覚悟しておくのね」
妻はそう言って、いかにも嬉しそうな笑い声を挙げた。半分は本音だったのかも知れない。
私の若い頃、妾宅で倒れた夫を、動かしてはいけないと医者が止めるのもきかずに妻が強引に家に連れ戻したため死なせてしまいた例が、親戚にあった。女の意地のために元も子もなくして、ばかな女房――だと、そのときは嗤ったが、近頃はその例をわが身になぞらえて、
――俺がもし知子のアパートで倒れたら、いや、倒れなくても、すぐに動かせないような病気になったら、真紀子はどうするだろうか。
 と、考えることがよくある。
 妻は泊まりこんで看病すると言うかも知れないが、はたして知子がそれを許すかどうか。立場上、知子は拒絶できないかも知れないが、逆に私が家で長患いをした場合、妻は知子の見舞いや看病を認めるだろうか。
「駿ちゃんは仕方がないけど、あのひとはいやよ」
と言うのではなかろうか。親戚のたかには、夫の葬式にやってきた妾を、本妻が焼香をさせるどころか、つかみかからんばかりに追い返した例もある。焼き餅を焼くも焼かぬも夫が生きていればこそで、死んでしまえばもはや怨みっこなし、むしろ遺された女同士で悲しみをわかち合い、慰め合うべきではないかと私は思うのだが、そう思うのは私がまだ女の怨念を身に沁みて知らないからなのだろうか――。
「もう出てもいい?」
湯舟のへりに掴まって跼んでいた駿吉が訊く。
「もう少し」
駿吉が湯のなかで、伸ばした私の足裏をくすぐる。
「こらッ」
それを合図のように駿吉は湯舟を飛び出す。
「いちばん下のお子さんかね?」
禿げ上がった頭に手拭いを載せて、私の隣りに身を沈めていた老人が不意に声をかけてきた。
私が曖昧に頷くと、
「あっしも五十近くなって、ぽっこり四人目の餓鬼ができたんだが、三つにもならんうちに急性肺炎でとられてしまった。生きてりゃあ、ちょうど二十歳になる……」
頭から落ちかかった手拭いを載せ直す老人の右腕に、般若の面の刺青があった。皺(しわ)んだ皮膚の上で般若が泣き笑いしているように見えた。
人から、「お子さんは?」と訊かれると、以前は即座に、「二人です」と答えたが、駿吉ができてからは答えるまでにちょっとためらうようになり、いまだに、「三人です」と私は言えない。
「あんた、お仕事は?」
老人に訊かれて、また私は曖昧な顔をした。小説を書いていますと言うのが、何となくはばかられた。
「この時間に湯にくるんじゃあ、堅気の勤めじゃねえことはたしかだな」
まさにその通りなので薄笑いしているより仕方がなかった。
「あっしゃあ、去年まで大工をしてたんだがね、かかあに死なれちゃって、いまは娘ンとこで居候――昔はこれでも結構、鶯をなかせたもんだが、この齢になっちゃあ、湯にくるよりほかに楽しみがねえ。われながら情けないねえ」
 老人はそう言って、しかし、屈託のなさそうな笑い声を洗い場いっぱいに響かせた。
処女作以来、妾腹に生まれた私生児の悲衷をくり返し書いた小説家がいた。「小説には臍がなければならない」と説いていたその小説家が死んでから、彼に外子(そとご)があったことを知って私は何かだまされたような感じを持った。外子については何も書いていなかったからだ。
 その小説家の持論からすれば、己れの出生とからめて書かずにはいられないテーマのはずであった。にも拘らず彼は外子についてはただの一行も書かずに逝った。わが身の恥を晒け出さなければ本当の小説は書けないと説いて倦(う)まなかったのに、彼は実作においてそれを証明しなかった。
 彼はどうして書かなかったのか。書けなかったのか。彼ばかりでなく、外子を持った小説家を私はほかにも何人か知っているが、だれ一人としてそれを告白しないのはなぜなのだろう。彼らにとっては書くに足らないことなのだろうか。それとも、書かないことが節度――妻子に対する礼儀とでも思っているのだろうか。あるいは、書いたら社会的な名声に傷がつくとでも考えているのか。
 もしそんなことのために書かないでいるとしたら、それだけでも彼らは小説家ではないと私は思っている。むろん私も、何もかもあけすけに書くことがいい小説だと思っているわけではないが、何にか遠慮し、だれかに気兼ねして、書きたいものも書かないでいるとしたら、それこそ小説家として最もはずかしいことなのではないだろうか。
 尤(もっと)も、そんなふうに考える私でさえ、「子供は三人です」と平気で言えないのだ。後ろめたさを否定できないのだ。
 長男や次男が幼い頃、彼らの泣き声に私はすぐ癇を立てて、「うるさい、もう泣くな」と呶鳴りつけ、「泣かすな」と妻を叱りつけた。だが、駿吉は滅多に叱ったことがなく、むしろ私のほうが機嫌をとって、ふところの許す限り、欲しがる玩具を買い与えた。可愛さよりも不愍(ふびん)さが先に立って、それが悪い結果をもたらすと承知しながらつい叱るのを手加減してしまうのだった。

 四

「きょうはどこで遊んできたの?」
駿吉の背中を洗ってやりながら訊くと、
「天神さま」
「何をして遊んだの?」
「いろんなこと。パパ、天神さま知っている?」
「知っているとも。パパも小さいとき、あすこでよく遊んだもの」
「ほんと? パパは何をして遊んだの?」
「そうだな、水雷戦ごっこや探偵ごっこだったな」
「何、それ? どうやって遊ぶの?」
「そのうち教えてやるよ」
 アパートから二町ほどはなれた西向天神社の境内は木立ちがあって、昔から子供たちの恰好の遊び場になっていた。私が水雷戦ごっこや探偵ごっこに興じたのは別の場所――芝公園だったかも知れないが、中学時代、西向天神の木蔭で蝉の声を聞きながら、本を読んだことははっきり覚えている。近所の貸本屋から一日五銭で借りてきた娯楽小説が殆どであった。戦争をはさんでそれから四十年近い歳月がたつが、境内はまったく変わっていない。
 父が半身不随になって一年後、私の家は芝の愛宕下から西久保巴町へ、次いで四谷坂町へ移り、さらに東大久保の車庫前へ転じた。引っ越すたびに家が小さくなって、東大久保の借家は、私が生まれた愛宕下の家の半分もなかった。父はそこで死に、私が麻布の聯隊(れんたい)に入隊したのもその家からであった。
 入隊日の朝、私は町内会や在郷軍人会の役員に付き添われて西向天神に詣でたが、二度とこの石段を踏むことはできないだろうと自分に言いきかせた。雪の秋田で目を輝かせながら私に語ったように知子もこの界隈をよく知っていた。余丁町の仕事部屋にはじめて知子を伴ったとき、
「美容学校時代、この辺は毎日のように歩いたの」
と、しきりに懐かしがった。その知子との間にもうけた駿吉が、西向天神の境内を遊び場にしているのだから、やはり因縁なのだろうか。
駿吉は体を洗い終えると、待ちかねたように石鹸箱の蓋に手拭いをかぶせ、その表面にシャンプーの液をたらして、蓋の角を吹いた。忽ち、泡の山が生まれ、駿吉の顔が半分、その泡に埋まる。
さっき、話しかけてきた刺青の老人が、
「坊や、すごくできたな」
声をかけてきたので、駿吉は得意になってまたひと吹きした。群れをはなれた小さなシャボン玉が二つ、ゆらゆらと宙に浮かんで高い窓から射しこむ西陽の光のなかにさまよい出た。
「パパ、ほら、見てごらん」
腰を浮かせてシャボン玉の行方を目で追いながら駿吉が叫ぶ。
私はヘチマを使いながら、シャボン玉ではなく、改めてわが子の顔を眺めた。駿吉は私と似ているところが一つもなかった。
私は額がせまく、一重瞼で段鼻だが、駿吉はおでこで二重瞼のうえ、鼻の尖がしゃくれている。血液型も違っていた。私はA型、知子はAB型なので、A型になりそうなものなのに、駿吉はB型であった。医者の説明では、両親がAとABの場合、B型の児が産まれる確率は四分の一で、けっして珍しい例ではないらしい。それに昔から子供の顔は七たび変わるといわれているので、そのうちに似てくるだろうと思っていた。しかし、駿吉は三つになり四つになってもさっぱり似てこないので、私はときどき知子をからかった。
「怒らないから白状しろよ、チビの本当の父親を――」
むろん知子はそのたびにバカバカしいという顔をみせたが、いつだったか私が駿吉と近所をひと廻りして散歩から戻ると、待ちかねていたようにこう言った。
「下の奥さんがね、駿ちゃんの歩き方や後ろ姿はパパそっくり、やっぱり父子ねえって感心していたわ」
私は即座に言い返した。
「後ろ姿なんか証拠になるものか。チビは俺ばかりじゃなくて、お前にも似たところが少しもないじゃないか。ひょっとすると生まれたとき、病院で取り違えられたんじゃないのか」
「またバカげたことを……いい加減にしてよ」
しかし、知子がそのとき、ふと怯えたような目の色を見せたので、それ以後私は冗談を慎むことにした。私は駿吉がわが子であることを微塵も疑っていないからこそ、平気で冗談を口にしたのだが、知子の目は、私が何か下心があってそんな冗談を言うのではないかと疑っているようであった。
駿吉と違って長男や次男は、小さい頃からうんざりするくらい私によく似ていた。いくらか反り加減な足の爪の形まで私にそっくりであった。血液型もA型だった。妻もA型なので、これは当然としても、息子たちは成長するにつれて背恰好まで私に似てきて、
「お互いに迷惑だな」
と、父子で苦笑し合うほどだった。
 息子たちは、異母弟の駿吉を何のこだわりもなく可愛がってくれる。年齢がひらきすぎているせいかも知れないが、二人ともがアルバイトで得た金で競うように玩具を買ってやり、駿吉が家に遊びにくれば、牀に入るまでレスリングの真似やチャンバラごっこの相手をしてやる。駿吉のほうも、「大兄ちゃん」「小兄ちゃん」と呼んでよくなつき、悪戯がすぎて頭をたたかれてもすぐ泣きやんで、また息子たちにまつわりついた。
駿吉の存在がバレたのは、長男が高校を、次男が中学をそれぞれ卒業する間際だった。心の底ではどう思っているのか知らないが、それから現在に至るまで、息子たちはただの一度も面とむかって私を非難したことがない。
「私が心のゆたかな子に育てたからよ」
と妻は言いながらも、さっぱり私の非を鳴らそうとしない息子たちが歯がゆいらしく、
「男の子って、母親の味方にはなってくれないのね。やっぱり女の子を一人産んでおけばよかったわ。女の子だったら、不潔な父親としてあなたは口もきいて貰えないところよ」
と二、三回同じことをくり返した。
 あとでわかったのだが、息子たちがそれまで母親の弟とばかり思っていた志郎が実は異父兄であることを知ったのは、駿吉の存在を知るほん少し前であった。つまり息子たちには、いちどきに異父兄と異母弟がふえたわけで、恐らく相当なショックを受けたと思うのだが、長男も次男もそれをちょっとも顔にも態度にも現わさなかった。もし、知子母子の存在がバレた直後に、妻や息子たちから非難を浴びせられていたら、当時はまだ文世と関係がつづいていたので、無責任な私は文世と手をたずさえて蒸発してしまったかも知れない。妻が取り乱さず、息子たちが咎め立てなかったので、後生楽の私はすっかり安心し、バレたあとも以前と変わらぬ生活をつづけたばかりでなく、妻と知子を仲よくさせようと図った。息子たちがショックに堪え、妻と協力して家庭崩壊の危機を回避してくれたことも知らずに――。
前にも言ったが、私には息子たちを可愛がったという記憶が殆どない。大袈裟に言えば、気がついたら二人とも大きくなっていた。長男が幼い頃は、日ましに反応をみせるその成長ぶりが珍しくて、風呂へ入れたり、休みの日は遊園地へ連れて行ったりしたが、次男のときは成長過程がすっかりわかってしまったので興味を失い、家には殆ど寝に帰るような毎日であった。そして女ができれば無断外泊を三日も四日もつづけ、生活費が足りなくなると、
「まだお前の着物が残っているだろ」
妻を質屋へ走らせた。
「俺は妻子のために生きているんじゃない」というのが、若い頃の私の口癖であった。マイホームを建てるためにせっせと貯金をしている勤め先の先輩や同僚を、私は肚の中で最も軽蔑していた。自分の家を持ちたがる気持ちが、私には理解できなかった。どんなボロ家でも雨露を凌ぐところがあって、どうにか飢えないで暮らせれば、それで充分じゃないか。いまでもそう考えているくらいだから、若い時分の私には、妻子を喜ばせてやろうという気持ちが全く稀薄で、自分の目先の欲望にのみ忠実であった。女房も子供も自分の付属物にすぎない、俺と結婚し、俺の子供に産まれたんだから、俺の生き方、考え方に従うのが当然で、それにつべこべ口を插(はさ)む資格はないと割り切っていた。事実、子供たちが幾人もの友だちの名を挙げ、
「みんな持っているんだよ」
そう言って何か物をねだるたびに、
「よそとうちは違うんだ、そんなに友だちの家が羨ましければ、そのうちの子になれ」
と叱りつけ、子供たちが大きくなって叱りつけるだけでは納まりそうもないときは、
「親父の稼ぎが悪くて、貧乏な家に生まれたのが因果と思って諦めるんだな。そんなに欲しければ学校をやめて、自分で働いて買ったらどうだ」
そううそぶいて彼らの欲望を封じた。私は妻にもよくこう言った。
「子供が何でも打ち明けられる、友だちのような親になることが望ましいなんてよく雑誌に書いてあるが、冗談じゃない、子供と友だちづき合いをするなんて真ッ平だ。俺はこれからますます物分かりの悪い頑固親父になるつもりだ。大きくなったら俺はああいう親父にだけはなりたくない――男の子はそう思って育つのがまっとうなんだ、親父のことをこん畜生、こん畜生と思って大きくなるのが、いちばんいいんだ」
 別に教育理念があったわけではなかった。子供のほしがる物を買ってやれない、単なる弁解にすぎなかった。
結婚するとき、私は妻に三つの約束をした。一つは、生涯子供をつくらないこと、二つ目は、どんなに夫婦喧嘩をしても絶対に暴力を揮(ふる)わないこと、そしてもう一つは、性病にかからないこと。
 自分の子ができれば、どうしたってその子を可愛がり、志郎をひがませてしまう、血は繋がっていなくても、真紀子と結婚すれば、志郎は俺の子も同様、子供は志郎だけで充分じゃないか、わざわざ父親の違う子供をつくる必要はない、つくれば俺や真紀子はもちろん、子供たちだって苦労するだけだ――当時、二十五歳だった私は、多分にセンチメンタルな青年だった。子持ちの女とあえて結婚するのだから、それくらいの覚悟は当然だと、いま振り返ってみると自ら悲壮感に酔っていたようだ。
 有体(ありてい)にいえば、まだ子供なんかほしくなかったに過ぎない――その証拠に、私は一度も避妊措置を講じず、妻が妊娠すると当然のように人工中絶させた。結婚二年間に三回中絶した妻が、今度はどうしても産みたいと言い出したとき、私は約束を持ち出して説き伏せようとしたが、妻の母親に、「今度も堕ろさせると言うなら、きょうにも真紀子を引き取る、これ以上あなたと一緒にさせておいたら、娘の体は滅茶滅茶になってしまう」と言われて、仕方なく産むことを認めた。ずっとあとで妻が打ち明けた。
「生涯子供をつくらない約束をしなければ結婚しないとあなたが言うから、あのときは仕方なくうなずいたけど、そのうちに絶対産もうと心をきめていたの。準ができた夜のことを私は覚えているわ。覚えていると言うより、あなたの体がはなれたとき、今夜は間違いなく出来たと思ったの。そして、たとえあなたにどんなに反対されても、今夜出来た児は産もうと決心したの。女にはね、身籠った瞬間がわかるのよ、こればかりは男にはわからないでしょうね」
 こうして私が妻に約束した一つは、妻によって結婚三年足らずのうちに破られてしまったが、あとの二つは現在まで守り通している。私がそれを自慢すると、妻はきまってこう言い返した。
「当たり前よ、私はあなたにぶたれるようなことは何一つしていないもの。私のほうには、十も二十もぶってやりたいと思う材料がいっぱいあるけど。このうえ、性病にかかって、それを伝染されでもしたら、たまったもんじゃないわ。そんなことをしたら、いくら私だって我慢しないわよ」
駿吉が産まれてから私は知子に、駿吉が出来た夜を覚えているか、と訊いてみたことがあった。
知子はいくらか赤くなって黙っていたが、暫くたってから、「あなたは?」と訊き返し、私が首を振ると、
「男にはわからないでしょうね」
妻と全く同じことを呟いた。

 五

 私のように外子(そとご)を持った男はこの世にたくさんいるはずだが、彼らの何割ぐらいが外子を認知しているのだろうか。また認知するにしても、それは妻の了解を得たうえでなのかどうか、できたら是非その実情を聞いてみたいと私は思っている。
 私は駿吉を認知したことを暫くの間、妻に黙っていた。しかし、わざと黙っていたわけではなかった。
知子が認知の手続きをしてもいいかと訊いたのは、駿吉のことが妻にバレてから半年ほどたった頃であった。私は即座に、「いいよ」と答えた。知子は早速、私の戸籍抄本を取り寄せて区役所へ出かけ、手続きをすませてきた。
 父親の欄に私の氏名が書きこまれた駿吉の抄本を見せながら、
「親権は私にしておいたわよ」
と知子が告げたとき、私はただ黙ってうなずいた。だれが親権だろうと私にはどうでもいいことであった。
駿吉のことを知ったとき、妻は真ッ先に、
「認知してあるの?」と訊き、「認知しなくてもいいと言うから産ませたんだ」と私が答えると、
「それじゃ駿ちゃんが可哀想よ、早く手続きをしてやりなさいよ」
と、すすめた。その後、知子が言い出すまで私が抛っておいたのは、認知するしないに拘らず、駿吉は間違いなく私の子だし、駿吉のことは私ばかりでなく、妻も息子たちも可愛がっているのだから、今更あわてて手続きをすることもあるまいと思ったからに他ならたかった。それに認知が問題になるのは多くの場合、遺産相続のときである。私には不動産はおろか、一銭の貯えもない。私がぽっくり死んでも、子供たちが相続すべき物は何一つなかったし、将来、私が金持ちになる可能性もまずなかった。そのうちに区役所に行く用事ができたときでも、ついでに手続きをすればいいだろうと、そんな程度にしか考えていなかった。
にも拘らず、知子から抄本を見せられた翌日、たまたま妻から、
「認知、どうしたの? もう手続きしたの?」
とたずねられて、
「いや、まだだ」
 私は咄嗟に嘘をついてしまった。なぜか、「ああ、すませた」と、あっさり言うことができなかった。
妻もすでに了解済みなのだから、嘘を言う必要は全くなかったのに、私が事実通りに言えなかったのは、まるで知子が届けを出したのを待っていたかのように訊ねた妻に、思わずギョッとして、一種の戦慄を覚えたせいかも知れない。もしこのとき妻が、「早く手続きをしてやりなさいよ」と再び促してくれたら、三、四日のちに、「届けを出したよ」と軽く言うことができただろう。が、妻はそれきり何も言わなかったし、一旦言いそびれた私も、改めて自分のほうから言い出すのが何となく憚られて、日が過ぎてしまった。
翌年の二月末、浪人していた長男が大学試験に合格して、戸籍抄本が必要になった。私の本籍は出生地の芝にあったので、
「区役所に手紙を出して郵送してもらえ」
と私は言ったのだが、
「どうせ入学金を納めに行かなくちゃならないんだから、じかに区役所へ行って貰ってくる。ついでに親父が子供時代を送った処を歩いてくるよ」
妻もそばから言った。
「私も一緒に行くわ、準の大学を見ておきたいから」
翌々日、東京から帰ってきた妻が、私の顔を見るなり、「嘘つき!」と罵った。
「まだ認知してないなんて、よくもしらじらしい嘘がつけたものね」
妻が炬燵のうえに戸籍騰本を抛り投げた。まずいことになったとは思ったが、別に隠していたわけではないので、私はすぐ言い返した。
「嘘つきとは何だ。ちょっと言いそびれていただけだ。第一、何の必要があって謄本をとったんだ。大学に提出するのは、準の抄本でよかったはずだ」
「そうよ、要るのは抄本だけよ。でも、これからだって騰本がいる場合があるかも知れないと思ったから、ついでにとっておいたのよ。それがどうしていけないのよ。謄本にこだわるところをみると、やっぱりあなたは認知したことをずっと隠しておくつもりだったのね」
「隠す必要がどこにある? そもそも早く認知してやれと言ったのはお前じゃないか」
「そうよ。確かに私はそう言ったわ。でも、認知するなら、なぜ、その前にひと言、私に断わらなかったのよ。さっさと認知して、それを何カ月も隠しておくなんて、妻の私を無視している証拠じゃないッ」
「だから、つい言いそびれたと今言ったじゃないか。それに、いちいちお前に前もって許可を貰うほど重大な問題じゃないはずだ。いずれは認知しなけりゃならないんだから」
「それならなぜ、この前、私が訊いたときに届けをすませたと言わなかったのよ。騰本を見たら手続きをすませたのは、私が訊いた前の日じゃない。なんであのとき、まだだなんて嘘をついたのよ」
かたわらから長男が言った。
「親父が悪いよ。ママは認知そのものを怒っているんじゃない。断わりもなしにさっさと認知したことに腹を立てているんだ。どうしてあんたは、ママの心を逆撫でするようなことばかりするんだい?」
私は黙った。届けを出した翌日訊かれたので余計言いそびれた私の気持ちをいくら説明したところで、妻や息子に理解して貰えそうもなかったからだ。
「親父はずぼらすぎるよ。僕は今度はじめてうちの騰本を見たけど、あんた方の結婚届けは、僕が産まれてからになっている。帰りの電車のなかでママから事情を聞いて納得したけど、何も知らない第三者が騰本だけ見たら、子供ができたんであわてて結婚したと思うぜ。親父は何にでも杜撰(ずさん)すぎるよ」
長男が批判めいたことを口にしたのは、このときがはじめてだった。それだけに私は、まさに一言もなかった。
私は婚姻届けの用紙を結婚後二年以上も机の抽斗に抛り込んでおいた。曲がりなりにも式を挙げ、実際に一つ屋根の下で暮らしているのだから、あわてて届けを出すこともあるまいと思い、妻も別に催促をしなかった。
「いまのうち出しておかないと、出生届けも出せなくなってしまうわよ」
と、妻がはじめて促したのは、産み月が近づいて、肩で息をつくようになった頃だが、無精な私はそれでも一日のばしにのばして、長男が生まれてからも役所へ出かけなかった。
長男が急性肺炎になって、あわてて入院させたのは、たしか生後八十五日目だった。その夜遅く当直の医師に病室の外へ呼び出され、
「今夜がヤマですが、一応、覚悟はしておいて下さい」
と言われたとき、真ッ先に私の頭に浮かんだのは出生届けを出していないことであった。出生届けを出していないのだから、赤ン坊が死んでも死亡届けを出すわけにいかず、当然埋葬許可証は貰えない。医者が去った後、私は廊下から窓硝子越しに病室を覗きこみ、酸素吸入をしている長男に向かって、
――おい死なないでくれよな。
 と胸のなかで囁いた。もちろん、幼い生命を励ましたわけではなかった。死んだら、役所へ行ってどう説明したらいいのか困るからであった。死んでも死亡届けを出すことのできないわが児、記録上はまだ生まれていないわが児――病室の床に両膝をつき、両掌を組み合わせて、その児を必死に見つめている妻を眺めながら、困ったな、困ったな、と呟いていた自分を覚えている。
 妻が炬燵の上に投げ出した戸籍謄本を改めて見ると、私たちの婚姻届けは昭和二十八年五月二十五日になっており、前の年の暮れに生まれた長男の出生届けが受理されたのは、同年六月九日となっていた。この二つの届けも私がしたのではなかった。妻が長男を背負って区役所へ出かけて行ったのだ。届け出は遅れたが、せめて生まれ日だけは正確にしておこうと思って、妻が出かける前にその点を念を押したことも記憶している。間もなく簡易裁判所から、出生届けを怠った罰として、科料五百円を納付せよという通知が届き、私は五百円分の印紙を郵送した。
〈――緒野知子同籍駿吉を認知届出同月弐拾八日新宿区長から送付〉
婚姻届けの隣りに記載されている二行を指しながら私は妻と長男に言った。
「お前たちがこれにこだわるなら、消したっていいんだ」
「消す? 消すってどういうこと?」
「本籍を移せば認知の記載は消えることになっているんだ。そうやって妻に隠し通した例がたくさんあるんだ。俺は東京生まれだから、いまだに何となく東京に愛着めいたものを持っているが、鎌倉にきてからそろそろ二十年になる。この際、本籍をこっちに移せば今後、騰本や抄本をとるとき、いちいち東京へ行かなくてもすむ。そうしようか」
妻が、どうする? という目を長男に向けた。
「このままにしておきなよ」と長男が答えた。
「僕は鎌倉育ちだから、それほど東京にこだわらないけど、でも、まるっきり東京と縁がなくなるのも何となく寂しい気がするんだ。それに一生、鎌倉にいるわけでもないんだから、本籍はやっぱり東京に残しておいたほうがいいんじゃないのかな」
「そうね」と妻も言った。「駿ちゃんのためにも、このままにしておきましょうよ。大きくなって認知届けを謄本から消すために本籍地を移したことを知ったら、いま、あなたや私たちがいくら可愛がったって、何にもならなくなるわ。あなただってこのままにしておきたいんでしょ」
私は小さく頷いた。胸がつまって咄嗟に声が出なかった。ややたってから私は長男に訊いた。
「どうだった、俺の育ったところを見て?」
長男が笑いながら言った。
「それどころじゃなかったんだ、この謄本を見た途端にママがカーッとなっちゃって」
妻が逃げるように台所へたって行った。