日々に証を[序の章]〜[二の章] 印刷

『日々に証しを』
発行:光文社
昭和53年10月25日 初版1刷発行



【目次】

序の章
一の章
二の章
三の章
四の章
五の章
六の章
七の章
終の章


【序の章】


 

 私は女がわからなくたった。
 自分では結構、場数を踏み、いっぱし女を知っているつもりだったが、五十歳をすぎてから、かえって自信をなくしてしまった。
 女が描(か)けなければ一人前の小説家ではない、と昔から言われている。女がわからなくなった私は、小説家としてまだまだ半人前なのかも知れない。
一体、なぜ、わからなくなったのか。
 最大の理由は、一緒になってそろそろ三十年になる妻の変化だ。
 妻の取り柄は、殆ど焼き餅を焼かないことであった。結婚後、私の度重なる浮気については勿論、七年前、外子(そとご)の存在を知ったときでさえ、妻は私を許してくれた。
 そればかりでなく、外子の駿吉(しゅんきち)やその母親の知子が家に出入りすることも、母子が住む東京のアパートヘ私が泊まりに行くことも、妻は認めてくれた。
ひと頃、妻は、私が出かける前に、駿吉の好きなお菓子や他処(よそ)からいただいた地方の名産品などを忘れずに私の鞄につめた。
「これ、ちょっと素敵でしょう」
 デパートから帰るとそう言って、駿吉に買ってきたセーターやスポーツシャツを見せたこともあった。
 知子のほうも家にくると、すぐ割烹着(かっぽうぎ)をかけて、妻とお喋りをしながら夕食の支度を手伝い、小まめに家の内外を掃除し、洗濯物を取りこんだ。夜は、私たち夫婦と同じ部屋に寝た。
 私は、妻と知子が仲よくすることを何よりも強く望んでいた。妻も知子も、それをよく知っていたからこそ、できるだけ感情を殺して、私の意に添うように努力していたのだろう。私はこの調子なら万事うまく行く、たとえ世間からどう思われようと、俺たちには俺たちの生き方があるんだ、とひそかに自信を持つことができた。事実、その頃家に遊びにきて、食卓で妻と知子からかわるがわるお給仕をされた友人が、
「お前には負けたよ、寛大な奥さんと献身的な二号さん――男冥利に尽きるとはお前のことだな。それに破廉恥もここまで徹底すれば、もはや第三者の批判の埒(らち)外だ」
あとで最敬礼をしてみせた。
 尤(もっと)も、そうなるまでには妻も知子も、苦しい思いを幾つもくぐってきた。
 駿吉の存在を知った直後、妻は不眠症と食欲不振から日ましに痩せて、わずか三カ月の間に体重が十キロも減った。
「一度、お医省さんに診てもらったら――」
 事情を知らない妻の母親や友だちが、家にくるたびにそう言って心配したが、
「きっと更年期障害よ、スマートになって、かえって喜んでいるの」
 妻は笑ってごまかし、夫婦二人きりのときも、ときどき深い溜息をつくだけで、私を責めようとはしなかった。
 責められなくても、その異常な痩せ方をみれば、妻がいかに苦しんでいるか一目瞭然だったが、当時の私は、さほど心が痛まなかった。心をほかの女に奪われていたし、長い間一緒に暮らしてきた経験から、いずれ妻は立ち直るだろうと思っていたからだ。
 案の定、妻は一年ほどたつと食欲を取り戻し、夜もよく眠るようになった。体重こそ元通りにならなかったが、ほどよく肉が付き出して前よりも若返ったようになり、顔の色艶もましてきた。たまたまその頃、家にはじめてやってきた客が、あとでそっと私にたずねた。
「失礼ですが、二度目の奥さまですか」
妻にそれを伝えると、はしゃいだ声でこう言った。
「あの人、もう一度こないかしら。きたら、うんとご馳走してあげるのに」
以後、私は家のなかで、
「おーい、後妻」
と呼び、すると妻もそのたびに一段と若やいだ声で返事をするようになった。二人の息子たちも、おどけて言った。
「後妻さんよ、親父にばかりサービスしていないで、俺たちのシャツや靴下もちゃんと洗濯しておいてくれよな」
妻はそれまで嫌っていたパンタロンをはき、派手な柄のブラウスを着ると、
「ねえ、知ちゃんより私のほうが若く見えない?」
鏡台の前で同意を求め、仕方なく私が頷(うなず)くと、同情とも軽蔑ともつかない口調でこう言った。
「あのひと、私より十も若いくせに、どうしてあんなに老けちゃったのかしら。若い頃はいい軀をしていたのに――」
 たしかに知子は駿吉を産んで以来、肉がげっそりと落ちて鎖骨も腰の骨もあらわになったが、その痩せた肌ざわりが妙に私の官能をそそっていることは、さすがの妻も気づかないらしかった。
私と妻の真紀子は同い齢だが、妻のほうが八カ月早く生まれている。妻は一月、私は九月生まれ。私たちは遠縁で、お互いに小学校に上がらぬ前から知り合っていた。いわゆる幼馴染みで、親戚の法事なぞで一緒になると、いつも並んでお膳の前に坐り、
「まあ、仲がいいこと」
 叔母や従姉たちによくひやかされた。
 ともに数え十五の夏、二人ははじめて接吻し、大きくなったら結婚しようと指切りをした。早生まれの真紀子は女学校三年生、一年落第した私は中学一年生で、背丈もその頃は真紀子のほうが少しばかり高かった。
 四年後の冬、真紀子は二十歳も年上で妻子のある従兄と過ちを犯し、その子供を産んだ。戦争中で人工中絶ができなかった。産まれた子は志郎と名づけられ、真紀子の弟として届けられた。真紀子の両親が引き取って育てた。
 その翌年、私が兵隊にとられることがきまったとき、真紀子は叔母に託して千人針を届けてきた。私はそれを机の抽斗に抛りこみ、壮行会で酒に酔ったふりをして、
「俺は立派に戦死してみせるぞ」
 と、幾度も喚(わめ)いた。喚きながら涙が溢れてきたのを覚えている。
二十五歳のとき、私たちは結婚した。再会して一年目、戦争が終わって五年たっていた。
 私の母は、
「瘤(こぶ)つきの嫁を貰うために私はお前を育てたんじゃないよ」
 と、反対し、結婚式の朝まで、「私は出席しないよ」と言い張って私を手古摺(てこず)らせた。母は死ぬまで、妻をいじめ抜いた。
真紀子は結婚するとき、小学校へ上がったばかりの志郎を実家に置いてきた。私は志郎を引き取るつもりだったが、
「この子まで連れていかないでくれ」
 真紀子の父親に言われて、正直、吻(ほっ)とした。真紀子は一人娘だった。父親は私たちの結婚後二年目に病死し、以後、志郎は祖母の手一つで育てられた。志郎は素直で明るい青年に成長し、七年前――駿吉の存在が妻にバレる少し前に結婚して、いまでは幼稚園に通う高志という男の児がいる。妻にとっては初孫であった。
孫の高志が遊びにくると、子供好きの妻は一日中つきっきりで相手をしてやる。私たちは三年前、鎌倉から相模湾に面した二宮町の海べりに越してきたので、高志は妻を「海ばあちゃん」と呼び、家にくると必ず妻と一緒に風呂に入る。湯殿から、
「ア、高ちゃん、ダメッ」
 悲鳴のような妻の声が聞こえてくると、私は何となく落ち着かない気持ちになった。数年前、駿吉をよく鎌倉の家に連れてきた頃、やはり妻が湯殿で駿吉をたしなめていたことがあったからだ。
 私はときどき、駿吉のお古でまだ充分着られるオーバーや洋服を、知子のアパートから家に運んだ。妻はそれを知り合いから貰ったと言って、実家へ出かけるとき持っていった。
「もう何年も生きられないんだから、余計な心配はかけたくないの」
妻はそう言って、いまでも知子母子のことを母親に隠している。私も息子たちに、
「駿吉のこと、おばあちゃんの前でうっかり口を滑らすんじゃないぞ」
 と、口止めしていた。
 妻はいつだったか、私にこう言ったことがある。
「もし母が駿ちゃんのことを知ったら、いやでも私が志郎を産んだことと結びつけて考えこむんじゃないかと思うの。女は一度躓(つまず)いたら一生崇(たた)るとよく言っていたから。私、これだけははっきり断わっておきたいの、私は自分に過去があるから、あなたを許したんじゃないわよ、それとこれとは、飽くまでも別よ」
そして妻は、ひと呼吸おいてから付け加えた。
「私が許したのは、もし許さなかったら、あなたの行き場所がなくなっちゃうと思ったからなの。あなたは私以外の人とは暮らせない人なのよ。知ちゃんと一緒になってごらんなさい。まあ、せいぜい保って一年でしょうね。駿ちゃんのためにあるいはもう少し我慢するかも知れないけど、それじゃ、あなた自身、毎日がつまらなくて、やり切れなくなると思うの。それに知ちゃんと一緒になったら、もう絶対に他の女と浮気はできないわよ。うっかりしようものなら、噛み切られちゃうから。それとも試しに向こうで暮らしてみる?」
 私自身も知子と生活をともにする気は毛頭なかった。ときどき泊まりに行くのが、ちょうどよかった。心にも軀にもそれが適っていた。元々、私には家庭をこわす気が微塵もなかった。妻もそれをよく知っていたからこそ、私が知子の処へ出かけるのを認めてくれたのだろう。心の底で私の愛情を信じていたからこそ、目を瞑(つぶ)ってくれたのだろう。
 ところが、その妻が三年ぐらい前から、それまでの寛容さをどこかへ置き忘れてきたように嫉妬を剥(む)き出しにし、私に執着しはじめたのである。知子のことになるとすぐ感情を昂ぶらせ、息子たちの前もかまわず喚き立てて、何とか私を東京へ行かせまいとするようになった。私がうっかり、「あした、東京へ行ってみるか」なぞと洩らそうものなら、その晩はなかなか眠らせてくれないようにさえなった。
「いい齢をして、孫まであるのに、みっともない」
たしなめると、
「齢なんて関係ないわ。みっともないようにしたのは、だれなのよ」
そして妻は、知子の性格をあげつらい、はては私を睨んでこう言った。
「あんたは私の最後の望みまで踏みにじったのよ。やっぱり私を愛していなかったんだわ」
妻は若い頃から幾度も私に念を押していた。
「子供たちが大きくなったら、夫婦二人だけで静かな老後を送りましょうね」
だから少々の浮気には目を瞑ってあげると、笑いながら言い添えることも忘れなかった。私も長いあいだ勝手気儘をしてきたので、せめてもの罪滅ぼしに、妻と二人きりの穏やかな晩年を送るつもりだった。しかし、駿吉がいる限り、知子とは一生縁が切れない。妻との約束を果たすことは事実上、不可能になった。
だから、妻が怨むのも無理はないとは思ったが、一旦、許しておきながら、何年もたってから嫉妬を剥き出しにするようになった変化が私にはどうしても理解できなかった。
――昔の寛大なお前はどこへ行ってしまったんだ。それともあれはニセのポーズで、いまのお前が、本当のお前なのか。
私は妻の顔色ばかり窺うようになった。結婚後、はじめての経験であった。妻の一顰(びん)一笑に支配されるような日々を重ねた。私が東京へ行かなければ、むろん、妻は機嫌がよかった。私が仕事を抛り出して一日中本を読んでいても、何も言わなかった。しかし、一週間たち、十日たつと、私は駿吉の顔が見たくなって苛々(いらいら)しはじめ、すると妻は、そんな私に素早く気づいて先廻りする。
「東京へ行きたいんでしょ、どうぞ、出かけて頂戴。駿ちゃんに逢っていらっしゃい。父子が逢うのを邪魔しないわ。でも、東京へ行くのは、駿ちゃんに会いたいだけではないんでしょ。卑怯よ、あなたは、子供をダシにして――」
たしかに東京へ行けば、知子と寝る。今更隠してもはじまらなかった。
「いいじゃないか、週に一回か十日に一回ぐらい。少しはあれの身にもなってやれ。知子はお前より若いんだぞ」
「ええ、そうでしょうよ、あのひとはいま、女盛りですものね、長いこと抛っておいちゃ可哀想よね、せいぜい可愛がってくるといいわ」
ともに五十歳をこえながら私たち夫婦は幾度こんな痴話喧嘩をくり返したことだろう。ときどき息子たちから、夫婦そろってたしなめられた。
「またはじまったのかい。よく飽きないもんだね。夫婦の問題だから俺たちは口を出したくないけど、いい加減で後妻さんも諦めたらどうなんだい。今更、駿ちゃんから父親を取り上げるわけにはいかないんだから、たまに親父が東京へ行くぐらい、大目にみてやれよ」
「親父も親父だよ。大きな顔をして堂々と東京へ行こうというのが、そもそも間違いなんだ。少しはお袋の気持ちも察して、もっと低姿勢で出かけたらどうなんだい。要領が悪すぎるよ」
私はしばしば妻を旅行へ連れ出した。旅行中、妻は上機嫌で、
「駿ちゃんへのお土産、何がいいかしら」
なぞと私に相談したが、私がちょっとでも曖昧な表情を見せると、
「やっぱり、そうなのね、お土産を買ってって、私と旅行したことが知ちゃんにわかると困るんでしょ。あのひとに気兼ねしているのね。なぜ夫婦がこそこそ旅行しなくちゃいけないの。もう何も買わないわ。もう旅行もしないわ」
気まずい思いのまま家に帰ってきたことも幾度かあった。
私は自分でもうんざりするくらい、くり返し妻に説いた。
「いつかお前も言ったじゃないか。あんたは私としか一緒にいられない人だって。俺のことだ、お前より知子と暮らしたいなら、とっくの昔に向こうへ行きっきりになっている。こうやって家にいるのは、俺にとって、ここがいちばん居心地がいいからなんだ。子供たちも言うように、もういい加減で矛(ほこ)を納めてくれ。たしかに俺は駿ちゃんが可愛い、不愍(ふびん)でしようがない。しかし、もう二、三年たてば、あの子も一人で遊びにこられるようになる。それまでは俺が東京へ逢いに行くのを我慢してくれ」
そのときは私の一語一語に頷いて、
「ご免なさい、もう、焼かない。私だって、自分で自分がいやになるの」
以前の物わかりのいい妻に戻るのだが、しかし、三日とつづかなかった。私が東京へ出かけようとすると忽ち目つきがかわって、
「そんなにあのひとと寝たいの、いいわ、行きなさい、ずっと向こうへ行ってて頂戴」
前の晩、満足させたことも無駄になった。驚いたことに、嫉妬をするようになった妻は、軀までが変わってきた。肌がなめらかになり、潤いも多くなった。
だが、それを喜んでばかりはいられなかった。朝、私は牀(とこ)をはなれるのが億劫になった。閨怨の恐ろしさが、はじめて身に沁み、同時にわが身の衰えをいやでも自覚しなければならなかった。
しかも、変わったのは妻ばかりではなかった。妻の変化と前後して知子の態度も変わってきたのである。

 

 蔭(かげ)の女として知子はまず申し分のない女であった。長い間、私は気が向いたときだけしか構ってやらなかったが、知子は不平一つ言わず、辛抱強く私に尽くしてくれた。知子ほど私に尽くしてくれた女はいなかった。
 妻の二の舞いをさせたくなかったので、私はどんなにせがまれても、子供だけは産ませまいと自分に誓ってきた。その誓いを破って駿吉を産ませたのは、ひと言でいえば知子のひたむきさに負けたからであった。出産後、病院からアパートに戻った晩、
「わがままを言ってご免なさい」
知子は私に頭を下げ、「女に生まれてきてよかった」と、目に涙をうかべた。知子ははじめから日蔭の身を覚悟していた。
そ の知子が、強い執着をみせはじめた妻と反比例して、少しずつ私によそよそしくなってきたのだ。妻の嫉妬に悩まされながら、私がやっとの思いで体を運んで行ったのに、それをさしてありがたがりもせず、むしろ当惑げな表情で私を迎えるようになった。
 私は間尺にあわない思いだった。
――こんなことなら家にいればよかった、無理をしてくるんじゃなかった。
知子のアパートヘ行くたびに、そんな思いがつもっていった。
私は若い頃から積極的に女へ近づいたことがなかった。そのかわり、向こうから近づいてきた女は、殆どといっていいくらい選り好みをしなかった。だから友人に、
「お前にはよくよく好みというものがないらしいな」
と、軽蔑され、妻からも、
「あなたは女でありさえすれば誰でもいいのね」
と、呆れられた。
そんな私が四十も半ばをすぎてから、はじめて女に惚れた。一目見て心を奪われる女にめぐりあった。相手は園池文世(そのいけふみよ)という二十歳も年下の女だった。文世が処女をくれたので、私は前後を忘れてのぼせ上がった。
一時、私は、たとえ半年でも一年でも文世と一緒に暮らせるなら、家庭も知子母子も棄てようとまで思いつめた。文世のほうも、はっきり口にこそ出さなかったが、私が決断するのを期待しているようであった。
しかし、私が踏み切れないうちに、家に舞いこんだ匿名の投書によって駿吉の存在が妻にわかってしまい、それと文世とのことを苦にして、知子は睡眠薬自殺を図った。担ぎこんだ病院で私が知子の看病をしている間、駿吉の世話は妻が見た。
若い文世は、複雑な関係に堪えかねて、間もなく私の前から去って行った。
「私がいくら鯱鉾(しゃちほこ)立ちをしても、奥さまや駿ちゃんのお母さんの真似はできないことを知りました」
それが文世の別れの言葉だった。去られてからいっそう未練が募り、当時の私には日ましに痩せてゆく妻の苦しみを思いやるゆとりもなかった。
それに私に言わせれば、妻の苦しみは、見当違いでもあった。私が愛したのは文世だったのだから、妻が文世に嫉妬し、私の心がわりを責めるのなら、私はただ頭を垂れるしかなかったのだが、妻の不眠症と食欲不振の原因は、あくまでも知子と駿吉の存在であった。文世のことは、はじめから大して問題にしていないようであった。妻は文世に一度だけ逢っているが、のちに、
「あの娘になら、あなたを奪られても仕方がないと思ったわ」
と笑って言ったことがある。
しかし、これは、文世の若さや美しさに妻がはじめから白旗を掲げたのではなく、こんな若い娘が、妻子ばかりか子供まで産ませた女がいる中年男にいつまでもくっついているはずがない、と見越したうえでの余裕だったのだろう。
知子に子供を産ませたことは、たしかに妻への裏切り行為だったが、それよりも私が妻に対して後ろめたかったのは、文世を愛したことであった。嫉妬するなら、なぜ、文世に嫉妬しないのか――当時の私は妻にそう言いたいくらいだった。
いまでも私は文世を忘れかねている。別れてから七年もたつのに、日に一度はその面影を思い浮かべ、文世と重ねた甘美な夜を追憶する。妻の前でも、知子の前でも、
「俺が心底から惚れたのは、あの娘だけだ」
と言って憚(はばか)らない。
しかし、妻は、
「ぬけぬけと言うわねえ」
と笑っているだけだし、知子のほうも、ただ薄笑いを浮かべるだけであった。いくら私の心に文世への未練が尾を曳いていようと、それが現実の生活に何の差し障りもないからなのだろうか。
知子は自殺未遂後、死に損ねてこの世への執着がかえって強くなったのか、前よりも私に尽くすようになった。
「あのとき死なないでよかった」
と、牀の中で幾度も呟き、あなたの言うことはなんでもきく、と繰り返し誓った。私の家に来るようになったのも、その一つのあらわれだったし、私と妻が旅行へ出かけた留守中、家に泊まりこんで息子たちの世話をしてくれたこともあった。
私は一応、満足だった――妻と知子がそれぞれ譲るべきところは譲り合っていがみ合わず、私を中心に自分たちの領域からはみ出すまいとしているその姿に。そして友だちの言葉を思い出し、二人のためにも文世のことは早く忘れてやらねばなるまい――なぞとヤニさがった。
だが、こんな状憩が所詮、長つづきするはずがなかった。
知子母子が家に出入りするようになってから三年目の春、私は仕事で約二カ月、家を留守にした。
戦後二十九年ぶりに南方の島から生還した元日本兵の手記を代筆するために、出版社の寮にカンヅメになっていたのだが、その留守中、二人の間の感情がこじれたらしく、帰宅した私は、妻からも知子からも、相手の非を鳴らす言葉を耳にするようになった。
「知ちゃんが妊娠したとき、あなたはあのひとに、ぜひ女の児を産んでくれと言ったそうね。お前に似ればきっと可愛い女の児ができるからって。男と女が仲のいいとき、世迷い言をいうのは私だって知っているけど、知ちゃんはなんでそんなことまで私に言わなければならないの。一体、私を何だと思っているのかしら」
私は最初、妻の言葉が信じられなかった。私ができたら女の児がほしいと思ったのはたしかだったが、そもそも知子に出産を許したのは、「いま産まなければ、もう産めない齢になってしまう」と、毎日泣かんばかりにせがまれた結果だった。けっして私がほしかったわけではなかった。むしろ難産で母子諸共死んでくれたら、と思ったことさえあった。病院から、「無事、男の児が産まれた」という連絡があったとき、安堵(あんど)とも落胆ともつかぬ気持ちになったことを私は覚えている。
しかし、私がいくらその経緯を説明しても、妻は納得しなかった。
「駿ちゃんは、パパと私が深く愛し合っていたから出来たので、パパは予定日を指折り数えて待っていた――あのひとは、私にはっきり、そう言ったわ。私には散々、もう子供はたくさんだと言ってたくせに、あれはみんな、嘘だったのね」
知子も私の顔を見るなりこう言った。
「ママからはっきり言われたわ、パパとは昔から年をとったら誰にも邪魔されず夫婦二人きりの生活をする約束になっている、だから、いずれあんたともきっぱり手を切って貰うつもりだって。夫婦でどんな約束をしているのか知らないけど、何で今から私にそんなことを言うの。いくらなんでも残酷じゃない。聞かされた私がどんな気持ちか――」
この言葉も私には、にわかに信じられなかった。妻との約束は事実だが、妻が何も抗弁できない弱い立場の知子に面と向かって、そんな心ないことを本当に口にしたのだろうか。
私は、妻にも知子にも、こう言わざるをえなかった。
「俺の留守中、お前たちの間に何があったか知らないが、今後一切、相手をそしるような言葉は俺の耳に入れないでくれ。お前たちの仲が悪くなれば当然それは子供たちに影響する。特に駿吉に大きく響く。一切を水に流せと言っても無理だろうが、駿吉のために、できるだけ我慢してくれ。俺もできる限りの努力をするから」
妻にしても知子にしても、わが身がこたえるような言葉を浴びせられたのは、そのとき、自分のほうも相手の心を抉(えぐ)るような言葉を言い放ったに違いない。つまりは売り言葉に買い言葉、時の勢いでつい言わでものことまで口走った結果だろう。だが、私に訴えるときは、二人が二人とも自分の放った矢は一切伏せて、受けた矢傷だけを強調した。母と妻との桎梏(しっこく)でそれをいやっというほど知っていたから、私はどちらも取り上げないと言ったのだが、あとから思えば、かえってそれが二人の溝を深めたのかも知れない。
「あなたは、ふた言目には駿ちゃんを持ち出して我慢しろと言うけれど、駿ちゃんのためにいちばん我慢しなければならないのは、あのひとでしょ。なぜ、妻の私があのひとに、言いたい放題のことを言われて我慢していなきゃならないのよ。大体、あのひとは、私のことを無視しすぎているわ。少しでも私のことを考えれば、子供を産もうなんて思わなかったはずよ。あなたが甘やかすからいい気になって、愛し合って出来た子ですなんて、ぬけぬけと私の前で言うんじゃない」
黙っていればとめどなく言い募る妻に辟易(へきえき)して東京へ出かけると、知子は知子で私の態度を非難した。
「奥さんの顔色をうかがって、無理してきてくれなくてもいいのよ。きてもお義理に一晩泊まって逃げるように帰ってしまうんじゃ、かえって辛くなるだけですもの。私、もう鎌倉へも行かないわ。夫婦の刺戟剤にされるのは真ッ平。チビも行かせません。私はチビと二人で、なるべくご迷惑をかけないように生きて行くつもりです。そのほうがあなたにもいいでしょ」
内心はともかく、一時は仲よく私を共有したことがあるだけに、妻と知子の確執はもはや私がどう執りなそうがほぐれそうもない状態だった。
女は変わる、変わるから面白いのだ、とよく言われている。むろん私も、妻と知子がこのまま何事もなく歳月を重ねて行くとは思わなかった。しかし、私の知る限り、二人とも最も変わらない女だったので、たとえ二人のうえに変化があるとしても、私が戸惑ったり目を見張ったりするほどのことは起こるまいと思っていた。特に妻は、文字通り身の細る悩みを経ていたので、これからは歳とともにますます菩薩のようになるのではないかと予想していた。
ところが実際は、菩薩どころかまるで人がかわったように嫉妬の塊(かたま)りになり、逆に知子が、私への執着を忘れたようにそっけなくなった。
妻も知子も、なぜ、こんなふうに変わってしまったのか。
それとも二人が変わったのではなく、私が二人を、あるいは歳月が二人を、変えてしまったのだろうか。


【一の章】

 

 同人雑誌「秋田文学」の合評会に出席するため、私がはじめて秋田市へ出かけたのは三十三歳の冬であった。
東京で生まれ、東京で育って、秋田とはいわば縁もゆかりもない私が秋田の同人誌に加わったのは、その雑誌の主宰者で、私が勤めていた新聞社の秋田支局長でもある小国(おぐに)敬二郎から、「同人費免除、原稿はどんな長いものでも無条件で載せる」という特典を与えられたからであった。
 私はちょうど書きはじめていた長篇を連載して貰うことにした。勤め先に遠慮して私は筆名を用いていたが、東京の同人誌に載せた小説が二回つづけて芥川賞の候補にあげられたため、私が小説を書いていることは、いつか社内に知れ渡っていた。
 合評会は、小国の母親が経営している旅館の一室で開かれ、約二十名の地元同人が出席した。女性は三人で、私にはいずれも二十歳そこそこに見えた。その一人が知子だった。
 合評会が終わるまで、私は隔靴掻痒(かっかそうよう)の感を免れなかった。自作についての忌憚のない批評が聞きたくてはるばる東京から出かけて行ったのに、地元の同人たちは私に遠慮して、誰もがひと言かふた言、お世辞めいた褒め言葉しか口にしなかった。連載物だから仕方がないと自分に言いきかせたものの、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論をたたかわせる東京の同人誌の合評会に慣れていた私は、物足りなさを否定できなかった。それに彼ら同士が交わす言葉は、訛(なま)りが強くて私には半分もわからず、自分だけが除け者にされているような感じでもあった。私が喋ると、みんな、シーンとして、座がしらけたようになるのも遣りきれなかった。
 作品評がひと通り終わると、同人の一人が東京の文壇の話をしてくれと私に言った。芥川賞の候補になったからといって、いまと違って一、二の雑誌社から何か書いてみないかという声がかかる程度で、私は文壇のことなど殆ど知らなかった。
 しかし、新聞社にいるおかげで、有名作家のエピソードはいくつか聞きかじっていた。私は一座を見廻しながら、わざとべらんめえ口調をまじえて、それらを披露した。田舎者を小ばかにし、知ったかぶりをする東京人の悪い癖を私は多分に持っていた。
一同が目を輝かせ、特に三人の女性が膝を乗り出すように聞き耳を立てているのに気がつくと、私はますますいい気になって、二、三回しか逢ったことのない中堅作家の名前をさん付けで呼び、さも親しそうな口ぶりを弄(ろう)した。
 喋りながら私は、知子がまたたきもせずに私を見つめているのを知った。見返すと、知子はあわてて俯向いた。自惚れ強い私は、この娘俺に岡惚れしたな、と腹のなかでニヤニヤした。
その夜、私たちは盛り場の川反(かわばた)へ繰り出した。酒どころの同人たちはさすがに酒豪ぞろいで、バーを三軒梯子しても誰も酔った気配をみせず、私にようやく親しんでじかに話しかけてくる者もふえたが、私には相変わらずその内容が半分ほどしか理解できなかった。そばに寄ってきたホステスの話も同じだった。
「秋田の民謡を聞かせてほしいな」
私が誰へともなく言うと、
「わしがやりましょう」
高校の教師をしている永井という青年が、正調秋田おばこを歌ってくれた。つづいて、後に直木賞を受賞した千葉治平が、嫁取り歌を聞かせてくれた。二人ともいい喉であった。
「あなたも一つ」
と、すすめられたが、芸なし猿の私は断わりつづけた。偶然か意識的にか、三軒とも知子が私の真ン前の席に腰かけていたせいもあった。私と目が合うと、合評会のときと同じようにあわてて視線をそらすくせに、私が他の者と話をしていると、強い視線をそそいでくる。それを幾度も頬に感じた。
バーをもう一軒廻って、ようやく解散になった。外へ出ると粉雪が舞っていた。私が首を縮めて外套の襟を立てていると、
「あのう、あしたのご予定は?」
そばに寄ってきた知子が、はじめて囁くように訊いた。
「小国さんが市内を案内してくれるそうです」
知子は小さく頷(うなず)き、まだ何か言いたそうな顔だったが、五、六メートル先でタクシーをとめた他の同人が手招きをしているのに気づくと、
「おやすみなさい」
丁寧に挨拶して、そのほうへ小走りに去って行った。訛りのない、よく透る声であった。
翌日の昼すぎ、小国と永井の案内で市内見物へ出かけようとする直前、「勤めを休んだ」と言って、知子が旅館に現われた。毛糸で編んだ赤いトンガリ帽をかぶっていた。そのせいか、前の日よりも若く、十七、八の少女のようにも見えた。
私は旅館でゴム長を借りて、三人に従った。今年は雪が少ないという話だったが、それでも三十センチ近く積もっていた。城址の千秋(せんしゅう)公園へ登って行くと、十歳前後の子供たちが小さな竹スキーで坂道を巧みに滑り降りていた。どの子の頬も真ッ赤だった。雪に馴れない私は、本丸跡へ登る道で二、三回転びそうになり、その都度、知子が短い声を挙げた。
「秋田の女性は薄情だなあ。声をあげるだけで手を藉(か)そうともしてくれないんだから」
私がそんな冗談を言うと、知子は、いかにも困ったような表情をみせた。
「私、暫く東京にいたことがあるんです」
知子が言い出したのは、城址から降りて、旭川沿いの道を歩いているときであった。地元の高校を卒えて東京の美容学校へ行き、本郷の美容院でインターンをやっていた、と彼女は語った。
小柄だが肉づきが豊かで、それにふさわしい豊頬と、笑うと並びのよい白い歯がこぼれて、見るからに健康そうであった。頬が赤いのも雪国の娘らしかった。さして美人ではなく、私の好みの顔立ちでもなかったが、ふくらんだ外套の胸のあたりから若さが匂い立つようであった。
今は土崎(つちざき)の美容院に勤めているという知子に、
「どうして戻ってきたの? 東京がいやになったから?」
と、私はたずねた。
「別にそういうわけではないんですけど……」
ふっと表情をかげらせ、白い長靴の先で道端の小さな雪の塊りを軽く蹴ってから、
「あのう、東京のどこでお生まれになったのですか」
と知子が問い返した。
「生まれたのは新橋だけど、少年時代は東大久保――新宿の近くに住んでいましたよ」
知子の目が途端に輝いた。
「じゃあ、抜弁天(ぬけべんてん)の停留所の前にある本屋さんをご存知でしょ。私の出た美容学校は河田町にあったので、あのへん、よく知っているんです」
私は曖昧に頷いた。戦後、東大久保界隈を歩いたことがなかった。知子はいくらか昂奮した声で、若松町や柳町の喫茶店の名前を挙げた。
「入ったことはないけど、名前は知っている」
私が調子を合わせると、さらに知子は、新宿の有名な甘い物屋や音楽喫茶の名を口にして、
「もう一度、新宿を歩いてみたい……」
呟きながら遠くを見る表情になった。
「だいぶ話が弾んでいますね」
小国が振り返って立ちどまり、
「緒野(おの)さん、気をつけて下さいよ。この人はね、東京の本社でも女性に手が早いという専らの噂なんですから」
笑いながら知子に忠告してから、
「緒野さんはわれわれのマドンナなんですから、誘惑しちゃ困りますよ」
私にも釘をさした。マドンナと言う古風な表現に私が吹き出しそうになる前に、当の知子がカン高い笑い声を雪道に響かせた。永井も朗らかな笑い声を挙げた。
川に面した喫茶店に入って隅のテーブルについたとき、私は椅子を引いて、
「どうぞ、マドンナさま」
と、おどけ、給仕が註文をとりにきたときも、うやうやしくメニューを差し出して、
「マドンナさま、何にいたしましょうか」
と、ふざけた。
「もう、やめて下さい」
 知子が泣きそうな顔になったので、小国も永井も大笑いし、店内の客が一斉に目を向けてきた。のちに永井は、知子と高校時代の同級生で、やはり同人の一人だった娘と結婚した。
その晩、小国や永井と一緒に秋田駅まで送ってきた知子は、発車間際に小さな包みをそっと私に差し出した。列車が動き出してから開けると、ライターが入っていた。

 二

 私の長篇小説は連載の途中で、直木賞の候補に挙げられた。完結していないのになぜノミネートされたのか腑に落ちなかったし、今回も受賞は無理だろうと私は最初から諦めていた。
 案の定、雑誌に発表された選考後記によると、私の小説は未完を理由に選考対象から除かれていた。私は何か意地悪されているような、からかわれているような感じを持ったが、それから数日後、或る出版社が完結したら本にしたいと言ってきたので、今度は忽ち、有頂天になった。小説を活字にしはじめて僅か三年目で自分の本が持てる幸せに、私は感謝せずにはいられなかった。
 出版社は、小説の後半を書下ろしの形にしてくれと言ったが、私は最初の予定通り同人誌に連載し、その最終章が雑誌に掲載された直後の九月中旬、再び秋田へ出かけた。東京はまだ残暑がきびしかったが、みちのくはもう間違いなく秋で、朝夕はちょっと肌寒いくらいであった。
合評会に知子は荒い格子縞のセルを着てきた。この前のときより、急に三つ四つ齢をとったようにみえた。地元の同人たちは、素直に、私の小説が本になることを喜んでくれ、特に小国は、「秋田で最低三百部は売ってみせますよ」と勇気づけてくれた。
翌日、私たちは男鹿半島へ出かけた。一行は三台の車に分乗して出発し、門前からその年最後の遊覧船に乗った。船の中で小国が盛んにカメラのシャッターを切った。
 船の行く手に次々に現われる奇岩に、私はその都度、嘆声を挙げた。雲一つない快晴で陽差しも強く、そばに坐った知子が、秋田ではこんなよいお天気の日は年に数えるほどしかない、と教えてくれた。知子はその日、白い半袖のブラウス姿だった。前の日が和服だったので、よけい若さが感じられた。ときどき強い海風が吹きぬけて、知子の長い髪先が私の目の前で踊った。
「マドンナさんは地元だから、男鹿には何度も来ているんだろ?」
「それが高校生のとき、一度きただけなんです。いつでもこられると思って」
知子は傍らの魔法瓶を両手で捧げるように持ち、
「コーヒーをつめてきましたけど、召し上がりますか」
と、訊いた。冬に街を案内して貰ったとき、私は雪道にすぐ疲れて三回も喫茶店で休み、そのたびにコーヒーを飲んだ。それを覚えていたのだろう。魔法瓶の蓋につがれたコーヒーは、私の口にほどのよい甘味だった。
船が孔雀ガ窟(くじゃくがいわ)に入ると、知子のブラウス姿がおぼろになるほどの闇になった。その耳許で私は囁いた。
「ライターをありがとう」
闇の中で知子が軀を固くしているのが感じられた。
「江ノ鳥の岩屋を知っている?」
「いいえ。鎌なのほうへはまだ行ったことがないんです」
「今度、東京にきたら、案内してあげよう」
その頃、私は江ノ島に近い腰越海岸に住んでいた。船が窟の外へあと戻りしはじめた拍子に、二人の肩が軽くぶつかった。知子が全身をピクッとさせたのがわかった。
戸賀(とが)で遊覧船を降り、八望台(はつぼうだい)に登ると、眼下に一の目潟、二の目潟と呼ばれる小さな池が、濃い緑のなかにとろりとした神秘な色を湛えていた。記念写真を撮るとき、私はわざと大きな声を知子にかけた。
「マドンナさん、僕と一緒に並ぼう」
知子は素直に私の隣りにきた。首筋のあたりから微かな体臭が匂った。男の官能を刺戟する匂いだった。それが知子の肩に置こうとした私の手を引っこめさせた。
男鹿半島の尖端、白と黒に塗りわけられた入道岬(にゅうどうざき)燈台の周囲は、天然の芝生になっていた。引き潮なのか、断崖の下からかなり遠くまで、岩や瀬が顔を出していた。右手の海上遠く、うっすらと山脈が見えた。津軽の黄金崎(こがねざき)あたりだろうか。
燈台下のゆるやかな斜面の芝生に私が寝転ぶと、知子も二メートルほど間隔をおいて軀を横たえた。昼を廻ったばかりの陽が眩しく、腕をかざしてそれを遮りながら横目でうかがうと、知子は両瞼を軽く閉じていた。芝生のうえにじかにひろがった髪と、陽に光る白い喉が、また官能を刺戟した。この娘は間違いなく俺に気があると、甘い気分にもなった。他の同人たちは、二人から少しはなれた芝生に車座になり、持ってきた一升瓶を傾けて賑やかな野宴をはじめていた。海からの風がときどき、彼らの話し声を運んできた。
私も目を瞑(つぶ)って一カ月後に出る本のことを思った。今度こそ受賞して、有名になる自分を空想した。可能性があるだけに、それを思うと体じゅうから新しい力が湧いてくるような感じだった。
知子が何か言ったようなので、
「え、何?」
と訊き返しながら彼女のほうへ体ごと顔を向けた。
「ご本、評判になるとよろしいですね」
相変わらず目を閉じたまま知子が呟くような口調で言った。
「ダメさ、僕の本なんて」
照れて体を元に戻したが、知子に強い親近感を覚えた。本について、私の小説について、もっと何か言って貰いたかった。が、知子はそれきり何も言わなかった。
東京を発つ前の晩に、私に旅費を渡しながら妻が呟いた。
「今月も質屋のご厄介になりそうね」
「本の印税が入ったら、お前もどこかへ連れて行ってやるよ」
金を受け取りながら、ちょっと気が引けて私が言うと、
「あてにしないで待っているわ」
と、妻は笑った。その寂しそうな笑顔が思い出された。
誰かが近づいてくる気配がして私が体を起こそうとする前に、
「こっちへきて、一杯やりませんか」
小国の声が降ってきた。私より先に知子が立ち上がって斜面を登り出した。そのブラウスの背に枯れ草が付いていた。手を伸ばしてそれを摘みとろうとすると、知子が振り向き、サッと一メートルほど横へ跳びのいた。
「草がついているんだよ」
知子が真ッ赫になった。駆け登るその背を眺めて、この娘は間違いなく処女だな、と思った。
独身時代にも何人かの女と関係を持ったが、処女は一人しか知らなかった。東京と秋田とではこれ以上この娘に近づきようがないな、と私は胸で呟いた。知子が私に好意を持っていることは感じていたが、まさか後に彼女のほうから近づいてくるとは考えてもみなかった。
次の日の夜、東京に帰る私を知子はまた秋田駅まで送ってきた。今度は何もくれなかったが、列車が動き出すとホームを五、六歩追ってきた。そして立ちどまると、窓から手を振る私を泣き出す寸前のような顔で見つめた。
十月に出版されるはずだった私の本は、予定より丸一カ月おくれた。製本が終わってあすは取次店に搬入されるという晩、台風によって神田川が氾濫し、川沿いの製本屋が軒並み水浸しになって私の本も全部水を冠ってしまったからだ。出版社から電話でそれを知らされたとき、私は暫く口がきけないほどのショックをうけた。処女出版でワクワクしていただけに、出鼻をくじかれたというより、いきなり鉄槌で殴られたような衝撃だった。
――俺はいつも誰かに意地悪される。
そんな被害妄想に陥って、出版社がすぐ刷り直しにかかり、その見本が届いても私は、
――またきっと何か起こるに違いない。
という疑心暗鬼から抜け出せなかった。
それだけに、本が小売店の店頭に並んだとき、その一冊を手にして私は思わず涙ぐんだ。小学生の頃、遠足の前の晩にリュックサックを枕許に置いて寝たものだが、私は一週間ばかり、毎晩、自著を枕許に積み重ね、
「まるで子供ね」
と、妻にひやかされた。そう言う妻の目も潤んでいた。
十一月下旬に銀座の中華料理店で行なわれた出版記念会には、秋田からわざわざ三人の同人が出席してくれた。三人は、仕事の都合で上京できない小国からことづかった大きな林檎箱を運んできた。赤ン坊の頭ほどもある見事なデリシャスで、五十人近い出席者全員にくばってもまだ余った。発起人になってくれた先輩の小説家が、
「この小説できっと直木賞をとるだろう。今夜の会はその前祝いの会のようなものだ」
と言ってくれた。隅の席で妻が目にハンカチをあてていた。
二次会で同人の一人が、私の表情をうかがいながら言った。
「マドンナがいちばん出席したがっていましたよ。われわれを駅まで送ってきて、あなたにくれぐれもよろしく言ってくれと、くどいほど繰り返していました」
「感激だなあ」
私は、おどけてみせた。受賞したら、文学少女がわんさと近づいてくるだろう、そうなったら、あんな田舎の小娘なんか――と、私はもうすっかり受賞したつもりになっていた。
本の売れ行きはあまりよくなかったが、二、三の新聞が書評欄でとり上げてくれた。おおむね好評であった。私はますます高慢になって、勤め先で同僚にたずねられると、
「受賞したら、むろん、すぐ社を辞めるさ」
と、うそぶいた。いま思うと、もっとも自信にあふれていた時期だが、人にはさぞかし鼻持ちならない姿に映っていただろう。
翌年の正月、私はまた秋田の合評会へ出かけた。会の途中で、候補になったという妻からの電報が届いた。合評会も忽ち、前祝いの会になった。地元の小さな雑誌が連載小説を頼みにきたりして、私をさらにいい気分にさせた。夜、料理屋で催された宴会で、悪酔いした同人の一人が、永井のちょっとした言葉遣いを咎め立てて、突然、殴りつけた。他の同人が止めに入って騒ぎはすぐ納まったが、知子が不意に泣き出したので、私にはそのほうが意外だった。
「授賞式には大挙して押しかけますからね」
と小国は、駅に送りにきたとき言い、知子も、
「今度は私もきっと出席します。必ず招(よ)んで下さいね」
と念を押したが、私の小説はまた落選してしまった。半月ほどたって知子から手紙がきた。賞についてはひと言も触れず、とりとめのない近況が誌(しる)してあった。

 

 知子が突然上京して、私の勤め先に電話をかけてきたのは、その年の初夏であった。月給日の直後だったので、銀座で落ち合い、ちょっと洒落たレストランで夕食をご馳走した。髪をうしろでまるめ、野暮ったい紺のツーピースを着た知子は、三年ぶりだという銀座に気遅れしたのか、口数が少なく、秋田の同人たちの消息を訊いても要領を得ない返事ばかりしていた。
「郷里で何かあったの?」
 夜勤明けで疲れていた私が、少々いら立って聞いたが、知子はただ黙って首を振った。誘惑したい欲望を覚えたが、うっかり手折ったら後々まで祟られそうなので、剣呑剣呑と自分に囁き、食事のあと、数寄屋橋の喫茶店でコーヒーを飲みながら、私はわざと腕時計を二度も覗いた。それでも知子は帰ると言い出さなかった。やむをえず私は訊いた。
「どこの旅館に泊まっているの?」
「九段に、母の従姉がいるんです。そこに……」
「じゃあ、あまり遅くなると心配するね。近くまで送って行こう」
靖国神社の横でタクシーを降り、番町のほうへくだる坂を歩き出すと、不意に知子が立ちどまった。
「もし、お暇がありましたら、一度、鎌倉を案内していただきたいんですけど」
男鹿の遊覧船で約束したことを思い出した。
「あした、ちょうど振替え休日なんだ」
外燈の光のなかで知子の目が輝いた。
翌日、四つになる次男の章(あきら)を連れて鎌倉駅へ行くと、水玉模様のワンピースを着た知子が改札口の柱のかげから現われて、
「まあ、かわいい坊や。いくつ?」
章の顔を覗きこんだ。栂指を折った掌を章が見せると、「おねえちゃんと仲よくしてね」その手を握って知子は囁いた。
幾つかの寺を案内して歩く間、知子は章の手を放さなかった。章のほうもすぐなついて、喫茶店でひと休みしたときも知子の隣りに腰かけた。知子は、ジュースを飲み終えた章の口許をハンカチで手早く拭いてやり、トイレヘも連れて行った。幼い子の世話をするのが楽しそうであった。
「随分、面倒見がいいんだね、感心した」
「私にも小さな弟や妹がいるんです。母は違いますけど」
知子は小学六年生のとき実母を喪ったそうで、肺結核だった母親の病床には長い間近づくのを禁じられていた、と語った。
「父が再婚したのは、母の一周忌から一カ月もたたないうちでした。新しい母は、父が女学校で書道を教えていた頃の生徒で、母が亡くなる前にも二、三度家にきたことがありましたから、その頃から父と約束ができていたのかも知れません」
知子が継母に好意を抱いていないのが、その口ぶりから容易に察せられた。
「母は長い間寝たり起きたりの状態でしたから、父にしてみれば仕方がなかったのかも知れませんが、弟が可哀想で……新しい母は、弟が間違いを起こしたらすぐ施設に入れてしまったんです」
「新しいお母さんは結婚前、なにをしていたの?」
「女学校で作法を教えていました。だから……」
口ごもり、目を伏せたので、
「だから、躾がきびしかった」
私がかわって言うと、知子は小さく頷いた。
「その顔から察すると、君もビシビシやられたらしいな」
「いえ、叱られたことは一度もありません。そのかわり、甘えさせてもくれませんでした。弟が継母をきらって一時手に負えなかったのはたしかですが、施設に入れるくらいなら、なぜ再婚したのか、私、継母より父の気持ちがわからなくて……」
「君は相当な継(まま)ッ子根性らしいな」
私がわざとからかうように言うと、
「そうかも知れません」
知子はあっさり肯定して、
「でも、私にすれば、何か失敗したら思いきり叱ってくれるような母がほしかったんです。私が東京の美容学校へ行ったのも、腕に職をつけて、一日も早く家から独立しようと思ったからなんです」
「それにしても誘惑の多い東京に、お父さんがよく出すことを許したね」
「父は私がいなくなって、むしろ、(ほつ)としたのではないかと思います」
そんな言菓にも義理の母娘の確執がうかがえた。
「いつかも訊いたけど、それじゃなぜ秋田に戻ったの? 結婚準備?」
「私、一生、結婚しないつもりです」
「若い頃はよくそう言うんだ。君の年齢ではまだ真剣に結婚問題を考えられないんだろうが」
「私、若くありません。もうすぐ二十四です」
女の齢くらい分からないものはない、と私は改めて思った。そして、二十四歳にもなって一生結婚しないなぞと言うところを見ると、この娘は東京にいた頃、男の問題でよほど手痛い思いをしたのかも知れない、同人雑誌に入ったのもそのせいかも知れない、と思った。
「とにかく、家で暮らしている間は、お母さんとできるだけ仲よくすることだね」
「私、お店に泊まっているんです。家には週に一回しか帰りません」
知子は章に顔を近づけて、「ボクは幸せね」と呟いた。
葉桜におおわれた段葛(だんかずら)の道を、章の歩幅にあわせてゆっくりと駅へ戻ったが、知子はまだ帰りたくなさそうな素振りだった。
「よかったら、家にこないか」
「お邪魔したいんですが、それではあんまり……」
もじもじしている知子の手を、章が改札口のほうへ引っぱりながら言った。
「おねえちゃん、行こ、ボクンちに」
七里ケ浜に沿って走る江ノ電の車窓から、西陽に染まった海を眺めていた知子が、私のほうへ顔を戻して、小さな声で言った。
「江ノ島って、燈台があるんですね」
「あれは展望台だよ。あッ、岩屋を案内する約束だったね。今夜、泊まっていきなさい。あしたは勤めが午後からだから、午前中、江ノ島へ行こう」
「私、奥さまにご挨拶したらすぐお暇します」
「今夜、帰らなくちゃいけないの?」
「そんなことはありませんけど」
二人の間に腰かけていた章が、何か言いたげな目を私に向けてきた。
「何だい?」
「あした、運動会」
「あ、そうか」
知子が、「何ですの?」と訊いた。
「いや、あしたね、長男の小学校の運動会なんだ。どう、よかったら君も見物していかない?」
言ってから、とんだ親ばかぶりをみせてしまったな、と私は自分に舌打ちした。
表通りから横町へ曲がる角で、章が知子の手をふりほどくと、家へ向かって駆け出した。当時私が住んでいた家は、玄関の四畳半を入れて三間しかなく、しかも一部屋は母が使っていたので、親子四人は食べるのも寝るのも同じ六畳であった。しかし、そんな狭い家にも毎夏、私の勤め先の同僚や後輩が入れ替わり立ち替わり泊まりがけでやってきた。妻が客好きで、気がおけなかったせいだろう。章が報せたらしく、家の前に割烹着姿の妻が立っていた。
知子が魚好きと知った妻は、
「よかったわ、このへんはお魚しかないの、そのかわり、新しいのよ」
割烹着をはずして、近くの魚屋へ飛んで行った。入れ違いに長男の準が服も顔も泥だらけにして帰ってきた。知子が私より先に立って、準を湯殿へ連れて行った。湯殿からはじけるような準の笑い声が聞こえてきた。
知子は妻のエプロンを借りて、夕食の支度も手伝った。まるで親戚の娘のような素直な融けこみ方であった。台所から聞こえてくる二人の笑い声に私は吻として、縁側に寝そべった。
前日から横浜の姉の家へ行っていた母が突然帰ってきたのは、賑やかな夕食がすみ、知子が子供たちとジャンケンをして勝ったほうが丸めた新聞紙で相手の頭を打つ遊びに興じている最中であった。
「大きな声が外まで聞こえたよ」
そう言いながら入ってきた母は、
「へーえ、はるばる秋田から」
外出着のままその場に坐りこむと、日頃の穿(せん)さく好きを発揮して知子に家族のことを根掘り葉掘りたずねた。母は私の目くばせにも気づかぬ風を装い、知子が美容師と知ると、
「あんた、小説なんかにうつつを抜かさないで、若いうちにしっかり稼ぎなさいよ。そして早く自分のお店を持つようにしなくちゃダメよ」
したり顔で意見を言ったりした。
「おばあちゃん、ご飯は?」
妻がたまりかねたように訊くと、
「どうせ私の分は作っていないんだろ」
卓袱台の上をじろっと見てから母はようやく立ち上がった。
「すぐ支度しますけど」
「ああ、作っておくれ」
帯締めをほどきながら母が自分の部屋に入ったあとで、妻が小声で言った。
「二、三日泊まってくると言ってたのに……きっとまた義姉さんと喧嘩したのね」
客蒲団がないので、その晩知子は妻と一つ蒲団に寝た。風呂にも妻と一緒に入った。
妻の浴衣を着た知子が、鏡台の前で湯上がりのほんのりした頬にクリームをすりこみながら、鏡越しにチラチラッと目を走らせてきたので、私は用もないのに夜の庭へ降り、星空を見上げて、
「あしたもいい天気らしいぞ」
長男に声をかけた。暗いところから盗み視た知子の腰は、ふっくらと丸みを帯びていた。

 四

「助かるわ、あなたが手伝ってくれて」
「海苔巻作るの、何年ぶりかしら」
 翌朝、牀の中にいる私の耳に、台所から妻と知子の話し声が聞こえてきた。運動会の弁当をつくっているらしかった。
前の晩、私はなかなか寝つかれなかった。あいだに子供たちをはさんだ向こうの蒲団のなかで妻と知子は殺した声で話しあってはときどき忍び笑いを洩らした。仲のよい姉妹のようであった。
私は知子の気持ちを測りかねた。秋田での態度から、彼女が自分に好意を寄せていると自惚れていたが、それなら妻と一つ蒲団になぜ寝られるのか。要するに、駆け出し小説家に対する文学少女の好奇心にすぎなかったのだと割り切ることにした。
「あなた、もう、寝たの?」
私はわざと返事をしなかった。女同士、どんな話をするのか、聞いておきたかった。少したって妻が呟いた。
「今夜はばかに寝つきがいいわねえ」
「私をあっちこっち案内して下さったので、お疲れになったのよ」
「私たちもそろそろ休みましょうか」
しかし、それからも暫くの間、二人のくぐもった声が途切れ途切れにつづいた。聞き耳を立てたが、内容がわからず、私は妻と知子の間に割りこみたい衝動を持てあました。みだらな空想にも耽った。姪や従妹を別にすれば、若い娘を家に泊めたのははじめてであった。
妻と長男が一足先に学校へ出かけ、一時間ほどたってから私は母に留守を頼み、知子と次男を連れて家を出た。
校庭を囲んだ蓆(むしろ)敷きの父兄席の間から、真ッ先に妻の姿を拾い出した知子が
「ほら、ママはあすこよ」
章の手を引っぱって駆け寄って行った。その腰の揺れが、寝不足の私の目を刺戟した。
徒競走で長男が私たちの前を駆け抜けたとき、知子は急に立ち上がると、
「準ちゃん、頑張れッ」
周囲の人が一斉に顔を向けてくるほどの声援を送った。長男はその甲斐もなく三等だったが、賞品の鉛筆とノートを貰って席に戻ってくると、知子がいきなり抱き上げて頬ずりし、私にまた目を見張らせた。
午後の部の最初は、長男の出るマスゲームで、それが終わったのをしおに私は腰を上げた。
「よかったら終わりまで見ていきなさい。そしてもう一晩、泊まっていきなさい」
「いいえ、あすは秋田へ帰らなければなりませんから」
章に頬ずりしてから知子も立ち上がった。
東京へ向かう電車のなかで不意に顔を寄せてきた知子が、「本当なんですか」と訊いた。
「何が?」
「私、信じられないんです」
「だから、何が、さ」
「ゆうべ、ママから、いえ、奥さんからお聞きしたんですが、よく浮気なさるんですってね」
私が苦笑しながら頷くと、なぜですか、と知子は至極まじめな顔つきでたずねた。
「困ったな、理由なんかないよ。昔から言うじゃないか、浮気ゃその日の出来心って」
「私、信じられません」
「なぜですか」私は知子の口真似をした。
「だって、幸せを絵に描いたような家庭なんですもの。私、結婚したくなったくらいです」
「おやおや、誰だっけね、一生結婚しませんと言ったのは」
「浮気をするのは、小説の材料にするためですか」
「冗談じゃない。あくまでも純粋な浮気さ」
自分で自分の言葉に私は笑い出したが、知子はまだ腑に落ちないような顔であった。
「いやになっちゃうな、俺はそんなに真面目に見えるかい? 小国さんも君に忠告してたじゃないか、手が早いんで有名だから気をつけろって」
「どんな人と浮気をするんですか、水商売の方ですか」
「いや、僕は素人専門なんだ、未婚の女性もいれば、人妻もいる」
「よその奥さんとも、ですか」
「ああ、二年ほど前、どちらも家を飛び出して、暫く同棲したことがある」
「うそ」
「女房に聞かなかった?」
「奥さんは詳しいことは何も仰言いません。だから私、半信半疑だったんです。その方、どんな方だったんです? いま、どうしていらっしゃるんですか」
その人妻は私と同じ新聞社の婦人記者で、幼稚園に通っている女の児の母親でもあった。半年ほど人目を忍ぶ仲をつづけたあと、彼女は夫と一粒種の子供を棄てて家を飛び出し、杉並の奥に部屋を借りた。まず既成事実をつくり、それから離婚する気だった。その情熱に引きずられて、私は彼女が借りた部屋に転がりこんだ。むろん、彼女は、私が一日も早く妻と正式に別れることを望み、毎日のようにそれを迫ったが、私には妻と離婚する気なぞ一つもなかった。私が半分も話をしないうちに何を言いたいのか理解するほど頭の廻転が早い女だったが、軀は大味で、それが鼻につきはじめると、同棲中も、「急に夜勤になった」などと嘘をついて、ちょくちょく家に帰っては、妻に口直しをせがんだ。
「いいの、帰ってきちゃって。むこうの人に怒られるわよ」
妻はそう言いながら、けっして私を拒まなかった。妻は私が人妻と暫く同棲すると宣言したときも、
「いいわよ、子供たちのことは心配しないで、あなたの気がすむまでその人と一緒に暮らしなさい。そのかわり、生活費だけはちゃんとくださいね」
いささかも動じなかった。
同棲中、人妻は妊娠中絶したが、手術後、「僕の子だったの?」という私の言葉がきっかけで二人の仲がこじれ、結局、同棲も解消して私たちはそれぞれの家庭に戻った。小さな風呂敷包みをぶらさげて帰った私を、妻は何も言わず迎え入れ、私もその晩、何ごともなかったように久し振りに風呂で子供たちの体を洗ってやった。夫の許に戻った人妻は間もたく勤めをやめ、その後、今に至るまで私は彼女と一度も会っていない。私と別れたあと、乗り物恐怖症というノイローゼになって暫く家に閉じこもっていたという風の便りを耳にしただけであった。
電車のなかで私は、肉体の点だけははぶいて、人妻とのいきさつを知子に語った。知子はまだ信じられないという表情だった。
「ま、君が信じようと信じまいとかまわないが、僕が浮気っぽい男であることだけはたしかなんだから、近づかないほうが賢明だよ。本人がそう言っているんだから、これほどたしかなことはないさ」
「小説家は作り話が巧いから……第一、奥さんが何も仰言らなかったなんて、私には信じられません」
「うちの奴は昔から焼き餅を焼かないんだ」
「どうしてなんですか」
「多分、僕に惚れきっているからだろう」
ぬけぬけと言う私に、知子はあいた口が塞がらないようであった。
車内アナウンスが間もなく東京駅に着くことを告げ、乗客たちが一斉に立ち上がると、
「また東京に出てきたとき、お邪魔させていただいてよろしいでしょうか」
知子が遠慮がちに訊いた。
「うちの奴も大歓迎するよ。あれは一人ッ子で姉妹の味を知らないから」
知子の口からいきなり涙がこぼれた。
「突然お伺いしたのに、あんなによくしていただいて……」
知子はよくよく家庭的な愛情に飢えていたのかも知れなかった。

 五

 夏に入って間もなく、秋田の知子から子供たち宛に小包が届いた。準と章が奪い合うように開けると、ワイシャツの空箱から甲虫、鍬形虫、髪切り虫などの死骸が出てきた。箱の底に敷きつめた草の葉も、しおれ切っていた。生きたまま届いていたら子供たちは大喜びしただろうが、一匹残らず死んでいる昆虫の群れは、気味が悪いばかりでなく、何か不吉なものさえ感じさせた。消印をみると一週間もたっていた。
 礼状の出しようがないので私が抛っておくと、十日後にまた小包がきた。今度は、折り紙の鶴、奴さん、兜、チューリップなどとともに、煙草の空箱でつくった操り人形や自動車などが出てきた。「章ちゃん、誕生日、おめでとう」と書かれたカードが添えてあった。
「これが本当のプレゼントね」
妻はしきりに感激していたが、美容院の勤めを終えたあと、夜更けにせっせと折り紙を折っている知子の姿を想像すると、家庭にとけこめないその孤独さを示されたようで、私はちょっと遣り切れなかった。しかし、黙っているわけにもいかないので、私は長男に命じた。
「字が書けるようになったんだから、お前、章にかわって秋田のおねえちゃんにお礼の手紙を書くんだぞ」
「ぼく、いやだよ」準が唇をとんがらせた。
「どうして?」
「こんな折り紙、ぼくだって作れらあ」
 仕方がなく私が礼状を出すと、三たび小包が届いた。今度は私宛で、五十枚ばかりの原稿がでてきた。添削してほしいと書いてあった。何だ、これが目的だったのかと鼻白む思いだったが、読んでみると文章は稚拙だが筋が面白かった。私は丸二日かかって手を入れて送り返した。同人誌の次の号に載ったその短篇は、文芸雑誌の同人雑誌評で褒められ、知子から速達の礼状と秋田銘菓が届いた。
その年の暮れ、知子はまた上京してきて、私の家に三晩泊まった。妻が新調したばかりの客蒲団を敷こうとしたが、「もったいない」と知子は遠慮して、また妻と一緒に寝た。あとで私が、「お前たち、レズじゃないのか」とからかうと、「よしてよ」と妻は本気になって怒ったが、少したってから言い足した。
「やっぱり若いっていいわねえ。知ちゃんの軀、ぽかぽかしているの」
 当時、妻は貧血気味で、軀も痩せていた。知子のほうは前よりも少し肥ったようで、漫画本を読んで貰っている章の頭がふくらんだ彼女の胸に触れそうになるたびに、私は落ち着かない気持ちになった。
「俺も若くて、あったかい軀と寝てみたいな」
「今度、きたら頼んであげようか。でも……」
「でも、何だ」
「知ちゃん、ちょっと体臭があるわよ」
それがいいんだとは、さすがの私も口にできなかった。妻の軀には殆ど匂いがなかった。
知子の滞在中、私は母の部屋に一人で寝た。母は半月ほど前から、神戸の長姉の家へ出向いていた。
「お袋は暫く帰ってこないから、君さえよければ、ゆっくりして行きなさい」
私がすすめると、
「綺麗なお母さまですね」と知子が言った。
「綺麗? お洒落なんだよ。昔、新橋の芸者だったから」
「まさか」
「本当だよ。だから今でも、朝起きると途端に髪を結うんだ。それからじゃないと飯を喰わないんだ」
私はアルバムを出してきて知子に見せた。そのなかに、父に落籍(ひか)される前の写真が二枚、残っていた。関東大震災のとき持って逃げたと母から聞かされていた。
なぜ、そんな写真を知子に見せる気になったのか、私自身、いまだにわからない。子供たちもそのとき母の古い写真をはじめて見たらしく、知子と一緒にのぞきこみながら、
「これ、おばあちゃん? 嘘だい」
準がそう言って容易に信じようとしなかったのを覚えている。写真の母は顔も軀もほっそりして、お座敷着こそ着ていないが、だれの目にも素人の娘とは見えない粋な立ち姿だった。
「子供を産むたびに肥った」と母はよく嘆いていたが、私が小学生の頃、すでに十八貫を超え、そのうえ髪を二〇三高地に結っていたので、いかにも大々としていた。私がはじめて痩せた母を見たのは中国大陸から復員してきたときで、髪も真ッ白になり、わずか三年足らずの間に、十ぐらい老けた感じだった。しかし、母は間もなく髪を染め出し、同時にふとり始めて、私が結婚した頃は再び恰幅がよくなった。母は日に一度、盛り上がった膝に三味線を載せて爪弾きし、準や章に、
「お前たちが女の子だったら、私がみっちり仕込んでやるんだがねえ」
と言うのが口癖であった。
 私は男二人女六人兄姉の末ッ子で、「お前がいちばん可愛がられた」とよく姉たちから言われたが、私自身は母に愛されたという記憶が殆どなかった。子供の可愛くない母親はいないはずだから、母の愛情表現が拙(つたな)かったのかも知れないが、小さい頃の私は、しょっちゅう母に叱られていたような気がする。
母の膝のわきにはいつも二尺差しが置いてあって、私がちょっとでも我儘を言うと、それが容赦なく腿(もも)に飛んできた。お灸も幾度か据えられた。私の背中を膝頭でぎゅっと抑え、右手の拇指の爪にもぐさを載せて、線香の火をつけた。どんなに「ご免なさい、もうしません」と泣いて謝っても許してくれなかった。手首をがっちり握られているので、もぐさを振り落とすこともできなかった。
母が私にきびしかったのは、多分、兄のせいだろう。兄は中学時代からグレて、徴兵検査を受ける前に浅草のカフェーの女給と心中未遂騒ぎを起こして勘当された。
 兄が一年ぶりで帰ってきたときの浮浪者同様のなりを私は覚えている。垢まみれのよれよれになったワィシャツに、膝が抜け、裾がほころびたズボンをはいて裏口からそっと入ってきた兄の軀は、思わず鼻を掩(おお)いたくなるような異臭を発散した。浜松から鉄道線路づたいに幾日もかかって歩いてきたと、あとで兄から聞かされた。
 兄は一カ月ばかり家にいて、また、居なくなった。翌日、箪笥から父の二重廻しやよそ行きがひと揃い、なくなっていることがわかった。
「良雄がグレたのは、父さんが甘やかしすぎたからだ」というのが母の口癖で、私を叱るたびに
「お前だけは良雄のようにならないでおくれ」
と、つけ加えるのを忘れなかった。
 私はり十一歳上の兄は、母に似てなかなかのハンサムだった。「男はなまじっか綺麗に生まれると碌(ろく)なものにならない」と母は言い言いした。
 戦争中、大陸に渡った兄は、私が復員する少し前に華北から引き揚げてきていたが、抑留中に軀を損ね、戦後は、現地で一緒になった娘の郷里に近い岡山の国立療養所で寝たきりの四年間をすごした。兄がその療養所で死んだのは私が結婚する一週間前であった。
嫂から来た、「ヨシオシス」の電報をつきつけて、「結婚式はのばすんだろうね」と母が言ったとき、私は黙って首を振った。その二カ月前に療養所を訪れた私は、「俺が死んでも、式を延期するなよ」と兄に言われていた。母は電報を握ったまま喚いた。
「どいつもこいつも、瘤つきの女なんか貰いやがって」
 嫂も兄と結婚する前に、他の男の子供を産んでいた。兄のようになるなと耳にタコができるほど言いきかされて育った私が、兄と同じような結婚をしたのだから、母にとってはこれ以上無念なことはなかったろう。しかし、これはあくまでも偶然であった。兄も私もたまたま子持ちの女を愛して妻に迎えたにすぎない。いつだったか嫂から聞いた話では、結婚後の兄は酒こそよく飲んだが、よその女には見向きもせず、子供たちにもよき父親だったらしい。その点は私とちがっていたようだ。
 今度こそ知子を江ノ島へ案内しようと思いながら、生僧(あいにく)私は仕事が忙しくて休みがとれなかった。妻にかわりを頼んで出勤したが、帰宅すると、
「江ノ島へ行かないで、藤沢へ買い物に行っちゃった」
と、妻が言い、かたわらから章が、
「これ、おねちゃんが買ってくれたよ」
毛糸の手袋を見せた。準も同じ柄の手袋をはめた両手でボクシングの真似をして見せた。
「僕には何も呉れないの?」
私がおどけて言うと、知子は妻をチラッとみてから、平べったいネクタイの箱をそっと差し出した。
知子が秋田へ帰ったあとで妻が言った。
「あの娘、あなたが好きらしいわね」
「お前もそう思うか」
「だけど、あの娘にだけは手を出しちゃいやよ」
「心配するな。そんな気があるなら、はじめから家に連れてこやしないよ。それに秋田と東京じゃ手の出しようがないじゃないか」
「でも、これからもときどき秋田へ行くんでしょ。本当に気をつけてよ。知ちゃんのお父さん、秋田じゃ名の通った人だそうだから」
知子の父親が地元ではかなり知られた書道家であることは、他の同人からも聞かされていた。

 六

 次の年の春、知子は三たび私の家にやってきた。店が二日しか休暇をくれなかったといって、このときは一泊しただけだったが、翌々日の夕方、もうとっくに秋田に帰ったとばかり思っていた知子が私の勤め先に電話をかけてきて、いま東京駅の八重洲口にいると告げた。私は同僚に夜勤をかわって貰って、知子が待っている喫茶店に駆けつけた。
「どうしたの? 何かあったの?」
 知子は小さく首を振り、ややたってから、やっと聞きとれるような声で一言った。
「もう一度、お目にかかりたかったんです」
 私は咄嗟に何も言えなかった。そりゃ光栄だな、と冗談にしてしまうには、知子の目の色はあまりにも真剣であった。黙ってコーヒーを飲み終えてから、
「また、うちにくる?」
「今夜、帰るんだろ?」
知子は答えなかった。
「お店のほうはいいの?」
「どこか旅館をご存知でしょうか」
そのときになって私は、彼女の隣りの椅子にボストンバッグが置かれてあるのに気づいた。少し間を置いてから、
「黙って跟(つ)いてくる?」
私が訊くと、ハッとしたように顔を挙げたが、すぐまた俯向き、そして微かに頷(うなず)いた。
「後悔しない?」
 知子の唇がほんのわずか動いた。聞きとれなかったその言葉を勝手に解釈して、「本当だね」と念を押した。知子がまた頷いた。気のせいか照明燈の加減か、いつも赤い知子の頬が蒼白く見えた。
 三時間後、私たちは綱島温泉の旅館街を歩いていた。ボストンバッグを駅に預け、うなぎ屋で飯を喰ってからもう一軒、喫茶店に寄った。手入らずの知子の軀を早く賞味したいと思う反面、翻意させる時間を与えようという気持ちもあった。「あの娘にだけは手を出さないでね」という妻の言葉が作用していたのも否めない。
 据え膳は遠慮なく食べるのが私の主義だったが、何しろ知子はたった二日前にも妻と一つ蒲団にやすんだ女であった。いまでは私よりも妻と親しくなり、子供たちも、知子が帰り支度をはじめると、「まだ帰っちゃダメ」と、玄関で通せん坊するくらい、なついていた。知子自身、「あんないい奥さんがいるのに、なぜ浮気するんですか」と、再三私へ非難の目を向けてきた。その妻を自ら裏切ろうとする知子の気持ちが、何よりも私には理解しがたかった。不可解というよりも少々、気味が悪かった。
 知子は、夫の浮気に泰然としている妻が歯がゆさを通りこして癪にさわり、体当たりで揺さぶってみたくなったのでもあろうか。妻は妹のように、私は親戚の娘のように、彼女を扱ってきた。一個の男として欲望を唆(そそ)られなかったわけではない。むしろ、幾度か官能を刺戟された。しかし私は極力それを気取られないように振舞ってきた。知子にしてみればそれが不満だったのかも知れない。それとも単に、処女が重荷になったのだろうか。
 私は二軒目の喫茶店で知子に言った。
「秋田では僕のことを一人前の小説家のように扱ってくれるが、東京じゃ誰もはなも引っかけない無名の新人なんだぜ」
 事実、小さな雑誌からはごくたまにコントや短編の註文はあったが、名の通った雑誌からの原稿依頼は一つもなかった。
 知子がまた首を振った。有名も無名も、そんなこと問題じゃないと言っているようであった。しかし、私には信じられなかった。妻子があるのを承知して、いや、その妻子とも親しくなったあとで私と関係を結ぼうとするのは、いずれ私が有名になることを期待し、それに賭けようとする気持ちからではないのか。もしそうなら、いまのうちにその蒙を啓(ひら)いておかなければならなかった。
「断わっておくけど、僕は一生、流行作家にはなれない男だよ。自分の書きたいものしか書かないつもりだから、プロにもなれないかも知れないよ」
 知子は顔を伏せて黙っていた。あとから思うと、私はあれこれ予防線を張っていたのかも知れない。
横浜で東横線に乗りかえ、綱島駅で降りるまで、私はいまにも知子が、「やっぱり、やめます」と言い出すのではあるまいかと、それを怖れながら期待した。言い出されたら、がっかりするに違いないが、妻を裏切らずにすむと思ったからだ。私には、自分から妻を裏切るまいという意志がなかった。軒並み、さかさくらげの看板を出している旅館街に足を踏み入れてからも、まだ間に合うよ、というふうに私は殊更にゆっくり歩いた。
 知子は黙って跟いてきた。八重洲口で会う前から覚悟をきめていたらしく、少しのためらいも見せなかった。私が思いきって肩へ手を廻すと、ハンドバッグを持ちかえて、自分のほうから身を寄せてきた。
――よし、望み通り女にしてやろう。
 私は知子の肩をかかえて、全室離れ式の看板をかかげている一軒に入った。私と関係を結ぶ前に妻と会った女は、知子がはじめてであった。いわば知子は共犯者だった。しかし私には、知子と一緒に妻を裏切っているという意識が稀薄だった。今後、知子は二度と私の家に来なくなる。いや、来られなくなる。私が秋田へ行っても、知子と二人だけで逢う機会はまずないだろう。つまり今夜限り、一回こっきりだと思うと、私は自分でも驚くほど気が楽になった。
 知子を先に風呂へ入れ、襖をあけて奥の四畳半を覗くと、行燈(あんどん)型のスタンドの灯のなかに枕が二つ並んでいた。綱島温泉には、結婚前に妻と二度ばかり来たことがあったし、結婚後、ほかの女とも幾度か利用した。私の知る限り、どこの旅館も似たりよったりの造りだった。
私は風呂から上がるとすぐ蒲団に入った。欲望がふくらみきっていた。柄にもなく知子の心を忖度(そんたく)して余計な時間を費やした反動も加わっていたのだろう。枕を胸にかって、それをなだめるようにわざとゆっくり煙草を吸った。相手は初めてなのだから、焦らず、慎重に、そして丁寧に扱わなければならない。私は知子の爪をたしかめた。
 知子は隣室の座卓の前にきちんと坐って、なかなか寝室に入ってこようとしなかった。こんな場合、立って行って両肩をそっと抱き、やさしく誘(いざな)うべきなのだろうが、ずるい私は、最後の最後まで受け身の姿勢を保とうとした。こうなったのはあくまでも知子の意志で、俺はそれに従ったまでだというポーズを崩すまいと思った。
 私が二本目の煙草を吸い終わっても、知子はまだじっとしていた。無理もないと思いながら、私は次第にじれてきた。まさか土壇場で気が変わったのではあるまいな。ついさっきまで翻意させようと気を遣っていた自分を忘れ、おあずけを喰わされているような気にもなった。たまりかねて声をかけた。
「湯ざめするよ」
 それでも知子は立ってこようとしなかった。この娘は今、自分と格闘しているんだ、好奇心と、妹のように遇してくれた私の妻も裏切る良心の呵責(かしゃく)とが、この娘のなかでせめぎ合っているに違いない。それにピリオドを打ち、最後の決心をさせるのは、やはり男の役目かも知れなかった。
私がもう一度促そうとしたとき、ようやく隣室で立ち上がる気配がした。寝室に入ってきた知子は、蒼ざめた顔つきで蒲団のわきに膝をつき、心持ち頭を下げると足先からおずおずと牀(とこ)に入った。私はスタンドの灯を豆電球に切り替えた。知子が掛け蒲団を鼻まで引き上げ、両眼を閉じた。心なしか睫毛がふるえているように見えた。
 旅館に入る前に肩を抱きよせたものの、まだ接吻はおろか、手一つ握っていない女が、いま、一つ牀に横たわって、私に開花されるのを待っている。もはや言葉は不要のはずであった。にも拘らず私は、「いいんだね?」と念を押した。私自身にたしかめたのかも知れない。知子は黙っていた。羞恥とおののきで、口がきけないに違いなかった。
 スタンドの灯を消し、闇に目が慣れるのを待って私は、知子の軀へ手を伸ばした。全身を強ばらせていると思ったのに、知子の軀は意外に柔らかかった。手を這わせて、さらに意外なものにぶつかった。知子はすでに溢れていた。
「本当に、はじめてなの?」
不意に知子が両手で顔を掩い、
「……ごめんなさい」
その掌から嗚咽を洩らした。
「謝ることなんか、ないよ」
言葉と裏腹に私は落胆した。まんまと一杯喰わされたような気がした。勝手に処女だと思いこんでいた自分の愚かさを棚に上げ、畜生、だましやがって、と肚が立った。
私がスタンドの紐を引っぱると、
「消して、お願い」
掌の下から知子がかすれた声で言った。
――今更、はずかしがることはねえだろ。
出かかった言菓を嚥(の)みこんでまた紐を引っぱったが、同時に私は、思いきりさいなんでやろうという荒々しい気持ちになった。
 じかに触れた瞬間、知子はごく短い叫びを挙げたが、それきり闇のなかでひと言も発せず、全く反応をみせない人形のようなその軀を攻め疲れた私が仰向けになってひと息入れると、その肩に頬を強く押しあてて、
「ごめんなさい」
知子はもう一度、あやまった。


【第2章】


 

 アパートの外側についている非常用階段は、四隅の釘がゆるんでいるらしく、どんなにそっと踏んでも、一足ごとに音を立てた。まるで、人に踏まれるのをいやがっているようなその音に、私はなかなか慣れることができなかった。
 その階段を登りきって、左手のスリ硝子のはまった引き戸をあけると、裸電球のともった薄暗い廊下の左右に扉が三つずつ並んでいた。知子の部屋は、左側のいちばん奥の四畳半であった。
 部屋のなかには整理箪笥と小さな本箱、その本箱と対になった文机、それにもう一つ、やや大きな本箱があったが、これは茶箪笥がわりに使っていた。家具はそれだけだが、蒲団を敷くときは、いちいち卓袱台を片づけなければならなかった。尤も、狭いなりに、いつも小綺麗に片づいていた。
 本箱の上の花瓶には四季の花を絶やさなかったし、箪笥の上の硝子ケースには、各地の郷土人形が背の順にきちんと並べられ、小切れを三角形に縫いあわせて作った座蒲団も、いかにも女の部屋らしい色彩を添えていた。
しかし、肝腎なものが欠けていた。
「ね、鏡台がほしいんだけど、一緒に見に行って下さる?」
 この部屋に越してきた当座、知子は幾度もせがんだが、私が生返事ばかりしていたので、柱に吊るした細長い掛け鏡で我慢していた。いまから思うと、そんなところにも意地ッ張りな知子の性格が現われていた。
姫鏡台ぐらいなら、私にだって買ってやれないこともなかったのだが、知子と連れ立って家具屋であれこれ物色している自分の姿を想像すると、それだけで面倒臭さが先に立ち、俺は別に不自由していたいんだからと、知らん顔をきめこんでいた。
 知らん顔といえば、この部屋にちょくちょく通った五年間、私は遂に一銭も知子に与えなかった。それだけの余裕がなかったのもたしかだが、こうやって寄ってやるだけでも有難く思え、という肚でもあった。だから、はじめて泊まりにきた晩、近所の寿司屋から取りよせたちらしの代金を、細かいのがないと言うのでその場は私が払ったが、次に泊まった晩、知子が忘れずにそれを返してきたとき、私は黙って受け取った。知子は、私に一銭でも使わせれば、自ら日蔭の身を認めることになると思っているようであった。私は私で、
――まあ、せいぜい意地を張ることだ。そのうちに何とか金を出すまいとしている俺のさもしさに、きっと厭気がさすだろう。
 半ばそれをあてにしていた。
 最初が最初だけに、私には、お情けで抱いてやるんだ、という気持ちがずっと尾を曳いていた。
妻よりも十歳若い知子の軀には、妻がとっくに喪った弾力がたしかにあった。痩せて骨ばっている妻とは、胸も腰も比較にならなかった。だが、雪国で育ったにしては、肌理(きめ)はそれほど細かくなかったし、第一、反応がにぶくて、味わいに乏しかった。頬の赤い女は――というたとえが、嘘でないことを知って、それが私の気持ちに水を差したことも否めない。大きな乳房も、慣れればそれだけのものであった。
「いつまでたっても丸太ン棒みたいだな」
わざとうんざりした口調で私が嘆いてみせると、
「ね、教えて、私、何でもするから」
知子は申しわけなさそうに言ってすがりついてきたが、どういうわけか呑みこみが悪くて、同じことを幾度も手を添えて教えなければならなかった。教えることに新鮮な刺戟を感じる時期がすぎると、私は苛立って、
「これ、邪魔だよ」
知子の脚を邪慳に払ったりした。
あの綱島の夜から三カ月ほどたって、会社宛に知子の手紙がきた。「横浜・戸塚の美容院で働いている美容学校の同期生が結婚することになって、できたら後釜に入ってくれないかと言ってきた。よさそうなお店なので、行ってもいいと返事を出し、近々、その店を見に上京することにした」という内容であった。私は慌てて、「今更、郷里をはなれるなんて気を起こさず、早くそちらで自分の店をもつなり、いい人を見つけて結婚してくれ」と、書き送った。だが、折り返し知子は、「そちらへ行っても、けっしてご迷惑をかけるようなことはしない」という手紙を寄こし、それを追っかけるように上野に着く日時を速達で知らせてきた。
腹を立てながら私は上野駅へ迎えに行った。会ったら、「たった一夜のことをとっこにとって、押しつけがましいことをするな。俺はもうかかわりたくないんだ」と、きっぱり言い渡すつもりだった。妻の忠告を無視し、処女を期待して据え膳を喰ったむくいを感じないわけにはいかなかった。しかし、列車から降りてきた知子に、「勝手なことをしてご免なさい」といきなり謝られると、後悔したことなぞケロッと忘れて、結局、この前と同じ旅館に泊まってしまった。
「女のことになると全くブレーキがきかないんだから」
いまでも妻を嘆かせているが、若い頃の私は自分でも呆れるくらい、目先の欲望に弱かった。この前失望したにも拘らず、ついもう一度知子をつまんでみたくなったのだった。
 一度だけなら過ちと言うこともできるが、二度くり返しては、もはや言い訳は成り立たない。
 それから一カ月後、知子が私に、勤めることになった美容院に一緒にきてくれ、と言ったのも、二人の関係が過ちではなく私のほうにもそうなる意志があったと思ったからに違いない。私は渋渋、跟いていった。
戸塚駅からバスで五分ほどの、台地の端にある小さな美容院で、周囲は自動車会社の社宅で占められていた。まだ舗装されていない道を、バスが砂ぼこりをあげて去ったあと、私たちはちょっと言い争った。知子が、店の主人に挨拶してくれ、と言い出したからだ。
「いくら俺が図々しくたって、そいつはできない。第一、俺を何といって紹介するつもりだ」
知子は暫く言い淀んでいたが、目をそらして、
「婚約者と一緒に行くと手紙を出してあるの」
「婚約者?」
「お店のほうでは住み込みを望んでいたけど、それではあなたに会うのが不自由だから、近くに部屋を借りておいてくれと頼んであるの。だから、ちょっとだけ顔を出してくれませんか」
「いやだね。君の婚約者だなんて」
はずかしい、という言葉はさすがに口にできなかった。
「駄目? 本当に、ちょっとだけでいいんですけど」
「ちょっとでも、いやだね。どうして俺がそんなことまでしなきゃならないんだ」
知子が怨めしそうに私を見上げた。どうしてそんなことぐらいしてくれないのか、と言っている目であった。
「君は迷惑かけないと言ったじゃないか」
嘘も方便、私が顔を出すだけで知子の立場が楽になるなら、どんなふうに紹介されてもこだわる必要はなかったのだが、私は早くも何か代償を求められているようで、我慢がならなかった。
「じゃ、ここで待っていて下さい、私一人で行ってきますから」
俯向いて歩き出した知子の背に、少しばかり哀れを催したが、はじめが肝腎だと自分に言いきかせた。
美容院から七、八軒手前の角で待っていると、やがて知子が店主らしい四十前後の小柄な女と表へ出てきた。店主が私に気づいて会釈したので、仕方なく私も会釈を返した。
「これから部屋を見に行きたいんですけど」
戻ってきた知子が私の表情をうかがいながら言った。
「近いの?」
「ええ、バス停から少し戻った右側の家だそうです」
私が先に立って歩き出すと、知子はあわてて追ってきた。
美容院が用意しておいた部屋は、小ぢんまりとしたしもた屋の四畳半で、玄関の三和土(たたき)に秋田から送った知子の荷物が積み重ねてあった。部屋は南側で陽当たりはよさそうだったが、玄関からそこへ行くには、いやでも茶の間の脇の廊下を通らねばならなかった。
一時間後、戸塚駅前の喫茶店で、
「お暇なとき、あの部屋にきていただけますか」
知子がおずおずと言い出したとき、私は即座に拒んだ。
「冗談じゃない。あんな処ヘノコノコ行けるはずがないじゃないか。行きゃあ、いやでもあすこの家の人と顔を合わせなくちゃならない。ご免だね、真ッ平だ。美容院も気がきかないな。どうしてアパートか離れでも借りておかなかったんだろう」
「美容院の奥さんは、婚約者がときどき訪ねてくると、あの家にも言っておいてくれたそうですけど」
「君は襖で仕切ったあの部屋に俺を泊めるつもりかい? 俺が泊まれると思うのか。君は平気なのか」
「それじゃ、どうすればいいんですか。外でしかお逢いできないんですか」
「当分、僕のことなんか忘れて、仕事にはげむんだね。はじめっから部屋にちょくちょく男が通ってきたんじゃ、君だってふしだらな女に見られて損じゃないか。働き辛くなるぜ。とにかく、暫くは逢わないほうがよさそうだ」
 知子の頬に涙が伝わり出したので、私はカップの底に残っていたコーヒーを口ヘ抛りこんだ。
半月ほどのち、知子は同じ喫茶店でもう一度、涙顔を見せた。駅の近くのアパートに空室を見つけたので、その敷金を貸してほしいと言われた私が、怒気のこもった声で拒絶したからであった。
「今度は金か、いい加減にしてくれ」と私は言った。「今の俺にそんな余裕があるもんか。俺がどんな暮らしをしているか、幾度も家にきて君はよく知っているはずだ。女房からも苦しい家計を聞かされているはずだ」
事実、私の給料は夜勤手当を加えても、家族四人を養うのに精一杯であった。ボーナスは月々の赤字埋めであらかた無くなり、妻は結婚以来、着物を作るどころか、持ってきた娘時代のよそ行きをすべて手放していた。
「この際断わっておくけど、俺は女に金を使わない主義なんだ。使いたくてもそれだけの余裕がなかったのも確かだが、たとえあっても金で女を何とかしようという気持ちは全くない男だ。これからも俺には物質面で一切期待しないでくれ」
「ご免なさい。私の貯令ではちょっと足りなかったものですから……」
知子が涙声で謝った。
「無理してアパートに移ることはないだろ。この前も言ったように、俺のことは当分忘れるんだな」
 正直に言えば、当分ではなく、この際知子と手を切りたかった。もう、うとましくなっていた。その日知子は大きな飛び柄の銘仙を着ていたが、そのなりまでが殊更に野暮ったく、田舎臭く感じられた。
「もう逢って下さらないんですか」
すがるような知子の目をはずして、窓硝子越しに往来を眺めながら私は言った。
「君はやっぱり、秋田から出てくるべきじゃなかったんだよ。秋田にいりゃ、マドンナでいられたんだから」
知子が嗚咽を洩らしたので、わざと聞こえるように舌打ちを一つしてから殺した声で私は叱りつけた。
「よせ、みっともない。こんなところで」
丸一カ月たって知子の手紙が会社にきた。父に送金してもらって三日前にアパートに引っ越したこと、毎晩遅くとも八時にはアパートに帰っていることなどが書いてあり、駅からアパートまでの道順を丁寧に記した略図が添えてあった。
 その略図を片手に翌々日の晩、戸塚駅に降りたのが、私と知子の腐れ縁のはじまりだった。

 二

 知子が美容院から給料をいくら貰っているのか、私は一度も聞いたことがなかった。新聞の求人欄を見ると、美容師不足らしく、どこの美容院も優遇しているようであったが、食費の他に部屋代、電気代、ガス代を払い、そのうえ私のためにたえずピースの罐入りやコーヒーの粉を用意しておくのだから、恐らく知子の給料は毎月殆ど残らなかったのではあるまいか。
 ところが知子はいつの間にか、私の浴衣、兵児帯、寝間着、下駄などから、ジレット、髭剃りあとのクリーム、ポマードの類まで買いととのえ、その日から私が部屋に居ついても何一つ不自由するものがないほどであった。多分、貯金をはたいたのだろう。そんな金があるなら、なぜ鏡台を買わないのかと思ったが、それを口にするわけにはいかなかった。鏡台にかこつけて、外を一緒に歩きたがっている知子の気持ちを知っていたからだ。
じっとしていても汗が滲んでくる蒸し暑い夜、
「ね、そこの柏尾川(かしおがわ)堤へ涼みに行ってみない?」
と誘われたり、
「駅の向こう側においしいコーヒーを飲ませるお店を見つけたの」
と遠廻しに言われたりしたが、私は一切応じなかった。泊まった翌日が知子の休みの日でも、出勤時間まで私は部屋から一歩も出なかった。外へ出るのは、ごくたまに銭湯へ行くときだけであった。抱いてやるんだという恩きせがましい気持ちの反面、一銭も与えていないことにやはり私は引け目を感じていた。出入りに非常用階段を使うのも、そのせいだった。
「なぜ玄関からこないの? かえって怪しまれるわ」
と知子はいぶかしがったが、私は苦笑するだけで黙っていた。
 知子の部屋に泊まるのは週に一度、気が向いたときだけであった。それも最初から泊まる気ではなく、終電かその一つ前で帰るつもりで寄るのだが、一旦横になると、また服を着るのがつい面倒臭くなって、そのうちに、翌朝、知子が店へ出かけたあと、出勤時間ぎりぎりまで寝直したりするようにもなった。帰ったって別に褒められるわけでもないしな――泊まるたびにしは自分に呟いた。私の無断外泊に慣れているとはいえ、
「また新しい彼女ができたのね」
 妻がそう言うだけで、それ以上穿(せん)さくしようとしなかったのは、私がどの女とも長つづきしないことを知っていたからだろう。
「知ちゃん、どうしたかしら、あれきり手紙もくれないけど」
 妻が編棒を動かしながら、ふと思い出したように言ったのは、私が戸塚に寄りはじめてそろそろ一年がたつ頃であった。
「もう結婚したんじゃないのか」
わざと音を立てて新聞を畳み直しながら私がとぼけると、
「それなら何か言ってくるわ」
手を休めずに妻は答えたが、少したって顔を挙げ、薄笑いを浮かべて、
「あなた、まさか手を出したんじゃないでしょうね」
私の表情をうかがった。
「冗談言うな。だれがあんな田舎娘」
「ムキになるところを見ると、ちょっとばかり怪しいな」
「どうせ疑われるなら、モノにしちまえばよかった」
「残念だったわね」妻は編目を数えてから、「それはそうと、今度は珍しく長持ちするわね。よっぽど気に入っているのね」
「一体、何の話だ」
「どうして今度だけ隠すの。あなたらしくないわ。ね、怒らないから教えてよ。相手が何者かわからないのが、私、いちばん厭なの」
カマをかけているのか、本当に知らないのか、ちょっと見当がつかないので、
「心配するな。そのうちに飽きるよ」
私は他人ごとみたいな口吻を弄した。
「あすにでも飽きてほしいわ」
妻はもう笑いを消していた。
「ま、そう慌てるな。……お前もいい加減慣れたと思ったが、やっぱり厭か」
「当たり前じゃない。でも、わかっているんだ」
「え、何が」
「珍しく長つづきしているのは、実はおあと交替が見つからないんでしょ」
「そこまでわかっているなら、もう暫く抛っておいてくれ」
「妻と致しましては、そう暢気なことも言っていられないわ。そろそろ一年になるんだもの。それに相手のひとだって可哀想よ。あなたのことだから、また素人の娘さんなんでしょ。あなたのために婚期を遅らせるようなことになったら気の毒よ」
「お前、何を編んでいるんだ。章のセーターか」
「ごまかさないで。それとも、一生、背負いこむ気?」
「もう一時か」私は柱時計を見上げ、「風呂に入るぞ」と言って立ち上がった。
「私のためより」編物を蔵って妻も立ち上がりながら言い足した。「そのひとのために早く別れてあげなさいよ」
その晩、もう少しで妻に打ち明けそうになり、いかん、どんなことがあっても知子のことだけは――と自分に言いきかせたのを覚えている。いかに寛大な妻でも、相手が知子とわかったら絶対に許さないに違いなかった。
それから一週間後の晩、牀から這い出して下着に手を伸ばしながら私は知子に言った。
「うちの奴が、知ちゃん音沙汰なしだけど、どうしているのかしら、と気にしていたぞ」
知子はあわてて起き上がった。顔が強張(こわば)っていた。
「それで、何て答えたの?」
「俺に何も言えるわけがないじゃないか」
私が身支度をととのえるまで、牀の上にきちんと坐って己れの膝を見つめていた知子が、乱れた髪を指先で直しながら、呟くように言った。
「もう、準ちゃんにも、章ちゃんにも、逢えないのね」
「そんなことはない」本棚の隅から腕時計をとって、その竜頭を捲きながら私は言った。
「逢いたかったら、すっとぼけて訪ねてくりゃいい」
私を探るように見上げる知子の目が光を帯びた。
「私、思いきって鎌倉へ行ってみようかしら」
「ただし、もう泊まることはできないぞ」
「どうして?」
「お前、またママと一つ蒲団に寝るつもりか、そんなことができると思っているのか」
唆かしておきながら、知子の気持ちが理解できなかった。
「ね、あなたとこうなっていることを知ったら、ママは絶対に許さない?」
「当たり前なことを聞くな」
「私、ママから聞いたわよ、パパはいつも自分のほうからバラすって。それも、聞きたくない相手の軀のことまで細かく喋るって。私のこともいずれ白状するの?」
「白状して貰いたいのか」
「ダメ、いやよ、それだけは」
「いつまでも俺にくっついていたって、何にもならないぞ。いい結婚相手はいないのか」
「別れたくなったら、私のほうから言い出します」
「断わっておくが、うちの奴はとても若死にしそうもないぞ。いや、たとえ俺より先に死んでも、俺は再婚しないぞ」
お前の父親のように――という言葉は喉元で嚥みこんだ。
「私だってママのかわりがつとまるなんて自惚れていません。あなたがたまに来てくれるだけでいいの」
「金も才能もない中年男の、一体、どこがお気に召したのかね」
「さあ、どこでしょうね」
妻の、「一生背負いこむ気?」という言葉を思い出して、冗談じゃない、と心のなかで首を振ったが、妻を真似ているように泰然とした知子に私は少々、気味悪さを感じないではいられなかった。

 三

 戸塚に寄りはじめて二度目の秋が深まった或る晩、
「ね、お風呂へいらっしゃらない?」
 知子が遠慮がちに訊いた。
「風呂へ? 行かないよ、今夜は帰るつもりなんだ」
「帰ってもいいから」
「おかしなことを言う奴だな。俺に湯ざめをさせるつもりか」
「ね、怒らない?」
「何を?」
「お風呂へ着ていって貰いたいの」
 知子が坐ったまま体の向きをかえ、箪笥の抽斗(ひきだし)へ手をのばした。案の定、抽斗から出してきたのは、しつけ糸のついた紺絣だった。夏のかかりに知子が白絣を見せたとき、私はわざと眉をしかめて、「余計なことをするな」と叱った。
「だって、いつかママが、パパは白絣がいちばん似合うって言ったんですもの」
知子がベソを掻いたような顔をしたが、私は意地になってその白絣に一度も手を通さなかった。
相変わらず一銭も出さず、気が向いたときだけ泊まりにきて、そのうえ着物まで作って貰ったのではヒモ同様じゃないかと、さすがに忸怩(じくじ)たるものがあったからだ。
両手に紺絣を持った知子が、
「ね、ちょっとだけでいいから着てみてくれる?」
そのかげから媚を含んだ目をのぞかせた。二、三カ月前から知子はようやく声を洩らすようになり、私の軀に自分から顔を埋めるようにもなっていた。早く手を切らないと、いまにのっぴきならなくなるぞと思いながら、つい戸塚駅に途中下車してしまうのは、一つにはそのせいであった。
渋々立ち上がった私がワイシャツを脱ぐと、知子は後ろへ廻っていそいそと着せかけ、私が衿をあわせると、すぐ前に戻って足許にペタリと坐り、
「いいわ、とてもよく似合うわ」
見上げてきたその目がもう潤んでいた。
「こんなことをすりゃ、ますます俺をつけ上がらせるだけだぞ」
「あら、まだつけ上がる余地があったの」
濡れた目がかすかに笑っていた。
「もういいんだろ、風呂へ行かなくて」
照れ臭さに私が脱ぎかけると、
「ええ、でも……」
「でも、なんだ?」
「そのかわり、ちゃんと着て、帯も締めてみせて」
知子が長襦袢も出してきた。改めて着直し、兵児帯の結び目をうしろへ廻わすと私はふと気がかわった。
「タオルと石鹸」
裾のしつけ糸をとっていた知子が、「はい」と、はじかれたように立ち上がって、廊下の共同炊事場へ湯道具を取りに行った。
翌日から丸一カ月、私は勤めが終わると真っすぐ帰宅した。あの非常用階段を二度と登るまいと自分に誓った。
私は、私に気兼ねしながら着物を作る知子の気持ちが鬱陶しかった。純粋な愛情からだけとは信じられなかった。
「ママのかわりはできない」と知子は言ったが、心の底ではひそかにそれを望んでいるように思えてならなかった。じっくり時間をかければ、いつかは必ずその日がくると信じているのではあるまいか。もしそう考えているなら、いくら尽くしても尽くし甲斐のない男であることを今のうちにはっきり知らせておかねばならないと思った。
 私は知子が嫌いではなかった。だが、愛しているわけでもなかった。期待に反して非処女だったからではなかった。むしろ、負け惜しみでなく気が楽になって、私にはお誂え向きの女と言えた。
 妻を別にすると、私はそれまで、心底から女に惚れたことがなかった。自分から女を愛したことがなかった。だから次々に情事を重ねることができた。女が好意を寄せてくれれば、大抵の場合、すぐ応じた。応じなければ悪いような気になり、そのかわり、相手が少しでも負担をかけるようなことをすると、さっさと退散した。負担になることはどんなことでも、たとえば逢引きの時間を指定されるのさえ、いやだった。私が逢いたいときに、欲しいときに、喜んで逢ってくれ、欲しいものを与えてくれるのでなければ気に入らなかった。要するに我儘だった。相手がその我儘を許してくれなくなったら、寄りつかなかった。ヘン、女は手前ばかりじゃねえや、と肚のなかで毒づき、許してくれる女の処へ出かけて行った。
 どの女にも私は最初から妻子があることを隠さなかった。隠してまで手に入れたいと思うような女にもぶつからなかった。振り返ってみれば、私に近づいてきた女のほうも、本当に私を愛してはいなかったのだろう。その 証拠に、別れたあとまで纏(まと)いついて、悶着を起こすような女はいなかった。
 知子に対しても私はタカをくくっていた。泰然とした態度に多少薄気味悪さは感じていたが、何か負担をかけるようなことをしたら二度と寄らなきゃいいんだ、と決めていた。敷金のことで懲りたのか、知子はあれっきり、私に負担を感じさせるようなことは何一つしなかった。今度いつ来てくれるか、と言うようなことも口にせず、私の足が間遠になっても怨みがましい顔を見せたかった。長つづきしない私が珍しく二年以上もつづいたのは、そのせいでもあった。それに、ときどき知子を抱くことが、妻との閨房にまたとない刺戟剤になってもいた。
 戸塚に寄って、終電車で帰宅した夜、妻と同衾すると、自分でも呆れるくらい異常な昂奮を私は覚えた。同じ夜に、というよりも、僅か二時間ぐらいしか間を置かずに二人の女を抱く――しかし、私が昂奮したのは、その感覚の違いからではなかった。私の軀から歓びを汲み上げている妻に、ついさっきまでの知子の姿態がダブって同時に二人の女を相手にしているような錯覚をおぼえるからであった。
 尤(もっと)も、知子に限らず、それまでの情事の相手は、妻との閨房にほぼ同じような役割をはたしてくれた。私はよそに女ができると、妻と同衾する回数がふえた。妻が私の外泊をそれほど咎めなかったのは、一つにはそのせいだったのではないだろうか。
 しかし、女のほうは幾度か、夜を重ねると、例外なく不振そうな顔で私にたずねた。
「こんなにたびたび外泊なさって、奥さん、何も仰言らないの?」
「奥さん、知っているの?」
また私はうなずく。
「知っていて、何も言わないの?」
――ああ。
「どうして?」
――さあ、どうしてかね、多分もう諦めているんだろ。
「諦めているって、どういう意味?」
――今更言っても仕方がないと思っているらしい。いいじゃないか、女房のことなんか。君が心配することはないよ。
 夫の情事を知りながら何も言わない妻が、どの女も気味が悪いらしく、大抵の女が妻の音無しの構えに負け、私の我儘を受け切れなくなって、退いて行った。妻に無視されることが彼女たちの矜持(きょうじ)を傷つけたのだろう。だから別れるとき、
「夫婦して私を嗤いものにしたのね」
 目を吊り上げて喚き立てた女もいた。それを被害妄想だとは言えなかった。私自身、妻が情事の共犯者のように思えることがあったからだ。
 しかし、知子は、妻が寛大な性格であることも、私の家庭のことも、承知のうえで私に近づいてきた。今更、妻の音無しの構えに尻尾(しっぽ)をまくはずがなかった。いや、何とかして音無しの構えを破ろうとしているのではないだろうか。妻と根比べする覚悟がついたからこそ、妹のように可愛がってくれた妻を自分から裏切ったのではないだろうか。
 寛容な妻と張り合うには、妻を上廻る寛容さを私に示さなければならない。知子が私の気紛れな訪れをいつも変わらぬ態度で受け入れ、私が望めば、どんな体位も拒まず、そのうえ、とぼしい給料の残りをためて私の着物まで作るのは、そうしなければ妻と張り合い、妻に打ち克つことができないと思っているからに違いなかった。その一途さに私がホロリとさせられたのはたしかだが、同時にそれが心理的な負担になってきたことも否めなかった。
よ うやく反応のでてきた知子の軀をいま手放すのは、ちょっと惜しい気もしたが、これ以上歓びを教えこんだら、こちらが別れたいと思うときに手こずることはあきらかだった。いわば今が別れる潮どきであった。
――それに妻も言っていたように、婚期を遅らせてしまうからな。
 散々その軀を弄んでおきながら、今更婚期を心配するなぞ、いい気で鼻持ちならないことはわかっていたが、と言って、このままずるずると関係をつづければ、いずれは妻にバレてしまう。バレたら、それこそ元も子もなくしてしまうに違いなかった。
 知子は一度も妊娠しなかった。私は経験で、女が妊娠し、中絶したあと、急速に心が男から離れて行くことを知っていた。男が将来を約束しない限り、わが身を痛めたあとも実りのない関係をくり返すばかはいない。むろん、私は、知子が身籠ったら、すぐ病院へ行かせるつもりだった。そしてそれがそのまま別れに繋がるだろうと予測していた。知子のほうも過去にそれを経験していたからだ。
 知子が美容学校時代に同郷の大学生と恋に陥ち、その男の胎児を闘に葬った過去を私に打ち明けたのは、アパートを借りて三カ月ほどたった頃であった。
 中絶経験までしていたとはちょっと予想外だったし、たまたま予防具の買い置きが切れていた晩だったので、私は内心あわてたが、まさかすぐ軀を剥がすわけにもいかず、知子のほうも告白が一種の昂奮剤になったのか、両腕に力をこめて私にしがみついてきた。私は半ばやけになったような気持ちで、放恣に身をまかせた。もし私が知子をいとおしいと思っていたたら、痛い思いをくり返させまいとして、どんなにしがみつかれても最後まで自制したろう。私が自制しなかったのは、
――なんだ、そんなことまで経験している女なのか。それなら遠慮することはねえや。
何人かの女を妊娠させ、中絶させ、結局棄ててきた自分を棚に上げて、知子をさげすんだからに違いなかった。いや、もっと正直に言えば、この女も妊娠し中絶すれば、いやでも俺から離れて行くだろうと、半ばそれを期待したからだ。その証拠に、一カ月後、知子に生理があったことをたしかめると、それからはちょくちょく無精をきめこんだ。
「私、赤ちゃんができない軀になってしまったのかしら」
知子は幾度か溜息まじりに、同じことを呟いた。私もそのたびに釘をさすことを忘れなかった。
「たとえ出来ても絶対ダメだぞ。子供は二人でたくさんだ。だからうちの奴にも不妊手術をさせたんだ」
妻は妊娠し易いたちで、結婚前から数えると五い六回、中絶していた。私も妻も予防具がきらいだったし、自制心がとぼしかった。その結果、堕ろす費用が都合つかず、神戸の長姉に借金を申しこんで、
「どうして予防しないのよ。痛い思いをしたうえ、お金がかかるのがわかっていながら、しょっちゅう同じことをくり返して、お前たちみたいなバカな夫婦、みたことない」
子供のない姉から電話で三十分のうえも意見されたりした。
 妻が不妊手術をしたのは、たしか次男が二歳の誕生日を迎えた直後だった。「これ以上中絶をくり返したら、体が保たなくなる」と医者に言われた結果で、手術後、三人の看護婦にかかえられて病室へ運ばれてきた妻を、幼い次男が今にも泣きそうな顔で見つめていたのを覚えている。
 麻酔から醒めた妻に、ひと言、「ご免」と謝った。結婚後、言葉に出して妻に謝ったのはそのときがはじめてであった。妻は血の気の全くない顔を枕のうえで小さく振った。やがて閉じた瞼のはじから、こめかみへ涙が一条、糸を引いた。滅多に泣かない女なので、余計、心にこたえた。
不妊手術は最初、私が施して貰う予定だった。いわゆるパイプカットをするつもりだった。ところが、どこで聞き噛ってきたのか、
「男がすると、精力が減退するんだって」
妻はそう言って、自分がしてもらうと主張し、半分笑いながら、
「パイプカットを売り物に、これ以上浮気をされたらたまらないもの」
とも言った。
 しかし、私にすればむしろ逆であった。浮気の相手に妊娠されるのはたしかに困るが、さりとて全く安全となれば、スリルがなくなって、その分だけ興味を喪うのではないかと私は考えていた。あとで高いツケを払わされるのはかなわないが、と言って、心配が全くないのもわびしかった。危険だと思いながら、昂ぶりを抑えることができず、ままよと放恣に身をゆだねる瞬間――そこに情事のスリリングな醍醐味があった。少なくとも私の場合は、寛容で情事そのものには焼き餅を焼かない妻を持った私の場合は、そうだった。
妊娠の危惧がなければ、房事そのものをもっと愉しむことができる、と若い頃は考えていたが、やがてそれが間違いであることに気づいた。その場の情熱に負けて、前後を忘れ、分別を失ってこそ、その直後に悔恨を含んだ充足感が待っていることを知ったからだ。尤もこれは私ばかりではなかったようだ。不妊手術後、房事のあとで何かぼんやりしている姿にそのわけをたずねると、
「もう心配しなくていいんだから、前よりもっともっと夢中になれると思ったんだけど、それが逆なの。何だか張り合いがなくなっちゃって、気が抜けたみたいなの」
そんな言葉が返ってきた。
私は丸一カ月、知子のアパートヘ足ぶみしなかった。会わなくなればそれで終わり――それが私の流儀だった。元々、私から望んだ関係ではなかったのだから、別れるにしたって、改めてそれを宣告する必要はないと私は思った。幸い、知子は自分から妻にバラせる立場ではなかった。
もし万一、勤め先に押しかけてきたら、私は面と向かってこう言ってやるつもりだった。
「もう、お前の軀には飽きたんだ」
 それでも帰途の電車が戸塚駅に停まると、耳底から、切れ切れの知子の声がよみがえってきて、ふっと座席から腰を上げたい誘惑を幾度か覚えた。私はそのたびに小さく首を振り、手にした文庫本へ目を向け直した。
 朝、東京駅から茅場町にある新聞社へ向かって歩きながら私は横町やビルのかげに気を配った。私の出勤を知子が待ちうけているかも知れなかった。当時私は整理部に属し、社会面を担当していたので、毎日、出勤時間が違っていた。夕刊を担当する早番は午前十時、中番は午後二時、遅番は夕方五時、そして四日目に一回まわってくる夜勤は夜九時までに出勤すればよいことになっていた。私が特に警戒したのは、知子の休みの日で、早番や中番にあたっている日だった。辛抱強い知子のことだから、私が通りかかるのをビルの蔭なぞでじっと待っているおそれがあった。勤め先のビルが見えるところまで来ると、私は足をとめて、入口付近に知子が立っていないかどうか見定めた。ビルの腰には、刷り上がったばかりの新聞を張り出す掲示板があって、いつも人だかりがしている。そのなかに知子の姿がないのを確かめてから私はまた歩き出した。勤務中も、知子からの電話をおそれて、相手の名を確認してからでなければ受話器を手にしなかった。
 知子は姿も見せなければ、電話もかけてこなかった。毎日、吻としながら、反面、物足りなさを覚えた。
――どうやら諦めたらしいな。
 二カ月目に入って、いくらか気落ちを覚えながらも胸を撫でおろした矢先、
「どうしたの、このところ、せっせと家に帰ってきて。彼女に逃げられたの?」
妻がからかうように言った。すると私は忽ち、何か損をしたような気持ちになった。
「まるで毎日家に帰ってきては、いけないみたいだな」
「ばかねえ、何言ってるの。でも、何だか元気がないみたいよ」
たしかに刺戟がなくなって、妻と同衾する回数が減っていた。その二カ月間に私は新しい小説を書きはじめていたが、やはり知子のことが気がかりなのか、筆が一向に捗(はかど)らなかった。知子が秋田から出てきた後も、私は秋田の同人誌に小説を発表し、さらに二回、直木賞の候補にあげられた。しかし、小さな出版社がその二作を納めた本を出してくれたものの、営業雑誌からは相変わらずお座敷がかからなかった。
「いつまでも地方の同人誌にばかり発表していないで、自信があるものが書けたら、文芸雑誌に持ちこめ。よかったら紹介してやる」
 ある先輩作家が親切に言ってくれたが、どんな雑誌に発表しようが、いいものは必ず認められる、と私は半ば以上意地になっていた。二冊目の本のあとがきに私はこう誌した。
〈私はこれまで、書きたい題材を、書きたい時期に、書きたいだけ、書いてきた。その結果の是非は作者にはわからないが、今後も、この我儘だけは、なんとかか貫き通したいと思っている〉
ついでに誌せば、それからほぼ二十年たった現在に至るまで、小説に関する限り、私はこの態度を守り通してきた。私が相変わらず小説だけでは喰えないのもそのせいである。
――知子は本当に諦めたのだろうか。
妻の言葉が寝た子を起こしたと言ったら、言い訳になるだろうか。しかし、元気がなくなったことは私自身がいちばんよく知っていた。
――ちょっと様子を覗いてくるだけだ。いや、鍵を返しに行くんだ。
自分に言い訳して私は丸二カ月ぶりに、あの非常用階段をそっと登った。
「何かあったの?」
私の顔を見ると知子は目を輝かせ、すぐうしろへ廻って上衣を脱がせにかかったが、その手を途中でとめると、怯々(おずおず)とした口調で訊いた。私は煙草を咥えたまま、小さく首を振った。
「急に寒くなったから、風邪でも引いたんじゃないかと思って……」
私はまだ黙っていた。
「ママや坊やたちも元気?」
 知子は私の足許に跼(しゃが)み、私の右足を膝に載せた。家での私は、出かけるときも、帰宅したときも、妻に着替えを手伝って貰ったことがなかった。小さい頃から、自分のことは自分でするように躾られていたし、私自身、着替えを手伝って貰うのが好きではなかった。靴も自分で磨いたし、服にブラシをかけるのも、妻の手を煩わせたことがなかった。家に遊びにきていた頃、出がけに靴墨を塗っている私に気づいて知子が手を出そうとしたことがあった。「いいんだ、慣れているんだから」私が言うと、知子は不思議そうな顔をした。
「着物を作ったこと、怒っていらっしゃるんですか」
 靴下を脱がせにかかりながら、呟くように知子が訊いた。私はそれにも答えず、知子の膝から足をおろそうとした。知子がハッとしたように顔を挙げた。私は目を逸らした。その拍子に煙草の灰が落ちた。知子が再び靴下をぬがせにかかった。今度は、されるままになった。ぬがせ終えると、もう一方の足先を膝に載せようとした。そうさせまいとして私は両足を踏ん張った。もう一度知子が見上げ、私が首を振ると、同時に私の両脚にしがみつき、太腿に頬を押しあてて泣きはじめた。ふるえる髪と肩に、灰が散っていた。