ライナノーツ 印刷

  1970年代の後半から、80年代の前半にかけて、音楽誌にレコード紹介記事をよく書き、そのかたわらでレコードのライナを書いたりしていました。そのうちの1つを、ここに保存しておきます。

 

 

《TAX'81》のライナ

   

 このグループ「TAX'81」は、キングレコードより1981年3月21日に、デビューした。ディレクターは重松正俊氏で、宣伝担当は杉田恒祥氏だった。デビューシングルは『哀愁夜曲(センチメンタル・セレナーデ)』。1930年代の上海を意識した、歌謡曲調のポップス。ボーカルの高瀬京子さんの声は、哀愁を帯びていて、サウンドにぴったりはまった。リーダーの武谷光くんは、いまどうしているだろうか?

 「TAX'81」は、コンセプトとして「ネオ歌謡曲」というテーマを打ち出し、シングルと同時に、アルバム『TAX’81』もリリースした。そのアルバムのライナを、私が取材して書いた。

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TAX'81についての考察

 国家や地方公共団体が、その経費にあてるために、国民から法的強制力によって徴収する金銭が、TAXであるのはいうまでもない。したかって、TAXが他の金銭と最も異なる点は、これによって、特定の人間が、特別の利益を得られない点にある。

 以上、講談社版『現代世界百科大辞典』によれば、万人にすぐ理解できる定義であるが、TAX'81については、今のところ、これといった定義はない。

 ひとつだけはっきりいえることを記せば、TAX'81には、なんら法的強制力がない点であろう。

 したがって、TAX'81は、それを得た特定の人間には特別の利益がもたらされるものである。

 

TAX'81についてのさらなる考察

T AXは、実際には、さまざまな種類があり、その分類方法も多様であるが、一般的には、次の3種類の分類法がよく知られている。

1、直接税と間接税

2、収得税と財産税

3、消費税と流通税

 しかし、TAX'81は、このどの分類にもあてはまらない。

 

TAX'81について最後の考察

 TAXを収めないことを“滞納”というが、TAX'81は、今までそれをしたことがない。

 

TAX’81のリーダー武谷光のコメント

 TAXをタップリ払えるくらい、稼ぎたいですよ。ホントに!

 

 

ネオ歌謡曲とは?

 昨年の商業音楽界をふりかえってみよう。どんなジャンルのどんな歌手たちが活躍したか?

 まず、トータルのレコード・セールスでは、なんといってもYMOだ。続いて、松山千春であり、アリス、オフコース、もんた&ブラザーズ、クリスタルキングなどである。言葉をかえれば、テクノであり、フォークであり、ロックである。

 

歌謡曲は、どこへ行ったのか?

 また、新人ではどうだろう? たのきんブームに象徴される田原俊彦、近藤真彦、そして松田聖子、岩崎良美、河合奈保子、三原順子……。これらも、すべて、歌謡曲とはいいきれない。ポップスと広い意味でいった方が適してはいまいか?

 さらに、これらに属さない人たちは、というと、都はるみ、小林幸子、五木ひろし、八代亜紀らはどうだろう。広い意味では歌謡曲といえるが、やはり演歌といった方が端的であろう。

 

歌謡曲は、どこへ行ったのか?

 はっきりいってしまおう。歌謡曲は、なくなってしまったのだ。

 もし、あるとするならば、それは、ジャンルとしてではない。ニューミュージックが既成のプロダクションと違う土壌から出たように、ジャンルとしてではなく、成立基盤としてあるにすぎないだろう。

 

 ようするに、既成のプロダクションに属している歌手は、歌謡曲歌手と呼ばれるぐらいのことなのである。シンガーソングライターでない人々、ニューミュージック系のプロダクションに属さない人々を呼ぶだけの言葉にすぎなくなってしまったのである。

 わかりやすくいえば、高田みづえは歌謡曲歌手だろうが、「私はピアノ」は、知っての通りニューミュージックなのだ。

 歌謡曲はないのである。

 

 さて、それだから“ネオ歌謡曲”である。

「ボクらのバンドは、そのなくなってしまった歌謡曲を、いうならば、今の自分たちの感性でとらえなおすことをやっているわけです。歌謡曲をなくなさせたのは、フォークでありロックであり、テクノやポッブスであったわけですから、それらを十分に身につけた上でもう一度、歌謡曲を見直すとどうなるかというのが、ボクらの出発点です」

 と、リーダーの武谷。

 

 これは、実に納得のいく考え方で、現在の音楽状況を、ものの見事に逆手にとっている。

「必要なものは、従来の歌謡曲がもっていたエンターテイメントの部分です。

 リズムでいえば、単純なズンチャチャ。詞でいえば、むらさきの夜とか、そよ吹く風とかでしょう。

はっきりいって、きく側に快感を与える要素、その要素だけが必要なんです」

 なるほど“哀愁夜曲”は、そんな要素だけで成りたっている。しかも十分、エンターテイメントを意識している。

「必要とあらば、ボクらは“パクリ”ます。それも、まるで照れずにね。だから、オイシイところだけを食べてもらえるわけです。きく側には、“完壁に冗談をやっているなァ”とわかってもらえればいいんです」

 

 この冗談をわかるきき手は、おそらく相当の音楽慣れをしていなければいけないだろうが、そうでなかったとしても、TAX'81の音楽が十分に新鮮であるのはわかるだろう。

 こうして、“ネオ歌謡曲”なのである。

 それは、従来の歌謡曲が、時代の感性の慮化を通したという点で“ネオ”なのである。そして、こうして生れたものは、もはや歌謡曲とはいいがたい。

 

そ の意味で、TAX'81は、歌謡曲バンドという呼び方では呼べないバンドでもある。

「ボクらのやっていることには、ロックならロックのツッパリ、フォークならフォークのツッパリというような所は、まったくないハズです。

 日本人なら否定できないメロディーと詞を、素朴に表現しているにすぎませんよ」

 とも、武谷はいう。

 ともあれ、歌謡曲がなくなった現在の状況の中で、成立の面ではニューミュージックの要素をもったTAX'81が、時代の寵児となる可能性はきわめて強い。

 

TAX’81ストーリー

「3年ほど前からバンドはやっていましたよ。一応、メジャーをめざしでいたわけで、いわゆるバンド組んでクラブなんかをまわれば、生活費は稼げる。そんなふうでした。

 でも、はっきりいって不満だったわけです。ジャズもクラシックも、理論的にはパーフェクトに学んだつもりです。

 森岡先生も応援してくれたので、そろそろ自分で何かを、そう思っていたわけです。

 本当は、自分では作曲、アレンジでやっていくつもりだったんですが、ひょんな偶然のつみ重ねでTAX'81というバンドになったんです」

 その偶然というのは、こうだ。あるとき、武谷がふらりとビヤガーデンに入ると、ステージでは歌謡バンドが演歌をやっている。つまらなそうなバンドだなと思いつつ見ていると、ひとり変わったふうな奴がベースを弾いている。

 実は、これが現在のメンバー、ベースの峰尾勝己だった。

「なんせ、演歌のあいまにチョッパーベースやってカッコつけてるんだから、変な奴だと思ったな」と、武谷。

 ところが、それからしばらくして、音楽仲間の所に武谷が遊びに行くと、なんと、峰尾がいるのだ。「オマエ、あのとき……」ということで、話をしてみると、話がイヤに合う。

 肩の凝らないバンドをつくりたいということでも、意見の一致をみたというから、音楽仲間の結びつきというものは、縁さえあればアッという間だ。

 

 また、しばらくして、今度はドラムの三富和彦が、武谷のところにやって来る。

 主富は、それまでリバーサイド(アルファレコード所属)でドラムを担当していたが、どうもリーダーと意見が合わない。バンドの方向にも不満で、前から慕っていた武谷に相談をもちかけたという次第。

「それなら、オレとやろう」と、ここまで来ると、話はトントン拍子だったという。

 考えてみれば、こうして有能(?)なミュージッシャンが集まるのも、武谷が音楽理論をキッチリ学び、そのころはもう独自の理論をシッカリ身につけていたからといえるだろう。

 

 その理論というのは、

「ロックもフォークも、ジャズも、それこそどんなジャンルの音楽も、真剣にやればかなりシンどい。それは、テクニック的ではなく、あちらのコピーに限りなく近づくという意味で。自分たちでわざわざバンドを組んで、そこまでシンどいことをやるのが、果して商業音楽の中で意味があることだろうか?」

 という疑問が出発点で、

「それなら、テクニックは最低線でもいいから、こだわらずに自由なことをやろう。

 自由なことというのは、フォークならフォーク、ロックならロックひとすじってことではない。なぜなら、どんなに真剣にそうしても、必らず歌謡曲のメロディーが出てくるからだ。

 日本人なら否定しきれないこの現実を、ツッパらずに素直に受けとめてみよう」

 ということだった。

 

 TAX'81の音楽は、ひと言で“ネオ歌謡曲”と呼ばれるが、その核は、このころすでにできあがっていたわけだ。

 さて、こうして3人になったTAX'81は、“ネオ歌謡曲”実現のために、リードボーカルを探がしはじめることになる。

「55年の春ごろです。もう『哀愁夜曲』の原型もできあがっていて、これを歌うボーカルがどうしても必要だったんです。

はじめは、かなりキツく男だと考えていて、仲間のツテをたよって見つけたのが井出(井出正=キーボード担当)。

しかし、今いちマイナーな歌い方で、納得がいかなかった」

 と、武谷。

 

 偶然は偶然を呼ぶというか、ここで、2つめの偶然が起こる。

「京子ちゃんは、井出と峰尾の両方が知っていたけど、キャリアはゼロに等しかった。しかし、遊びにきていた勢おいで、ちょっと歌ってみない? なんて調子でやってもらったら、みんなブッ飛んだ。実にうまい。天才少女だと一発で思って、キマリというわけです」

 かくして、高瀬京子の加入ということになる。

「あたし、高校のころから歌が好きだったけど、まさかプロになるなんて思わなかった。

 でも、歌うのは好き。学園祭で友達に誘われて歌ったぐらいだけど、まァうまくノセられたとこかなァ」

 

 この後、メンバーはデモテープ作りに必死になる。峰尾が詞を書き、武谷がメロディーをつけるというパターンで、“ネオ歌謡曲”は次々と誕生していった。

 武谷に作曲を教えていた森岡賢一郎氏も、このころの武谷のパワーには舌を舞いた。

「もしかしたら本当の天才ではないか」と思ったほど、見事に聴く側のツボにはめてくる曲作りをするからだった。

 物理学者・武谷三男氏の息子を直接に音楽の世界に引き入れたのは、他ならぬ森岡氏なのだ。

「彼の母親から、あるとき『息子は音楽狂で、音楽をやりたいと口走っている。ひとつ、先生、実力を見きわめてくれませんか?』とたのまれたわけです。

 武谷さんといえば有名な物理学者。その息子さんの人生を変えるかもしれないんですから、真剣にみましたよ」

 と、森岡氏。

 

 当時、武谷は上智大学の数学科の学生だったが、ジャズに狂い、佐藤充彦のジャズ理論に共感していた。

「やらせてみると、これはすぐモノになると思いました。『オマエ、数学なんてやめて、音楽をやれ』と、本気でいったわけです」

 さて、話は前後したが、森岡氏も、高瀬京子の声には、すっかりホレこんでしまったという。

「ボクらは自然な形で、歌謡曲のメロディーととりくみ、あらゆる味付けをしました。したがって、1曲1曲をきけば、どこかできいたことがあるメロディーが必ず出てきますが、気分としては、こういう“パクリ”も、マジめに冗談をやっているという感じです」

 と武谷がいうように、“ネオ歌謡曲”は、完成に近づいていく。

 

 6人めのTAX'81は、このころやって来た。

 ギターの米光亮だ。

「ボクの友達の東大生の弟なんです。兄貴よりギターはうまいという評判なんで、引っぱり込んだわけ。

 来た当初、ボクらのサウンドになじめず、カッコいいことを口走りましたが、もう観念したようですね」

 と、武谷光。

 TAX’81は、こうして55年の秋も深まって、グループとしての完成をみたのだった。