■『視力6.0が見た日本』 印刷

(オスマン・サンコン、光文社、1992年9月)

 

 

 本書は、外国人タレントのオスマン・サンコンが『女性自身』誌上で連載したエッセイ“タナモリィ”(サンコンの出身部族であるスースー族の言葉で「おはようございます」の意味)を単行本化したもの。

 以前から知り合いだった彼と、たまたま、お互いの子供のこと(当時同い年で7才だった)を話していたら、「最近、勇くん(息子)の視力が落ちたのよ」と、彼が言う。なぜかと聞くと、「ゲームボーイのやり過ぎらしいのね」と言うので、「それはうちの娘も同じだよ」と答えたことを思い出す。

 で、ではどのくらい落ちたのかと聞くと、なんと「1.5」。「それのどこが落ちたことになる?」と、私はもちろん聞き返した。すると、彼は、「ギニア人の子供で視力が悪い子はいないのよ。みんな6.0はあるよ」と、まじめな顔で言ったのだ。

 これが、連載エッセイの出発点だった。

 ギニアの子供たちは、みな、草原のはるか彼方の動物の動きを見分けられるという。だから視力は2.0は言うに及ばず、「絶対に5.0は超えている。このボクもそうだよ」と、サンコンは、続けたのだった。

 これまで、外国人から見た日本論は数多く書かれたが、そのほとんどは欧米の文明圏から見た日本人論だった。だから、サンコンのようなアフリカ人が、視力抜群の子供の視点で日本を見たらどうなるだろう。そう思って、連載をスタートさせた。

 1年半ほど連載したが、サンコンの話を書き起こし、それをまとめる作業は、新しい発見ばかりで、じつに楽しかった。

 以下、この本から、「目次」「第1章」「あとがき」を掲載する

 

 

【目次】

 

第1章:フシギの国ニッポン

 

●日本に来て初めてキリンを見た

●日本へ行くなら刀を買え!

●日本女性は世界でいちばん強い

●見て見ぬふりが得意な国

●世界1のヨッパライ天国

●長男・勇の誕生で思ったこと

●お葬式で「おめでとうございます」

●本当の夢は医者になることだった

●米(こめ)に対する特別感情の不思議

 

 

第2章:文明への疑問 

●野口英世を知らない日本人

●大学制度を変えないと国が滅びる

●ソ連の汚れた手と握手した祖国

●花嫁は処女でなければならない

●感情表現が下手だから誤解される

●ボクの視力は6.0。ところが……

●豊かさからほど遠い日本の夏休み

●肉体は死んでも魂は残る

 

 

第3章:曲がった野菜

●ソ連の崩壊で思い出す暗黒時代

●ブランド品を持っても豊かになれない

●曲がった野菜こそ本物の野莱

●ボクは恐妻家、離婚なんてとても

●奥さんが財布のヒモを握る国

●きょうだい32人、母は偉大だった

●砂糖に群がる蟻、外国人労働者たち

●アフリカ統一の希望の星は南アから

 

 

第4章:世界とズレた時間

●クリスマスはパーティの季節

●日本の子供のお年玉で1年間暮らせる

●昔話「腹ペコ三兄弟」の教訓

●水商売をすると早く年をとる!?

●日本文化は敗者を作らない

●同じ黒人でも差別する日本人

●日本の田舎に本当の生活があった

●車社会の日本では信じられない話

●日本の時間は世界とズレている

●まるでナチスのような日本の教育制度

 

 

第5章:拝金主義者の国

●ミニチュアの自然しか愛さない日本人

●子供のときお金の大切さを学んだ

●自然から得たものを独り占めするな

●女性に「ヤセたね」はホメ言葉なの?

●制服を着て街へ出ると女性にモテない

●「男は黙って……」なんて間違いだ

●アフリカにもたくさんいる占い師

●義理がすたればこの世は闇だ

●アフリカにも日本と似た相撲がある

●ロスの黒人暴動を見て考えたこと

 

 

第6章:この国の未来に

●日本の本当の国際貢献はエイズの克服

●科学文明でわからないアフリカの神秘

●母の愛に涙、野口英世の故郷再訪

●心がこもっていない日本人の贈り物

●イエスかノーかの自己主張をもっと!

●ダイアナ妃の悲劇と日本の皇室

●サンキュー・ミスターロボット

●スポーツは貧しき人々の出世術

●NOと言える若い女性が時代を作る

●若き女性たちよ、もっと自分を知ろう

 

 

■巻末付録①サンコン教授のニッポン人講座

■巻末付録②わが祖国、ギニア共和国

■あとがき

 

 

 

1章:フシギの国ニッポン

 

◇日本に来て初めてキリンを見た

 

 タナモリィ。ボクの国の言葉スースー語で“おはようございます”が、タナモリィ。ギニアでは人と人が出会えば、必ずこう挨拶をする。

挨拶をボクはとても大事なことと思っているのね。それは、人間同士がすることのすべてが、まず挨拶から始まるから。世界じゅうどこでも、人と人との出会いは挨拶から。ギニアでも日本でも、それはまったく変わらないと思うの。ところが、最近の日本人、特に若い人はあまり挨拶をしない。挨拶をしても、それはごく形式的。

 ボクが「おはようございます」と大きな声で言っても、返ってくるのはボクより小さい声か、それとも会釈だけ。これ、ボクは非常に残念に思うの。特にひどいのが若い女性。ボクが知らない人でも、ボクと目と目が合えば会釈をする。気分がいいときは、会釈だけでなく、「おはよう」とか「こんにちは」と言う。ところが「えっ、やだあ、サンコンじゃない。ウッソーオ」なんて返事が返ってくると、ボクは困ってしまう。

 挨拶は見知らぬ人ともする。電車で乗り合わせたり、散歩ですれ違ったりしたら、世界の人たちはみんなそうしている。ギニアでもボクが行った西側の国々でも、みんなそうでした。ところが、礼儀正しいといわれている日本人が、いちばん挨拶がヘタ。ボクには、それがとても残念なんですよ。いまの日本で元気よく挨拶をするのは、売れっ子のタレントかバリバリのジャパニーズ・ビジネスマンぐらいね。

 ボクは、現在、都内のあるマンションに事務所を持っていますが、ここでも、日本人の挨拶ベタにはびっくり。たとえば、同じマンションに住んでいる人とエレベーターで乗り合わせると、ボクは必ず「こんにちは。いいお天気ですね」と言う。しかし、日本人は「ええ」と笑うだけ。

 ひどい人になると、ボクの姿を見つけると横を向いて、気がつかないフリをするの。そして、同じエレベーターに乗ってこない。ボクは嫌われているのかなあ、と思ってしまう。その点、外国人の人たちは、よく挨拶をする。国籍は違っても、「グッモーニン」と言えば必ず「グッモーニン」と返ってくる。これ、とても気持ちがいいよ。

 ボクは、いろいろな人と友達になりたい。そうして、世界がいつも平和であってほしいと願っているの。でも、日本人と友達になるのは、本当にむずかしいと思うよ。

 ボクが初めて日本に来たのは、22才のとき。いまから20年も前のことでした。外交官だったから、途中ほかの国に赴任して間があいたけど、日本人の奥さんをもらい(これはギニア人としては初めてのこと)、いまではすっかり日本人と同じだと思っています。しかし、それでも日本人はよくわからない。不思議なことばかりね。

 で、そんなわけで、ここでは、アフリカから来たボクが見た日本の姿を書くわけ。見たまま、感じたまま。ためらわずに言うのがボクの性分。

 だから、どうなるか。テレビだけでボクのことを知っている人は、「サンコン、何を言うか」「サンコン、生意気じゃない」と思うでしょう。

 でも、ボクは最近、講演をよくするようになり、日本の人たちがじつによくボクの話を聞いてくれるのを知ったの。日本人は自分自身をもっと知りたいんだ、と思うのね。ボクのこと、「お笑いタレント」と思っている人が多いけど、そればかりじゃないの。もともとはタモリさんの“変なガイジン”に出たから、そう思われてもしかたない。でも、よく考えて。世の中に“変なガイジン”なんていませんよ。日本人から見るから変なだけ。これでもボクは、国へ帰れば大臣になって、ギニアのために尽くしたいと思っているの。これ本当よ。で、いまは日本の人たちに、もっとアフリカのことを知ってもらいたくて日本にいるわけ。

 「サンコンて、いいわね。小さいときからまわりに動物がいっぱいいて。キリンやシマウマと遊んだんでしょ」なんて言われると、正直、カッとなる。こういう人に、「バカ言わないで。ボク、日本に来て初めてキリンやシマウマを見たんですよ」と言うと、たいてい目を丸くする。ギニアはたしかにアフリカの国ですが、ボクが生まれたボファの町には、キリンやシマウマはいなかった。ボクは上野動物園で、生まれて初めてキリンを見たんです。これ、本当よ。そして、やっぱり首が長いんだと思った。もう十数年も前のことだよ。(91年5月7日)

 

【サンコンの出身国・ギニア】

 アフリカの西部にあり、人口は約670万人、面積約25万平方キロ(北海道の約3倍)の共和国。1958年フランス領から独立。公用語はフランス語。主要輸出品はボーキサイト。平均気温は27度で、1年を通じてあまり変化がない。12月から5月が乾季で、7、8月には大量の雨が降る。主要部族のひとつはスースー族で、サンコンもこの出身。

 

 

 

◇日本へ行くなら刀を買へ!

 

 ボクが初めて日本へ来たのは、1972年の暮れ。そう12月19日でした。フランスのソルボンヌ大学を出て国に帰り、まず労働省に入ったの。そうしたら、外務省に行けというので行ったら、今度は日本に大使館をつくるから行けと。だから、日本についてぜんぜん知らなかった。

 ギニアはフランス領だったからみんなヨーロッパに憧れるの。ボクも小学校からフランス語で教育を受けたから、最初、フランスヘ行った。海外へは、ギニアの首都・コナクリの国立コナクリ大学で、成績10番以内でないと行かせてくれない。ボクは、必死に勉強して10番以内になった。あのころは、ホント、勉強した。だって、ギニアはまだ独立したばかり。とても貧しかった。みんな国づくりに一生懸命だったんです。

 フランスで勉強して帰国。外務省で働いたときも、ボクは一生懸命、バリバリ仕事をした。

 大臣の秘書官はいっぱいいた。そのなかから順番に1週間ずつチーフになるんだけど、みんなけっこうミスが多いのね。でも、ボクはほとんどミスがない。これ、本当よ。大臣はボクの書類はさっさと通すけど、ほかの人にはどなっていた。それで、ボクは認められ、日本へ行けとなったんです。それに、大使も、たまたまボクの兄の同級生だったのね。でも、たったふたり。ふたりとも、日本をぜんぜん知らないんだよ。

「日本人はみんなサムライ。チョンマゲを結って刀を差している」

って、本当に思ってた。それで、最初ローマに行って、骨董屋さんに行って刀を買ったほうがいい、と言う人がいたの。これジョークでないよ。でも、結局買わなかったけどね。

 ボクのポケットには、150ドルしか入ってなかった。お金は全部、大使が持っていた。羽田空港に着いて、なにこれ、ウソーッと思ったね。だって、みんなスーツにネクタイをしていた。

 なあんだヨーロッパと同じ、と思った。で、車に乗ってホテルに行った。そして、テレビをつけたんです。そのころのギニアにはテレビなんてないよ。そうしたら、チョンマゲのサムライが映った。そうか、やっぱり日本人ってチョンマゲをしているんだと思ったら、あとになって、「あれは時代劇。昔の日本のドラマだよ」

 って教えられたの。テレビでやっていたのは『水戸黄門』だったのね。

 ホテルに着いてからは、フランス大使館と日本の外務省に行くだけで、一歩も外に出なかった。だって日本語はダメだし、なんにも知らなかったから。日本は寒かった。ただ、空がきれいなのにはビックリしたね。

 大使館をつくるためには、まずギニアの大統領から天皇陛下への親書を渡さなければいけないの。それで、そのコンタクトをとるだけでクリスマスが終わった。天皇陛下の「会いましょう」のOKが出て、それが1月に決まった。そうしたら、もうお正月。

 ボクはホッとして大使とふたりで外に出ました。

 すると、街はガラガラ。すごい静かでだれもいないの。しばらく歩くと、振り袖姿の女の人に会った。うわあっと思った。お姫さまみたいだと、大使と喜んで見とれていた。男はみんなサムライと思っていたから、着物姿の女の人を見たら大感激ですよ。それからもっと歩くと、みんな着物。ああ、やっぱり、日本の女の人はみんな着物なんだと思ったの。

 でも、これ違った。お正月だけなのね。

 日本の女の人について、正直、ボクは憧れていた。ジャン・ポール・ベルモンドの映画『さようなら』を見て、日本の芸者さんを知ってすごいと思っていたから。

 ダンナさんに着物を着せる。三つ指ついて挨拶。お茶を出す。日本の女性は世界ナンバーワン。結婚したら、一生死ぬまで幸せだと思ったよ。

 ともかく、ボクと大使は大忙し。その後もずっとホテル暮らしで、日本の女の人と知り合う機会なんてない。なにしろ、本国と時差があるから、夜中までテレックスで連絡。ごはんも食べられないぐらい忙しかった。帝国ホテルに半年いて、やっと大使館の場所が見つかった。大使館ができてパーティを開けるようになり、日本の女の人と知り合えたのは1年以上たってから。でも、日本の女の人、ボクのイメージとぜんぜん違っていたね。(91年5月14)

 

【ギニアのお正月はこんな!】

 イスラム教徒が7割というギニアでは、大晦日の夜、羊を食べてパーティをやる。羊はイスラムでは祭りの主食で、人々は徹夜で大さわぎ。12時に新年を告げるサイレンが鳴ると、人々は街に出て見知らぬ同士でもキスを。子供たちは親戚の家を回って、お小遣いをもらう。日本のお年玉と同じ。ただ晴れ着というようなものはない。

 

 

 

◇日本女性は世界でいちばん強い

 

 ぼくのこと、女好きと思っている人、多いね。「サンコン、女の人、大好きでしょう」と、よく聞かれるので、「うん、大好きなんです」と、ニッコリ笑って答えると、聞いた人、やっぱりという顔をする。

 最初はわからなかったけど、あとで何か変だなあって気がついた。

 それは、日本語の「女の人、大好き」という意味、ボクが思っていたのとぜんぜん違うから。「女の人、大好き」は「女好き」。単なるスケベのことだったのね。それまで、ボクは「女好き」は言葉どおりの意味と思っていた。だから、ビックリしたね。そうか、みんなボクがスケベかどうか知りたかったんだと思ったの。で、ちょっと腹が立ったよ。

 日本人は、黒人がみんな女好きと思っている。そういうイメージで見るの。それに、ボクはお笑い番組によく出ている。だから、聞くのね。

 たけしさんなんか、「女好きじゃない黒人なんてシャレにもなんねえや」って言うんですよ。たしかに、サンコン、ある部分とってもスケベ。でも、女の人を絶対にバカにしない。キチンと尊敬しているし、とっても憧れている。これ、本当ですよ。

 19年前、初めて日本に来たお正月、日本の女性の着物姿を見て、ウットリ。うわあ、お姫さまばかりだと思った。カラフルな柄、白いショール、ぞうり、日本髪……、すごいと思ったの。

 ところが、お正月が過ぎたらみんな洋服。これ、どうして? 特にあのころジーパンがはやっていたから、ジーパンの女の人、すごく多かった。正直、ボクはがっかりしたよ。これじゃ、ボクが暮らしていたパリと同じと思ったの。

 サンコンの国・ギニアは、アフリカの西海岸、大西洋側に位置している。で、ボクが習った世界地図は、大西洋がど真ん中にあるんですよ。そうして、アフリカの上にヨーロッパ。日本はというと、ズウーッと右に行って、地図の端。本当に端っこにあるんです。

 だから、ボクにとって日本はまったくの別世界。それなのに、日本の女性は、みんなヨーロッパの人と同じかっこう。しかもパリのフツーの女の人だったら持っていないルイ・ヴィトンをみんな持っていた。うわあっ、これ何って本当に思ったね。

 日本の女の人と初めて知り合ったのは、大使館ができてから。中央アフリカの大使館の人で日本人の奥さんをもらった人がいて、その人に紹介してもらったの。ボクより年上の人で、ボクはそのとき、日本語はまるでダメ。ふたりきりになったとき、手でしゃべった。1時間かかってその人のお父さんが何をしているのか、やっとわかったね。

 それで、サンコン、思いきって日本語学校へ通ったの。

 この人と知り合って、正直、ボクは日本の女の人のイメージがガラッと変わった。おしとやかで、男の人のあとをついてくる。そんな日本女性、お話の世界だけ。着物を着ないワケもわかった。「着物ってとっても不便です。それにひとりじゃ着れません」と、その人、言ったの。

 ウッソーと思ったけど、それ本当だった。でも、やっぱり、日本の女の人はもっと着物を着てほしい。女の人が美しいものを着るのは自分のためじゃなく、まわりのため。サンコン、そう思うね。

 それから、日本の女性、とても強いと思った。世界ナンバーワンじゃないかと思う。最初は人見知りしたけど、食事に行くと、必ず自分の食べたいものを言う。ギニアでは、こんなことないよ。女性は必ず男の人に合わせる。ボクの母は、父にお茶や食事を出すときは必ず、下から上に差し出した。上から差し出したこと、ボク、見たことがないの。

 それから、映画とテレビのチャンネル。ボクが見たい番組、ふたりだとぜんぜん見られなかった。

あるとき大使館でパーティがあったので、ボク、彼女に「着物を着てきてください」と頼んだの。そうしたら、イブニングドレスで来た。理由を聞くと、「サンコン、この服、着物よりずっと高いのよ」。

 ボク、それを聞いて、違うと思ったね。日本の女の人、本当に強い。こんなこと言うと、喜美子(ボクの奥さん)、怒るけど、本当にそう思う。それから、どうしてそんなに欧米のマネばかりするのかって、とても不思議。サンコン、いまでも本当にそう思っているの。(91年5月21日)

 

【一般社会では女がトク!】

“若い女性の男女観”(90年束京ビューティセンター調べ)によると、女性の22.2%が「一般社会では女がトク」と考えており、「男がトク」と考えている12.7%を大きく上まわっている。「どちらとも言えない」(65.1%)が大半とはいえ、現代の日本は“女が強い時代”ということを、この数字が物語っているといえる。

 

 

 

◇見て見ぬふりが得意な国

 

 この前、新幹線の中でとてもイヤな気分になったの。新大阪から乗ったら、すごく混んでいた。どこも満席。そんなとき、途中の駅で、赤ちゃんを抱いた若い奥さんが乗ってきたの。あっ、かわいそうだって見ていたら、みんな無視するの。あれ、どうして? ボク、いつも思うよ。どうして日本の人たち、席を譲ってあげないのって?

 小田急線に乗ったときも、同じことがあった。ボクが座っていた隣りの車両に、おばあさんが乗ってきたの。杖をついて腰が曲がったおばあさん。でも、みんな無視するの。急に新聞で目を隠すサラリーマン。急に目をつぶって眠ってしまうOL。あれ、ひどいよ。

 みんな、おばあさんのことかわいそうと思っているのに、だれかほかの人が席を譲るだろう、そう思っているのね。でも、結局、だれもやらないんです。ボク、心配して席を立ったよ。

 隣りの車両まで行き、「おばあさん、こっちへ来て座ってください」って言ったら、おばあさん、とても喜んだの。

 ギニアでは絶対にこんなことないよ。困っている人はみんなで助ける。ギニアに限らず、これは世界じゅうの常識。お年寄りや赤ちゃんを連れた奥さんやハンディキャップの人には席を譲るの。だって、その人たちが、生きるのにいちばん苦労していると思うんですよ。

 日本人はとても不思議。たぶんみんな親切にしたり、助けたいと思っているのに、まわりの目ばかり気にするのね。恥ずかしいとか思って、やらないんです。わかっていてやらないのは、わからなくてやらないのよりよくないよ。サンコン、そう思う。

 そういえば、このあいだの湾岸戦争。あのときの日本人の態度、電車の中とソックリ。みんなどうすればいいかわかっているのになんにもしないの。きっとだれかがやってくれると思っているだけ。

 結局、アメリカがやったけど、もし、だれもやらなかったら世界はどうなったんですか?

 たとえば、電車の中でよく見るのが、ヨッパライ。グデングデンに酔って、若い女のコにからんでいるけど、まわりの人、だれも助けないの。みんな見て見ぬふり。これ、席を譲らないときと一緒よね。

 あの戦争のとき、困っていた人はクウェートで、ヨッパライがイラク。助けたのがアメリカを中心にした同盟軍。もちろん、国際政治もからんだ複雑な戦争だけど、シンプルに考えると、こうなるの。

 サンコンも外交官。だから、もっと違う考え方があるの、わかります。でも、根本はシンプル。人間と人間の関係も、国と国の関係も、基本は一緒ですよ。そう思うと、あのときの日本の態度、とっても残念。

「サンコン、日本には平和憲法という素晴らしい憲法があるの。だから、戦争に関しては何もできないんですよ」と言った人がいた。でも、それ違うね。ボクは、なにも日本が軍隊を送る必要はないと思った。

 日本も困っている人の味方。がんばってくださいよ。そう強くアピールすればよかったんです。それが、見て見ぬふり。外国から見るとそうしか見えなかった。こういうのっていくらお金を出してもダメなの。

 ギニアもあのときは、国連決議に賛成。貧乏でお金は出せなかったけど、ほんの少しだけ軍隊を送ったんです。

「サンコンの国はイスラム国家でしょ。なら、サダム・フセインが言うジハード(聖戦)を理解できますね」

と言う人もいたけど、とんでもないよ。そんな話、次元が違う。

 あのころ、サンコンがテレビ局へ行くと、みんな「ハイテク兵器ってすごい」とか「まるで映画のトップガンみたい」とか、よく言ってた。正直、がっかり。日本人は同じ電車に乗っていないのかって思ったの。

 戦争が終わって、アメリカの新聞にクウェート政府の感謝広告が載った。助けてくれてありがとうって、たくさんの国の名前が書いてあったけど、日本の名前はなかったんです。

 あの砂漠でともに戦った人が、次の世界を作ると、サンコン、思うの。もし、シュワルツコフさんがアメリカの次の大統領になったら、日本はどうするんですか? たぶん、彼は言いますよ。

「日本? そういえば電車の中で座っていただけだったね」(91年5月28日)

 

クウェート1カ月で解放】

 91年1月17日、バグダッドヘの同盟軍の空爆によって湾岸戦争は始まった。90年8月、突如クウェートを侵略したイラク軍は、たび重なる国連の撤退決議も拒否。イラクのフセイン大統領は、クウェートは自領と主張し続けた。このためアメリカを中心とする同盟軍は武力行吏にふみきり、わずか1カ月でクウェート解放に成功した。

 

 

 

◇世界一のヨッパライ天国

 

 ボクね、カラオケ大好き。『浪花節だよ人生は』が十八番(おはこ)。

 それから、『花と竜』。このふたつは目をつぶってもOKね。ホントですよ。で、サンコンがこれを歌うと、大ウケ。みんな、めちゃくちゃ拍手してくれるの。拍手もらうのって、とってもいい気持ち。だから、つい悪ノリして、「もう1曲」ってなるんですが、それをやるとエンドレス。夜がいくつあっても足りないよ。

 しかし、どうして、日本人、みんな、カラオケ好きなの? こんなひと晩じゅう歌を歌っている国民、世界でも珍しい。しかも、みんなお酒をジャンジャン飲んで酔っぱらって……。これじゃ、毎日がお祭り。サンコン、ときどき、こんなんでいいんですかって、言いたくなるの。特にお酒については、日本人はちょっとひどいよ。こんなに酔っぱらいが多い国、サンコン、見たことがない。日本の盛り場って、もう、そこらじゅう酔っぱらい。銀座も六本木も新宿も、みんなそう。それから、夜の電車の中。日本は、ヨッパライ天国ですよ、ホント!

 人間、酔っぱらうと人が変わります。ふだんの態度とぜんぜん違う態度になる。カラオケでマイクを放さなかったり、ふだんはシャイなのに急にオシャベリになったり。まあ、酔っぱらってもいいんですけど、サンコンが困るのは、急に態度が変わることね。

 日本人、本当はとってもおとなしいでしょ。ところが、酔っぱらうと、こっちはぜんぜん知らないのに、大声で話しかけてくる。

「ハロー、ハロー、ハワ・ユー、サンコン」

 なんて、臭い息で言われると、「ちょっと待って」と、ボク思うの。逃げるわけいかないし、かといって友達でもないし。これ、ボクだけじゃないのね。ボクのまわりの外人、みんなこういう経験もっているんです。お酒が入らないと友達になれないのって、悲しいと思うの。じつは日本人はみんな外人と友達になろうと思っている。でも、その方法を知らない。言葉も苦手。だから酔っぱらったときだけ、外人に話しかける。サンコンには、そう見えるの。

 それから、このごろは女の人の酔っぱらいも多いね。昼間はすばらしい奥さんなのに、夜になってカラオケのお店とかでお酒飲むと、まるっきり違う人になる。大騒ぎしてる。これ、信じられない。

 日本の男の人、忙しすぎる。で、奥さん、ダンナさんが帰ってくるのを夜遅くまで起きて待っている。次の朝も早く起きてごはん作って会社に行くのを見送って、ダンナさんが出かけたら子供の世話をして、また、夜になると、帰ってくるのを遅くまで待っている。これのくり返しじゃ奥さんも大変。だから、お酒がはいると変わってしまうのね。

 もうひとつ。サンコンが信じられないのが、立ちション。日本に来て初めて見たときは、ウソーッって思った。人が近くを通っても平気でシャーシャー。世界じゅうどこでも、あんな光景を見たのは、日本だけ。

「アフリカはジャングルとかサバンナがあるから、みんな外で用を足している」と思っている日本人、多い。でも、街の中ではしませんよ。

 特に、イスラムの教えを守っているボクの国では、絶対、神さまが許さない。日本人は、人の目がないと平気なのね。こそっとやる。

 たぶん、神さまがいないんです。キリスト教でもイスラム教でも一神教の世界では、神さまが絶対なの。だれも見ていなくても、神さまだけは見ている。だから、悪いことはできないんです。ところが、そう思っていたら、時代劇で、「お天道さまがお見通しだい」というセリフがあってビックリ。お天道さまって何かと思ったら、太陽なのね。なあんだ、だから夜になると、みんな悪くなるんだと思ったよ。

 日本人が酔っぱらうの、夜だからいいのね。でも、外国では、人の前で酔っぱらうのは恥。これ、本当。アメリカでもヨーロッパでも、酔っぱらっていいのは家庭だけ。外で酔っぱらって、ハシゴ酒なんて人、めったにいませんよ。さて、最後に、自分のことですが、サンコン、本当はお酒を飲んじゃいけないの。なぜかって、ボクはイスラム教徒だから。でも、フランスヘ留学して初めてお酒を飲み、それからだんだん好きになって、いまでは、お酒大好き。もちろん、家では、ボクも酔っぱらうんですよ。(91年6月4日)

 

【イスラム教は禁酒!】

 イスラム教の聖典『コーラン』によると、「酒と賭事は悪魔の業であるから心して避けよ。そうすれば幸運、成功が訪れる」と書かれ、さらに「悪魔は酒と賭事によって信徒間に敵意や憎悪をあおりたて、神を忘れさせ礼拝を怠るようしむける」ともある。そのためパキスタン航空などでは、機内のアルコール類サービスはない。

 

 

 

◇長男・勇(いさむ)の誕生で思ったこと

 

 ボク、いままででいちばん嬉しかったの、長男の勇君が生まれたことね。7年前だった。喜美子(ボクの妻)、35才で初めてのお産。赤ちゃんできたってわかったとき、ボクはギニアにいた。でも、ギニアの病院、あまり設備がよくないの。で、お母さんのそばでお産したほうが安心だから、喜美子だけ先に日本に帰したの。喜美子が帰って少ししてから日本に電話したら、予定日4月18日って言ってたのね。それでボク、4月15日にギニアから飛行機に乗ったの。

 日本まで2日かかる。サンコン、最初の子供だからウキウキして、早く会いたいなあって、飛行機の中でも、ぜんぜん落ち着かなかった。

 成田に着いたら、迎えに来てくれてた大使館の人が「サンコン、幸せ者ね、きのう男の子が生まれたよ。おめでとう!」と言うので、ボク、顔色が変わった。それから、胸がいっぱいになったの。

 成田から病院までの道、すごく込んでいてイライラ。それで、ボク、車の中でも走った。これ、ホントよ。病院着いて、車を降りたら、喜美子が玄関に立ってるから、またビックリ。赤ちゃん産んですぐにベッドから起きられるなんて、日本の病院はすごいと思ったの。でも、これ、喜美子が丈夫だったからね。うん、安産でした。

 お産したら、ギニアでは奥さんのホッペにキスして、それから何かプレゼントをあげる。でも、サンコン、何も持ってなかった。もう、急いで帰ってきたから……。1秒でも早く会いたかったから忘れちゃったのね。

 新生児室のガラス越しに、初めて勇君を見た。まるで、天使みたい。サンコン、男の子欲しかったから、すっごく嬉しかったよ。

 男の子が大事にされるのは、ギニアも日本も同じ。跡取り息子って日本語、ホントそのとおりのことなのね。ギニアの人も、家に最初に男の子が生まれることがいちばん幸せだと思ってるの。どうしてかというと、ギニア、昔、ほとんどの家が畑仕事してた。だから、その畑や家を守っていく人が必要なんです。女の子は、お嫁さんになって、家から出ていく。だから、家を守るために、まず男の子が必要って考えるの。

 サンコン、子供の名前“シェック”というボクの父親と同じ名前をつけようって思ってた。ギニアの場合、その家に初めて生まれてきた子供、男の子なら祖父の名前を、女の子なら祖母の名前をつけるのね。サンコンのお父さん、ボクが13才のときに死んだ。だから、生まれた子供、お父さんの生まれ変わりみたいな気がしたの。でも、喜美子、「“イサム”に決めました。子供の顔見たら、自然に“イサム”っていう名前が頭に浮かんだから」と言うの。“太郎”とか、ほかの名前を考えてたんだけど、顔を見たとたん“イサム”って思ったって言うの。

 サンコン、それでもやっぱり父親の名前つけたかった。それで、どうして“イサム”じゃなきゃダメなのって、聞いたの。そうしたら、「国際結婚をして生まれた子供だし、この子には、将来、いろんな大変なことが待ち受けてると思うの。日本の家庭で育つほかの子供たちとは違うから、“勇気”をもって生きていかなければならないでしょ。だから勇ましい、勇気のある子になってほしいから、“勇”とつけたい。この子が大きくなったら、こういう意味で“勇”とつけたのよって教えますから」って言うの。ギニア人と日本人が結婚したのは、ボクたちが第1号。“勇”の言葉の意味を聞いて、サンコンも納得したよ。で、“勇”君に決めたの。それで、そうだ、“シェック”を間に入れればいい。“イサム・シェック・サンコン”にすればいいと思ったの。でも、日本で「出生届」出して子供の名前を申請すると、日本のお役所、ミドルネームは受け付けないのね。サンコン、あとでそれわかったの。

 だからボクの勇君、“イサム・サンコン”という名前になったんです。言葉の意味から子供の名前をつけるのは、世界どこでも同じね。

 さて、人間って赤ちゃんのときはみな同じ。肌の色の違いぐらいで、みな同じで生まれてくる。だから、成長して何人(なにじん)になるかは、親が決めるのね。いま、勇君、日本の学校へ行っている。日本語ペラペラ。でも、サンコン、これからは、スースー語とフランス語を教えたいの。そうしないと、日本人のまま。サンコン、勇君には両方の国がわかる大人になってほしいと、思っているんですよ。(91年6月11日)

 

【ギニアでの“子供誕生”】

 ギニアのお母さんは働き者。妊娠しても休むこともなく、出産予定日間近でも畑仕事を続ける。

 それぞれの家の庭には、子供たちひとりひとりの木がある。子供が生まれたとき、父親が記念の木を植え、その子がもの心ついたとき「この木はおまえの木だから一生大切にしなさい」と教えられるという。

 

 

 

◇お葬式で「おめでとうざいます」

 

 ボクね、日本に来たとき、ぜんぜん日本語わからなかった。これ、当たり前ね。ギニアでは、日本語についての本なんて1冊もなかったんだから。

 で、最初に知ったのが、“ありがとう”と“さようなら”。外人なら、みんなそうだけど、このあとが続かないの。それで、ボク、日本語学校へ行くことにした。外交官だからその国の言葉、できるだけ早く覚えなければ、仕事にならない。ボク、ホント、必死だった。

 でも、学校だけじゃ、わからないことあるのね。いくら意味を覚えても、それじゃダメなの。

 今回は、そんなボクの失敗談を話しましょう。

 ハッキリいって、サンコン、いまでも思い出すと赤面するの。

 あるとき、お葬式に出なければならなくなったの。それで、何を言ったらいいかわからない。で、なんでもいいから、とにかく日本語言わなくちゃと思って、「おめでとうございます」って、言ったんです。

 これ、ホントよ。きっとまわりにいる人ビックリしたと思うけど、そのとき、サンコン、「おめでとう」は特別なときに言う言葉としか思っていなかったの。「おめでとう」のあとは、お焼香。

 サンコン、人の後ろにいたからよく見えなかったけど、ギニア、そういうのないから、エッ! あれなんだろう? って思ったの。

 どうぞって言われて、ボク、そのお焼香持ってね、思わず口の中に入れちゃったの。食べちゃったんです。

 だって、みんなつまんで口のところに持っていく。だから、てっきり食べてんだろうと思ったの。それで、3回食べちゃったんですよ、1コン、2コン、3コン。これも、ホントよ。

 イヤー、まいった。食べたらすっごくまずかったね。

 それで、お焼香終わった人、遺族の人たちに、「ごちそうさまでした」って言ってるでしょ。なんでこんなまずいものなのに、ごちそうさまって言うのかなあーって、ヘンだなって思ったの。でも、順番だから、サンコンもそう言ったの。ところが、その言葉「ご愁傷さまでした」だったのね。あとでわかったとき、ボク、顔の色なくなったね。

 その次の失敗もひどかった。サンコン、あるとき、日本語学校の先生から、「お世話になりました」という日本語を教えてもらったの。

「今日はサンコンに日本のいい言葉を教えます。それを日本人に話せば、絶対、日本語上手いって言われますよ」って、先生言ったの。

 教えてもらって、その言葉、ボク小さい紙にきれいに書いて、忘れないようにって、大事にしまっておいた。ちょうどそんなとき、大使館の近くにとってもすてきなオヤジさん、いたんです。お金持ちで、外人好きなオヤジさんで、ある日、自宅で、そのオヤジさん、外人15人ぐらい集めて、食事をごちそうしてくれたのね。

 それで、パーティが終わったとき「サンキュー」とか「メルシー、ボクー」って、みんな言ってたんだけど、サンコン、さっそくその言葉、使おうかと思ったの。でも、そのまんまだと、ありがとうっていう気持ち、違うんじゃないかって思って、自分で考えて、こう言ったんです。

「オヤジさん、大きなお世話になりました」

 ボクにしてみれば、本当に楽しくて、嬉しかったし、「大きい」を前につければ、オヤジさんがもっと喜んでくれるんじゃないかって思ったの。もう、思いっきり大きな声で、「大きなお世話になりました!」。

 だから、そのオヤジさん、思わず吹き出しちゃったんです。

 ホント、日本語ってむずかしいよ。知らない国で生活して、失敗する。これ、サンコン、いままでに何度あったかわからない。でもね、失敗するから、わからなかったこと、わかったりできるようになるんです。

 自分にプラスになるんです。失敗してもいいの。失敗しないとわからないこと、いっぱいある。そう、サンコン、思うんです。

 でも、日本の人、語学、特に外国語に関しては、失敗が大嫌い。なぜ、あんなにプレッシャーを感じるのかなって思う。失敗を恐れて話さなければ、だれともコミュニケートできない。そっちのほうが大いにマイナスだと思うんです。(91年6月18日)

 

【ギニアには3つの言葉が】

 ギニアは多民族国家。主流は、スースー族(サンコンはこの出身)、フラ族、マリンケ族の3部族だ。

 それぞれ言語が違い、たとえば、おはようのスースー語“タナモリィ”は、フラ語で“ワーリギヤンム”、マリンケ語で“イショマ”という。ありがとうは“イノワリィ”(スースー語)、“ギャラーモ”(フラ語)、“イニケ”(マリンケ語)という。

 

 

 

◇本当の夢は医者になることだった

 

 ボク、仕事でたくさんの日本の子供たちと会います。

 で、この前、子供たちに、「大きくなったら何になりたい?」ってインタビューしたんです。そうしたら、いちばん多かったのが、男の子がパイロット。女の子が保母さんと看護婦さん。サンコン、それを聞いて、やっぱり子供たちは世界どこでも同じだなって、思った。

 ボクが小さいころ、まず最初に憧れたのが、パイロット。

 ある日、砂遊びしていると、空を音をたてて飛んでいくヘンなものがあったの。サンコン、まだ、2才ぐらいだったから、びっくりした。それで、お母さんに、「ボク、大きくなったら、あの中に入れるの?」って聞いたの。そうしたら、お母さん、「オスマン、あれは飛行機よ。人間が乗って空を飛べるのよ」って、教えてくれたんです。

 ボクが憧れたように、日本の男の子もパイロツトに憧れる。これ、自然のことなのね。

 サンコンが次に憧れたのが新聞記者。ボクが9才のとき、ギニアはフランス領から独立。このとき、盛大な記念祭があったの。本当にたくさんの人が来た。そのなかで、新聞記者の人、ギニアの初代大統領セク・トゥーレさんにインタビューしていた。マイクを持って、カメラマンを従えて、「うあっ、かっこいいなあ」って思ったんです。

 その次は、お医者さん。サンコン、いまでも右足を引きずらないと歩けない、身体障害者なんですが、こうなってしまったのは、お医者さんのせい。お医者さんといっても、その人が悪いんじゃなくて、当時のギニアの医療が貧困だったからなの。

 サンコンがいちばん好きだったのが、サッカー。5才のとき、兄さんの友達が教えてくれた。ボクたちは、オレンジに紐をぐるぐる巻きにしてボールを作り、それを蹴って遊んだ。当時のギニア、サッカーボール、なかったの。あっても、中学校、高校にそれぞれひとつずつ。だから、貴重品。でも、一生懸命練習したよ。で、高校のとき、サンコンのチーム、県(生まれ故郷のボファ県)の決勝戦に出た。

 サンコン、その試合で、右足、大ケガをしたんです。タックルされて、転んだとき、足首から先がぜんぶ内側へ直角に曲がっていた。自分の足なんだけど、一瞬、何がなんだかわからなくなったの。

 それで、病院へ行って、ギプスして、2ヵ月間ベッドに寝ていた。ギプスがとれる日をボクは、ずっと待った。でも、ギプスがとれても、サンコンの足、動かなかったんです。ホント、大声で泣いた。もう、これからなんにもできないんだ。ボクの足、返してって……。目の前、真っ暗になったよ。ずーっとあとで、この足、曲がったまま、ギプスされちゃったんだ、ってわかったの。お医者さんが治療方法を間違えたんです。けれど、もう手術しても無理だった。

 だから、サンコン、自分で、自分の足、治したいと思った。それで、お医者さんになろうと思ったんです。サンコンのお母さん、そのとき一生懸命、看病してくれた。曲がった足だけど、なんとか歩けるようになるよう、リハビリを手伝ってくれた。でも、ボク、先生の悪口、イヤなこといっぱい、お母さんに言ったのね。いま思うと、母はボクと一緒に先生を責めたかったと思う。けれど、お母さん、一度も悪口を言わなかった。「オスマン、だれも恨んじゃいけませんよ」そう言うだけなの。

 ギニアは、貧しかった。医学も進んでいなかった。ボクは、このとき、人を恨んじゃいけないということを、初めて学んだんです。

 勉強して、首都コナクリヘ行き大学を出た。お医者さんになる夢はあきらめ、政府で働くことにした。いい政府を作れば、いいお医者さんも作れる。そう、思ったんです。ボクのお姉さん、いま、ギニアで病院の婦長さんやってる。サンコンのうちから、看護婦さんが出たこと、ボク、とってもいいことと思ってるの。

 日本の小さい女の子の夢、保母さんや看護婦さん。これ、ホントすばらしいことです。日本の医学はすごく進んでる。そのなかで、人のために働けるのって、すばらしいことね。だから、最近のニュースを見てて、日本の看護婦さんの給料や待遇が悪い。それで、なる人が少ないって聞くと、サンコンとっても悲しくなるんですよ。(91年6月25日)

 

【ギニアの医療設備は貧しい】

 ギニアには大きな病院がドンカー病院、イン・ヤス・ディンヌ病院の2つしかなく、医師もそれぞれ16~17人で、看護婦学校を卒業しても、働く病院のない看護婦が多いという。そのため、軽い病気は、ほとんど民間薬で治すが、ベッド数も少ないから、大病を患うとベッドの空きを待つ人々があとを絶たないという。

 

 

 

◇米(コメ)に対する特別感情の不思議

 

 いまの日本人、すごいグルメ。ホント、サンコン、びっくりしている。東京には世界じゅうのレストランがある。世界のどこの国の料理でも、東京で食べられる。ホント、こんな国ないよ。

 グルメといえば、フランスが本家。サンコンもパリにいたことがあったけど、グルメは日本のほうがすごいと思う。フランス人は、日本人みたいに、世界じゅうの料理を食べない。やっぱり、フランス料理が世界一と思っているから、日本人みたいに、きのうは和食、今日は中華、明日はイタ飯……なんてこと、しないんです。

 で、このボク、アフリカ人はというと、日本人と同じなの。それこそ、なんでも食べちゃうんです。ところが、たいていの日本人、ボクが、「毎日、ご飯、食べているんですよ」と言うと、びっくりするの。

「へえ、サンコンさんは日本に長いから、食べ物もすっかり日本式になったんですね」なんて言うの。

 でも、それ違う。もともと、ボクは小さいころから、ずっとお米を食べていたんです。

 なぜかっていうと、ギニア、主食がお米なの。お米を炊いて、それに特製のスープをかけて食べるのが、ギニアのフツーの食事なんです。

 日本のハヤシライス、あれによく似ている。ハヤシライスよりずっと辛いけど、これ、とってもおいしいの。このハヤシライス、いろんなバリエーションがあるんです。つまり、タレが何種類もある。ボクのお母さん、これがとってもうまかったのね。だから、サンコン、お米大好きなの。で、そう説明すると、日本人、今度はとても不思議な顔になるのね。

 日本人は、なぜかすごくお米を愛している。お米を食べる、それが日本人のアイデンティティみたいに思っているの。だから、サンコンみたいなアフリカ人が、毎日お米を食べているとわかると、プライドが傷つくんです。

 でも、考えてみて。お米は、世界じゅうどこでもフツーにあるんですよ。日本人だけの専売特許じゃないんです。サンコンはいろんな国で、お米を食べている民族に会った。特に、ボクの出身地、西アフリカでは、ほとんどの国がお米が主食。

 いま日本、アメリカとお米の自由化について交渉している。サンコンから見ると、どうして日本があんなに反対するのかわからない。

 日本人、すごいグルメ、そしてお金持ち。それなら、日本のお米ばかりじゃつまらない。世界のいろんなお米を食べて、もっと楽しんだらいいんじゃないですか。そう、サンコン、思うのね。

 ハッキリいって、ギニアのお米もおいしいよ。日本のササニシキやコシヒカリと種類は違う。長くて、ちょっと黄色くて、パサパサしているけど、料理の仕方で、ホントおいしくなるの。

 それから、サンコンの国でも、お米はとっても大切なものなの。神聖視されるの。たとえば、赤ちゃんが生まれて7日目、家族が集まって、赤ちゃんにお米のとぎ汁を飲ませるんです。日本でも、お七夜といって、赤ちゃんにお食い初めをしますね。これ、ギニアも同じなの。スクスク、元気で育ってねと、お米のとぎ汁を飲ませるんです。

 さらに、ほかのお祝いごとのときも、お米を使う。日本にお赤飯やおはぎがあるように、ギニアにもライスボール(おにぎりと違ってお米のお団子のようなもの)があるの。また、お葬式のときも、お米は大切。

 お葬式には、イスラムのお坊さんを呼ぶ。このとき、お礼としてあげるのがお米なのね。お金持ちの家では、羊(イスラム教では最も神聖な動物とされる)を1匹あげるんですが、フツーの家ではお米をあげる。だから、ギニアでも、お米は国の文化と深い関係があるんです。

 サンコンが日本に来たとき、初めて入ったレストランで食べたのが、チャーハン。日本語ゼンゼンわからなかったから、大使とふたりで指さして注文した。これなら、きっとおいしいだろうと思ったら、ホントにおいしかった。故郷のお米の味に近かったんです。

 で、サンコン、最後に言いたいの。お米を日本人とても大切に思うけど、それ日本ばかりじゃないんですよってね。(91年7月2日)

 

【ギニアの家庭料理】

 ギニアの主食は、米。ただし、日本米とは違う長粒米。米以外ではフォニオ(粟に似る)、トウモロコシの粉がポピュラー。これらをふかし、特性ソースをかけて食べるのが一般の食事。ソースの味付けとバラエティが主婦の腕の見せどころとなる。野菜や魚が豊富で、ソースにこれらを入れて、特性スパイス(ピリピリ)で味をつける。

 

 

 

 

あとがき

 

 現在、ボクの祖国ギニアも含めてアフリカの多くの国々は、貧困と飢餓のなかにあります。特に独立当時、旧ソ連や東欧諸国の支援のもとに社会主義国家の建設をめざした国々の惨状は、とても言葉では言い表わせません。スーダン、ソマリア、ベニン、アンゴラ、モザンビーク……。これらの国々では毎日、何千、何万という人々が、飢えで死んでいるといいます。日本に来て20年、ボクはことあるごとに、この豊かな経済大国で、アフリカの惨状を訴えてきました。

 しかし、ボクのこうした気持ちを心から理解してくれた日本人は、数えるほどしかいませんでした。ハッキリいって、日本人はみなとても頭がよく、親切で友好的です。ボクはいまも日本と日本人が大好きですが、まだどこかで日本と日本人に不信感をもっています。現在の日本は、世界でも稀に見る大成功した国で、アフリカ人のボクから見たら信じられないほど文明の進んだ国です。たぶん、だからでしょうが、日本人は人間のナマの気持ちを表現することを嫌うのです。ボクの話をマジメに聞いてくれた人も、ただうなずくばかりで、こちらが本当の友達になろうとすると、とたんにボクから遠ざかっていきました。

 モノが豊かになればなるほど心は貧しくなるといいます。いまの日本人は、まさにこれではないかと、ボクは何度も思ったものです。

 じつをいうと、ボクは、日本に来る前、ボクらアフリカの黒人は、東洋人とは本当の友人になれると信じていました。その理由は、歴史をふり返ってみると、東洋とアフリカ諸国の間にはなんの国際的トラブルもなかったからです。ご承知のように、ボクの祖国ギニアのある西アフリカは、17世紀以降、ヨーロッパ諸国によって奴隷狩りが行なわれました。20世紀以前の世界において、ボクらアフリカの黒人は人類ではなかったのです。しかし、日本にはヨーロッパ諸国のように、ほかの人種を奴隷とした歴史はありません。これは、現在世界の三極のひとつである日本が、ヨーロッパ、アメリカと決定的に違うところです。

 また、20世紀になってからは、アフリカはヨーロッパ諸国の帝国主義によってほとんどの国が植民地と化しました。しかし、このときも、遅れてきた帝国主義国の日本は、アジアには触手をのばしましたが、とてもアフリカにまではやってこれませんでした。したがって、アフリカ人たちは、日本に対して感情の面では何のわだかまりももっていないのです。

 アフリカ諸国に独立ブームが起こったのは、1950年代に入ってからでした。次々と宗主国から離反して初めて国をつくったボクらは、ヨーロッパやアメリカの白人たちの援助を受けずに生きる道を選択しました。その結果、旧ソ連や東欧に近づくという歴史的間違いをおかしましたが、日本はまた別の意味で、アフリカの希望の星だったのです。

 そんなわけですから、ボクが日本人とは本当の友達になれる、日本人はアフリカの黒人を白人と違った意味で人間として扱ってくれる、と信じたのも無理がなかったと思います。

 日本に来て20年あまり、ボクのこの考えは果たして間違っていたでしょうか?

 その答えは、この本の中にあります。この本は、いわば、ボクが日本で過ごした20年間の総まとめといえるものだからです。

 この本をまとめるキッカケは、ひょんな偶然にありました。以前から知り合いだった『女性自身」編集部の山田順さんに、息子の勇の視力が急激に落ちたことを話したら、なんと彼の娘さんも同じだというのです。勇と山田さんの娘さんとは同い年の7才(当時)で、ふたりしてその原因を考えると、偶然にも同じ結論に達したのです。ギニアでは、子供の視力が急に低下することなどありえません。メガネをかけた子供などまったくいません。それは、子供たちが自然の中で暮らし、毎日、外で遊んで、いつも遠いところを見ているからです。それにひきかえ、日本の都会の子供たちは、ほとんど外で遊びません。学校と塾とおけいこごとに追われ、さらにテレビ漬けの毎日で、空を見上げることさえしない有様です。これでは、視力が低下して当たり前。文明が進みすぎて、人間本来の能力がどんどん失われているのです。

 山田さんはボクのこうした話に興味をもち、やがてその結果としてボクは『女性自身』誌上にレギュラーのエッセイを連載することになりました。題して“タナモリィ”(ボクの出身部族であるスースー族の言葉で「おはようございます」の意味)、サブタイトルは“アフリカ人から見たニッポン人”と決まりました。「これまで数多くの日本人論が書かれたが、そのほとんどは欧米の文明圏から見た日本人論だった。だから、この連載では、そういう欧米からの視点ではない日本人論を展開したい」というのが、横田可也編集長と『女性自身』編集部の願いでした。連載中、ボクも精いっぱい日本と日本人について勉強したつもりです。そして、『女性自身』編集部の横田可也編集長を含め、さまざまなスタッフのお世話になりました。特に、ボクの願いで、はるばるギニアまで取材に来てくれた飯島真理子記者、毎回毎回一生懸命ボクの写真を撮ってくれた水野竜也カメラマンには、感謝の気持ちでいっぱいです。また、この連載の企画段階でボクを支えてくれた徳留千絵子さん、毎回楽しいイラストを描いてくれた久世アキ子さんにも、深く感謝します。

 正直いって、ボクは日本語はしゃべれても書けません。また、ボキャヴラリーも十分ではありません。しかし、連載中は一生懸命、ボクなりの日本語で語ったつもりです。それをボクの言葉の調子を崩さずに書きおこし、不足したボキャヴラリーを補完してくれたのが、ここに名を挙げた方々でした。

 最後になりますが、この本は女性誌に連載したとはいえ、特に女性読者を意識したものでありませんでした。ですから、その意味で、これからの日本と日本人の生き方を真剣に考えている多くの日本の人々に読んでもらいたいと思います。

 本当に最後になりますが、ボクは日本と日本人が大好きです。なぜなら、ボクのこれまでの人生の約半分、約20年間を、この世界でも最も豊かな国で過ごせたからです。

 

1992年9月

オスマン・ユーラ・サンコン