たそがれの橋 後の章 印刷

『たそがれの橋』

 

後の章


●一

翌年の四月、雪江は昌太郎と結婚した。
式は、昌太郎の勤める中外新報社から一町ほどはなれた、西八丁堀の小さな町教会で挙げた。披露宴は、やはり社のそばの「レオ」という喫茶店を二時間ほど借りて、紅茶とケーキで文字通り、お茶を濁した。
牧師の前で昌太郎にはめて貰った指輪は、式の三日前に、野毛の露店で買った五百円の安物であった。雪江は指輪がきらいだった。なまじ指輪なぞすれば、まるまっちい指がよけい目立つからであった。一度も欲しいと思ったことさえなかった。
昌太郎のモーニングも、雪江のウェディング・ドレスも、むろん借り物であった。どちらも昌太郎の先輩夫婦から借りた。昌太郎の話では、社内きっての愛妻家を自任しているその先輩が、俺たちのを使ってくれと、わざわざ申出てくれたという。願ってもない話であった。
もともと二人は、式を挙げるつもりはなかった。が、社からお祝金を貰った手前、挙げざるを得なくなり、もっとも経費の安上りな教会を選んだ。交渉に行ったとき、白い頤髯をはやした牧師は「聖歌隊の皆さんへのお志しだけで結構です」と、それも遠慮深げに言った。
「千円も包めば御の字だろう」帰り途、昌太郎はそう言ってから、
「神を怖れざる所業かな」
ちょっぴり首をすくめて見せた。江ノ島へ行ったときから、昌太郎は人がかわったように明るくなった。ときにはそれが、努力してそうしているように見えないこともなかったが、もはや雪江は確かめたり疑ったりする気持を棄てた。
江ノ島の帰途、きょうじゃなくても、と言う雪江を押しきって弘明寺の家に跟いてきた昌太郎は、雪江の両親の前に膝を揃え、
「雪ちゃんと結婚させてください」
静かな口調で申込んだ。寝耳に水の修三は、むろん即答を避けたが、傍の母が、もう目を潤ませていたのを雪江は見逃がさなかった。幸い、露子は、伊勢佐木町まで買物に出かけて留守だった。
もし露子が居合わせたら、昌太郎はあんな静かな口調で申込めただろうか――昌太郎が帰ったあとで、雪江はなお一沫の不安を覚えたが、翌朝、母から話を聞いたらしい露子は、
「おめでとう。雪ちゃん、よかったね」
いささかのこだわりもない顔でそう言った。
――もう叔母の心を忖度(そんたく)するのはよそう。
雪江は自分に言いきかせた。底知れぬ女だと、憎んだり怖れたりした今までの自分が間違っていたのかもしれない。露子は行き当りばったりの、早くいえば少々足りない女なのだ――雪江はそう思うことにした。
その年一杯で雪江は勤めを辞め、休みのたびに訪ねてくる昌太郎を待った。修吉を連れて、野毛の動物園へ遊びに行ったり、大桟橋へ外国船を見物に行ったりした。横断歩道を渡るとき、修吉の手をとるのはいつも昌太郎であった。修吉のほうも素直に手を引かれていた。
昌太郎は、結婚と同時に修吉を引取りたいと申出たが、雪江の両親は即座に拒んだ。たまたま露子が、宮元町に開店したばかりの料理屋に住みこむことになったので、
「修吉まで取り上げないで下さい」
母は、そんな風に言った。申出た昌太郎にも、拒んだ父母にも、ともに感謝しながら、雪江は己の気持を一切口に出さなかった。口を挿む資格のない自分を知ってもいた。
雪江との結婚にはじめから反対だった昌太郎の母親は、ついに式にも出席しなかった。式の一週間前に、神戸にいる昌太郎の姉が母親を引取りに上京した。その姉も出席しなかった。雪江のほうも、生憎修三が流感にかかり、身内は母と母の従姉だけであった。あとは、昌太郎の社の上司や同僚が十人あまりで、雪江は、その年の一月にやっと郷里の山形から戻ってきた久子と、女学校時代の友人を三人だけ招んだ。三人ともすでに結婚していた。
憎んだり怖れたりするまいと思いながら、併し雪江がいちばん出席して貰いたかったのは、露子であった。たとい借着にせよ、自分の花嫁姿を見せつけてやりたかった。露子のほうも、お店を休んで是非出席すると言っていたが、式の前日になって、忙しくてどうして抜けられないの、と断ってきた。やっぱり気が咎めたのだろうか。
記念写真は、昌太郎の社の写真部員が三人も来て撮ってくれた。三人のカメラマンは、惜しみなくフラッシュを焚いて、そのたびに牧師の眉と白髯をぴくつかせた。まるで有名人の結婚式のようであった。友人を代表して久子がお祝いの言葉を述べた。女学校の卒業式では、総代として淀みなく答辞を述べたのに、久子は途中で何度も声を詰まらせた。雪江も怺え切れずに鼻をすすった。昌太郎がそっと手帛を渡してくれた。席に戻った久子も、手帛を目にあてた。その隣で母の照子も顔を伏せつづけていた。「形式にこだわるわけじゃないけど」そう言いながら挙式をいちばん喜んでいたのは母であった。
披露宴もとどこおりなく終り、出席者が引きあげると、あとには新夫婦と母だけが残った。母は改めて昌太郎に頭を下げた。「レオ」のマダムと四人で、四囲に張りめぐらした紅白の幕をはずし、椅子と卓をいつも通りに並べ直した。そのあと、マダムにすすめられて、三人はお茶漬けを食べた。昌太郎は三杯もお代りした。海苔と茶の香りが、緊張をほぐし、雪江も二杯食べた。「さすがに佐山さんが選んだお嫁さんね」マダムが頬笑んだ。酒を飲まない昌太郎は、毎日二回はこの店へ珈琲を飲みに来て、ときどきお茶漬けも無心するという。「あしたから、私の手数も省けるわ」
マダムは陽気に笑ったが、どことなく寂しそうな様子でもあった。三十をすぎたばかりの戦争未亡人で、社の連中に人気があり、気さくにカギ裂きを繕ったり、手帛を洗ってくれたりするという話だった。昌太郎にはじめてこの店に連れてこられたとき、「死んだ主人の妹にそっくりだわ」マダムは註文しないケーキを出してくれた。披露宴を頼んだときも、「こんなお店でよければ」と快く引受け、ビールを抜いて祝ってもくれた。
残ったケーキを箱に詰めて母に持たせ、二人は東京駅まで母を送って行った。「父さんによろしく」修吉のことは目で頼んだ。母は小さく何度も頷いた。電車が出たあと「まっすぐアパートヘ帰るか」ホームで昌太郎が訊いた。「まだ荷物の整理が残っているわ」「では、帰ってもうひと働き致しますか」反対側にとまった湘南電車の前のほうで、フラッシュが閃めいた。華やかな衣裳のひと群が、すぐ新婚旅行の見送りと知れた。
「一泊ぐらいなら行かれるぜ」昌太郎が言った。「これから熱海へでも行ってみるか」
「勿体ないわ」
「一生に一度だぜ」
「あたしたち、もう済ませたじゃないの」
雪江は昌太郎の腋へ手を通した。人なかで腕を組んだのは初めてであった。昌太郎は、五、六歩行ってから腕をはずすと、一人でホームの階段を降りた。雪江も何も言わずそのあとに従った。もう何年も暮している夫婦のようであった。尠くともつい先刻式を挙げたばかりの夫婦のようではなかった。

●二

「きょう秀叔父さんが社にやって来たぜ」
帰るなり昌太郎が言った。結婚後三カ月ほど経った蒸暑い晩であった。
「ひどい服装をしていたよ。和彦は給料を殆んど飲んでしまうそうだ」
高校を中退した和彦が、鶴見の自動車工場へ勤め出したのは雪江の結婚直前であった。秀次郎は一緒に社を辞めた同僚と退職金を出し合って石鹸工場をはじめたが、一年経たぬうちに失敗して元も子もなくし、和彦の就職と同時に古道具屋の二階も引払った。移転先が判らず、結婚通知も出しようがなかった。
「いま、どこにいるの?」汗のしみ出たワイシャツをぬがせながら訊くと、
「和彦の工員寮にいるそうだが、そこも近く出なければならんらしい」
パンツ一枚になった昌太郎は、出窓に腰かけて夜風に吹かれた。肋骨の浮いた痩せた胸に汗粒が光っていた。雪江が濡れ手拭でふこうとすると、いいよ、と昌太郎はうけとり、軽い溜息をついた。叔父が突然訪ねてきた理由が、その表情を見ただけで判った。
「いくら貸したの」
「千円。あの分じゃ、これからもちょくちょくやって来そうだな」
「貴方も弱身があるから……」
むろん冗談だったが、昌太郎は明らかに厭な顔をした。
「叔母さんが片づいたと思ったら、こんどは叔父さんなの」
「併し、あの叔父夫婦のおかげで俺たちは知り合えたんだぜ」
「そりゃあ、そうだけど……なんだかあたしたち、あの夫婦に呪われているみたい」
「そう言えば、金を借りにきたくせに、ひどいことを言っていたぜ」
次の言葉を待ったが、昌太郎は雪江の目を逸らして、躰を拭きはじめた。
「ね、なんて言ったの?」
「ま、いいさ」
「よくないわ。いやよ、そんな奥歯にもののはさまったような言い方。貴方らしくないわ」
「怒っちゃいけないよ。――お前はどうして雪江なんかと結婚したんだ、あれには露子と同じ淫蕩な血が流れているんだぞって――」
顔色を変えた雪江の両肩を、昌太郎が立ち上って摑んだ。
「判っているよ、お前がそんな女じゃないことは、この俺がいちばんよく知っているよ。今更、他人にどう思われたって問題じゃない」
「それなら、なぜ、そんなひどいことを言うの。貴方もそう思っているでしょ」
「俺は、和彦に会うことにしたよ」
「ね、あたしの顔、本当に叔母さんに似ているの? ね、似ているの」
「無駄かもしれないが、和彦に会って、意見してみる。こんどは、実被害の伴う問題だからな」
「はぐらかさないで。ね、本当に似てる?」
昌太郎は肩から手をはなすと、隅の机の前に跼んで、いちばん下の抽斗を開け、なかから小さな新聞包みを取り出した。
「開けてごらん」
「何?」
紙紐をほどいて、雪江は危く声を挙げそうになった。雪江がつくった千人針であった。
「持っていかなかったんだよ」昌太郎が低い声で言った。「死ぬ気だったんだ。僕が送ったお守も役に立たたかったらしいな。併し、お前のあの肉割れに、僕はむしろ感謝しているんだ。もしお前が安産で、軀に傷がなかったら、僕はお前と結婚する気にならなかったかもしれない」
「貴方――」
「腹が減ったよ。それに少し涼しくなった。何か着るものをくれ」
「あたしはやっぱり、結婚する資格がなかったのよ」
「ばかなことを言うな。もうお互いに昔のことは忘れよう。早く飯にしてくれ、お前もまだなんだろう」
昌太郎に浴衣を着せかけてから、雪江は急いで台所へ駆けこんだ。涙が出て来そうだった。
「和彦は少し酒乱気味らしいぞ。……やっぱり子供は、生みの親が育てるのが、いちばんいいんだな」
昌太郎は暗に修吉のことを言っているのかもしれなかった。
その修吉のために、二人は結婚するとき、生涯子供はつくるまいと誓い合った。六畳一間のアパート暮しだが、この三カ月間、これでいいのかと思うほど雪江は倖せであった。もし不満があるとすれば、その誓いに対する後悔だけであった。たしかに雪江は、あの分娩の苦痛を二度と繰返したくはなかったけれど、どんなに感情が昂ぶっているときでも、事前の処置を忘れない昌太郎がときには怨めしく、小箱から摘み出した小さな紙袋を奪い取って、蒲団の裾へ投げ棄てたことも何度かあった。併し、黙って新しい袋を箱から取り出す昌太郎の目に、哀願めいた色をみとめると、二度とは拒めない雪江だった。
不意にパチッと手を叩く音がした。
「このへんは全く蚊が多いな。おい、今度の休みに蚊帳を買いに行くか」
昌太郎はもう不断の口調になっていた。

●三

会って意見すると言いながら、暑さと仕事にかまけて昌太郎が出向かぬうちに、母に伴われて和彦のほうから訪ねてきた。九月はじめの日曜の朝十時ごろで、鏡台のわきに寝転ろんだ昌太郎が、膝に手を這わせて雪江の化粧の邪魔を愉しんでいるときであった。
ドアのノックにあわてて起き直った昌大郎は、母の顔に「やあ、いらっしゃい」と明るい声をかけたが、その後ろから覗いた和彦を見ると、忽ち表情を硬張らせた。和彦は黙って頭を下げ、昌太郎も小さく頷いただけで、すぐ顔をそむけた。「従兄さんなんて大嫌いだ」いつかの和彦の言葉を思い出して、雪江は傍ではらはらした。
「実は、露子の行方が知れないんだよ」
それが突然やってきた二人の用件だった。
露子が一週間ほど前の晩に、住込んでいた料理屋を抜け出し、いまだに帰って来ない、という。
母は、和彦のほうをちらっと見てから、一通の封筒を出した。
「女将さんが、女中部屋から捜し出してきたものなんだけど」
裏には男の筆蹟で、北多摩郡神代村上野原と住所だけしか書いてなかった。
「玉置じゃないだろうか。同じような手紙がほかにも一通あったんだよ」
「神代村といえば」昌太郎が口を挿んだ。「この京王沿線です。深大寺という有名な寺のあるところで、たしか金子という駅で降りる筈です」
「内容を読んだら二通ともお金の無心でね。それでご苦労だけど昌太郎さんに、この手紙の住所を調べて貰おうと思って来たんだよ。なんだか今度はこの彦ちゃんもひどく心配して、きょうもついて来たんだけど……」
併し、その和彦は、黙って下をむいているだけで、改めて昌太郎へ頭を下げようともしなかった。
「貴方、どうする?」
「すぐ行ってみよう」昌太郎はもう立ち上っていた。
「だって、ここに居るかどうか判らないわよ」
雪江は正直なところ、かかわりたくなかった。折角の休みを、今更、露子のことで潰したくなかった。
「兎も角、ここへ行ってみれば、何か手がかりがあるだろう」
「じゃ、あたしも一緒に行くわ」
「俺一人で行ってくるよ。久振りに義母さんが来たんだから、何か御馳走してあげなさい」
「あたしが跟いていっちゃ邪魔?」
昌太郎がびっくりした顔を向けてきたとき、それまで黙っていた和彦が言った。
「僕も連れて行ってください」
母にはひとまず横浜へ帰って貰い、雪江たち三人が金子駅に降りたのは、それから一時間後であった。畑の真ン中にぽつんとたった小駅で、駅員も一人しかいなかった。
その駅員に大凡の道順を教えて貰い、甲州街道を横切って、乾き切った田舎道を暫く行くと、左手の雑木林の端れに白い大きな建物が見えた。武蔵野の面影が残っている四囲には、およそそぐわぬ堂々とした建物であった。
「あれが駅員から聞いた日本針布の工場らしいな。あの工場の向う側だそうだから、あと十分はたっぷりあるな」
「ね、ひと休みしない?」
真夏とかわらぬ強い陽が容赦なく照りつけて、汗に濡れたワンピースの背が気持悪かった。が、雑木林までは、どこを見渡しても日蔭一つなさそうだった。
「だから家に居ろといったんだ」
そう言う昌太郎も顔中に汗をふき出させていた。青筋のうかんだ和彦の額も光っていた。気のせいか、その青筋がぴくついているように見えた。
「この辺は、全くの田舎ね。どうしてこんなところに、あんな大きな工場を建てたのかしら」
「こんなところだから、敷地を広くとれるんだよ」
「何を作っている工場なの?」
「知らんよ」
暑さが昌太郎をいくらか不機嫌にしているようであった。風が渡ってゆくたびに、肥しの匂いが鼻を摶った。
――叔母は一体、どこまであたしたちに崇るんだろう。
黙々と先をゆく和彦までがふと憎かった。
やっと雑木林に辿りついた。にわかに蝉の鳴声が耳についた。日曜で作業は休みなのか、建物はひっそりと物音一つ立てず、その白い壁を背景に、黄色い小さな蝶が二匹もつれていた。ワンピースの前ボタンをはずして手帛を突っこみ、腋の下の汗をふきながらふと目を挙げると、少しはなれた木蔭から、じっとこちらを見詰めている和彦の目にぶつかった。和彦はすぐ視線をそらしたが、雪江もあわててボタンをかけ直した。和彦の目は、明らかに男の目を蔵していた。何か裏切られたような感じだった。昌太郎はポロシャツを脱いで傍の枝に引っかけ、裸の背を手拭でふいていた。もうすっかり見馴れている筈なのに、戸外でみる昌太郎の白い肌が妙に眩しかった。
右側は藪、左側は有刺鉄線を張った工場の柵になっている細い径を、三人は一列になって歩きはじめた。和彦が先頭で、雪江は殿りだった。
「憶えている?」昌太郎の背に雪江は小さな声で訊いた。
「何を?」林の中で拾ってきた細い竹で、足許の雑草をひと薙ぎしてから昌太郎がふりむいた。
「憶い出さない?」
「だから何を、さ」
「憶い出さなければいいの」
昌太郎は頸をかしげながらまた雑草を薙いだ。
「危いからやめて。まるで子供みたいね」
最近張り替えたらしい有刺鉄線が、陽にチカチカ反射して、よけい雪江を苛立たせた。小径はまだ蜿々と続きそうであった。
「おかしな奴だな、はっきり言えよ」
「もういいの。それより道を間違えたんじゃない? こんな奥に家なんか有りっこないわよ」
「道がついているんだから、人間が住んでいる何よりの証拠さ」
「この道をまた帰るのかと思うと、うんざりするわ」
「いやなら、さっきの雑木林で待っていろよ」
不意に昌太郎が立ち止まって、右手の藪のほうを窺がった。
「どうしたの」
「何か藪のなかで動いたんだ」
「おどかさないで」
「蛇かな」
「いや」昌太郎の腕を摑み、肩のかげから怯々と藪へ目を向けた。こめかみを汗が流れ落ちた。
「嘘つき」
「痛い。たしかに何か動いたんだよ」
そのとき、先頭の和彦が急に走り出した。
「彦ちゃん、どうした」
無言で駈けてゆく和彦の脚の間に、トタン屋根がちらついた。

●四

小径を出たところで、三人は少時、眼前の低地を眺めおろした。一棟三十メートルはある細長い木造家屋が、コの字型に建っていた。中央の広場には、摺鉢型になったコンクリートの池のようなものが、底に水を湛えていた。「昔の兵舎だな」昌太郎が言った。「併し、こんなところに何の部隊があったんだろう」
角材の突つかえ棒が、足を踏んばっているように、兵舎の四角を支えていた。いちばん左の突っかえ棒に、五、六歳の男の子がぶらさがっていた。子供の姿は、コンクリート池の傍にも拾えた。
「大分、住んで、いるらしいな」昌太郎が呟いた。
「こんなところに?」
「あの洗濯物を見ろよ。ここに住んでいるとすると、捜し出すのが厄介だな。手わけして一軒一軒あたるか」
窓の数だけ所帯があるとすれば、三人で聞き廻っても一、二時間はかかるだろう。雪江は思わず溜息が出た。風が出てきたのか、兵舎の外側にそびえた大きた松の梢がわずかに揺れた。
「お前と彦ちゃんはここで待っていろ」
「どうするの」
「管理人がいる筈だ。まずそこで聞いてみる」
昌太郎は斜面につくられた土の段を駆け降りると、まだ突っかえ捧にぶらさがっている子供のほうへ歩いて行った。
「その後、叔父さんはどうしているの」
雪江は、昌太郎の姿が兵舎にはいるのを見定めてから和彦に訊いた。
「酒ばかり飲んでます」意外な返辞だった。
「あら、お酒が好きなのは彦ちゃんのほうじゃなかったの」
「そりゃ僕だって少しは飲むけど……」
すると、叔父は酒代欲しさに昌太郎の社へ金を借りにきたのだろうか。
「雪ねえちゃん」暫く経って和彦が言った。なつかしい呼び方だった。
「なあに」
「幸福?」うつむいて和彦が訊いた。
「ええ、倖せよ。どうして」
和彦は黙って頸を振った。
大きな爆音を響かせて、米軍機が飛び去った。星のマークがはっきりわかるほどの低空であった。声がしたようなので目を戻すと、兵舎の入り口で昌太郎が手招きしていた。
「向う側の兵舎の、とっつきの部屋にいるそうだ」
駈け寄ると、昌太郎はそう言って、すぐ歩き出した。
「よく判ったわね」あまり簡単すぎたので、雪江は拍子抜けした。
「最近四十ぐらいの粋な女が出入りしている家はないかと聞いたら……」
昌太郎は二、三歩おくれて跟いてくる和彦のほうをちらっと見てから、
「凄く色っぽい女でしょうって、すぐ教えてくれたよ」
コンクリートの池のそばに群れていた子供たちが、一斉に目を挙げて、雪江たちを見た。「これは高射砲の砲座の跡らしいな」池の縁を叩きながら昌太郎が言った。「こんなばかでかいものを造って、結局は役に立たなかったんだろうに」
風が広場の土埃を舞い上げ、池の底の青黒い水をゆすった。
兵舎の入り口に「柴崎戦災者寮二号館」と書いた木札が下がっていた。三尺ほどの通路が真っすぐ向う側の出口まで貫き、その右側に、トタン張りの扉がほぼ一間おきに竝んでいた。
昌太郎が、いちばん手前の扉を軽く敲いた。間もなく坊主刈りの頭が、扉のかげから辺りを窺うように出てきた。やっぱり玉置だった。
玉置は、昌太郎を胡散臭そうに見てから傍の和彦に目をやり、はじめて「ああ」といった顔になった。そして、兵舎の外に立っていた雪江を認めると、ニヤッと表情を崩した。
「あんたが、昌太郎さんか」
薄べりを敷いた狭い部屋にはいると、玉置は改めて昌太郎を見詰め、唇に薄笑いを泛かべた。
「雪ちゃん、いい旦那さんを射とめたもんだな。そんなところに立ってないで、もっとこっちにはいりなよ。満更知らない仲じゃないんだから」
以前は浅黒い、引締まった顔であった。が、何年ぶりかで見る玉置は、色がはげたように蒼白く、坊主頭のせいか、少し若返ったようにさえ見えた。
「雪ちゃんもいい女になったな。すっかり見違えちゃったよ」
昌太郎の眉が険しく寄ったので、雪江は急いで用件を切り出した。
「叔母さんを返して貰いたいの、居るんでしょう、此処に」
昌太郎が続けて、義母も和彦も心配しているから、とつけ加えた。
「あんたも心配でしょう」
玉置はまたニヤッと笑った。
「いちど、此処に来たことは来ましたよ。が、いまは居ません」
「じゃ、どこにいるの?」雪江は畳みかけた。
それには答えず、玉置は和彦のほうに顔を向けた。
「すぐ返すよ。嘘じゃない。関西まで用事があって使いに行って貰ったんだ。それが済み次第、間違いなく返す。本当だよ」
膝のわきの煙管をとり上げた玉置は、灰皿から吸殻を拾って雁首につめた。
「約束してくれますね」昌太郎が念を押すと、玉置は三たび薄笑いを泛かべた。
「俺だって、あのひとには随分貸しがあるんだからな。少しぐらい、俺のために働いて貰ったって、誰にも文句を言われることはない筈なんだ。ひとには言えねえいい思いも随分させているつもりだよ。ねえ、昌太郎さんよ、俺もへんなトチリ方をしなきゃあ、こんなことはしなかったさ。が、なにしろついこの間出てきたばかりだからね」
玉置は火のついた煙管の先で、自分の頭を指した。
どうする? と言った顔を昌太郎が向けてきた。併し、雪江にも、これ以上問い詰めたところで無駄なことが判っていた。ランニングシャツを着た玉置は、煙管の吸口のほうで、剥き出しになった左の二の腕を痒きながら、
「坊や、元気かね?」
急に親しみのこもった声で訊いた。雪江は仕方なく頷いた。
「坊やのお父さんも元気らしいな」
「え?」
「おや、知らないのかい。この間、露子が会ったそうだぜ」
「まさか――」
「あれの居る料理屋へ五、六人で来て、豪勢に飲んでいったそうだぜ。何をやっているのかは聞かたかったが、ひどく景気がいいらしいぞ。露子にもチップをはずんだそうだ」
信じられなかった。雪江は、健市が復員したことさえ聞いていなかった。思わず雪江は昌太郎の横顔を窺った。選りに選ってこんなとき、しかも王置の口から健市の消息を知ろうとは――自分の衝撃よりも、雪江はやはり昌太郎の反応のほうが怖かった。
昌太郎が腰を浮かした。きゅッと雪江の胸が詰まった。
「兎も角、叔母を――」言いかけた昌太郎の低い声を玉置が遮った。
「案外、くどいな、あんたも。男が約束したんだ。間違いねえよ」
「じゃ、くれぐれもお願いします。商売柄、念を押す癖がついているもんですから」
昌太郎が軽く受け流したので、雪江は吻とした。が、最後までひと言も喋らなかった和彦が、部屋を出しなに玉置を振りかえった目を見て、雪江は再び背筋に寒いものを覚えた。和彦の目には、明らかに殺意めいたものがひそんでいた。
三人はまた一列になって小径を急いだ。にわかに強くなってきた風をまともにうけて、三人とも兵舎を出てから、ひと言も口をきかなかった。
――本当に叔母は健市に会ったのだろうか。
もし事実なら、母にも告げている筈であった。母は知っていて、わざとあたしに隠しているのか。
むろん雪江は、今更健市に対して、恨み言を言う気もなかった。近頃では修吉のことさえ忘れている日が多い。が、いつかは修吉に、健市が父親であることを教えなければならなかった。
――いっそ戦死してくれたほうがよかった。
いつかの久子の言葉を憶い出し、雪江は身顫いした。たといどんな父親であろうと、修吉にとっては、生きているほうがいいにきまっている。現に、和彦は、血の繋がらない母親の行方を心配して、こんなところまで捜しにきたではないか。
雑木林まで戻ると、昌太郎が煙草を取り出した。風を防ぐつもりで傍に寄ってゆくと、
「あの男は――」そこで一旦言葉を切ってから昌太郎が言った。「叔母と僕のことを知っているな」
はっとした雪江に昌太郎は呟くようにつけ加えた。
「それにあの男は、叔母さんよりお前のほうが好きだったらしいな」

●五

昌太郎が珍しく酔って帰宅したのは、それからちょうど十日後の夜であった。
扉ごと転がり込んできた昌太郎は、まるで伐り倒された木のように上り框に倒れると、
「水――」喘ぐように言った。
ネクタイはほどけ、ズボンは膝から折りかえしまで泥だらけであった。
コップを持って行った雪江を、昌太郎は充血した目で睨むように見上げた。
「読んだか」
「何を?」
「夕刊だ」
「まだ。今日は忙しくて。何かあったの」
倒れたまま躰をひねってポケットから取り出した夕刊を、雪江はコップと交換に受けとり、すばやく社会面をひろげた。

父を殺して服毒
鶴見で少年工員が無理心中

大きな四段見出しのわきに、叔父と和彦の顔写真がならんでいた。雪江は目を疑った。
「読んでみろ! 俺が――この俺が書いたんだぞ」
「貴方ッ」
両膝が音を立てんばかりに烈しく顫えた。雪江は知らぬ間に昌太郎の肩を掴んでいた。
「自社がいちばん詳しいんだ」昌太郎が顔をそむけて言った。「当り前さ、何もかも知っている俺が書いたんだからな」
「貴方!」
「他紙は発作的な兇行と書いている。原因が判るもんか。知っているのは俺だけだ。自社だって、他の奴は知りゃしない。よく調べたな、本当か。デスクの奴も驚いていやがった。……貰い子で、小さいときから人一倍癇が強かったが、直接の原因は養母に裏切られたこと、ひそかに愛していた歳上の従姉が結婚したため……」
「貴方! やめて!」
「数年前、養父母は離婚、養母は新しい男へ走ったが間もなく別れ、料理屋に住込んだ。ところが最近、別れた男に呼び出され――」
「やめて! お願いだから、やめて」
「この父子は、僕の叔父と従弟です。――そう言ったら、デスクの奴、目をむいていやがった。ヘン、ざまあみろ、だ」
昌太郎の頬が濡れているのに、雪江はやっと気づいた。
「ばかだ、みんなばかだ、叔父さんも和彦も――」
そこで声をのんでから、昌太郎は再び屹ッとした目で雪江を見上げた。
「だが、なぜあいつは、叔父さんを殺したんだ。なぜ、なぜ叔母さんを殺さなかったんだッ」
雪江の顫えは、ぴたっと熄んだ。濡れて、そのくせ喰い入るように見上げてくる昌太郎の目から急いで顔をそむけ、雪江は言いようのない恐怖に包まれた。
なぜ叔母を殺さなかったのか――雪江もたしかに露子を憎んでいた。昌太郎を汚し、父を惑わせた叔母は、いくら憎んでも憎み足りぬ存在であった。併し、その憎悪は、これまで一度たりとも殺意とは結びつかなかった。叔母の死を願ったことは一度もなかった。いや、たった一度だけ、はじめて昌太郎と江ノ島へ行ったとき、ほんの一瞬だが、波に呑まれてしまえばいいと思ったことがあった。が、あのときは、まだ叔母を憎む理由は何一つなかった。あれは恐らく、叔母の美しさに対する単純な嫉妬からだったろう。
部屋の隅へあとずさって、雪江は、まだ倒れたままの昌太郎をこわごわ眺めた。背が微かに動き、昌太郎は嗚咽しているようであった。
――この人は、明らかに叔母を殺したかったのだ。叔母に対するこの人の憎悪は、あたしなんかの比ではなかったのだ。この人ばかりではない。和彦も、自分を棄てて男に走った母親を憎んでいたに違いない。あの子も本当は叔母を殺したかったのではないか。だがあの子は、憎みながら、同時に、叔母をいちばん愛してもいたのだろう。だからこそ、叔父との復縁を許そうとしなかったのだ。叔母の被害者は、あたしばかりではなかった。いや、本当の被害者は、和彦であり、叔父だったのだ……。
ワイシャツを脱がし、靴下をとって、引摺るように牀へ運んだあとでも、昌太郎はときどき「ばか」「ばかめ」と呟き、雪江が額の汗を拭いてやると、
「寝るよ、もう何も考えずに寝るよ」
自分に言いきかせるように繰り返して目を瞑った。急に老けた顔になった。
電燈を消して、雪江は出窓に腰かけた。
――躰に障ったらどうするの。
泣き出しそうな顔で千人針をとめた和彦。
――ひと人ッ子でなければ、叔父さんちの子にしちまうんだがな。
縁日の帰りに手を強く握った秀次郎。衝撃が去った胸にようやく衷しみがこみ上げてきた。あのとき、玉置から強引に叔母の行き先を訊き出して、すぐ連れ戻せばよかった。叔母が帰っていれば、和彦もこんなことにならなかったろう。「幸福?」と訊かれたとき、「ええ倖せよ」ぬけぬけと答えたことまでが後悔され、雪江は泣きながら己の迂闊さを責めつづけた。
……暗い部屋のなかで柱時計が二つ鳴った。雪江はやっと立ち上り、蒲団の裾で寝間着に着替えた。いくら哀しんでも所詮、後の祭りだった。昌太郎も言ったように、もう何も考えずに寝よう。
そおっと足のほうから牀にはいった。と、不意に昌太郎の手がのびてきて、軽い叫びを挙げたときは、雪江の躰はもう彼の両腕の中に抱き締められていた。
その夜、雪江は結婚以来はじめて、昌太郎のじかの躰を知った。

●六

中共地区の残留邦人引揚げが再開され、引揚げ船に乗込む記者団の一人に昌太郎が選ばれたとき、雪江は、当の昌太郎よりも喜んだ。そして、多い希望者のなかから特に昌太郎を選んでくれた社会部長に感謝した。この仕事を契機に、もう一度、昌太郎に元気を取戻させようという思い遣りに違いなかった。
和彦の事件以来、昌太郎の書く記事は目に見えて尠くなった。朝、アパートを出てから十分と経たぬうちに戻ってきて「忘れ物?」驚く雪江を無視してごろんと寝転ろがり、壁のほうを向いたまま長い間、口をきかないことが二、三度あった。ときどき、新聞記者を辞めたいと洩らすことさえあった。無理もないと思いながら、そんな昌太郎を見ると雪江まで暗い気持になり、もう憶い出すまいと思っている和彦の顔が、またせつなく泛かんでくるのだった。
母からの手紙で、事件の翌々日、流石に真蒼な顔で露子が戻ってきたことを知ったが、雪江はあえて実家へ行かなかった。和彦父子の死体は解剖後、昌太郎のもう一人の叔父である秀次郎の兄が引取り、どの新聞よりも詳しい記事を書いた昌太郎は、その叔父の怒りを買って、葬式に出ることを拒まれた。露子も焼香を許して貰えなかったという。母の手紙には、「どこでどうしていたのか、露子はひと言も喋りません」と書いてあった。今更、雪江が事情を問い糺してみたところではじまらなかった。それに、雪江にとっては、どんな取材にも身が入らなくなったという昌太郎へ心を配ることのほうが大切だった。暫く社を休みたいという昌太郎を劬ったり励ましたり、ときには無理矢理、盃を持たせたりした。雪江は一日も早く、打撃から立ち直って貰いたかった。昔のことは忘れようと言っていた昌太郎が、実は自分よりも昔の過失に拘泥っているのを知り、それが情けないほど哀しかった。ときには肚立たしさを覚えることもあった。
門司から興安丸に乗込む昌太郎を東京駅へ送って行ったのは、そろそろ風がつめたい十月末で、ホームに上ると夫婦は忽ち社の同僚たちに囲まれた。披露宴で皆、ひと言ずつ諧謔にみちた祝いの言葉を贈ってくれた連中である。
「まだ新婚六カ月の佐山を行かせるなんて、部長も気が効かねえな」一人が言い出すと、「奥さん、一人で寂しかったら、うちに泊りがけで遊ぴにきませんか」もう一人が言った。「うちの女房なんか、僕が宿直のたびに実家へ泊りに行っちまうんですよ」
「この野郎、へんなところで惚気るな」
賑やかな談笑のなかで、昌太郎がときどき頼りなさそうな目を向けてきた。そのたびに雪江は、しっかりしてよ、と瞼に力をこめた。
発車間際に、昌太郎がふと言い出した。
「このまま、帰れなくなるかもしれないよ」
「なぜ?」
「いや、冗談だよ。船が万一、沈んだらの話さ」
「いいわ、帰って来なくても」雪江は明るい声で言った。「あたし、ちゃんと形見を持っているから」
「形見?」
「ええ、とってもいい形見」
「お前、まさか――」
昌太郎がさっと表情を硬張らせたので、雪江は声を立てて笑った。昌太郎の勘ぐりが可笑しかった。
「ばかねえ、違うわよ」
「併し――」
「違うったら。いいわ、帰ってきたら見せてあげる」
発車ベルが鳴り出しても笑いを納めぬ雪江を、昌太郎は列車の窓から不安そうに見守っていた。
翌朝、一人でお茶漬けを食べているとき、ドアにノックの音がした。鍵をはずすと、思いがけず久子が立っていた。結婚式以来であった。
「お留守なの、残念ね。折角、風月のケーキを買ってきたのに」
雪江は虚をつかれて、少し照れた。
――久子にいつそんなことを喋ったのだろう。
まるきり記憶がなかった。久子は物珍しげに部屋の中を眺め廻し、狭い台所も覗きこんだ。新調らしいギャバジンのスーツがよく似合い、この正月、郷里から戻ってきた頃にくらべると別人のように美しくなった。
「私、再婚するかもしれないの」
久子が他人事のような口調で言い出したのは、ケーキを食べ終えて紅茶を淹れ直しているときであった。
「あら、よかったわね。――で、どんな人?」
「死んだ篠崎の後輩なの。結婚前に紹介されて、篠崎と三人で一度、ハイキングに行ったことがあるの。それっきりだったんだけど、この夏、偶然、千葉の海岸で会って――」
「じゃあ、篠崎さんのことは承知なのね?」
「ええ、何もかも知っているから気楽に交際できたのよ」
「もう、プロポーズされたの?」
「でも、対手は初婚でしょ、私、なんだか悪くて――」
「そんなことないわ。あたしだって」
「ねえ、お雪、はっきり言うけど怒らないでね。昌太郎さんは、過去のことは何も訊かない? お雪は昌太郎さんに対して、引け目を感じない?」
さすがに雪江もすぐ答えられなかった。
「私も出来ればその人と結婚したいの。でも、一生引け目を感じなければならないのではないかと思うと、どうしても決心がつかないのよ。お雪、怒ったの?」
「怒ってなんかいないわ。なぜ貴女が引け目を感じるのよ。あたしと違って、貴女はちゃんと結婚したんじゃない。対手の人を愛していれば、そんなこと問題じゃないわ。その人だって、何もかも承知の上で求婚してきたんでしょ。結婚しなさいよ。きっと幸福になれるわよ」
「昌太郎さんて、よっぽど貴女を愛しているのね」
「貴女のその人だって、貴女を愛しているから申込んだんでしょ」
「でも、いざ結婚したら、彼、きっと後悔するんじゃないかしら」
「貴方は篠崎さんと結婚したことを後海している?」
久子は頸を振った。
「あたしも、修吉を産んだことを後悔していないわ。そりゃあの当時は健市を恨んだわ。出来れば産みたくなかったわ。でも、あたしがあの頃、健市に惹かれていたのは事実なの。いつだったか、貴女と三人で外人墓地へ行ったわね。あのとき、貴女も健市が好きたんじゃないかと、あたし、嫉妬を覚えたくらいですもの。今になってみれば、健市に惹かれたのは半分以上同情だったと思うけど、嫌いじゃなかったのは確かだわ。あたし、昌太郎にもはっきり告白したわ。人間、誰にだって過ちはあるものよ。昌太郎もそれを認め、許してくれたからこそ、あたしとの結婚に踏切ったのだと思うわ。……それとも、あたしって、自惚強いのかしら」
「ううん。お雪、有難う、あんたのおかげで、私、勇気が出たわ」
「こんどはあたしも招んでよ。あたしにお祝いの言葉を言わせてね」
二人はいつか卓袱台の上で手を握り合っていた。

●七

(興安丸にて佐山記者発)という塘沽到着の記事が新聞に載った日の午後、雪江はその月の給料をとりに昌太郎の社へ出かけた。部長にそれとなくお礼を言い、久振りに喫茶店「レオ」に顔を出してマダムにも挨拶するつもりだった。
「生憎、部長は外出中なんです」
応接室で待っていると、ほどなく顔を出したのは、東京駅で遊びに来るようにと誘ってくれた同僚であった。ポケットから昌太郎の月給袋をとり出しながら、
「今ね、佐山君を訪ねてきた人が受附にいるんです。けさの記事を見て、もしかしたら自分の戦友だった佐山ではないかと――お会いになりますか」
「ぜひ」雪江はすぐ答えた。戦友なら、自分の識らない昌太郎の半面を知っているかもしれなかった。昌太郎自身も言ったように冗談とは思いながら、やはり雪江は東京駅での言葉が気にかかっていた。昌太郎は、兵隊時代の話を殆んどしたことがなかった。
やがて、案内されて応接室にはいってきたのは、あまり身なりのよくない、小柄で左頬に傷のある男だった。渡された名刺には、岸本英男とだけ刷られてあった。昌太郎より二つ三つ老けている感じだった。
一緒に社を出て「レオ」の扉を押すと、
「まあ、お珍しい」
マダムが大きな声で迎えてくれた。岸本を隅の席に置いて、カウンターに近寄ると、
「ここ二、三日、吻としているのよ」マダムが悪戯っぽい目を見せた。「だって佐山さんたら、ここへ来るたんびに奥さんの惚気ばかり聞かせるんですもの。ねえ、節ちゃん」
傍の十七、八の少女が頷いたので雪江は赧くなった。
「まだなの、奥さん」マダムは急に声をひそめた。
「は?」
「もうお出来にたったんじゃないの」
もう一度赧くなって、雪江は慌てて頸を振った。
「私、愉しみにしているのよ。あんまり仲がよすぎるのかな」
雪江は逃げるように隅の席へ涙ったが、
「佐山は幸福ですなあ」
今度は岸本で待ち構えていた。
「いや、お世辞でなく、こんな美しい奥さんを――」
「いまお給料を戴いてきたばかりですから、うんとご馳走しますわ」
初対面の堅苦しさがいっぺんにほぐれた。
「あの記事に『五年ぶりで見る塘沽の港は……』とあったでしょう。急に懐しくなりましてね。われわれもあすこに集結していたんですよ。佐山が新聞記者をやっているという噂は、ずっと以前ちらっと耳にしていたんですが、どの新聞社か判らなかったものですから――」復員後、昌太郎とは一度も会っていないという岸本は、それがいかにも残念そうだった。
「併し、この近くに用事があったんで、念のため問い合わせたら奥さんに会えるなんて、やっぱり佐山と僕は縁があるんですな」
昌太郎とは初年兵の頃からずっと一緒で、不寝番も厩当番もいつも同じだったという岸本は、幹部候補生の試験も共謀してでたらめな答案を書き、二人とも目的を達したかわりに中隊の見習仕官から半殺しにされた、と語った。
「では、佐山とは内地にも一緒にお帰りになったんですの?」
「いや、帰ったのは僕のほうが早かったんです。集中営で船を待っているとき、佐山は急に中国側の憲兵隊から呼び出しをうけて、そのまま僕らが乗船するまで戻って来なかったんです。――ご存知なかったんですか」
「初耳ですわ。佐山は軍隊時代の話をちっともしてくれませんの」
「兎も角、お互いに無事に帰って来られたんですから、今更僕が何も言うことはないんですが」
岸本は、そう言ってから左手で頬を撫で、
「この傷、実は佐山にやられたんですよ」
「えッ」
「いや、やられたというとヘンですが――いいですかな、こんな話を奥さんにして」
「どうぞ、聞かせて下さい」
「気を悪くなさらないで下さいよ。――あれは、僕らが二回目の匪賊討伐のときでした。山東半島のちょうど真ン中の山岳地帯でしたが、或る部落を掃蕩しに行ったんです。八路軍の遊撃隊が匿れているという情報でした。むろん、部落にはいって行ったときは、敵はとっくに逃げたあとで、人ッ子一人居ませんでした。その日はその部落に宿営することになって、夕方、佐山と僕は歩哨の交代で部落の西の隅へ出かけて行きました。或る大きな家の前を通ったとき、誰も居ない筈の家の中から物音がきこえてきました。着剣した銃を擬して、僕らは恐るおそる家のなかへはいって行ったんです」
ジュースの残りを啜ってから岸本は、わざと雪江のほうを見ないで言葉を継いだ。
「いちばん奥の部屋の入り口で、僕らは棒立ちになりました。大きな寝台を挾んで、僕らの班長と半裸の女が睨み合っていたからです。女の手には銃剣が握られていました。僕らに気づいた斑長が、殺せ、その女を殺せッ、と喘ぎながら命じました。見ると班長も下半身が裸でした。僕らはすぐ一切を諒解しました。つまり班長に犯されそうになった女が、土壇場で剣を奪って逆襲に転じたところだったのです。班長の叫びで女が僕らのほうを振りむきました。上衣も裂けて殆んど全裸に近い、まだ若い女でしたが、僕らを物凄い形相で睨みました。殺せッと班長がまた叫んだとき、佐山はひと足ふみこんで銃をつき出しました」
雪江は膝の上で掌を握り締めた。
「凄い悲鳴を挙げて女はのけぞり倒れました。併し、まだ剣をはなさず、滅茶苦茶にそれを振り廻しています。寝台をとび越えてきた班長が、佐山の銃をとろうとしました。すると、どうしたわけか佐山が拒んで、銃を手許に引いたんです。その拍子に剣尖が僕の顔をかすめたんですよ」
雪江は掌を握り直した。喉に渇きを覚えた。
「僕は自分の銃を抛り出してその場に蹲まりました。すぐ耳許で銃声が鳴ったのは三秒とたたぬうちでした。顔を掩った指の間から覗くと、血まみれになった女の肩が、ひくひく痙攣していました。そのときはじめて気づいたんですが、仰向けにたった女の腹が異様に大きくて身重で部落から逃げおくれたらしいんです」
どのような挨拶をして岸本と別れ、いつ「レオ」を飛び出したか、雪江は憶えていない。けたたましい自動車の警笛でわれにかえり、あわてて目の前の緑地帯にかけこんだ雪江は、はじめて其処が昭和通りであるのに気づいた。
――このまま帰れないかもしれないよ。
東京駅での昌太郎の言葉が、毀れたレコードのように、何度も耳底からきこえてきた。雪江は軽い眩暈を覚えてその場に跼んだ。と、眼前を走り抜けて行ったらしいトラックのガソリンの匂いが鼻を摶ち、霧江は烈しい嘔気に襲われた。手帛を取り出す暇さえなかった。

●八

暮れから正月にかけて、雪江は昌太郎と、殆んど毎晩のように諍いを繰り返した。絶対に産むなという昌太郎と、独りになっても産むと頑張る雪江との間には、アパートの一つ部屋に棲みながら共に啞のような日もあったし、片方が何か言い出せば、そのあとに旧い傷痕を抉るような言葉が一時間の上も投げ交されることもあり、果ては諍いの原因をはなれて、お互いの人生態度まで非難し合う始末にもなったが、結局は二人とも疲れ切って、また白々しい日を重ねて行った。
正月三日、夫婦は揃って弘明寺へ新年の挨拶に行き、翌朝、昌太郎が出勤してから、雪江は母にはじめて妊娠を告げた。そして「当分、こっちにいるわよ」とつけ加え、昌太郎が着いた頃を見計って社へ電話した。タ方、いつもより早目に戻ってきた昌太郎が、これからアパートに帰ろうとせき立てたが、雪江は耳をかさなかった。昌太郎は仕方なくもう一晩、弘明寺に泊り、「夕方までには帰っていろよ」と言い置いて出勤した。むろん雪江は、その夜も実家から動かなかった。昌太郎は中一日置いて再び迎えに来たが、雪江が翻意しないのを知ると、母のとめるのもきかずにその夜のうちに帰って行った。それきり五日経ち一週間すぎても、昌太郎は姿を見せなかった。
「いいのかい、お前」母がおろおろ声で何度も訊いた。
「今度だけは昌太郎君の言うことをききなさい」父も言った。「お前はまだ若いんだ。この次妊娠したら、儂が昌太郎君を説得してやるよ。30すぎれば、彼だってきっと自分の子供が欲しくなるよ」
併し雪江は、頑なに首を振りつづけた。
雪江もさほど子供が欲しいわけではなかった。ただ産みたかったのだ。堂々と大威張りで産んでみたかった。修吉を産みながら、育てる喜びを殆んど知らない雪江にとっては、誰にも気兼ねなく自分の子供を産めることが、それだけが、切実な願いだった。
あの岸本の話を聞かなければ、或いは雪江も昌太郎に言い負かされていたかもしれなかった。むろんあの話をきくまでもなく、入隊の挨拶にきたときの昌太郎が、臨月の腹をかかえた自分の姿に衝撃をうけたことはよく判っていた。昌太郎は復員するまで、いや、相撲場で再会するまで、自分を憎みつづけたに違いない。
けれども、だからこそ雪江は、子供が産みたかった。もう一度、大きた腹を抱えた自分の姿を曝して、昌太郎の愛情をたしかめて見たかった。
――どうしてもあたしの妊娠姿を見たくないというなら、あのひとの愛情は結局、それだけのものなのだ。あのひとが心底からあたしを愛していれば、最後にはかならず許してくれるだろう。
女が愛している良人の子を産みたいのと同じように、男も愛している妻に自分の子を産ませたい筈だ――雪江は信じて疑わなかった。
二カ月後、自炊生活にネを挙げた昌太郎が、むっつりした顔を弘明寺に運んできたとき、雪江の軀はすでに中絶できない月にはいっていた。
「奥さんのある人にはお茶漬けを食べさせませんて、レオのマダムに断られちゃったんだ」
昌太郎はそんな風に言った。雪江よりも先に母が涙ぐみ、父は飲めない昌太郎に無理矢理、晩酌の対手をさせた。
「あたしも少し飲んでみようかな」
調子に乗って雪江が言うと、
「いけません、雪江。お酒好きの赤ん坊がうまれますよ。酒飲みは父さんだけでたくさん」
母も珍しく冗談を言った。
和服の上に雨ゴートでも着ればまだ目立たないのを知りながら、雪江はわざわざ妊婦服を着て、母と一緒に世田谷のアパートヘ戻った。その服装で両隣の部屋へも挨拶に行った。
部屋のなかは昌太郎の月余の独身生活で、呆れるほど散らかっていた。華奢な指をしているくせに昌太郎は不器用だった。棚一つ吊れなかった。雪江は、修吉を気遣って落着かない母を強引に二日引き留め、部屋の跡片づけを手伝わせた。裏庭の共同物干場を昌太郎の洗濯物が半分以上、占領し、出窓の手すりも、靴下と手帛で一杯になった。痩せた軀に似合わず昌太郎は脂足だった。
母が帰って、久振りに夫婦二人で迎えた晩、雪江はかつてない歓びを覚え、
「隣にきこえるよ」
昌太郎の掌で口に蓋をされた。余燼にうっとりしている雪江の耳許で、
「お前には負けたよ」
昌太郎が囁いた。
「ご免なさい、我儘ばかり言って」
「お前はあのとき、もう知っていたんだろう。形見と言うのは、やっぱりこれだったんだな」
昌太郎の掌が腹部を撫でた。
「違うわ。あのときは本当に知らなかったのよ」
「じゃ、形見というやつを見せてみろ。帰ってきたら見せると言ったぞ」
「無事に帰ってきたんですもの、もう形見ではなくなったわ」
「こら、ずるいぞ。――おい、よせよ。もう勘弁してくれ」
「いや、勘弁しない」
「声を出さないって約束するか」
「出したくて出すんじゃないわ。これがいけないのよ」
「ばか」

翌朝、昌太郎を送り出してから雪江はまた牀にはいった。明け方までの疲労がまだ全身に甘く澱んでいた。両手を腹部にあてて、
――大丈夫だった?
そっと訊いてみた。昌太郎も咋夜、大丈夫かい、と何度も尋ねた。「流産してもしらないから」そう言いながら、併し昌太郎は、なかなか雪江の軀を放そうとしなかった。雪江は寝たまま鏡をとって、はだけた胸を映した。頸筋と乳房のわきに紫の斑点が見えた。もっと別なところにも、同じ痕が残っている筈であった。
――やっぱりあのとき身籠ったのだ。
昌太郎がはじめて前後を忘れたあの夜のことが、まざまざとよみがえった。昌太郎の酒臭い口が、雪江の軀をところかまわず這い廻った。雪江はじっとしていた。昌太郎の衝撃を薄めることに役立つなら、自分の軀がどうなろうともかまわぬつもりだった。軀の奥深いところから、次第に熱してくるものを感じ、雪江は懸命にそれを抑えた。自分までが前後を忘れては、和彦に済まない気持だった。間もなく昌太郎は、雪江の軀の上で眠りに落ちた。雪江はかなり長い間、その重みに堪えていた。はじめて昌太郎のじかの軀を知りながら、歓びにはほど遠かった。――
手鏡を胸に伏せて、雪江は目を閉じた。今度の妊娠は、和彦の死によってもたらされたと言えないこともなかった。ついに生みの親の顔も知らずに、自ら短い生涯を断った和彦を想うと、修吉の将来にも不安を覚えた。やがては修吉も、真実の母親が雪江であることを知る時期が来る。そのとき受ける修吉の衝撃を思うと、雪江は今から恐しかった。もしかすると修吉は、これから産まれる児まで怨むのではなかろうか。昌太郎が雪江に無理矢理、生涯子供をつくるまいと誓わせたのも、それが怖かったからに違いなかった。
――やっぱり産んではならない児なのだろうか。
流産するぞと脅しながら昨夜いつになく昌太郎が執拗だったのも、ひょっとすると、それをひそかに期待していたのかもしれない。
甘美な名残りをたのしむつもりで横になりながら、いつか雪江は、疑心暗鬼にとらえられていた。
夕方、駅前の商店街で、雪江は隣室の細君に呼びとめられた。昨夜のことを思い出して頬を赧らめながら会釈すると、
「私、申し上げましたかしら」雪江のすぐわきに寄って来て細君が言った。「お留守に女のお客さまがあったこと――」
「いいえ。あの、どんな女でした?」
多分、久子だろう。そろそろ結婚式の日取りを知らせに来る頃であった。
「小柄な、おとなしそうな方でしたわ。そう、二十三、四ぐらいかしら」
雪江は頸をかしげた。久子ではなさそうである。
「たしか、先週の土曜の夜でしたわ」
「夜?」
「ええ、八時頃だったかしら。私がお風呂から帰ってくると、お部屋の前に立っていらっしゃったわ。まだご主人もお帰りになっていなかったので、私、よかったら、うちでお待ちなさいって言ったんですけど、すぐ帰っていかれましたわ」
細君が探るような目を注いできた。雪江には心当りがなかった。
「それで、主人には……」
「実はその翌日、お宅の部屋から女の方の声が聞えたので、ああ昨夜の方だなと思って、そのまま申し上げなかったんです」
波立った胸をさとられまいとして、雪江はわざとゆっくり買物籠を持ちかえた。
「たしかお昼前から、夕方おそくまでいらっしゃいましたよ」
騒ぐ胸に藤原亮子の顔が泛かんだ。
「その方のことなら、主人から聞きましたわ。あたしもよく知っている婦人記者ですの。いま主人と同じ事件を追っているんです」
雪江には精一杯の嘘であったが、細君は明らかに信じない顔をしていた。
「あたし、まだ買物が残っていますから――」
五、六間戻って振りかえり、細君が横丁を曲るのを見定めてから雪江は、アパートとは反対の道へ足を向けた。
――焼けぽっ杭に火がついたのだろうか。あの女はまだ結婚しなかったのか。
まだ亮子とは断定できなかった。新しい女かもしれなかった。あのとき亮子も、女出入りが派手だ、と言った。
――仕方がないわ。長い間、独りにしておいたんだもの。
たとい対手が亮子でも、今更、昌太郎が自分を棄てて彼女と一緒になるとは考えられない。ただ、昨夜の今日、隣の細君から知らされたことが、雪江にはこたえた。
併し、男にはありがちなことだし、父のことを考えれば、一度や二度の過ちぐらい、当然のことかもしれなかった。が、アパートにだけは連れこんでほしくなかった。
――今夜帰ってきたら、その点だけでも釘をさしておこう。それとも、何も言わないほうが、いいだろうか。
不意に誰かが前に立ち塞がった。どきっとして目を挙げると、大きな梅の木が長い枝をのばしていた。見知らぬ農家の庭先であった。道はそこで行きどまりだった。
雪江はあわてて踵を返した。四囲がそろそろ暗くなりはじめていた。

●九

ひそかに予期していた通り、昌太郎の外泊が多くなりはじめた。
仕事柄、それまでも帰宅しないことはちょくちょくあったが、翌日の朝刊を読めば外泊の理由を改めて問い糺す必要はなかった。いわば事件が外泊証明書だった。
外泊した翌日、昌太郎は帰宅するなり、牀に倒れるようにもぐって、昏々と睡った。口をきくのさえ億劫なほど疲れている様子だった。その枕許で編棒を動かしながら、ときどき彼の寝顔を眺めて、新聞記者の妻はみんなこんな風なのだろうかと雪江はよく思ったものである。併し、けっして不満ではなかった。むしろ、昌太郎の長い睫毛を見ていると、藤椅子で安静していた少年時代のことなどを憶い出し、下腹部のほうからなま暖いものが拡がってくることさえあった。
ひと眠りすると、昌太郎はあきれるくらいの食慾を示した。なんでもよく食べた。その食事の合間に、新聞に載らなかった事件の裏話をきかせてくれた。
雪江の期待通り、あの中共取材を契機に昌太郎は以前の積極性を取戻した。すっかり立ち直ってくれた。「新中国見聞記」という囲い物も評判がよく、読者からの反響も多かったという。他紙も同じような連載物をのせていたが、身びいきでなく雪江は、昌太郎の記事がいちばん面白かった。
兵隊時代に見た中国と、記者として見た中国の相違を素直に記して、中国については何も知らない雪江にも、その変化ぶりが手にとるようによく判った。
「局長がもっと続けろというんだが、そろそろタネ切れさ」
減多にひとを褒めたことがないという編集局長に認められたことが、昌太郎にはいちばんうれしいらしかった。連載が終ったあと、何か大きな事件があるたびに、昌太郎は自ら夜勤を買って出ているようであった。
「うちの社会部は俺でもっているようなものさ」
それがけっして自惚れでないことは、彼の書く記事の量が証明していた。
雪江は結婚以来、昌太郎の記事をすべてスクラップブックにはっておいた。結婚前に昌太郎自身が整理しておいたものと併せれば、もう五冊をこえていた。昌太郎は早く帰ってきた晩なぞ、そのスクラップブックを繰って取材の苦心談をきかせてくれた。そんなときの昌太郎は、いかにも新聞記者という職業が愉しくてならない、という表情であった。雪江も、そんな彼を見るのが愉しかった。誇らしくさえ思った。結婚して本当によかったと、鼻の奥が痺れてくるような幸福感に包まれたことも何度かあった。
今度の度重なる外泊も、そうした点では疑いをはさむ余地は少しもなかった。いずれも大きな事件が起きた夜に限られていたし、裏話をことこまかに語ってもくれた。
併し、それにも拘らず雪江は、外泊がけっして仕事のためだけではないことを感じ、彼が詳しく語れば語るほど、そこから弁解めいた匂いを嗅ぐ思いがした。むろん、隣の細君からあんな話をきかされたせいだったが、そればかりではない何か膜のようなものが昌太郎との間に一枚、できたような感じだった。裏話が済むと昌太郎はかならず雪江の軀を求めた。ひと睡りして疲れがとれたせいか、昌太郎は妙に執拗で、雪江が胎児を気づかって「もういいの」と言っても、なかなか愛撫をやめようとしなかった。軀は陶酔に引きずりこまれながら、併し雪江は、そこにも以前は覚えたことのない違和感を覚えた。
――その後、藤原亮子さんはどうしているの?
何度か喉まで出かかったが、いざとなるとやはり思いきって問い糺せなかった。中外新報に移るとき、亮子はたしか社を辞めた筈であった。あれ以来、昌太郎は殆んど亮子のことを口にしなかった。雪江も尋ねなかった。留守に昌太郎が部屋に入れた女がはたして亮子かどうかは隣の細君にもっと詳しく訊けば判るだろう。だが、今更、改めて持ち出せなかったし、もし亮子と判れば、そのときは余計自分がみじめな思いをするだけであった。
――無事に赤ちゃんを産むことだけ考えればいいんだよ。
長谷の病院で劬ってくれた和彦の言葉を思い出し、
――赤ん坊さえ産まれれば、女とも手を切ってくれるだろう。
雪江は敢えて自分に言いきかせた。疑い出せばきりはなかったが、考えてみれば、いわば妻の直感だけで、根拠は殆んどなきに等しかった。
給料日を間にはさんで、昌太郎が三晩つづけて家を空けたのは、日に何度も胎動を覚えるようになった四月の初めだった。
四日目の午後、雪江はとうとう我慢しきれずに昌太郎の社へ出かけて行った。
三日間、雪江はまるきり食慾を覚えなかったが、胎児のことを考えて無理矢理にお茶漬けを流しこみ、毎朝、目をつぶる思いで牛乳も一合飲んだ。出かける前、念入りに化粧した。いくらか眉が薄くなったので、いつもより濃い目に墨を引いた。帯も思いきりきつく締めた。鏡台の前で二、三度廻って帯上げの恰好を直しながら、相撲場へ出かけて行ったときのことをふと憶い出した。あのときも、鏡の中の顔に何度も念を押したものであった。
駅の公衆電話の前でやや暫く考えた末、雪江はじかに訪ねる心を決めた。日頃、社へはよくよくの用事でない限り電話をかけるなと言われてもいた。もし電話で、今夜帰ると言われたら、わざわざ出かけてゆく必要はない。が、そのかわり、帰ってくるまで苛々していなくてはならない。それに堪えられそうもなかった。花曇りの、少し風の強い日であった。
雪江は新宿駅西口で思い切ってタクシーを拾った。車代を払ったり、帰りの電車賃がおぼつかないほどのお金しか持っていなかった。それだけに、なんとしても昌太郎と一緒に帰るつもりだった。
「お客さん、お花見にいらっしゃいましたか」
中年の運転手が、ゆっくり車を走らせながらのんびりとした声で訊ねた。
「いいえ、まだ」
「わたしは、きのう公休だったので、家族を連れて三里塚へ行ってきましたが、大変な人出でしたよ。日曜日でもないのに。――すっかり平和になりましたなあ」
「満開でした?」
「いえ、ちょっと早かったようですが、今度の休みまでには散っちまうんで――こんな商売をしていますと、なかなか休みがとれません」
「羨ましいわ、お花見なんて。奥さん、よろこんだでしょう」
「わたしだって、戦後はじめてですよ。併し、桜の花って、いつみてもいいもんですな」
後頭部が少し薄くなった運転手は、人の好さを丸出しにして、昨日の行楽を話したくてしようがないという様子だった。妻や子供を連れて、広い三里塚の牧場を歩き廻っている運転手の姿を想像すると、雪江は心底から羨ましくなった。恐らくこの運転手は、あたしがこれから外泊した良人を迎えに行くところだとは夢にも考えないだろう。ひょっとすると昌太郎も、きのうあたり亮子を連れてお花見へ行ったかもしれない。
「子供の頃、お花見だけは親爺が毎年、連れて行ってくれましてね。戦地で、もう一度桜が見たいとよく戦友と話合ったものです。なあに、そのうち九段の桜だけは間違いなく見られるさ、なんて冗談を言ったものでしたが、昨日その念願のお花見をして、生きて還った喜びをしみじみ味わいましたよ。死んだ戦友たちには、ちょっと申しわけないような気持でしたが……」
「運転手さん、少し急いでくれませんか」
運転手の感慨は判らぬこともなかったが、いまの雪江にはやはり無縁だった。
社の受付で昌太郎を呼んで貰ったが、取材に出かけて二時間ぐらいしなければ戻らないという返辞だった。社会部長の名を口にしかけ、すぐ思い直して雪江は受付をはなれた。「レオ」で待とう。が、店の二、三歩前まで来ると、なんとなく気がひけ、雪江は足早に扉の前を通りすぎて、茅場町のほうへ歩いて行った。横浜育ちの雪江には、全く見知らぬ街並であった。二時間、どこで時間を潰したらいいか、見当もつかなかった。珈琲代ぐらいは残っていたが、喫茶店にはいったら、それこそ帰りの電車賃さえなくなってしまう。やっぱり出てくるべきではなかったかもしれないと、馴染みのない街をあてもなく歩きながら、雪江は次第に心細くなってきた。
昌太郎は本当に取材に出かけたのだろうか。今頃、亮子とどこかで会っているのではなかろうか。茅場町の交叉点を左へ折れ、千代田橋の上に佇んで、濁った運河の川面へ目を落しているうちに、
――あの人は、今頃になって、あたしに復讐しているのかもしれない。
そんな思いがふっと胸に湧いた。昌太郎が結婚する気になったのは、実は愛情からではなく、一生かかって、あたしをいじめるためではないだろうか。口では修吉の将来のため、と言っていたが、あたしに子供を産ませまいとしたのも、心底ではあたしを愛していない何よりの証拠ではないか。もしあたしを愛していれば、妊娠を心から喜んでくれるのが当然だ。それなのにあのひとは、しぶしぶ出産を認めたものの、仕事を口実に頻繁に家を空け、あたしのこのせつない気持を少しも察してくれようとはしない。あたしたちが結婚したのは、お互いに青春の傷口を舐め合い、その傷口を少しでも癒やそうとしたいためではなかったか。あたしは健市のことで躓き、あのひとは、叔母によって躓いた。ともにたった一度の過失だったが、あたしはその結果を生涯、背負いこむことになった。だが恐らくあのひとは、叔母との過失なぞ、今では憶い出しもしないだろう。あたしと結婚したのも、つい感傷に負けたせいではなかろうか。
――軽い眩暈を覚えて、欄干に左手をついたとき、
「佐山さんの奥さんじゃありませんか」
振りむくと、たしかに見憶えのある若い男がニコニコしながら大股に近づいてきた。肩から大きた写真バッグをぶらさげていたので、結婚式で写真を撮ってくれたカメラマンの一人であることを雪江は憶い出した。
「その節は――」雪江は丁寧に頭を下げた。
「いやあ。社へいらっしゃったんでしょう?」
「はあ。でも……」
「僕も社へ帰るところです。一緒に行きましょう」
カメラマンは先に立って橋を渡ると、運河に沿った細い道へはいって行った。仕方なく雪江もあとに従った。
「佐山さんには、いつも現場でキリキリ舞いをさせられています」
前を向いたまま、カメラマンが言った。
「なにしろ今や社会部のスターですからね」けっして皮肉ではない口調だった。
「あの、佐山は昨夜、社に泊りましたでしょうか?」
つい口を滑らせ、雪江はすぐ後悔した。案の定、カメラマンの足がとまった。
「さあ、僕はきのう日勤で早く帰りましたから……ああ、そう言えば今朝、社会部の隅でせっせと記事を書いていましたよ。奥さん、心配することはありませんよ。僕も家に無断で社に泊りこむことはしょっちゅうです」
「ちょっと用事が出来たものですから――」
「実際、因果な商売です」カメラマンはバッグの紐をかけ直しながら歩き出した。
「まあ、好きでやっている商売ですから、誰にも文句は言えませんが、事件が起きたら、三日ぐらい、子供の顔を見ないことなぞざらですよ」
「あら、お子さんがいらっしゃるんですか。とっても、そんなには見えませんわ」
「バーなぞでは独身で通していますがね。もう三つになります。女房の奴、僕がまだ要らないと言うのに、どうしても産むとがんばりやがって――そのくせ近頃では、少しも目が放せないので、何処へも出かけられないと、ぼやいています。自縄自縛――ざまあみろ、です」
雪江はそっと両袖で前を覆った。帯をきつく締め、道行を着てきたので、気づかれる筈はないと思うのだが、雪江の妊娠を知っていて、わざと皮肉を言っているような気がした。
「よろしければ、お茶でも飲んでいきませんか。僕も急いで戻らねばならない仕事じゃありませんから」
「ありがとうございます」
「お茶と言えば、レオのマダム、近く再婚することになりましたよ」
「あら、ちっとも知りませんでしたわ。佐山も知っているでしょうか。あのひと、そんなこと、何も言いませんわ」
「なんでも、戦死した亭主の戦友とかいう話です。うちの社でも、随分モーションをかけていた奴があったんですが、マダムは見むきもしませんでした。もっとも理由はあったんですがね」
カメラマンは含み笑いをしてから、
「奥さんに、こっそり教えましょうか」
「何をです?」
「あのマダムは、実は佐山さんが好きだったんですよ」
「まさか」
「そりゃ、マダムのほうが齢上ですし、佐山さんも相手にしませんでしたが、浮いた気持じゃなくて、マダムは佐山さんにひと方ならぬ好意を寄せていました。いや、これは僕だけじゃなく、レオに出入りしている者は等しく認めています。マダムが再婚に踏切ったのは、佐山さんが結婚したからだ、というのが僕らの一致した見方です」
「だって、マダムは喜んであたしたちの披露宴を――」
「佐山さんも残酷なことをするもんだと、実は僕ら、蔭で噂し合っていたものです。併し、佐山さんにすれば、あらぬ噂を立てられないために、わざとレオを借りたのかもしれません」
にわかには信じられなかった。が、披露宴のあとでお茶漬けをかっこむ昌太郎を、じっと見詰めていたマダムの顔が浮かび、雪江はまた軽い眩暈に襲われた。

●十

「一週間ばかり待ってくれないか」
お絞りで顔を拭ってから昌太郎が言った。雪江も指先をふいていたが、その手をとめて昌太郎を見詰めた。隣の部屋から、襖越しに酔った男のだみ声が聞えていた。八重洲口の小料理屋の二階だった。社から此処にくるまで、昌太郎は殆んど口をきかなかった。歩きながら背広の襟が折れているのに気づいて雪江が手をのばしたときも「ありがと」と短く言っただけであった。昌太郎はこの店の前で立ちどまり、ちらっと雪江を振りむいてから無言で格子戸を開けた。雪江も黙って草履をぬいだ。仲居の馴れなれしい言葉遣いから、昌太郎がよく来ていることが判った。酒をのまない昌太郎がなぜこんな店を知っているのか、ちょっと訝しく思ったが、それを穿さくしている場合ではなかった。
「すっかり結着がついてから打明けるつもりだったんだが……」
お茶をひと口啜り、呟くように昌太郎が言った。
「やっぱり亮子さんだったのね」
雪江は溜息をついた。昌太郎は答えなかった。沈黙が肯定を示していた。
「一週間待ったら、結着がつくの?」
「結婚するらしいんだ」
「結婚?」
「正月に結納して、今月末に式を挙げる予定になっているんだが、どうしても気が進まず、決心がつくまでつき合ってくれと言われているんだよ」
「どうかしているわね」
「誰? 俺がか?」
「二人ともよ」
「そうかもしれない」
あっさり肯定されて、雪江は次の言葉が出なかった。
「あのときで終ったつもりだった。すっかり済んだつもりだった。いや、偶然、再会しなければ、こんなことにはならなかった。今更、言訳めくかもしれないが、一度きりの約束だったんだ。まさかアパートにまで訪ねて来るとは思わなかった――」
「留守にしたあたしが悪かったのね」
雪江が言ったとぎ、襖が開いて、仲居が料理を運んできた。部屋の重い空気を察したらしく、仲居は卓に料理をならべ終えると、「どうぞごゆっくり」それだけ言って、すぐ退って行った。昌太郎は割箸を袋から抜き出して早速酢のものを摘みはじめたが、雪江は食べる気にはなれなかった。
「三日間、ずっと一緒だったの?」
「別れて予定通り結婚するように極力頼んだんだが、なかなかうんと言ってくれないんだよ」
「当り前じゃない。別れるなら、会わないのがいちばんいいことぐらい、貴方だって知っている筈でしょ」
「正直に言えば、僕にも未練がないこともなかった」
「あたしにもう一度、父なし子を産ませる気だったの?」
「いや、お前と別れる気は毛頭ないよ」
「それじゃ、亮子さんに対して、よけい残酷じゃない」
「そう言われれば、一言もない。だが、泣いてすがられると、無下にもでぎなくて――」
「ご馳走さま」
「雪江、たのむからもう一週間待ってくれ。きっと別れるから」
「辛いわ」
「済まない」
「ね、あたしが亮子さんに会いましょうか。あたしから頼んでみるわ」
「いや、なんとか僕が説得するよ」
「もう会わない方がいいんじゃないかしら。貴方、あたしが妊娠していることを言ったの?」
昌太郎が怯んだ表情になった。
「やっぱり言ってないのね。あたしが会うわ。あたしの軀を見れば、亮子さんだって、きっと諦めてくれるわ。いいえ、かならず諦めさせるわ」
「やっぱり、こんな処じゃ落着いて話せないな。早く食べて出よう」
「だから、あたしが、会社からまっすぐ帰りましょうと言ったのに――」
雪江も箸をとったが、一向に食慾は湧いて来なかった。酢のものの鉢も、刺身の皿もあらかた空にした昌太郎の食慾が、羨ましいよりも、いささか憎らしかった。
「貴方、岸本さんという人、知っている?」
「岸本?」箸をとめて昌太郎は少時目を宙に据えていたが、
「知らないな」
「戦友だった人よ」
「戦友? ああ、あの岸本か」
「あたし、会ったのよ」
「え? どこで」
「貴方が中共へ出かげていた留守に。偶然、社でお目にかかって、色々、兵隊時代のお話を聞いたわ」
「ほう。元気だったかい? 僕は復員以来、一度も会ってないけど――」
「貴方が怪我をさせたんですってね」
「怪我? 誰に」
「岸本さんによ」
「冗談じゃない。僕にはそんな覚えないよ」
「うそ。あたし、みんな聞いちゃったのよ」
「一体、何の話だい?」
「討伐に行ったときの話よ」
「討伐には何回も行ったが、岸本に怪我をさせたことたんか無いぜ」
「じゃあ――」雪江は絶句した。あの話は嘘なのか。岸本の作り話だったのか。
「岸本と、どこで話をしたんだ」
「レオよ――あすこのマダム、再婚するんですって?」
「よく知っているな」
「貴方、あのひとともへんだったでしょ」
「ばかなことを言うな」
「本当?」
「たしかに俺は、女にだらしなかったが、いくらなんでも――いったい、誰がそんなことを言ったんだ」
「ね、亮子さんに会わせてくれるわね。あたしが会ってもいいわね?」
昌太郎はまた黙った。唇のはじが、微かに痙攣していた。
「会わせたくないのね」
「兎に角、一週間待ってくれ。一週間経ったら、かならず別れるから」
「なんで一週間も必要なの」
「藤原君がそう言うんだよ。あと一週間つき合ってくれと。そうしたら、別れる決心がつくというんだ」
「嘘よ。あと一週間つき合えば、きっと貴方を虜にできると思っているのよ。貴方だってきっとあのひとのほうがよくなってしまうわ」
「これ以上、お前を裏切るようなことは絶対にしない。僕を信じてくれ」
「一週間、あたしは、どうやって暮したらいいの? 亮子さんの気持ばかり大切にして、あたしの気持なんか、一つも察してくれないのね」
「播いた種を苅り損なったんだ。今度は、完全に苅りたいんだよ。辛いだろうが耐えてくれ。一人で辛いなら、横浜へ行っててくれないか」
「亮子さんのほうがよっぽど反則だわ」
「反則?」
「貴方、お花見に行った?」
「さっきから、お前はへんなことばかり訊くな。――ね、横浜に行っててくれるか?」
「貴方を信じるよりほかに方法はないわね」
「じゃ、判ってくれたんだな」

一週間、雪江は実家の二階で殆んど寝て暮した。今更、考えても仕方がなかった。亮子を憎んでみたところで、それで気持が晴れるわけでもなく、昌太郎の身勝手を非難してみたところで、急に彼を嫌いになれるわけでもなかった。長い一生から見れば、とるに足りないことかもしれない。むしろ長い夫婦生活にはありがちなことなのだ。母さんだって、長い間、父と叔母とのことを堪えてきたではないか。忍従が妻の美徳だとは思わなかったが、今はただ、一週間という日時が経つのを、じっと待つよりほかはなかった。両親には、昌太郎が九州へ取材に出かけた、と言ってあった。小学生の修吉は、滅多に二階へ上って来なかった。学校から帰っても、鞄を抛り出してすぐ遊びに出かけ、暗くなるまで戻らなかった。おなかが空けば帰ってくるわよ、と雪江はわざと冷淡に言ったが、母は毎日、近所の友だちの家を捜し廻り、泥だらけになった修吉を連れ戻すと、ぶつぶつ小言を言いながら、手足を叮嚀にふいてやるのだった。家によりつかない修吉に、雪江はかえって救われていた。なまじまつわりつかれたら、いやでも昔のことを憶い出し、昌太郎の今度の仕打ちに、改めて恐怖を覚えなければならなかったに違いない。昌太郎の言葉通り、一週間と限ったのは、あくまでも彼が亮子を持て余しているせいだと、雪江は自分に言いきかせた。復讐だと思ったら、とても実家でじっと待ってはいられなかった。
露子がひょっこり訪ねてきたのは、雪江が実家に来て五日目のタ方であった。結婚以来はじめて会う露子は、前よりも一段とあだっぽく、齢も二つ三つ若返ったようにさえ見えた。
「雪ちゃん、おめでとう。八月の末だって?」
二階に上ってくるなり、露子は明るい声で言い、とんび足でぺたりと坐った。
「きょうはお店、お休み?」
「ちょっと抜けてきたのよ。ここんとこ、なんだか莫迦に忙しくて、ろくにお休みもとれないんだよ」
「そのかわり、いい収入になるんでしょ」
「それが、みんな渋くてね。もっと大きなお店に替ろうかと思っているんだよ。――昌太郎さん、お元気?」
雪江は暖昧に頷いた。
「雪ちゃん、心配じゃないのかい?」
「何が?」
「だって、ずっとこっちに来ているそうじゃない。いいの、そんなに長いこと独りにさせておいて」
「出張なのよ」
「本当に出張なの?」
雪江はどきっとした。が、まさか露子が真相を知っているわけがなかった。露子は袂から煙草をとり出すと、さも旨そうに吸いはじめた。
「それにしても、歳月って経ってしまうと早いもんだねえ。昌太郎さんがもうすぐお父さんになるんだから……稲村の頃から十年以上経つなんて全く嘘のようだよ」
「叔母さんはあの頃とちっとも変らないわ」
「冗談言っちゃあ、いけないよ。すっかり皺がふえちまって、齢はとりたくないものです、さ」
「稲村って言えば、たしか離れの窓際に紫陽花があったわね。憶えている?」
「憶えているどころか、私はあの花が好きでね。あれは叔父さんに頼んでわざわざ苗木を買ってきて貰ったんだよ。毎年咲いて綺麗だったねえ……」
この叔母にはどんなことを言っても太刀打ちできないのか。あれからまだ一年も経っていないのに、露子は和彦の事件なぞすっかり忘れてしまったようであった。
「で、昌太郎さん、いつ帰ってくるの?」
「多分、あさってよ」
「昌太郎さん、立派になっただろうね。ずいぶん長いこと会ってないから、一目会いたいな」
「どうぞ、ご遠慮なく。あさって、こっちに来る筈よ」
「それじゃ、あさってもちょっとお店を抜けて来ようかな」
ぬけぬけとした露子の言い草に、忘れていた憎悪が湧き、雪江は露骨に眉を寄せた。露子は腕時計をちらっと見て、
「あら、もうこんな時間、お店に戻らなきゃ――」
煙草を灰皿に棄てて立ち上った。
「あさって、本当に来る?」
併し、雪江が訊きたいのは、もっと別のことであった。
「さあ、その日になってみなければ……」
露子は踊り場から一歩階段をおり、そこで少時ためらっていたが、
「実はね、雪ちゃん」
閾際まで戻ってくると、じっと雪江を見おろしてきた。
「健従兄さんのことでしょ」
雪江は思いきって訊いた。
「あら、誰から聞いたの」
「やっぱりお店に来たというのは本当なのね」
「私もびっくりしちまったの。実はね、一週間ほど前にも来たのよ」
さすがに雪江は息を詰めた。健市がたびたび露子の店にやってくるのは、やはり何か下心があるからに違いなかった。
「それで、叔母さんに何か言ったの?」
「雪ちゃんに一度あって、あやまりたいそうだよ」
「今更、あやまって貰っても、はじまらないわ。それにあたし、今では健市を一つも怨んではいないわ。叔母さん、今度、来たら、はっきり言って頂戴、修吉には、たといどんなことがあっても会わせませんて――」
「雪ちゃんの気持は判るけど、なんといってもあのひとは修坊のお父さんなんだよ」
「叔母さんはあのひとに頼まれたのね」
「まさか。でもね、雪ちゃん。修坊が大きくなって、本当のことを知ったら、そのときはどうするつもりだい?」
「そのときはそのときよ。いいえ、あの子には、あたしがちゃんと事情を話すわ。よく話せば、あの子だって判ってくれると思うわ」
「健市さん、来るたびに修坊のことを根ほり葉ほり訊くんだよ」
「あたしが生きている間は絶対に会わせないわ」
「敏子さんとは、別れてしまったらしいよ。子供たちを連れて、ずっと郷里にいるんだって。仕送りはしているらしいけど――」
「あたしには関係ないことだわ」
雪江の語勢に呑まれて、露子は黙った。とどめを刺すように雪江は言った。
「正直に言うと、あたし、もう叔母さんにも会いたくないの」
「雪ちゃん!」
「あたし、なんでも知っているわ。父さんのことも、昌太郎のことも」
露子の目のなかに雪江ははじめて怯えた色を見い出した。長い間胸に溜まっていたものを吐き出して、実家に来てから雪江は、はじめていくらか気持が晴れた。が、いい晴れ方ではなかった。

●十一

藤沢で江ノ電に乗換え、隅の座席に腰をおろした。昨夜、一睡もしていないのでひどく頭が重かった。次の石上(いしがみ)という駅で、どっと女子高校生が乗り込んできた。車内は忽ち騒々しくたった。黄色い声が、重い頭に響いて、ときどき後頭部にするどい痛みが走った。雪江は目を閉じて、その痛みに堪えた。痛いのは頭ばかりではなかった。
昨夜、雪江は、茶の間の長火鉢の前で昌太郎を待ちつづけた。約束した一週間目であった。長火鉢のわきには、白い布をかぶせた卓袱台が出ていた。昌太郎が帰ったら一緒に箸を取るつもりだった。夕方から、横町に靴音がするたびに腰をうかしかけた。が、いくら待っても門の鈴は鳴らなかった。十時が過ぎ、十一時を廻っても、昌太郎は来なかった。柱時計の針とともに雪江の焦躁は深まった。
「先に食べておしまいよ。きっと仕事の都合で一日延びたんだよ」
隣室から母が何度も声をかけてきたが、雪江はとうとう午前一時すぎまで長火鉢の前に坐りつづけた。這うようにして三和土に降り、門の格子戸と玄関の硝子戸に錠をかい、二階の部屋に上ったのは、二時であった。昼間、いつもより念入りに結った髪をほどき、のろのろと寝間着に着替えたものの、むろん睡れるわけがなかった。雪江は窓の外が明るくなるまで床の上で身を揉んだ。いくら泣いても泣き足りなかった。
――言われた通り、一週間べんべんと待っていたあたしは、よくよくおめでたいのかもしれない。
併し、まだ諦めたわけではなかった。諦めることは、そのまま昌太郎を失うことであった。午前中、雪江は二階に閉じ籠って、一度も階下へ降りなかった。鏡を見なくても、はれぼったい自分の顔が判った。
――きょうはかならず来てくれる。
だが、このままじっと待ちつづけるのは堪えがたかった。母が様子を窺いに二階に上ってきたとき、雪江は外出着に着替えていた。
「帰るのかい?」
「なんだか、急に海が見たくなったの」
「海?」
雪江は箪笥の底からビーズ編みの手提袋をとり出して、風呂敷にくるんだ。昌太郎の爪片を入れたあの袋だった。袋には、塩釜神社のお守もはいっていた。
江ノ島駅に降りると、今にも雨が落ちてきそうな空模様だった。細長い洲鼻通りを、雪江はゆっくりと歩いた。冷んやりした風が、いくらか頭を軽くしてくれるようであった。修学旅行らしい中学生の一団とすれ違った。生徒たちの目がすべて自分の腹にそそがれているような感じで、雪江は殊更に腑向いて歩いた。自転車が二台、ベルを鳴らして追い抜いて行った。どちら修吉と同じくらいの小学生だった。
昌太郎に軀を曝け出したあの旅館の前を大急ぎで通りすぎ、雪江はすぐ弁天橋を渡りはじめた。島へ渡るのは、岩屋へ行ったあのとき以来だった。橋の上で、今度は高校生の修学旅行とすれ違った。みな同じようなボストンバッグをぶら下げ、白い運動靴をはいていた。雪江はその靴の列へ目を落しながら歩いた。なぜか島へまともに目をむけるのが憚られるような気持だった。長い橋をやっと渡り切って青銅の鳥居をくぐると、貝細工を飾った両側の土産物屋は十数年前とひとつも変わらず、呼びかける女店員たちの声の調子も昔通りだった。女夫饅頭屋の店先では、蒸籠から、のどかな湯気が立ちのぼっていた。
正面の石段を登りきると、広い神社の境内は殆んど人影がなく、隅のほうで法被を着た老人が、竹箒でゴミを叮嚀に掃き集めていた。
肩で息をつきながら、ゆっくり動く箒の先を雪江は暫く見詰めていた。
――憑かれたようにこの島へやってきたのは、あのひとを信じられなくなったからか。
ふと拝殿のわきに「宝物拝観御希望の方は――」という立札を見つけ、雪江は恐るおそる右手の社務所の窓へ申し出てみた。白衣に緋の袴をつけた十六、七のお下げ髪の巫女が立ち上り、雪江をとっつきの部屋に請じ入れた。
巫女が部屋の隅にさがった紐を引くと、白い絹の幕が左右にゆっくり開いた。大きな硝子張りの祭壇が現われ、その中央に、真ッ白な弁財天が腰かけていた。
雪江は閾際に立ったまま、息をのんで弁天像を見詰めた。いつかの昌太郎の記事通り、琵琶を抱えて黒い岩に腰かけた裸形弁財天は、全身厚化粧したように白く塗りたくられ、ふっくらした双頬と、切れ長の目許に、かすかな笑みを湛えていた。朱をさした小さな口許、岩からおろした右脚のなだらかな曲線――まるで生ま身のような色気を漂わせて、弁財天は、雪江に微笑を送ってきた。巫女が慣れた口調で由来を説明しはじめたが、雪江は殆んどきいていなかった。
――貴女は、あたしに罰をあてた気?
雪江は硝子越しに弁財天を見詰めつづけた。
「あの、お坐りになって、ゆっくりご覧下さい」
巫女が、たしなめるように言った。雪江はそっと膝を折ったが、一旦畳についたその膝頭をあわてて上げた。坐って見上げた拍子に、弁財天が露子そっくりに見えたからだ。それはまぎれもなく、十数年前のあの日、片瀬の自動車道路の石段の上から、雪江を見おろしてきたときの叔母の顔であった。いきなり胸を鷲摑みされたような恐怖が、雪江の全身を走り抜けた。みるみる血の気を失ったその顔へ、巫女がきょとんとした目を向けてきた。再び恐怖が雪江を襲った。巫女の顔が今度は藤原亮子そっくりに見えたからだ。気づいたとき、雪江は社務所の玄関を飛び出していた。

三十分後、雪江は、弁天橋の中ほどで欄干にもたれ、昏くなりはじめた海面へ目を凝らしていた。大きくうねった海面は、白波一つ立てず盛り上り、そのまま橋桁にぶつかると、そこではじめて白い飛沫をはね上げ、またゆっくりと引いて行った。鎌倉から逗子にかけての海岸線に、小さな灯が一列にともっていた。橋にもすでに灯がはいっていた。黄昏の海から、冷たい風が吹き上げて、雪江のおくれ毛をふるわせた。顫えているのは、おくれ毛ばかりではなかった。社務所でのおののきが、まだ去っていなかった。ばかげた錯覚だと思いながら、露子に似た弁財天の顔が、追い払おうとすればするほど目にちらつき、心をわななかせた。
――お雪、しっかりしたければだめじゃない。
自分を叱りつけ、雪江は風呂敷をほどいて、手提袋をとり出した。
――こんなものを後生大事に蔵っておくから、昌太郎が帰って来ないのだ。
家を出るときは、その手提袋が唯一の心頼みだったが、そんな少女じみた感傷が昌太郎との間に、知らぬ間に膜をつくってしまったのかもしれなかった。
雪江は左右を見廻して人影のないのを見定めると、過去の総てを断ち切る思いを腕に託して、手提袋を宙へ向けて投げつけた。暗い曇り空を背景に、小さな袋はゆっくりと抛物線を描き、一瞬、橋の灯にビーズ玉をきらめかせると、あとは忽ち海面へ吸いこまれた。
「――雪江」
名を呼ばれたような気がしたが、空耳と思い、雪江は袋をのみこんだ海から目をはなさなかった。
「雪江」
空耳ではなかった。振りむくと、橋の反対側の欄干に、レインコートを着た昌太郎が、片肘をついていた。
「やっぱりお前だったんだね」
背を起こした昌太郎から、雪江はいそいで目をそむけた。胸に熱いものがこみ上げてきた。
「何を抛ったんだい?」
昌太郎の手が後ろから両肩におかれた。雪江は答えられなかった。
「弘明寺へ行ったら、海を見に行くと言って出かけたというんで、たぶん此処だろうと思って捜しにきたんだ。ずいぶん心配したぞ。さあ、帰ろう」
雪江は小さく首を振った。昨夜から待ちのぞんでいた瞬間が来たというのに、なぜか素直になれなかった。
「何を棄てたんだい?」
また昌太郎が訊いた。
「なんでもないの」
「お前、寒くないか」肩の手に力がこもった。雪江はまた首を振った。
「昨夜はご免」囁くように昌太郎が言った。
「終ったの?」
雪江はまだ背を向けたままであった。
「ああ、やっと済んだ」
昌太郎の手につれて、雪江の躰はやっと彼のほうへ向き直った。いまのひと言で、雪江の躰からいちどきに力が抜けた。夕闇を透かして、すがるように見上げた雪江の眸を、昌太郎の目が優しく受けとめた。
「さあ、戻ろう。いつまでもこんなところにいると、おなかの赤ちゃんが風邪を引くぞ」
雪江の目にゆっくりと涙が盛り上った。昌太郎に肩を抱えられて雪江は、片瀬のほうへ弁天橋をそろそろと渡り出した。
「貴方、お願いがあるの」
昌太郎が覗きこんだ。雪江は顔を伏せたまま小さな声で言った。
「そのうち、もう一度、仙台へ行ってほしいの」
「仙台?」
「塩釜神社のお守がほしいの」
わかった、と言うように、肩を抱いた昌太郎の手に力がこもった。島の展望塔の光が、二人のうしろから、サッと海面を薙いで行った。


あとがき

東京オリンピックでヨットハーバーになった江ノ島は、すっかり面目を一薪した。特に以前、クロダイやメジナがよく釣れた東浦の磯は、埋立てられて噴水のあるモダンな公園にかわり、洒落たレストランまで出現した。また、弁天橋の隣には、自動車専用橋が架かり、新堤からは、大島通いの汽船や水中翼船が日に何回となく発着する。夜は、ヨットハーバーの突端まで煌々と灯がともり、島裾をとりまく旅館のネオンも多彩になった。
併し、その反面、名勝としての趣きや情緒といったものは、殆んど失われてしまった。元々、有名すぎるほど有名なこの島は、情緒にとぼしかったが、それでも戦前は、なんとか自然の風光を損ねないような配慮があった。現在、江ノ島で昔ながらの面影をとどめているのは、足場の悪い西浦の磯ぐらいであろう。いや、その西浦でさえ近頃は、不作法な釣り人によって日ましに荒らされている始末である。
レジャーブームとやらの当然の成行きとは思いながら、目と鼻の先の腰越海岸に住んでいる私には、こうした江ノ島の変貌が残念でならない。ときには肚立たしく、そして以前の江ノ島がたまらなくなつかしい。
その愛惜が、私にこの小説を書かせた、と言えるかもしれない。従って、この小説の背景になっている江ノ島は、むろん現在の江ノ島ではなく、あくまでも私の記憶のなかの江ノ島である。読者のなかにも、私や小説の女主人公のように、かつての江ノ島をなつかしく思っている方がいるのではなかろうか、いや、きっといるに違いない――そんな思いにはげまされて、私はどうやらこの小説を書き上げることが出来た。
今年は梅雨が長びいて、それでなくても短い夏のシーズンがあっけなく過ぎ、片瀬の海岸も、めっきり人影が少くなった。季節の終った海岸町は、ひときわ佗しいものだが、地元の人々はその佗しさのなかから、やっと日常の生活を取戻す。ここに住みついて十年、私もいまではそんな一人になった。
変貌した現在の江ノ島を舞台に、私は、近くまた、別の小説を書こうと思っている。
昭和四十年九月
津田 信