『たそがれの橋』中の章 ●一
修吉を背負って毎晩のように防空壕に蹲っていた終戦までの暗い日々の記憶は、不思議と雪江には残っていない。 日を逐って空襲が熾烈になると、ひそかに懼れていた世間の白い目もそんな余俗を失い、雪江自身も、修吉とともに生き延びることで精一杯であった。警報の合い間に急いで食事をしたり、おむつの洗濯をしたりすることで、まだ生きていることを確かめるような毎日を送りながら、併し雪江は、こんな生活なら死んでしまったほうがましだとは一度も思わなかった。たとい父や母が家諸共、焼け死んでも、自分だけはなんとか生き延びたいと、空襲警報が鳴り出すたびに真ッ先に家を飛び出して、一町ほどはなれた裏山の壕へ駆けこんだ。背中で、声を挙げて喜ぶ修吉が、雪江の恐怖を薄めてもくれた。壕の中には、修吉と同じくらいの赤ん坊を背負った女も何人かいて、赤ん坊が泣き出すたびに入り口に立った警防団員が「シーッ、泣かすな」と、まるで敵機に泣き声がきこえるかのように叱りつけた。 もし平和な時代だったら、雪江は己の暗い前途に悲観して自殺を考えたかもしれない。けれども、戦争という不可抗力でいつ殺されるかもしれないと思うと、逆に雪江は、無性に生きたかった。いま死んでたまるかと、かえって力んでさえいたようだ。あるいはそれが、修吉への本能的な母性愛だったかもしれない。 健市のことで、郷里の兄とますます不仲にたった父の修三は、せめて荷物だけでも疎開させようと思ったのか、露子から頒けてもらって缶詰や砂糖を持って、二、三回、静岡へ足を運んだが、そのたびに疲れ切った表情で帰った。 「照子、儂はもう諦めたよ」 父が力のない声で言うと、 「仕方がありませんよ。私たちが一緒になるときも郷里の義兄さんは最後まで反対だったんですから」 母は寂しそうに笑った。雪江がそれまでに聞いた話では、母は雪江の祖父にあたる父親の死後、料理屋の仲居をしていた時分に、そこへよく飲みに来た父に口説かれて所帯を持った、という。だが、父の親戚がこぞって反対したので一時別れ、たまたま子宮癌にかかった母親の入院費を捻出するために、やはり店へ通ってきていた呉服屋の老人の妾になる覚悟を決めた。ところが、仲に入った男が、当時やっと小学校を出たばかりの露子に目をつけ、また露子自身の望みもあって、露子が雛妓に出ることに話が急転した。入院費はそれで出来たが、母親は入院一カ月目に死に、その葬式の世話を一切焼いてくれた父と、母は再び所帯を持つことが出来るようになった、という。母が、鎌倉へ通う父を黙認していたのは、当時の妹に対する負い目のせいかもしれなかった。その露子から再三「姉さんだけでも稲村へ来たら」とすすめられたが、それにも母は寂しそうに首を振った。 「せめて死ぬときだけは父さんのそばで死にたいよ」 それは雪江が耳にした、母のはじめての皮肉であった。父も荷物の疎開をすっかり諦め、 「もうこうなれば、焼くなと殺すなと、アメ公まかせだ」 そう言いながら、栄養不足のせいか発育がおくれて、やっとつかまり歩きをはじめた修吉をいきたり抱き上げ、無精髭の伸びた頬をすりつけたりするのだった。 無差別爆撃を受けた街は、宮元町、吉野町、阪東橋を経て本町まで、見渡す限りの焼野原となったが、通町の一部と、雪江の家のある一劃だけは、奇蹟的に焼け残った。 併し、嘘のような平和がよみがえると、雪江は逆に不安を覚えはじめた。空襲にとりまぎれていた世間の目が、妻子のある従兄と通じて不義の児を産んだ自分に再び向けられるのではないか、という懼れだった。 いっそのこと、何もかも焼けてしまえばよかったのだ。そうすれば知らぬ土地で誰の目も憚らずに暮せるのに――。 焼け残った近所の一劃を、雪江は、何か手落ちのように思うことさえあった。 もっとも、そうした不安は、進駐軍の兵士を取巻く女たちが巷に現れるまでのほんの僅かな間であったが、昌太郎をはじめ、健市も露子も玉置も、また寂しそうな和彦の顔も忘れて、ただ生き延びることに夢中だった空襲下のほうが、雪江にはまだ生き甲斐があったようにも思えるのだった。 家は無事だったが、勤め先の店を失った父は、永いこと戸棚の隅に抛りこんであった釣り竿を出してくると、磯子や屏風ヶ浦の海岸へ毎日、一人で出かけて行った。そして夕方、根魚を五、六尾持ち帰ると、七輪で焼いて、修吉に食べさせた。小骨まできれいにとってやるのだった。 「俺の人生はもう終ったようなものさ」 まだ老けこむ齢でもないのに、父は何かにつけて気弱な感慨を洩らした。父もあの空襲下、妻と娘と不愍な孫を護ることに生き甲斐を感じ、僥倖にも家まで焼け残ったことで、逆に気落ちしたのかもしれなかった。 そんな父にかわって母は、近所の人たちと買い出しに出かけてゆき、白米や薩摩芋などをちょっと信じられないほど背負って帰ると、雪江を追い立てるように知り合いの家へ走らせ、かついできた荷をてきぱきと捌いた。防空壕へ逃げる途中、何度も立ちどまって大きな息をついた母とは、まるで別人のようであった。 雪江も母と一緒に何度か厚木や秦野方面の農家を廻った。併し、以前、欲しくもないのに意地になって父に買わせ、まだ一度も袖を通したことのない一越の訪問着や黒のうるしの羽織などを、黒光りした農家の縁側にひろげると、リュックから取り出すまでは、背に腹はかえられないと思っていたにも拘らず、にわかに未練が出た。まして母が、足許を見た向うの言い値通りに妥協しそうな気配をみせると、 「母さん、他へ行ってみましょうよ」 そんな言葉が口を衝いてまとまりかけた交渉をこわし、「もうお前は連れて来ない」帰りの車内で散々、母から愚痴られたりした。栄養が足りなかったためか、終戦後はじめての正月は、いつもの年より寒さがこたえた。修吉もしょっちゅう洟水をたらしていた。 叔父の秀次郎が、リュック一つで北京から引揚げてきたのは、新円切り換えが始まったばかりの二月下旬であった。帰国の挨拶に来た秀次郎は、げっそりと頬がこけ、目も落ち窪んで、すっかり面変りしていた。小柄なだけに一層、貧相に見えた。 間もなく秀次郎は、和彦を連れて稲村ヶ崎の家を出ると、雪江の家から二町ほどはなれた通町の古道具屋の二階に移り住んだ。稲村ヶ崎の家には、すでに復員した玉置がトラック三台分の物資と共に、主人顔で納まっていたからである。そうした事情を雪江が知ったのは、叔父が近所に越してきてからで、露子が終戦後、殆んど顔を出さたくなったわけもはじめて判った。叔父は帰国後一カ月、あの離れで客のように暮したが、ついに居堪まれなくなったのだろう。謂わば叔母は、良人と子供を、玉置の物資と交換したようなものであった。和彦が叔母の許にとどまらず、馴染みの薄い叔父に従って家を出たのを、雪江は褒めてやりたかった。露子の話では、玉置は郷里の甲府にいる妻と正式に離婚したということだったが、 「折角、赤ん坊のときから育てて、今になって手放すなんて、露子は一体、どういう気なんだろう。やっぱり腹を痛めた子でなければ駄目なのかねえ」 母は妹の気持がどうしても判らないらしかった。 「それに今更、軍人上りの男と一緒になって、それからどうするつもりなんだろうね」 黙っている父にかわって、雪江は、蓮ッ葉に言った。 「きっと、他人には判らない、いいところがあるんでしょ。でも、たとい叔母さんが正式に再婚しても、あの男だけは絶対に家に出入りさせないでよ」 “雪ちゃんはあの人好き?”ぬけぬけと訊いたときの露子の顔を憶い出すと、今更のように屈辱感がよみがえってくるのだった。 むろん、叔父夫婦が別れるときにはひと悶着あり、父は、母から、仲にはいってなんとか円満に納めてくれと頼まれていたようだった。併し、父は、とうとう最後までこの問題には介入しなかった。その正直な態度を皮肉な目で傍観しながら、父が介入しそうもないのを承知の上で母が頼んだのは、母の復讐なのかもしれない――雪江はそんな風にも思ってみるのだった。
●二
やがて横浜の中学に転校した和彦が、下校の途中、ぼんやりした顔でよく雪江の家に寄ってゆくようになった。縁側に膝を立てて、のばしはじめた髪の毛に両手を突っこみ、日が昏れるまで身じろぎもしない和彦は、母や雪江が気を紛らせようとしていくら軽口をたたいても、かえって表情を歪め、殆んど口をきこうともしなかった。環境の変化が、感じ易い年頃に、どんなに深い影を落しているかは、その暗い眼差しを見るまでもなかった。「僕も家に居たくないな」と呟いたあのときから、すでに二年以上の月日が経っていた。その短くない日々を、人一倍癇の強い和彦がよく堪えてきたものだと、雪江は改めて露子に怒りを覚えた。 大丸髷に結った露子が、貰ったばかりの和彦を抱いて、わざわざ東京から見せに来たのは、たしか雪江が数え年七歳の春であった。しんこ細工のような鼻や、クリクリした大きな目が見るからにあどけなくて、雪江は、叔母が帰り支度を済ませたあとでも和彦の傍から離れなかったのを憶えている。和彦が貰い子であることを雪江が知ったのはそれから更に一年ほどのちで、だからその間、「ね、母さんも赤ちゃんを産んで」雪江はよくそう言って、母を困らせたものであった。 和彦は、秀次郎の上役が女中に手をつけて生ませた子だった。毎年、和彦の誕生日には贅沢な玩具や晴れ着が、その上役から贈られてきたし、稲村ヶ崎の家を買った金の大半も、和彦の実父から出ているという話であった。真偽は判らなかったが、秀次郎が従軍記者として北支へ派遣されたのも、引続き北京支局詰を命ぜられたのも、それらの事情が他の上役の耳にはいって憎まれたためだと言われていた。 むろん和彦には一切かくしてあったが、あとから思えば、彼は稲村ヶ崎にいた頃すでに己の出生の秘密を知っていたようだ。長谷の病院へしばしば見舞いに来て、もう帰りなさいと雪江に言われても、なかたか病室を去ろうとしなかったのは、胸に閊えたその悩みを、せめて雪江にだけでも聞いて欲しかったのではなかろうか。自分と同じ暗い出生の修吉を見ることで、和彦はひそかに自らを慰めていたのかもしれなかった。 併し、当時は勿論のこと、学校の帰りに和彦がちょくちょく家に寄るようになってからも、雪江は彼が秘密に気づいているとは夢にも考えなかった。だから、和彦が家に来るのは、父と二人きりの間借り生活の佗しさや、母を玉置に奪られた悲しさを紛らわせるためだろうと解釈して、いっそのこと露子が実の母でないことを教えてやれば、この子の気持も楽になるのではないかなどと思ったりした。 日が経つにつれて箪笥の中味もとぼしくなり、一時は別人のようだった母も、三日に一度は朝起き出すのが大儀そうな様子を見せはじめた。裏の家作もすでに二軒手放し、残る二軒は戦前からの借家人なので、いくらインフレとはいえ、そうそう家賃も上げられなかった。 ――今度はあたしが働く番だ。 父の旧い友人で、観音通りのマーケット街に飲み屋や古着屋の店を四、五軒持っている岡谷という男が、 「雪ちゃんに少し店を手伝ってもらえまいか」 と、言ってきたのは、ちょうどそんな頃であった。 「もし商売をやる気があるなら、一軒貸してもいいよ」と岡谷は言った。「雪ちゃんが働けば、修さんだって、いつまでも釣りにうつつをぬかしているわけにもゆくまい。おい修さんよ、可愛いい修吉君のためにも、もうひと働きすべきだぞ」 願ってもない話だった。どうせ働くなら、一軒かりて店をやってみたかった。母と相談の末、雪江は早速、岡谷の家へ出かけて行った。 「こんな時代だ。口にはいるものなら、なんでも売れるよ」 岡谷のすすめで、雪江は思いきって軽飲食店をやることにした。嘘みたいな権利金で店を貸してくれた岡谷は、材料の仕入れや、造作のことまで細かい助言をしてくれた。別に下心があるとは思えなかった。 雪江にとって心配なのは、父が一向に関心を示さないことであった。 「お前に水商売なんか出来るものか。どうせ失敗するのがオチさ」 父はまるで他人のように冷淡で、と言って止めようともしなかった。天気がよければ釣り竿をかついで出かけ、雨の日は起きてから寝るまで修吉の対手ばかりしている父を見ていると、露子の心変りがそれほどこたえているのかと、母の心まで預かったように、なさけなく、それだけに雪江は新しい店へ期待をかけた。 僅か三坪で、四つの卓に二脚ずつ椅子を配ると、軀を横にしなければならないような孫店だったが、開店日が迫るにつれて、雪江の心はかつてない張りを覚えた。店の名は「ジープ」と決めた。 「成程、素早く来て、素早く食べて、素早く帰って貰う。食べ物屋は客の回転が第一だから、うってつけの名前だ。それになんと言っても、今はアメちゃん様々の世の中だからな」 岡谷もすぐ賛成してくれた。 「なあに、それでなくても、雪ちゃん目あての客がワンサと来るよ。そんなことを言っちゃなんだが、雪ちゃんは子供を産んでから、すっかり色っぽくなったよ。ただ断っておくけど、客には博愛主義――特定の客をつくちゃいけないよ。それが食べ物屋を繁昌させるコツだからね」 そんな忠告も忘れなかった。
戦後、消息を絶っていた久子がひょっこり訪ねてきたのは、開店を三日後に控えたタ方であった。 久子は篠崎の出征後実家に戻り、雪江が稲村ヶ崎から帰ってくると、三日にあげずに遊びに来て修吉もあやしてくれたが、間もなく両親と郷里の山形へ疎開して行った。その後、北九州が空襲に見舞われ出した頃に、「もし貴女さえよければ、こちらに来て一緒に暮さないか、こちらはまだ物資が豊富だから修ちゃんにも不自由させるようなことはないと思う」という手紙を山形から呉れたこともあったが、戦後、雪江が出した三通の手紙には、なぜか一度も返事をよこさなかった。久子の家のあたりは焼き払われ、そのあとにはバラックが建ち竝んでいた。三、四町はなれた篠崎の家も、疎開したまま消息不明だった。 「ずっと山形に居たの?」 二階の部屋で膝をぶつけるように坐ると、懐しさに涙が出てきそうだった。久子も目を潤ませて雪江の手を握った。以前は妬ましいほど細くて白かった指が、節も太く、ザラッとした感触だった。 「篠崎が死んだの」久子は目をしばたたいて、ぽんと言った。 「まあ――じゃ、やっぱり戦死なさったの」 久子は頸を振った。雪江の目を逸らして、何か言い辛そうであった。雪江もそれ以上問い糺すのがためらわれた。 「修坊のお父さんは復員したの?」 少し間を置いてから久子が訊いた。今度は雪江が頸を振る番であった。満洲へ連れていかれたことまでは噂で知っていたが、その後のことは一切不明だった。もし無事に帰還していれば、他の親戚の口からでも伝わってくる筈であった。 「昌太郎――さんとか言ったわね、あの人は?」 雪江はまた無言で頸を振った。秀次郎と離婚するまでは、露子の口を通じて昌太郎の家の様子も時折り耳にはいったが、玉置と同棲以来、露子自身ぷっつり姿を見せなくなった。昌太郎の入隊後、東大久保の家は強制疎開で取り壊され、昌太郎の母親は神戸に嫁ついだ長女の許に身をよせているという話だった。昌太郎は女ばかり三人姉妹の末ッ子で、父親は彼が小学生の頃、脳溢血で死んでいた。 「まだ還らないところを見ると、二人とも戦死したのね」 終戦以来、何度も自分に言いきかせてきた言葉を雪江が口に出すと、 「大丈夫よ。そのうち、きっと還ってくるわよ」 「たとい還ってきたって、今のあたしには二人とも何の関係もないわ」 「あんた、昌太郎さんという人にもう一度会いたくないの?」 「今更会えると思って?」 「私、篠崎はきっと生きて還るって信じていたの。絶対に還ってきて、もう一度、私たちは幸福になれるって。私が信じていた通り篠崎は還ってきて呉れたわ。でも、生きていただけだったの」 久子の言う意味が、雪江にはすぐ理解できなかった。 「博多の復員局から通知が来て、私、篠崎の母親とすぐ飛んで行ったの。篠碕は病院にはいっていたわ。病気の引揚げ者ばかり入院している病院だったわ」 「なんの病気だったの?」 久子はまた黙って目を伏せた。稲村ヶ崎の家へ久子と一緒にやってきた篠崎の頑丈そうな軀を雪江は思い泛かべた。眉毛の濃い顔も、はっきり憶えていた。目を伏せたまま久子が投げ出すように言った。 「あの人、狂っていたのよ」
●三
岡谷が言った通り「ジープ」は開店日から繁昌した。一週間経っても客足は減らなかった。一日中立ち通しの雪江は、夜八時に店を閉めて家に帰ると、母と口をきくのさえ億劫なほど疲れ、両脚が火照って、暫く蒲団から畳へ投げ出しておかなくては眠れぬくらいだった。飲み物はコーヒーとココア、食べ物は蜜豆、ドーナッツ、それにサッカリンを効かせた蒸しパン程度だったが、それでも近所の学生や店員が入れ替り立ち替りやって来た。なかには椅子の空くのが待ち切れず、立ったままドーナッツを頬張ってゆく客さえあった。 ときどき、アメリカ兵もはいってきた。雪江が片言の英語で酒もビールも置いてないことを告げると、大抵の兵隊は肩を竦めて出て行った。連れのパンパンらしい女が蜜豆を食べ終えるまで、卓の傍で温和しく待っている若いGIもいた。店の前に兵隊を待たせ、畳んだ百円札を押しつけて、 「どこかで都合してきてよ」と酒を頼む女もいた。雪江が断ると、ショルダーバッグを振りながら、大きな舌打ちをして出て行った。殆んどが二十歳前の娘たちだった。 岡谷は毎晩、閉店間際に顔を出した。 「酒を置けばもっと流行るんだが、取締りがうるさいからな」 跡片づけまで手伝ってくれながら岡谷は言った。 「それに雪ちゃんだって、酔っ払いの対手はいやだろう」 岡谷の親切が、相変らず修吉の対手ばかりしている父の腑甲斐なさを、いやでも雪江に思い出させた。それをつい愚痴ると、 「なまじっか雪ちゃんを働かせたのが逆効果になったかな」 岡谷は修三より二つ齢上だというのに、まだ白髪が一本もなく、いつも湯上りのようなツルツルした顔をしていた。童顔で、笑うと細い目がなくなってしまいそうだった。父の話では、戦争中は陸軍の下請工場をやっていたが、その間にかたり金を貯えたらしく、終戦後すぐマーケット街の一部を手に入れ、妻と妾に店を開かせたという。柔和な顔に似合わぬ目はしのきく男なのだろう。 「雪ちゃんの友だちで、飲み屋をやってくれるようなひとは居ないかね」 三カ月ほど経った晩、いつものように店を閉める間際に顔を見せた岡谷が言った。 「近く野毛にも一軒出すことになったんでね」 雪江はすぐ久子を思い泛かべた。先日、久子が訪ねてきたのは働き口を捜すためだった。が、果して久子に飲み屋をやる気があるかどうかは判断がつきかねた。 「小さい頃からの仲よしが、居ることは居るんですけど」雪江が半ば呟くように言うと、 「美人かい?」ずばり岡谷が訊いた。 「あたしなんかと比べものになりませんわ」 「さては雪ちゃん、知らないな」 「あら、何をです?」 「ジープのマダムは、この観音通りで大評判なんだぜ」 「まさか」 「本当だよ。まだ独身だろうかって、俺のところに間合せが殺到しているんだ。自分の目に狂いがなかったことで、俺は内心、鼻高々さ」 雪江は頬が赧くなった。久しぶりに覚えた女らしい羞恥であった。 「で、そのひと、何処に居るんだね」 「山形なの」 「山形? そりゃまた、ばかに遠くなんだな。疎開したままかい?」 「ええ。この間、横浜に帰ってきたいから、どこか働くところをみつけてくれって、訪ねてきたんです。――ご主人に死なれて」 「戦争未亡人か」 「まあ、そうですね」 「まあそうですって――戦死じゃないのかい」 興味を唆られたらしく、岡谷は卓の上に片づけた椅子をまたおろして腰かけると、ズボンからラッキーストライクを取り出した。 ――いっそ戦死なら諦めもつくけど。 あの晩、久子は篠崎の話をしながら、何度もそう言った。気違いになって帰った篠崎は、ついに一度も正気に戻らず、二カ月前の或る夕方、近くの川で溺れ死んだという。昼すぎから姿が見えず、手わけして捜したが、日が昏れかけた頃、隣村の少年が衣服をつけたまま流れてきた篠崎の水死体を見つけて駐在所に報らせ、久子が現場へ駈けつけたのはもう周囲がすっかり暗くなった頃であった。中学時代、由比ヶ浜でよく泳いだという篠崎が、なぜ溺死したのか、久子には理解できなかった。さして流れが急な川でもないし、最近水かさが増していたわけでもなかった。判らないと言えば、篠崎が何時何処で発狂したのかも、久子は知らなかった。篠崎の属していた部隊は北支の衣(ころも)帥団で、終戦直前に済南から北鮮へ移動した。が、彼はその頃すでに発狂していたらしく、他の傷病兵とともに済南の病院に残された。だから篠原と一緒に病院船で帰国した者たちは、彼がいつどんな衝撃によって精神に異常をきたしたのか、誰も知らなかった。もっとも篠原は、狂人といっても、ときどき意味のわからないことを呟く程度で、乱暴を働くわけではなかった。そのかわり、食べて寝て、昼間も縁側でぼんやりしており、「ね、私が誰だか判る?」久子が訊いても、ただニヤニヤするだけだった、という。 「子供は出来なかったのかね?」 久子から聞いた話を雪江がかいつまんで語ると、岡谷は待っていたように訊いた。 「だって、対手は気違いなんですもの」 「気違いだって――」と岡谷は言いかけ、雪江が新しく淹れた茶をひと口啜ってから、 「兎も角、そのひとに問い合せてみて下さいよ。始めはこの店を二、三日手伝って貰ってはどうかな。俺が様子を見て、どうしても水商売に向かないようだったら、他の職業を捜してあげるよ」 「早速、手紙を出してみます」 「併し、なんだな。その女も一カ月の結婚生活が、えらく高くついたものだな」 岡谷は腰を上げると、椅子を卓の上に載せ直しながら、 「その友だちに比べれば、雪ちゃんはまだ倖せかもしれないぜ」 「そうでしょうか」 「俺がもう少し若かったら、ひと苦労したいところさ」 「緒麗な二号さんを持っているくせに」 「あいつは駄目だ。慾が深い上に浮気っぽくて、店に来る客に色目ばかり使いやがる」 「まさか」 「本当に雪ちゃんは色っぽくなったな」 岡谷の目が尋常な光りかたではないような気がして、雪江はドキリとした。が、悪い気持ではなかった。
その夜、家に帰ると、玄関の上り框に和彦が腰かけていた。相変らず憂欝そうな表情だった。 「どうしたの、今頃」 黙っている和彦にかわって、母が答えた。 「秀さんが昨日東京へ出掛けたまま、まだ帰らないんだって」 「何か、あったのかしら」 「友だちと何か事業はじめるとかで、秀さんは半月ほど前からあっちこっち飛び廻っているんだよ」 「あら、新聞社はどうしたの?」 「辞めちゃったらしいよ」 茶の間の長火鉢のわきに夜食の膳が出ていた。覆い布をとりながら、 「彦ちゃんは?」雪江が目で訊くと、 「さっき、みんなと一緒に」 母が言って、すぐご飯をよそってくれた。 「ね、もう一膳、一緒に食べない?」 背を向けたまま和彦は首を振った。ついさっき、篠原の話を岡谷にしたばかりのせいか、口をきかない和彦が妙に気味悪く、箸をとったものの、雪江はすぐ食べる気になれなかった。 「修坊はもう寝たの?」 「ああ、父さんと七時頃から牀にはいっているよ」 父が対手になってやるだけでも、修吉は和彦より倖せかもしれなかった。 「彦ちゃん、本当に食べない?」 「いらない」振りむきもせず和彦は答えた。 「昌太郎さんでも居れば、彦ちゃんのいい相談対手になってくれるのにねえ……」 「従兄さんなんて」不意に向き直った和彦が、はき出すように言った。 「僕、本当は大嫌いなんだ」 「なぜ、そんなことを、言うの。あんなに仲がよかったじゃない」 「だから余計いやなんだ。人間なんて、誰も信じられるもんか」 返す言葉を喪い、一瞬、稲妻のように閃くものがあった。雪江はあわててそれを打消した。が、「躰に障ったら、どうするの」青筋を立てて千人針を作らせまいとした和彦を思い出すと、疑惑はかえって深まった。 「僕、帰る」和彦が立ち上った。 「彦ちゃん、待って」 和彦はもう外へ出ていた。逃げるような帰り方であった。 「まったくへんな子だね」 母がそう言って、小さな溜息をついた。雪江はのろのろと茶碗へ手をのばしたが、食慾をすっかり失っていた。頬の血の気も失せていた。
●四
「雪ちゃんじゃない?」 吉田橋の袂で声をかけられ、振返ると、露子だった。「お店をやめちゃったんだってね」そう言いながら寄ってきた露子は、地味な銘仙を着ていた。髪も無造作にまるめ、急に齢をとった顔であった。 「買物?」並んで橋を渡りながら露子が訊いた。 「あたし、先月から区役所に勤めているの」 へーえ、と驚いてみせ、 「どうしてお店、やめちゃったの」 雪江にはすぐ返辞が出来なかった。橋を渡り切って、どちらからともなく伊勢佐木町の雑踏に加わった。どの店にももう灯がはいっていた。 「雪ちゃん、知っている?」 「何を?」 「昌太郎さん、帰ってきたのよ」 思わず脚がとまりそうになった。 「この間、東京の親戚で聞いたんだよ。先々月帰ってきて、新聞社に勤めているんだって。すぐあんたに知らせようと思ったんだけど。弘明寺も閾が高くてね」 先々月といえば、雪江が「ジープ」をやめた頃である。 「もう少しで戦犯にされるところだったそうよ。それで帰国がおくれたらしいわ。そのうち、稲村に挨拶に来るかもしれたいね」 どう、会いたくない? 露子の目が訊いていた。雪江は無関心を装った。 昌太郎が無事だったのは、たしかに嬉しかった。出来るものなら会いたかった。が、露子のそんな目にぶつかると、あれきり忘れていた疑惑がふっと頭をもち上げた。 「何新聞にいるの?」 「ほら、映画や演劇のことが詳しく載っている――」 「ああ、みやこタイムスね」 戦後創刊された夕刊専門紙だった。雪江も「ジープ」で、客が忘れていったのを何度か読んだことがあった。外国女優の半裸の写真が大きく載っていたりした。 「じゃ、東京にいるのね」 「京王線の沿線にあるアパートに、お母さんと二人で住んでいるらしいよ。今度東京へ行ったら、もっと詳しく聞いてきて上げよう」 「いいわよ、今更、聞いたって仕方ないわ」 聞きたいのは、もっと別なことであった。露子もまだじかに昌太郎に会っていないことが、雪江をなんとなく吻とさせた。二人は、女連れのGIがわが物顔に闊歩する通りを、竝んだり前後になったりして、ゆっくりと歩いて行った。雪江は、何か修吉の土産でもと思って、勤めの帰りに足を延ばしたのだが、これはと思うようなものは何一つ見つからなかった。露子も用事を済ませた帰りらしく、雪江が立ちどまると一緒に足をとめて、飾窓を覗きこんだりした。 「ここもすっかり変っちゃったねえ」 何がはいっているのか、ふくらんだ手提袋を持ちかえながら、露子が嘆息するように呟いた。戦後の伊勢佐木町は、接収された建物が多く、以前の賑わいを野毛に奪られた形で、日本人オフリミットのバーやキャバレーばかりが目についた。戦前からの老舗は、まだ殆んど復活していなかった。 昌太郎に会えなくて、意地になって持ち帰った、あのケーキを買った不二屋も、進駐軍のクラブになり、女学生時代、教護連盟の目を盗んでよくはいったオデオン座も、今は進駐軍専用だった。 「これから稲村へ帰るの?」 五丁目の交叉点で信号を待ちながら雪江は訊いた。いつまで露子と歩いていてもはじまらなかった。お世辞にも家へ寄ってゆけとは言えない気持だった。何といっても血の繋がった叔母姪であり、少女時代には毎夏世話にもなった。特に修吉を産んだときは前後七カ月も面倒を見て貰った。 併し雪江は、「あの人好き?」と訊いた露子を生涯許さないつもりだった。 「桜木町の駅で玉置と七時に待ち合せているのよ」 露子は先に立って交叉点を渡り、向う側の舗道に上ると、いくらか媚びるように訊いた。 「雪ちゃん、おなか空かない?」 雪江は頸を振った。 「じゃあ、お茶でも飲もうか」 「あたし、もう帰るわ」 「あら、もう少しつき合っておくれよ」 「つなぎなんて真ッ平」 「何をそんなに怒っているの?」 立ちどまった二人に、三人連れのGIがぶつかりそうになった。なかの一人が雪江の肩にあわてで手を置いた。軀をひねってその手を払い除けると、GIは肩を竦め、雪江の剣幕に大仰に驚いてみせた。二十歳前後の、若い兵隊だった。あとの二人も、若々しい顔であった。 「フン、お高くとまっていやがら」 屹ッとして声のほうへ向き直ると、朱い唇に煙草を咥えた街娼が、頤をつき出して、ゆっくり背を向けた。露子に肘をつかまれて、雪江はまた仕方なく歩き出した。たしかに怒りに似たものが心を領していた。が、何に対して怒っているのか、自分でも判らなかった。露子がとめなければ、街娼に向かって行ったろう。併し、怒りは、街娼の言葉に対してだけではなかったようだ。傍の露子をちらっと窺い、目尻に鳥の足跡を見つけると、雪江は、それでいくらか心が鎮まった。 ――このひとも齢には勝てない。 だが、それにしても、露子の口を通じてしか昌太郎の消息を知ることの出来ない自分が、そして無事に帰ってきたというその昌太郎に、もはや会うことの出来ない自分が、今更のように哀しかった。 気がつくと、いつの間にか阪東橋に近づいていた。 「どうしてお店をやめちゃったの? 流行っていたんだろ」 露子が思い出したように訊いた。 「男って、誰も信用できないのね」 言ってから、つい口を滑らせたことを後悔したが、 「やっぱり、何かあったんだね」頷く露子に、 「叔母さんも、せいぜい気をつけるのね」自分でも思いがけない言葉が口を衝いた。 「ああ」と露子は素直に受けて、 「姉さんにどうしても相談したいことがあるから、近いうちに伺うって、言っといておくれ」 橋の少し手前で雪江に別れを告げると、露子はいま来た道を戻って行った。気のせいか、後ろ肩が寂しそうであった。 ――玉置とうまくいってないのだろうか。だが、もしそうでも、あたしの知ったことじゃないわ。 雪江は運河に沿うた暗い道を黄金町のほうへ歩いて行った。すぐには家へ帰りたくはなかった。帰ったところで、別に用事があるわけではなかった。雪江を姉だと思いこんでいる修吉は、お土産をもたなければ、さっさと父と寝てしまうだろう。「ジープ」をやっていた頃は、むしろそれに救われていたが、きちんとした勤めに出るようになると、父や母にばかりなついて、自分にはさほど甘えようとはしない修吉が、雪江は次第に物足りなくなってきた。乳離れしてから、雪江は一度も添寝したことさえなかった。もっとも、母がそれを許さなかった。雪江一人しかうまない母は、それだけに不幸な生まれの修吉がいっそう不愍らしく、どんないたずらをしても殆んど叱ったことさえなかった。勤めから戻った雪江が、ときに衝動を抑え切れずに修吉を抱き上げようとすると、母は横あいから攫うように抱きとって、急いで隣室へ連れて行った。そんなことが何度かあった。雪江はそれを――戸籍上の弟を実際にも弟として育てることが、修吉のためにも、そしてまた雪江の将来のためでもあると思いこんでいる母の愛情と承知しながら、やはりその都度、誰へも訴えられぬ哀しさを味合わねばならなかった。日ましに雪江は、修吉の成長にいやでも無関心を装う破目になった。 露子に問われてつい口を滑らせてしまったが、雪江が「ジープ」をやめたのは、岡谷の親切が、やっぱり単たる親切ではなかったからであった。久子に問合せの手紙を出した翌晩、例によって店を閉める間際にやってきた岡谷は「今夜は俺にちょっと附合ってくれ」雪江にためらうすきも与えず、待たせてあった自動車へ押しこんだ。南京町の小さな店の二階で、雪江は戦後はじめて本格的な中華料理を口にした。すすめられるままにビールも飲んだ。酔いと満腹感でけだるくなった雪江は、卓の下に両脚を伸ばして、後ろ手をついた。岡谷は童顔に微笑をうかべて、まだ洋酒のグラスを舐めていた。そのやさしい目につい気を許したのがいけなかったと気づいたのは、岡谷にいきなり抱き竦められ、彼の手がもう膝を押しあけようとしたときであった。あまりの豹変ぶりに、怒りよりも驚きが先で、酔いがもう少し深かったら、雪江はあっけなく手籠めにされていたかもしれない。あとから思えば、卓の下へ脚を伸ばしていたのが雪江には幸運であった。卓がひっくりかえって、その上の器が大きな音を立てて畳に雪崩れ落ち、岡谷はその音にちょっと力を抜いた。 雪江はそれきり「ジープ」をやめた。感謝していただけに思い出すと口惜しさがこみ上げ、二度と岡谷の顔を見たくなかった。むろん久子へは、追っかけ速達を出した。理由ははっきり書かなかったが「誰れも信じられない世の中になってしまいました」恐らくそれだけで、久子はおおよそ事情をのみこんでくれたろう。厚顔なのか、あのときちょっと魔がさしただけなのか、岡谷はその後二、三度家までやってきて、ぜひ店を続けてくれと母に頼みこんだ。雪江は二階で岡谷の声をききながら唇を噛んだ。いきなり軀に手をかけられたことよりも、平気でやってくる岡谷が憎かった。あんなことがあったあとでも店を続けると思われているのが口惜しかった。そこまで甜められていたのかと思うと、階下へ駆けおりて、思いきり突き飛ばしてやりたかった。―― 「おい」 不意に後ろから声をかけられた。どきっとして立ちどまると、暗がりから安ポマードの匂いがして、小柄な男が軀をすり寄せてきた。 「いくらだい?」 男の手がもう二の腕を掴んでいた。 「あぶれてんだろ、俺がつき合ってもいいぜ」 雪江は男の手をふり払った。岡谷のことを思い出していた矢先だけに、夜の女と間違えられたことが、よけい癪だった。 「違うわよ」 あとずさりながら睨みつけた。 「金はあるんだぜ。サービス次第でうんと弾むぜ」 「ばか」 「何ッ、ばかとはなんだ」 掴みかかろうとする男の手を逃れて、雪江は身を翻した。明るいほうへ走りながら、頬に涙が伝わった。
●五
いくら金を積んでも、肝腎の品物がなかった時代から、金さえ出せば、食物でも衣料でも、一応のものは手にはいる時代が来た。そのかわり、なんでも呆れるほど高かった。ささやかな収入しかない庶民には、暮しにくい世の中と言えた。 修吉が幼稚園へ通い出し、雪江の区役所勤めも足掛け三年になった。 幼稚園へ行くようになってから、修吉は急に生意気になった。悪戯もひどくなり、いつの間にかハンドバッグの留め金が壊れていたり、ハイヒールの踵がもげていたりした。叱ると、いつどこで覚えたのか、 「アイアム・ソーリー」 などとおひゃらかした。外へ逃げ出したら、なかなかつかまらなかった。歌の巧い修吉は、前の年の秋頃から流行り始めた「異国の丘」などを終りまでたくみに歌って修三を喜ばせ、すかさず十円ねだると、近所の駄菓子屋へすっ飛んで行った。いくら叱っても、アテクジをやめなかった。 「母さんたちが甘すぎるから、いけないのよ」 雪江がこぼすと、 「いつかあの子が本当のことを知ったら――そう思うと、つい不愍で……」母はかばった。 「それとこれとは別だわ」 「でも、厳しくして、かえってひねくれた子になられでもしたら……」 そう言われれば、雪江はやはり、修吉の成長を傍から眺めているより他はなかった。たった一度の過失で子供を産み、その子供を取り上げられた雪江にとっては、勤め先で、真面目な事務員だと褒められるのが唯一の慰めとなった。同じ年頃の女たちが、けばけばしい服装で、GIの腕にぶら下がるように歩いているのを見ると、雪江は己の身なりをますます地味にした。むろん、まともな結婚なぞ、頭から諦めていたが、勤め先の上役にわざと卑猥な口吻で誘惑をうけたり、事情を承知の上で子供ごと面倒みようという話なぞを持ち出されると、たとい一カ月でも、幸福な結婚生活を送った久子が羨ましく思われたりした。まして近所の若い細君が妊娠中絶した話なぞ耳にすると、日ましに容貌が自分に似てくる修吉の存在がうとましく、またときには、この児のために一生独身で通そうと感傷的になることもあった。 そんな或る口、すっかり面窶れした露子が、怯々と訪ねてきた。一目見て雪江は、玉置との間がうまく行ってないのを感じた。露子は阪東橋で別れてから五日ほどのちに一度来たが、そのときは母と三十分ぐらい世間話をして匇々に帰って行った。あとで母も「何しに来たんだろうね」と首をかしげていた。あれからもう丸二年経っていた。 「私がばかでした。玉置は奥さんとまだ正式に離婚していないんです」 案の定、露子は、父母の前にうなだれ、別れたいからどうか仲にはいって話をつけてくれ、と父の前に両手をついた。はじめて見る露子の神妙な態度だった。雪江はいくらか溜飲がさがり、ちょっぴり哀れさも覚えた。 その後、露子は三日にあけず訪ねてきて、来ると両親とひそひそ話込み、ときには珍しく洋服に着替えた父と一緒に何処かへ出掛けて行った。雪江は話がどの程度進んでいるか知らなかった。聞く気もなかった。露子が玉置と別れようと別れまいと、今の雪江には関係なかった。ただ、父のお人好しぶりが歯痒ゆくて、「父さんも抛っておけばいいのに」母にそれとなく皮肉った。以前、叔父と別れるときは介入しなかった父が、今度は積極的に動いていることに、雪江はかすかな不安を覚えた。 不安は間もなく現実となった。玉置の半ば脅迫めいた手切れ金の要求をのんで、父が残っていた家作を二軒とも売り払ったことを知ったとき、 「修吉のためにあの二軒だけは――」流石の母も顔色を変えたが、 「なまじ家賃の上がりなぞがあるから儂は駄目だったんだ。照子、儂はやっと修吉のためにもうひと働きする気になったよ」 父はそれを裏付けるように、釣り道具を戸棚の奥へ抛りこんだ。 ――修吉のためだなんて! 雪江は改めて父に肚を立てたが、まさか口には出せなかった。 玉置は、軍隊から運んできた物資を元に、一時は羽振りのよいブローカーになったが、一度取締りにひっかかってから失敗が続き、その頃は、叔母名儀になっていた稲村の家を手ばなし、叔父がそっくり残していった家財道具も、二棹(さお)の箪笥にぎっしりつまっていた叔母の着物もすっかり無くなっていた。露子が別れる気になったのは、そんなせいかもしれなかった。 ところが、話がつくと露子は、叔父さえ赦してくれるなら、もう一度親子三人の生活に戻りたい、と言い出した。 「義兄さん、秀次郎に聞いてみてくれないでしょうか」 ぬけぬけと言う露子に、暫くは口もきけない父の横顔を見て、やっぱり、と雪江は胸の中で唇を噛む思いだった。 「そりゃあ、聞いてやらないことも、ないけど……」 手切れ金を調達した底意を露骨に語っている父の顔を、雪江はそれ以上見ていられなかった。 ――今度こそ父は懲りたろう。 併し、結果は意外であった。虫のいい叔母の希望を、叔父がわけもなく承諾したのに引きかえ、和彦がきっぱり拒んだので、露子は当分、雪江の家に同居することになったのであった。
●六
昌太郎に再会できなかったあの雨の日以来、ひそかに憎みつづけてきた露子との同居――けれども、雪江にとってそれ以上に堪えがたかったのは、露子が来てから、見違えるように元気になった父の姿を見ることであった。そんな父を平気で見すごしている母の態度も、遣り切れなかった。 ――父も叔父もなんて引ッ腰のない男たちだろう。それとも叔母は、男にとってそれほど魅力のある女なのだろうか。 そんな目で見ると、家に来てからの露子は、日ましに以前の色っぽさを取戻してきたようであった。何を画策しているのか、父は背広を着て毎日出かけてゆき、露子がその身の廻りをまめまめしく世話し始めた。 「義兄さん、ちよっと」手をのばして、父のネクタイを直しているような場面を、雪江は何度か見かけた。父の世話を妹にまかせて、修吉にかかりきりになっている母が、雪江にはいっそ気味が悪かった。 雪江は、二階の自室を露子に空け渡した。 「私は下で結構よ」遠慮する露子を「あたしは朝が早いから」という口実で二階へ追い上げたのは、母への配慮というよりも、多分に意地悪な気持からであった。階下も玄関の三畳を入れて四間しかなかったが、父母は相変らず、別々の部屋に牀をとっていた。父の寝間を中に、母と叔母が、その両隣の部屋に臥せる姿を想像すると、雪江は自分だけが二階で安閑と眠ってはいられなかった。せめて自家だけは“地獄”にしたくなかった。 ――たとえ母さんが許しても、あたしは絶対に許さない。 だが、久しぶりに母や修吉と同じ部屋に休んでも、やはり雪江は安眠できなかった。ちょっとした物音にも目が醒めて、父が二階へ忍んで行ったのではないかと、耳を澄ませた。われながら浅間しく、今更自分が目を光らせてもはじまらないと、自身に何度も言いきかせてみるのだが、隣室の父の鼾が空鼾でないことを確めるまで、雪江はどうしても心が落着かなかった。ひょっとすると雪江は、無意識のうちに、父と叔母の現場を目撃したかったのかもしれない。襖越しに父の鼾を耳にしながら、雪江はまだ軀の芯のほうに燠火のようなものがくすぶっていて、岡谷からいきなり抱き竦められた記憶がふとよみがえってきたりした。 ――和彦さえ説得させれば、露子を家から追い払うことが出来る。 寝不足のせいか、勤め先でミスが何度か重なった末、いつか雪江はそう考えるようになった。かつては叔父に従って稲村ヶ崎の家から出たことを褒めてやりたいとさえ思った自分が、今度はその和彦を利用して叔母を追い出す――その身勝手さに気づいてはいたが、 ――でも、あのときは事情が違う。 雪江は自分に弁解した。 ――貰い子で血が繋がっていないとはいえ、赤ん坊のときから育てられた母親だ。一時の感情さえ棄てれば、和彦だって元通りの親子三人の生活に戻れるのだ。 併し、まだ少年の和彦に、父と叔母の関係を告げるわけにはいかなかった。もし言ったら、和彦はますます孤独に陥るだろう。 ――そうだ、あの人に頼んでみよう。 昌太郎を思い出すと、雪江はもうそれで、悩みが半分、解決されたような気になった。 ――あの人なら、きっと和彦を説得することが出来る。いつか和彦は大嫌いだと言ったけれど、あれは、あの年頃に有りがちな一時的な人嫌いの言わせた言葉にすぎまい。 いつかの疑惑を雪江が無理矢理ねじ伏せたのは、露子から昌太郎の復員を聞いて以来、一度会いたいと思っていた気持が恰好の口実を得て、いちどきに溢れ出したせいであった。 ――兎も角、会って頼んでみよう。 雪江が決心したもう一つの理由は、ちょうどその頃、昌太郎が勤めているという「みやこタイムス」の社会面に、江ノ島の弁財天の写真を見つけたからであった。あるいはそのほうが、昌太郎に会ってみたいという主な動機になっていたかもしれない。琵琶を抱えた、五段ぬきの大きな弁天様の写真を、何気なくひろげた新聞に見い出したとき、雪江は一瞬、胸がつまった。写真の下には、こんな説明がついていた。
六百年の禁忌を破って、門外不出の、いや島外不出の江ノ島の弁天様がお江戸見物――ご覧のように琵琶を弾いているだけあって、昔から歌舞音曲に霊験あらたかといわれるこの裸像弁天は鎌倉時代の作。戦前は七年目ごとに開帳されたが、戦後初の出開帳は、私鉄とデパートのタイアップで、緑の江ノ島観光に一役買って出た次第。 坐高一尺八寸、もとはきちんと着物を召されていたそうだが、永の“箱入り”生活で一帳羅もボロボロ、その後裸ぐらししていたものの、いくらストリップばやりのご時世とはいえ、裸で道中なるものかと、けさ都入りしたときは、はずかしそうにおつむからスッポリ白い布をかぶっていた。 二十五日まで新宿Sデパートに鎮座ましますが、昔から、アベックでお詣りすると、焼餅をやいて罰を当てるといわれているので念のため……。
おどけた記事の最後の一行を読み終えたとき、 ――会いたい! 思わず目頭が潤んでくるような烈しい想いだった。昌太郎が書いた記事に違いなかった。
●七
新聞の題字下に出ている代表電話番号を告げると、間もなく市外電話局の交換嬢が、新聞社の交換台にかわった。雪江は少し顫える声で昌太郎の姓を告げた。 「社会部の佐山はずっと相撲場――蔵前のほうに詰めています」 交換嬢は抑揚のない声で言うと、すぐ電話を切った。思ってもみない返辞に雪江は気抜けした。 昌太郎が会ってくれるなら、その日にでも東京へ出かけるつもりだった。夏場所が終るまで、まだ五日あった。 ――やっぱり会えない運命なのか。 出鼻を挫かれて、一旦は諦めかけた。いざとなるとためらわれて、新聞を読んでからでさえもう半月経っていた。 ――仕方がない、あと五日待とう。 だが、その夜、雪江はとうとう階段を忍んでゆく父の跫音を聞いてしまったのである。牀の上に起き直って、雪江は天井に耳を澄ませた。修吉の向う側に寝ている母の後髪に目を据えて、雪江の喉はもうカラカラになっていた。掛け蒲団の襟をぎゅっと握って、二階へ駆け上ってゆきたい衝動と闘った。再び階段に跫音がした。ものの十分とは経っていなかったが、その間、二階からは物音一つきこえなかった。廊下のつき当りで、ご不浄の戸を開ける音がした。最初の跫音は空耳で、叔母が降りてきたのかもしれない――雪江はそう思いたかった。もう一度階段を上る跫音をききたかった。併し、それきりであった。雪江は明け方まで、まんじりとも出来なかった。 翌朝、母が台所から促した。 「早くしないと、遅れるよ」 「きょう、休むわ」 部屋にやってきた母から目をそむけて雪江は答えた。 「少し頭痛がするの。済まないけど、役所へ電話をかけといてよ」 起きる気がしなかった。起きれば父や叔母と顔を合わさねばならない。父が出かけてから、雪江はやっと牀をはなれた。手洗いで軽い眩暈を覚え、そんな自分に肚が立った。 「急に風が出てきたわね」 茶の間から露子の声がきこえてきた。雪江は歯磨き粉がいつもより歯ぐきに沁みるような気がした。雪江はそっと二階へ上った。叔母に譲ってから、滅多に上ってきたことのない二階だった。蒲団の蔵ってある押入れの戸に手をのばしかけて、自分の浅間しさに全身が赧くなった。 昼前、幼稚園から戻ってきた修吉に雪江は言った。 「おすもうを見に行くかい?」 「本当?」修吉が目をまるくした。 「早くご飯をたべて、着替えなさい。そのかわり、温和しくしているのよ」 傍で驚いている母を尻目に、雪江は箪笥の押斗を開けた。 「お前、本当にお相撲へ行くのかい」 「ええ、なんだか急に見たくなったの。長襦袢に襟をつけてね」 それだけは売らずに残しておいた矢絣のお召を出して、 「これ、もう派手かしら?」 「そんなことはないよ。でも、急に、どうしたんだい?」 半襟箱を開けながら、母はまだ解せぬ表情であった。 出がけに、姿見の前でもう一度ひと廻りしてから腰をかがめ、 ――いいわね、どうしてもきょう会うのよ。 雪江は自分の顔に念を押した。修吉はもう三和土で靴をはいていた。 「本当に行くのかい」玄関で襟をつまんでくれながらまた母が訊いた。 「おすもうを見に行くのが、そんなにおかしい?」 母は露子と顔を見合わせ、不安そうに小さく頸を振った。 保土ケ谷駅から横須賀線に乗ると、修吉はすぐ窓に貼りついた。 「あ、橋だよ、姉ちゃん」「あ、姉ちゃん、大きな煙突」 そのたびに小さな叫びを挙げた。姉と呼ばれることにもう慣れてはいたが、これから会う昌太郎の前では通用しないことを思うと、いくら照れかくしとはいえ、修吉なぞ連れて来なければよかったと、早くも軽い後悔を覚えた。 「修ちゃん、おすもうは今度にして、きょうはよそへ行こうか」 「やだい、おすもうを見るんだい」 都電に乗換えてからも修吉は、絶えず窓の外へ小さな目を動かしつづけていた。その、いくらか不安そうな目を見ていると、雪江も次第に心許なくなってきた。昌太郎は果して会ってくれるだろうか。会っても、今更用はない筈ですと、何も言い出さぬうちに突っぱなされてしまうのではなかろうか。東京には戦後、数えるほどしか来ていなかったので、馴染みのない街竝が、雪江の不安をよけい募らせた。両国の国技館には双葉山の全盛時代に、父に連れられて一度だけ行ったことがあった。夕方、館内の豆電球が一斉にともったときの美しさは、今でもはっきり憶えている。その両国と、これから行く蔵前がさほど離れていないことは、昨日、電話をかけたあとで早速地図を見て確かめておいた。道順もそれとなく同僚から教わっておいた。もし昌太郎が会ってくれなければ、修吉とどこか隅の席で見物して帰ればいいのだ。修吉はあす幼稚園で、得意になって相撲見物を自慢するだろう。そんなことを思いながら、併し心の隅では藤椅子に凭れた昌太郎の姿を、しきりに描いていた。入隊の挨拶に来たとき、たとい僅かな時間でも再会しているのに、雪江の瞼に泛かぶのは、やはり15歳の昌太郎であった。 蔵前一丁目で都電を降りると、いきなり強い風が吹きつけた。埃の舞い上るのが、はっきり目に見えた。あわてて顔を蔽った袂の蔭から、ちらっと見えた櫓が、ふと揺らいでいるように思えた。 櫓の下の幟が、今にも千切れそうにばたついていた。片瀬海岸の映写幕がふと憶い出された。国技館へ流れる人波のなかで、雪江は修吉の小さな手を何度も握り直した。 道路に面して据えられた拡声器から、場内の歓声が響いてきた。取組表らしい紙片が、風に乗って空中へ舞い上がり、館の正面に積み上げられた四斗樽の頂きを、紙飛行機のようにサッと掠めて飛び去った。 「みやこタイムスの佐山さん、ご面会の方が正面木戸口でお待ちになっています」 雪江の頼んだ場内アナウンスが、二回繰り返した。わざと名前を伏せたわけではなかった。が、自分の名を告げられないでよかった、と雪江は吻とした。木戸を囲んだ両側の相撲茶屋では、朱い組紐のついた紫縮緬の前掛けをつけた若い娘や、たっつけを穿いた若い衆が、弾んだ声をかけ合って、きびきびと立ち働いていた。雪江は修吉の手を握って、いちばん奥の茶屋の蔭で息をひそめていた。木戸へ吸いこまれてゆく女客は、殆んどが粋な和服姿だった。野暮ったい矢絣の自分だけが、場違いなところへまぎれこんできたようで羞恥しかった。 丸太で組んだ観客席の間の通路から昌太郎が出てきたのは、五分と経たぬうちであった。鼠色のカーディガンをはおり、白い鼻緒の草履をつっかけた昌太郎は、通路と木戸の間の空地を、背をまるめて横切ると、風に乱れる髪の毛を押えながら木戸の三、四歩手前で立ちどまり、ゆっくりと顔を起こした。 木戸を挾んで、二人は向い会った。 が、昌太郎は、当然視界にはいっている筈の雪江に気づかず、のび上って道路のほうを捜がしていた。 ――昌太郎さん。 雪江は出かかった声を嚥みこんだ。羞恥のためではなかった。昌太郎の顔色が、病人のように蒼かったからである。稲村ヶ崎で初めて会ったときとは別な、妙にくろずんだ蒼さだった。 昌太郎は、長い髪を掻き上げながら、今度は茶屋の前に群がった人々を、目で選りわけ始めた。面会人が誰か判らぬ昌太郎には、間近にいる雪江が、かえって盲点になっているようであった。 木戸口には、力士あがりらしい大きな男が坐っていた。その分厚い肩越しに見るせいか、昌太郎は背ばかりひょろ高く、明らかに苛立っている表情が、ふとおかしさも誘った。 昌太郎はズボンから煙草を出して、マッチをすった。風に炎を盗まれて、三本むだにした。やっと火がついて、目を挙げた。その目が、はじめて雪江を捉えた。雪江は精一杯の微笑を湛えた。昌太郎の目に一瞬、怯えた色が走った。すぐ視線を逸らした。 恐るおそる目を戻してきた昌太郎に、雪江はもう一度笑いかけ、二人は、はじめてお互いの眸の中を覗き合った。昌太郎のこけた頬に、ゆっくりと微笑がのぼってきた。張りつめていた力がいちどきに抜けて、雪江は、その場に跼みこんでしまいそうになった。
●八
雪江と修吉は、昌太郎に跟いて、大衆席のいちばん奥へ登って行った。 修吉は、ひと足のぼっては下の土俵をふり返った。桟敷にはまだかなり空席があった。此処がいいよと言わんばかりの顔でふり仰ぐ修吉を、雪江は目で叱った。が、修吉は唇を尖らせて、空席のそばをはなれず、雪江が知らん顔をして登り出すと、仕方なく、あとを追ってきた。土俵で勝負がついたのか、周囲から、わッと歓声が挙がった。雪江は、前をゆく昌太郎のカーディガンの裾から垂れ下がっているバンドのはじに気をとられていた。兵児帯がほどけていた記憶が、なつかしくよみがえってきた。 登りつめると、板囲いの隙間から、風が容赦なく吹きこんできた。ヘンに生ま暖い風であった。 「まだ出来上っていないのね」 「ああ、初日までに間に合わせるつもりだったらしいけど……」 この前の場所は浜町で、今場所からこの蔵前に移ったことは、雪江も新聞で知っていた。併し、急造とはいえ、両国の国技館とは、あまりにも違いすぎていた。何もかも、貧弱であった。 長い丸太を縦横に渡した天井から、裸コードで吊された電球が、場内の昂奮をひやかすように、ユラユラと揺れていた。土俵の力士が、豆人形のように小さく見え、ざわめきと、観客席の白い扇子の波が、雪江の気持を落着かせなかった。竝んで立つと、昌太郎の肩までしかなかった。すぐそばに吊された裸電球の光のせいか、昌太郎の顔が少し黄色っぽく見えた。 「もうかなり前ですけど」 足許に目を落し、少し間を置いてから雪江は言った。 「新聞で、江ノ島の弁天さまを――」 「ああ、僕が取材したんです」 「やっぱり」貴方も叔母の言葉を憶えていたのか……。口には出さなかったが、にわかに親しみがこみ上げてきた。 「お仕事、面白いでしょうね。こうして相撲も観られるし……」 「僕は、なんでも屋なんですよ」 「なんでも屋?」 「遊軍と言って、きまった仕事がないかわりに、事件が起きれば、殺しでも、火事でも交通事故でも、すぐとんで行って手伝うんです。事件のないときは動物園へ行ったり、大学を廻ったり――そして、場所がはじまると、こうして相撲場へも来ます。もっとも相撲記事は、専門の運動記者が書くんです。僕の仕事は、土俵より客席を見廻して、その日の入りや変った客種を捜して、いわゆる雑観記事というやつです。ア、敗けたな」 またどっと歓声が湧いた。 「ちょっと」昌太郎は言い置いて筵を敷いた通路を、馴れた足どりで降りて行った。やや猫背のその後ろ姿が人波にかくれるまで見送って、 ――来てよかった、会えてよかった。 雪江は胸のなかで繰り返した。下からのぼってくる人いきれも加わって、雪江の軀は汗ばむくらい火照っていた。 ほどなく戻ってきた昌太郎が、キャラメルとのし烏賊の袋を修吉に渡しながら言った。 「あとで坊やを記者席へ連れて行ってあげよう」 「いいのよ、此処で。お仕事の邪魔になるわ」 昌太郎は煙草に火をつけてから、 「君は」 言いかけてふと口籠った。吹きこんできた風が、忽ち煙りを攫って行った。 「なあに?」 「いや、血は争えないね」 「この児のこと?」 わざと軽い口調で受けた雪江に、「いや」と昌太郎は、今度ははっきり打消してから、 「叔母さんに、よく似てきたよ」 不意に背中をつきとばされたような衝撃であった。 「痛い、姉ちゃん」 「ア、ごめんよ」 あわてて修吉の手をはなした。顔から血が引いてゆくのが自分でも判った。修吉に言われて、のし烏賊を千切りながら、昌太郎の目が、項にそそがれているのを意識した。木戸口でなぜ昌太郎が怯えた目をしたのか、雪江ははじめて知った。指が顫え、烏賊がうまく千切れなかった。
●九
昼までで勤めが終る土曜日ごとに、雪江は東京へ出かけて行った。新橋駅前の喫茶店で、昌太郎を待つひと刻が、遅ればせにやってきた雪江の青春のはじまりであった。 相撲場ではとうとう言い出せなかった叔母や和彦の話を、雪江がやっと切り出したのは、三度目に会って、浜松町の恩賜公園へ案内されたときであった。さすがに父のことは打明けられず、貴方が和彦さえ説得してくれれば叔父夫婦はまた一緒になることが出来るのだと、雪江は繰り返し力説した。 「そうなれば、彦ちゃんだって、幸福になると思うの。あの子、今がいちばん大切な年頃なのよ。いま、ぐれられでもしたら、叔父さんが可哀想だわ」 併し昌太郎は、火から火へ煙草を吸いつづけて、殆んど表情を動かさなかった。ときどき、公園のわきを、地響きを立てて国電が通過した。樹間にちらつく電車を、昌太郎はぼんやりした目で見送り、また新しい煙草を咥えた。池をひと廻りしてから、 「ね、彦ちゃんにいつ言ってくださる?」 雪江がいくらか焦れた声で訊くと、昌太郎は、はじめて顔を向けてきた。 「君は、本気で僕に説得役を押しつけるつもりかい」 「だって、貴方以外に――」 「僕に会うのは、それだけの用事なの」 次の土曜から雪江は一切、叔母の話を口にしなくなった。 仕事の忙しい昌太郎は、喫茶店に来ても、十分か二十分ですぐ取材へ出かけたり、電話で、きょうは手がはなせない、と断ってくることもあった。が、雪江にとっては、週に一度、昌太郎に会うことで、叔母と同居する苦痛が薄らぎ、すると現金なもので、いつか父の鼾さえ気にならなくなってきた。昌太郎に会っていることを、雪江は、母にだけそっと告げた。 「叔母さんには絶対内緒よ」雪江はわざわざ念を押した。 昌太郎は抑留中、栄養失調になったらしく、いつも顔色が冴えなかった。喫茶店でも、脚をだるそうに投げ出して腰かけ、自分のほうから話しかけることは殆んどなかった。こんな無口で、人と会う機会の多い新聞記者がよくつとまるものだ――雪江はときどき訝しく思った。或いは取材中の昌太郎は、もう少ししゃっきりしているのかもしれなかった。 ――あたしと会っているときだけ、わざと疲れたふりをしているのだろうか。 併し、そうした昌太郎と会っていても、雪江は退屈するどころか、むしろ、かつてない安らぎを覚え、何気ない手つきやぼんやり宙を見上げている横顔などから、少年の頃の昌太郎を偲ぶことさえ出来た。顔色は冴えなかったが、長い睫毛は昔と少しもかわらなかった。 雪江は、昌太郎に訊かれたら、健市との過失も、岡谷に抱き竦められたことも、すっかり喋るつもりだった。何もかもさらけ出して、裏も表もない自分を知ってほしかった。そして若し昌太郎が誘ったら、どこへでも跟いてゆくつもりだった。軀を求められたら、ためらわずに与える気であった。ひそかにそれを期待してもいた。 が、昌太郎は、暇なとき、せいぜい映画へ誘うか、日比谷公園をぶらつくぐらいで、周囲が暗くなっても、手一つ握ろうとしなかった。 ――仕事さえなければ、ちゃんと約束の時間に来てくれるのだから、満更、あたしが嫌いじゃないのだ。 帰途、一人になってから、自分に言いきかせたが、行儀のよい昌太郎が、雪江は次第に物足りなくなってきた。試されているような気もするし、わざとじらされているようにも思えた。十年前、露子や和彦の目を掠めて、唇や手を触れ合った記憶が、懐しいよりも、いっそいまいましく思い返されたりした。 昌太郎と会うようになってから雪江が覚えたのは、煙草だけであった。いつも黙っている対手に話の継ぎ穂を失い、「あたしにも一本頂戴」留められるのを期待したが、昌太郎は相変らず黙って煙草の箱を差し出した。烈しくむせる雪江を、昌太郎は笑いもせず見守った。そんな昌太郎が、少しばかり無気味だった。 「ね、どこかへ旅行しない?」 すっかり夏になった或る日、雪江は思いきって誘ってみた。 「行ってもいいよ」珍しく昌太郎が話に乗ってきた。雪江はハンドバッグから、用意してきた地図を取り出した。卓の上に拡げると、「二人きりでかい?」昌太郎が訊いた。 「当り前じゃない」 「修吉君は連れて行かないの?」 虚をつかれて雪江は黙った。弾んでいた心がいっぺんにしぼんだ。昌太郎に会いはじめてから、月給日でも修吉に土産を買って帰らない自分が後ろめたく思い返された。 「あの子を――」雪江は低い声で訊いた。「連れて行かなければ、いけないの」 「いけないわけじゃない」 「貴方は案外、意地悪なのね」 「そうかな」昌太郎は唇に笑いを泛かべた。「修吉君が一緒のほうが、君にもいいだろうと思っただけさ」 「だから意地悪なのよ」 「どこにしようか」 「あたし、やめるわ」雪江は地図を畳んだ。 「じゃ、よそう」あっさり頷かれて、未練が残った。 「ね、海へ行きましょうか」 暫く経ってから雪江は訊いた。むろん、雪江が思い描いたのは、忌まわしい記憶のある由比ケ浜ではなく、もっと遠い、どこかあまり人の行かない静かな海岸であった。 「海なんか、つまらんよ」 「じゃ、つまるところを教えて――そうだわ、貴方の新聞社を見学させてよ。あたし、まだ新聞がどうやって作られるのか知らないの」 「それこそ、余計つまらんよ」 昌太郎はニベもなく言い、ちょっと経ってからつけ加えた。 「君、無断で社へ来るようなことは絶対しないでくれ」 なぜ、と言いかけて、雪江はすぐに言葉をのみこんだ。昌太郎の顔が不意に後ろへとびすさった感じだった。それは、通経剤を教えたときに健市の顔から感じた、あの、見詰めるほど遠のいてゆく錯覚に似ていた。不安、というよりも、何か哀しみに近い感じだった。
●十
藤原亮子と名乗る未知の女が突然、雪江の勤め先に訪ねて来たのは、その年の秋も終りに近い或る午後であった。 裏階段から職員専用口へ降りてゆくと、入り口の石段の上でこちらに背を向けた小柄な女が、建物の裏の運河のほうを見詰めているように佇んでいた。昼をかなり廻った陽が、汚れた河面に光っていて、そのにぶい反射が、折り畳んだ扉の面にゆれていた。 「あのう、あたしが……」 言いかけたとき、簿鼠色のトッパーコートの肩がゆっくり廻り、雪江より三つ四つ若い顔が、固く引きしまった表情で向き直った。ぐっと右手が突き出された。指先に名刺があった。見ろッ、と突きつけるような差し出し方だった。 不意打ちの敵意に雪江は一瞬たじろいだ。が、名刺の肩書に、昌太郎の新聞社の名が刷ってあったので、雪江は先に立って石段を降りはじめた。近くの喫茶店へ案内するつもりだった。雪江は前の週の土曜日、昌太郎にすっぽかされていた。昌太郎の伝言を持ってきたに違いなかった。この女はそんな役目に肚を立てているのだろう。雪江は軽く考えていた。喫茶店でいちばん高い飲み物を御馳走するつもりだった。 ところが、 「急に横から飛び出してくるなんて、反則だわ」 いきなりかん高い声を投げつけられ、雪江は思わず石段の途中で立ちどまった。見上げる顔へ、逆に射すくめるような鋭い目が降ってきた。 「反則?」 「そうよ、反則だわ。貴女とのことは、もう十年前に終っている筈よ」 喫茶店に対い合って坐ると、案の定藤原亮子は敵意をむき出しにして、佐山さんにちょっかいを出すな、と極めつけた。 「あの人とは、ちゃんと結婚する約束になっているわ。貴女のことはずっと前に聞いていたけど、今頃になって縒りを戻そうなんて、少々虫がよすぎるわ」 細い眉、心持ち目尻のさがった目、鼻翼の薄いほっそりした鼻――。一見、しとやかそうな顔だけに、弾き出された言葉が一向に雪江の胸を摶たなかった。恐らく東京からここまで、何度も暗謂してきたに違いない。 「社で、何をなさっていらっしゃるの?」雪江はわざとおだやかに訊いた。 「記者よ、文化部の記者をしているわ。佐山さんとは入社以来、ずっと親しくつき合ってるわ。あの人のお母さんにもお目にかかったわ」 「あたしは別に、貴女がたの邪魔をするつもりはないのよ」 亮子の目を覗きこんでゆっくり言い、社へは無断で来ないでくれ、と言った昌太郎の言葉を雪江は思い出した。 「そうでしょうね。それが当然ね。これからもそうして欲しいものだわ」 亮子が煙草をとり出したので、雪江は火をつけてやりながら訊いた。 「あの人については、なんでもご存知?」 「知っているつもりだわ。もう三年越しですもの」 亮子は煙りを大きく吐き出した。顔に似合わぬ商売女のようなその態度が、明らかに虚勢を語っていた。昌太郎は本当にこの女と結婚の約束をしたのだろうか。 「あの人がいちばん好きな物、ご存知?」 「好きた物って――食物?」 「ええ、いちばん好きな食物」 亮子は黙った。目を宙に泳がせて、懸命に思い出そうとしていた。雪江の頬に微笑がのぼった。 「貴女、あの人と風月ヘケーキを食べに行ったことがある?」 「ケーキ?」 眉をよせた対手に、雪江は止めを刺すように言った。 「ええ、風月のケーキ、あの人がいちばん好きな物」 もはや明らかに主客は顛倒していた。亮子がそれまでの高飛車な態度からいっきょに弱々しい口調になったのに引きかえ、雪江のほうはますます皮肉な口吻を愉しんだ。 その日、亮子から聞いたのは、昌太郎が社ではもっとも嘱望されている社会部の花形記者で、いつも華やかな話題をふり散き、女出入りもかなり派手だ、ということであった。 「私が知っているだけでも三人居ます」 亮子はそう言った。雪江の、全く窺い知らない昌太郎の反面だった。いつも疲れたように足を投げ出して腰掛ける昌太郎からは、およそ想像できない一面であった。物憂そうな、何をきいても無表情なあの態度は、やっぱりニセのポーズだったのか。最後に亮子は、まるで哀願するように言った。 「ね、私と結婚させて下さい。私、もう、あの人と……」 まだ勤務中ですから、と雪江は急に立ち上った。そして、びっくりして見上げてきた亮子の顔へ浴びせかけた。 「昌太郎さんに、じかにお願いしたらいいじゃない。あたしに頼むなんて、それこそ反則よ」
●十一
五日後の昼すぎ、雪江は勤めを休んで、築地にある昌太郎の新聞社を訪れた。夏のボーナスで買った、対の藍大島を着て行った。 「みやこタイムス」は、輪転機の轟音がなければ見過してしまいそうな、小ぢんまりとした三階建のビルであった。雪江の抱いていた新聞社の概念とはおよそかけはたれた建物であった。 二階の、衝立で仕切った狭い応接室で昌太郎を待つ間、雪江は、告げるべき言葉を胸のなかで何度も暗謂した。亮子を喫茶店に置いて区役所へ戻りながら、あたしこそ結婚を頼んでみようと雪江は心にきめたのだった。 雪江は応接室の前に跫足がするたびに、躰を固くした。なぜいきなり訪ねてきたと、昌太郎は怒るに違いない。その点は素直に謝るつもりであった。怒っても、まさかすぐ追い返しはすまい。たとい昌太郎が追い返そうとしても、亮子との関係をはっきり彼自身の口から聞くまでは帰らぬ決心だった。「君なんかに弁明する必要はない」昌太郎はそう言うかもしれない。それとも、「君に何の関係がある」逆に問い返すだろうか。 亮子は、昌太郎が以前関係があったらしい女の処へ平気で彼女を連れて行き、三人で食事をしたこともある、と言った。それほどの侮辱をうけても昌太郎を愛しているのだ、と言いたかったのかもしれない。併し、雪江は、半信半疑だった。そんなむごいことが昌太郎にできるとは思えなかった。もし本当なら、昌太郎は亮子と別れたいのだ。亮子ばかりではない。派手な女出入りをつづけるのは、昌太郎が、どの女にも満足できないからではないか。あの人が本当に好きたのは……が、三十分経っても昌太郎は応接室にやって来なかった。 ビル全体を揺がしていた輪転機の轟音が熄んだ。同時に、張りつめていた雪江の心も疲れ、思わず大きな溜息が出た。雪江は思い出してハンドバッグから煙草を取り出した。ワイシャツの袖をまくり直しながら昌太郎が室にはいってきたのは、雪江がマッチをすろうとしたときであった。雪江は急いで煙草を棄てた。 「ご免、ちょっと長い原稿を書いていたものだから――」 昌太郎は窓に寄り、隣のビルの灰色の壁へ向って細い腕を交互に突き出し、 「あしたの夕方、驚くぞ、奴等」 と、言った。 「誰が驚くの」 「いや、仕事の話」くるっと振りむいた昌太郎は、いつもとは別人のように、明るい、晴ればれとした表情だった。 「特種?」 「ああ、最後のスクープだ」 「最後?」 「まだ話さなかったかな。社が合併するんだ。中外新報に吸収されることになったんだ」 中外新報といえば全国紙であった。 「で、貴方は辞めてしまうの」 「目下考慮中さ。中外の方じゃ、来る者は拒まず、と言っているがね。そんなことで、社内はいまごたごたしているんだ」 「ご免なさい、来てはいけない処に来て」 「いやあ」昌太郎は珍しく照れたように笑い、 「見る? 社内を」 雪江は頸を振って、 「藤原さんが居るんでしょ、厭だわ」 自分でも思いがけないほど、すらすらと口に出た。 「君のところへ行ったんだってね、ばかな女だ」 こともなげな昌太郎に、かえって雪江のほうがうろたえた。 「それで――それであたし」 「済んだんだよ、その話。はっきり話がついているんだ」 窓枠に肘をつくと、昌太郎はのけぞるように空を見上げて「いい天気だな」と、目を細めた。突き出した頤に無精髭が生えていた。 「でも、結婚する約束だったんでしょ」 「その着物、とてもよく似合うよ」 昌太郎が、雪江の服装について何か言ったのは、はじめてであった。 「ね、約束したの?」 「あの女の叔父さんが、うちの編集局長なんだ。俺はそれがいやなんだよ」 「結構じゃないの」 雪江は心にもないことを言った。高飛車だった亮子の態度が、はじめて合点がいった。 「もっとも、合併になれは、編集局長も利用価値がなくなるわね」 昌太郎の気持が判りながら、雪江はなぜか突っかかってゆきたかった。いつもと違う昌太郎の様子が妙に不安だった。雪江には、疲れ切っているような昌太郎のほうが親しみやすかった。 「俺、ちょっと髭を剃ってきたいんだが、いいかい」 「これからまたお仕事?」 「いや、外へ出よう。いい天気だから、どこかへ一緒に行こう。雪ちゃんがちゃんとした服装をしているんだから、俺も髭ぐらい剃らなくちゃあ……」 いつもの昌太郎は一体、どこへ行ってしまったのか。 「よっぽど凄い特種を抜いたらしいわね」 昌太郎はフフッと含み笑いを洩らしてから、 「兎も角、東京脱出だ」 応接室を大股に出て行った。雪江の胸に、やっと素直な喜びが芽生えた。
●十二
今にも波に浚われそうだった江ノ島の桟橋は、がっしりしたコソクリートの橋桁に替り、晩秋の穏やかな波が、その裾に遠慮がちに小さく砕けていた。 「あら、あんなものが――いつ出来たのかしら」 島の中央に、灯台のような白い塔が聳えていた。 「展望塔だよ。知らなかったのか。エレベーターで上までのぼれるんだ。素晴らしい眺めだよ」 「いつ来たの?」 「あれが出来たときさ、仕事でね」 季節外れの片瀬の海岸は人影がまばらで、海面に反射する陽の光だけが、徒らに眩しかった。砂浜で中学生が三、四人、キャッチボールをしていた。散歩に連れてこられたらしいセパードが、渚に足跡を印して、西浜のほうへ駆けて行った。五十年配の飼主らしい男が、鎖をふりながら、そのあとを追ってゆく。鎖がときどき、キラッと光った。 二人は肩を竝べて少時、桟橋の袂に佇んだ。昔の桟橋は狭くて、人一人すれ違うのがやっとだったが、新しい橋は、自動車が通れるほど幅が広い。洒落れた三角形の渡橋券売場のガラス窓に、渡橋料大人五円、小人三円と書いてあった。以前はたしか二銭だった。雪江はそこにも十年の歳月を感じた。 「いつ、こんな立派な桟橋になったのかしら」 「去年の春だよ。いまでは弁天橋とよんでいるんだ。神奈川県が工費約千五百万円、延二万五千人を動員してつくったんだけど、元をとるまでに何年かかるかな。雪ちゃん、この橋の長さ、どれくらいだと思う」 「そうね、七、八百メートルはありそうね」 「ところが七百メートルもないんだ。正確には六百十五メートル……だったかな」 「さすが新聞記者ね」 「なあに、これも、去年この橋が出来たとき取材にきて覚えたのさ」 それにしてもきょうの昌太郎は、驚くほど饒舌だった。この江ノ島へ来るのを提案したのも昌太郎であった。 「橋のなかった頃は歩いて渡ったんでしょうね」 「今だって干潮のときは、橋の下を歩いて行けるよ。橋がはじめて出来たのは、えーと、明治二十四年、だったかな」 「島へ行ってみる?」 「行ってもいいけど……疲れるだけだよ」 海に面した東浜の旅館の一室に脚を投げ出すと、窓枠を額縁に、島はその名前通りの美しい一枚の絵になった。島の右裾の海面が、目が痛くなるほどきらめいていた。晩秋の陽にしては、光線が強かった。 「まるで銀紙を敷いたようね」 「ああ、あの銀紙は、時間とともに移動するんだ。昼頃は腰越の小動岬の近くにあるんだが、陽が廻るにつれて、ゆっくり海面を渡ってゆくんだよ」 「昌太郎さんは、しょっちゅう此処にいらっしゃるの?」 寝そべった昌太郎が、窓へ目を向けたまま照れ臭そうに頷いた。 「この近くに彼女でもいるの?」 「ご名答――というのは嘘だ。実はね、年に三、四回、来るんだ。なぜだか僕自身にも判らないんだが、この海岸に来て、しばらく海を眺めていると、不思議と仕事への意欲が湧いて来るんだよ」 不意に昌太郎の手がのびて、雪江の上体はわけもたく畳へ倒された。 「雪ちゃん」 十年ぶりの唇の感触に、雪江の目はもう潤みはじめていた。畳から潮の香が匂った。押しつけられた頬にざらつくのは、畳の目にひそんだ砂粒だろうか。昌太郎の掌が、胸から下へ這ってゆく。雪江は瞼を閉じたまま息をつめた。波の音が遠くなり、昌太郎の息づかいだけが聞えた。 「結婚しようか」 囁かれた意外な言葉に、 「本当?」思わず目を開けた。 「僕らは」真上で昌太郎の唇が動いた。「結婚するように運命づけられているのかもしれないね」 「運命なの?」 昌太郎の唇が痙攣した。昌太郎の掌が置かれた下腹の辺りから、喜びとも哀しみともつかぬものが這い上ってきた。 「運命で結婚するなら――」雪江は思い切って言った。「して貰わなくてもいいわ」 昌太郎の顔がはなれた。見上げる雪江の目をさり気なくはずそうとした。その目を、雪江は執拗に追った。 「君は」と昌太郎が言った。「僕がなぜ約束を破って東京へ帰ってしまったか、知っているかい」 雪江は黙っていた。聞きたくない、だが、一度は聞かねばならない理由だった。 「僕だって、君が来る日を楽しみにしていた。会いたかった。だが、僕は、その前の晩に――」 「言わないで!」 雪江は昌太郎に獅噛みついた。もぐりこむように昌太郎の胸へ頭を押しつけた。 「男なんて勝手なものさ。そんな自分を棚に上げ、入隊するときは君を恨んで、俺は立派に戦死してやるって」 「言わないで。お願い、何も言わないで!」 「君の過失をとがめる権利なぞ、僕にはないんだ。――ね、結婚してくれるね。運命じゃない、僕の頼みだ」 叔母の顔、父の顔、健市の、叔父の……それらの顔が次々にうかび、雪江の躰は烈しく顫えた。 「後悔、なさらないわね」 昌太郎の胸の下で、雪江は訊いた。答のかわりに、昌太郎が強い力で抱き締めた。息が詰まりそうな力であった。痩せた昌太郎のどこにこれほどの力が潜んでいたのか。 ――この人は、裏切ったあたしを、本当に許してくれるのか。真実、あたしとの結婚を望んでいるのか。 信じよう、信じたい、と思いながら、併し心の隅ではまだ疑っていた。「悪い冗談だぜ」健市の声が耳底から聞えてきた。疑り深い自分がふとやり切れなかった。 昌太郎の腕の力がいくらかゆるんだ。雪江はもう一度、彼の目の中を覗きこんでから、自分の着物の裾を思いきりはねのけた。 「見て、これを見て、これでも後悔しない!」 雪江は下半身を、明るい部屋の中にさらけ出した。 「こんな軀よ、取消すなら今のうちよ。さあ見て、じっと見て、目をそらさないで!」 自分では叫んでいるつもりだった。が、雪江の声は、もう殆んど泣いていた。さすが、自分では自を開けていられなかった。 併し、雪江は、閉じた瞼の裏で、息をのんでいる昌太郎の顔をはっきりと感じていた。昌太郎は、たしかに見ている筈であった。あの数十条の醜い肉割れに、茫然と目を奪われているに違いなかった。雪江の目尻から、涙が、耳梁へ流れ落ちた。 ……どれほどの刻が過ぎただろうか。昌太郎の息を、剥き出しにした腿に感じて、雪江が思わず全身をぴくっとさせたとき、しずかな手つきで着物の裾がとじられた。 「いいんだよ、もう。……僕以外の人に見せちゃ、いけないよ」 目を開けて、穏やかな昌太郎の眼差しにぶつかると、雪江は声にならぬ叫びを挙げて、再び、昌太郎の胸に額をすりこんだ。 昌太郎の掌が、嗚咽する雪江の肩を、ゆっくりと撫でさすった。
(「中の章」終り)
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