『たそがれの橋』
【奥付】 著者:津田信 発行:冬樹社 初版:1965年10月10日
【目次】 前の章 中の章 後の章 あとがき
前の章 鎌倉の稲村ヶ崎に在る叔母の家で、雪江が初めて昌太郎に会ったのは、数え年十五の夏であった。昌太郎は、見るからに病弱そうな色白の少年だった。 雪江は鎌倉へ行く前から、肋膜炎を患った昌太郎が、叔母の家へ転地療養に来ているのを知っていた。親戚の間で、その美少年ぶりを噂されている昌太郎を、雪江はかねてから一度見たいと思っていた。雪江は小学生の頃から、毎夏休みの大半を稲村ヶ崎ですごす慣しになっていたが、両親のとめるのもきかずに、横浜の家から一人で出掛けて行ったのは、このときがはじめてであった。 七里ヶ浜の海を見おろす小丘の中腹に建った叔母の家は、周りを白い柵で囲い、薔薇の蔓を這わせたアーチ型の竹の門から玄関までの前庭は、一面の芝生になっていた。背後の松林では、油蝉がやかましく鳴き騒いでいた。八月中旬の、うだるような午後であった。 門のわきで額の汗を拭きながら窺うと、白絣を着て、大きな麦藁帽子を冠った少年が、玄関脇の日かげで藤椅子に腰かけていた。昌太郎に違いなかった。俯向いたその横顔は、帽子の鍔にかくれて顎だけしか見えなかったが、芝生にじかに投げ出された足首の白さが、雪江をその場に釘づけにした。 着替えを入れたボストンバッグや、母から託された風呂敷包みを足詐に置いて、雪江は殊更に息をひそめた。遠くから昌太郎の容貌をたしかめておきたかった。もし噂ほどの美少年ではなかったら、そのまま家へ引返すつもりだった。 居眠りでもしているのか、昌太郎は、一向に躰の位置をかえなかった。雪江が痺れを切らせて門のかげから出ようとしたとき、玄関に従弟の和彦の姿が現われた。藤椅子のうしろへ忍び足で近づく和彦の右手には、筒にした新聞紙が握られていた。 薄笑いをうかべて、和彦がその筒を大きくふりかぶったとき、 「こらッ」 雪江は思わず大きな声をかけた。藤椅子から、はねるように少年が立ち上った。 「ア、雪ねえちゃん」 駆け寄ってきた和彦の手から、素早く筒を取り上げて、 「悪い子」 おでこを軽く敲き、雪江はゆっくりと門をくぐった。そして、芝生に突っ立っている少年に、 「あんたが、昌太郎さんね」 自分では無造作に言ったつもりだったが、雪江の声は、やはりいくらか上ずっていた。麦藁帽子をぬいだ昌太郎は、噂にたがわぬ整った顔立で、鼻筋の通ったその顔から雪江は急いで目を逸らした。睫毛の濃い大きな目が、会いたくてやってきた自分の心を見抜いているように思えた。雪江は門まで引返した。ボストンバッグが急に重たくなったような気がした。 「あら、雪ちゃん、一人できたの?」 白い袖なしのワンピースに、水玉模様のエプロンを掛けた叔母の露子が、そのエプロンの裾で手をふきながら縁側へ出てきた。雪江が頷くと、露子は信じられないという風に、門の方へ視線を投げた。 「これ、母さんから」 雪江は風呂敷包みを差出した。 「ありがと」 露子は受取って、 「何か用? いきなり来て――」 形のよい眉を心持ち寄せた。 「ううん、別に。あたし、二、三日泊ってゆくわよ、いいでしょ」 「そりゃあ、かまわないけど」 露子がちらっと昌太郎の方を見たので、 「ご迷惑?」 自らけしかけるように雪江は振り返った。 「僕は――別に」 口籠って、昌太郎が白い頬にサッと血の色を散らせた。 「雪ねえちゃん、夏休みが終るまで居てよ」傍の和彦が、目をかがやかせて言った。「三人なら、いろんなことをして遊べるもの。ねえ、従兄ちゃん」 昌太郎が照れ臭そうに小さく頷いた。和彦はいきなり手を伸ばして、露子から風呂敷包みを引ったくった。 「坊や、駄目よ、それは――」 縁側から躰を泳がせて奪い返そうとする叔母の手をのがれ、和彦は裏庭の方へ一目散に駆け出した。 「仕様がない児ね。――雪ちゃん、何を持ってきてくれたの?」 「着物らしいわ」 「莫迦ね、和彦ったら。――さあ、昌太郎さんもなかへはいりましょう。おやつにするわ。あ、昌太郎さんは跣足ね、湯殿で私が洗ってあげるわ」 「僕、自分で洗ってきます」 昌太郎が庭づたいに勝手口ヘ去るのを待って、露子が低い声で訊いた。 「雪ちゃんは、はじめてだったかね?」 「ええ」 「綺麗な子だろ? それに、とっても妻直で、和彦の勉強もよく見てくれるんだよ。大きくなったら周りが大変だろうね」 「何が大変なの?」 雪江はわざと訊き返したが、露子はそれには答えず、縁側に置いたボストンバッグを取り上げた。 「義兄さんが、よく一人で寄こしたね」 「だって、夏休みに一度は此処に来ないと、あたし、なんだか落着かないのよ」 「昌太郎さんが来ているのを、知っていたんだろ?」 「伝染るわけではないんでしょ?」 「当り前よ、肺病じゃないんだもの。それに、もう殆んどよくなったのよ」 座敷へはいりしなに、露子がちらっと振り向いて、意味あり気な微笑を見せた。縁側に片脚をかけて雪江はなぜともなく少し赧くなった。 茶の間の卓袱台の上に、雪江の好きなところてんが載っていた。蝿よけの煽風機が、小さな唸りをあげながら、硝子皿の上のところてんを、かすかに顫わせていた。雪江の足詐に、不意に転がってきたものがあった。風呂敷包みだった。同時に、離れへ通じる廊下を和彦が駆け去った。 「雪ちゃんも湯殿で汗を拭いてきたら」 台所から露子が声をかけてきた。真ッ白い昌太郎の足首に水がはねているさまが目に泛かび、雪江はすぐ湯殿へ行くのがためらわれた。名前に似合わず雪江は色が浅黒かった。
●二
夕食後、和彦にせがまれるまま昌太郎が病室にしている離れで、トランプや廻り将棋などをしたが、子供っぽいそんな遊戯に雪江はすぐ飽きてしまった。昨年までは雪江にまつわりついて片刻もはなそうとしなかった和彦が、昌太郎の肩ばかり持つのも癪であった。将棋の駒を摘む昌太郎の指が、女のように細くて白いことも、勝負に身を入れさせなかった。 爪が短くて、まるまっちい自分の指が、雪江は小さい頃から嫌いだった。なぜもっと長い指に産んでくれなかったのかと、母を怨んだことさえあった。もっとも、見かけほど不器用ではなく、裁縫も手芸も、級ではかなりいい点をとっていた。が、見るからに華奢で器用そうな昌太郎の指の前では、手先がいうことをきかず、トランプを何度も切りそこねたり、ちゃんと摘んだ筈の駒が、ぽろっと指からこぼれたりした。思うように動かぬ自分の指まで癪にさわり、とうとう雪江は、小さなミスを咎め立てて和彦を泣き出させてしまった。 いつも額に青筋をうかべているほど癇の強い和彦は、泣くとその青筋を三本ともはっきりふくらませた。 「雪ねえちゃんなんか、大嫌いだ」 泣きながら和彦は離れをとび出して行き、間もなく母屋から、逆に和彦を叱りつけている露子の声が聞えてきた。 「いいのよ、抛っておきなさいよ、あんた我儘な児」 腰を浮かしかけた昌太郎を雪江は制した。将棋盤やカードを片づけながら、昌太郎は困りきった顔をしていた。 「ねえちゃんなんか、帰っちまえ」 「坊や、なんてことを言うの」 露子が頭でも叩いたのか、和彦の泣き声が一段と高くなった。一年生のくせに、幼児のような泣き方だった。 「帰るわよ、あした帰ればいいんでしょ」 雪江が母屋に向かって言い返すと、 「本当にあした帰ってしまうの?」 昌太郎が怯々とした声で訊いた。 「だって、あたしが居たんでは、うるさくて昌太郎さんの病気にもよくないでしょ」 「ずっと居て、僕の勉強を見て欲しいんだけどな」 雪江の尖った感情は、そのひと言でいっぺんに消えた。ふわっと軀が浮き上ってくるような喜びも覚えた。 「いいわ、夏休みが終るまで、あたしが家庭教師になってあげるわ」 同い齢だが、早生れの雪江は女学校三年生、遅生れのうえ病気で休学した昌太郎は、中学一年生だった。 「教科書は持ってきているの?」 「うん、見せようか」 「今夜はいいわ。あしたから、きちんと予定をたてて勉強しましょうね」 「はい、先生」 二人は、はじめて微笑し合った。和彦の泣き声なぞ、雪江はもう少しも気にならなかった。 雪江は登校の道でよく行き会う横浜高商の学生から二、三度話しかげられたことがあった。家に出入りしている洗濯屋の店員から附文されたこともあった。洗濯屋から届いた校服のポケットにひそんでいたその手紙には、「君くれなゐの花薔薇、白絹かけてつつめども、色はほのかに透きにけり……」という、雪江も暗誦できるほど好きな啄木の詩「君が花」が鉛筆で書かれてあった。面●(にきび)だらけの顔に似合わぬ恋文だったので、雪江は、いちばん仲のよい三沢久子にだけそっと見せた。 「どこの学生?」久子の目に羨望の色が泛かんだので、雪江はわざと蓮ッ葉に言った。「近所の大学生よ、どうかしているわね」それから五日後の晩、銭湯の帰りに、横町から不意に出てきたその店員が、洗面器の中へ投げこんで行った二通目の手紙は、愛だの真実だのという文字ばかりで埋まっていた。雪江はひどく失望した。もし二通目の手紙にも啄木の詩が書いてあったら、こんどご用聞にきたとき、口をきいてやろうかと思っていた矢先だった。翌日、洗濯屋をかえてほしいと言い出して逆に母から理由を問い詰められた雪江は、思い切って二通目の手紙だけを母に投げ出した。母は早速、その朝出したばかりの父のワイシャツを取り返してきた。 三日ほど経った夜、洗濯屋の主人が菓子折を持って、あの店員は馘にした、とあやまりに来た。 「暇さえあれば本ばかり読み耽り、さっぱり仕事を覚えようとしない男なので、前々から馘にしようと思っていたのです」 晩酌中の父は、恐縮する洗濯屋に無理矢理に盃を持たせた。 「あんた文弱青年は、軍隊で叩き直して貰うに限ります」 酔いの出た顔で洗濯屋が言うと、父もしきりに頷き、大きな声で台所の母へ酒を追加した。雪江は長火鉢でお燗番をしながら、自分勝手な期待を裏切られた肚立ちから、一人の青年の運命をかえてしまったように気が咎めたが、そのくせ、最初の手紙を破り棄てる気にはなれなかった。 「これからも、ヘンな手紙を貰ったらすぐ見せるんだよ」 母も、雪江の気持には遠い忠告を繰り返すだけであった。 けれども雪江は、この一件で、己の容貌にかなり自信を持つことが出来た。自分とは比較にならぬほど美しくて色白な久子に対しても、さほど引け目を感じないようになった。雪江はすでに一年前から生理もはじまっていたし、背丈も級では高いほうであった。併し、いくら早熟でも、十五歳はやはり十五歳だった。雪江がひと目で昌太郎に惹かれたのは、彼が噂通りの美少年だったことよりも、昌太郎が学生や店員のような男臭さを少しも感じさせなかったためであった。学生も店員も、大人に成り損ねているような中途半端な年齢で、それだけにへんに生ま生ましい男臭さを持っていた。昌太郎はまだ声変りもしていたかった。 「昌太郎さんのお得意はなあに?」 「僕、得意な学科なんて一つもないよ」 長い睫毛をしばたたいて、昌太郎は含羞んだ。 「だって、一つぐらいあるでしょ」 「そうだな、歴史なら少し……」 「ちょうどいいわ。あたしは歴史がいちばん苦手なの。ね、教えてね。そのかわり、英語ならあたしにもなんとか教えられると思うわ」 雪江はもうすっかり家庭教師気取りだった。家には二、三日と言ってきたが、出来れば夏休みが終るまで昌太郎と一緒に生活したかった。勉強ばかりでなく、もし昌太郎が熱でも出したら、甲斐々々しく看病してやるつもりだった。 「二人とも、ずいぶん仲がいいこと」 不意に廊下から露子が声をかけてきた。二人は同時に赧くなった。 「どう似合う?」 露子が浴衣の袖をひろげてみせた。夏のはじめに、父が母に買ってきた見憶えのある柄であった。母はそのとき、鏡台の前で肩にあて、こんな派手じゃ……と寂しそうに笑った。お前はなんでも地味すぎる、と言うのが父の日頃の口癖だったが、 「こんなものを着たら、チンドン屋と間違えられちまいますよ」 母は膝の上で浴衣地を包み直し、雪ちゃんが着られるようになるまで取っておこうかね、と呟いた。その浴 衣を母がいつの間に仕立てたのか、雪江は知らなかった。 「よく似合うわ」 いくらか妬ましさを覚えて雪江が言うと、露子の袖のかげから顔を出した和彦が、 「やーい、男と女の豆煎り」 イーッと頤を突き出した。雪江の頬は、いまにも火を吹きそうになった。 「坊やッ」 口で叱りながら、露子は薄笑いを浮かべていた。昌太郎の頬も真赫だった。
●三
翌日の夕方、三人の従兄妹は露子に連れられて、江ノ島へ散歩に出掛けた。三人とも――病気の昌太郎はむろんのこと、腺病質の和彦も、毎夏鎌倉に来ていながらいまだに金鎚の雪江も、真昼の海水浴場には縁がなかった。四人は、海岸からそろそろ人々が引揚げてくる午後五時すぎに、丘の家を出た。四人とも浴衣がけであった。 新聞社に勤めている叔父の秀次郎は、前年の夏に起きた日支事変に、特派員として北支に従軍中であった。露子が秀次郎の甥である昌太郎の世話を引受ける気になったのは、和彦と二人きりの寂しさに堪えがたかったためであろう。叔父と一緒になる前、東神奈川で芸者をしていた露子は、大の賑やか好きだった。 「お露さんがよくあんな辺鄙なところで我慢していられるもんだな」 親戚のなかには、そう言って不思議がる者さえいた。病み勝ちなせいもあったが、何ごとにも控え目な雪江の母とは、およそ正反対な性格だった。容貌も殆んど似ていなかった。五年前に、叔父一家が東京の中野から稲村ヶ崎に移ってきたのは、貰い子の和彦の耳に、近所の無責任な噂がはいるのをおそれたためだ、と雪江は聞いていた。 露子は芸者時代、土地で一、二を争う売れツ妓だったというだけに、浴衣を着ると一段と胴梛っぽく、もう三十も半ば近いのに、せいぜい二十七、八にしか見えなかった。五尺そこそこの小柄なくせに、着痩せするたちなので、髪をアップに結い上げると、幼い頃から見馴れている雪江さえ、改めて目を見張るほどなまめいて見えた。幼い頃、すんなりした露子に手を引かれて雪江はよく弘明寺の縁日へ行った。和彦がまだ貰われて来ない前で、叔父の秀次郎も、雪江がねだるものは大低買ってくれた。 「雪ちゃんが一人っ子でなかったら、叔父さんちの子にしちまうんだがな」 秀次郎は、雪江の片方の手をとって、急に強く握ったりした。併し、雪江は、この叔父があまり好きではなかった。露子と背丈が殆んどかわらない小男の秀次郎は、蔭で親戚の者から、熊次郎とよばれていた。「あいつは髭じゅう顔だらけだ」と、父が笑うほど髭が濃かった。縁日から戻って、縁側で肌ぬぎになると、秀次郎の胸には、黒い毛がいっぱい生えていた。露子が濡れ手帛でその胸を拭っているのを見たとき、雪江は子供心にも見てはならないものを見てしまったように慌てて目を逸らした。美しい叔母が選りに選って、熊のような叔父と夫婦になったことが、幼い雪江には不思議だった。いつだったか、思いきってその疑問を口に出すと、父も母も露骨に眉をよせ、 「子供がそんなことを訊くんじゃない」 特に父の顔はきびしかった。 鎌倉と藤沢を結ぶ江ノ島電車は、単線で軌道も狭く、車輌も古ほけている。混雑するのは夏場だけで、海水浴のシーズンが終わると、一車輌に三、四人しか乗っていないこともまれではなかった。二、三年前の春先に、母に連れられて叔母の家を訪れたとき、あまりの閑散さに雪江は心細くなり、ことに電車が極楽寺のトンネルにはいったときなぞは、思わず母の膝に手をおいて、あとで母に笑われたくらいだった。 稲村ヶ崎の駅で、その江ノ電に露子がいちばんうしろから乗り込むと、乗客の目が一斉に集まった。なかには、わざわざサングラスをはずす男もいた。後ろのほうで、海浜着をはおった十七、八の少女が二人、お互いに肘で脇腹を小突き合っているのを、雪江は目ざとく見つけた。少女たちの視線だけが、露子にではなく、昌太郎へそそがれていた。 「彦ちゃん、こっちへ来ない?」 雪江は和彦を呼んで場所を入れ替り、少女たちの視線を自分の躰でさえぎった。 電車が動き出すと、雪江はそっと後部を振りむいた。海浜着の少女たちは、チッと舌打ちするような表情で雪江を睨み、何かしきりに囁き合っていた。雪江は全身を硬張らせて、和彦の肩に手をおいた。電車が松林を抜けて七里ヶ浜の海沿いにスピードをあげ出すと、 「ああ、いい風」 昌太郎の向う側で窓に凭れていた露子が、うっとりしたように目を細めた。 西陽をうけたその頬に、濃い目の白粉が浮いてみえた。昌太郎が何か言い、露子が微笑んで何か答えた。どちらの声も、車輪の響きで、雪江には聞きとれなかった。耳をそばだてたが、それきり二人は白い顔をならべて、窓の外に見入っていた。 「ねえちゃん、暑いよ」 和彦が肩をゆすって雪江の手を払った。電車はいつか腰越の狭い家並みにはいっていた。 江ノ島駅から海岸までの洲鼻通りも、海岸と江ノ島を繋ぐ細長い桟橋にも、陽灼けした裸の人々が溢れ、色の白い露子や昌太郎がよけい目立った。桟橋の両側――東浜でも西浜でも、まだかなりの人々が泳いでいた。 昌太郎は桟橋の途中で何度も立ちどまり、波に戯れているその姿を羨ましそうに眺めた。雪江が促すと、 「僕はいつになったら泳げるんだろうな」 寂しそうに笑った。 「来年の夏は一緒に泳ぎましょうね」 「癒るかなあ――」 昌太郎は足許に目を落して呟いた。 「癒るわよ、肋膜なんて病気のうちにはいらないわ」 「でも、すごく痛かったんだよ」 「あら、痛いの? どこが?」 「胸――。肋間神経痛と言うんだって。肋骨の裏側のところが、ときどき針で刺されたように痛むんだ。いまはもうなんともないけど」 「どうして肋膜なんかになったの?」 「学校の帰りに雨が降り出して、ずぶ濡れになって帰ったら、その晩から熱が出て肺炎になっちゃったんだ。それをこじらせてしまったんだよ」 「無理したんでしょう?」 「うん、勉強がおくれると思って、医者がまだいけないというのに学校へ出たのが悪かったんだ」 「莫迦ねえ」 「僕、本当に莫迦だったと思うよ」 あまり素直に認めるので、雪江は鼻の奥がつうんと痺れ、すれ違う真っ黒な青年たちの裸が、不意に憎らしく思えた。 「九月から学校へ出ても、あまり無理しちゃ駄目よ。勉強なんて出来なくても、いいじゃない」 「困るな、家庭教師がそんなことを言っちゃあ――」 目が会って、二人は思わず笑い出した。
●四
はじめは江ノ島神社にお詣りしたらすぐ引き返す予定だった。が、昌太郎が「大丈夫だよ、少しも疲れないよ」と言うので、四人は思いきって奥の院まで足をのばすことになった。 登れば降り、降りれば登る狭い石段の参道は、栄螺(さざえ)や蛤(はまぐり)の網袋をぶらさげた戻り客が引きもきらず、四人は自然、一列になった。和彦を先頭に、露子、昌太郎とつづき、雪江は殿りだった。両側に隙き間なく軒をつらねた土産物屋の女店員が、 「寄っていらっしゃいまし」 うるさいほど呼びかけた。その一軒の飾窓に珍しい貝細工を見つけた雪江は、昌太郎の袖を引いて、叔母たちとの距離をあけた。併し、飾窓の中を覗きこみながら、昌太郎の息を頬に感じると、雪江は忽ち軀が内側から火照ってきて、もう貝細工なぞ目にはいらなかった。昌太郎の鼻の下にうっすらと生えたうぶ毛も、妙に眩しかった。 中津宮をすぎるあたりから、ようやく人波も尠くなった。土産物屋の裏の木立で鳴く蜩(ひぐらし)の声が耳につきはじめ、吹きぬけてゆく夕風も肌に快かった。 「よく出来ているな」 今度は昌太郎が飾窓の前で立ちどまった。長さ一尺ほどもある貝細工の宝船が、電灯の光をうけて眩しく輝いていた。ふくらんだ帆も、すべて小さな貝でつくられてあった。 「これだけのものを作るには、ずいぶん日数がかかるだろうね。僕なんか、すぐ飽きちまうな」 「あら、昌太郎さんは飽きっぽいの?」 「母からお前は飽きっぽいって、よく叱られるんだ」 「昌太郎さんなら、もっと綺麗な貝細工がつくれるわよ」 「どうして?」 「だって――」 そんなに指が細いんですもの――さすがに雪江は口に出せず、ふと振り向いて、半町ほど先の木蔭で自分たちの追いつくのを待っている露子に気づいた。仕方なく飾窓の前をはなれたが、たまたま男ばかり七、八人の一団とすれ違ったとき、彼等が一斉に振返って「いい女だな」と、囁き合っているのが耳にはいった。藍染めの浴衣の衿許(えりもと)を少しはだけ、心持ち眉をよせて佇(たたず)んでいる叔母の姿を、雪江は改めて美しいと思い、同時に軽い妬ましさも覚えた。自分の、赤い大きな朝顔模様の浴衣が、ひどく野暮ったく思えた。 「昌ちゃん、疲れたでしょう? もう、戻りましょうか」 近づいた昌太郎に露子が訊いた。 「大丈夫だよ、まだ」 露子は袂(たもと)から手帛いを出すと、伸び上るようにして昌太郎の額の汗を拭いた。じっと拭いて貰っている昌太郎が、雪江は少しばかりじれったかった。自家の縁側で、叔父の軀を拭いていた叔母の姿を憶い出して、雪江は二人のわきをすりぬけると、 「彦ちゃん、待って」 拾った竹俸を振り廻しながら、二、三間先を行く和彦の背へ、殊更に大きな声をかけた。 急傾斜の石段を一段ずつ用心深く降りてやっと稚児ヶ淵に辿り着くと、急に風が出てきたらしく、海面がしきりに立ち騒いでいた。岩に砕ける波が大きな飛沫となって、四人のすぐ近くの岩まで濡らし、あわただしく帰り支度をはじめている団体客も目についた。岩のくぼみの溜り水も絶えず漣(さざなみ)を立てていた。 「ね、帰ろうよ」 荒々しい波に怯気づいたのか、和彦は露子の袖を引っぱった。陽もかげって、海の色は、妙にくろずんでいた。稲村ヶ崎の丘から見馴れた海とは、まるっきり違う色であった。 戻ろうか――髪を押えながら問いかけてきた叔母の目を無視して 「岩屋に、はいったことある?」 雪江は昌太郎の顔を見上げた。 「ううん」 「じゃ、行ってみましょうよ」 「これから?」 傍らから和彦もびっくりした目を向けてきたが、雪江はいきなり昌太郎の手をつかんで、岩の間に設けられた石段を駆け降りた。引きとめられるかと思ったが、叔母は何も言わなかった。
入窟料と引きかえに貰った蝋燭の灯をかばいながら、二人は、冷えびえした岩屋のなかを注意深く進んだ。入り口のあたりで、風がグオッと唸りをあげるたびに、二人は立ちどまって、小さな灯を全身でまもった。灯のゆらめきにつれて、湿った岩肌に、二人の影が伸びたり縮んだりした。 奥へ進むにつれて雪江の躰はなぜか顫え出した。小学校の遠足で一度来たことがあるので、恐しさは全くない筈なのに、顫えは膝頭から下腹へ、そして胸から肩へと、徐々に、それだけ正確に這い上った。いくらか肌寒かったが、むろんそのせいではなかった。 昔、この岩屋に弘法大師が参籠したことがあると、小学校の先生が説明してくれたのを雪江は憶い出した。大師はこのなかで護摩を焚き、その灰で弁財天女の像をつくったという。また、鎌倉時代、ときの藩府に逐われた日蓮上人もこの岩屋に隠れ、石の上に趺坐して法華経を書き写したという伝説も、雪江は何かの本で読んだことがあった。そんな昔からある岩屋だが、神秘さは少しもなかった。それなのに、なぜあたしの躰は顫えるのだろう――雪江は爪先に力をこめ、暗闇のなかで大きく目を見開いた。と、奥のほうで、小さな灯が二つ三つゆらめいているのが見えた。 「どうしたの?」 立竦んだ雪江に、うしろから昌太郎が声をかげた。前方の灯が次第に近づき、やがて海水着姿の娘が三人、現われた。娘たちも二人を見て、ぎょっとしたように立ちどまったが、すぐ、なあんだ、といった顔にたり、二人の傍を小走りに駆け去って行った。少し経って、入り口の方から徴かな笑い声がきこえてきた。 一町ほど進むと、道幅が急に狭くなり、天井も低くなった。小さな木橋が架かり、その奥に朱塗りの鳥居と玩具のような社殿が建っていた。岩屋はそこで行きどまりだった。 「怖い?」 昌太郎が無言で首を振った。が、蝋燭の灯のせいか、目が怯えた色を宿していた。 「戻りましょうか」 「雪ちゃんこそ怖いんだろう?」 「あたしは平気よ」 併し、五、六間戻って、道が二つに岐れたところまで来ると、雪江の躰はまた顫え出した。すぐうしろから跟(つ)いてくる昌太郎の息を頸筋に感じると、顫えはいっそう烈しくなった。蝋燭の灯が今にも消えそうに揺れた。 日頃は見物客で賑わう岩屋内も、時間が時間だけに、二人の他には全く人影がなく、もう外の浪音も聞えなかった。いま、この暗闇のなかにいるのは私たちだけだ――そう思うと、雪江は前かがみの姿勢のまま、もう一歩も先へ進めなくなった。その背中へ、足許ばかり見てきたらしい昌太郎が、アッ、と言ってぶつかった。 「怖い!」 振りむきざま雪江は昌太郎の胸にしがみついた。昌太郎が夢中で雪江の背中へ手を廻し、その蝋燭の炎が、雪江のお下げの髪先をじりっと焼いた。二人はすぐ飛びはなれた。 二つの灯が、いっぺんに消えた。 闇のなかで雪江は立竦んだ。胸の鼓動が、自分の耳にはっきり聞えた。昌太郎にもわかってしまいそうなほどの動悸だった。全身の血が大きく脈を打っているようであった。 「ゆ、雪ちゃん!」 昌太郎が呼んだ。その上ずった声で、自分以上に動悸をたかめているらしい昌太郎を知ると、安堵と同時にふっとおかしさがこみ上げてきた。 「ここよ、ここにいるわ」 「どこ? 見えない」 「大丈夫よ」 雪江が微かに笑うと、昌太郎も釣られたように笑い出した。やがて二人は、大きな声で笑い合ったが、それが岩屋内に谺したので、二人は殆んど同時に口を噤(つぐ)んだ。谺だけが、まだ、笑っていた。三たび、雪江の躰は顫え出した。今度は明らかに恐しさからであった。 「昌太郎さん、帰りましょう」 やっと探り当てた手にすがりつくと、昌太郎もきつく握り返してきた。 「出られるかしら?」 「大丈夫だよ」 今度は昌太郎が元気づけてくれた。闇にようやく馴れた目が、微かに光の射している入り口を見つけると、二人は空いている片方の手で岩肌を擦りながら、息を殺して戻りはじめた。いつか顫えはやみ、すると雪江は、入り口が案外近いのが物足りなくなった。一歩ごとにはっきりしてくる昌太郎の浴衣の模様が、うらめしくさえなった。 入り口の二、三間手前で昌太郎が手をほどこうとした。雪江は逆に力をこめて引っぱった。 「早く出ようよ」 「いや」 「なぜ?」 覗きこんできた昌太郎の目を、雪江はじっと見詰め返した。その目一杯に、昌太郎の唇が迫った。雪江は瞼を閉じた。不意に、下腹のあたりに、なまぬるいお湯にひたったような感じを覚えた。はじめて知る感覚であった。額に捺された昌太郎の唇が、ゆっくり這い下りてきた。自分の口でそれを受けとめたとき、雪江の耳から一切の物音が絶えた。閉じた瞼の裏で、線香花火のように明滅するものがあった。雪江は、昌太郎の唇をむさぼった。どんなにむさぼっても、むさぼり足りないようであった。きのう、門のわきで昌太郎を見たときから、こうなるのが決まっていたような気がした。 何秒かが経った。岩肌に押しつけられた背に痛みを覚えて雪江がようやく目をあけると、昌太郎はまるで怒っているような表情で、岩屋の奥のほうを見詰めていた。照れていたのかもしれなかった。 雪江の耳に、波の音がいちどきによみがえった。
●五
爼岩の上で、和彦がしきりに手を振った。露子はその隣で、海のほうを向いていた。青ぐろい海を背景に、露子の白い博多帯の背がひと際目立った。浴衣の裾がはりついて、脚の線があらわになっていた。和彦が何度か袖を引っぱったが、露子は動かなかった。 雪江は岩屋の入り口で、そんな叔母の姿に息をのんだ。稲村ヶ崎に越してきてこの方、露子が海を見詰めている姿に接したのは、このときがはじめてであった。 ――海を見て何を考えているのだろう。あたしたちがさっさと岩屋へはいってしまったので、怒っているのだろうか。 やがて露子が、ゆっくりとこちらへ向き直った。その顔がひきつったように見えたのは、雪江の気のせいだったろうか。併し、風に髪を乱したまま、両膝をすぼめて、まくれ上がる浴衣を押えたその姿には、たしかに日頃の露子からは想像できない、寂しい翳が漂っていた。 雪江は、昌太郎の兵児帯がほどけているのを見つけると、すぐうしろへ廻った。結び終えて昌太郎のかげから覗くと、ひときわ大きた波が、爼岩の叔母親子めがけて、今にもひと呑みにしそうな勢いでその背後に迫っていた。 ――呑まれてしまえばいい! 一瞬、そう思い、雪江は頬から血が退いた。なぜそんな恐しい気持を抱いたのか、自分でも判らなかった。波は、岩角で大きくはね上がると、未練気におびただしい飛沫をまき散らした。 露子が何か言ったが、風に吹きちぎれて、雪江には聞きとれなかった。 両掌で口を囲って訊き返すと、露子も同じように手でメガフォンをつくった。が、今度の声も届かなかった。露子が右手をあげて帰り道を指さした。風に忽ち袖がまくれ、二の腕まであらわになった。雪江がどきっとするほど白い肌であった。振りむくと、昌太郎は背後の断崖を見上げていた。雪江はそっと息をついた。 桟橋には、もう豆ランプがともっていた。対岸の片瀬の町にも灯がきらめいていた。輪郭がはっきり見えるのはいちばん近い小動岬だけで、稲村ヶ崎のあたりは、もはや定かには見きわめがたかった。 四人とも殆んど口をきかなかった。すれ違う人もまばらな細長い桟橋は、往きよりも遥かに長く感じられ、波が橋桁を洗うたびに、小さく揺れた。四人の下駄音が気ぜわしく鳴った。 やっと渡り切って片瀬の海岸に着くと、風に舞い上げられた砂が、驟雨のように軀を摶ち、胸にあたった砂粒が三尺帯の皺に溜った。それを指先で弾き落しながら、こんど昌太郎と二人きりになれるのはいつだろう、と雪江は思った。 海岸に建てられた二本の丸太の間に、白い映写幕が張られ、その下に二、三十人の人たちが群れていた。浴衣がけの人もまじっていた。映写幕は帆のようにふくらみ、繋いだ四隅の紐が四本とも今にもちぎれそうであった。納涼映画大会と書かれた立て看板も、風に布地をベコベコ鳴らしていた。 「ね、映画を見ていこうよ」和彦が言った。 「駄目よ、どうせ碌なもの、やりはしないわ」 雪江は昌太郎のうしろから、自動車道路への石段をのぼった。また兵児帯がほどけていた。雪江が追いつこうとしたとき、露子が素早く横あいから手を伸ばした。岩屋の前でちゃんと結んであげた筈なのに――先を越された雪江は、手落ちを発見されたように唇を噛んだ。 「叔母さん、さっき岩の上で何んて言ったの?」 昌太郎が背中を向けたまま訊いた。雪江も露子の答えを待った。が、叔母は兵児帯を結び終えると、昌太郎の背を軽く敲いてから黙って石段を登り継いだ。その頬が、かすかに笑っているようであった。露子は登り切ったところで、くるっと振りむいた。 「あの岩屋はね」露子はわざと雪江たちのほうを見ないで言った。「男と女が二人きりでお詣りすると、弁天様がやきもちを焼いて、罰をあてるそうよ」 「嘘!」 愕きのなかに一瞬稲妻のように走った恐怖を、雪江は自分の言葉で否定したかった。 「そうね、嘘かもしれないわね」 露子があっさり肯定したので、雪江の恐怖はむしろ募った。そんな雪江の表情を愉しむように、露子はゆっくりと言い足した。 「神様が罰を当てるなんて、よくないわね」
●六
翌日から雪江は、露子や和彦の目を掠めて、昌太郎の唇を盗んだ。離れで、和彦が母屋へちょっと立った隙や、朝、一緒に裏庭の掃除をしながら、竹箒を持ったまま周囲を見廻して素早く顔を寄せたりした。そのたびに赧くなる昌太郎が雪江の心を廿くくすぐった。 「ね、罰があたったら、どうしよう」 「ばかねえ、叔母さんがからかったのよ」 「だって」 言葉遣いはますます子供っぽく、そのくせ雪江の肩へ廻した昌太郎の腕は、やはり男の力を持っていた。雪江は、数多く唇を合わせることで、あの石段での恐怖をなし崩しに追払おうとしていたのだろうか。あれきり勉強のことは昌太郎も口にしなくなった。雪江も今更、一緒に教科書を開く気にはなれなかった。 昌太郎はすでに微熱もとれ、盗汗もかかなくなっていたが、昼食後の安静時間だけは離れで忠実に守っていた。その時間は、露子も和彦も母屋で午睡した。雪江も仕方なく母子の隣で寝茣蓙に横になったが、蝉のなき声が耳についていつまでも眠れなかった。 江ノ島の散歩から三日目の午後、叔母たちの寝息をたしかめると、雪江は忍び足で離れに近づいた。玉すだれの蔭から覗くと、安楽椅子からだらんと垂れた昌太郎の手が、真ッ先に目についた。一旦母屋に戻って爪剪りを持ってくると、雪江はそっと昌太郎の手を執った。軀をぴくっと動かして昌太郎が目醒めた。 「あたしに剪らせてね」 昌太郎はまた目を閉じた。頬に血がのぼってきた。 「じっとしているのよ」 しゃぶってしまいたいような美しい指であった。昌太郎が目をあけていたら、羞恥しくて、とても爪なぞ剪れそうもなかった。 「ね、昌太郎さんが今いちばん欲しいものはなあに?」拇指を摘みながら雪江は訊いた。 「何が?」 「何でもいいの、いちばん欲しいもの」 雪江は期待と羞恥で手がお留守になった。昌太郎は暫く黙っていた。蝉のなき声が一段と高くなり、雪江は脇腹まで汗ばんできた。 「僕ね、風月堂のケーキが食べたいな」 嫌いッ、というかわりに、雪江は爪剪りに力をこめた。 「ア痛ッ」急いで手を引っこめ、本当に痛かったのか、指をみつめる昌太郎の目が、少し潤んでいた。 「何さ、男のくせに」 わざと邪険に言い、新聞紙の上に剪り落した爪片をよせ集めると、スカートのポケットからとり出した手帛に移した。 「どうするの、そんなもの」 昌太郎が訝しそうに訊いた。雪江は手帛をまるめて、ビーズ編みの手提袋に蔵った。昌太郎があわてて起き直った。 「棄てて、ね、棄ててくれよ、そんなもの」 「だめ」 「だめ?」 「とっておくの、記念に」 「記念だなんて」 あきれ顔の昌太郎に、 「大きくなって結婚するまで」 思い切ってそう言ったとき、窓の外に人の気配がした。窓際の紫陽花の葉蔭に、たしかに人がかくれたようであった。 「どうしたの」昌太郎に見上げられて、雪江はたった今の自分の言葉が突然火がついたように羞恥しくなった。手提袋を持ったまま、縁側から庭へ跳び降り、雪江は一気に裏木戸まで走った。 陽の当たらぬ物置小屋のかげに佇んで、足裏からひんやりした土肌が伝わってきたとき、雪江は自分が涙ぐんでいるのに気づいた。濡れた目に、ちょうどそこだけ陽のあたっている芝刈り機の白い刃先が眩しかった。 雪江は、手提袋の紐を力一杯、握りしめた。
父の修三が迎えに来たのは、翌々日の午後であった。 「夏休みは十日も残っているわ。まだ帰らないわよ」 父が何も言い出さない前に雪江は宣言した。 「宿題が残っているんじゃないのかい?」 「来る前にみんなやってしまったわ」 修三は露子と顔を見合わせてちょっと苦笑してから言った。 「母さんが寂しがっているよ」 母を持ち出されては雪江もそれ以上我を張れなかった。昌太郎は、修三に挨拶すると離れに引っこみ、夕食まで出て来なかった。食卓で雪江は何度か目で合図したが、昌太郎はそのたびに視線を逸らした。帰り仕度を手伝おうとする露子の手を拒み、雪江は何度も下着を詰めかえた。 「まだか」 父が二度、催促した。白絣に着替えた昌太郎が離れから出てきて、 「駅まで送って行っても、いい?」 遠慮がちに訊いた。雪江はやっとボストンバッグのチャックを締める気にたった。 「夏休みが終らないうちに、かならずもう一度来るわ。それまで東京へ帰っちゃいやよ。帰ったら、ひどいから――」 稲村ヶ崎の駅で電車を待つ間、雲江は念を押した。昌太郎は、ホームのはじで煙草に火をつけている修三を上目遣いに窺いながら、唇をきつく結んでコックリした。ホームには陽灼けした顔が溢れていた。なかなかやって来ない電車に、泳ぎ疲れたそれらの顔がじれったそうに舌打ちしたり、駅員をつかまえて、なじったりしていた。延着をひそかに喜んでいるのは雪江だけのようであった。線路沿いの小径を、五、六人の派手な海浜着姿の娘たちが、華やかな笑い声をまき散らして通りすぎって行った。その背中を、雪江は妬ましく見送った。迎えに来た父が今更のように怨めしかった。 「あ、来たよ」 線路際の柵にまたがっていた和彦が、耳ざとく車輸の響きをとらえて言った。反対側の軌道からも、にぶい音が伝わってきた。すがるような目を向けると、昌太郎がまた大きく頷いた。それでやっと雪江はホームヘ登る気になった。 「さよなら」 囁くような昌太郎の別れの声が、横須賀線に乗換えたあとまで、雪江の耳底に残っていた。 「お前にとても似合いそうな布れ地があったんで、買っておいたよ」 五日ぶりで弘明寺の家に帰ると、門まで迎えに出た母の照子が、ボストンバッグを受取りながらおもねるような口調で言った。帰りの車内で、父が昌太郎の病状を根掘り葉掘り訊いたのと思い併せ、紫陽花の蔭にかくれたのは叔母だったのだ、と思い当った。露子の注進で修三が迎えに来たのに違いなかった。 その夜、二階の部屋で十二時すぎまで昌太郎宛にペンを執ったが、新しい便箋を丸一冊書き潰した末に断念した。どう書いても、胸の想いをそのまま現わすことが出来なかった。 ――あたしが行くまで、絶対に昌太郎さんをかえさないでください。 やっと叔母に宛てた手紙を書くと、翌朝、郵便局の開くのを待って速達で出した。それでいくらか気持が落着き、大岡川の土堤をぶらぶら歩いた。上大岡に住んでいる久子を訪ねてみようかと思ったが、もう一度、昌太郎に会ってから、と思い返した。 ――あたし、ベーゼしたのよ。 久子のびっくりした顔が、目に見えるようであった。 ――大きくなったら、あたし、その人と結婚するの。 久子は驚きのあまり、卒倒するかもしれない。美しい昌太郎を見たら、久子は間違いなく嫉妬するだろう。久子には小学生の頃から、学校の成績も、踊りのお稽古も、かなわなかった。温和で、誰にでもやさしい久子は、級の人気を集め、下級生にも慕われていた。 ――今度こそ久子に勝つことが出来る。 雪江の頬にひとりでに微笑が泛かんだ。 母が買っておいてくれた布れ地は、白地に葡萄の実を染めた見るからに涼しそうな模様だった。肩にかけて鏡台の前に立つと、自分でも見蕩れるくらい、よく似合った。 二日後の夕方、近所の洋裁店から届いたそのワンピースを早速着込んだ雪江が、 「あした、鎌倉へ行くわよ」 すると、父も母も待構えていたように口を揃えて反対した。 「どうして行っちゃいけないの」 理由を言わず、絶対にいかん、と言う父を睨み返し、しまいには泣いてもみせた。が、それでも父は軟化しなかった。 「行かせてくれないなら、こんな服、要らないわ」 その場で脱ぎ棄てると、雪江はシュミーズのまま二階へ駆け上った。階下から二度ほど母が呼んだ。返辞もせず、雪江は蝿たたきで、天井にとまっている蝿をたたき廻った。一匹残らず殺したが、まだ気が納まらなかった。今度は机に手をかけて、反対側の隅へ移しかえた。 「何をしているだ」 階段に父の跫音がしたので、雪江はあわてて押入れに首をつっこみ、古雑誌の整理をはじめた。 父は踊り場に佇んで暫く見おろしていたが、何も言わずに階下へおりて行った。ムッとする押入れの中で、雪江はベソを掻いた。 翌日の夜まで、雪江は、父にも母にもひと言も口をきかなかった。母が食事を知らせにきても、欲しくない、と拒み通した。母が買物に出かけた留守、台所で大急ぎでお茶漬けをかっこんだ。食べながら岩屋のなかを昌太郎と歩いたことを思い出すと、まるで悲劇のヒロインになったように涙が出た。もう二度と会えないような気がした。 昌太郎の家が、東京の東大久保という処にあることは知っていた。番地も教わって憶えていた。もし夏休み中に鎌倉へ行けなければ、新学期がはじまったら、学校の帰りに思い切って東京へ行こう。そう心がきまると、いくらか悲しさが薄らいだが、それにしてもお節介な露子が怨めしかった。 その夜おそく、母が二階に上ってきた。 「父さんが、一緒になら行かしてやる、と言っていたよ」 母は、きちんと畳んだワンピースを捧げるように差し出した。胸がはじけるような欣びを隠して、雪江は言った。 「仕方がないわ。父さんを連れて行ってやるわ」
●七
いつもより二時間も早く起き出した。うとうとするだけで、殆んど眠らなかった。まるで遠足を控えた小学生のようだった。すぐ雨戸を繰った。細かな雨が降っていた。 併し、雪江は、少しもためらわずに葡萄模様の服を着ると、階段を勢いよく駆け降りて、父を乱暴に揺り起した。 「もう起きたのかい」隣室から母があきれたような声をかけてきた。「お前はまったく勝手な子だねえ」 二年ほど前から母と父は寝室を別にしていた。病み勝ちな母の居間には、いつも実母散の匂いが漂っていた。 「この雨はやみそうもないぞ」 風呂場で髭を剃っているときも、食卓に坐って新聞を拡げているときも、父は同じ言葉を繰り返した。雪江の返辞も同じだった。 「父さんがいやなら、あたし一人で行くわ」 父の仕度が整うまで、玄関と茶の間を、何度も行ったり来たりした。雪江はもう喜びを隠そうとしなかった。一人娘の雪江は、自分が喜ぶことは両親も喜んでくれるものと、小さい頃からきめこんでいた。父がきょう一緒に行く気になったのは、父も昌太郎を嫌っていない証拠だと、雪江は勝手に思いこんだ。 「父さん、まだなの」 洋服箪笥の前でネクタイを結んでいる修三に、何度目かの声をかけた。 「雪江、レインコートは?」母が訊いた。 「いいの、このままで」 「でも――」 「いいのよ」 昌太郎ばかりでなく、誰にでも新調の服を見て貰いたかった。そのうちにふと思いついて雪江は言った。 「あたし、伊勢佐木町で買物があるから一足先に行くわ。父さん、保土ケ谷の駅で待っていてね」 「お土産かい? お土産なら駅で何か買えばいいよ」 「駄目、駅じゃ売っていないの」 伊勢佐木町の不二屋で、その月の小遣いの残りを全部はたいて大きなショートケーキを買った。風月は横浜に支店がない。不二屋ので我慢してもらうより仕方なかった。 稲村ヶ崎の駅から露子の家まで、そのケーキの箱をしっかり抱えて駆けつづけた。小径の両側に伸びた雑草が、ワンピースの裾を濡らし、父がうしろから「転ぶぞ」と注意したが、雪江は振りむこうともしなかった。雨の海岸町は、死んだように静かだった。風がないので、浪の音もきこえなかった。 十日前と同じように、雪江は門のわきで立ちどまった。縁側の網戸を見詰めて耳をすませた。会う前に昌太郎の声をききたいと思った。が、家のなかはひっそりして、和彦の声も洩れて来なかった。 ――誰も居ないのだろうか。 そんな筈はなかった。この雨の中を出掛けるとは考えられなかった。 敷石を跳んで玄関に近づき、大きく息を吸いこんでから呼鈴を押した。きっと待ちかねた昌太郎が、真ッ先に出てくるに違いない。――だが、ドアを開けてくれたのは露子だった。 「まあ、雪ちゃん」 「こんちは」 言いかけて、そのとき叔母の顔にサッと困惑の翳が走ったのを雪江は見た。 「帰ってしまったの?」 雪江の声はもう憟えていた。 「引き留めたのよ」露子が押しかぶせるように言った。「本当よ、本当に引き留めたのよ。それなのに昨日、どうしても帰るって――」 雪江は叔母の顔を見詰めた。怯んだように露子は目を逸らした。 「和彦が縋りついたんだけど、突き飛ばすようにして帰っちまったの。どうして急に帰る気になったのか、私にもよく判らないのよ」 嘘だ! 叔母さんが帰してしまったんだ――張りつめていた気持がいちどきに崩れ、雪江は玄関の壁にもたれた。抱えていたケーキの箱が、にわかに重くなった。 「あら、義兄さん」 傘をすぼめて三和土にはいってきた修三に、露子が意外そうな声を挙げた。雪江は、それにさえ、わざとらしさを感じた。父の手から傘をとり、いそいそとレインコートをぬがす露子の横顔を、雪江は壁にもたれたまま睨み続けた。烈しい僧悪が衝き上げてきた。 「雨の中を、大変だったわね」 「これが、どうしても来たいというんでね。雪江、どうした、上らんのか」 「あたし、帰る」 「莫迦、何を言ってるんだ。お前のために、わざわざお店を休んでついてきたんだぞ」 和彦に手を引っぱられて、雪江は仕方なく靴をぬいだ。膝に力がはいらなかった。 離れの網戸に額を押しつけて、本降りになってきた雨脚を見詰めながら、雪江はこみ上げてくる悲しさに堪えた。 「ねえちゃん、宿題を教えてくれる?」 和彦がいくらか媚びるように寄ってきたが、雪江は振りむかなかった。いま誰かと目を合わせたら、たといそれが幼い和彦であろうと、忽ち哭き出してしまうに違いない自分を知っていた。 「雪江、お土産を彦ちゃんにやらんのか」 少し経って離れにやってきた父が訊いた。 「厭」 驚いて覗きこんできた父の目を軀ごとそむけ、 「あっちへ行ってて」 修三はすぐ母屋へ戻って行った。窓際の色褪せた紫陽花が、雨にうたれて、だるそうに揺れていた。その花びらを思いきり引き千切ってしまいたかった。 父が何か冗談でも言ったのだろう、母屋から、露子の華やいだ笑い声が響いてきた。雪江は目を閉じ、両耳を掩ってその場にうずくまった。瞼の裏に、片瀬海岸で自分より先に昌太郎の兵児帯を結び直した露子の姿がよみがえった。 ――あたしが来るのを知って、昌太郎さんをいそいで帰してしまったのだ。 なまじ手紙を出さなければよかったと、後悔が胸を噛んだ。 和彦が食事を知らせに来たので、雪江はやっと身を起こした。が、茶の間にはいりかけた足を思わず閾際でとめた。露子が、父にビールを注いでいるところだった。叔母はいつの間にか浴衣に着替えていた。母から譲られた、あの浴衣だった。その肩のかげから、すでにほんのりと酔いの出た父の顔がこちらを見上げた。 「早くお坐り。お前の好きな鮑があるよ」 雪江は身を翻して離れにかけ戻り、すぐ帰り支度をはじめた。二人の肉親に欺かれた口惜しさで、怺えていた涙がいちどきに溢れ出た。 「一体、どうしたっていうの?」 玄関で通せん坊をするように立ち塞がった露子と揉み合っているうちに、父も茶の間から出てきた。叔母の肩越しに、雪江は父の赧い顔を睨みつけた。留守番の母が急に可哀想になった。父が何か言いかけようとしたとき、 「きっと、弁天さまの罰があたったのね」 雪江は、力まかせに露子の腕を払いのけて三和土に降りた。 「雪ちゃん、待ちなさい」 「お露さん、抛っておきなさい」父が制した。 「でも」 「いいから、抛っておきなさい。我儘にもほどがある」
小径の雑草が、やっと乾いたワンピースの裾をまた濡らした。併し雪江は、もう二度とこの服は着まい――逃げるように坂を駆け降りた。走りながらまた涙が溢れた。 鎌倉駅に着くと、生憎、上り電車が出た直後だった。昂奮の去った肌に、しめった風が沁みた。駅前の広場は、人影もまばらで、夏とは思えぬほど寒々としていた。傘を傾けてバスの停留所へ行き、横浜行の急行へ乗りこんだ。一秒でも早く鎌倉を去りたかった。抛っておけと父は言ったが、跡を追ってくるかもしれない。父の顔など、当分見たくない気持だった。 道が悪くて、流産バスと異名があるほどの烈しい動揺に身をゆだねながら、 ――もっと揺れろ、もっと揺れろ。 雪江は腕のなかで叫びつづけた。車輪が窪みに落ちこむたびに、泥水が窓硝子にまではね上った。最後部の座席で、雪江の躰もバネ仕掛の人形のように弾んだ。バウンドするたびに、前のほうに坐った五つぐらいの男の児が嬉しそうな声を挙げた。隣の若い母親が子供の足を押えようとしたが、子供は母の手を払って、わざと脚をはね上げてみせた。 大船をすぎて車体が右に大きくカーブしたとき、網棚から白いものが膝の前に転がり落ちた。意地になって持ち帰ってきたケーキの箱であった。慌てて拾い上げたとき、今度は左にカーブした。濡れた紙紐が切れ、箱は再び汚れた床に落ちた。雪江も思わず両膝をついた。床にひろがった服の裾に、みるみる泥水がしみた。羞恥しさと情なさで、箱を押えたまま雪江は、暫く立ち上ることができなかった。 「坊や、いけません」 若い母親が、座席から降りようとする子供を制していた。
●八
その後丸五年、雪江は昌太郎に会うことが出来なかった。 夏が来ても雪江は稲村ヶ崎へ行かなかった。かわりに父が、日曜日ごとに出掛けて行った。あの年の秋に一度帰国した叔父の秀次郎が、一カ月ほどのちに今度は北京支局詰めとして再び大陸へ渡ったためであった。 義弟から留守宅の見廻りを頼まれた父は、日曜になると待ちかねたようにいそいそと鎌倉へ出向き、泊ってくることもまれではなかった。露子もそのお礼がてら、月に一度横浜に出てきたが、雪江はろくに挨拶もせず、叔母が帰るまで二階の部屋に閉じこもった。 「この頃、すっかりお見限りね」 帰りしなに、階段の踊り場から顔だけ出した露子に、 「宿題がたくさんあるの」 雪江はすげない口調で答えた。 「この間、昌太郎さんが遊びに来たわ」 それでも雪江は無関心を装った。 「雪ちゃんによろしくって、言ってたわよ」 「――」鉛筆を持った手に、つい力がこもった。昌太郎はよろしくと言っただけなのか。もっと他にも何か言ったのではないだろうか。だが、今更それを訊くわけにもいかなかった。雪江は昌太郎へ三通手紙を出したが、返事は一通も来なかった。 「昌太郎さん、すっかり元気になったわ。この間の運動会には、リレーの選手になったそうよ。あんたに会いたがっていたわ」 叔母が帰ったあと、雪江は暫く宿題が手につかなかった。本当にあのひとは、あたしに会いたいと言ったのか。叔母の作り語ではなかろか。あたしに会いたいなら、なぜ手紙の返事をくれないのだろう。 元気になった昌太郎に一目会いたかった。出来ればもう一度手を握り合い、唇を触れ合せたかった。併し、雪江は、いくら想像をめぐらせても、ランニングシャツでグランドを疾走している昌太郎の姿を思い泛かべることが出来なかった。雪江がすぐ描ける昌太郎は、白絣を着て藤椅子にひっそりと凭れている姿だけであった。 夜、雪江は、昌太郎の爪片を蔵ったビーズ編みの手提袋を枕許に置いて寝た。 「よっぽど大切なものがはいっているらしいね。ちょっと見せておくれ」 母が手に取ろうとしたとき、雪江ははね起きて袋を抱えこんだ。あれ以来、雪江自身も開けていなかった。結婚するまで見ないつもりだった。 「どうだ、たまにはお前も一緒に行かないか」 次の日曜日、父に誘われたが、雪江はやはり首を振った。 ――ひょっとしたら、あの人も稲村ヶ崎へ遊びに行っているかもしれない。 併し、二度とだまされたくたかった。叔母はああ言ったけれど、返事さえくれない昌太郎は、もうあたしのことなんか忘れてしまったに違いない。やっぱり飽きっぽい性質なんだろうか。 「面倒臭いが、儂一人で見廻ってくるか」 そのくせ母に、お願いします、と送られて門を出てゆく父の足どりは、青年のように軽やかだった。雪江は、父の手にさげられた和彦への土産の包みとともに、相変らず血色の悪い母とはくらべものにならぬほど若い露子へ、烈しい嫉妬を覚えずにはいられなかった。 父は、北京からの送金が遅れるたびに、気前よく叔母に融通し、露子がそれを返しに来ても、 「まあ、着物でも買いなよ」 なかなか受取ろうとしたかった。母も傍から、 「彦ちゃんに何か買っておやりよ」 と、口ぞえした。仲通りの株屋に勤めている修三は、当時かなり金廻りがよかった。殆んど毎晩のように酔って帰り、それを覘って雪江がお小遣いをせびると、チョッキのポケットからつかみ出した50銭玉をろくに数えもせず雪江の掌にこぼした。朝、雪江が新聞をとりに玄関を開けると、敷石の上に寿司の折詰が落ちていたりした。 冬が来て、粉雪のちらつく日曜も、父は鎌倉通いを欠かさなかった。土曜の夜、ヘベれけに酔って、タクシーの運転手にかつぎ込まれながら、翌朝八時になるとちゃんと起き出して綺麗に髭を剃り、薄くなってきた髪を丹念に撫で上げた。そして、朝食もそこそこに出て行った。むろん誘われても一緒に行く気はなかったけれど、父のほうも雪江に声をかけようとしなかった。一度、母の用意した土産物を忘れて出て行き、 「まだ間に合うよ、さ、早く」 母にせかされて跡を追ったが、父の姿は、バスストップにも、市電の停留所にも見あたらなかった。 「近頃の父さん、どうかしているわ」上り框に土産物を投げ出し、雪江は思いきって言った。 「なぜ」 問い返されて詰まったが、むしろ問い返す母のほうがおかしかった。十七歳の雪江にとって、それは吾が身をむしるような忌わしい疑惑だったが、一度そうした目で見ると、母や自分の前での、何気ない父と叔母の会話までが総て芝居のセリフめいて聞こえ、するときまって、稲村ヶ崎の茶の間で目撃した、露子にビールを注いで貰っている父の姿がよみがえった。父の度重なる融通を、妹思いの母が単純に感謝しているのを見るにつけ、なまじ口に出せないだけに雪江は、胸の疑惑を持て余した。 雪江は日ましに父が嫌いになった。その嫌いな父に、さほど欲しくもない装飾品や、滅多に着る機会のない着物をせびり、父が即座に買ってくれると、自分の喜ぶ顔を期待しているらしい父の目が、ますますうとましくなった。自分がせがむたびに、露子も一枚ずつ着物がふえているに違いなかった。 雪江は二、三度、北京の叔父宛に帰国を促す手紙を書きかけた。むろん疑惑を明らさまには書けず、「彦ちゃんもずいぶん寂しがっています」と遠廻しにしたためたが、いざとなるとためらわれて、結局、投函しなかった。 ――叔父さんさえ帰国してくれれば……。 母からそれとなく聞いた話では、叔父の秀次郎は、親戚のあちこちから借金してやっと露子と一緒になったという。いくら仕事とはいえ、それほどの妻を叔父はなぜいつまでも抛っておくのだろう。和彦を妻に押しつけて、叔父はよく平気で居られるものだ。その和彦も、叔父が叔母に相談もせず貰ってきたという。雪江は次第に、叔父にさえ憎悪を抱くようになった。
●九
従兄の健市が父を頼って郷里の静岡から出てきたのは、雪江が女学校の専修科を卒業する少し前であった。健市は妊娠中の妻を連れてきた。 修三は、ちょうど空いていた裏の家作の一軒に甥夫婦を住まわせると、早速、郷里へ出かけて行ったが、 「お前の親父は全く時代おくれの頑固者だな」 帰るなり、はき出すように健市に言った。 「併し、まあ、儂にまかせておけ。そのうちに儂がかならず説得してやるよ」 そして、健市の妻の敏子にも、 「大事な軀なんだからあまり無理をしちゃあいけないよ」 優しい言葉を忘れなかった。 健市は東京の師範学校を出てから、郷里の隣町で小学校の教師をしていたが、昨年、酒場の女給をしていた敏子と知り合い、親に内緒で同棲した。そして敏子が身重になったので正式に結婚しようとしたところ、一家中の反対にあい、勤めもやめて郷里を飛び出してきたのであった。 雪江はまだ幼稚園に通っていた頃、父に連れられて伯父の家へ行き、そのとき健市にも会った筈なのだが、村長をやったこともあるという伯父の家が、まるでお寺の本堂のように広かったことしか臆えていなかった。だから健市とは、初対面にも等しかった。 健市は、雪江よりひと廻り上だったが、長身の軀に紺絣がよく似合い、油をつけない長い髪を芸術家のようにいつも額にたらしていた。事実、健市は、師範学校時代からひそかに戯曲を勉強して、 「こんな時代でなければ、なんでも思い切って書けるんだがなあ……」 細い目をしばたたきながら、寂しそうに洩らしたりした。頬から頤にかけて髭剃りあとがいつも青々としている健市は、肩幅もがっしりして、それがときには演劇青年というよりも、スポーツ選手のような印象を雪江に与えた。そんな彼が、それまで召集を免がれていたのは、小学校の教師だったからだろう。前年の冬にはじまった大東亜戦争で、雪江の周囲でも、級友の兄や顔見知りの近所の青年たちが次々に出征して行った。 一度、映画へ一緒に行ったことのある父の友人の一人息子が、マレー半島で戦死したという公報がはいったのも、半月ほど前であった。区役所の公会堂で行われたその合同葬から戻ってきた雪江が、縁側で戦死した青年の思い出に耽けっていると、 「僕にもいつ赤紙が来るか判らないな」 留守番していた健市が、兵児帯に両手をつっこみながら、呟くように言った。 「来たら、敏子さんはどうするの?」 「うん、あいつがいちばん可哀想だな。ま、郷里の岡山へ帰るより仕方ないだろう」 「うちでよければ、ずっとおいといたら? 赤ちゃんが生まれたら、あたしも及ばずながらお世話するわ」 「有難う。そこまで叔父さんに迷惑をかけられないよ。僕も召集令状が来るまで、せめて叔父さんへのお礼に、雪ちゃんの人生教師を勤めさせて貰うかな。もっとも、駈落ちしてきたとんだ先生だから、叔父さんに、よけいなことを教えるなと、叱られるかもしれないな」 雪江にとっては、赤紙を覚悟の上で、教職までなげうって恋を貫いた健市は、それだけでも尊敬に値する従兄だった。その健市に雪江がまず訊きたかったのは、なぜ彼が敏子のような女を選んだのか、ということであった。 敏子は五尺にも足らぬ小さな女で、目鼻立ちも平凡ならば、言葉遣いも粗雑だった。裏の家作に落着いて五日ほど経った夕方、雪江が学校の帰りに寄ると、裸電燈のともった玄関の三畳で、健市が腹這いになって履歴書を書いていた。 「敏子さんは?」 健市が起き上りながら奥のご不浄のほうを頤で指したとき、 「あんた、紙をとってよ」 敏子の大きな声が飛んできた。健市は気の毒なくらい顔を赧らめた。 「あんた、早くしてよ」 書き損じた履歴書の反古を二、三枚つかむと、健市は雪江の前から逃れるように奥へ走った。家へ帰って雪江は早速、それを母に告げた。 「まあ、なんて女だろう。昼間もね、夫婦で遊びに来ていたんだけど、健市さんが煙草を買ってきてくれっていいつけると、あんた買いに行きなさいよって、腰を上げようともしないんだよ。そりゃ妊娠中で腰が重いのは判っているけど、良人に対してあんなことを言う女を、私は初めて見たよ。そのくせ、私が父さんの煙草を出してやったら、自分も平気ですぱすぱ吸うんだからね」 母はタ食のとき、それも父に告げて、 「あんな女と駈落ちしてきた健市さんの気がしれない」 と、つけ加えた。 「ひとには言えない、いいところがあるのかもしれないさ」父は薄笑いを浮かべていた。 むろん雪江に、そのいいところが判る筈はなかった。それをじかに健市に訊ねるわけにもいかなかった。 日が経つにつれて敏子がいよいよ家庭向きの女でないことが判ると、健市に対する雪江の気持には同情も加わり、熱っぽくて難かしい健市の戯曲論を少しでも理解しようと、耳を傾けたりするのだった。 父の口ききで健市は間もなく磯子にある軍需工場へ事務員として勤め出した。父は、殆んど着のみ着のままの健市夫婦に、出産費用はむろん、生活費の不足まで補ってやった。勘当を許そうとしない頑固な兄への反撥と、若い者への理解者という自負からか、父は健市に対してすこぶる寛大であった。ときには母が袖を引くほど金や品物を気前よく与えた。父にしてみれば、叔母への融通を目立たせまいとする配慮も含んでいたのかもしれない。雪江は健市への同情から、父の寛大さをひそかに欣んではいたが、と言って、それによって父を嫌う気持が薄れたわけではなかった。 翌々月、敏子は無事女の児を産み、父は頼まれて幸子と名付けた。女学校を出て遊び半分に洋裁学校へ通っていた雪江は、退屈しのぎによく幸子の子守を買って出た。幸子のおむつになった朝顔模様の浴衣を見ると、それを着て江ノ島へ行った日のことがふと憶い出されたが、ひと頃にくらべると自分でも驚くほど昌太郎を憶い出す回数が尠くなっていた。 父は相変らず日曜の鎌倉詣でを続け、行けばかならず泊ってくるようになった。いくら病身とはいえ、母がなぜ黙認しているのか、雪江は歯痒ゆさを通り越してその心情まで疑いはじめた。雪江には、当然のように出掛かけてゆく父も、黙って父を送り出す母も、理解できなかった。雪江はもう父に小遣いをせびることにも飽きていた。金があっても、欲しいものが容易に手にはいらない時世でもあった。 或る日、露子が久しぶりに訪ねてきて、たまたま居合わせた健市と話が弾み、やがて叔母が帰って行ったあとも、健市はしきりにその美しさを口にして雪江を苛立たせた。 翌晩、雪江は、思いきって日頃の疑惑を健市に打明けた。雪江は当然、健市が二人を非難するものと思ったのだが、 「たとい本当だっていいじゃないか」 彼はこともなげに言って雪江を愕かせた。 「大人の世界には、雪ちゃんなんかの判らないことが沢山あるんだよ。叔母さんだって、何もかも承知の上で叔父さんを許しているのかもしれないよ」 併し、そう言われて、雪江の心が嘘のように軽くなったのは、平気でこんなことを言うのだから、健市は露子に特別な関心を持ったわけではなかったのだ、という安堵に似たものを覚えたからであった。自分ではそれとはっきり意識していなかったが、博学で物判りがよく、そして妻にも本来の仕事にも恵まれない健市に、いつとはなく惹かれていたその当時の雪江は、もはや昌太郎を思い出すことも、殆んどなくなっていた。 「叔母さんにきいたけど、雪ちゃんには初恋の人がいたんだってね。どう? いまでもその人のことを憶い出すかい?」 まるで心のなかを見抜かれているようで、雪江は少し怕くさえなった。 「僕も中学生の頃、好きな女の子がいたけど、ひと言も口を聞かないうちに、その子の家が引越ししちゃってね。今では憶い出そうとしても、どんな顔だったか、ろくに覚えていないくらいだよ。もっとも今では、お嫁に行っていいお母さんになっているだろうけど――」 健市の述懐をきいていると、昌太郎との憶い出がますますはかなく思われた。 かつては、男臭さを破片(かけら)ほどもかんじさせないことで心を惹かれた昌太郎が、今ではその破片もないことによって、日ましに雪江の心から遠のいてゆくようであった。 ――大人の世界には判らないことがたくさんあるんだよ。 早く大人の仲間入りがしたい雪江は、そのためにも昌太郎のことは忘れるべきだとさえ思うのだった。
●十
幸子がつかまり歩きをする頃になると、健市は雪江にも、妻の愚痴をこぼすようになった。やっぱり若気の至りだったよ。そう言って自嘲する健市に、雪江はときどき小遣いで煙草を買い、両親や敏子にかくれてそっと手渡した。 教師をしていたせいか健市は知識が豊富で、雪江の質問には、殆んどその場で明快な答えを与えてくれた。教え方もやさしかった。いつか雪江は、健市の電休日を待ちわびるようになった。親友の久子を誘って、三人で本牧の三渓園へ出かけたり、山手の外人墓地を歩いたりした。久子は雪江と同じ洋裁学校に通っていたが、近所の材木商の一人息子から求婚され、学生服姿のその写真を見せて健市にも意見を求めた。 「久ちゃんも一人っ子なんだから、ちょっとむずかしいな」 港を見おろす外人墓地の鉄棚に凭れて、健市は暫く口籠っていたが、 「併し、女は、望まれて結婚するのがいちばん幸福なんだろうな」 そして、写真を返しながら久子の顔をじっと見詰め、 「久ちゃん自身はどうなんだい?」 「二、三回しか会ってないんですもの、私にはまだよく判らないのよ」 「他に好きな人がいるの?」 久子は首を振ったが、目のまわりがぼうっと赧くなったのを雪江は見逃がさなかった。 「一緒に生活するようになれば、大低その人が好きになるもんだよ。ただ僕は、久ちゃんたちの年齢じゃ、まだあわてて結婚することはないと思うんだ」 「だって、男はみんな兵隊に行っちまうじゃない。そりゃあこの人だって、学校を出ればいつとられるか判らないけど」 「もし結婚してすぐ召集されたら、どうするんだい?」 「仕方がないわ、こんな時世なんですもの」 久子はまるで他人事のような口調だった。 「雪ちゃんもいま結婚を申込まれたら、お嫁さんにゆくかい?」 健市が、柵から背をはがしながら訊いた。 「あたしはいや。好きた人とでなければ結婚しないわ」 「でも」と久子が口を挿んだ。「その好きな人が結婚できない条件だったら、どうするの」 どきっとして雪江は友だちの顔を見詰めた。 ――このひとは健市が好きなのではないだろうか。 そんな目で見ると、今まで気づかなかったが、久子の横顔が露子に似ているような気もするのだった。 帰途、久子と別れてから、雪江は何気ない口調で健市に訊いてみた。 「そうかなあ、似ているかな」 昏れかけてきた空へ目を据えて、二人の顔を宙に描いているらしい健市を見上げているうちに、雪江は次第に不安を覚えた。似ているもんかと、言下に否定して貰いたかった。 「雪ちゃんは不思議に思っているだろうな」 ふと健市が呟くように言った。 「何が?」 「僕が敏子みたいな女と結婚したことを、さ」 図星をさされて雪江は咄嗟に返辞ができなかった。健市はズボンのポケットに両手をつっこみ、靴先で軽く小石を蹴った。一間ほど先にとまった石を、健市はもう一度蹴った。 「さっき、健従兄(にい)さん自身が言ったじゃない、一緒に生活すれば好きになるって」 「敏子の実家はひどく貧乏なんだ。あいつは小学校を出てからずいぶん苦労をしているんだよ。雪ちゃんなんかには想像もつかない辛い目にあっているんだ。――僕はやっぱり甘かったんだね、自分の力で、あれを幸福に出来ると思っていたんだから」 「だって、敏子さん、幸福そうじゃない」 「出産費用まで叔父さんに出して貰っているんだ。僕みたいな男が、ひとを幸福にできるわけがないよ」 「そんなことないわ。あたし、健従兄さんが来てから、ずいぶん色々なことを学んだわ。あたし、従兄さんが素晴らしい戯曲を書いてくれる日を楽しみにしているのよ」 「僕には、そんな才能ないよ」 「従兄さん、情けないこと言わないで」 不意に健市が手を執った。が、雪江は、それを少しも唐突とは思わなかった。 「従兄さんは久子さんが好き?」 「冗談じゃない、僕はただ雪ちゃんの友だちだから――」 「本当?」 「どうして?」 「ううん、それならいいの」 握られた手が、いつか汗ばんでいた。 雪江が二階の自室でいきなり健市に抱き竦められたのは、それから十日後の夕方、父は昼すぎから鎌倉へ出かけてゆき、母も敏子と一緒に伊勢佐木町まで買物に出かけた留守であった。 雪江を畳に押し倒した健市は、日頃とは別人のような怕い表情で、呼吸も動作も荒々しく、その勢いにのまれて雪江は、ほとんど抵抗する術を知らなかった。貫くような痛みに、雪江は思わず健市の頤を突き上げた。それでも健市は怯まなかった。口を封じられ、手足も言うことをきかず、僅かに雪江に許されたのは、目を閉じることだけであった。二度目の疼痛のなかで、 ――これが大人になることなのか。 もう諦めるより仕方がなかった。健市はひと言も口をきかず、熱い息だけが雪江の耳を包んだ。雪江はただ痛みに堪えていた。 全身を圧していた重みがすっと消えたときき、門の鈴がなり、つづいて敏子の声が聞えた。雪江ははじめて羞恥に襲われた。 「ずいぶん遅かったじゃないか。何を買ってきたんだい」 もう起き上った健市は、二階から大きな声を掛け、兵児帯を巻き直すと、衿をかき合わせながらゆっくり階段を降りていった。 「ほう、大福か、珍しいな」 「行列してこれを買うんで遅くなっちゃったのよ」 「叔母さんは?」 「あとから来るわ」 畳に横たわって、階下から聞えてくる夫婦の話声をきいているうちに、 ――ね、罰があたったらどうしよう。 怯えた表情と共に昌太郎の声がよみがえってきた。雪江の目尻から、はじめて涙が糸を引いた。 「雪ちゃん、早く降りて来ないと、無くなっちゃうよ」 敏子の声に、また涙が出た。のろのろ半身を起こし、まくれ上ったスカートをおろして膝を包むと、雪江は隅の鏡台へいざり寄った。白く染め抜いた鏡台掛けの花菱模様が、暗い部屋に浮き上って見えた。それが何か巨大な動物の目のように思えた。 雪江は鏡台の前に俯伏した。 「雪ちゃん、早く降りといでよ」また敏子の声が聞えてきた。
●十一
それきり、雪江は、母に用事を頼まれても健市の家へ行かず、健市も雪江の家へ滅多に姿を見せなくなった。雪江は洋裁学校を休んで、殆んど二階の部屋に閉じ籠った。忌わしい記憶を忘れるためには、自室こそ避けるべきだったが、階下の茶の間には、しょっちゅう敏子が入りびたっていた。今まで通り、何喰わぬ顔で敏子と言葉を交したり、幸子をあやしたりすることは出来なかった。周囲に疑惑を起こさせないためには、自然に振舞うべきだと思う反面、両親も敏子も気づかないことが、何か手落ちのように不満だった。あれから三日間、雪江は歩きづらく、自分で自分の軀ではないような異和感を持て余した。 「この頃、ずいぶん長湯になったね」 二年前、家に湯殿が出来てから、雪江は大抵母と一緒にはいり、背中をながしてやったが、あの日以来、独りで入浴するようになった。母に肌を晒すのがはずかしかった。一緒にはいれば忽ち見破られてしまいそうであった。 軀ばかりでなく、雪江は鏡台を覗くのも怕かった。あのときを境に、自分の顔が徐々に変ってゆくような恐怖があった。そのくせ、以前にもまして日に何度となく鏡を覗きこみ、どこも変ったところのない顔を確かめずにはいられなかった。 「お雪、体でも悪いの?」 学校の帰りに寄った久子が、二階に上ってくるなり訊いたのは、十日ほどのちであった。 「別に」 雪江は物憂げに答えた。 「どうして学校へ出て来ないの? 私一人じゃ、つまんないじゃないの」 「ただ、なんとなく行きたくなかったの」 「へーえ、さては恋わづらいかな」 久子は出窓に腰かけて、脚をぶらんぶらんさせていたが、 「私ね、結婚することにしたわ」 わざと雪江のほうを見ないで言った。 「本当?」 結婚という言葉が、以前とはまるきり違う響きで雪江の胸を摶った。 「先方は年内にというんだけど、私、来年の春にのばして貰ったの」 「やっぱり、いつかの材木屋の――」 「うん、お雪も式には出てくれるわね」 「小母さんがよく貴女を手放す気になったわね」 「ううん、うちに来て貰うのよ。彼、結婚できれば養子でもなんでもかまわないっていうのよ」 「そう」今の雪江には、ひどく遠い話だった。 「お雪、どうしたのよ、よろこんでくれないの」 「そんなことないわ。よかったわね、お目出とう」 「時節柄、文金高島田というわけにはいかないのが残念だけど」 「あんなの、形式だけよ」 「そうね、健従兄さんみたいに駈落ちしてくる人だっているんだものね」 雪江を真似て、気易く健従兄さんと呼ぶ久子が、不意に憎くなった。 「そうだ、健従兄さんにも心配かけちゃって――私、はずかしいから、お雪から言っといてね」 頷いたものの、告げられるわけがなかった。 「お雪も早く好きな人をみつけて結婚しなさいよ」 「あたし……」 「え、なあに」 「ううん、なんでもないの」 「いやだ、へんなお雪」 それでなくても浮きうきしている久子に打明けられる筈はなかった。
雪江が磯子の工場へ健市を訪ねたのは、それから丸二カ月のちであった。五日前から始まる筈のその月の生理もついにおとずれず、まさかとは思いながら、併し雪江は、もはやそれ以上己一人で不安に堪えることが出来なかった。 門のわきの守衛詰所で待っていると、ほどなく大きな建物のかげから健市が出てきた。雪江を見るなりぎょっとしたように立ち止まった。雪江は守衛に会釈してから怯々と近づいた。脚がすくんだが、守衛の目を背中に感じると、健市が近寄るのを待っているわけにはいかなかった。健市は両腕から黒いカバーをはずし、建物の右手のほうへ頤をしゃくった。ときどき工場のなかから、腹の底までゆするような鈍い地響きが伝わってきた。 カーキ色のトラックが何台も駐車している空地の隅で、雪江が昨夜から練習してきた言葉を途切れがちに訴えると、健市は途中で笑い出した。 「悪い冗談だね」 その屈託のない顔に釣りこまれて雪江も笑いかけたが、トラックの運転台から漂ってきたガソリンの匂いに、不意に烈しい嘔気を覚えた。 赤く錆びた鉄屑の積んである反対側の隅から、雪江が手帛で口を押えながら戻ってくると、健市は黙って紙片を差し出した。怒ったような顔つきであった。 「――?」 手帳を千切ったらしいその紙には、片仮名が五つ六つ書いてあった。 「どこか薬屋で買って嚥みなさい」 殆んど命令口調で健市が言った。 「なんの薬なの?」 「敏子も最初はそれでうまくいったんだ。早ければ早いほどいい」 不意に健市の顔が二、三間うしろへ飛び退いたような感じだった。はっとして雪江は目を凝らした。が、見詰めれば見詰めるほど健市の顔は小さくなって行った。手をのばせば、間違いなく指先が触れる眼前に在る筈なのに、まるで望遠鏡をさかさに覗いたように、頼りないほど遠い向うに健市の顔は在った。 「それでもし駄目だったら……」 その遠い小さな顔が、声だけはすぐそばで言った。 「もし駄目なら」雪江も鸚鵡返し(おうむがえし)に言った。 「強姦されたとでも言うんだな。弘明寺の観音さまの裏山で、知らない男に襲われたって言えば――」 そこで言葉を切ってから、今度は押し殺した声ではっきり念を押した。 「兎に角、僕の名前は絶対に出すんじゃないぞ。いいな、判ったね」 健市自身が言っていたように、とんだ人生教師だった、と雪江が泣き笑いしたのはむろんずっと後のことで、その日の帰途、雪江は尾上町の薬局で健市の呉れた紙片を差し出し、渡された通経剤を帰宅するなり嚥んで、その後一週間、下痢に悩まされつづけた。
●十二
日ましに暑くなる季節を、雪江はどれほど憎んだことだろうか。季節に対して憎悪を覚えたのは、むろん生まれて初めてのことであった。 まだ自分でも判らないのだから他人の目につく筈はないと思いながら、いつか雪江は、家に居るときも外へ出たときも、手にしたもので無意識に腹部を蔽っていた。赤い小さなリボンを結んだ幸子が、裏木戸を押してヨチヨチはいってくると、恐しい獣に出会ったように、雪江は急いで階段を駆け上った。目も口も健市にそっくりな幸子を見るのが、雪江には何よりも堪えがたかった。 翌月、祈るような気持で生理を待ったが、予定日を五日すぎてもやはり訪れてはくれなかった。眠られぬ夜が何日も続き、何を食べてもおいしくなかった。 「雪ちゃん、顔色がよくないね、どこか軀が悪いんじゃない」 そんなある日、訪ねてきた露子と一緒に夕食の膳を囲んだとき、雪江の緩慢な箸づかいを暫く見詰めてから露子が言った。叔母は相変らず艶々した顔をしていた。 「どこも何ともないわ」 雪江はお茶漬けをかっこんだ。 「それならいいけど――。さっき、敏子さんに会ったら、あの人も蒼い顔をしていたわ」 「お肉もお魚も近頃はなかなか手にはいらないからね」 母が嘆息するように言った。 「そうね。でも、そればかりじゃなさそうよ。姉さん、あの女(ひと)、また妊娠しているんじゃない?」 雪江の手から箸が落ちた。 慌てて拾い上げ、「ご馳走さま」雪江は、母と叔母の目を振り切るように台所へ立った。思いきり頭を殴られたような衝撃であった。洗しのへりを掴んで雪江は堪えた。が、ウウッとこみ上げてきたものを怺えることが出来なかった。 「あたし、少し胃がわるいのかしら」 座敷へきこえるように雪江は呟いた。 七月になるのを待って雪江は、女学校時代の友だちを海水浴へ誘った。わざと久子は呼ばなかった。 泳ぎの全くできない雪江からの誘いに、集まった三人の友だちは、みた呆れた目を見張った。 「よっぽど退屈しているのね」 勤めている一人が言うと、 「そう言えば少し肥ったようね」 もう一人が言い出したりしたが、やがて次の日曜に鎌倉へ行く相談がまとまったとき、往復共バスで行くことを雪江が執拗に主張したので、友人たちはもう一度目をまるくした。 「さてはハンサムな運転手でもみつけたかな」 悲壮な思いを、思わせぶりな微笑で包むむずかしさを、雪江ははじめて味わった。 由比ヶ浜で、唇が紫色になっても水から出ない雪江に、砂浜で甲羅を乾しながら友人たちは何か囁き合っては早く上るように何度も合図を送ってきた。雪江は精一杯の笑顔でそれに応え、手足をばたつかせて泳ぐ恰好を繰り返した。 よしず張りの海の家で、雪江が氷水を三杯おかわりしたときも、友人たちは顔を見合せた。 「お雪、一体、どうしたっていうの」 「だって、喉がすごく渇いたんだもの」 雪江はブリキのスプーンで氷の山を崩しながら、わざと子供っぽく答えた。むろん、稲村ヶ崎には寄らなかった。 それから二度、一人でそっと海へつかりにゆき、下腹に差しこみが来るたびに哀しい期待をかけながら徒らに下痢が続くだけで八月にはいり、もうどうにも隠しようがなくなると、頭痛がすると言って終日、床から起き出さないようにした。日中、どんなに暑くても掛け蒲団を胸まで引き上げ、雪江にはもはやそれ以外に手がなかった。ふくらみはじめた腹を見つけられる日が一日でも延びれば吻としながら、併し心の隅では、母に早く発見して貰いたいとも思いはじめていた。あれ以来、健市は蔭のぞきもしなかった。 「今度は男の児だといいんだけど」 階下から母と話している敏子の声がきこえてくると、どんなに歯を噛いしばっても雪江は嗚咽(おえつ)せずにはいられなかった。
父と母が、ともに硬張った顔を雪江の枕許に揃えたのは、八月末の、特に蒸暑い夜であった。 はじめ雪江は、何を訊かれても頑なに口を緘していた。併し、あまりにもきびしい父の追求に堪えかね、工場で健市に教えられた言葉を、途切れ途切れに口に出した。 両親はぎょっとしたように顔を見合せ、母は忽ち泣き出しそうになった。 「本当かッ」父が噛みつくように訊いた。右手が雪江の肩を強くつかんだ。雪江は目を閉じてかすかに頷いた。 「何時だ? どんな男だ?」 「――」 「雪江、ちゃんと返辞をしなさいッ」 「ね、詳しく話してごらん」 母が涙声で訊いた。答えようのない雪江は、肩をゆすって父の手をはずすと、壁のほうへ寝返った。 「嘘なんだろ、ね、雪江、嘘だろ、本当のことを言っておくれ」今度は母が肩に手をかけた。 「――」 「嘘なんだな。なぜ、そんな嘘をつくんだ。お前は親を莫迦にする気か」 「――だって、健従兄さんが……」 「なに?」 あわてて蒲団をかぶったが、後の祭だった。 「父さんッ」 母の声に、そっと目だけ覗かせると、立ち上った父の兵児帯に、母がしがみついていた。修三の顔は全く色を失い、両肩が小刻みに慄えていた。目は恚りに狂っているようであった。 「畜生ッ、恩を仇で――殺してやるッ、放せ!」 母の腕を払いのけると、父はもう階段を駆け降りていた。 「父さんてば――」 続いて立ち上った母は、ちらっと雪江を見おろして、 「莫迦ッ」すぐ父のあとを追った。 露地を距てた健市の家のあたりから、硝子の壊れる音が聞えてきたのは、それから三分とたたぬうちであった。つづいて父の怒声と母の金切り声、それに敏子と幸子の泣き喚く声も伝わってきた。雪江は床の中で、それらの騒ぎを聞きながら、電燈の笠の周りをとび廻っている虻を見上げていたが、そのうちにふと睡気に襲われた。 ――何もかもおしまいになってしまった。 長い間張りつめていたものが、いちどきに解きほぐれて、躰が、深い宑の底へずるずる落ちこんでゆくようであった。
●十三
一週間後、雪江は、稲村ヶ崎の露子の家へ預けられた。 あの夜、健市は近所の映画館へ行って留守だった。そのため、怒りの遣り場を父は自分の家作へぶちまけた。騒ぎに駆けつけた近所の人々が止めると、「俺の家を俺が壊すんだ、どげッ」父はますます狂い立ち、玄関の戸ばかりか、襖や障子も叩き破り、かつて自分が指図して母や雪江に運ばせた机や椅子まで露地へ投げ出した。日頃温和しい修三だけに、度を失ったその所業は、わざわざ娘の不始末を近所に吹聴したようなもので、今更雪江が世間の目をはばかる必要はなかったのだが、健市が暢気に映画を観に行っていたということが、最後の一撃のように雪江を打ちのめした。雪江は、父母に言われるまま素直に鎌倉へ移った。 けれども、昌太郎が病室にしていたあの離れで起居するようになると、窓際の紫陽花も、渡り廊下の隅に置かれた藤椅子も、目に入るものがすべて五年前と何一つ変っていないので、もうとっくに忘れた筈の昌太郎との五日間を、雪江はいやでも憶い出さねばならなかった。今になっては、あまりにも哀しすぎる記憶だった。 移って一週間目の午後、玄関で叔母が「お客さまよ」と呼んだ。半信半疑で出てゆくと、ドアのかげから久子の顔が覗いた。無意識に雪江は、単衣の袖で前を蔽った。 「お雪」 絶句して、久子は大きな眸を痛ましげにしばたたいた。 「こんなところまで、なんの用?」 「お雪!」 久子が殺した声で叫んだとき、そのうしろから、坊主頭の青年が顔をのぞかせた。 「紹介するわ」気を執り直したように久子が半身開き、ちょっと羞恥しそうに口籠った。 「あの、主人の、篠崎なの」 耳を疑る雪江の前で、国民服に包んだ長身を折り曲げ「篠崎です」青年が明るい声で名乗った。 「お雪、ごめんなさいね、私たち二週間前に結婚したの。入隊通知が来て、この人、来月一日に入営しなければならないのよ」 離れに篠崎と並んで坐ってから久子が説明した。 「誰も招ばないで、内輪だけで済ませたの。あんたにだけは知らせようと思ったんだけど、なんだか私、羞恥しくて……」 お茶を運んできた露子が、さかんにおめでとうを連発したが、雪江は感情が波立って、素直にお祝いの言葉が出なかった。二週間前といえば、父が狂ったように健市の家へ暴れこんだあの日である。その同じに日に久子は結婚式を挙げていたのだ。むろん、招ばれても出席なぞ出来はしなかったであろうが、小学校以来、いちばん親しくしていた自分たち二人の運命が、こんなにも開いてしまったことを思うと、雪江は改めて悔恨に胸を噛まれた。 時節柄、新婚旅行はやめて、その代り、篠崎の叔父の家の離れを借りうけ、入隊まで二人きりの生活をはじめた――と、久子は語った。召集を受けてから、あわただしく式を挙げる例は、雪江も耳にしていたが、まさか久子にそれほどの決断があろうとは思わなかった。新婚生活がどれほど愉しいものであるにせよ、一カ月と限られた短いその期間が、二度と帰らぬかもしれない良人を送り出したあとの永い歳月を支えてくれるとは、どうしても思えなかった。だが、こうして二人揃って訪ねてきたところを見ると、久子にはそれが出来る自信があるのだろ。 「きのう、弘明寺へ行って、あんたがこっちに来ているのを初めて知ったの」 「ご病気なんですってね。いけませんね」篠崎が、久子の言葉を継いだ。五分刈り頭のせいか、いつか見た写 真よりも若々しく、濃い眉の下から同情のこもった目を向けられると、雪江は一層、身の縮む思いがした。 先刻(さっき)、玄関で絶句した表情から、久子が一切の事情を承知の上で訪ねてきたことは判っていた。が久子は、篠崎にはまだ告げていないらしかった。 「この人の中学時代の恩師が大仏裏に住んでいらっしゃるの」久子が話題をかえた。「午前中、そこへ寄ってきたのよ」 「いつ来てもいいなあ、鎌倉は――。僕も中学生の頃は由比ヶ浜でよく泳いだものです」 「私たちも行ったわ。此処に泊めて貰って、お雪と夕方の浜をよく散歩したものよ。ねえ、お雪――」 「あの頃は射的屋やボットロ落しがあっちこっちにあって――ね、ベビーゴルフ場があったのを憶えている?」 「憶えているどころか、私、巧かったのよ」 「僕たち、一度ぐらい浜ですれ違ったことがあったかもしれないな」 雪江をそっちのけにして語り合う二人を見ていると、新婚の睦まじさを見せびらかしに来たのか、自分を見舞いに来てくれたのか、雪江には判らなくなった。それとも久子は、不幸な友を見舞うことで、限られた新婚生活の愉しさを確めようとしているのだろうか。 新しいお茶を運んできた露子が、離れを出しなに目顔で呼んだ。窓に倚った篠崎が、庭に咲き乱れたコスモスのほうを眺めているのを見定めてから、雪江はそっと立ち上がった。いずれ久子から聞くだろうが、せめて今だけでも篠崎には妊娠を知られたくなかった。 「こんなもんで、いいだろうかね」 廊下の隅で、いちど折り畳んだ半紙を開け、なかの紙幣を露子が見せた。半紙の表には、お祝いと書いてあった。 「いいでしょ」 「それとも雪ちゃんの名前も書いて、もう少しふやそうか」 「あたしはいいわ」 「いいって――別にするの?」 「あたしは上げない」 「なぜ?」 驚く露子を黙殺して台所にはいると、コップになみなみ注いだ水を雪江は一気に飲み干した。 ――あたしは一生結婚のお祝を貰うことなぞないだろう。 露子がお祝いを出したのだろう、離れのほうから、篠崎と久子が、しきりに恐縮している声がきこえてきた。雪江はコップを握りしめた。 一時間ほどで新婚夫婦は腰を上げた。玄関では靴をはき終えた篠崎が、救急袋を肩にかけると、雪江を生真面目な表情で見上げて言った。 「僕が征ったあと、久子をよろしくお願いします。いつまでもこれと仲好く――どうか一日も早く元気になって下さい」 横から久子が何か言いたげな目を注いできた。雪江はさりげなくその視線を逸らし、黙って頭を下げた。 露子が買物がてら二人を駅まで送ってゆくことになった。飛び石の途中で久子は二度ふり返ったが、雪江が上り框に坐ったままなので、諦めたように良人のあとを追った。久子は門のところでまた立ち止まったが、すぐ思い直したように歩き出した。 三人の姿が見えなくなったあとも、雪江は暫く玄関の床に坐りつづけていた。 ――久子は、篠崎を本当に愛しているのだろうか。健市が好きだったのではなかったのか。 外人墓地で、好きな人でなければ結婚しないと言ったが、たとい愛する男ができても、久子のように、別離を覚悟の上で結婚することは、雪江には出来そうもなかった。 ――早ければ早いほどいい。 そう言って紙片を渡されたあのときから、雪江は愛というものが信じられなくなっていた。 ――ひょっとすると篠崎という男は、健市よりも残酷な男ではないだろうか。 そうでなければあとに遺る女の心を無視して、結婚できるわけがなかった。それとも愛とは、たとい一瞬でも燃え上ることが出来ればそれでいいのだろうか。 芝生の向うで風にゆらいでいるコスモスを、雪江は長い間見詰めつづけた。
●十四
僅かな身動きも大儀で、立居のたびに肩で大きく息をする雪江に、中学生の和彦が、まるで女王につかえる忠実な従僕のように、まめまめしく用を足してくれた。好奇心の旺んな年頃なのに、和彦は何ひとつ事情をきこうともせず、牀のあげおろしまで手伝ってくれた。学校の帰りに、どこで見つけたのか、雪江が欲しがっていた刺繍糸をお小遣いで買ってきてくれたりした。ひとを信じられなくなっていた雪江は、そうした和彦の親切を半ば不審に思いながら、やはり感謝せずにはいられなかった。 家の周囲は、五年前にくらべると、かなり家数がふえ、蝉の声がやかましかった背後の松林も一部伐り拓かれて家庭菜園にかわっていた。併し、少し登った樹木の切れ目から見降ろす海の色は昔通りで、松の梢越しに穏やかな海面を眺めていると、五年の歳月がまるで嘘のようにも思えた。 雪江が預けられてから、父は前にもまして頻繁に訪ねてくるようになった。もっとも雪江に遠慮してか、殆んど泊らず、母への言つけを聞くとほんの一、二時間で帰ってゆくこともあった。露子も用のない限り、滅多に離れへは顔を出さなかった。 タ方和彦が学校から帰ってくるまで、雪江は離れに独りで閉じこもり、産まれてくる児の肌着を縫ったり、母の銘仙をもんぺに仕立て直したりして時間を過ごした。外へ出るのは月に一度、長谷の産院へ診察に行くときぐらいだった。留守番が出来たので、露子はちょくちょく外出し、ときには和彦よりおそく帰宅した。露子は出先を言わず、雪江も訊かなかった。 八カ月目にはいった或る午後、出窓の下の戸棚を何気なく開けると、隅のほうに「新青年」や「譂海」などの雑誌が十冊ばかり積み重ねてあった。引きずり出すと、古雑誌特有のカビ臭い匂いが漂い、発行年月を見るまでもなく、昌太郎が置いていったものであることが判った。 一冊を手にとって挿絵だけを拾っているうちに、二、三カ所、鉛筆でまるく囲った活字が目についた。冬山遭難の実話読物で、丸印のついているのはすべて雪という活字だった。雪江は思わず目をとじて、こみ上げてくる思いに堪えた。昌太郎を知ってから、新聞や雑誌で昌という活字を見るたびに、胸のなかが小さく鳴った一時期の自分を思い出した。 ――あの人はやっぱりあたしが好きだったのだ。 だが、それならば稲村ヶ崎の駅であれほど念を押したのになぜ東京へ帰ってしまったのだろう。もしあの夏、もう一度会うことができ、お互いの気持を確かめ合っていれば、健市に心を惹かれることもなく、従ってこんな醜い軀にならなくても済んだのだ――恋のために故郷を捨てた健市を尊敬しながら、自分の初恋はあっさり諦めてしまったあさはかさが、雪江は、いくら悔んでも悔みたりない思いだった。 ――僅か一日の違いが自分の運命を狂わせてしまったと考えるのは、虫がよすぎるだろうか。 併し、たとい露子から帰宅を促がされたとしても、一日ぐらいとどまれた筈である。それとも昌太郎には、どうしても急いで帰らなければならない理由があったのだろうか。 ――恐らくもう二度とあの人には会えないだろう。いや、会う資格がなくなってしまった。 その会ってはならない昌太郎が突然、稲村ヶ崎に姿を現わしたのは、出産予定日が一週間後に迫った十一月の下句だった。
前日、父がトランクに詰めて運んできてくれたガーゼや古浴衣類を改めて整理しているとき、玄関に聞き馴れない男の声がした。叔母が出るものと思って、雪江は整理の手を休めなかった。 「こんにちは」 また客が言い、それでも母屋から答える気配がないので、雪江は渋々、重い腰を上げた。 「どたたでしょうか」 一寸ほど開いた扉の向うへ問いかけると、ぐっと押し開かれて学生服が現われた。その顔を見て雪江は息をのんだ。昌太郎のほうも、思いがけない雪江の姿に、ゲートルを巻いた脚をひと足三和土に踏みこんだまま、茫然と立ちすくんだ。 二人は、あまりにも不意な邂逅(かいこう)に、かえって目をそむけ合うことも出来ず、どちらも声を失って暫く見詰め合った。こぼれそうな腹を、雪江は咄嵯(とっさ)に隠すことを忘れ、昌太郎のほうも、ようやく雪江の腹に気づくと、頬をひきつらせて、はじめて目を逸らした。 「まあ、昌太郎さんじゃないの」 裏の菜園へ行っていたらしい露子が、冠っていた手拭をとりながら、弾んだ声をかけてきた。その声に、我にかえったように雪江はあわてて前を蔽った。羞恥が全身を駆けめぐった。露子は、唇に薄笑いをうかべて、甥と姪の顔をかわるがわる眺めてから言った。 「さあ、上ってちょうだい」 ゲートルをほどいて部屋に通った昌太郎は、鴨居に頭がぶつかりそうなほど背が高かった。が、色白の顔立ちは五年前と殆んど変らず、その頬を羞恥しそうに撫でる手も昔通りほっそりしていた。 「来月一日に入隊することになりました」 昌太郎はきちんと膝を揃えて挨拶した。 「じゃあ、学徒出陣ね。おめでとう」 露子の言葉に昌太郎はもう一度頭を下げ、 「いつから、こちらに?」 長い睫毛にかこまれた目を、ゆっくりと雪江へ向けてきた。 「あの」 「九月からよ、そうだったわね、雪ちゃん」 露子が代りに答えた。あわてて頷き、もうそれ以上、同じ部屋に居堪れなかった。 ――あの人は、あたしのことを何も聞いていなかったのだ。 離れに逃げ戻った雪江は、膝の上で両掌を握りしめた。雪江も、学徒出陣のことは新聞で知っていた。が、それを昌太郎と結びつけて考えたことがなかった。 ――やっぱり罰があたったのだろうか。 この世で、誰よりもいちばん恐れていた昌太郎に醜い姿を見られてしまったのだ。雪江にとって、これ以上の罰はないようであった。項垂れて、できることならこのままこの世から消えてしまいたかった。 せめて和彦が学校から戻るまで――引きとめる露子を振りきって、昌太郎は、三十分足らずで帰って行った。 露子に呼ばれて、面を伏せたまま玄関へ送って出た雪江は、ゲートルを巻き終えて立ち上った昌太郎に、 「お大事に――」やっとの思いで挨拶した。殆んど同時に昌太郎も、 「お大事に――」 そして、わざと肩をいからせたそのうしろ姿は、アーチ型の門を出るまで、ついに一度も振りかえらなかった。 今度こそ、もう二度と会えなくなってしまった。 「みんな征っちまうんだねえ」 玄関にならんで坐った露子が、大きく肩を落した。涙のにじんできた目を見られたくないので、雪江はすぐ立ち上った。その背へ露子が言った。 「昌太郎さんが言ってたよ、征く前に雪ちゃんに会えてよかったって――」
翌日から雪江は、鎌倉の町角に立って千人針をつくりはじめた。和彦が、額の青筋をふくらませて、 「ねえちゃん、ばかな真似はよせよ。軀に障ったらどうするんだ」 叱るように留めたが、足許から這い上ってくる寒さを怺えながら雪江は、短い陽が暮れ切るまで、駅前や由比ヶ浜通りに臨月の軀を曝しつづけた。季節外れの海岸町は、どこもひっそりとして、人影より、ゴミ箱をあさる犬のほうが目についた。冷たい風が吹き抜けてゆくたびに雪江は、眉の薄くなった顔をショールで覆い、そのかげから同性の姿を捜し求めた。私も手伝うという露子を、雪江は無言で拒みつづけた。 いくら留めてもきき入れない雪江に、和彦は本当に怒ったのか、学校から帰ってきても殆んど口をきかなくたった。あの日、昌太郎が帰ってから一時間ほどのちに帰宅した和彦は、「お従兄ちゃんがついさっき帰ったばかりだよ」と露子に告げられても、昌太郎に会えなかったことを、別に残念がる様子を見せなかった。 「従兄ちゃん、何か言ってたかい?」夜、離れにやってきた和彦は、小さな声で雪江に訊いた。和彦の目は、深い劬りの色を湛えていた。雪江が首を振ると「そう」と呟いてから「ねえちゃんは今、無事に赤ん坊を産むことだけ考えればいいんだよ」大人のような口調で言った。 あと50針までに漕ぎつけた三日目の午後、寅歳だという中年の上品な奥さんが、歳の数だけ丁寧に糸を結び終えてから、 「ご主人が征かれるまでに、お産れになるとよろしいですわね」 と、優しく言ってくれた。雪江はもう少しでその場に崩折れそうにたった。 毛筆の尻に朱肉をつけて捺した丸印の残りは、あといくらもなかった。が、陽が翳って一段と加わった寒気と、差しこんできた下腹の痛みに、その日は早目に切りあげることにした。 坂の小径を休み休み途中まで登ると、上から露子が降りてきた。 「寒くなったので迎えに来たのよ」 叔母に肩を抱かれるようにしてやっと家に帰り、離れの炬燵に膝を入れたとき、 「留守に来たのよ」 速達の判が捺された手紙を露子が懐ろからとり出した。昌太郎からであった。 期待と不安に怯えながら封を切った雪江は、叔母の前も忘れて炬燵に泣き伏した。昌太郎の手紙は仙台局の消印で便箋に僅か四行、こう書いてあった。 「最後の旅行で、いま東北地方を歩いています。同封のお守り、塩釜神社のものです。安産のお守りの由、けさお詣りして戴いてきました。どうか、よい児を産んで下さい」
●十五
産道が狭くて、ひどい難産の末に男の児がうまれたのは、一日じゅう降りつづいた雨がやっと上った十二月二日の明け方――昌太郎が入隊した翌日であった。 昼すぎに陣痛がはじまり、前の日から泊りがけできていた両親に附添われて雪江は長谷の病院へすぐ入院した。が、痛みは夕方いったん引き、間をせばめた本格的な陣痛が襲ってきたのは夜もかなり更けてからであった。激痛のあとで地の底へ吸いこまれるような睡気に誘われ、そのたびに看護婦から「睡ってはだめですよ」と叱られた。胎盤剥離――後産がなかなか出ず、夥しい出血の末に雪江は一時、意識を失った。 お七夜に「修吉」と書いた半紙を、父が病室の壁に貼るのを、雪江は遠い目でぼんやりと見上げた。文字が霞んで、視力がにぶったようであった。 「いい名前だろ」 雪江は小さく頷いた。自分の名を一字とった父の気持が胸に沁みた。 ひそかに予期していたとはいえ、出産が、生涯二度と子供は産むまいと思ったほど苦しかったのは、バスに乗ったり、海水に永いこと漬って、罪のない生命を断とうとした報いに違いなかった。 幸い、修吉は、怖れていた濃い血の繋りによる欠陥はどこにもなく、乳の出も豊富だった。併し、そのかわり、雪江は、無慚な軀になってしまった。 下腹部から太腿部にかけて、鑿で彫ったようた肉割れが数十条、はっきりと残されてしまったのである。ずっとのち、脹脛にまで同じ痕を見い出したとき、雪江ははじめて健市に憎悪を覚えた。が、併し、それもほんの一時で、出産後の雪江は、不思議なことに健市に対して、さほど恨めしい気持を抱かなかった。 修吉は間違いなく健市の胤であった。が、磯子の工場へ訪ねて行ったあの日以来、雪江の心の中では、健市は死者も同様であった。ましてたった一度のあの過失は、疼痛を与えられただけであった。修吉は、健市とはなんの関係もない、あたし一人の子なのだ――無理にそう思いこもうとしているのではなく、雪江にとっては、それが極めて自然な気持だった。 肩から布鞄を吊した和彦が毎日、学校の帰りに病院に寄ってくれた。修吉の出生をわだかまりなく欣んでくれたのは、和彦だけのようであった。 傍の小さなベッドで無心に眠っている修吉を、和彦と一緒に覗きこんでいると、入隊後すぐ北支へ連れて行かれたという昌太郎のことも、父に家作を追われて鶴見のほうへ引越したという健市のことも、そして次第に旗色が悪くなってきたという戦争のことも頭にうかばず、出来たらこの病室で、いつまでも暮していたいと思うのだった。赤ん坊の顔は七度かわるときかされていたが、修吉は一カ月経っても殆んど健市に似たところを見い出せなかった。目も唇も雪江のものだった。雪江はそれに救われた。 「来月から僕らも勤労動員で工場へ行くんだよ」 黒い覆いをつけた病室の電燈に灯がはいると、帰り支度をしながら和彦が言った。 「彦ちゃんはあんまり軀が丈夫じゃないんだから、気をつけるのよ」 ベッドに起き上ると、和彦は鞄を抛り出して、羽織を着せかけてくれた。 「ありがと。もう帰りなさい、お母さんが心配するわ」 「僕、横浜の伯母さんが来るまでいるよ」 「大丈夫よ、坊やもよく眠っているし」 「居ちゃいけない?」 「彦ちゃんはどうして家に帰りたがらないの」 「帰ったって、つまらないんだもの」 「あした、また、来てね」 仕方なさそうに鞄を肩にかけ、和彦は渋々ドアへ近づく。出来れば雪江も、もっと病室に居てもらいたかった。母や露子に附添われているよりも、和彦が一緒に居るときのほうが、はるかに気が休まるのだった。
叔父の秀次郎が、久し振りに北京から帰ってきたのは二月の初め――雪江が二カ月近い病院生活を終えて、再び稲村ヶ崎の家へ戻ってからちょうど一週間目であった。 突然、帰宅した修次郎は、海軍の将校服を着た四十三、四の男を連れてきた。叔父の説明によると、下関から乗った急行列車で偶然会った中学時代の後輩だそうで、色の浅黒い、額の抜け上ったその男は、 「玉置茂男です」 露子と雪江にいかにも軍人らしい堅い挨拶をしたのち、早速、持参したウイスキーを叔父と飲みはじめた。 雪江はすぐに離れに引っ込んだが、ほどなく母屋から露子のはじけるような嬌声がきこえ、つづいて玉置の大きな歌声が響いてきた。折角寝かしつけたばかりの修吉が目をさましはしないかと、心ないその歌声に雪江は眉をひそめた。叔父がなぜとめてくれないのかと肚も立った。 「雪ちゃんもおいでよ。玉置さんて、とっても面白いひとだよ。さっきから冗談ばかり言って。ちょっとも気の置けない軍人さんだよ」 酔いにほんのり頬を染めた露子が、浮きうきした調子で誘いにきたとき、雪江は修吉の寝顔を頭でさし、猫でも追っ払うように手をふった。露子はあわてて口を掩い、忍び足で母屋へ戻って行った。間もなく母屋の話声がぴたりと熄んだ。雪江の膝の上には、丸印のついた、いつかの雑誌が載っていた。 秀次郎は十日ほど居てまた北京へ発って行き、それからは休日ごとに玉置が訪ねてくるようになった。 叔父がなぜ突然帰ってきたのか、はじめ雪江には判らなかった。秀次郎は雪江と殆んど口をきかず、和彦にもあまり言葉をかけないようであった。和彦のほうも懐しがる様子を見せなかった。 「齢とって心細くなったもんだから、私たちを迎えに来たのよ。今まで独りをいいことに、さんざん向うで遊んでいたくせに。今更、支那へ行くなんて真っ平よ。死にに行くようなもんだわ」 叔父が発ってから、露子ははき出すように言った。併し雪江は、叔父が内地に居たがらないのは、叔母と父との関係に気づいていたからではなかろうか、そして叔母が移住しないのも父のせいだろうと推量した。だから、叔父が留守宅に後輩を出入りさせるようにしたのは、父への厭がらせではないか、とも思った。が、これは雪江の邪推だったかもしれない。横須賀の海兵団で主計係りをしているという玉置の手によって、すでに民間では容易に入手できない白米や砂糖や菓子類が、続々と運びこまれてきたからである。トラックと部下の水兵を使って、味噌や醤油まで運んでくる玉置を、露子はこぼれるような笑顔で迎え、雪江にお礼を言うように目まぜした。たしかに産後の雪江にとって何よりも必要なのは栄養であった。 玉置は、訪ねて来ると一度はかならず離れにも顔を出し、 「栄養をじゃんじゃん摂って、早く元気になって下さい」 優しい言葉も忘れなかった。なまじ同情されると、かえって自己嫌悪が募るので、雪江は最初、妙に親切な玉置が気味悪かった。併し、勤労動員で工場へ通い出した和彦は毎日暗くならねば帰宅せず、父も玉置が出入りするようになってからは、ばったり顔を見せなくなったので、ときにはそうした優しい言葉を心待ちにするようにもなった。そして、めっきり春めいた陽射しのなかで、 「どれ、おじちゃんが、高い高いをしてやろう」 玉置の見るからに逞しい腕にかかげられた修吉の笑顔を、縁側で襁褓を畳みながら、つい目を細めて見上げたりすることもあった。 外泊を貰ってきた日なぞ、玉置は、いつ仕立て直したのか、雪江も見憶えのある叔父の大島を着こんでその尻をからげ、まるでわが家の庭のように、馴れた手つきで芝生の手入れをしたり、裏庭で薪を割ったりした。露子も玉置の来る日は朝早く起き出し、 「雪ちゃんも、もんぺばかり穿いてないで、たまにはちゃんとした着物着てごらんよ。――ねえ、これ、私にはもう派手かしら」 箪笥から出してきたお召しを胸にあてがって、化粧した顔に微笑を抑えきれない様子だった。 和彦は、たまの電休日でも天気さえよければ釣りに出かけて殆んど家に居たことがなく、工場へ通い出してからいくらか肥えては来たものの、額の青筋は、むしろ以前よりもはっきりと浮き上ってきたように見えた。 やがて玉置は、叔母を対手に昼間から茶の間で盃をやりとりするようになった。手洗いの帰りに、そんな二人を廊下から見かけると、雪江は急いで離れに戻り、もうすっかり暗記してしまった、あの昌太郎の手紙を改めて読み返したり、しまいには泣き出すほどしつこく修吉に頬ずりしたりした。叔父と、いや、父と入れ替った玉置を、一時はその優しい言葉に甘えようとした己への肚立ちも含めて、雪江は、次第に憎むようになった。 併し、その玉置の運んできた食糧によって、自分の軀が目に見えて恢復してきたのはたしかだったし、乳の出のためには、意地を張ることも出来なかった。だからこそ雪江は、殊更に玉置を憎んだのかもしれない。 或る日、玉置を鎌倉まで送って行った露子が「すっかり遅くなっちゃって――」言いわけしながら帰ってくると、和彦と夕食の膳に向っていた雪江に、何気ない口調で言った。 「玉置さんがね、あんたに同情して、気の毒だから俺が世語してもいいって、言っていたよ。雪ちゃんは、あの人好き?」 その夜、雪江は「一日も早く迎えに来て下さい」と、父へ手紙を書いた。弘明寺の家に戻れば、近所の白い目が待ちかまえていることは判りきっていたが、それよりもなお雪江は、自分が叔母と玉置の寝物語の材料にされているのが堪えがたかった。もし自分が男だったら、そして露子が叔母でなかったら、とっくに殴っているだろうとさえ雪江は思った。 三日後のタ方、迎えに来た父とともに、雪江は稲村ヶ崎を去った。家へ帰るのは丸七カ月ぶりであった。たまたま電休日で、鎌倉駅まで送ってきた和彦が、ホームで電車を待っているとき、 「僕も、家から居なくなりたいな」 呟くように洩らしたので、居辛いのはむしろこの子のほうだった、と初めて気づいた。併し、雪江には、どうしてやることも出来なかった。 「健市も先月、出征したそうだよ」 横須賀線の車内で殆んど口をきかなかつた修三が、ぽつんとそう言ったのは、もう家の塀が見え出した横町の入り口であった。 「この白い線はなんなの?」 雪江は背中の修吉をゆすり上げ、家々の塀や電柱に、ちょうど目の高さに引いてある白いペンキの線を頤で指した。 「燈火管制で夜歩くのに危ないから、目印に書いてあるんだよ」 父は、ねんねこのなかを覗きこんで、 「よく眠っているな」 と、目を細めた。髪にめっきり白いものがふえていた。 以前、健市一家が住んでいた裏の家作は、玄関の硝子戸が割れたまま空家になっていた。その隣も空家のようだった。 「二、三日前に疎開したよ」何もきかぬ前に、父が説明した。「うちでも疎開しなければならんのだが……。 お前、静岡は行く気はないか」 「あたし、暫くうちに居たいの」 「空襲は必至らしいぞ。稲村に居たほうが安全なんだが……」 「いや、鎌倉はもう絶対いや」 父は仕方なさそうに頷き、 「敏子も一月の末に男の児を産んだそうだよ」 ふと思い出したように言ってから門をあけた。鈴の音が、健市に押し倒された日の記憶を呼び戻した。雪江は手をのばし、鈴をつかんだ。手のなかに、鈍い音が籠り、そして、すぐ消えた。
(「前の章」おわり)
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