2015年9月15日●スルガ銀行社内誌『Wants』に講演要旨が掲載される 印刷

6月にスルガ銀行の幹部社員の研修の席で講演させていただいた要旨が、社内誌『Wants10月号誌上に掲載された。講演テーマは、「歴史認識と2つのif」。私の著書『日本が2度勝っていた大東亜・太平洋戦争』から、日本の敗因分析の部分と、日本人が当たり前に思っている近現代史の認識が間違っているということを述べさせていただいた。

 以下が、その講演要旨。

  スルガ銀行社内誌『Wants

 

歴史認識と2つのif
~これが本当の日本の近・現代史~

(リード)

 2015年は、日本が連合国に敗戦して70年目にあたります。ジャーナリストの山田順さんは、「2つのif」という仮定から、「こうすれば日本は太平洋戦争に勝っていた」という、別の歴史の可能性に迫っています。ifの思考法から、歴史を別の視点から見ることが可能になります。また、歴史を考える際に、自分のルーツやアイデンティティを再確認することの必要性も説かれています。

(この記事は、2015627日(土)、SCCで行なわれた2015年度2Qサマーセミナーでの山田さんのご講演をもとに作成しました。)

(本文)

■歴史のif ①―対ソ開戦(1941年)

 今日の講演のテーマは、「2つのif」です。歴史を考えるうえで非常に重要なのは、「if(もし)」の概念を使って、その出来事がなぜ起こったのかを考えることです。私たちが教科書で学んだ歴史には、この「if」の思考が欠けています。このifで考えると、もしかしたら日本は、太平洋戦争に勝っていたかもしれません。

 まず1つめのifについてです。

 1941年当時、ユーラシア大陸の西側ではドイツとソ連が戦争をしており、東側ではソ連と日本がいがみ合っている状態でした。ドイツは、モスクワ占領を目指していました。もし日本が日ソ中立条約を破棄してソ連に侵攻していれば、スターリンのソ連軍は日本とドイツの挟み撃ちに遇っていた。これが最初のifです。

 194110月、ドイツのヒトラーは、モスクワ攻略作戦(タイフーン作戦)を命じました。冬が来る前にモスクワを攻略する計画です。同じ年の1011月、日本はアメリカと交渉を継続。ソ連のスパイ・ゾルゲは、104日に「日本の北進はない」とモスクワに打電します。これによってスターリンは、関東軍とにらみ合っていた極東のシベリア軍団を全てモスクワに引き揚げさせました。その時、ドイツ軍はモスクワまで約80キロメートルにまで迫り、モスクワは陥落寸前でした。ところが、117日のソ連革命記念日に、シベリア軍団が極東からモスクワに到着します。そして、その抵抗によって、ヒトラーはモスクワ攻略を断念したのです。

 つまり、シベリア軍団がモスクワに到着しなければ、スターリンの勝利はなかった。それを阻止できたのが、日本の関東軍です。ところが日本は1126日、アメリカの最後通牒である「ハルノート」をどうしても呑めず、真珠湾への攻撃を決定します。ヒトラーによるモスクワ攻略断念は125日、日本が真珠湾を攻撃したのは、わずかその3日後のことです。なぜ日本は勝てるはずのないアメリカとの戦争を選んでしまったのでしょうか?

 1つめの「if」、もし日本がソ連と開戦していれば、第二次世界大戦の戦況は全く変わって、ソ連は滅んでいたかもしれません。

 

■歴史のif ②―インド洋通商破壊作戦(1942年)

 次に、2つめの「if」です。

 私は第二次世界大戦の鍵は、インド洋にあったと思います。1942年当時、インド洋には連合国側による次の3つの補給ルートが走っていました。【図1】

【ルート1:エジプト英国軍補給ルート】 北アフリカでは、英国軍とドイツ軍が戦っていました。この英国軍への補給するため、連合国の艦隊は大西洋からアフリカの喜望峰経由でインド洋に入ります。そして、アデン、紅海、エジプトというルートです。

【ルート2:ソ連支援ルート】 ソ連のスターリンは、アメリカに武器を乞い、アメリカも武器貸与法を制定してソ連を助けることにしました。このルートも、インド洋経由でイランから山を越えてソ連に入っています。 

【ルート3;援蒋ルート】 日本が戦っていた中国の蒋介石政権を米英などが応援していたルートで、インド、ビルマから蒋介石政権のあった重慶まで達します。

 日本海軍がインド洋に展開していれば、主要な戦いでドイツが敗れることはなかった、これが2つめの歴史のifです。日本がインド洋で連合国側の3つの補給路を断ち切っていれば、欧州の戦局はドイツに有利になっていたでしょう。当時、英国東洋艦隊はほぼ壊滅し、日本の連合艦隊にかなう艦隊は世界にはありませんでした。しかし日本は、インド洋の重要性を全く理解できずに太平洋で戦争を行なっていたのです。

 ドイツやイタリアは、開戦以来何度も日本に、インド洋に展開している米英の商船隊への攻撃(通商破壊)を要請しています。三国共同の作戦地であるインド洋の重要性に比べれば、重要拠点とは言えません。とくにミッドウエーやガダルカナル島があるソロモン地域は、日本から6000キロも離れています。当時のドイツ駐日武官・ヴェネガーの日本政府への進言は核心を突いています。「ソロモン地域は、主要交通線および防御線から遠く、三国共同の作戦地であるインド洋の重要性に比べれば、問題とならない」、「艦船の量産や航空機の増産の競争では、日本はアメリカに勝てない。それならば、艦隊決戦に執着せず、海上補給路の攻撃に乗り出すべきである」。ところが日本は、独伊の要請に応じず、ミッドウエー海戦で大敗した後もガダルカナルに固執して、アメリカ軍に敗れたのです。

 

【図1】〈1942年のインド洋・連合軍の輸送ルート〉

 

■戦略と兵站の軽視

 2つのifに関して、なぜ日本は動かなかったのか。それは、日本は「戦略」と「兵站」という、戦争に不可欠な思想を欠いていたからです。【図2】

【図2】戦争の概念

 まず、戦略の欠如についてです。戦略とは、長期的、全体的展望に立って目的を達成するための技術・理論で、これにもとづいて作戦が実行されます。戦後の東京裁判で、日本のA級戦犯たちは、戦略戦争の計画・開始・遂行を目的とした共同謀議を行なった、と裁かれました。ところが、日本政府も日本軍もこんな戦略的なことは考えていなかった。その証拠に、東京裁判の冒頭で荒木元陸軍田大臣は「ここにいる被告人28人が会ったのは今日が初めてだ。どうやって共同謀議とやらをするのだ」と言っています。賀屋元大蔵大臣も「軍部は突っ走ると言い、政治家は困ると言い、北だ、南だと、国内はガタガタで、ろくに計画もできずに戦争になった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と言っています。

 満州事変(1931年)から終戦(1945年)までの15年間、日本はアジアを植民地化し侵略戦争を行なったという史観(自虐史観)があります。また、日本は自衛のために自衛戦争を行ないアジアの植民地を解放したと考える史観(皇国史観)もあります。しかし、両方とも違います。戦略なき戦争のゆえ、私は、日中戦争や太平洋戦争は「自滅戦争」だと思っています。

 次に、「兵站」という考えの欠如です。兵站とは、いわゆる後方支援で、軍事装備(兵器)の調達、修理および人員等の輸送、管理運用について、総合的なマネジメントを行なうことで、戦時にはこの兵站が極めて重要です。相手の兵站を断つ通商破壊を徹底的に行なえば、敵と前線で戦うことなく相手を倒すことが可能になります。ところが日本海軍は、大鑑巨砲主義に陥っており、艦隊決戦による敵壊滅を狙いました。こうして日本海軍はインド洋で、ついに通商破壊作戦を行なうことはなかったのです。

 

■日本の近・現代史

 ここで、日本の近代史について振り返ります。みなさんの頭の中は、「幕末」→「明治時代」→「大正時代」→「昭和時代」→「平成時代」となっているでしょう。しかし、このような年号で歴史を区切るような史観は欧米にはありません。また、近代国家というのは、明治維新で始まったと思っている方が多いでしょうが、これも違います。近代国家という観点からの歴史を見ると、日本の近現代史は次のようになっています。

(1)近代国家成立以前(江戸幕府の統治が揺らぐ1853年のペリー来航まで)

(2)欧米列強の半植民地時代(ペリー来航から1902年の日英同盟成立まで)

(3)近代国家として独立後の帝国主義時代(190245年の第2次世界大戦敗戦まで)

(4)アメリカ占領統治時代(194551年のサンフランシスコ平和条約まで)

(5)アメリカ従属国家時代(1951年から現代まで)

 ペリーが来航し、日本は欧米諸国と条約を結びます。これは“不平等条約”ですから半地植民地と同じで、この状況が完全に解消されるのは1911年です。1902年の日英同盟の成立まで、日本は近代国家とは言えなかったのです。その後、はじめて近代国家となり列強の仲間入りをして完全な独立国となますが、その期間は190245年の敗戦までたった43年しかありませんでした。これは全く教科書には書いてありません。そこから、アメリカ占領統治時代があり、現在はアメリカの従属国家としての日本がある、と言えます。現代では核を持たないと独立国家ではないとされるので、非核国である日本は、日米安保によってアメリカの核の傘下に入っていることで安全保障が保たれている。しかしそれは「独立国家」とはとうてい呼べず、日本は現在も「半独立国」なのです。

 

■自分のルーツから歴史を知る

 

 歴史を考える際に、自分のルーツやアイデンティティを再確認することも必要です。

 私のアメリカ人の友人はいつも私にこう言います、「日本は迷子だ」「日本人はプライドを持っていない」、と。自分の位置を見失っているし、行き先が分かっていない。しかも、自分が誰だかよく分かっていない、と言うのです。

 迷子を救うにはどうすればいいのか。地理上の迷子であれば、地図を渡せばいい。しかし、歴史の流れの中のどこに位置しているかが分からなくても、迷子になります。時間の中のどこにいるのか、それを知るのは歴史を通してです。自分のルーツやアイデンティティがなければ迷ってしまうのです。

 みなさんは、自分が一体誰か、自分がどこから来て、どこに行こうとしているのか、自分の位置はどこなのか、考えたことがありますか。会社のため、日本のため、家族のため一生懸命やってきた。でも何のために一生懸命やってきたか考えたことがありますか?

 明治時代、クラーク博士はお雇い外国人として日本に来て、8カ月しか北海道にいませんでした。しかし、彼の次の言葉は150年間残っています。

「少年よ 大志を抱け!・・・人間としてこうあらねばならないということ、すべてを実現しようとする、そういう大いなる大志を抱け」。

 何のために頑張るのか、人間としてあるべき姿に大いなる大志を抱けと、クラーク博士は言っているのです。国家も同じです。明治以来、日本人はこの志を持ってきたのではないでしょうか。

 みなさんは、何故今ここにいらっしゃるのですか。そのことをもう一度考えていただきたいと思います。今、私たちがしなければならないのは、歴史認識、結局のところ戦争について知ることです。本当であれば、大日本帝国はあの戦争に勝てた、勝つチャンスは十分に、しかも2度もあったことを理解すべきです。そして徹底した「敗因分析」とそこからの「教訓」を得ることが重要なのです。それこそ、私がみなさんにお伝えしたいことなのです。